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過去ログ
2003.12

死亡の母に抱かれ乳児2日ぶり無事救出 / しまの

久しぶりのカキコねた(^^;)。

ネットニュースで「乳児2日ぶり無事救出 死亡の母に抱かれ (共同通信)」と。
大地震が襲ったイラン南東部バムの被災地で、地震発生から2日後の28日、生後6カ月の女の乳児が、既に死亡した母親の腕に抱かれた状態で、がれきの下から無事救出されたことが分かった。国営イラン通信が29日に伝えた。

なんという母の愛。。
失われた命への悲しみと、救われた命への喜び。。

一方で、子供が泣くことに苛立ち虐待のあげく死亡させる母親。。

世の中では、前者が優れた母であり、後者が劣った母だという風に語られがちです。
そのような「品評」の思考は、人の心を病ませる「べき」の一種だと考えるのが、このサイトのスタンスです。

「母親としてどっちが優れているか」という問いへの答えは、検討の余地もないかも知れません。
しかし、「どっちの母親が優れているか」を問うことには、あまり意味がありません。
どちらも、ひとつの命が失われる程の困難が起きたということは、同等です。

母を失った子供への気遣いと同等に、子供を自ら殺した母親への心のケアが、あり得ます。
もちろん、犯した罪への罰は、同じことが社会で繰り返されるのを防ぐためのペナルティとして問われた上で、です。

No.121 2003/12/30(Tue) 01:29

身近になったうつの話題 / しまの

先日土日はスキーの初滑りに行きました。
指導員研修会というやつで、会社のスキー部の人達と。

久しぶりに集まり輪になってお酒の場で、様々なスキー仲間の話題。
その中に「誰々さんはうつ病になっちゃって今大変らしい。」というのもあり。
「誰々さんなら分かる!前からすごく真面目すぎる感じだった。」とか。
すかさず一人が、「最近多いんだよなー。うちのかみさんもそうだし。」

この人の奥さんがうつであることは以前会話して知っていました。
僕はもちろん深入りした話はせず、「脳の病気みたいに言われるけど、心の問題もあるんだよねー」とか話した程度。
2年ほど前のことか。

いずれにせよ、いろんな人の音沙汰の話題の中で、うつ病というのもあっけらかんと、過労と同じような話のように明るく話題に上っていたのが印象的でした。
ちなみにスキーの場では大抵そうですが、集まった人々というのは本当に明るく肯定的な人達で、暗い雰囲気になる可能性もないような集団ですが。
(僕の経験上、スキーをする人って本当に肯定的で建設的な人がほとんどです。そんな人々の中に入ることは自分の日々の感じ方にも良い影響があったと感じます。)

かつてうつ病という言葉にも含まれていた感のある「狂う」という偏見のニュアンスが皆無な形で、身近に話題になっていることを良いことと感じると同時に、そうなるほど増えているという喜べない事態か、というちょっと微妙な感想を持ちました。

No.120 2003/12/18(Thu) 12:39

島野のサイトにたどり着く検索に思う / しまの

毎日朝、サイトのカウンタ状況と、どこから来たかのリファラーを傾向チェックしていますが、最近YahooやGoogleの検索をたどって来ているものでとみに目立つのが「人格障害」「心理メカニズム」「克服方法」等です。

私自身は自分のサイトを人格障害の心理メカニズムとその克服方法について真正面から本格的に取り組んでいるものと考えており、一方で、同じスタンスもしくは同じような分析度でこの問題に取り組んでいるものは、私自身は他に知りません。

そんな状況で、こうした検索でこのサイトに来る人が少なくないのを見る時、この「人格障害」という問題がいかに増えており、メカニズム解明型のアプローチを模索している人がいかに少なくないかを思わせます。
著作活動に力づけられる次第です。

No.119 2003/12/10(Wed) 09:34

「冷たい愛」 / しまの

しばらく稿を中断している「愛のメカニズム」
なぜ中断しているのかというと、今は「入門健康な心への道」の執筆が現在進行形なのと、それだけ重いテ−マなので、じっくり練りたいということがある。

さらに、基本的に自分自身での実体験をベースにした心理学を基本としているので、「愛」についてはまだ自分の体験に満足し切れていない、という表現もあまり良くないけど、ようはこれも稿以前のものが現在進行中なのだなぁコレガ。
んで、書きたいことが順調に頭ん中に蓄積中です。色々な愛の形態を書き尽くしたい。
で、「書きたい..」という気持ちが腕をむずむずさせるのに任せ原稿メモがてら、ひとつの愛の形態は「冷たい愛」

これは内面で自己を深く否定した人間が、それにも関わらず外面的には人並み以上の魅力を持つ場合にしばしば陥る、自己を否定したこの世界の中で挽回もしくは復讐的勝利のように他人の愛を勝ち取り操作しようとするあがき。
自己否定がスタートにあり、この孤立した世界の中で、その空虚を埋めるかのように他者の愛を求め、しかも彼彼女はその魅力によって相手に自分を愛させることに成功する。
だがこの時、愛されることは自分が孤立した空虚な存在であるという自己否定を彼彼女に身を削るように思い出させるものとなる。
この結果彼彼女は、自ら愛させるように仕向けた相手から、愛されることを受け入れることができなくなるのだ。彼彼女はそれに苦しむ。
愛させながら、決して愛することはできない。絶対零度の愛

これを典型的に表現した人物として、スタンダール『赤と黒』のジュリアン・ソレルが挙げられると思います。
最近、一度読み直そうかと思ったけど、この種の古典文学って文章がどうもかったるいんだよなー^^;

あと、ずっと以前、10年くらい前にTVに偶然流れていていた、募集小説ドラマみたいので風間トオルが主演していた『ラブ・シミュレーション』というのが、まさにこの人物像を強烈に描いていた。
ネットで検索したら1件だけ情報あり。
http://www3.ocn.ne.jp/~banananp/tk/filmo/tkfilmo-d1.htm
助演の女優は仲間由紀恵似だったなあと記憶あったが、これによると「奥田佳子」とのこと。
ネットで検索したら情報あり。やっぱかわいいなぁ。
http://www.sma.co.jp/artist/keiko/
今は主婦でもやってるのかな。

「冷たい愛」というのはもうちょっといい言葉がありそうな。。「絶対零度の愛」にしようかな♪

No.117 2003/12/06(Sat) 13:34

 
つけたし / しまの

この「絶対零度の愛」を描いた小説の代表として太宰治の『人間失格』も挙げられると思います。
最後に結婚する相手(今手元になく名前忘れた)もそうだが、主人公葉蔵の女性に対する感情には基本的にこの雰囲気が流れ続けている。
女性に自分を愛させることに非常に長けているのだが、彼自身は愛せない。愛し合える時とは、彼が雨に濡れた地べたにその身をさらすような状態においてとなる。それに何の冷たい視線を向けることがない情婦を前にして、彼は最も心安らぐ。

上のカコキの例も通して全て、この絶対零度の対象として重要な役割を果たす女性は、極めて純粋で優しく美しい女性であることが多い。
実はそれは彼にとって理想であり、憧れでもあるのだ。
その聖母のような女性と自分が結ばれることを夢見る一方で、彼の心の底には、自分はその女性には似つかわしくない邪悪な存在だという感覚の膿が潜んでいる。
だから彼は自然にその女性を愛することができない。女性に見合う善良な人間であろうとする薄氷の上で、やがて何らかの破綻が訪れる。

それに対する女性の側の態度はまちまちだ。
風間トオル主演の『ラブ・シミュレーション』では、主人公の行動に明らかに奇怪な異常さが現れ、女性は健全に彼を捨てる。
彼の異常行動とは、2人のベッドインを自分で撮影したことなどだが、これもこの「愛」のメカニズムを典型的に示している。
つまり彼は自然に相手の女性を愛することができない。彼は、この理想の女性と愛し合う彼自身の姿を、まるで他人のように羨むかのように眺める。
この愛の構図そのものが、この愛を壊すものとなったわけだ。
他の例では、女性は純真に男を愛し続けている。

「愛の変形」としては、サディズムとマゾヒズムに加えて、この絶対零度の愛が大きなものと考えられる。
あとこれらをまたがる愛のメカニズムとして「愛への委ね」と「愛による解決」がある。
これと自己操縦心性の絡みという局面では、プライドと離反感情という対立分子が役割を果たす。
つごう7つの心理要素の組合わせによって、人間の複雑な愛の姿が生み出されることになる。

No.118 2003/12/08(Mon) 09:59

日本の文芸を支えるもの / しまの

前のカキコで小説が闇の時代と書きましたが、マジに大きな話と感じるこの頃。
ハイティーンの感性が活字で表現されれば、大きな文化ができると思うが、その可能性のある能力のある子も、今の状況じゃー小説など考えもしないうちに、別のものを考えるか、機会を見出せずに才能をしぼませてしまうように思える。

しいて言えばマンガの世界かな。

中学校時代は、妹がいた関係で少女マンガ良く読みましたが、当時70年代の少女マンガは文芸と言える雰囲気を持っていましたね。

ひとつ挙げるとすれば、文句なく、萩尾望都『ポーの一族』ですね。
特に最終話、そしてそのラストシーンは陰に陽に僕自身の表現の世界と重なるというか影響を与えているもののように感じます。
執筆中の小説でも、ちょうど今とりかかっている、主人公が自殺を決意するに至るクライマックスの章の扉絵に、この最後のコマの絵を拝借しようかと考えています(著作権処理必要..てんで先の話^^;)。
身近な愛する人々を失ったエドガーが、最後に、ただ草むらの中に横たわったように、自分も死んで行こうと..。
エドガーの行方はもう知れず、彼を捜し求めていた老オービン卿は、ペンを取り、彼ら一族の物語を書き始める。
彼は心の中で、エドガーが生まれた、銀色の空気の流れる風景さえもありありと思い描くことができる。
そして彼は最初の言葉を書き始める。
「エドガーおまえにわたしのはるかなるおまえに・・・
    そして、そのポーの一族によせて・・・」

う〜ん、偉大なる感性の世界。

No.116 2003/12/05(Fri) 09:54

文芸っていったい... / しまの

今月から朝日新聞。
(今のマンションを買って入居したのが4年前の11月なので、11月までの年単位で購読新聞を買えてイルノダ!)

今日の朝刊で、前読んだ「世界の中心で、愛をさけぶ」がじわじわ126万部に達したと片面の1/4のスペースで組まれていた。
(感想については9/5、10/11カキコ参照)

ちょっと読み進んで「...?」と感じたのは、若い世代に読まれるよう色々工夫したのを伝えた後、「一方で、プロの読み手には手厳しい評価もある。」とのこと。
「白血病のヒロインなんて昔の大映ドラマみたい(ミステリー評論家)」。まあそうでしょー。人の感動なんて今も昔もそう変わるわけではない。
まあこれはいいとして。

「あまりに通俗的(文芸評論家)」うん?なにこの書評。どう考えればいいのーとの感。
通俗的っていったい..「俗」とは世間に広まる文化風潮とかと考えると、そうなっちゃーいけないとでも言うのか。
プロの文芸評論家にとっては、分かりやすく感動的であるものは文芸としてはあまり認めたくないらしい。
まあ確かに、そうであれば「ハリガネムシ」のようなグロテスクな小説(8/15カキコ参照)が、「もう飽きた」という書評もある中、芥川賞となったのもうなずける感がある。
自分達だけに分かる「新しい感覚」を表現したものがいいのだろう。

文芸評論家が若い世代に読まれるものを評価できないようじゃー、日本の小説文化も今は闇の中ということだろうなあ。

僕は人間文化には、個の開放と自由を志向するものと、全体主義的な権威とか締め付けを志向するものと、大きく2つの方向性があると思うのだけど、今の文芸評論家というのは後者の方な気がするなぁ。

No.115 2003/12/03(Wed) 10:04

エ・アロールほそく / しまの

前のカキコで、主人公たちに虚無感や抑うつ感情などの心理障害的な問題が見られるようになるのではないか、それが表現されていないのはおかしい、という感じで書いた部分はあまり適切ではないですネ。

このストーリーというか少なくともドラマでは、内面心理は基本的に描写されていないので、主人公たちは抑うつの持ち主であったとしても、それがこのドラマの中で表に現われることはあまり考えられない。
強いて言えば、本来の主人公の人間像に較べて、豊川悦司と木村佳乃がさわやか過ぎるのではないか、と言う方が、このドラマに感じた疑問を表現しているかも。

まあこの辺は元々、TVドラマ版はオリジナルに比べて、ホーム施設などもちょっと現実離れしたお洒落な演出がされているとのことなので、オリジナルでは大分雰囲気が違うのだろうなあと想像。

それにしても、世の小説は一般に、人間関係の中でのやり取りがストーリー展開の流れを作るものが一般。
それに対して僕が今執筆中の小説は、ほとんどが内面描写に費やされ、その中に複雑なストーリー展開を描写しようとするもので、異色になるのかなぁ?。。。

No.114 2003/12/01(Mon) 09:25