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2006.02


(No Subject) / さくら

障害者就労相談センター(0456336110)で
*働く気力はaさんにはないとおもいます           yes/no

*障害者に何を相談するの aさんは相談しますか       yes/no

*aさん言葉の理解や人の認識をしていない          yes/no

*aさん日常の生活がまったく出来ない            yes/no

*普通の感覚がaさんにはない                yes/no

*話がaさんには通じない                  yes/no

*担当者の認識がなくaさん(ボーット)している       yes/no

*知能は1から5歳満たない                  yes/no

No.920 2006/02/28(Tue) 16:55

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-9(End) / しまの

「憎しみと嘆き、そして悲しみを守りたい。そこに真実があると感じるから。」の続き。

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■憎しみを捨てるとは憎しみを受け入れること

これは僕が良くいっている「憎しみを捨てる」という話と、矛盾した話に聞こえるかも知れません。
しかし僕の中では、それは全く矛盾することではありません。

僕は彼女の話を世に出すとして、彼女を追い込んだ人々、彼女が憎しみを向けようとした人々に対して、何の非難の気持も感じません。
破壊の感情を向けないこと、さらに破壊の感情を持たないこと。これが「捨てる」部分です。

しかし憎しみの中にあった真実を、決して否定しません。それはむしろ「守る」という姿勢を向けます。

これは「看取る」という心の働きに関連します。
「看取る」は、残存愛情要求への対処を一言でいう言葉として使っています。感情の膿は「流す」自己操縦心性は「解く」。そして残存愛情要求は「看取る」
看取るとは、否定することではなく、最後までそれを見届けることです。しっかりと最後まで見据えることです。

「憎しみ」もやはり、「看取る」なんですね。そして実際これは残存愛情要求の中で起きている事柄なのだと思います。

残存愛情要求の中で「看取る」ものとして、今まで触れてきたのは、文字通り「愛情要求」でした。
幼少期に果たされることのなかった、愛を願う気持の中にあった真実。それが今だに自分の中にあることを認め、同時にそれが今大人として自分がいるこの現実世界では満たされようもない感情であることを受け入れた時、心は痛みの中で残存愛情要求を卒業します
これは僕のダイジェストでも主題となったものです。

実は僕自身、「憎しみ」を「看取る」時が後に訪れています。30代後半になり、対人行動学を習得し、自分にある程度自信が持てるようになってからです。
それでようやく憎しみを看取れる時になったんですね。

鮮明に憶えているのは、電車の中で仲睦まじい若いカップルを前にした時に自分の中に現れた感情でした。その時僕は心の中で、地面に崩れ落ち、泣きながら地面を叩いて悔しがったのです。僕はただそんな自分を静かに見つめていました。

それ以前は、そんな場面では漠然とした苛立ちの中で、羨望感も抑圧気味だったと思います。だけど、真実の感情というのは、最後まで残るものです。そこから目を反らす姿勢は、内面の弱さにつながり、弱さが目を反らさせます。
真実の感情を見据える姿勢は、強さを志向します。そして内面の強さが、今まで逃げていた感情に還ることを可能にします。

憎しみを受け入れることは、強さだと思います。受け入れるから、怒らないわけです。
憎しみに駆られ、破壊の気持を人に向ける時、それはその人間がその憎しみを受け入れることができないでいることを意味していると思います。憎しみを受け入れることができないから、怒るわけです。
憎しみの中にある真実を認め、それを人間の不完全性として受け入れる強さを持った時、怒りは消え、憎しみを看取るということになるのだろうと思います。

先の彼女の話をすれば、彼女はその憎しみを受け入れることができなかった訳です。それは彼女が弱かったからです。
弱かったから潰れた。それだけのことです。

ちなみに僕が人への、混じり気のない和み感情を持つようになったのは、上記のような鮮明な「憎しみを看取る」体験を経たあとでした。
◎嫉妬感情の膿の抑圧によって、意識表面には「心を開いて和む」という硬直的理想像が現れます。嫉妬感情の膿の放出により、その拘束的理想像が消滅し、ストレスのない対人感情が現れます。
このように、感情の膿の存在によって意識表面に現れる心理状態を、今後かなり図式化整理できると思います。

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次のメール往復から引き続き。
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■破滅の美学..

>こういう言い方はどうかとも思いますが、ある意味「破滅の美学」のお手本ですね。

いや、最後の頃の彼女は、醜かったです。外見の話ではなく人間として。
確かに彼女を死に向かわせたのは「破滅の美学」だったろうとは思いますが、破滅しようとした彼女の姿はとても醜いものとなり、彼女は実際は「破滅の美学」によって死んだのではなく、自分のその醜さに絶えられずに死んだのだと僕は感じています。

彼女が美しく輝いていたのは、生きようとしていた時です。
「破滅の美学」によって、彼女は輝きを失い、くすんだ灰色の醜さになっていきました。
彼女の話を書くとして、僕はそれをそのまま表現しようと思っています。

僕が書きたいのは、彼女の憎しみの底にあった、生きる願いです。それを看取りたいと思う。
彼女が自分自身でそれをすることができなかったので、僕が代わりに書こうという感じですね。
彼女はその宝石を、「破滅の美学」によって捨ててしまった。


■「憎しみを受け入れる」ための方法論

「憎しみを受け入れる」ための方法論を考えてみました。
今までの話の全てがつながった時見えてくるものです。

一言では「憎しみの中にあった真実を正しく抽出する」と表現できます。
そしてそこで抽出した真実を、これからはどう守ろうとするかです。そこに根本的選択が現れます。


まずその憎しみが何だったのかを知ることからですね。表と裏の両面をしっかりと見据えることです。


■「自分への憎しみ」の必然

>自分は、低俗な他人の持っていない、美しく純粋で高尚な感覚を、障害と引き換えに持っている。‥それは精神性であったり道徳性であったり、審美眼であったりします。

まさにそれが心理障害の根源構造の中にあるんですね。僕のダイジェストでも「他の人にはない純粋で真実の愛を自分が持っている」という言葉が出てきます。
それが、自己存在をかけて守るべきものだという感覚があったわけです。まさにそれが自分の精神的優位性であり、審美眼だったわけです。

それが心理障害の発達過程の中で、必然的に生まれるものであることは、
2005/08/06 残存愛情要求とは何か-6:皮相な粗野への憎しみ
で説明しました。

そしてその中で、「そこに一片の真実がある」とも言っています。
「皮相な粗野への憎しみ」は、真実です。心を育てるものではなく、心を踏みにじるものがそこにあった。それへの憎しみは、真実だと思います。


その後の流れはまだ詳しくは説明していません。自己操縦心性の解説で行います。
キーワードは出してあります。「自己像」です。
皮相で粗野な外界への憎しみの中で抱いた、純粋で高潔な精神性への理想。それが、自分のなるべき自己像として抱かれます。

新しく加わる話が、「思春期要請」によって登場する、この人物の心理発達に課せられた新たな課題です。
2つあります。「優越への欲求」「人生の確立」です。
純粋で高潔な精神性を実現した自分が、皮相で粗野な他人達への優越的勝利者として、その人生を確立する。
これが、この人間に課せられた人生の青写真になるわけです。


しかしターニングポイントは、この人間の幼少期から既に準備されています。
それは広範囲な「望みの停止」によって、この人間の情動自体が皮相化し、荒廃化することです。
やがてこの人間は、憎むべき人間の姿を、自分自身の中に見出します。これが必然的な流れなのです。


■皮相と粗野を「悪」ではなく「弱さ」と見る

ハイブリッドが提示する方向転換とは、皮相と粗野を、「悪」ではなく、「弱さ」と見ることです。
自分の中に皮相と粗野が発達してしまった。それは弱さです。
そして、それを生み出した来歴の中には、人々の皮相と粗野があった。そのせいで自分がこうなってしまった。

しかし彼らも弱かったわけです。そう見ることが出来た時、彼らと自分の姿が重なってくるでしょう。
そこに、全てを同時に許すという選択肢が可能性を帯びてきます。まあそれを取った時は、「許す」という言葉さえもが消えることになりますが。
「不完全性の受容」のことを言っています。これにより「現実との和解」がなされます。

「悪」という見方をする場合は、全てを同時に破壊するという選択肢になります。
自己操縦心性は、これを選択しているわけです。


■憎しみの中にあった真実を正しく抽出する

心理障害が絡む場合は、そうした選択肢の見出しや方向転換が、もはや意識的努力だけではできないことを考慮する必要があります。

心理学の目で、何が起きているのかを知ることが必要です。表と裏の両面をしっかりと見る。
そしてそこにあった真実を正しく抽出することです。


表にあったものはこんなものです。
精神的優越感
・一片の真実(皮相への憎しみ)
・「自分は真実を知った」という錯覚

この裏にはこんなものが控えています。前のメールで詳しく説明した部分です。
・破壊的優越衝動による愛情要求の阻害
・愛情要求の阻害による卑屈さの増大と破壊的色彩の強化
この裏の構造が、表の構造をさらに敵対的にしていくという大きな自己膨張があります。

そこにあるのは、真実と自己欺瞞の混合物です。
そこから、真実だけを正しく抽出する。

真実は何だったのか。細かい議論は抜きに、ハイブリッドとしての結論を言います。
それは、憎むべき皮相と粗野があったという事実と、あとは、優越への欲求と、愛への欲求です。

自己操縦心性は、それを全部、「破壊」の中へと一からげにしてしまいます。
ハイブリッドが示すのは、その多面を別々に見ることです。そしてそれらを守り通し、追求することです。

そのために、建設的行動学や、原理原則立脚型行動学が出てきます。
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とりあえずここでこの割り込みシリーズは絞めておきましょう。

結語として総括しておくならば、どんなに醜い破壊性攻撃性の中にも、一片の真実があります。大阪池田小児童殺傷事件の死刑犯宅間守のような人間が抱いた、社会への憎しみの中にでもです。テッド・バンディのような猟奇的殺人犯にでもです。
そしてそれを浄化する、深遠な心の力が、彼らの中にも本来はあったのです。だから宅間守は殺人を犯す中で「もう誰か止めてくれ」と考え、最後の死を前にして「ありがとう」という言葉を残した。バンディは死刑の直前になり、「自分は暴力の中毒になっていた」と自分を振り返った。

そうした「浄化」への心の力が、まさに、理想のような存在であろうとする心の動きによってふさがれてしまう。このメカニズムを引き続き「成り立ち」シリーズで考察していきます。
そしてその開放への道筋を。

いずれにせよ、憎しみと絶望の底にある人にハイブリッドが伝えるメッセージは確固としたものです。
その憎しみの中にある真実を守ることです。人生とは、人の心とは、本来こうであるべきだった。それは真実です。それを守り続けることです。そのためにはどうすればいいかを考えることです。
破壊に走ったら、真実を守り続けることができなくなる。真実を守るために、生き続けることです。

No.919 2006/02/28(Tue) 15:34

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-8 / しまの

「憎しみの中の真実を守る」という姿勢について語ったメール返答文です。

相談者の方の状況としては、かなりの改善後に、怒りに駆られた対人行動への衝動が露わになったような状況。これは僕自身が「見落としがあった」と感じたような状態でもありましたが、実際は、内面の力がある程度増したことで初めて、この衝動に真正面から向き合えるようになったという道筋があります。この流れは一般的とも言えるでしょう。

広範囲な怒りの底に、もくしは心理障害症状全般の悪化の底に、「このあるべきでなかった人生」への怒りというようなものへの怒りが横たわっている場合があります。というか、全ての人の場合にこれがあるとも言えるように思われます。

取り組み初期にこれが見えない場合は、まさに取り組み意欲によってそれが隠されている場合もあるでしょうし、あまりにも自己への敵対姿勢が強く、自分の感情を感じ取れなくなっている場合もあると思われます。後者は僕の表現としては「魂が失神状態」の中にあるという感じ。

なので、このテーマへの取り組みはどのようなタイミングで導入するのがいいかという治癒技術論みたいな話が出てくるのですが、今考えるものとしては、これに対処できない有害性が大きいところから、かつ心理障害克服にとり根本的に重要なことであることから、取り組みの最初にこの方向性を示しておきたいと思っています。
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■「破滅の美学」
◎「あるべきでなかった人生への怒り」から「破滅の美学」とも呼ぶべき心理状態が生まれます。それについての描写。

..(略)..
これはAさんが自覚するかどうかきわどいところで、自分の人生の不遇への怒り憤懣のようなものがあるのではと感じます。
何で自分がこんな人生を味あわねばならないんだ、という怒り。漠然として広範囲な怒りであるため、些細なことにも結びつくでしょう。

心理学的に言うと、怒りの行動化が頻繁な原因には、1)やり返すことへのプライド、2)不遇の強調、という2つが主なものです。

不遇の強調というのが、上述の、自分自身への優越的破壊者という話と見事に手を組みます。融通の利かない高い基準から、自分を拷問し、その苦しみでもって自分の人生の不遇という実感を強化するわけです。

「人生への怒り」+「破壊型理想」=「破滅の美学」という心理構造の方程式が成り立つようです。
「人生への怒り」には真実があり、「破壊型理想」には嘘があると言えるでしょう。


その底には、「破滅の美学」とも言うべき、自己操縦心性の思考論理があります。思い描いた自己理想こそが「現実」に勝る人生の主(あるじ)であり、それに適わないのであれば、面倒な努力に甘んじずに、潔く破滅するのを良しとする。それが自己操縦心性の論理です。
怒りを行動化することによって、自分を破滅させるわけです。
そして破滅する自分の姿を人前にさらすことで、復讐を遂げるわけです。

ぜひ、自分の怒りがその論理による自動感情として起きているのでないか、検討してみて下さい。


■不遇を作り出したのは何か

人生の不遇への怒り自己のアイデンティティだとさえ感じたとき、その不遇を生み出したのは何なのか、誰に何をすればその憎しみを晴らすことができるのかを、正確に考えるのもいいでしょう。

ただしそこで先の、怒りをアイデンティティにしたことで自ら招いたものは、差し引くことになります。自分で選んだことの結果を引き受けることが、強さだからです。これは自尊心のためだと考えるのがいいことです。

多分、根本的な「不遇」は、今現在の具体的な誰かのせいというよりも、もっと深い来歴の中にあると思います。だから具体的にどう憎しみを晴らすことができるというものを見出せないと思います。
それは自分の幼少期の親の態度だったかもしれません。しかしもう時間を取り戻すことはできません。
「無力感」はここにも原因があるでしょう。

この不遇感は、行き着くところは「人生への嫉妬」だと思います。誰のとも言うことを超えて、人生そのものが自分に向けた悪意への憎しみのようなものですね。
ホーナイの描写ですが、「他人」は彼が飢えている時に食卓についている。「他人」は人を愛し創造し楽しみ、健康で快適にくつろぎ、所属する場を持っている。「他人」の幸福や、喜びと楽しみへの素朴な期待が、彼を苛立たせる。自分が幸せにも自由にもなれないでいるのに、なぜ彼らだけにそれが許されるのか。
「人生が自分をす通りしていく」という感覚であり、それへの怒りですね。


■憎む義務

>自分を傷つけてまで怒りを通していたのに、それが無駄になるなんて…裁判で巨額を払って闘ったのに、「犠牲者」である自分が負けるなんて、みたいな感情。結局自分が間違っていたんだと思うぐらいなら、怒りで破滅した方がいいという感情に行き着くわけです。

これ見て少し分かってきた感じですね。

>それ以上に不遇感からくる優越要求に基づいた「自分には怒る権利があるから怒りたい」という誘惑の方が大きいですね。

これが「怒る権利がある」というよりむしろ、「怒る義務がある」という感覚にも近いのではないかと思います。


■憎しみの中にある真実..ちょっと長い余談

「闘ったのに」という上の文を読んで、実はある女性のことを思い出していました。
「自分は憎まなければならない」と言っていた人です。

サイトの「ケーススタディ」http://tspsycho.k-server.org/case/ca02-02.html
で取り上げた人ですが、僕が自分から援助を申し出て関わりを持った唯一の人です。

もし違う星の下に生まれていたらモー娘の一員にでもなっていただろうと思えるような、美貌と才能に溢れた女性でしたね。
深刻な人格障害でした。頼れる身寄りも母一人で、これもやはり重い心理障害傾向あり。
一度は自分の義妹にしてでも守ろうかと考えたことさえありますが、彼女の中心的支持者男性が超アンチ島野で(^^;)、僕の中傷を恐らく吹き込んだ形で、彼女から僕との関わりを断った感じです。聡明な彼女は分かってたんだろうなぁと感じた次第。

話をし始めると長くなる話で、実はいずれこの女性について本を書く気でいるのですが、今回その話が目的ではない..^^;
でその後もう連絡を取らなくなりましたが彼女の動向はずっと見ていました。母が再婚したものの、すぐ急逝。彼女は義父を愛する自分を演じようとするのと、母から引き離された憎しみの間で揺れ動きながら、自分の人生への完全な絶望に向かったようでした。久々に覗いた時は、彼女のとめどなく流れる憎しみの言葉自殺企図、それをなだめようとする回りの様子はもう目茶目茶な感じでした。正直、この子はもう駄目だろうなぁ(*)と思いました。2004年に入った頃だったか。
*ハイブリッドの取り組みもまだあまり体系化できていなかった頃で、僕としては結局手を出せなかった感..

彼女が不慮の事故で亡くなったという知らせを見たのは、それから1か月後くらいのことでした。本当に事故だったのかは、もう考えるべくもありません。実際事故の形を取ったのであったとしても、彼女自ら望んだ死だったことは疑う余地のないことだったでしょう。
その時には僕の中でも、彼女の死は既定事項のような感覚になっており、その瞬間ほとんど感情らしい感情は湧きませんでした。

ただ、大きく僕を揺り動かした感覚は、「何と薄幸な人生だったことか!」という感慨でした。
あっけないものです。あれほど彼女を熱心を支え、「もし悪化したらどう責任を取るつもりか!」と僕を非難した某氏も、そそくさと彼女が憎んだ遺族側におもねるかのように、彼女の痕跡はこの現実世界から消え去りました。彼女がこの世にいた気配など、見事に何も残っていません。ごく少数の人間の心の中を除いては..
(2004/11/14「刻銘」)

でその女性が最後の絶望的な時期に残していた言葉が、「私は憎まなければならない」という言葉だったんですね。
憎しみによって、自分の心に力が生まれる。それが彼女にとって最後の光だったわけです。

僕は、彼女の憎しみと嘆き、そして悲しみを守り、それを伝えていこうと思っています。
そこに真実があると感じるからです。


(続く)
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先にも書いたように、僕はこの女性について一冊の本をいずれ書こうと思っています。
ただし、彼女を「悲劇のヒロイン」のように書く気は毛頭ありません。ただ、ありのままに伝えたいと思っています。憎しみ嘆き悲しみ、そして美しさ、そして醜さも..
その話を続けます。

No.918 2006/02/28(Tue) 14:33

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-7 / しまの

■「憎しみを捨てる」ための「ノウハウ」と「真実」

「最大の復讐は相手よりも幸福になることである」。そんな言葉をよく聞くことがあります。
まあこれは心の成長のノウハウとしては有効なものですね。憎む相手のことはいったん視界から脇に置き、とにかく自分の幸福と成長のために心を注ぐことです。
これは2005/08/11「 「憎しみを捨てる技術」よもやま話」でも触れました。

先のその6で話した「強さを目指す」ということも、それと同じ方向の話です。
相手を超える強さを獲得することです。ハイブリッドではそのための具体的方法を示します。原理原則立脚型の行動法です。

そして実際に自分が「強さ」を獲得したことを知った時、憎しみは消えている。復讐を果たしたからではありません。復讐とは相手への破壊行動を行なうことです。そんなことはもう必要ない。復讐はしなくても、憎しみはもうあまり感じなくなっている。
なぜか。

ここには深い心理学があると思います。上記まではあくまで「ノウハウ」です。強くなった時、憎しみが消える。
なぜ強さによって憎しみが消えるのか。ここには人間の心の深い真実があると思います。

「強さによって許すことができる」とはあまり考えませんね。相手の行動に社会的な誤ちがあるのであれば、法に従って罰するがいいと思います。なぜならそれがこれからの社会に役立つからです。そうした一貫性のある原理原則に従って行動できることが、強さです。それはあくまで個人的復讐心ではありません。
強さ」と「復讐心」はあまりお似合いのカップルではないですね。「弱さ」とが合っている。

なぜ「強さ」を獲得した時、憎しみが消えるのか。
僕の体験的実感を言うならば、「相手が弱い存在であることを知った」時、憎しみが消えたという感じです。相手が強者だと感じていた時、その人間は「こうすべきだった」のです。そしてその人間が強者なら、「そうできるはずだった」のです。なのにそうしなかった。だから憎みます。
相手が弱い存在であることを知った時、その前提が崩れるように思います。
その時、「人間の弱さと不完全性」という一つの真実が見えてきます。強さによって、その真実が見えます。
強くなった時、弱さを認めることができるようになります。弱いと、弱さを認めることができず、「こうあるべきだ」と考えます。

「弱さを認めることができる強さ」は、実際に強くなった時に得られるもののように思われます。弱い人間が、「弱さを認めることで強くなる」はナシのようです。
では、弱い人間は、どうすれば「弱さを認めることができる強さ」を獲得できるのか。

これは面白い設問だと思います。かなり考えてみました。
そして、その答えはないように少し感じました。「問いが間違っている」とも感じました。弱いから「強者ならこうすべきだ」と考えます。それが弱さというものです。弱い人間が「弱さを認める強さ」をイメージして、そうなろうとすることは、とてもごまかしっぽい雰囲気が感じられます。

でも唯一の答えは「生きること」にあると思えました。弱い人間は、ごまかしなしに、弱い人間として生きることです。生きる過程が強くします。そして強くなった時、「弱さを認める強さ」が獲得されている。
では弱い人間として生きるとはどうゆうことか。「『こうあるべきだ』とは考えない」なんていうごまかしをしないことです。「こうあるべきだ」と考えるのが弱い人間なのです。ならば、自分で「こうあるべき」通りになってみろ。死に物狂いで。
これが唯一の、ごまかしも間違いもない答えだと思えました。

理論は置いといて、(自分なりに強さを獲得できたと思える)心のままに直感的に考えていくと、そうなります。そうやって、ありのままに心の中に出てくるものを材料として、次に理論を考える。これ僕のやり方です。
「こうあるべきと思うなら死にもの狂いでそうなってみろ」とは、何とも僕自身が言ったことと矛盾しているような印象さえ受けます。
「『べき』をやめましょう」

実際のところこれが「『べき』の呪縛」を脱するための出口なんですね。「『べき』をやめる『べき』だ」という自己撞着をどう脱するか。
2つの姿勢が必要になるわけです。一つだと見えていたものを別のものに感じ分ける。それぞれに異なる姿勢を確立する。一面的姿勢では駄目なんですね。2面的姿勢が必要。まさにハイブリッド。

怒り要求としての「べき」には、徹底的に論理的反論をするのがいいでしょう。なぜ「べき」なのか。これは思考法行動法の取り組みの側面です。
一方、人生の望み理想としての「べき」は、徹底的に追い求めるのがいいでしょう。「人生の望み」としてそれがある限り。実際そう捉えた時、それは「べき」ではなく「望み」なのだということがはっきりと感じ取られてくるでしょう。
「べき」と「望み」を分離する。それに異なる姿勢を確立する。感情分析の取り組みです。


そのように分離した時、「べき」には嘘があり、「望み」には真実があります。その真実を守り通すことです。これが、ハイブリッドが示すひとつの「答え」です。
一方、「べき」の嘘を解くのが、「不完全性の受容」であり、それによって「現実との和解」という大きな出口を見出すことができます。
心理障害の中では、この2つが混合化合物のように一つの感情に見えてしまいます。そして、真実を追い求めながら、嘘の中で現実を破壊する泥沼にはまり込んでしまうのです!
「成り立ち」シリーズでより理論的に整理しましょう。


紹介している返答メール文の続きでは、その「真実」を守るという話をしています。「憎しみの中の真実」を守るという姿勢です。
この話は心理障害の克服においてひとつの根本的本質になるものでしょう。それだけ、僕としても深い情緒的体験が絡んでいる話が多くあります。
そのひとつに触れています。真実を追い求めながら嘘の中で現実を破壊するこの心の罠に破れてこの世から去った、ある薄幸な女性の物語..こう書いていても目頭が熱くなる感を覚えますね。いつか必ず一冊の本を書くつもりです。

No.917 2006/02/28(Tue) 12:25

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-6 / しまの

■人生の不遇において自分自身が果たした責任を自覚する

「人生の不遇」において自分自身が果たした責任を自覚する。これは自分の攻撃性を自覚するような、バツの悪い体験です。でも「原因不明な理由で自分は嫌われる」「物事がどんどん悪化する理由が分からない」という無力感は減少します。
荒廃化した欲求は心にくすぶったままでしょう。それを抱えて、これからどう生きるか。

一方、それを自覚しないとは、「自分には人に嫌われる正当な理由などない」と信じながら生きることです。自分がなぜ嫌われるのか、なぜ人は他の人の方を向くのに、自分の方だけは向かないのか。その理由が自分にあることを自覚できないと、「とにかく自分は嫌われる運命にある異常人間なのだ」というような感覚になります。
「自分は正しいのに..」と感じることはできます。しかし人生の不遇感が増し、憎しみが増します。

人生の不遇感や、人への嫉妬憎悪感が強い状況からは、まずこれが基本的方向の選択肢になることを知る必要があると思います。
これはあまり歓迎されないアドバイスかも知れませんが、いじめに遭う側には必ず遭う原因(*)があります。それを相手が野蛮であり自分が繊細で優しすぎるからといった解釈にひたるのではなく、なぜそうなったのかの「敗因」を心理学的に分析し、如何にそれを克服し、自分を軽蔑した相手を見返すことができるような「強さ」を得るかの戦略を練って実践する。
(*)ここでは説明を省略しますが、「感性」のレベルで起き自分で気づくことができないものが重要な役割を果たしています。
この方向においてなら、ハイブリッドが大いに手助けをすることができると思います。

まあ実際はそうした「強さ」が獲得された時、相手を見返すという感覚自体が消えているんですけどね。

そんな方向性で書いた、返答メールの続き。
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■優越衝動は否定せず

基本的に目指すものは、「強さ」だと思います。
ハイブリッドで「心の成長」という時、より具体的に何を目指すのかというと、心の強さと豊かさだと言っています。
豊かさはあまり自分で作ることはできず結果としてついてくるような感じなので、基本的には「強さ」を目指します

相手を意のままに打ち負かすような優越衝動については、否定することはないと思います。
効率を追求することですね。どうすれば自分の側の消耗を最小限にして、思いのままに勝つことができるか。
下手な直接攻撃は、必ず反撃を受けて自分も消耗します。「怒り」はやはりそれ自体が消耗度が大きく不快な感情なので、やはり捨てたいものです。
最も強い人間とは、怒りを感じることなく手を下すことができる人間だと思います。弱い人間は、怒りの感情を必要とします。そんな強さを目指すのは、いいことだと思います。
怒りを感じることなく、最小限の手を下すことで勝つ。そんな行動戦術というものを学ぶのはいいことですね。「三国志」などはいい教科書です。なんでもアリの世界です。

実は、「良好な人間関係」のためということで話していた建設的対人行動「原理原則立脚型行動法」は、この方向の先にあるものでもあります。
いかに相手にNoと言わせないかの行動学です。それは相手が自分を忌み嫌っていてさえ、自分の思いのままに相手を操縦する行動法です。
実際僕はこの行動法を、まず自分が負けないため、相手を思いのままに動かす強さを得るために使いました。決して相手の意に添ったり、相手の愛情を得るための行動法として取り入れたのではありません。

僕の中で今は愛と強さが全く矛盾しないのを感じていますが、それは強さの上に芽生えた愛だからです。
基本的に目指したのは強さです。


◎これは補足しましょう。愛と強さが矛盾しないのは、2つの方向性の結果としてです。

ひとつは、「調和」を最強と位置付けた原理原則立脚型行動法による強さという方向性です。原理原則立脚型の建設的行動法とも言えるでしょう。そこで「勝つ」とは、相手が打ち負かされた気分になることにおいてではなく(これは結局相手に依存している弱さなんですね)、自分が実を取るという形での「勝ち」です。相手に勝った気分だけ与えるようなこともあります。でもこれが相手の思惑には揺らぐことのなく勝利を得ることであり、揺らぎない自信につながります。

もうひとつは、そうした真の強さから、愛が未知の感情として出現することです。これは自分の寂しさや空虚感や無力感を補うために求められるような「愛」とは、外見的には似ていますが全く別種の感情です。これが「強さ」と矛盾しないというのは、何の理屈以前の、ただそうある未知の感情が存在するということです。


(続く)
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人々による、そして人生による「いじめ」の「敗因」を分析し、その克服と、それを見返せるような「強さ」を目指す。

これはこれで「建設的」な姿勢です。しかしこうした「対処法」はまだ皮相です。憎しみと絶望の中に、もっと深いものがあるかも知れません。その感情の行き場を見出せない限り、「建設的対処法」に心を向けることが不可能かも知れません。
そしてその深さにおいて、真実があると思います。

そうした深い部分についての話を次に。

No.916 2006/02/27(Mon) 18:17

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-5 / しまの

■「憎しみ」と「絶望」への対処

皮相化荒廃化した情動の膨張を引き起こすものとして、「憎しみ」と「絶望」があります。
ひとことで言えば、憎しみはその破壊性を膨張させ、絶望はその自暴自棄的な行動特徴を膨張させます。

心理障害感情の多くがそうであるように、この2つの感情も相互循環によって自己膨張します。
憎しみによって破壊的衝動に駆られる自分が、もう人生で人に愛されることはあり得ない人間だという絶望を感じます。人生への絶望が、憎しみを深くします。

ハイブリッドの取り組みにおいて、というか精神分析の取り組みにおいて、憎しみと絶望の深さにもかかわらず、取り組み初期もしくは取り組み以前の個人が自分の憎しみと絶望を抑圧し、本人が意識においてはあまり感じていない状況は、何か人間の心の「罪深いメカニズム」を感じさせるものでもあります。最初からこれが十分本人に感じ取られているのならば、もう少し問題は複雑化しないものであったろうに、と。

本人はまだあまりにも心がひ弱で不安と無力感を抱えているため、憎しみと絶望の感情から目を反らして、なんとか社会の人々に「受け入れられ」ようとする絶望的なあがきに取られます。
その結果、意識の上では「善良であろうとする努力とそれが報われない怒り」が濃厚に個人の心を吹きすさびます。これは典型的現象です。

これは取り組みの初期段階に現れ得る、かつ危険な状態であるため、ハイブリッドとしては取り組みのかなり最初の段階で、この状態に対する軽減策を用意したいと思っています。平易な言葉を中心にした心理学本の構想を練り始めていますが、サイトの入門編のような「心の健康学」の後、まずこの話を載せようと思っています。
あえてその感情を感じ取るようにとアドバイスすることはないでしょう。今感じ取らなくても、しっかりと心に留めておいて欲しい話として書きます。

まずキーワードを列挙すれば、憎しみを生み出す大きな原因に、「理解不能な理由で自分が排斥される」という「人生の不遇感」があります。この不明感を解くことが重要です。
それが解かれても、既に過ごした、そして今続いている不遇な人生があります。良いものは自分を通り過ぎていく。「人生への嫉妬」という感情。

これらを根本的に克服するためには、「成り立ち」シリーズで今解説している「現実の貧困化」に真正面に取り組み、さらにこの後解説する、受動的価値感覚による「人格の皮相化」への取り組み、そして能動的自己の発見過程へと取り組む必要があります。
しかしそれは長い時間のかかる取り組みです。まずあまりに苦しく危険なこの状況の軽減を用意したい。

そこで次の基本的示唆を与えます。
憎しみについては、その中にある幻想を捨て、真実を守るという方向性を。
絶望については、それが問題の深さを示すものではなく、解決の無知を示すものであること。救いはあるのだということを伝えたいと思います。

多少理論説明というよりも、情に訴える感じでもいいでしょう。実際僕はこの話をする時は、淡々と話しはしますが、胸は熱くなっています。どんな感情を体験しているのかは、自分が経験して知っているからです。

こうしたテーマに関連して以前書いた返答メール文を紹介します。
結構長く、話の流れはちょっとあまり整理してないままですが、補足など入れながら。

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■感情は「正す」のではなく
◎まず「皮相化荒廃化した情動の克服」についての基本的指針の話。今までのカキコと大体同じことです。

良く言っていることですが、ハイブリッドに感情を「正す」「治す」はなしです。
ハイブリッドでの感情に対する基本的な指針は、感情と行動の分離や悪感情の軽減法などの入り口の後は、「嘘いつわりのない感情を徹底的に追求する」です。

その過程で、見せかけだけの、自分自身へのポーズのような感情は、自然に捨て去られます。
もちろんそのためには、自分の人生を生きる、本当の自分自身でいる、という意志が前提です。

では、感情はどう変化するのか。既に皮相化荒廃化した、破壊的な欲求や憎しみが捨て去ることのできない自分の本当の感情であった時、それはどうなるのか。

これについてハイブリッドとしては、2つの指針を示せると思います。「嘘いつわりのない感情を徹底的に追求する」という方向についてはそのまま同じです。
「未知の感情が現れる」というのも感情変化における大きな話ですが、これはまだ先の別のこととしておきます。

ひとつは前のメールで話しました。結末まで十分に考慮して、覚悟を持ってその感情の遂行者になることです。問題に出会う可能性があるのなら、行動化は一時的に避けても、願望を否定することなく、持ち続けてかまわない。問題に取り組みながら虎視眈々と狙い続けるのもいいでしょう。
「問題に取り組む」には感情分析が含まれます。犯罪につながるような欲求の場合はこの役割が大きくなってくるでしょう。

あとは徹底的に合理性を追求することですね。自分自身でその欲求に安住できないものがあるのなら、その理由を探ることです。自分自身の中で対立する欲求や相容れない思考があるのなら、それを解きほぐし、自分自身の内部において合理的であることです。
自分自身の合理性というのは、それ自体が自尊心の元になります。変に「心の健康思想」に迎合して自分を抑えるような、プライドを損なう形ではなしに、感情の変化が導かれるでしょう。

■「人生の悪意」の正体
◎「理解不能な理由で人に嫌われる」について。この「人生の不遇」の原因責任は自分自身にもあるという自覚が重要です。これはあまり気分の良い話ではないかも知れませんが、少なくとも「不明感」は消えるでしょう。それが無力感を僅かでも減少させてくれます。

「怒りが自分のアイデンティティ」とまで自覚する時、人に避けられ嫌われる理由の不明感は消えるのではないかと思います。人に懐いて愛情表現してくる犬より、人に敵意を持ち攻撃しようとする犬の方が好きな人は、まずいないものです。

ただし意識が愛情要求に流れた時、その事実が視界から消えてしまうのが心理障害の特徴です。
人は既にその人間が示した、他人に対する敵対的攻撃的態度を、この現実世界において連続したものとして認識します。
一度敵対攻撃に合ったならば、その相手を避ける感情は、その人間が敵対的態度を取らなくなったとしても、数年間というスパンで続きます。一度かまれた犬には、基本的にもう人は近づかなくなるものです。
本人が心の中で、別人のような愛情要求の中に切り替わっても、外側の現実世界は、その人間は変わらないものとして見ます。

心理障害においては、愛情要求と優越衝動が人格の中で未統合なまま、相互にその否定的な供給源になり合うという形になります。
愛情要求は、自己の中の別人である優越衝動によって起きた人間関係の破壊を、愛情要求の中だけで受け取ります。そして自分が理解不能な運命のように、自分が人から忌み嫌われのけ者にされることを嘆き、憎しみを抱きます。
しかし安全のために愛されることが必要なので、人に愛されることに対して、とても卑屈になってしまいます。
これがこの人間の自尊心を傷つけます。優越衝動が、復讐的破壊の要素を帯びてしまいます。さらに人間関係が壊れやすくなる。この結末をまた愛情要求が受け取る。
底なしの循環膨張ですね。

それを理解するところから、変化への芽が生まれてくると思います。
なぜなら、この悪化過程の根底に、「無力感」があるからです。なぜ物事がどんどん悪化していくのか分からない。分からないから、自分ではどうすることもできない。

人はこれを人生そのものに何か悪意がひそんでいるように感じると思います。「人生の悪意」ですね。
その正体が、この心理メカニズムなのです。

その正体を真正面から見据えたなら、その先にある道を伝えることができると思います。
それはハイブリッド心理学理論としてという前に、僕が自分で通った道です。まあ結局それがハブリッドの治癒理論になるのだと思いますが。

(続く)

No.915 2006/02/27(Mon) 15:24

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-4 / しまの

憎しみへの対処ということですが、大きくは、そもそも憎しみなどとは無縁な心の姿勢を確立するという「憎しみを起こさない方法」と、既に心に染みついた憎しみにどう向き合うかという「起きてしまった憎しみに対処する方法」の2面が考えられます。

今回の「荒廃化した欲求への対処」というテーマとしては後者が焦点に上りますが、いちおう関連テーマとして前者についても触れておきましょう。


■憎しみの基盤となる3つの「人間思考の癌細胞」

憎しみが育つ心の姿勢と、憎しみには無縁な心の姿勢というものがあります。
この根本には、3種類の「人間思考の癌細胞」とも呼びべき観念があります。これはもはや憎しみ感情の起源であるだけではなく、心理障害のメカニズム全体の中心にある歯車とさえ言えます。
それをここでまとめておきましょう。

「癌細胞」という例えで既に指摘したものに、「望む資格」思考があります。「望みの停止」という、心理障害の病理の歯車を回す原動力が生まれるのが、その観念からだと。
2005/07/16「望みのメカニズム-10:「望む資格」思考という癌細胞」

あと2つを、癌細胞思考としてあげておきたいと思います。
この3つが、「幸福になる心の機能の障害」である心理障害を構成する複雑なメカニズムを根本で回している歯車らしい。
「癌細胞」と例えているのは、それが健康な心への治癒の姿勢と相容れないからです。その思考観念の中で、何をどう考えても、健康な心への方向が見えない。
その癌細胞思考を取るか、それとも全く別の思考を取るか。これは「人間としての生き方」として、究極的に問われる「選択」だと思います。

3種類の癌細胞思考とは、以下の通り。

1)「望む資格」 ... 価値ある者だけが望むことができる。そうでない者は望んではならない。
この観念は、「望みの停止」が生まれる原因です。

2)「苦しむ価値」 ... 辛さや苦しみそのものに価値があると感じる観念。人の目に映されるものとしての辛さや苦しみ。人間たるもの苦労しなきゃ。私だって辛いんだ。辛さ苦しみの代償に、何かの権利や幸福が自分に与えられるという漠然とした期待観念のようなものです。
この観念は、人生をうまく生きることができなくなる原因です。苦しめば良くなると考えますが、現実は、うまくできなかった結果が苦しみなのです。

3)「怒りの力」 ... 怒りが生み出す力を「強さ」だと大勘違いする観念です。正しければ怒る。
怒りは確かに破壊の力を生み出しますが、怒りは本来、自分よりも強いもしくは同等の敵と戦い怪我をする前提で心身を低機能化するための脳内毒兼麻酔剤です。
つまり怒りは強さではなく、弱さの表れです。
怒りの力を強さだと大勘違いする観念は、人が他人および自分自身そして人生との関係が破壊的なものになる原因です。

これらの思考観念は、それが「正しいか誤りか」以前に、「不幸になるための思考法」です。この思考法によって、上手にそして簡単に不幸になることができます。
望むことに資格が必要だと考えると、望みを現実世界にぶつけることで限界を知るのではなく、自分自身の中で望みを殺すことになり、苦しくなります。その苦しみを他人に見せつけ、これほど苦しむ自分を世界が幸せにしてくれるべきだと考えることができます。でも現実世界はなかなかそんな期待通りには行きませんので、怒ることができます。怒ることで心身は消耗し、さらに苦しくなることができます。

ですから、この3つの癌細胞思考は、それが正しいか間違いかという観点ではなく、自分がこの人生において幸福を目指すか不幸を目指すかという観点で、「選択」するのがいいと思います。
もし人生で不幸を目指すのであれば、その思考法を選択すればいい。正真正銘そうなのなら、もうハイブリッドとしては言うことはありません。


■3つの癌細胞思考の中の真実

人生で幸福を目指すのであれば、その反対の思考法を選択すればいい、のではありません。そう単純ではありません。そもそも「思考法によって幸福になれる」という感覚が、上述の癌細胞思考と同じ世界で動いているように感じます。
幸福は、自己の本性を開放して全力で現実にぶつかって生きることの総合結果として、外部環境や運も影響するものとして、もたらされるものです。

不幸は思考法によって簡単になれます。幸福はそうゆうものじゃない。
「本性の開放」「現実を生きる」ことをまず前提に考えます。そして「こうすれば幸福になれる」というような「与えられる」ものとして捉えるのではなく、本性を開放して現実を生きるという「人生の活動」を通して自ら近づくものと位置付けています。それがハイブリッドの幸福についての思想です。

思考法は、そのような思想を支えるものとして、「選択」します。
決して「正しい正しくない」という観点では「選択」はできません。
実際、「癌細胞思考」とは呼びますが、その思考観念にも一片の真実があります。その真実が現実にあるのであれば、「現実を生きる」とは、その観念を「否定」することではありません。あくまで信実を見据えた上での選択なのです。

「望む資格」の中には、自分が本当には望んでいないものを欲する自己欺瞞への嫌悪があります。この嫌悪は真実です。「苦しむ価値」の中には、人間の弱さと救いへの希求という、真実があります。「怒りの力」には、それが弱い者に与えられた最後の力という真実があります。
その信実を見据えた上で、その思考法が示すのとは違うものを選ぶ。これは僕の実感的表現を言うならば、「逆の思考法をする」ことではありません。「逆の思考もまた真として、その両者を包含する『現実』を選択する」という感じです。
それが「未知」だということになります。

ですから、3種類の癌細胞思考「望む資格」「苦しむ価値」「怒りの力」の位置付けの大きさに釣り合うものとしての、ハイブリッドが採用する思考法とは、「望む自由」「楽しむ価値」「自衛と建設の力」という思考法のレベルではなく、心理学的幸福主義の3つの車軸に相当します。
単純な対比にはなりませんが、そうした言葉の順番に合わせると、「善悪の解体」「自己による幸福の追及」「現実科学世界観」が対応するでしょう。


ちょっと抽象的な話を書きましたが、次に説明する「起きてしまった憎しみに対処する姿勢」に、そうした「両方の信実を包含する現実を選ぶ」という高次元の姿勢が重なってきます。

No.914 2006/02/27(Mon) 12:59

「心の強さ」が試されるオリンピック / しまの

■アテネ五輪印象総括

今日が最終日となり、女子フィギュアスケート荒川静香選手の金メダル\(^^)/一つで終わりそうな日本勢ですが、今回のアテネ冬季オリンピックは、改めてこれまでの五輪に増して、メンタル面のあり方について示唆するものの多かった大会だったと思います。
スポーツにおけるメンタルというテーマについてはごく手短な言葉で時たま触れたことがありましたが、ここで改めてこのテーマを真正面から書いてみたい気になった次第。
これは人生におけるメンタルと同じことにもなることでもあり。

まず今回のアテネオリンピックを迎えて取り上げられた有望選手の報道をざっと振り返って感じる印象は、「メダルを取るという期待気合ばかりが一人歩きして実力実体と少し離れていた」という感が強いのを感じます。

最もその感が強いのはやはり女子フィギュアの安藤選手で、とにかく報道量の多さの中で、4回転ジャンプへのこだわりや、ここ2年間ほどでのメンタル面の逆境からの出発など、いかにも日本人的な(?)「苦労が報われる」調の中で「メダルがあり得る」という報道が最後まで続いたものの、代表として決まった段階での滑りとしても、実は冷静に見れば今回の10番台後半という成績もそれが実力だったという状況ではなかったと思います。
似たのが女子モーグルの上村愛子選手で、僕としては実は一番注目し期待していたのが彼女なのですが、「ターンの質」という最も地味ながら重要な要素について注目した報道が皆無の状況で、結局5位入賞というやや期待外れの結果だったのも、特に失敗もない実力通りのことだったという認識が、競技終了後の「冷静さを取り戻した」分析視点からの報道で初めて知ったという、何とも競技前の期待が浮き足立ったものだったのを実感することになった次第です。

それに対し好対照なのが荒川選手で、女子フィギュア代表3人の中で最も「期待報道」が少なかったのは彼女ではないかと。競技に望む様子としても、とにかく派手な注目が先行した安藤選手、祈るような姿での情熱が印象的だった村主選手とは対照的に、「淡々」とさえ言えるような、感情をあまり表に表さないせいか、浮き足立ったようなメダル期待報道がなかったように思います。
で結果は他ならぬ彼女が金。

それについてメンタル面では何が勝因になったのかという分析的視点が報道され始めていますが、僕の視点をちょっと書いてみようと思います。


■スポーツメンタルにおける3つの「強さ」

僕自身がスキーというスポーツを長くやっており、SAJ準指導員という資格も取る中でスポーツ理論もかじったりしていますので、そうした実体験も踏まえた心理学研究者として、スポーツメンタルにおける強さというテーマについても、かなり専門家的コメントができるのではないかと思っています。

でそれには3つのものがあると考えます。これがそれぞれ、安藤選手、村主選手、そして荒川選手が取った姿勢を象徴しているように感じます。
この3つとは「楽しむこと」「情熱」「一体化」です。

この3つの前に、スポーツでなぜメンタルが問題になるかというと、「緊張」という大敵が存在するからです。
これはちょっと「自己処罰感情」に似たものがあります。自分がうまくできるか、うまくできずにどうなってしまうか、と、うまくできない自分への自己処罰感情を前にした不安恐怖の感情である面が多分にあります。
そして自己処罰感情について説明したように、これは生理的な不調状態を起こす感情なわけです。これが流れると、下手すると重い病気にかかったように、体に力を込めることができなくなってしまいます。

これをどう克服するか。
まあ克服の前に、幼少期からのスポーツ人生および日常生活そのものの中で、「厳しく鍛える」つもりで厳しい処罰叱責的なものを取り入れていると、まさにその期待通りに、自分に厳しい自己処罰感情を持つようになり、自ら不利を招くという長い目の話があります。

そういった誤った道に行かないようにする上でも、まず「自ら楽しむこと」緊張克服の初級的方法になります。
安藤選手の場合も、本人の意識やコメントはこれを主にテーマにしていたと思います。「笑顔で」「楽しく滑れれば」
ただやはり五輪ほどの大舞台になると、そうは行かないところも出てくるんでしょう。本人も「緊張してあまり力が入らなかった」とコメントしていたように、また「楽しめたから良かった」とはコメントしたものの、やはり彼女の滑りはあっぷあっぷの苦しさがちょっと見えた、身体の方は「楽しんでなかった」のが実際だったように思います。その点、「心と体がばらばら」にちょっとなっていたと思う。

実際、楽しむどころではない状況になり得るわけです。それに向うためには、「情熱」が必要になるでしょう。これが中級的方法と言えるかと。
これは祈るような姿がトレードマークとも言えた村主選手に言えるのではないかと。溢れるような情熱を演技にぶつける姿勢が彼女のスケートの醍醐味であり、今回のフリー演技でもスタンディングオベーションが湧き上がり、感動して涙した観客もいたとのこと。

これは緊張を乗りこえ、「楽しむ」ことを越えた大きな精神的な力をほとばしらせるという、心の姿勢だと言えると思います。
これはスポーツにおけるメンタルの基本だと僕は心得ています。2005/12/18「自己像がぶれちゃったかなミキティ」で指摘したように、メンタルトレーニングの基本は、「緊張しないように」自分を鍛えるのではなく、極限的緊張状態の中でも平常的な力が出せるように訓練することです。
このトレーニングの中の実際の意識としては、大会場面をできるだけリアルにイメージし、起き得る緊張状態を仮想的に起こし、それをもう一種のベースにして運動する感覚を習得します。

極限の緊張状態さえもベースにして運動する。その内容をどうするかがさらに上級的世界になります。村主選手の「情熱」が基本として、実はさらに高度なものがあったんですね。今回の荒川選手の滑りは、改めてそれを思い出させるものでした。
それが「一体化」です。

これは今日朝TVで報道されていた、荒川選手が2004年(だったかな)世界選手権で金メダルを取った後、採点方式の変更への対応もままならず、一時は引退さえ考えたものの、結局辞めなかった理由について語っているのを聞いて、「あぁそうだったんだ」と気づいた次第。
僕自身がスキーで体験したものだったものでもあり。
その辞めなかった理由とは、一つには単純に「辞めていいと言ってくれる人がいなかった」でもあったが、あとは「良い時は自分でも鳥肌が立つんですね。もう一度それを味わいたかった」とのこと。
それ聞いて「あっそうか」と感じた。

自分でも鳥肌が立つような瞬間。その時何が起きているかというと、「一体化」です。
何と一体化するのか。これについてどう考えるかが、その結果に微妙に働いてくる、一種の「心の技術」になると思います。

村主選手は「お客さんの心と一緒になることが目標」とのことです。これも一つの考え方です。
僕はちょっと違う考えであり、「舞台との一体化」という考え方を取っています。取っていますというか、今改めて考えてそれが僕が今まで感じた「一体化」だと意識します。

「舞台」というとちょっとこじんまりした印象になっちゃうかと思いますが、そのスポーツが行われる場と、そのスポーツという存在そのもののことを言っています。それと一体化する。
そうしたものがあるんですね。その舞台を取り巻く空気の中に、何かがいる。それと一体化するという感覚です。その時、その「スポーツの聖霊がその人間に乗り移る」、「神がかりのような」、という感覚がかもし出されるものです。
これを目標にするのがいいかと。

これは我々スキー部連中の口からも良く出る言葉ですね。「なになに競技の神が降りた」「降りなかった」なんて半分冗談で言い合うわけです。実際「神がかり的な演技」というものを感じる時があり、それはその人間がもはや一人の個人ではなく、その雪の斜面と空気と一体となった別の存在のように見える瞬間なんですね。
その時、「鳥肌が立つ」わけです。

そうした「一体化」のための本人の意識とは、何位になれるかといった結果評価についての意識は完全に消え去るものであることは言うまでもありません。自分が人の目にどう映るかという「外から見た自分の姿」に意識を向けた時、人は自分自身を見失います。
これは人生における生き方と、スポーツにおける瞬間と、同じことです。自分が向う雪面を、水面を、そして氷面と、そして風や空気の姿を、しっかりと見ることです。するとそれがその人間に伝えてくるのです。「こう滑れ」と。すると、そう滑る自分の軌跡が浮んできます。それに、一体化する。


■「忘我」の世界

そうした「一体化」に、人はどう至れるのか。これは良い心理学的テーマだと思います。

ここではその考察は行いませんが、一つ印象に残っていることがあり、それは僕がスキーをしていて最も至福的と言える恍惚的心理状態になった瞬間が、3回記憶に鮮明に残っています。スキーの後のビールも至福の瞬間ですが、それはちょっと別の話として^^;
でその至福の瞬間というのは、どれもちょっと風変わりなんですね。どれも一種の逆境的状態があったものと言えます。その時僕は、「最高だ..」というつぶやきを心の中でしていました。
その時僕は、自然と一体の存在になったのだという感を覚えます。どれも10年以上前の30代前半の頃のこと。

ひとつは僕がスキーで左膝靭帯を痛める怪我をした後に滑りに向かった時です。会社のスキー部では「基礎部」に所属ですが、「競技部」の方に参加して、練習の合間に遊びで小さなコブをジャンプして着地に失敗。
それが午前の出来事で、宿で昼飯を食べた後、足の痛みは普通はもう滑れる状態ではなかったのですが、僕は午後をフリーで滑る予定にした通りに滑りたくてたまらず、ウエアも競技用から当時好きだったスキーヤーの斉木隆を真似たような洒落たスキーウエアに着替え、最高の天気の中で宿近くの長いリフトでゲレンデに向った時。
その時僕は「最高だ..」とつぶやいていた。

もう一つはスキーの「バッジテスト1級」の2泊3日受験パックというのに一人で参加して、最終日の検定が終わった昼過ぎ、フリーで滑ろうと山頂リフトで登った時です。リフトを降り、今までの緊張状態にあった自分を思い返しながら、晴天の眼下に広がる山並みの風景を見ながら、これから滑り出そうとする自分を感じた時、「最高だ..」と感じていた。

もうひとつはこれも一人で日帰りで群馬県内の近場のスキー場に行った時で、この日はかつて体験した最もすごい吹雪の中で滑ったような日でした。完全防寒装備ですが、ゴーグルと襟の間に少し露出している頬に吹き付ける雪がやがて厚く氷になっているような始末です。
そんな中滑っていて、リフトに乗り、吹雪が吹き荒れている中、視界の全てが吹雪の風景に溶け込んでいき、フリトに乗った自分さえもが吹雪の中に溶け込んでゴトゴトと動いている。その非日常の光景を感じながら、僕は「最高だ..」とつぶやいていました。

この時、僕の中には日常では起きない、「忘我」の状態が起きていたように、振り返って感じます。
そしてそれが、物事が順調に進んでいる中で起きることはなく、逆境的状況が何か介在して初めて起きるという、心理学的示唆を持っているように感じます。

これは心理障害の治癒克服という取り組みにもつながる話であり、心理障害というハンディがあって初めて、「心を解き放つ」ことを知るというのが、僕としては自分の人生全体のテーマだったように思います。
それを導く心の姿勢を定義しているのが、ハイブリッド心理学なわけですね。「心理障害をハンディとして受け入れる」ということが重要なテーマになりますが、それもありがちな「だから心理障害になった事も良かった」なんていう皮相なごまかしっぽいものを越えた心理学の目を、今後の「成り立ち」シリーズなどで明瞭にして行きたいと思う次第でアリマス。

No.913 2006/02/26(Sun) 13:58

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-3 / しまの

■「皮相化荒廃化した情動」と憎しみ感情

「皮相化荒廃化した情動の克服」というテーマに関連して、憎しみ感情への対処技術についても書いておきます。
心のノウハウとして、嫌な憎しみ感情から抜け出すのに最も利(理)にかなった姿勢とはどんなものか。

まず前説として、この2つのキーワードについて説明をしておきましょう。
両者の関係、そして感情分類学上の位置付けなど。

まず、 「皮相化荒廃化した欲求」と「憎しみ」は、あくまで別物です。前者は個人の行動を駆り立てる「欲求」や「衝動」であり、後者は個人が置かれた状況を受け取り感じる「気分」や「感情」です。
後者が前者の引き金になることは無論あります。特にナイマスの気分感情は、それを何とか解消しようとする欲求衝動の引き金になります。
そんな関係で、「憎しみ」が「荒廃化した衝動」の引き金になる、という関係はあります。

皮相化荒廃化した欲求とは、具体的には、自分自身の中で道徳理性や自己理想像との衝突を感じるような欲求と言えるでしょう。外から見た行動の姿に基準があるというより、あくまで個人の内部で「浅薄感」や「すさんだ」感覚と共に体験される衝動が、「皮相化荒廃化」した欲求なのです。
いちおう典型的なものとしては、自己顕示欲、人のものを奪いたいという衝動、「自己中心的」欲求、無差別的もしくは偏執的もしくは破壊性を帯びた性衝動、人の不幸を喜ぶ感情、無差別的破壊殺傷衝動などなど。

憎しみと荒廃化した欲求との間には、直接的な関係があります。
憎しみが強いと、荒廃化した欲求の破壊性が増大します。

ただし取り組み上の両者の位置付けは、正反対ともいえる違いがあります。
僕の考えでは、憎しみ感情はほぼ100%、心の姿勢の誤りから生まれます。従って、心の姿勢の修正によってきれいに解消が可能です。


一方皮相化荒廃化した欲求として心に発達したものは、心の姿勢を修正しても消えません。これはあたかも体にできたコブのようなもので、憎しみ感情によってそのコブが悪化した熱を発する状態は、憎しみを生む心の姿勢の修正によって取れるでしょうが、コブそのものは消えません。コブが独自の欲求を湧き出させることは、もはや自律的に、他の刺激が与えられなくてもそうなってしまっています。

一度心に発達して根付いてしまった皮相化荒廃化した欲求については、どこまでその充足をこの人生で目指すかという、人間としての選択に計るしかないというのが僕の考えです。この方向での説明をその1とその2でしました。極限的入れ込みによって、むしろ人間の本性的善性によってそれは打ち消される方向に向かうという考えです。もし道を踏み外したら「自由と自己責任」の原則ということで本人の自業自得だと、ちょっと無責任な発言ではありますが^^;

従って、取り組み上は、憎しみ感情があるならまずそれをより早期の取り組み対象にするのがいいでしょう。憎しみの解消によって、荒廃化した欲求に起きる変化も、心理学的に目を見張るほどのものになる可能性は十分にあります。

ただしこれは、憎しみ感情の解消が誰でも短期間でできるという楽観を言っているものでは必ずしもありません。憎しみ感情を生み出すものは100%心の姿勢であり、コブのように「構造として」出来たものではないとしても、「憎しみを生み出す姿勢」の一部は心理障害そのものを指しているからです。
理性では修正できない範囲を障害と言っています。したがって、心理障害が残る程度に応じて、憎しみ感情も理性による修正は不可能な自動感情として起きることを心得ておく必要があります。まず、あくまで憎しみ感情を障害として捉え、決して現実を示す感情として入れ込んでしまわないことです。


なぜ心理障害が憎しみ感情を生み出すかというと、「世界が自分のためにしてくれるべきである」という「自己像の世界」が起きているからです。このメカニズムは「成り立ち」シリーズでこのあと詳しく解説します。

従って、「荒廃化した欲求の浄化」というテーマで「憎しみ感情への対処姿勢」をこれから説明しますが、上述の通り荒廃化した欲求の浄化の根本的部分とはちょっと違うこと、また憎しみ感情の根本解消というテーマにしても、心理障害の根本的解消という別の問題が残るということを、いちおう含みおいて頂ければ。心理障害の根本的解消は、自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出です。

No.912 2006/02/25(Sat) 15:41

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-2 / しまの

このテーマで以前返答メールにかいた文章を転載しましょう。
まずは先に触れた「入れ込む」という視点を中心に書いたもの。


■「浄化のため」ではなく「完全なる自由と自己責任」に立って「入れ込む」

先に若干補足しときますと、「浄化のために入れ込む」という、「感情の操作」的意識からでは無駄です。これは補足以前の付けたし。「自分をごまかさないという生き方」を選ぶことで意味が出てくる話をしています。「感情がこうなるように」という自己操縦は、基本的に「自分をごまかす生き方」です。

心底から自分をごまかさないという姿勢で、皮相化荒廃化した欲求であろうと、それを求めるのが自分の本心であるなら、真剣にその満足を考える。
これはもう「心理障害の治癒」を越えた、「人間として生きる」ことの意味を自分に問い、「完全なる自由と自己責任」(また新しい表現ですね)とも言える価値観を選択肢した時のみ生まれ得る姿勢だと思います。

で補足ですが、「入れ込み尽くせない」部分も残ると思います。
それに対して「入れ込まなきゃ」という思考が起きるとしたら、それはやはり「感情操作」なわけです。それはやめましょうという基本方向です。
「入れ込み尽くせない」部分を感じたら、それをしっかりと見ることです。それは何なのか。多分そこに「人間の心の真実」があるでしょう。それを見ることができるのは、この時です。こうまでして初めて見えるのが「人間の心の真実」だと、僕は考えています。

それが「性善」側に傾くというのが、僕の経験的観察です。だからこの理論をおおっぴらに社会に伝える気になったという話。
それは道徳によって律するような皮相なものに比べて、遥かに揺らぎないものですね。

「自尊心課題の達成」の姿を「調和」だと以前言いましたが、それは外面行動における達成の要件とも言えるでしょう。一方、この「人間の心の真実」に至る体験が、内面におけるその要件なのかも知れません。

そうしたものへの到達という大局観の中で、皮相化荒廃化した欲求であろうと追及するという姿勢です。追及し切れない可能性を含ませながらになるでしょう。しかし真剣味が薄れた時、それは「ごまかし」でしかなくなります。
とても微妙な姿勢です。
それを通って初めて「人間の心の真実」に至れる。そう考えています。それは難しいことではなく、人間というのが本来そうゆう存在なのだと思います。一方、「心の真実」から自分を欺く仕組みがある。難しいのはこの罠を解くことです。

そんな補足の上で、「入れ込む」という視点を中心に書いたもの。

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■復讐的勝利衝動への対処

報復的な勝利衝動については、破壊的なものであろうと、対処の方法は明確なものがあります。
その衝動を否定し「正す」のとは全く異なり、むしろ内面においてその衝動を開放して、とことん確かめてみるような方向になります。
その結末がどんなものであるかをです。

それでもしそれが自分の幸福に利のかなったものだと心底から感じるのであれば、それに向かって進むがいい。
これは殺人衝動幼児性愛など社会犯罪につながる衝動であろうと、同じです。
まあ「そうすればいい」という表現は、犯罪を助長していると見なされる可能性もあり、表現が難しいところです。「そうすればいい」というより、「そこまでの覚悟があってこそ真の自己追求というものである」ということです。
そしてその結末に「自分自身への責任」を負う覚悟を持つのであれば、あとはもう個人の、人間としての選択でしかない。

ハイブリッドではそのような考え方を採用しています。
もちろんこうした考え方の背景には、道徳観念の徹底的な破棄と、厳然とした立法観念があります。ルールを定め、それに反した者はしかるべき罰を与える。「善悪」という観念はなく、スポーツにおけるルールと同じ話として、そうするという考え方です。ルールは厳格であり、動機内容や反省の有無には無関係です。


■自己追求の結末を引き受ける覚悟

そうした「自己責任」の考えに立って、あとはその衝動が自分の人生で重要なことであり、その結末を自分で引き受ける覚悟があるなら、あとは人間としての選択である。

僕は100%そうゆう人生観ですし、実際そうゆう考え方の中で、常識外れのことを結構しがなら生きてきました。違法行為を犯したことも、1度だけあります。まあ見つかって罰金しこたま取られましたが(スピード違反などの類ではない、明白な違法行為)。
実際そこまで覚悟を持って心置きなく自分の欲求を突き詰めていくと、案外フラストなくそうした衝動は収まってくるものなんですね。
その後には、物事を広い目で見ることのできる心が育つようです。僕は今自分の心に強さと包容力を感じていますが、心の強さは「善人として生きる」なんていう人生の中では生まれないと思います。自分自身に責任を持つ覚悟の中で、確信の中で「普通」というレールを外れてでも自己を追求する中で生まれると思います。
まあ今では自分でも関心するような、人畜無害の肯定的欲求しか湧き出ないようになっていますが。それが心のメカニズムなんですね。有難いことだと感じる次第。

もちろんそうした自己追求を実践して、誰でも聖人君子になれるなどと考えてはおらず、思慮が浅くて道を外れて、自らの人生を破滅させることになる人もいるでしょう。それはその人の勝手です。それで何の矛盾もない。そうゆう考え方です。


■欲求への覇権を確立する

「感情によって生かされ、理性によって守られ、価値観によって導かれる」という話を先日掲示板に書きましたが(2005/09/26ハイブリッド心理学による価値観の根本変革-2)、我々が生きているという実感を感じることができるのは、結局のところ欲求というものがあってこそです。決して頭で人生を理解することで、人に「あなたは良い人だ」と言われることで、生きるという実感を感じられるものではありません。

しかし欲求はしばしば自らを裏切り、道を誤らせる

これに臨む方法論は、欲求の原因ではなく、その結末をまず見届けることです。
その欲求に乗って行動をし続けたら、どうなるか。それは自分の人生として望ましいことか。
これをできるだけ最後の結末まで、心の中でシミュレーションしてみることです。

反社会的な欲求は、最後には社会から処罰を受ける危険があります。怒りの行動化は、必ず反撃を受けます。報復合戦の結末には、大抵大きな怪我や、最後には殺し合いがあります。
それを全て、自分自身の欲求の結末として、引き受ける覚悟で、自分の欲求を吟味することです。


■自己責任の覚悟のない善悪思考の中で破壊衝動は暴走する

一方、破壊衝動が暴走するのは、行動の結末ではなく、理由の方に意識が向いているケースだと思います。
相手が悪い。許せない。

「心の使い方」ですね。
まず結末を考える。それを引き受ける覚悟で、自分の欲求を検討する。
結末から考えて、どうも自分自身にとって望ましくない欲求ならば、行動化は控え、次に何故その欲求があるのか、その意味を考える。ここから感情分析が始まります。

逆の「心の使い方」だと、まず欲求を引き起こした理由の方に意識を向ける。「それのせいでこんな衝動が起きているのだ」という、自己の重心を欠いた思考の中でです。
すると欲求は暴走するでしょう。衝動を生み出すアクセルだけが踏まれ、結末という調整は効かなくなる。
そして現実の世界には、必ず結末があります。衝動が暴走して、結末を迎える。やはり自己の重心を欠いた思考の中で、「こうなったのはあいつのせいだ」と考えながら、自分の人生を駄目にしていくかも知れません。

これは「善悪の放棄」などという難しい話以前の、ノウハウです。
先を読む、結末まで考えることで、自分の欲求への覇者となり、欲求によって生きながら、それを理性で制御できるようになります。
先ではなく過去の、衝動が起きた原因の方を考えると、欲求に流されて自己を失います。
どっちの心の使い方をするかですね。


■自己責任により欲求の覇者となる心の成長によって欲求そのものが浄化される

その先のことも簡潔に説明しましょう。

そのように自分の欲求の結末に自己責任を持つ姿勢で、自分自身の衝動に臨む姿勢の中で人生を生きると、心が強くなってきます。
その強さによって、今度は湧き出る衝動そのものが、質的に変化してくるのです。

破壊的な衝動は、次第に創造的な欲求によって打ち消されるようになってきます。
異常性欲は、次第な健全な対人感情によって打ち消されるようになってきます。この話は性愛衝動メカとして詳しい話ができる領域。

「望みのメカニズム」で欲求の皮相化・荒廃化という話をしましたが、これが、それに対する逆方向の流れの話になります。


以上が、復讐衝動や勝利衝動についての説明です。
まずは、結末まで引き受けた形で、自己の欲求として認識することからです。結末の先には、自分の人生として実りがあまり大きいものではないことが感じられるくると思います。自分をバカにした相手を殺すとか、過去の知り合いを見返すとか。
「で、結局自分はこの人生で何がしたいの?」と自分に問いた時、何か空しいものがあると思います。そこには、人生で求めるものそのものについての、混乱があります。これについてはそのうち掲示板で解説する(*)予定です。
*これは「成り立ち」シリーズのことを言っていたかと。
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「浄化」に関連した、もう一つの重要な視点があります。
荒廃化した欲求を否定するのではなく、むしろ入れ込むという逆説に似た話。

「憎しみを捨てる」という、かなり根源的テーマへの、ハイブリッドの答えです。未掲載のままだった。
憎しみを捨てるために、むしろ「憎しみを守る」という姿勢を取ります。
これについて書いたものも紹介しておきましょう。

No.911 2006/02/23(Thu) 00:07

皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-1 / しまの

■心理障害感情の意識下メカニズムの概要

ちょっと割り込み解説。
心理障害傾向の発達メカニズムを解説していますが、流れを構成する源泉を列記しますと、
1)望みの停止に発する情動の変形(否定型・受動的価値感覚、皮相化荒廃化した欲求)
2)自己処罰感情感情の膿
3)心理発達課題の初期損傷としての残存愛情要求および思春期以降の優越欲求
4)自己操縦心性の病理発動(現実離断まで解説済み)


この後、これらの心理要素が組合わさって、実際の心理障害感情がどのように生み出されていくかを考察していきます。それを解くためにはどうすればいいかを明瞭に定義できるような精緻さが目標になります。
解き方が課題となる感情を描写するならば、「自己嫌悪感情の中で愛を求め憎しみに駆られる自分に絶望する」というような世界。

それが、あくまで意識上に現れる感情です。
その根本的克服を目指すならば、その意識の下にあるメカニズムを理解頂き、それがどのように解消克服されるかの「治癒メカニズム」まで理解して頂くことが必要になります。

その意識下メカニズムとしては、「皮相化荒廃化した欲求への自己嫌悪」が重要な役割を果たしています。

思春期以降の「望みの停止」は、自分自身の皮相・荒廃情動への自己嫌悪を避けるために、積極的行動への願望を自ら停止するという動きが最も要になります。
この自己嫌悪は何種類かあり、来歴の中で積もり重なりながら、本人はそれからの逃避のために自分の人格をこねまわして別人になろうとする、心理障害の本格的発動へと向います。
逃避を図り、意識から除外された分の自己嫌悪が、外化されます。つまり他人から自分に向けられる嫌悪、もしくは他人の中に投影して激しい嫌悪を向けるという意識として体験されます。
これが超サマリー。

治癒克服においては、逃避を図った自己嫌悪に再面し、それを根本克服できるような「新しい生き方」を見出すことが、極めて重要な課題になります。
そこではどうしも、「見たくなかった自分」のような、皮相荒廃した情動を抱える自分をどうするか、というテーマが出てきます。

これに対してハイブリッドが示す一つの心理学的技術のようなものとして、「皮相化荒廃化した欲求の浄化」というテーマがあります。

復讐的衝動、破壊的衝動、偏執的に愛を求める衝動。その先には、最近世間をよく騒がせる異常犯罪のような世界に足を踏み入れるかのような情動が、自分の中に残るのを見るときが来ると思います。
それは今まで解説している「感情と行動の分離」「思考法行動法」「感情分析初級レベル(^^;)」では解消しません。そのまま残ります。


これがどう克服解消されるのかを理解しないうちは、恐らくハイブリッドの言う根本治癒の取り組み、その中でも特に感情面への取り組みの方向がいまいちつかめないままかと思います。

それについて現時点で書けることをざっと書いておきましょう。


■皮相化荒廃化した情動への対処の基本原理

まず言えるのは、それを「正す」という姿勢では解消しないということです。
荒廃化した情動を否定しよとすると、それはさらに荒廃化の度合いを深めます。なぜなら荒廃化は望みの停止の必然結果だからです。

人は道徳的禁欲的になると、自らの中に荒廃化した情動を抱えることになります。それから目を反らすために、上述の外化が行われます。「欲求」は貪欲で醜いものであり、理性によって抑えるべきものになります。そして道徳的姿勢を取ります。自己循環です。

それとは逆に、自分の荒廃化した欲求を受け入れ、許した時、それは消える方向に向かう..のではありません。
これは現実にはそんなことはない、絵に描いた餅のような「自己受容」イメージでしかありません。嘘偽りなくそんなことが人間の心に起きたという事実を、僕は知りません。

僕が知っているのは、そして自分自身で実際に体験したものは、主に2つの原理に基づく「浄化」だと考えています。
その2つの原理どちらが働くにせよ、まず前提となるのは、内面においてはその情動を完全に開放することです。そのためには、善悪観念の解体とともに、現実の行動化を冷静に制御できる段階までの「進歩」は必要でしょう。

その上で働く原理のひとつは、感情分析の効果です。ある欲求が別の欲求の象徴的意味合いを兼ね備えていた時、この関係を感情分析すると、最初の欲求の強迫性が解消することがあります。
ちょっと抽象表現だけで具体的な話はまたにしますが。

もうひとつの原理は、そして最後に残る欲求については、その欲求を「自分のものとして引き受ける」という姿勢です。そしてそれを満たすことを目論むかどうかを、自分の人生を賭けた問題として真剣に問い、自己責任において決断することです。
ここで、「善悪の完全な崩壊」や「サバイバル世界観」が意味を持ってきます。自分はそのことの善悪を本当はどう感じているのか。人に見せるための見せかけの「道徳観」ではなく、です。

実際は「バレなければ」そうしたいという欲求がある。。だとしたら、バレない方法を徹底的に考えることです。そしてそれが見つかった時、どうするか。
自分はそこに踏み出してしまうかもしれない。
そこまで、その欲求を「自分のものとして引き受ける」ことです。

なぜそこまで「入れ込む」必要があるかというと、まあ心理学の言葉で言えば、「分裂した人格同士の衝突」が起きないんですね。
片方には道徳者の顔をした人格があり、片方には抜け道さえあればとフラストを抱えたままの貪欲な人格がある。
そうした分裂がどのように起きるのかというメカニズムの理解も重要なことながら、一種の極限的な入れ込みの中で、両方の人格が衝突し、その人間の究極の本性がその衝突の中から現れる、という心理学も知っておくといいでしょう。
それがまさに「未知」になります。

それを許す価値観を持つかどうかですね。それがサバイバル世界観。そしてその「未知」は「性善」側に行くという経験的観察をもって、こんな理論をおおっぴらに言っているという状況があります。

とりあえず雑文的に書きましたが、今後これをさらに理論的に、「治癒メカニズム」として考察していく次第。

「一度入れ込む」という姿勢は、ヘタをすると道を踏み外す恐れのある話であり、書き方に悩む面が多々ある話ですが、まあ一つ釘をさしとく意味で言っておきますと、こうした「道徳者の仮面を捨てた上での人生の選択」は、まず「辛さが認められる」といった価値観、「自己像を生きる姿勢」、「感情への感情」がある内はまだ近づくことのできる話ではないです。まずそれらが取り組み課題になります。
まず基本的に、自分を「こんな人間あんな人間」という別人に仕立て上げようとする衝動を捨て、ありのままの自分を感じ取れることが先ということですね。

そしてその先で自分の人生を根本的に問い、内面の分裂をあえて衝突に導くような危険を冒す勇気を持つかどうかになります。
その「勇気」とは、恐怖に打ち克つという意味での勇気よりも、「自分をごまかさないで生きる人生」を選択し、「自分をごまかして生きる人生」を選ばない、という意味での勇気です。
「恐れを打ち克つ人間」の振りをするのではなく、自分が本当に何を求めているのかを知る、自分自身への忠実さですね。


以前返答メールで「皮相化荒廃化した欲求の浄化」に関連して書いたものも、ご紹介しときましょう。

No.910 2006/02/22(Wed) 17:51

「太陽と惑星」の社会構造 / しまの

「自己操縦心性の成り立ち-41:現実離断とは何か-10」で「実際の社会はそんなものではない」と書きましたが、その話を簡潔に書いておきましょう。

現実の社会は多種多様な人間とその集団から成り立っているのが、事実です。
ですから、「け落としけ落とされる社会」「利益だけ考えている企業」は、一面では事実でもあります。でもそれが全てではない。
僕が実際に社会で長く働き、そして最後には結構いいとこまで行くことができた、その経験からの個人的感想を書きましょう。

それは実際に自分がいいポジションに向うようになった時、それまでとは違った社会イメージになっていったものです。
一言でいえば、今の自由主義経済社会は、「太陽と惑星」のような構造のイメージを感じています。

まだ学生の頃持っていたイメージは違うものでした。学歴社会で上位の人間とか、企業社会で利益を上げている企業とかは、やはり人を押しのけ突っ走る馬力のある者だけがそこに行く、ストレスに満ちた世界というイメージがあった。「押しの強い人間だけがいる」というようなイメージ。

そのイメージに少し変化が起きてきたのは、早大大学院に進学したのが最初だったと思います。早稲田はとにかく大きな大学だった。そして自由な校風とそれを許す包容力のようなものを感じました。
かたや学歴社会で1ランク下の以前の大学は、こじんまりとした大学で、まあお洒落な大学ではあったけど、包容力は感じない堅苦しさがありました。

それでちょっとイメージに変化があったわけです。「一部の特権階級的人間の集団」と「大勢の一般人」というイメージだったけど、前者の中を良く見てみると、そっちの方が「大勢」。東大も多分巨大な大学でしょう。どうも、上に行くほど母集団が大きくなる。下の方は小さくなる。なんか今までのイメージと逆だなぁと感じたのを憶えています。

企業で働くようになり、最後に長く勤めた大きな会社にいて、そのイメージがこの社会の基本構造であるのを感じるようになった次第です。
社会で上位者と位置付けられる者達は、まとまって大きな集団を作る傾向がある。下位に行くほど、分裂して小さい。さらにその大きな集団の中で実際に生活してみて、まあ僕が行った所が良かった幸運もあるのでしょうが、暖かい、光のある世界だったと感じます。だから「太陽と惑星」というイメージがぴったりきます。
決して「け落しけ落される」世界ではなく、「純粋さ、思いやり、誠実さ」そして「建設的であること」が何よりも大切にされた会社文化があったと思います。それが顧客の信頼を得て、継続的な利益につながるわけです。

そうした集団に入ることを、人生の目標の一つにすることに、僕は大賛成です。そうした集団は決して排他的ではなく、その会社の社員になるのでなくとも、その取り巻き集団(^^;)の中に入るだけでも、沢山学ぶことなどの恩恵があるでしょう。

これが企業への就職だけでなく、この人生の生活場面全体に言えることのように感じます。もちろん一部には、道を反れた方向に向かう上位者もいるでしょう。それを見分ける知恵も大切です。

自分の可能性を尽くして、社会を知り、自分がその中で生きる人間集団を見出すということが、「人生の活動」の中で、「個人生活」「家族生活」に並ぶ3大主柱の一つだと思います。
「自分の能力価値を高める」ということを、そうした視野の中でぜひ捉えて頂きたいですね。

「能力」に「け落しけ落される」という嫌悪感が伴う場合、やはりこの後で解説する自己操縦心性の様々な問題への取り組みが重要になってきます。

No.909 2006/02/21(Tue) 14:08

自己操縦心性の成り立ち-41:現実離断とは何か-10 / しまの

■現実の貧困化と悪感情の膨張

自己操縦心性の病理その1として「現実離断」をまず説明し、「現実から乖離した精神」という派生物によって、精神性の暴走破壊型理想現実の貧困化という問題が起きることを指摘しました。

「現実の貧困化」は、心理障害が内面の困苦だけにとどまらず、現実生活における困苦まで巻き込む方向性があるという点で、悪感情の基盤を膨張させる最大の要因ともなる、由々しき問題と言えます。

治癒克服への取り組みとしては、悪感情を膨張させ、人生の困苦をもたらしているものが、自分自身の取っている姿勢に他ならないことを自覚することが、極めて重要な課題として指摘できます。
そしてハイブリッドとしては、その自覚を単なる精神論的な自己反省ではなく、それがどんな心理要素の組み合わせの中で働くのかの正確な心理学的理解と、問題となる姿勢の対案となる別の姿勢を明瞭かつ具体的に知ることが重要であることを、特に強調しておきたいと思います。

堅苦しい文調だなぁ..心理学本では噛み砕いてこなれた文章したい。。

「人生の困苦をもたらしている、自分自身が取っているに他ならない姿勢」とは、ずばり破壊型理想です。
これを上述のような主旨で理解頂くには、ことさら破壊型理想の表現例だけ抽出するのではなく、個人の心理状況全体をそのまま描写するケーススタディの形で見ていくのが良いと思います。

それを2つほど見ていこうと思います。


■破壊型理想による現実破壊の例1

まず比較的穏やかなケース。

2/16読売新聞の人生相談コーナーより。タイトルは「大人は醜い なりたくない」。まありがちというか典型的。
20代の女子大学生。社会に出るのが嫌でたまらない。人間として大切なものを捨てなくてはならないから。
アルバイト体験からそう思うようになった。人をけ落としけ落とされる社会利益のためだけに人を使い、客は「金のなる木」としか考えない企業。純粋さ思いやり誠実さを捨てるくらいなら子供のままでいいとさえ思う。
今の社会には、人に優しく接し、愛され、愛し返すという自然な欲求さえ許されない。
教育実習で3週間小学校に行き、子供たちと触れ合い満足感と喜びを感じた。小学校教師になり、子供たちに思いやり、生きる喜び、本当の強さを教え、共に成長していきたい。


この例では、高尚優美な精神的理想と、それとは全く対照にある「醜い現実」の破壊的見下しという特徴が簡単に見てとれます。
理想は「純粋さ思いやり誠実さ」であり、「人に優しく接し愛され愛し返す」ことであり、それ対し現実社会は「け落としけ落とされる」醜い世界です。

心理メカニズムとして見ると、この個人の抱く理想残存愛情要求を基準にしたものであることがまず考えられます。
「愛され、愛し返す」というのは「自然な欲求」じゃーあまりなんですけどね^^; まこの話は長くなるので省略。

一方、この個人が社会に見てとる「け落としけ落とされる醜さ」とは、一面は事実でありながらも、多面はこの個人自身の皮相荒廃化した情動への自己嫌悪を外化したものであるという解釈が可能です。

「本人自身の皮相荒廃化した情動への嫌悪の外化」は、心理障害傾向の発達の中で必須メカニズムとなる、極めて重要な位置付けのものです。あとでこの詳しい考察を行います。
これが本人自身の自己嫌悪の外化であることは、社会を糾弾するその好戦的姿勢の中にその特徴が表れます。自己嫌悪から目を反らすために外化が必要になるのです。このメカ説明は後で。

「社会の醜さ」という時、この個人の心に一瞬、そんな現実を見下す自分という優越感と、「自分は信実を知った」という勝利の感覚が起きているのを想像できます。
しかしその優越感勝利感は、本人がそれを感じていることを自覚する以前に、怒りの感情と、「醜い現実に生きる自分」という悲嘆の色濃い自己嫌悪感情に覆われ、意識からは見えなくなると思われます。

破壊型理想はそのように、意識の上はすぐに嘆き怒りが覆うため、自分がある理想を抱いているという意識自体が薄れる傾向があります。メカニズムそのものからして、破壊型理想「像」とは言えない面が多少ある。これは自己操縦心性の病理の別の要素である「願望の否定」によって、理想を抱いたり望みを追求したりと言った積極的情動が消去されるからです。これも詳しくはあとで。

この例はまだ「理想像」が意識に残っているケースになります。


■破壊型理想メカニズムに含まれる「対人関係の破壊」

この例では、現実破壊はあまり積極的なものではなく、本人がそれを現実破壊とは自覚しないままの穏やかな形で、この個人の本来の能力資質から得られるであろう生活基盤が損なわれている状況にあります。

最も端的には、「社会の醜さ」を攻撃するその好戦的姿勢によって、潜在的な人間関係に甚大な破壊が生じていることです。この個人が社会に出て人に対面する全ての場面で、強い身構え姿勢の中で、相手から自分に敵意が向けられるという感覚に悩まざるを得ないことは、想像に難くありません。
それが本人の無力感と不安感を強め、残存愛情要求を強化する結果となります。本人の抱く「理想」は、か弱い雛鳥を暖かい羽で守る親鳥のような「愛情」を、対等な立場で役割分担を遂行し合う行動が基盤となる現実社会の人々に期待するものとなり、精神的理想と現実社会とのギャップが大きくなって行きます。

ただこの「対人関係の破壊」は、破壊型理想があるところで即座に起きる必然的結果であり、破壊型理想という心理メカニズムの一部とも言えるものです。

つまり破壊型理想による「現実破壊」がどう起きているのかについては、もっと大きな視野から見る必要があります。
「対人関係の破壊」はまだ本人が自覚できる。しかしその範囲では、破壊型理想を捨て去る選択肢が見えてこないんですね。
見えないことろで起きている「現実破壊」を知って、それが自分の抱く破壊型理想の必然結果であることの自覚ができた時初めて、その破壊型理想とは異なる視野が開けます。

これは極めて心理学的技術に基づく自己導きです。自分の頭だけの感情と思考に任せていては、決して見えてこない世界です。

自分の破壊型理想が対人関係の破壊をもたらしていることを自覚することは確かに重要でしょうが、それだけでは治癒克服への力としては弱いと、僕は感じています。対人関係の破壊を嘆いて破壊型理想を捨てようと考えるだけでは、「捨てる」という消極的側面だけで、自分の生きる基盤を築いていくという積極的な力に欠けます。それは相変わらず残存愛情要求の中で考え、自己操縦心性による「願望の否定」に同調するだけの、あまり何も変わるものでもない「ごまかし」になりがちのように感じます。


■破壊型理想による大局的な「人生の破壊」

そのような観点で言うと、「現実破壊」は、主に次の2つの事柄において大きく進行することになると考えられます。
これはまさに、この人間の「人生全体を失わせる」という、大局的な破壊として考えるべきものです。

1)社会人として充実し満足できる人生獲得への道が閉ざされる
この社会の中で、やりがいのある仕事を良好な人間関係と共に進め、充実し満足できる社会人生活を見出すことは、人生の幸福にとってとても重要なことだと、僕は考えています。
この例のように「社会は醜い」という決め付けをしてしまっては、そのように満足できる生活を獲得する可能性はおろか、それに向うという方向性そのものが遮断されてしまうと言わざると得ないと思います。

恐らく本人もそのことは自覚するでしょう。まさに、「だから人生なんて」という表現でもあるわけです。

それとは別の姿勢の選択肢があることをこの人が知るためには、さらに2つのことを知る必要があると思います。

ひとつは、実際の社会はそんなものではないということ。これはこの後に単独カキコでちょっと書きましょう。
もうひとつは、こうした破壊型理想の底にある「自己嫌悪からの逃避」の心理メカニズムの理解です。これは詳しくは、この後の自己操縦心性病理の解説に委ねられます。つまり今はまだ破壊型理想の指摘だけであり、その対極の選択肢は説明せずじまいに終わります。それだけ大きく決定的な心理学がこの後控えています

その端緒的な話だけ、「大きな現実破壊」の次の話として指摘しておきます。

2)自分自身に対する潜在的な破壊的攻撃者であり続ける
「社会は醜い」という破壊型理想の中にとどまることによる最大の現実破壊とは、この個人が自分自身に対する潜在的破壊攻撃者でい続けることにあると思われます。
つまりこの個人は、そのことを知らないまま、「自分自身への破壊攻撃的な敵として生きる」という人生を選択していることになります。これはまさにこの人間の人生全体を失わせているものと言えるでしょう。

自分自身への潜在的破壊攻撃者であることは、「潜行する苦しみ」の主因とも言えると思います。

「苦しみ」がどのような役割を演じることになるのか。自己操縦心性の病理の次の側面である「願望の否定」と組合わさることで、一体どんな感情の構築物ができあがるのか。

そのがんじがらめの世界が、意識では見えない先に、このあと膨大に展開します。それを理解できたら、もはや破壊型理想の中で抱かれている信念などは簡単にふっとぶでしょう。まあそれがハイブリッドが提供する最大の治療薬なわけです。まだかなりの解説を続けてからになります。

No.908 2006/02/21(Tue) 13:59

自己操縦心性の成り立ち-40:現実離断とは何か-9 / しまの

「現実から乖離した精神」による生活態度の問題として、1)精神性の暴走、2)破壊型理想、に引き続き、「現実の貧困化」について。
なおここで「生活態度の問題」と言っているのは、言うまでもなく、何か「望ましい生活態度」からの逸脱ということではなく、その人自身が、その人自身にとっての不幸を、自ら招いているという意味での「問題」です。


■生活態度の問題3:現実の貧困化

「現実から乖離した精神」による生活態度の3つ目の問題として、「現実の貧困化」

これは文字通り、現実生活の基盤が、その個人の本来の能力資質に比べて遥かに貧困なものに低下してしまう問題です。
これがしばしば、心理障害による困苦に加えて、現実的困苦という2重の苦難を招いてしまいます。破壊性が深刻な場合、身体的もしくは社会的な損傷を自ら招いて、人生基盤の回復困難な損傷を自ら確定してしまう例も少なくありません。

現実の貧困化は主に3つの要因によって進行します。

1)受動的価値感覚による受け身の生活態度やものの見方考え方。

より自発的能動的な考え方を身につければ、それだけでもより多くのものを生み出せるものを、「慎ましさ」「辛抱苦労」などの価値観の中で、自ら放棄してしまいます。

ただし「受け身の態度」そのものは、それほど有害なものではありません。問題はその中でどのように「望みの停止」が進行しているかによります。
結果についての自己責任の感覚を持った上で、自己決断によって「選択」した「人まかせ」は、そんな悪いものではありません。僕も時と場合によっては結構好きです^^;
また控えめや慎ましさの中で得る平安がその人の本性として根ざし欲するものになった時、それは人生の豊かさの一つにもなり得ます。
一方それが「自分からは望まずに与えられる」という特別扱いの要求を秘めていたり、「どうせ..」と人生の望みに背を向けた望みの停止を隠していたりすると、その兆候は執拗な苛立ちや空虚感として現れます。そのような場合、受動的価値感覚に始まる受け身の態度を障害の問題としてアプローチすることができます。

2)社会を生きる知恵やスキルの不足および勘違い

これは心理障害とは全く無関係な話が多分にありますが、これが一緒に起きているケースがとても多いです。

僕が考える「社会を生きる知恵やスキル」のエッセンスは、「ハイブリッド推奨 人生勝利の原理原則10則」「島野のビジネススキル講座」で話した通りです。それらは実際に社会に出て色々と学ぶ中で見出したものであり、まだ学生だった頃の自分が抱いた「社会を生きるスキル」を振り返ると、とんだ勘違いがあったと感じるものが多いです。
それらは、先人の知恵に学ぶしかない。

一方勘違いの多くは、残存愛情要求の中で人が抱く、「人と馴染める」「相手に良く思われる」といったイメージを、そのまま社会で必要とされるスキルであるかのように大勘違いしたものです。
そんなものはほとんど必要ありません。社会で求められ信頼されるのは、自分の役割や仕事の根本目的を正しく知り実践する見識や誠実さです。

こうした理解不足および勘違いは、多くの責任が親や学校教育にあります。実際に社会で役に立つ行動学などは、学校で教わることはほぼ皆無です。

社会を生きるスキルの不足が原因で心理障害が起きることはありませんが、社会を生きるスキルの獲得が心理障害の克服に大きく役立つことは確実です。だから心理障害傾向と社会スキル不足が一緒に残るという結果になるのでしょう。
ハイブリッドではこのため、心理療法とは本来全く別のテーマである行動学を、取り組みの重要な領域として取り入れています。

3)破壊型理想もしくは破壊型信念による実際の現実破壊

上述の2つが、社会生活の基盤を築くことを妨げるという問題であるのに対し、ここでは、生活基盤を現実に積極的に破壊してしまう問題となります。
現実から乖離した精神性が掲げる高い理想から現実を見下し忌み嫌う現実の対象を攻撃破壊します。
この攻撃は、現実対象の向上を求めるという性質が皆無で、攻撃対象の消滅を求めるのが特徴です。相手が消滅しないのであれば、自分が消滅するという負の形態もあり得ます。ただしこれは自殺衝動とは別のものです。

この「積極的現実破壊」は、心理障害が悪化する膨張の最大の要因の一つとも言えるものでしょう。
それが起きる特徴としては、本人としては意識的抵抗ができない不可抗力のような力に促されてそうしてしまうこと、そこには「高い理想から見下す」という感覚さえ消えていること、自ら破壊した現実を、今度は本人が別の感情の中で受け取り、人生の不遇感を深めること、などが指摘できます。

幾つかの実例を取り上げて、そのメカニズムを考察してみましょう。
スキーから帰ってきてからになるかな。

No.907 2006/02/17(Fri) 14:03

自己操縦心性の成り立ち-39:現実離断とは何か-8 / しまの

■自己操縦心性の最新定義

ちょっと解説ものの間が開いたので、おさらいもかねて自己操縦心性の現時点での定義をまとめましょう。

まず自己操縦心性とは、「空想を基盤にして自我統制を行う心の機能」と言えると思います。
「自我」とは、自意識によって自分自身を認識する心の機能です。自分はこんな人間であり、こんなことを感じ考え、こんな行動をするという意識。

「自己統制」とは言っていないのは、「空想を基盤にした自己統制」というと、スポーツにおけるイメージトレーニングなども入ってくるので、それは除外しています。あくまで自分の人間性や性格人格について、空想を基盤にして統制しようとする心の機能です。
端的には、自分の感情を統制しようとする。

この機能が暴走して心理障害が起きるとも言えるので、自己操縦心性は何か無用に発達した心理機能のようにも感じられてしまいますが、その轍から抜け出すのも、やはりこの心の機能によってです。「自分の感情を統制しようとする感情を解除する」という自己統制も、やはりこの心の機能によります。
従って、自己操縦心性とは、心の逆境において役立つよう発達したものであるが、逆境をすみやかに脱し、その機能をもはや不要とすることが極めて望ましい、人間の心の高度な機能だと言えるでしょう。
つまり、その機能は基本的に危機回避のための特異な心身状態を作り出すものであり、その機能を使うことは基本的に健康を損なっていることだという認識が必要だと思います。

そうした心の健康に反する機能が、心理障害という範囲を越えて、人間の一般心理から起きているものとして、このシリーズの説明を始めています。
基本機能として次の2つがある。
1)感情への感情..感情評価感情感情演技感情感情強制感情
2)空想の中の優越。これにより、自己処罰感情を土台にした「軽蔑感情」「自己軽蔑感情」という心理障害特有の感情が出来上がります。

そこまでではまだ「心理障害」ではなく、「心理障害」としての「発動」は、思春期要請の中の「人格統合への要請」によって、今まで意識から切り離されていた「感情の膿」が人格の一部として組み込まれることで起きるという考え方をしています。
これを端緒とする、心理障害特有の心の動きを、「自己操縦心性の病理」と呼びたいと思っています。

自己操縦心性の病理その1が、「現実離断」です。これは感情の膿をできるだけ刺激しないように、「現実性刺激」をできるだけ遮断するための、半夢的な意識状態である「現実覚醒レベルの低下」を起こす機能です。

現実離断によって必然的にもたらされる、心理障害特有の奇妙な意識状態として、「現実から乖離した精神」について説明しました。
これは思考法の問題でもなく、心の姿勢の問題でもなく、いわば意識の外枠、脳の状態として、そんなものが起きてしまっているということですが、人がその意識状態を土台にして人生の生き方を考え出すものだから、輪をかけて問題が起きるような、心理障害の膨張構造が始まるという話をしました。
「現実から乖離した精神」がもたらす生活態度の問題として、1)精神性の暴走2)破壊型理想3)現実の貧困化があると。

現実の貧困化についての話からになります。
ここでいったんカキコしときましょう。

No.906 2006/02/17(Fri) 12:26

ダイジェスト小説最初の推敲作業完了\(^^)/ / しまの

さっきダイジェスト小説の最終原稿を出版社に送ったところですが、結構手直ししましたねー。
ちょっとご紹介。

細かい語句修正などはまあそこそこという感じで入れましたが、思った以上に修正を入れたのが「病んだ心の崩壊」で、意識に現れている感情だけ主に描写しているのがどうも散漫な印象だったので、一体何が起きているのかを、ちょっと日常感情の言葉を越えた「戦況ナレーション」みたいな描写をちょっとちりばめた。
それで僕としても、最初の大崩壊に至る数日間のちょっと狂気的雰囲気がより伝わるものになったのではと感じています。
似た工夫を「現実への帰還」にも入れた。

あとサイト掲載ものでは章の変わり目にちょっと「いままでのあらすじ」的な描写を入れたのは、単行本として読むのに自然なように削っています。

「考察」は心理学解説としては特に新しいことは書いてませんが、他では書いてないような言葉も言っているので、ちゃんと買って(あはは)読んで欲しいデスネ。
「病んだ心から健康な心への道の本質」とはということで書いたもので、改めて何をポイントしているかというと、「障害を治す」のではなく「人生の望みに向う」歩みであること、「自己の重心の選択」、未知の自己との出会い、そして科学の目というようなことを書いております。

あと大きな話として、4章「抑圧された感情の解放」に新たにエピソード追加をしています。
これは「最初の方向変換」という節の、「私は幾つかの体験を通して、「対人関係の改善」を求めて自己分析するという姿勢を、はっきりと放棄する方向へと方向変換します」とだけ書いてその内容をすっかり省略した部分。

一度書き始めるとかなりの紙面を費やす感じになるのを嫌い、そうしていたわけですが、今回改めてその穴が大きいのを感じ。
それだけ結構濃い体験談が入っています。
A4原稿で2枚くらいに収めようと最初は「やっぱこれ入れるの無理かー」とか悪戦苦闘してましたが、キモ部分を抽出しているうちに、書いてて泣いてしまいました。うんこうなればokという感じ(^^)v..^^;

自分の「成長」への取り組みが、実は自己統制の鎧でしかなかったことを深く知ったエピソードという位置付けになります。
ハイブリッドの取り組みの中の重要な側面、「開放」への姿勢を描写するものになります。
「開放の姿勢」はその重要性に比して説明が難しいもので、実はまだ説明さえ書けていないという感覚さえ感じますね。
位置付けを言うなら、「心理障害の治癒成長」というときの「治癒」は、まずこの「開放」に依存しています。「開放」は「終わり」ではなく「始まり」である。しかし開放された心は目標でもある。開放のために必要なものが、これまた開放。「何かを開放しよう」という姿勢を取ると、開放はできなくなる。うんぬん。

そうした説明の難しいものを理解頂くために、今回追加したような体験的描写も一つの参考にはなるでしょう。しかし自分のこととして開放の姿勢をイメージするのに役立つかどうかは、人によりかなり制限があるとも感じる。

何やらぶつくさモードですが、「開放」というこの難解な心の姿勢を理解して頂くためには、体験的描写にも増して、やはり「開放」という時逆に何が閉ざされているのかの、正確で分かりやすい心理学理解が必要だと感じる次第。「分かりやすい」とは言っても、日常感情を越えた「何か」が心に起きていることを理解頂くことが肝要です。

ということで、「開放」が根本的に不可能になる現象である「自己操縦心性の病理」について、解説を頑張って続けねばと。
その人本来の人生を楽しむ心の開放を阻み、閉ざすもの。「破壊型理想」はその最大のものとも言えるように思えます。
引き続きその解説を。

p.s
次は「現実の貧困化」という結構大きなテーマを書きますので、明日カキコするか分からないので早めにお伝えしときますと、明日夕方からまた日曜までスキーに行きますです。

No.905 2006/02/16(Thu) 17:27

島野のビジネススキル講座-4(End) / しまの

ビジネススキルの最後に、やはり「ハーバード流」を取り上げています。

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3)交渉術

最後に、全てのSEにとり有益なテーマとして、他者とのコミュニケーション、特に利害関係があるような相手との議論や交渉の進め方というものを取り上げたいと思います。
システム構築作業はチーム作業であると共に、多くの場合利害が共通しない他チームやお客様との調整作業の連続であり、それを効率的かつ自らに有利な形で進められるかどうかが成否のためにクリティカルな問題であるからです。

このようなコミュニケーション課題への対応方法して、「相手の立場で考える」とか「建設的な姿勢」とかは当然の話として、単なる「良好なコミュニケーション」以上の具体的な手法を持っておきたいものです。

筆者はこれについては、「ハーバード流ビジネス交渉学」に非常に感銘を受け、これを指針としています。
簡潔に言うと、交渉というものを互いの主張を戦わせ勝敗を決するものとは考えず、互いの共通目的、共通利益を発見して行く場と考えるものです。これもやはり、個人の主張や感情という揺るぎやすいものではなく、原理原則を基盤として行動するという本論文の基本的な定律と一致するものです。(事実これは原則立脚型交渉モデルと呼ばれているようです。)

またSEが頻繁に直面する課題として、様々な立場の人を対象にした「全体合意の取り付け」があります。いわゆるネゴシエーションで、筆者自身が得手と思っているものでもありませんが、それでも相手に応じて話の出し方を変える誰を落とすためにはまず誰を落としておくとか頭を働かせるものです。
これは「指示された作業を行う」ことが仕事と考える若手向けに付け足した記述ですが、我々の仕事とはそのように技術と人間から成るゲ−ムなのです
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■ITを仕事にする方への原理原則指南

最後におまけとして、最近多いと思われるIT関連の仕事をしている方向けに、コンピューターシステムを構成する全体のイメージを載せておきましょう。
あくまで外から見たイメージではなく、それを作り動かす仕事をする立場から見た、内部から見たイメージです。

そこにもやはり、全体があり、各部の役割があり、課題があります。それを知ることは、今自分が行う仕事の根本的な目的を知り、課題を知ることです。
これは仕事の現場そのものの中では示されることがない一方で、その人の仕事のスキルを決定づけるとも言える視野です。

まずはその絵を下に。
http://tspsycho.k-server.org/img/it_flow.jpg


■結語

2つの絵を出したように、社会行動の原理原則としての「根本目的を知る」とは、我々の社会を構成しているものの全体と各部の流れを知るという、極めて実務知識のことを言っています。
全体があり、各部分があり、課題があり、その先には時代の流れがつながってきます。
仕事の場における「信頼」というのは、そうしたものを学び実践する姿勢に対して向けられるものです。

これは勉強あるのみです。精神論じゃーございません。

重要なのは、全体があり各部分があり課題があることが分かってくると、仕事における「向うべき相手」は、目の前の誰これ、特に直接自分の上にいる人間じゃーなくなってくることです。
もっと大きな全体が向うべき相手です。
上司からの些細な評価や言動に揺らがない精神的安定というのは、その姿勢によって生まれるものです。

No.904 2006/02/10(Fri) 13:18

島野のビジネススキル講座-3 / しまの

続き。

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2)会計簿記
補足:これは「企業でより上を目指す」方一般に有用な話。

アプリケーション開発保守を担当するSEにとり対象となる業務知識は必須のものですが、お客様およびシステムによりその内容は多種多様なもので、その都度必要なものを勉強するというのが一般的なアプローチになると思います。

一方、会計簿記企業ビジネスにとり共通のテーマであり、多くのアプリケーションに関係するため、自分の担当するまたは将来担当する可能性のあるアプリケーションに少しでも経理会計システムとの関連性が考えられるのであれば、SEの共通スキルと考え「簿記3級」レベルの習得はしておきたいものです。

補足:次の文章はちょっとIT業界ローカルの話
簿記つまり「仕訳」は典型的な専門技能でありそれなりの学習期間が必要なため、直接会計システムを担当するのでない限り勉強を考えるSEは少ないかも知れませんが、担当アプリケーション内に実際に仕訳の機能がありながら簿記を全く知らないでいる若手SEを非常に多く見かけます。
その結果、保守案件で仕訳に関係するものがある場合に全く話が理解できす、詳しい先輩SEの参画が必要になるという結果になりがちです。これはテクニカルスキルがあればSEの仕事ができると勘違いした結果、現実に仕事ができない状況に陥ったものと言えます。

また、会計簿記には企業ビジネスにおける業務の基本的な流れが反映されていますので、アプリケーション全体の構成や連携データの流れを把握するための基礎知識として広範囲に役立つものです。
例えば筆者が企業業務の流れを思いつくまま表現すると http://tspsycho.k-server.org/img/busi_flow.jpg
のようになりますが、正確度は別としてもこのようなイメージを自分なりに描き基準とすることで、お客様と様々な業務システムの課題についての会話が可能となり、お客様からの信頼へもつながるものです。
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企業業務の流れイメージ例をhttp://tspsycho.k-server.org/img/busi_flow.jpg
にUpしておきましたが、こうした全体を把握することはとても重要ですね。
なぜなら、我々が社会で仕事をする「根本的な目的」とは、そうした全体の中の役割を果たすことに、まずあるからです。

そうした全体の流れ、その中の各役割が分かってくると、次には、それに関連した社会の動きや課題という話題が視野に入ってきます。
我々が社会の仕事現場で、最も人とホットな話題ができるのは、それなんです。
例えば「在庫」という領域なら、今商品の流通とはどんな仕組みで行われているのか。大型ダンプが主役かと。趣味のスキーで車にETCを搭載していますが、夜間割引に備えて夕方まで待機して一斉に出発するダンプ軍団が最近多いようです。

「話題がない」とお嘆きの方は、一体世の人々がどんな話題に興じているのか見当がつかないという感覚さえ持つこともあるでしょうが、そうゆうのが実際なんですー。

No.903 2006/02/10(Fri) 12:33