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2006.05


自己操縦心性の成り立ち-81:自分自身からの逃避-17 / しまの

■自己嫌悪感情の種類と構造-3:深層嫌悪と表層嫌悪

自己嫌悪感情の分類の最後の軸はちょっと付け足しで、既に示唆している自己嫌悪の「構造」という基本的な考え方を説明します。
自己嫌悪感情は、深層から表層へと幾つものものが積み重なっているということです。それらは相対的に、深層嫌悪表層嫌悪という位置付けで捉えることができます。

例えば僕自身が馴染みの深い(^^;)例を出すと、内面にこもりがちだった少年時代を引きずる形で、声の出し方が今一自信がなく、日頃練習したりしているのですが、ちなにもこれも精神論ではなくちゃんとした技術があり「受動的呼吸法」という複式呼吸などがその例。

それはさておき、時折のどが詰まるような感じになることがあり、それを気にしていた時、「自意識が表れることへの恐れ」によって左右されるのを自覚したことがあります。
意識の表面で気にしているのは喉の詰まり感覚ですが、特に自意識を気にする相手場面ではない場合、声を出すとそれに流されるように喉のつまりも消える。しかし自意識を気にする相手場面をシミュレーションすると、声を発した瞬間に、その声に表れた自意識によってまさに、喉がさらに詰まるように想像されました。
「僕は自意識が相手の前で表れることを恐れている」と自覚する。

これは自己嫌悪感情が、それから逃れようとする自己操縦によって積み重なっていくという構造を説明する、分かりやすい例と思われます。ちょっと図示すると以下のようになります。

(対人回避)
  ↑さらなる防衛
  |
[表層嫌悪] 「声のなめらかさ」が失敗することへの嫌悪
  ↑逃れるための自己操縦
  |
[深層嫌悪] 自意識への嫌悪


こうした構図において、自己操縦へと強く駆られるほど、深層嫌悪は見えなくなり、その分が外化され、相手から嫌悪を向けられる不安として体験されます。そして本人の意識においては、その不安は自己操縦が失敗することへの不安として、つまり表層嫌悪の問題として体験されるというメカニズムになります。

一方、この自己操縦が解かれ得る状況では、深層嫌悪の自覚が、表層嫌悪を劇的に減少させる場合があります。上の例では、自分の不安の本当の問題は声のなめらかさにあるのではない、ということが自覚されるからです。
なお上の図ではおまけに、表層嫌悪からさらに逃避しようとする場合も記入しています。まあ全般的な対人回避ということになるでしょう。

そのように自己操縦を解くというのは、治癒効果をもたらす感情分析の技術を説明してもいます。
しかしながら、取り組み上の視点としては、感情分析の効果ばかりを期待するのは短視眼的であって、より大きな視点として、この場合は受動的アイデンティティ姿勢への取り組み(2006/04/23「自己操縦心性の成り立ち-63:受動型自己アイデンティティと憎悪-11」あたりを参照)などがまず必要であることを指摘できます。


■自己嫌悪の階層構造の中で愛は憎しみになる..

自己嫌悪の種類と構造についての説明の最後に、それが「愛を求める人間感情」というもうひとつのベクトルと絡み合って何が起きるのかを書いておきましょう。実際のところ、自己嫌悪感情が現実生活の中で問題となるのは、実際この形でということになります。

自己嫌悪の階層の積み重なりが多いほど、その人間は自分ではもはやはっきりと自覚できない理由によって、「自分は嫌われる」と感じるようになることを意味します。階層が2層3層と深まるにつれ、もはや「理由があって嫌われるのではない。自分という存在そのものが、嫌われる存在として生まれたのだ。」といった思考を持つようになります。

この状況で、心の奥底のある「ちょうつがい」のようなメカニズムが、自動的に、この人間の心の風景を異なるものへと折り返させます。
それは愛が自尊心課題の一要素だった状況を背景に、愛されないことが自尊心への傷つけ、つまり屈辱として体験されるというものです。
一方、「愛を求める人間感情」は連綿として持続することを考えるのが間違いではないでしょう。

この状況は、ほぼ自動的に、「愛することは屈辱」という感情連鎖を起こすということです。根底メカニズムは「愛されないことは屈辱」なのですが、「愛されない」はこの人間にもはや既決事項のように抱かれているので、この連鎖部分はもはや省略されてしまうわけです。

かくして愛することは屈辱であり、愛さないでいられることがプライドになるという人間心理が生まれます。強く惹かれることはそれだけ強い屈辱となり、相手への憎悪を同時に生じさせます。ストーカーの心理はこれですね。
そしてこの心の世界では、もし自分が魅力を備えるのであれば、愛させることが復讐になるのです。なぜなら今度は相手が屈辱を感じる側になるのですから。
しかし「愛を求める人間感情」の中に一片の真実があるのならば、それはこの心理メカニズム全体と大きな葛藤を引き起こします。

まさに小説に描かれる人間心理の機微は、これなんですね。その中で起きるドラマを描いたものは多数あれども、僕としてはこの心理世界からの根本変化をまたがったドラマを、いつかは純粋に創作ものとして書いてみたい、なんて目論んでいる島野でした。

No.987 2006/05/31(Wed) 12:08:37

自己操縦心性の成り立ち-80:自分自身からの逃避-16 / しまの

■自己嫌悪感情の種類と構造-2:嫌悪衝動の対象からの分類

自己嫌悪感情について理解するための次の軸は、「嫌悪する主体と対象」という構図における「対象」側の分類です。つまり、何を自己嫌悪するのか
この話は、漠然とした自己嫌悪感情の正体をはっきりさせ、自己不明感を解消するのに役立つ話になるでしょう。

精神分析フリークのように、自己嫌悪感情の正体を知る「知力」を価値と感じて感情分析する姿勢は、あまりお勧めではありません。「あばく」ことに意味があるのではありません。
受け入れるべき制約としてある、自分の中の悪感情を正しく知ることに意味があります。そこから正しい克服方法を考えるための、最初の1歩と考えて頂ければ。場合によっては、出口のない感情の痛みをただ感じることが、治癒の時間となることがあることを心得ておいて下さい。

嫌悪対象の分類としては、まず大きく外面事項についての嫌悪と、内面に関する嫌悪とに分類できます。
外面についての嫌悪や軽蔑については、あまり詳しく切り込むのに値する話ではありません。外面についての好悪や優劣比較は、内面についてのそれと切り分けるならば、比較的自然な人間感情としてあるものであり、後はいかに自分の趣味嗜好や目標に合うものを得ることができるかです。

心理障害で複雑に問題になるのは、内面に関する嫌悪軽蔑です。なぜなら、その結果感情の操作という自己操縦、および自己嫌悪からの逃避のための自己離断などの問題が起きるからです。
そしてほぼ例外なく、内面に関する嫌悪軽蔑は、その正体を明瞭に意識されないまま、外面に関する嫌悪軽蔑に重ねられ、もしくは外面に関する嫌悪軽蔑の形を借りて、体験されます。
これがこの心理過程にある人間の外面生活が動揺と混迷に満ちたものになる、外化の問題に匹敵する大きな原因とも言えるでしょう。


そうして、外面についての嫌悪軽蔑と感じていたことを、純粋にそうであるものと、内面についての嫌悪軽蔑を、感じ分ける。実際にはまず後者を感じ取ることで、自然に前者についての感覚が変化が起きるという形になります。より自然な欲求へと。
これは感情分析で行なうことの本質と効果を言っている、最も大きな要の話の一つです。
感情分析ではあとは、一つの感情を複数に感じ分け、異なる対処姿勢を取るというのが大きな要ですね。

余談になりますが、性衝動の感情分析はこれと似た形で、「浄化」の方向への劇的な変化を起こし得るものです。自然な生理的衝動としての性欲の姿に化けた、皮相化荒廃化した愛情要求を感じ分ける形になります。
これは僕自身も体験しており、通俗的興味も惹くような(^^;)話でもありますので、ぜひまとまって本に書きたい。
「浄化された性欲」というのは、ちょっと驚くほど「爽やか」で貪欲性の少ないものであり得ると考えています。まこれは抑えるのが大変な発情期(^^;)という限界もあるかも知れませんが。

さて内面に関する嫌悪軽蔑は、主に3種類のカテゴリーになると思っています。
今回は細かい具体例はめんどうなので省略しましょう。またの機会に。ここでは心理メカニズムの本質部分をごく簡潔にまとめます。
この3つのカテゴリーは比較的心の表層面という、行動や感情の特徴としても現れるものから、もはや全く思考感情行動の表面では認識され得ない、深層の心理状態についてのものへという、深層度によるカテゴリーです。

1)性格嫌悪
思考感情行動などの、目に見える態度振る舞いの特徴に関する嫌悪軽蔑。いわゆる性格面の嫌悪軽蔑です。

これは心理メカニズム的には、残存愛情要求とプライド衝動の衝突によります。自尊心という心理課題の損失により、愛されないと自尊心が保てないという心理状態と、愛されなくても自信を持てることへの要求という、完全に衝突する心理要求が発生しますので、一人の人間の中に、この双方同士への自己嫌悪軽蔑が起きざるを得ません。
これは例外のない必須メカニズムで、必ず起きます。あとはどっちが優先となり他方を意識上で殺すかというシーソーゲームだけです。
プライド衝動から残存愛情要求は、いじいじしためめしさ、主体性のなさという感じで軽蔑されます。
残存愛情要求からプライド衝動は、自己中心的利己的なエゴイズム、ナルシズムという感じで嫌悪されます。

取り組み姿勢としては、この自己嫌悪を「どうにかしよう」として他方に揺れるのを繰り返すのではなく、答えは、良好な人間関係への行動学や真の自信確立のための心理学といったう異なる話にあることを理解し、実践することが重要です。

2)ニセ嫌悪
「自己否定に立ちなるべき自分を掲げる」という自己操縦という生き方と同時に始まる嫌悪軽蔑です。
ニセモノを演じて利得を得ようとするものへの嫌悪軽蔑。見せかけ、見栄張り、知ったかぶり、いい年して、身のほど知らず、etc。

自分がニセモノだという自己嫌悪感情は、自己操縦という生き方によって基本的に生まれる自己嫌悪です。
(参照:2006/05/12「自己操縦心性の成り立ち-70:自分自身からの逃避-6」の「自己操縦によって新たに加わる「自己操縦への自己嫌悪」」)

しかしながら、自分自身に向けられたニセ嫌悪の最も根底部分は、意識体験できません。通常は、他人のニセへの嫌悪として積極的外化されます。この防御が自己操縦心性の硬い殻の正体です。
防御が少し緩むと、「自分はまがい者」だという自己嫌悪感情が起きる場合もありますが、これはどちらかというと見下し嫌悪であり、やや装飾(?)されたものです。否定型価値感覚の放棄によりかなり減少するものです。
防御が崩れた場合、次の「存在嫌悪」の様相の強い、幻想的自己嫌悪感情が放出されます。感情の膿、「アク毒」の放出であり、これが自己操縦心性の崩壊です。

3)存在嫌悪
「自己操縦しているニセ」のさらに根底に存在する、その人間のあるおぞましい特徴という類の嫌悪軽蔑です。先の「出来そこない嫌悪」における、人間の内面性についての感覚が、この深層の嫌悪から供給されると言えるでしょう。
具体的には、自己空洞退廃性陰湿性といった感覚への嫌悪。この軽い表現は「キモい」としてポピュラー(^^;)です。

人間に向ける嫌悪というよりも、得体の知れない気持ち悪く忌まわしいものへの嫌悪、という感じになります。化け物か幽霊を見るような目が、自分もしくは他人に向けられる嫌悪。
というよりも、実は化け物や幽霊といった観念の方が、この人間の脳のバグとも言える嫌悪感情がまずあって、生み出された観念に過ぎないと考える方が正しいように思われます。


■「壁」を越えるための「第2の根本選択」

心理障害傾向の中で人を煩わせる、意識にまといつく嫌悪は、まず上記「ニセ嫌悪」「存在嫌悪」によるものです。
これが何故あらゆる前向き思考の努力にもかかわらず維持されるのか、その根本的克服消失のメカニズムとは何かについて、ハイブリッドが人間心理を探求した最後の根底に見出した「アク抜キ」「アク毒」という操縦心性の硬い殻、そしてそれが突き破られる自己操縦心性崩壊のメカニズムが説明することになります。

あと一つ自己嫌悪分類の話をした後で、いよいよその説明に入りましょう。

いずれにせよ、それが自分についてのことであれ他人についてのことであれ、そうした嫌悪感情が意識の中に垣間見えるとは、その根底に、全く意識には見えることのない大きな暗黒領域が潜んでいることを思わせます。
その状況において、今の自分で見えるもの感じられるものだけを念頭に置いたものの見方考え方をしていては、根本的変化への方向性が視野に入るはずもありません。暗黒領域が作り出した意識土台の上で、暗黒領域を維持する思考をしているに過ぎません。

これを越えた、暗黒領域を込みにした自分の心理状況の把握が必要になるのですが、そのための説明はこの後行います。
そうした専門的理解以前のこととしては、まずはそうした「おぞましいもの」という感覚が、一体現実の何にどう対応しているものなのか、という客観的、現実科学的な目を持つことの重要性を指摘しておきましょう。

ぞっとする感情を感じる。それはその感情が向いた相手が、現実におぞましい影響をもたらすものなのだ、という「感情立脚型」「感情による決め付け」の思考をするか、それともそうした感情と現実とは全く別のものだという視線を持ち、現実については科学的・原理原則的な思考をするか。

最近の表現では「根本選択否定型価値から肯定型価値への転換にある」と言っていましたが、上記の「選択」もかなり「根本選択」として重みを持っているのを感じます。「感情立脚思考から科学的原理原則立脚思考へ」ということで。
ノウハウのひとつと位置付ける「悪感情への耐性」は、その選択を支持する各種の思考法や心の姿勢を説明するものになります。

なぜ僕が根本変化できたか。徹底した現実科学思考によって「得体の知れない恐怖」を克服した姿勢を、世の一般の人々と歴然とした差を感じる形で持っている。それに依存するところが大きいというのが実感です。自己操縦心性の崩壊によって起きる悪感情を越える基本的姿勢というものですね。幽霊とか心霊現象とかの観念や恐怖感、一切なしという姿勢が結構鍵になっているかと。
(参照:2005/06/17  「異形」の起源と受容)

言わば、価値感覚における根本選択は、意識土台の上で動く「正のメカニズム」における変革のため必要となるものであり、感情立脚思考を捨てるという根本選択は、意識土台そのものを変える「負のメカニズム」における変革のため必要となるもといえるでしょう。
(「正のメカニズム」「正のメカニズム」については2006/05/17「魂の成長の成り立ち-1」参照)

No.986 2006/05/30(Tue) 15:29:53

自己操縦心性の成り立ち-79:自分自身からの逃避-15 / しまの

■嫌悪感情とは「何が問題なのか」

引き続き自己嫌悪感情の分類を書いて行きますが、再び、それを知って自分をどう見ればいいかを簡潔に記しておきます。

「知るだけで何もしない」が基本です。「どうにかしよう」とすると、まず方向を反れます。
例えば自分の卑下追従傾向への自己嫌悪を感じて、それをどうにかしようと「人のことは気にしない」なんて考えると、今度は離反態度に傾き、「人間性の温かみがない」という別の自己嫌悪のサヤに座るだけのことでしかない感じになります。
実際、自己嫌悪の内容は、どう矛盾しているかを一生懸命解明するには及ばない(^^;)、どっちにしろ四方八方、360度のスポーク状態で起きているのが実体です。

自己嫌悪をどうにかするのが方向性ではなく、外界現実に対処するために全く別の修得ノウハウ領域があるのであり、まずそれに努力を向けることです。建設的行動法原理原則立脚型行動法です。
そうして外界現実に対処する上の安心感を持ったうえで、より本格的な感情分析をするという順序を基本に考えておけばいいでしょう。

そうした取り組み順序を知ると同時に、より大きな視点で、自分をどのような変化へと導いていくのかを考えるといいですね。
その視点から多くの方が嫌悪感情に関連して「実際のところ何が問題なのか」を考えると、次の2点が際立っていることをお伝えしておこうと思います。
それは何か大きな勘違いもしくはあらぬ方角を向いている姿です。それをまず捉え、方向修正を図るのがいいですね。

1)外化を現実であるように反応してしまうこと

自己嫌悪の外化、つまり人に嫌われるという感覚(消極的外化)、および特定の人が嫌いだという感覚(積極的外化)を、現実の人々との間に起きていることであるかのように感じて反応してしまうものです。現実の人々との間に起きていると感じると、怒りが起きます
そしてそれによって、つまり心理障害傾向が原因で不可避な嫌悪感情によってではなく、心理障害傾向の問題ではない、それを現実と見なす姿勢によって、人との間での現実的緊迫関係に置かれてしまっていることが、問題です。
つまり、対人関係が困難な状況にあるのは、考えすぎでも気のせいでもなく現実でしょうが、それは障害感情のせいではなく、その後の、障害感情を心の内部のことではなく現実の人々に映して反応してしまうことによります。

まずはこの姿勢が修正されれば、現実的緊迫関係はなくなります。まあ障害感情を抱えると辛いこと自体は何の変化もありませんが、この人の心の状況全体はこれだけで大きく変わります。

ただし、「外化した自己嫌悪感情を現実他者との間のこととして反応してしまう」という問題は、純粋に心の姿勢の問題ではなく、「現実覚醒レベルの低下」という心理障害の症状に強く関係します。空想イメージが現実を凌駕してしまい、空想と現実の区別がつかなくなる状態です。

それに飲み込まれたら、ハイブリッドのような純粋に心理学的アプローチでは、打つ手がなくなります。

2006/01/31「自己操縦心性の成り立ち-35:現実離断とは何か-4」「夢に理性を送り込む」という話をしましたが、このことを言っています。現実の人々との間の嫌悪感情を、いかに心の内部だけで起きた事象として、現実と分けて考えられるか。
より具体的には、「自分の中にまず感情があり、無関係であり得る他者にそれを投影している」という客観的構図を、自分自身に当てはめイメージできるか。

これは「強くキモに銘じる」ことをお勧めしている数少ない事柄のひとつです。ハイブリッドを学ぶ意志があるような場合は理性力も強いと思いますので心配はないと思いますが、こうした姿勢が全くないまま、僕から見て十分治癒可能レベルの心理障害傾向であっても、やがて現実生活状況の悪化の中で、精神病様レベルにまで悪化する人というのを、何度も見かけています。
心理障害の重篤化と治癒化という大きな方向性を分ける境目が、この単純な姿勢の有無にあると言っても過言ではないと感じています。

2)現実において生み出すことの少なさ

嫌悪感情が湧き出てしまうこと自体は、障害傾向の結果不可避として、何が問題なのか。
その2つめは、この状態からの根本治癒変化を目指す上での、より積極的課題という面からの不足が何かという視点から言えると思います。

5/26「自分自身からの逃避-12 」でも述べたように、根本的治癒成長への道のりとしては、「不完全性の受容」による否定型価値感覚の放棄の結果、「見下し型嫌悪」が劇的に減少するというのが大きな道標になります。

このための要件のひとつは、上述の建設的行動法原理原則立脚型行動法です。これは基本的に、否定できることには価値を置かず、「生み出す」ことに価値を置く行動法です。
もうひとつの要件は、というか、あくまでこれが「不完全性の受容による否定型価値感覚の放棄」になるのは、行動法の修得というレベルではなく、価値観全体の変化というレベルの意識変革が要件と思われます。
価値観変革については2005/09/26「ハイブリッド心理学による価値観の根本変革-2」などで書いていますが、まだもうちょっと整理した解説が課題な領域ですね..。ま心理学本や小説続などでじっくり書いていきたい領域です。

でこれは単に知的思考法では不可能であり、感性のレベルで、肯定型価値感覚が多少とも用意されないと難しいのではないか、というのが僕の予想です。
しかし心理障害傾向の中でまさに、それが妨げられる心理メカニズムの流れがあるわけです。障害傾向が重ければそれだけ、治癒を促す要因が先回りして破壊されるような様相になってきます。

これに対してもあまり魔法のような特効薬はなく、ハイブリッドのというか心理障害治癒そのものの限界が課されてくる、上述の現実覚醒レベル低下の問題に続く2番目の要因だと思います。

これは結局、知性によって肯定型価値感覚の芽を積極的に探す方向に導くしかないと思うんですね。喜びや楽しみという感情を見出せるものを実際に持つことが重要になってきます。
詳しくはまた後でまとめますが、まず、「いいことなんてない」と言った「決め付け」をしないことです
次に、「理性で望みに導く」。これが結構色んなノウハウが出てきます。ひとつは「望む感情」にあまり頼らずに、ちょっと科学的な目で、自分の資質や能力から、やってみると楽しい可能性のある事柄を考えるなんてのも出てきます。
最後に、「積極的に不幸になるとうする」感情への取り組みが必要になるかも知れません。「楽しいこと」が出てくるとかえって困るような心理があるものです。感情分析の領域。

まそんな風にアプローチは沢山あるので「心理障害治癒そのものの限界が課されてくる要因」などとは考えますが、ハイブリッドの取り組みを進めた先のことについては、僕としてはどんな人でもという結構楽観的なものを感じているのが実感です。
人間が本性として持つ「望み」はそうやすやすと死にはしないんですね。「魂の成長の成り立ち」の方で具体例なども話そうと思います。

No.985 2006/05/29(Mon) 12:09:03

最初の書籍『悲しみの彼方への旅』完成\(^^)/ / しまの

ダイジェスト小説としてサイトでも一時公開したものが、このたび製本まで完成し、いよいよ販売開始に向けての準備に入りました。
題名は『悲しみの彼方への旅−わが内なる人格障害から健康な心への道−』です。

書店での販売開始は7/1注文は6/20あたりから可能の予定。それに先立ち、サイン入り初版本の販売を期間限定で行なおうと思います。
詳しくは今後のサイトトップページでお知らせしますので、ぜひよろしく。サイトの方もこれから順次、書籍紹介中心の形に変えていく予定です。

No.984 2006/05/28(Sun) 15:08:17

自己操縦心性の成り立ち-78:自分自身からの逃避-14 / しまの

■自己嫌悪感情の種類と構造-1:嫌悪衝動の根源からの分類(3)

(4)出来そこない嫌悪

嫌悪衝動の由来という視点での分類の最後は、心理障害の病根の核とも言える自己否定感情で、とりあえず「出来そこない嫌悪」と呼んでおこうと思います。

基本的特徴としては、今までの3種類の嫌悪がまだ「人間的」な嫌悪であるのに対して、この「出来そこない嫌悪」では、「人間にあるまじき」悪しきもの、という感覚が特徴です。得たいの知れない、異形なる獣。「うじ虫」といった表現がポピュラー(^^;)。

嫌悪衝動の源泉としては、説明済みの3種類の嫌悪衝動の全てにまたがるものと言えます。見下し型嫌悪はこの嫌悪に強い破壊性を帯びさせ、現実貧困嫌悪はこの嫌悪が現実の自他に関する嫌悪なのだという感覚を帯びさせ、そして原嫌悪はこの嫌悪の基本的意味内容を供給しています。

しかしながらそれ以上に、明らかにこの嫌悪の源泉として感情の膿が大きく働いています。幼少期に体験した悪感情の中でも、意識体験の許容範囲を越えた、何か身の毛もよだつものという「色彩」だけが切り離され膿のように凝縮されて脳に蓄積されたという現象です。思春期以降の人格に感情の膿が組み込まれることにより、自分への否定的出来事に反応して起きる感情に、その身の毛もよだつ「色彩」が付加されるという仕組みです。

ここに、人間の感情の「闇」というものの正体があると考えています。愛と憎しみの中で至る殺意、幽霊や超常現象への恐怖、そして現代社会人に蔓延するストレス、そういった人間の心の闇の側面の根源が、そこにあります。
命が生まれ、愛により育み、次の命へと伝えていく。この生来の命の営みの中に混入した歯車の狂いが、この心理現象に凝縮し収束するんですね。
2004/11/12「自己操縦心性のついたウソ-8:最大ポイントの前に雑感」で述べましたが、「宇宙の愛」に守られて育つ子供の心という100万年以上の時間をかけて培われた脳のプログラムにおいて、親が子供を愛さないという異常事態が起きたわけです。

その結果子供の心に生じる感情の論理とは、つまるところ、「宇宙の愛」で自分を守るべきだった親がそうしなかったことへの怒りであり、そうされなかった自分はこの世に生まれてきたこと自体が間違いだった、人間と呼ばれるに値しない、出来そこないの何かではないのかという、「全破壊的」な自己否定感情です。

この最も毒に満ちた否定感情に対して、人間の脳はさらに2つの方向のプログラムを兼ね備えたようです。
一つは、それがこの現実世界の中で自分や他人そして社会の中にある、何かの破滅を表しているものだと見なし、それに出会わないことを至上命令として防御しようとするプログラムです。
そしてもう一つは、この毒に満ちた感情が現実世界の何を示すものでもなく、心の内部、脳の内部でのみ起きた現象と見なし、それに惑わされない強さを獲得する中で、この毒が根本から消滅に向うというプログラムです。
どちらを取るか。これが、人間の心の成長における最大の選択の、「脳のプログラム」という視点からの表現と言えるでしょう。


その防御プログラムの中で最も強力なメカニズムが、先に説明した「自己離断」だと言えるでしょう。その本質は、「自己の放棄」です。自己による望みを切り捨て、人の望みを基準に生き、自己による自己確立を放棄し、他者の目を通して何者かでいようとする。
実際のところ、望みに背を向ければ、我々はそうした毒々しい自己否定感情の膿を体験することを、避けることができます。なぜなら、その感情論理は「望むものから自分は排斥される」であり、望まなければこの感情を非活性化できるからです。

自分からは望みに向わず、人が望むことが自分のやりたいことであり、人の気持ちを理解し思いやれることが目指す心であり、そのための努力は報われるべきだという考えの中で生きる。問題は「努力する心」の問題であると。
そう考えて生きるなら、「自分」は自分で築くものではなく、外から与えられるものになります。「努力する心」が足りない「甘え」「我がまま」のせいで人々に見捨てられるという恐怖と悲しみと怒りにさいなまれても、自分が出来そこないの化け物だなどという感覚は、世界や他人が間違っているのです。

ただし話はそれでは終わらず、問題は、「望みの停止」によって情動の皮相化と荒廃化が起きることです。この結果芽生えた「欲望」は、それ以前の「望み」に比べて、一段階押さえるのが難しくなっています。なぜかと考えるならば、「望み」とその障壁となる「恐怖と怒り」はまだ別物だが、「欲望」はもはら恐怖と怒りをその中に飲み込んでいるからと言えるかも知れません。
いずれにせよ、「望まない」ままでは済まない。皮相化荒廃化した衝動が流れるのを止めることはできません。

この状況で用意される特別のプログラムが、「アク抜き」という奇妙な言葉で呼ぼうとしている心理メカニズムであり、抜かれたアクによって感情の膿がさらに「アク毒」になるという、実に奇妙難解な心理メカニズムです。
これはこの後説明しますが、「出来そこない嫌悪」という、嫌悪衝動の最後の根源タイプの自己否定感情は、幼少期に蓄積した感情の膿のオリジナルではなく、「アク毒」と化したものが意識に触れた時の感情ということになります。

ハイブリッドの心理障害メカニズム理論の究極の核部分が、「アク抜き」と「アク毒」であり、自己操縦心性の崩壊というのもその上で考察することになるのですが、ここに来て、今までもかなり難解と感じながら理解頂いたメカニズム理論が、もはやてんで分からないもの(^^;)になってきたと感じる方も多いのではと思います。
まあ全て容易に理解できる心理メカニズム理論で全てが完結するのであれば、根本変化も簡単で分かりやすいものとして起きていたでしょう。でも実際はそうではないというのが、僕の知る範囲です。自分で導くのは極めて難しく、何が起きたのか訳分からない形でしか、根本変化は起きていないです。どんな分かりにくい姿でそれが起きるのかを解明することで、そこに向える可能性を増大させるのがハイブリッドの目標です。
「アク抜き」と「アク毒」についてはまたこの後で。

この最も毒に満ちた自己否定感情を越えるために必要な2つの杖は、明確です。
既に述べているように、一つの杖は原理原則的な思考と行動による強さを、自分の強さとして立つ意志です。これは加えれば、かなり強固な現実科学的なものの見方考え方を添えることが極めて重要でしょう。
そして一つの杖は、「神の国」から「放たれた野」へという、魂の成長の「摂理」に従うという意志です。これは「魂の成長の成り立ち」でもう少し詳しく解説する必要がありますね。

そして最後に、この2つの杖が自動的に、この毒ある自己否定感情の向こうに我々を運んでくれるのではありません。この2つの杖を携えて進むという、明確な意志が重要になると思います。
これこそが「未知への選択」の本質です。人間が根本的に変化し得るということ。それがこのような心理メカニズムの先に起きるということ。その後に生まれる未知なる自己は、この現実の中においてより多くのものを生み出すことができること。

その理解と意志の下で、進む。より具体的には、「自分を望みへと導く」ことです。この方向性の説明は「魂の成長の成り立ち」で行ないます。
ここでは引き続き、自己嫌悪感情の理解のために必要なポイントの解説を続けます。

No.983 2006/05/28(Sun) 14:59:41

自己操縦心性の成り立ち-77:自分自身からの逃避-13 / しまの

■自己嫌悪感情の種類と構造-1:嫌悪衝動の根源からの分類(2)

3)原嫌悪

「原嫌悪」という概念を考えるようになったのは比較的最近で、最初にそれを考えたのは、自己嫌悪ではなく他者への嫌悪の中にある「原嫌悪」ともいうべきものです。
それは残存愛情要求の中で起きる、「悲しみを踏みにじる皮相への憎しみ」に関連して、「そこには真実が含まれている」と言った部分に該当します。
(2005/08/06「残存愛情要求とは何か-6:皮相な粗野への憎しみ」)

「原」という形容詞をつけたのは、その感情が、他の何の心理メカニズムの結果でもない単独純粋な感情として存在し、かつその感情の現実性妥当性を「障害感情」として切り捨てることはできない、真実性を持つように思われる感情ということでです。
我々の幼少期に、皮相な大人の心があった。それはおそらく事実であり、我々が心の真実というものを求めればこそ、そう認めることが正しいように思います。

我々はそれを「許す」べきかどうかという問いに、心理的健康度という尺度での答えはありません。「心理的健康度」を主に現実からの乖離の少なさ、そして人間の本性からの変形の少なさを主な尺度とするならば。
ハイブリッドはそれを「許す」べきかどうかという道徳的概念は使わず、魂の成長にかかわる「摂理」という視点から、それを人間の限界として受け入れることを、進む道として呈示します。これは「選択」です。詳しくは「魂の成長の成り立ち」の続きで。

同じような「原嫌悪」が、自己嫌悪についてもあるようです。僕自身がそれを見たのはごく最近のことで、それまでは純粋な形では見ることはできなかったと感じます。見えるのはもっぱら見下し型嫌悪現実貧困への嫌悪だったんですね。
そして多くの自己嫌悪感情は、「不完全性の受容」の姿勢の中でとげとげしさを減らす一方、現実面の向上努力が幾らか実を結ぶ中で、原嫌悪も「不完全性の受容」の許容範囲内のことであるかのように、意識の前面には上がってこなかった。

しかし真実の感情を追及する中では、「ある」ものはいずれ見えるようになるようです。
やがてそれは見え、それを通過することになるのですが、その後にはやはり今までそうだったように、感情の基調がさらに上昇し、未知の感情が現れる。
だが今度の「未知」は、さらに今までの未知とは異質な次元になっているように感じます。一言でいえば、今までは主に「開放」「自由」「自己の強さ」という尺度での未知だった感がありますが、今度のは「愛」においてです。やはりここに戻ってくるんですね。もちろん「求める愛」から「湧き出る愛」という、既に見た変化を越えて、「湧き出る愛」におけるさらなる未知です。
人間の根本変化の可能性に宇宙の尺度のようなものを感じ始め、自分はまだまだだと感じ始めたのは、こうした変化を経たごく最近のことです。

そうした変化の通過点として、やはり、今まで見えなかった自己嫌悪への対面がある。これはもう果てのない道のりのような感じがしているわけです。

変化の尺度を、ある段階で「感情の安定」から「望みへの接近」に変える必要がある、と言いました。根本変化を続けたいならば、です。
取り組み初期では、感情動揺に否応なくつき動かされる形で、一定の安定までへの向上は比較的容易に達成されます。まあ容易にとは言っても世の心理時勢の中では快挙でしょうが。
しかし根本変化が手術に例えられる感情の動揺を経ることは、どこまで行ってもそのようです。感情の安定を第一とした時、変化は止まり、やがて残った心理障害の芽の自己膨張で、結局感情動揺に戻る。
「選択」はそれしかないようなんですね。歩み続けるか、止まるか。

この後、嫌悪の「対象」という軸からの分類の話をしますが、結局何が最もとげとげしい自己嫌悪が向けられるのかというと、「自己嫌悪にとらわれていること」だったりします。パラドックスです。自己嫌悪のあることを最も嫌悪し、自己軽蔑があることを最も軽蔑する感情があります。
これは主に見下し型嫌悪と原嫌悪の合成結果である「出来そこない嫌悪」として、心理障害における自己嫌悪感情の大きな核とも言えるものになります。純粋に心理的要因の自己嫌悪という色彩が強く、比較的外面の恵まれた人間においてさえ心理障害が執拗に維持される最大の原因ともなるものです。これはこの後説明しましょう。

その克服のためには、否定型価値感覚の放棄という見下し型嫌悪の克服を超えた、人間の存在様式にかかわる理念とでも言える領域における、明確な意志が必要なように思われます。
それは原理原則的な思考と行動による強さに立ち、神の国から出て放たれた野で生きようとする意志です。

ちょっと精神世界的な表現ですね。今回は断片的な解説に終わると思いますが、可能な範囲で「魂の成長の成り立ち」の続きで説明しましょう。

原嫌悪とはどんな嫌悪か。定義はなかなか難しい感があります。高みから見下すのでもない、外面現実における貧困ではない、人間の心のありかたについての嫌悪とでも言えるものです。人間の心の歪みの根源的姿があり、それに向けられる嫌悪があるとでも言えるでしょう。
一言でいうと、「歪んだ意識」への嫌悪という感じですね。ただそれを我々が感じる時、大抵見下し嫌悪や多少の現実貧困嫌悪のベールに包まれています。こっちの2つは明瞭な心理学的解決方向がある一方で、それでは解消できないまま残る部分が「原嫌悪」だということになります。

原嫌悪の克服解消は、魂に委ねられます。ここに至り、ハイブリッドとしても「こうすればこうなります」という原理説明のできない、深淵な領域になります。
言えるのは、上述の原理原則的な思考と行動による強さに立つ」ことと「神の国から出て放たれた野で生きる意志」の中でそれを魂に委ねた時、それは根本的に消滅に向うと思われるような現象を、僕としては自分自身の中に感じ始めているということだけです。
そしてその後に現れる「未知」とは何なのか。一言でいうと「包含愛」とでも言える、未知なる感情です。詳しくは「魂の成長の成り立ち」の続きで。

明瞭な心理学的解決方向がないことに対応してか、原嫌悪は、その体験においては「救いのない」という感覚の中で体験されるのが特徴のようです。
人知を超えた神がそれを救うという観念は、人間の心に強く響くものを持っています。実は「神の国から出て放たれた野で生きる」僕でさえもが、最近それを感じているのです。自分は「放たれた野」で生きる。でも死ぬ時は神の国に帰るのだ..などと。

スピリッッチュッアルーな解説(^^;)はそのくらいにして、僕がそうしたものを感じた体験を日記から紹介しましょう。
2006/05/12「自己操縦心性の成り立ち-70:自分自身からの逃避-6」で紹介した体験の続きです。魅力ある女の子を前に、何か冷めた空気が向けられると感じたのは、望むような親しげな自分を演じることができないことに対してではなく、そう自己操縦しようとしている自分自身に向けてなのだ、と自覚した体験です。その時はその自覚が、冷めた空気の感覚の消失につながっています。自己軽蔑の自覚によって、その外化が消滅したんですね。しかしちょっとヘコんだ気分はそのままです。

その翌日、その時の様子を日記に記している中で、外化は解けた中で残ったヘコんだ気分の続きが現れます。外化が消失した際の自覚内容についての記述部分から引用しましょう。

 彼女との間でどうも何か冷めた空気が流れがちだと気にする感覚が、自分の中に流れているのが僕は気になっていた。僕は彼女に対して親しそうな表情や態度を取れるだろうかと気にする。しかし彼女はそう気にしている僕への軽い違和感と軽蔑感を抱くのだ、というような構図ができているのを感じた。そこには、自分だけを見て相手を見れていない人間の姿があった。その姿を嫌悪しているのも、また自分なのだ。その嫌悪が外化されて体験される。
 そのことについて今日考えていて、浮んだイメージは、彼女の前で「こんな自分なんて嫌だ〜」と泣いているような自分のイメージだった。それは誰にも受け入れられる可能性もない、救いのない姿だった。いや、救いのない姿だという、感覚があったのだ。その感情の中で、神に許されることだけに救いがあるというイメージは、何か強い安堵の悲しみを湧かせる感のあるものだった。
 許され、受け入れられることに意味があるような「罪」を、その人間は持つことになる。自分を受け入れることができず、心を開くことができないことが、だ。残存愛情要求において、ということになるだろう。残存愛情要求においては、自分を受け入れ、心を開くことが、あるべき姿となる。そこには真実と非現実の混合がある。


この体験あたりから、僕が「原罪」という言葉を浮ばせるようになった次第。
またこの後、そのように自己操縦が解けたとも言える沈んだ気分の中で、どうも人に接する意欲がそがれるのを書いています。これも心理障害感情の最も核にある自己嫌悪の特徴について何かを伝える文章になると思いますので、続けて紹介しましょう。

 ・・(中略)・・今まで自分が取っていたほがらかな様子を、今の自分では行なうことは無理がありしたくないという感覚だ。嘘がばれた顔で人に会う、という感覚か。そのためらいは、それまで“これが自分です”という感覚の中で人に示せたと思っていた感情と、今の感情との食い違いが激しいほど、強くなるだろう。
 だが、“これが自分です”という感情とは別の感情が見えた時、そのこと自体が人を他者に近づこうとする意欲を殺す。心が自分の中に沈むのだ。
 書いていて、これは“愛の障害”ではなく、“自意識の障害”なのだ、とつくづく思えてくる。


その数日後の日記からも引用しておきましょう。この時期はどうも感情の膿が騒いでいた時だったようで、「自意識への自己嫌悪」についての一連の自己分析の中で、「原嫌悪」という概念が明瞭化された時期でした。
原嫌悪の根底にある観念とでもいうべきものに、思いが至ります。

状況としては、若い仲間達とのお喋りの中にどう自分が入っているかを気にする気分が、最近としては珍しくその時流れるのを感じ、その仲間達と分かれたあとにどっと悲しい気分が流れたのを自己分析しています。

 その後車で自宅に向いながら、僕は何ともやるせない悲しみのような感覚を感じた。彼らとの会話で何があってこの悲しみがあるのではなく、この悲しみがあるから、さっき彼らとの会話が気になった。まさにそんな感じだった。(*1)
 そしてこの悲しみが何に対するものなのかと言うと、彼らとの会話をこうして意識する自己があるということ、友愛の中に渾然一体となっていない自己の存在、自意識の存在に向けられた嘆きのようだった。
 「原罪」という言葉が浮んでいた。嘆きや悲しみを解きほぐして行った先に最後に残るものということか。何を罪と感じるのかと考えると、それは何かの現実を嘆くのではなく、悲しみがあるから嘆くのだという考えに行き着く。満たされていないことを罪のように嘆くのだ。
 この対照には、「満ち足りよ」という命題があるように思えた。その命題が、いわば“究極の教え”であるのなら、満ち足り得ないという人間の不完全性が、確かに「原罪」なのかも知れない。


*1 これは「感情の流れの時間逆転」現象です。ここ最近ない自意識が現れたのを僕はその時いぶかったのですが、その後に悲しみの膿とも言えるものが現れた。感情メカニズムは意識体験とは時間を逆転した、悲しみの膿からの逃避が自意識として現れたというものです。

「満ち足り得ないという人間の不完全性」を受容するか。それとも、「なんじ満ち足りよ」という教えに従おうと、満ち足り得ない人間の不完全性を糾弾し続けるか。これが「選択」になるでしょう。

なお上記のような体験を経たあと、僕自身の人々への普段の感情としては、自意識の少ない自然な親しみ感情である度合いを、さらに増しています。

No.982 2006/05/27(Sat) 13:48:59

自己操縦心性の成り立ち-76:自分自身からの逃避-12 / しまの

以下で、「自己嫌悪感情の種類と構造」について主に3つの軸からの整理を行ないたいと思います。

自己嫌悪感情の描写そのものは淡々と行きましょう。自分にどんな自己嫌悪があるのかと切り込むというより、自分がそこから逃れようとするあまり、誤った方向を向いていたものがどうあったかを探るという観点で参考頂きたいと思います。

そうしたものが四方八方からあり、逃れ続けようとあっちを向いたりこっちを見たりを繰り返して自己不明になるのが人間というものです。その人間としての限界を受け入れた上で、見えるところから、自己からの逃避の来歴を逆方向に戻していくのがこの取り組みなのだ、と考えるのがいいですね。それが生涯続く向上の取り組みなわけです。
もちろん、克服への正しい方向性についても、それぞれ書いてみましょう。


■自己嫌悪感情の種類と構造-1:嫌悪衝動の根源からの分類(1)

まずは既に出した、「見下し型嫌悪」「現実貧困への嫌悪」「原嫌悪」という分類。
(5/22「魂の成長の成り立ち-3」)

これは「嫌悪する主体と対象」という構図での「主体」側の、自己嫌悪衝動の根源からの分類です。これが、自己嫌悪の正しい克服について全く異なる3つの方向性を分けるものになります。この3つの全く異なる方向性が理解されずに、不適切な方向や混同が起きたりすることが、自己嫌悪感情の克服が妨げられる恐らく最大の原因です。

1)見下し型嫌悪...自ら高みに立ち生み出している自己嫌悪

否定型価値感覚の中で、破壊型理想から生み出す自己嫌悪。自己嫌悪できる自分に価値を感じるという形を取ります。「自分のような何とか者が..」という謙譲の形を取ることがよくあります。

これは「捨てる」のが克服の方向性です。否定できることに自己の価値を感じる、否定型価値感覚の根本的放棄。「不完全性の受容」による「現実との和解」です。(5/22「魂の成長の成り立ち-3」)

ただし「捨てる」と言っても、自己嫌悪感情が苦々しいのを感じる中で「否定型価値観を捨てよう」と考えたところで、そうは問屋が卸さない安直な思考法になるかも知れません。自己嫌悪感情が苦いから捨てようというのは、まさに自己逃避の焼き直しに限りなく近いんですね。
あくまで、否定型価値感覚の根本的放棄は、否定型価値感覚の価値を純粋に感じ取る中でしか成され得ないのではないかと考えています。

では実際に苦々しい自己嫌悪感情に対して、どう対処すればいいのか。
既に言っているように、「何を求めているのか」を自分に問うことですね。何が自分になければならないと感じているのか。
もしくは、とにかく自分をめった切りにする「自分自身への優越感」という快感を求めているのか。その場合、それを捨てようなんてごまかしっぽい思考ではなく、その苦い快感の意味を十全に感じ取ることが正解かも知れません。あまりにも自分に自信が持てず、自分をこき下ろすことでせめてもの自尊心を得ているのかも知れません。そうやってせめてもの自尊心を得る代わりに、ますます自分を軽蔑に値する人間と自ら位置付けるわけです。そうした全体をしっかりと見据え、どうしたいのかを自分の魂に問うことかも知れません。
「悲嘆衝動」の甘さを目当てに自己嫌悪衝動に浸っているのかも知れません(2006/03/23「残存愛情要求とは何か-補足」)。本当に自分には立って歩く力がないのかを問うことが正解かも知れません。

最後に、そう言った視界さえ利かないような、身を刺すような毒々しい自己嫌悪感情に襲われる場合があるかも知れません。化け物のような出来そこないの自分という、幻想的な恐怖感情。
これは自己否定感感情の膿が放出される時の症状です。これはもう自己操縦心性の崩壊と理解し、何も考えずに痛みに身を任せるのがいいでしょう。痛みを取り除こうとするのではなく、自分が痛みそのものになるのです。実存は生かしたまま、精神は死に向う。それでいいのです。
これは根本変化の過程として必ず通る道だと考えていますが、取り組みによる心の基礎体力が事前に育っている程、乗り越えるのは容易になってくるものと期待しています。
(参照:2005/04/07 心の手術-3:操縦心性崩壊時へのアドバイス)

ざっと考え得る正しい方向性を書いてみましたが、「自己嫌悪感情を捨てる」という姿勢は、やはり皆無ですね。
ハイブリッドでは基本的に、「感情を正す」はなしです。感情が湧き出る大元の方に取り組みます。


2)現実貧困への嫌悪...現実的に起きている貧困状況に由来する自己嫌悪

その人が現実的に持つ欠点や短所についての自己嫌悪です。自己嫌悪衝動の根源として上記の「見下し型」と切り分けるならば、障害感情としての色彩を帯びない、ごく健全な人間感情としての自己嫌悪があり得ます。

現実貧困への健全な自己嫌悪感情は、それをバネに現実的改善努力をするしか、克服の方向性はないと考えています。そして恐らく真の答えは、目指す目標に到達することよりも、可能性と努力を尽くすこと自体にあるでしょう。可能性を尽くすことで「世界を知る」という新たな優越価値と、人間としての限界を受け入れた中での自分の唯一無二性を獲得した時に、「世界との調和」という最大の優越価値を手にするからです。
(参照:2006/01/16「自己操縦心性の成り立ち-25:背景その3優越による自尊心課題-5」)

問題は上記「見下し型」自己嫌悪がこの健全な自己嫌悪と混ざることで、それが問題を極めて紛糾したものにしてしまいます。
大きく分けて、暗雲の感覚が漂う中の過剰な焦りの姿になる場合と、ストレスに耐えられずに努力全てを放棄する姿になる場合があり、大抵はその全く両極端な姿の混合です。
一言でいえば、適切な加減というものが全くつかめない状態になります。両極端の狭間で翻弄されることへの疲労感が、しばしば人生への絶望感や自殺衝動にまで発展しまうことが少なくありません。

その状況への対処は。今考えるところでは、2つの視点が重要かと思います。
1つ目は、健全な自己嫌悪に混入している見下し型嫌悪を抽出し、それに取り組むことです。自分を見下すことで得ようとしているものを問う。そして上述の取り組み。
2つ目は、自己嫌悪を感じる事柄の、現実的な不利状況を客観的に認識し、それに対する現実的改善というものを、できるだけ感情は置いといて知的に考える。


取り組みの初期においては、上述の2種類の自己嫌悪の混在状態もさることながら、自己離断などの自己逃避症状の結果、自分が何を求めて何を自己嫌悪しているかさえ分からないような状態への取り組みから始める形になると思います。
ハイブリッドとしては、まず思考法行動法の改善から始めることで徐々に安全感や内面の力の増大を促し、それを足がかりにして自己不明を解いていく感情分析の過程で、見えなくなっていた自己理想や自己嫌悪に取り組むという道のりをまず考えています。

その過程を通して「魂の成長」がある程度進んだ段階で、「不完全性の受容」による否定型価値感覚の放棄という大きな道標も見えてくるのではと。否定型価値感覚の放棄は思考法だけでは不可能で、否定型価値感覚を捨てる代わりとなる肯定型価値感覚が、「魂の成長」によって多少用意されることが必要ではないかと考えます。

否定型価値感覚の放棄により、「見下し型嫌悪」はその後劇的な消滅に向います。同時に、それにより初めて、嫌悪することに価値があるのではなく、「真実の嫌悪」として背景に存在し続けていた「原嫌悪」への取り組みが可能になってきます。

No.981 2006/05/26(Fri) 11:27:46

自己操縦心性の成り立ち-75:自分自身からの逃避-11 / しまの

■自己嫌悪感情の種類と構造-はじめに

以下にて自己嫌悪感情の分類みたいのを書こうと思いますが、その知識をどう役立ててもらうかについて再度、感情分析実践の側面から書いておこうと思います。

まず、先にも言ったように、この知識によって積極的に自分の自己嫌悪感情を自己分析することで解消する、と考えると、まず方向を誤ることになります。
「自己嫌悪感情を解消しよう」とする焦りが、なによりも「自己操縦」を駆り立て、自己操縦が生み出す自己嫌悪をさらに増加させることになりかねません。
基本的姿勢としは、自己嫌悪感情そのものをどうこうするよりも、心理的成長へのノウハウを実践する中で自然とその克服に向うという方向性を体得するのが重要です。

そんな中で、自己嫌悪感情の種類や構造についての知識は、何よりも、自己不明感の解消のために役立てたいものです。
自分で自分の感情が理解できないという事態は、絶望感の大きな要因です。何がどうなっているのかが分かれば、大抵のことは我々は耐えられるものです。訳わかんないと、耐えられなくなる。
既にどこかで書いたかどうか、「絶望は問題の深さではなく解決の無知を示す」ものですので。

ただし、以下で説明する自己嫌悪感情の種類や構造を、全て今実感として理解することは不可能である、ということを申し添えておきます。
自己嫌悪感情の「構造」という言葉を使っているのはそれに関連します。それは来歴を通して積み重なり、また心理状況に応じて表面化するものは異なってくる、一部の表面しか一時点では理解できないものです。

たとえば僕のダイジェスト小説「僕は人に愛想良くする時、何よりも自分自身が嫌になっていたのだ」なんて言葉が出てきますが、この「追従への軽蔑」は、対人行動への前向きな気分の中では決して体験されません。今度は「対人関係の貧困」への自己嫌悪がバネのように意識されているでしょう。前者が意識されるのは、心理状況としては「感情の純粋さ」という価値を向いた時でしょう。

そのように、ある心理状況において、意識に表面化した嫌悪感情が自分で理解できれば十分ということです。
そうして断片的な自己理解を続けることで、やがて心の底で何かのつながりが感じ取られ、より大きな洞察につながっていくというのが感情分析です。

そうした自己理解の可能性についてハイブリッドとして表明したいのは、我々が心で煩わされる全ての嫌悪感情が、これから説明するような、自己嫌悪とその外化のメカニズムとして理解できるということです。
理由なしに嫌いと感じる、または嫌われると感じるのは、そう感じるだけであって、実際には必ず、はっきりとした理由のある自己嫌悪感情の抑圧と外化のメカズムが原因です。それはつまり、いずれ感情分析の道のりで全ての嫌悪感情が消える可能性があるものにすぎないということです。


もちろん臭い匂いが嫌いと言った単純な生理的嫌悪は論外です。またそれはあまり我々の気にするものではありません。単に遠ざければ、意識の視野から消え、心を煩わせることもありません。
そうではなく、意識につきまとうように、特定の他人が嫌いだという感情や、人に嫌われると言った感覚は、現実の他者との間に生まれていることではなく、自分自身の内部で起きている、自己嫌悪感情の外化です。

そうした自己嫌悪感情、自己否定感情は、人間のごく幼少期から始まっており、その内容も多様なものがあります。
これは人間という存在そのものの一つの業とでもいうものを感じさせます。かなりの根底から、自己否定と共に歩むのが人間という存在なのかも知れない。だから人類の歴史の中で、自然と、「神の許し」だけが救いという観念や、それを体系化した宗教というものが作られてきたのかも知れません。

その全てを感情分析のような心理学的取り組みで解除することが、この人生でできるだろうか。そう考えた時、僕としては無理かも知れない..というか、この歩みにおいてそのゴールというものを考えることさえ不適切であるような、底深いものを感じるのが最近の実感です。
やはりハイブリッドの基本命題ですね。「どうなれれば」という姿を目指すのではなく、方向性を知り、それを歩むことが重要だということです。

No.980 2006/05/24(Wed) 16:15:05

魂の成長の成り立ち-3 / しまの

■自己操縦から魂の成長へ

治癒成長の道のりを「魂の成長」という視点から俯瞰すると、「魂の成長」によってのみ成し得る道程というものが見えてきます。

何のことを言っているのかというと、我々が意識的に努力してできることと、意識的努力だけではもはや至れない変化の領域があるということです。もちろん、意識的努力で可能な変化が先にあり、意識的努力だけでは至れない変化が、その後の根本変化への道のりとして始まるという形になります。

これは、この取り組みにおいて、まず意識的努力を正しい形で行なうが、その先は意識的努力を捨てた、「魂に委ねる」という表現が似合う姿勢が必要になるという方向性を理解頂くのに、役に立つ話でしょう。

「魂の成長」という視点から治癒成長の道のりを俯瞰すると、一つの大きな節目を境にした、大きな2つの「人間の生きる様式」とも言えるイメージとして浮んできます。

1)自己操縦

まず我々の生き方の基本にあるのは、この自己操縦です。意識的に努力して自分を変える。

自己操縦の全てを否定する必要はありません。実際のところ、我々の現実生活において物事を良くしていく行動というのは、大きな部分が自己操縦能力によります。
心の健康にとって問題になるのは、感情の操縦になるケースです。これは自分ではない別のものになろうとする心の動きです。その根底には自己否定があります。このストレスが自己矛盾の中で表面化するのが心理障害と言えるでしょう。

心理障害の治癒克服取り組みも、まずは意識的に努力することから行なう。つまり自己操縦をより合理的な形で行なうというのが主なものになります。
行動法思考法を変える。その習熟に伴って、気分は大きく改善されます。自信の芽のようなものも育ってくる。
幾重にも重なった歪んだ自己操縦を、より単純で健全な自己操縦の範囲へと解いていくこともできるかも知れません。

そうした中で、魂の成長も始まっているでしょう。それは主に「内面の力の増大」の感覚として体験されると考えます。


2)不完全性の受容(現実との和解)

「不完全性の受容」による「現実との和解」と言ってきたものが、この大きな俯瞰における大きな節目としてやはり存在します。
それはあたかも「魂」という概念を使わない範囲の解説が「地上での俯瞰」であるのに対して、「魂の成長」という観点からの俯瞰では宇宙から地球を眼下にしているような光景の中で、移り流れる地表や海や雲の光景の中から大きくそびえ立つ高峰のようです。

「不完全性の受容」とは何かとはっきり定義を言いますと、否定型価値感覚の放棄です。「これでは駄目だ」と「否定できる」ことに価値を感じる感覚の放棄。

ハイブリッドではというか僕は(自分自身の体験以外の例をまだあまり知らないので..)それが何によって成されるのかを、否定型価値感覚は「現実世界には存在しない完全性」を求める感性から生まれており、神になろうとすること、もしくは神の代理人であろうとする誤りだということの自覚から成される、と考えています。「それでは駄目だ」という時、人は自らを絶対者としようとするわけです。
そう知的に理解することを「不完全性の受容」とは呼ばず、否定型価値感覚という感性レベルの変化を呼んでいますので誤解なきよう。

まあ言葉の使い方の話になってきますが、「今の自分の不完全さを受容する」「今の自分で満足する」とかは、話がちょっと別です。これは望みへの努力の中で、どの程度の満足度で妥協するかという話ですね。これは自分の「限界の受容」という感じ。
「不完全性の受容」は、具体的なあれやこれやの「不完全さ」のことではなく、「不完全」という観念そのものを持つことを放棄する感じです。「完全」という観念を誤りとして捨てた時、それとの対比としての「不完全」という観念も消えます。

「不完全性の受容」を成すことにより、「自己嫌悪する価値」が大きく消滅します。
これ以前は、自己嫌悪には価値があります。現実の自分を見下すことで、自分の精神的価値を確認するわけです。「私はこんな自分に満足するような者ではありません」と。
だからメンヘル系サイトのカキコを見ると、この「絞めの言葉」が常套文句のように出てきます。「こんな自分が嫌いです」と。

従って、「不完全性の受容」の前に「自己嫌悪感情の克服」というテーマは、あまり取り組みようがないところが多分にあります。なぜなら、そのそも本人が自己嫌悪の結果としての悪感情は避けたいと考える一方で、自己嫌悪することに価値を抱いてそうしているのですから。
その段階でハイブリッドからアドバイスするとしても、自己嫌悪の根本にはあまり触れないまま、とにかくその人の現実を生きる基盤を強化するための思考法行動法を改善することに注力する感じになります。

「不完全性の受容」によって、自己嫌悪感情が根本的に消滅に向う、のではありません。まず起きるのは、自己嫌悪の根本克服に正面から取り組める状態になってくるという変化です。
ここにおいて、自己嫌悪は大きく3種類のカテゴリーで捉えられるようになってくると考えています。


まず「見下し型嫌悪」。これは急激に消滅に向います。
次に「現実貧困への嫌悪」。これはバネにして現実的な改善努力をするのが、基本的克服方向性です。
最後に「原嫌悪」。これは純粋に人間の内面心理に関わる、嫌悪することに価値があって嫌悪するものではない、一種の「真実の嫌悪」です。これに対する意識的解決方法はあまりありません。というかこれを意識的にどうにか回避しようとする姿勢によって生まれるのが、自己操縦なのです。この解決克服は、魂に委ねられます。

ということで、自己嫌悪の根源と種類という話が出てきます。これを後で詳しく説明しましょう。

3)魂による洗浄と成長

「見下し型嫌悪」と「現実貧困への嫌悪」が明確な解決方法と解決理由を示すことができるのに対して、「原嫌悪」はそれを言うことのできない、「救いのない」自己嫌悪であるかのように体験される特徴があります。
しかしそれを「不完全性の受容」の姿勢によって流した時、それが根本的に消滅に向うことを見出しています。

原嫌悪の「魂による洗浄」とでもいう言葉が当てはまりそうな現象です。

これはどのような原理に基づくものであるのかを説明することはできません。体験的にそうだと言えるだけです。恐らくその根底に、人間とその心という存在における、ある「摂理」があるのだろうという考えが、今のところハイブリッドとして言えることです。この「摂理」の考えについても後述。

原嫌悪を流し、その根本的消滅に向う時の心の姿勢として、「看取る」という姿勢が明瞭にその大きな役割を担うものとして見出されます。
これは「残存愛情要求を看取る」「感情の膿を流す」と表現してきた根本治癒姿勢と同じものを指しています。これはつまり、愛への能力を妨げていた愛情要求と、自尊心を妨げていた恐怖、そして自分自身であることを妨げていた「原嫌悪」という、心理障害の根源の根本消滅がひとつの原理に従うものであるという考えを抱かせています。
その原理が「摂理」として後述するものです。

愛と自尊心、そして自分自身であることを妨げていたものが根本消滅に向った時、代わりに何が生まれるのか。
これもやはり何故そうなるのかを説明することは全く不可能なものとして、「未知」が現れます。ただ分かるのは、それが今まで自分の心の中に見えた如何なるものよりも、矛盾なく、揺るぎなく、そして自己の強さの感覚の中で、我々をそこに向わせることができるものであるということだけです。

これは「魂の成長」を根底の支えとした、「心の自然成長力」であり「心の自然治癒力」ということになるでしょう。
心の成長」という時、それは目に見える思考や感情や行動の変化成長のことを言います。
一方「魂の成長」という時、そうした目に見えるものではない何かの変化です。これは「心の成長」の積み重ねをさらに大きく俯瞰したときに、人間という存在を大きく支配している、ある大きな志向性のようなものを感じさせます。この志向性についても後で考察します。

摂理があり、魂が志向するものがある。これはもはや目に見えるものではなく、自分にそれを当てはめるべきものではありません。先のカキコで書いたように、我々にできるのは「真実と思える感情に向う」という、ありのままの「ただの人間」としての努力だけでしょう。
それでもそうした「目に見えるないもの」への視野を同時に抱くことは無駄ではありません。まさにその2面を同時に見た時に、心に「未知」が現れるからです。

かくして魂の成長の道のり概観は、ハイブリッド心理学の「ハイブリッド」たる命題でやはり終わるようです。
2面を同時に見ること。そこに「未知」が現れる、と。

なんか、「島野は宗教家だったのか」とかの声がちょっと浮びそうな文章だすね。。

No.975 2006/05/22(Mon) 12:00:57

 
Re: 魂の成長の成り立ち-3 / クミータ

「否定型価値感覚放棄」というのは目からウロコという感じで、理解できた気がするのですが、肯定・否定という理性の判断と好き・嫌いという感情との関係はどうなのでしょう?「嫌い」というのは否定型価値感覚ではないのでしょうか?感情は流すに任せるということですので、「嫌いだけど認める」というスタンスでいればいいのでしょうか?解説、よろしくお願いします。

No.976 2006/05/23(Tue) 07:04:40

 
Re: 魂の成長の成り立ち-3 / しまの

どうも〜。

>肯定・否定という理性の判断と好き・嫌いという感情との関係はどうなのでしょう?「嫌い」というのは否定型価値感覚ではないのでしょうか?

まず心理学用語の話を先に言いますと、人が心で感じる「感情」は大抵、さまざまな「感情要素」「感性」「思考」などの要素の合成結果です。

それで言いますと、「好き嫌いという感情」はどっちかというと結果の感情のことだと思いますネ。
「否定型価値感覚」はどっちかというと要素です。「それでは駄目だ」と、何かの基準から否定する。その結果「嫌い」という感情になることはあるでしょう。もっと一般的には「軽蔑感」として体験されると思います。ま「軽蔑」も「嫌い」の一種ではありますね。

否定型価値感覚とは関係のない「嫌い」もあります。ゴキブリが嫌い。これはもっと生理的好悪の感情だと思います。否定型価値感覚は「人間のあるべき姿」という基準というのが前提になっているような価値感覚のことです。

より正確に言えば、否定型価値感覚というのは、「否定できる自分に価値を感じる」感覚という特徴を指しています。「ゴキブリが嫌い」も、純粋に生理的嫌悪と、「ゴキブリが嫌いな清らかなワタシ」という否定型価値感覚の合成の場合もあるかも知れませんね。

ですから、「嫌い」というのは、否定型価値感覚の場合もあるし、そうでない場合もあります。ケースバイケースでもっと詳しい内容を聞けば、どっちかと判断できるでしょう。

一方、「肯定否定という理性の判断」というとき、理性は「感情」との対比で言ってると思います。「知性の判断」と言い換えても当てはまるかと。
知性や理性での判断が感情を導くことはありますね。心理学的に正確に言うならば、知性や理性から導かれた空想が、感情の引き金になっていると思います。でどんなこと考えて「嫌い」という感情に至ったかには、やはり上記のような「感情要素」の話が出てきます。

こんな話で答えになってますかね〜?^^;


>感情は流すに任せるということですので、「嫌いだけど認める」というスタンスでいればいいのでしょうか?

「感情と行動の分離」で言いますと、感情は内面にとどめ、行動は建設的なものにする。建設的行動とは「共通目標共通利益」がキーになりますが、これは自分の感情も決して無視しないということです。「感情は流すに任せる」のさらに先に、それを現実行動においてどう収めるかという判断が重要ですね。流すのみ、それとも行動化あり。もちろん非建設的感情は流すのみ。これが理性知性の判断というなります。

「嫌いだけど認める」というときも、「嫌い」という自分の感情と、相手を「認める」という行動があるとしたら、まずはこの2つは全く別の事であり、「認める」という場合は何をどう認めるかという、とにかく原理原則的な話になってくると思います。原理原則的に考える場合は、感情は一切無関係になります。

ちょっと具体的な状況はお聞きしない範囲なので合うアドバイスになるかどうかあやふやですが、その2つの事を「嫌いだけど認める」とつなげて考えると変に自分を納得させてるようなニュアンスが出てくる感じがありますので、あくまで「自分の感情を知る」と「原理原則を極める」を全く別のこととして、それぞれじっくり考えることがお勧めです。

で答えになってますかね〜?^^;

「嫌悪感情」の細かい分類などは次のカキコあたりで解説する予定ですので、それも参考頂ければ。

No.977 2006/05/23(Tue) 11:43:46

 
Re: 魂の成長の成り立ち-3 / クミ−タ

解説、ありがとうございます。「感情」と「理性の判断」がごちゃ混ぜになっていたのがクリアーになりました。「嫌い」と思うのは神になろうとすることではない。逆に、神ではないからこそ「嫌い」と思ってしまうというような。。。 例えば、人を嫌ってしまう自分は何て心が狭いんだろう、と思う必要はないということですよね。「心が狭い」と思ってしまうというのは別の人間になろうとすることで、自分が相手を嫌いなら嫌いで心に留めておいて、建設的な行動をすればいい。何となく分かってきたような気がします。

No.979 2006/05/23(Tue) 22:42:49

自己操縦心性の成り立ち-74:自分自身からの逃避-10 / しまの

■自己嫌悪感情へのハイブリッド・アプローチ概観

5/22「魂の成長の成り立ち-3」で、「原嫌悪の魂による洗浄」という深淵な概念を紹介したところで、再び「自分自身からの逃避」というテーマでの解説を続けたいと思います。

「自己操縦」とはつまり、我々が我々自身の自己否定から目を反らし、本当の自分ではない何者かになろうとする「生き方」なんですね。これを解こうとした時、もっぱら「操縦失敗」についてのこととして感じられていた自己嫌悪の底に、大元の嫌悪、そしてそこから逃れるために自分を欺こうとしたこと自体が見えなくなったという事実を、来歴を遡るように解き明かしていくことになります。
その最後の根底にあるものは何か。そこに現れるのが「原嫌悪の魂による洗浄」という深淵な世界というわけです。

そした自己操縦の構造および解遡(「かいそ」と読み新たな造語。自己嫌悪の構造を解いて大元に戻っていくこと)を理解するために、自己嫌悪の種類についてちょっと詳しい分類を載せておこうと思います。
ひとつの分類は「魂の成長の成り立ち-3」で出したように、「見下し型嫌悪」「現実貧困への嫌悪」「原嫌悪」でした。さらに別の軸からの分類も考察します。

その前に簡潔に、そうした様々な種類の自己嫌悪から成る自己嫌悪感情に対してどうするかという、ハイブリッドの基本アプローチ姿勢を確認しておきたいと思います。結構方向を勘違いしがちなテーマということで。


まず、取り組みの最初の段階においては、「魂の成長の成り立ち-3」で言ったように、あまり正面からは近付けない部分が多々あります。実際のところ、人へのアドバイスにおいても、自己嫌悪感情には近づかないことがアプローチというのが僕の実感です。

なぜなら、自己嫌悪があまりにも価値を帯びているからなんですね。やたら自己嫌悪感情の「分析」へと切り込もうとすることは、結果として悪感情だけ鮮明にする一方、自己嫌悪によってその人が得ている価値を失わせる喪失反応を引き起こすという、まったく望ましくない結果しか生まない状況が考えられます。
また、自己嫌悪から目を反らそうと心の動きも、最初の段階ではあまりに強固です。このメカニズムはこれからの解説全体で描写していきます。

もしその人が「こんな自分なんて」というネガティブ思考にばかり捉われ、自分でもそのことを多少とも自覚している場合は、相談は一見、ネガティブ思考を脱する救いを求めているように見えるかも知れません。
しかしその人が本当に心底から「こんな自分なんて」というネガティブ思考を脱するのが願いかと確認することが、役に立つことがあるかも知れません。
大抵の場合、それを捨てることに抵抗を感じるのではないかと予想します。

そんな訳で、取り組みの多くの段階で、「一体何を求めているのか」をじっくりと考えさせることがアプローチになります。愛、自尊心、自分自身であれること。一方で現実世界においてそれを目指すための思考法行動法を大きく方向変換するというテーマが出てくるでしょう。
自己分析する場合も同じです。「自己嫌悪感情の分析」よりも、「自分は何を求めているのか」を考える方が、実になる結果を生むでしょう。

「自分が何を求めているのか」を探求して行く先に、「不完全性の受容」という大きな道標があります。感性のレベルの根本選択として、否定型価値感覚を放棄する扉を開く。
すると肯定型価値感覚が芽生えてきますので、次は自己操縦心性を突破するような、望みに向っての積極的な歩みという方向性が新たな課題になってきます。これは詳しくはこれから。

ということで、「自己嫌悪をなくそうとする取り組み」は結局最初から最後まであまり出てこないのですね。
ステップ・ドリル」でも自己嫌悪感情への対処として「真の向上心への切り換え」「現実との和解」「感情の膿を越える価値観」など書いていますが、どれも自己嫌悪感情という結果はいったん脇において、前向きな心の動きの根本を育てるという視点です。

この後、自己嫌悪感情の根源について幾つかの視点から分類を説明しますが、その知識は決して、「自分の自己嫌悪感情を分析して解消克服する」なんて絵に描いた餅のような使い方のためにあるのではないことを、深く心得ておいて頂ければと思います。
ではその知識を何に使うのか。「自分を知る」ためですね。思考法行動法の転換や望みに向うという、取り組みの全体があり、それと一体化した取り組みとして、自分の真実を知るという歩みがあります。

自己嫌悪感情に関連する「自己の真実を知る」体験は、まず精神的には辛い体験になります。多くが自己操縦心性の崩壊と絡むでしょう。
しかしその「自己の真実」こそが、「現実を生きる強さ」の基盤になるということを、しっかりとわきまえておくことですね。それを知ったならば、精神的に辛い体験である一方、本当の「真実」を知る体験という大きな報酬を与えてくれるはずです。

それは「自分は真実を知った」という、今までありがちな錯覚に比べて、確固とした揺らぎなさがあることが、その時分かるでしょう。なぜなら、それは「今こう感じる」ということを越えた、幾つかの来歴をまたがった自分の心の謎が解けることだからです。
抽象的な話ですが、今後僕以外にもそんな体験を描写した記録が出てくるのを節に願うところです。


■自己嫌悪は今起きている問題ではない

自己嫌悪感情の根源について具体的解説に入る前に、それに理解するにあたっての基本的な視点をひとつお伝えしておきましょう。

「自己嫌悪の問題」を、大抵の人は、「今の自分のどんな思考が原因だろうか」という探り方をすると思います。
それはあまり役に立たない可能性が高いです。もちろん全く役に立たないということはなく、否定型価値感覚を捉える点では有用でしょう。
しかし多くの「自己嫌悪の問題」は、「今起きている問題」ではなく、「既に起きた問題」です。つまり、今自己嫌悪感情が生み出されているのではなく、来歴のとうの過去にそれは生み出されており、多少ともそれが見えなくなっている状態が今あるというのがスタートです。見えなくする最も基本的なメカニズムとして働いているのが、「望みの停止」。

それが「自己操縦」という、我々の「生き方」の基本なわけです。
この状況で、「どうすれば自己嫌悪が消せるか」という取り組み姿勢は、あまり何を生むものでもありません。問題は、むしろ、来歴の中で抱いた自己嫌悪を封印してきた「望みの停止」をどう突き破るかになってきます。それによって、「自己嫌悪が消せる」のではなく、逆に封印していたそれに再面するのです。

その時どんな姿勢を持つべきなのか。この知恵を懐に入れておくということまでした時、脳の構造変化とも思えるような「根本変化」への峠へと向う準備が整うということになります。

No.978 2006/05/23(Tue) 14:47:52

魂の成長の成り立ち-2 / しまの

■魂の成長へのベクトル

内面の力」の源泉となり、やがて自己操縦心性をつき破るための力となる「魂の成長」は、「心がこの人生を生きる」ある特定のあり方の中で起きると考えています。
そのあり方で生きる時間の中で、魂が成長していきます。頭で理解するだけで魂が成長することは、ありません。

ある心の姿勢の中で人生を生きる体験の中で、魂が成長するということですね。
そんな心の姿勢、心のあり方として、主に次の4つを考えています。

1)破壊することではなく生み出すこと

「それでは駄目だ」と否定することではなく、「こうすればいい」と具体的解決方法を生み出す姿勢です。「破壊」という思考行動の様式ではなく、「自衛」「建設」の思考行動様式です。
具体的な答えを出せた時、それは今までなかったものを生み出したということであり、その時魂が一つ成長するようです。

2)感情への忠実さ

自分のありのままの感情をありのままに感じ取り、自分にとって最も真実と思える感情に従って人生を生きようとする、真剣さです。
感情を無視したり切り捨てたりするような姿勢の中では、魂は成長しないようです。理性や精神力による自己統制も、道を踏み外して自ら不利を招かないためには重要ですが、あくまでそれで魂の成長が起きるものとは、違います。

「生み出すこと」と「感情への忠実さ」の2つが、魂の成長のための必須基本要件ではないかと感じています。その2つが同時に揃った時、明らかにそれは魂の成長を促すものではないかと。

ただし心理障害への取り組みにおける「感情への忠実さ」は、一面的姿勢では近づくことのできない、難しいテーマです。「感情への基本姿勢」というテーマ。
まず起きてしまっているのは、感情の過大視または無視、およびその混合です。また心の中に心理障害の問題があるということは、基本的に、感情が自らによって欺かれている状態があることを意味します。

目に見ることのできない「負のメカニズム」がまず心理土台を作るという話をしましたが、そうしたものを考慮に入れた自分自身への感情への姿勢が掴めていないとは、実際のところ、自分は完璧な心理的健康の人間だという論理に立ち、間違っているのは他人と世界だという自動思考自動感情がまず突っ走るしかない状態にあることを意味します。
ま負のメカニズムの解説は僕としてもまだ緒についたばかりで、今後の重点課題ですが^^;

取り組みにおいて必要となる「感情への忠実さ」とは、心理学の目で感情を見る適切な距離を置いた上で、真実と思える感情に向う真剣な姿勢、ということになるかと。

3)選択の定着

魂の成長を促すベクトルの3つ目としては、「選択の定着」を考えています。
これは、人生を生きる中での、自分のあり方を根本的に左右するような「選択」が、自分の幸福にとり利(理)にかなったものを選ぶことに成功した体験の累積です。もちろん自分の考えで、自分の意志で、自己責任という姿勢においての、選択です。

選択の成功体験は、次の似たような人生の出来事における選択が、一歩自動化されることをもたらします。この自動化のあり様も、目で見ることはできないものです。というか意識しなくて済んでいる部分が、それに該当します。

ただし「選択の自動化」という範囲は、まだ「心の成長」のレベルであって、「魂の成長」の領域ではないかも知れません。
その意味では、むしろ失敗体験が、魂の成長にとって根本的な意味を持つように感じます。これはかなりピンポイントに特定の失敗状況のことを浮かべて書いており、自己操縦心性によって偽装された感情に「乗って」能動的建設的な行動に出た時の失敗体験です。

これは自己操縦心性の崩壊が起きる、典型的状況です。失敗の現実体験が、偽装された感情を維持する自己操縦心性の硬い空想の殻を、それを超える現実刺激によって打ち破るという感じですね。
能動的建設的な行動」と強調した点に留意。外面的にはもはや失敗とは言えないケースも多いでしょう。破壊的感情に流された失敗の類は論外です。

僕自身が今だに感じつづけている自分の最近の根本変化は、多くがこの形を取っているように感じます。
その時、「同じ失敗は繰り返さない」なんていう単純な話を越えた、根本的な変化が自分の中に起きているのを感じるわけです。

ちょっと面白い文章なので、ごく最近の日記から紹介しましょう。
「帰ってきて僕は、もういいかげんこんなことはなしにしたい、と考えた。何をなしにしたいかと言うと、相手に対する自分の位置付けを自分では定めることができないような不安感の中で、相手に接するということをだ。
・・(略)・・その先は分からない。とにかく分かるのは、これからも彼女とのつき合いは続けられるということだ。そして彼女から見てどうかは分からないけれど、僕自身にとっては、今の自分の現実に地に足をつけた土俵に乗ることができたということではある。
・・(略。「これからどうするか」を考え、自己操縦が含まれたものが見えるのを書いています)・・それ以外にはないのだ。最近治癒論の締めくくりを真剣に考えるようになり、最後に見えないものとしての「魂」をどう捉えるかになると考えていた。最後まで見えるのは、真実とニセ物の混合物なのだ。それでもこれだけは明瞭に言える。現実を生きる強さが増している、と。」


「同じ失敗は繰り返さない」を越え、自分の中から湧いてくるものが今までと全く違っているという感覚があるんですね。
自分を見る目が地球の尺度から宇宙の尺度になりつつあるのを感じるという、最近の変化体験の一場面。いずれ小説の形などで紹介できればと。

4)成長の摂理に従うこと

魂の成長へのベクトルの最後に、新しい概念、そしてハイブリッド心理学の最も根幹となる思想のような領域に関わる話が出てきます。宗教と重なる領域です。
「摂理」という言葉で呼んでおこうと思う話。

これまでの解説で「成長」へのベクトルとして、その示す方向に向かうことが大きな意味を持つものとしては、「心理発達課題」がありました。
これ「心の成長」という尺度に釣り合う話です。心理発達課題達成に向けた力は、健全な形であれ障害感情の色彩を帯びたものであれ、何らかの「欲求」という目に見える形で個人の前に姿を表します。

「摂理」は、そんな「心理発達課題」のさらに根底にある、もはやそれに向かわせる力は明瞭には見えないものとして、人間の心の成長を支配している、そんな原理のようなものです。これが「魂の成長」という尺度に釣り合います。

具体的には、「依存から自立へ」、別の言葉では「神の国から放たれた野へ」という命題です。
人間がその歴史の中で、宗教や思想の中で論争を繰り返してきた、その根源にある命題を、心理学の視点から分析します。
これは別途詳しく書きます。

No.974 2006/05/19(Fri) 12:54:09

魂の成長の成り立ち-1 / しまの

自己操縦心性のメカニズムとして「自己離断」まで解説しましたが、あとは「アク抜き」「アク毒」といった大きな話があります。その流れで中で「機能性苦しみ」なども触れたい。
ただ解説の基本姿勢として、問題を示すだけではなく常に解決方向を示したいので、ここで「魂の成長の成り立ち」として根本治癒原理の考察を簡潔に始めたいと思います。
多少シリーズが並行になるかも知れません。


■根本変化の基本

5/14「自己操縦心性の成り立ち-73:自分自身からの逃避-9」で書いたように、心理障害のメカニズムは意識で捉えることのできる、「自己理想化」というテーマを主とした「正のメカニズム」の裏に、意識では捉えることのできない、感情の膿を起源とした「負のメカニズム」があります。
意識土台は負のメカニズムによって強固に作られ、その上で意識的思考法などで影響を受けながら正のメカニズムが働く、という感じになります。

治癒克服取り組みとして意識的にできるのは、まず正のメカニズム内における「改善」にとどまります。それは「生きる喜び」という心の機能の開放度合いに直結する意識土台の変化を、伴いません。従って、思考法や心の姿勢への取り組みによって得られる感情改善は、早晩、安定した停滞に向います。

一方、そうした「改善」の中で次第に増大する内面の力によって、感情の安定にとどまらずに、「人生における望み」に現実においてより近づく行動に出るような体験の中で、安定した停滞の均衡が破られ、「心の手術」的様相の感情動揺の中で、意識土台そのものの根本変化が起きることが観察されます。
「望みに現実においてより近づく行動」というのは、あるいは必ずしも「行動」でなくても条件は満たすかも知れません。

これを「自己操縦心性の崩壊」と呼んでいるのですが、その詳しい考察を、この「魂の成長の成り立ち」と、引き続きの「自己操縦心性の成り立ち」そして最後に「自己操縦心性の崩壊とは何か」で、3つの視点から考察します。
まず、それを引き起こす力は「魂の成長」にあるということ。まずこれを促すという視点からの考察。
次に、この現象は根本において、「自己嫌悪感情への防御」の崩壊です。この崩壊によってしか崩れることのない、最も強固な自己嫌悪感情への防御のメカニズムの話。
最後に、この崩壊によって起きる意識土台根本変化とは何かを考えます。

つまり、ハイブリッドが考える根本変化は、魂の成長が自己操縦心性を突き破る現象として捉えられます。


■「魂」とは

「魂」は、これまでの他の概念とは異なる、「全く見えないもの」を指しています。意識、感情、気分、思考法、行動法、姿勢、それらの体得度習熟度、などなど全てとは別のものを指しています。
「どれを」と指し示すことはできません。根本的に、それは見えないものです。

それでも若干理論的考察が可能であり、上記のように「見えるもの」が湧き出る最も源泉体とでもいえるでしょう。つまり、我々の意識の源泉体です。
思考や感情は意識で捉えることができ、捉えることができるから文章にしたりできます。
「実在」という哲学的視点からは、そこに「捉える対象」としての意識と、「捉える主体」としての意識の2つがあることになります。でもその2つは他人のことではなく、一つの「何か」の根源から出たものだと考えることができます。
その「何か」を「魂」と呼ぶわけです。

「魂」を捉えることはできません。「捉える」という時、そこに捉える主体と客体という分離が前提です。その前のもの。
そうしたものとしての「魂」が成長するという考えを、ハイブリッドではしています。


■魂の成長を感じ取る

そうした「魂」の成長を感じ取る、というのがハイブリッドの取り組みにおいて重要になるのですが、どうすればそれを感じ取れるか..
う〜んそれを表現するのは難しいですねえ。

「心の成長」という時は、自分で見ることのできる、自分の思考や感情や行動の改善のことを言います。まずはそれになるでしょう。
根本変化を体験すると、ちょっと違ったものを感じます。自分で見ることのできるものが変わっただけではなく、見る目そのものが変わってきているからです。
やがて、思考や感情や行動といった、自分で見ることのできるものを越えたものがで〜んと自分の中にあるのを感じる。それが「魂」を感じ取るということなのでしょう。

それを掴むことで根本変化が促されるという感じには、残念ながら(?)ならないと思います。まず分からないまま自己操縦心性の崩壊が起き、その後で次第に感じることができるようになるのではと。
それだけ、自己操縦心性の崩壊というのは導くのが難しいことであり、どんな絶望体験や破綻感情に図らずして陥った時も、それは再生への谷であり、絶望が深ければそれだけ大きな未知の光が訪れると考えてでも、悪感情をやり過ごし越える姿勢が、とにかく最後まで懐に入れておくべきものです。

「内面の力の増大」は、明瞭な自己操縦心性崩壊の体験よりも前から、根本変化に向けて準備されている魂の成長の表れとして感じ取れるかも知れません。
それは今まで主に受動的価値感覚の中で、人から受ける刺激によって感情が湧くという感覚の中にいた個人にとっては、「生まれて初めて体験」する新しい感覚のように感じられるのではないかと思います。

まそう言った表現の難しい話はこれ以上あまり深追いせず、今回はかなり図式的に見えている理論的な話を簡潔に書いて行きます。

No.973 2006/05/17(Wed) 18:04:06

自分の尊さと役割について / みのる

こんにちは。ご縁で参りました。

「自分がどこから来て、どこへ行くのか?自分は何者?」の「自己確認」を、
“事実”をたどって探究していくと“自分の尊さと役割”が証明されます。

 このことから、「自分なりの花を咲かせ実をならせる」という
「生きる意味や目的そして役割」が確信されます。同時に生きること、
癒しやヒーリング、メンタルヘルスの基礎が築かれます。
 
 私は、このことを広く知って戴きたいとサイトを作りました。
お役に立てば、私の人生の意味・目的は果たせたと嬉しいです。

 サイトの相互訪問はいかがでしょうか!
 
失礼しました。

No.970 2006/05/16(Tue) 12:48:41

 
Re: 自分の尊さと役割について / しまの

こんにちはー。
ぜひじっくり読ませて頂きます。

今後ともよろしくでーす。

No.971 2006/05/16(Tue) 13:44:35

 
Re: 自分の尊さと役割について / みのる

> こんにちはー。
> ぜひじっくり読ませて頂きます。
>
> 今後ともよろしくでーす。

島野 隆 先生、こんにちは。みのるです。
レス有難うございました。
こちらこそ、今後ともよろしくでーす。

No.972 2006/05/17(Wed) 11:18:14

自己操縦心性の成り立ち-73:自分自身からの逃避-9 / しまの

このあと「根本変化」絡みの理論解説を簡潔に進めようと思いますが、そのための取り組み説明は今回はまだ断片的になるかと思います。
一方、サイト公開からの期間としても、「多少の安定後の停滞」からの脱出を視野に入れ始めた方が結構出てきたところと思いますので、ざっと取り組み面のポイントということで、全体概観も含め浮ぶことを書いてみました。

やや整理不十分で結構長いけど、だらっと(^^;)1カキコで。


■自己理想において「追い立てる」と「逃げる」..

自己離断のさらに底にあるメカニズムの考察に行く前に、心理障害感情の全体からの、問題と克服方向性をざっと考えてみましょう。

自己離断では自己理想化への衝動の消去が「病理」として起きていることを見るに至り、心理障害感情とは一体「何が問題なのか」についての理解が、一瞬方向を見失うような感を感じた方も少なくないのではと思います。
自己理想に向って容赦なく自分を追い立てることに問題がある..自己理想から逃げていくことに問題がある..
一体何が問題なのか。一体どうすればいいのか。

実のことろ、これが心理障害の実情に合っているのだと考える方が、実際に人が心理障害傾向の中で自分自身というものが分からなくなる様子に近いものであるような気がします。
実のところ、心理障害感情とは、自分がどんな自己理想を追い求めているのかが分からなくなりながら、その自己理想によって容赦なく自分を叩き下ろそうとする状態であるように思われます。

ハイブリッド心理学の言葉でもっと正確に表現するならば、自己理想化という問題をめぐって、大きく2つの問題が起きています。ひとつは破壊型理想であり、もうひとつが自己離断です。自己離断によって自分が何を追い求めているのかが分からなくなる一方で、破壊型理想によって何かの理想から自分を容赦なく叩き下ろす感情が駆り立てられるわけです。

自己理想化ではあと一つ、自己理想を追い求める積極的衝動が、情動の皮相化荒廃化を帯びていることや、現実乖離という色彩を帯びるという問題もあります。ただしこれは取り組み上はあまり問題視するものではありません。
(参照:2006/05/09「自己操縦心性の成り立ち-67:自分自身からの逃避-3」での「妄想性」についての記述)

つまり明瞭な対処が必要なのは、破壊型理想と自己離断です。

これを一挙に解決する魔法の姿勢はありません。見えるところから、一つ一つ対処していくしかありません。
詳しい治癒論考察はこの後として、最も基本的な留意点を書いておきましょう。


■負のメカニズムを知る

まず、上述の「自己理想化」という視点はあくまで意識の表から見える、いわば正のメカニズムですが、その裏に控えた、見ることのできない負のメカニズムの理解が重要です。
そうした負のメカニズムが強力に影響した結果の人格構造が、我々の意識の土台になるわけです。これは意識できる表のメカニズムより遥かに、いや遥かにという比較の問題ではない強さで、我々に働いています。あくまで負のメカニズムの結果土台の上で、正のメカニズムが動くのですから。

負のメカニズムとは、感情の膿を起源とするメカニズムです。感情の膿は原則として意識体験不可能な、心理的ストレスの根源の塊です。恐怖と怒りの膿であり、根本において、自己否定感情の膿です。

感情の膿が人格に組み込まれることで、現実離断が起き、精神性が乖離すると同時に、自己像固執という基本的意識状態の中で、心理発達課題達成済みの自分の姿が空想映像化されます。これが表の自己理想化像の主な源泉です。
自己離断は、「望むものから排斥される」という感情の膿への防御として、自己理想に向う衝動だけを消去するメカニズムです。理想化像とストレスは消去されず、この人間は自ら掲げた理想に積極的に反発する方向に向かう可能性があります。しばしばこのメカニズムの緩やかな形態が、強制的な無気力状態となってこの人間を覆います。自己理想像が不明瞭になる原因には、自己アイデンティティ衝動が自分自身の感情に向けられる受動型自己アイデンティティもあります。

不明瞭な自己理想と共に、空想の中で自尊心を補うというストレスがあり、それが崩されることによって自動的に怒りのエネルギー下に置かれるというメカニズムが、感情の膿のために意識制御不可能なものとして出来ています。これはいままで書き漏れていた点。
この怒りエネルギーの矛先他人かそれとも自分かのどっちかです。前者であれば、自分が破滅に向わせられているという緊迫感の中で、悪いのは他人だという攻撃になり、後者であれば整理的不快感の強い自己嫌悪感情が起きます。これは意識制御不可能な流れになります。
残念ながらこれを心の姿勢や思考法で解消する方法は、僕の知る限りありません。起きた後の対処がまず努力できるものです。

こうしたメカニズム全体があるので、表の意識で見える自己理想化という視点で自分の変化をもたらそうと考えると、かなり本質からズレたものになる可能性が高いです。
「根本変化」は負のメカニズムの克服解消にあり、その上で、正のメカニズム面では「改善」があると考えるのがいいでしょう。「根本変化」は負のメカニズムにおける手術的体験にあり、「改善」がその上での正のメカニズムにおけるリハビリである、ということです。

負のメカニズムの多くは、対処不可能な自動メカニズムとして起きます。
向うことができるのは、それが意識に触れた時の悪感情と、感情の膿を背景にして来歴の中でごっそりと切り捨てられた「望み」をどう回復させるかという視点になります。


■「感情の安定」から「根本変化」へ

治癒成長の変化とは、意識体験上どんな体験かについて話しておきましょう。

ハイブリッドの取り組みとしてはある段階で「感情の安定」から「望みへの接近」へと舵取り尺度の視点を変える必要がある、という話をしました。
実際のところ、「感情の安定」は同じ意識土台の中で言える話です。意識土台そのものが変化する時は感情の安定など問える状態ではありません。

あるいは、意識土台の根本変化を、ある時点を境に雲が晴れるように感情が格段に安定する出来事のようにイメ−ジされるかも知れません。例えば僕が「自分の人生は一体何だったのか..それはただ“ちっぽけな人生だ”。ようやく人生が分かった!」と電撃的自覚を境にして、常に充実感の中で過ごすようになった、あまりに大きな境目のように。

実はそれは人格構造の観点で言うなら、根本変化が終わったあとの、言わばリハビリの道のり自分の足で歩けるようになった感動の瞬間みたいなものです。
意識土台の変化は、それ以前に起きています。それはやはり心の手術の局面であり、大抵嵐の様相を示します。


■根本変化への視点

意識土台そのものの根本変化メカニズムについては、「自己操縦心性の崩壊とは何か」で考察するとして、それを通過点として繰り返されることになる根本変化を視野に入れるための、基本的考慮点をまとめてみます。

1)大掛かりに切り捨てられた自己が眠っているという基本的視点

意識土台のあり方は、望みの開放の度合いだと言うことができます。
あくまで今の意識土台で望みえる望みの開放度合いの話ではなく、その人間の本性として来歴を通して持ちえる望みの全体に対しての話です。
それで言うなら、あまりにも巨大な割合が切り捨てられているのが、我々の心の現実です。これは病気で胃の3分の2を切り取っても一応胃としては機能している、そんな姿として、我々の心はあるということです。

切り捨てられた心の部分は、全く見ることができません。そんなものがあることは、根本変化を体験して初めて分かります。
僕の実感を言いますと、面白いことに、自分の中に起きている根本変化が進むごとに、残された根本変化の割合が大きく感じるようになってます。
最初はどう変化できるか全く分からないところからスタートしたわけです。やがて根本変化というものがあるのを知ります。
やがて変化が加速度的に得られるようになると、可能性と達成済みの割合という感覚が出てきます。そして一時はほぼゴール感だと感じたりしたものの、少し前は「まだ道半ば」になり、ここ1、2か月でもまた結構変化があり、今は「せいぜい2割程度」のところに自分はいるのではと感じています。

やはり「気分の安定」ではないんですね。自分の中から湧き出るものの、根本変化です。自分の変化が進むと同時に、自分の変化を見る尺度も変化している。地上の尺度から宇宙の尺度へ。だから「かなり」と見えていたものが実は「まだまだ全然」であるように見えている。そんな感じです。
変化内容と尺度の話は「魂の成長の成り立ち」でしましょう。

そのように、切り捨てられた自己の割合に応じて、「生きる喜び」を感じる心の機能が失われる。これは単純な正比例関係が成り立っているように思われます。
半分が切り捨てられていれば、生きる喜びも半分。2割の僕は、僕の最大本性の2割程度の生きる喜びの中で生きている。そう感じます。
ダイジェスト小説に描いたような、活性化した心理障害に悩む段階というのは、1%未満の世界。そんな尺度です。

2)まず今の自分で決めつけないこと

そんな状況において、「知性で望みに導く」というノウハウが重要になってくるのですが、詳しい話は先として、まず言えるのは、大掛かりに切り捨てられたものを持つ今の自分で将来までも決め付けるような思考法をしたら元も子もない、ということですね。

例えば最近自分の大学院以降の日記を読み返しているのですが、デートに奔走して外面では行動力が出来たかに見えた30代初期でさえ、デートへの気力が薄れた頃、「自分には友人も恋人も家族もできないという感情」が自覚され、やがては「いつの日か“曇りのない心で人を愛せる”時が来ることを期待していた。だが自分にはそれが本質的に無理であることが分かってしまったのだ。」なんて記述が出てきます。
今読むと、「あーそんな思考しちゃって、もったいない」と他人事のように感じますが。

根本変化は、見えて進む世界ではないんですね。進んだ後に見える世界です。
僕はそのことを知らなかったが故に、根本変化がかなり延期されていたのを感じます。もしハイブリッド心理学が先にあったら、僕は今の自分に10年は早く達していたと、かなりの確信の中で感じるのが今の実感です。

「望みが見えない」のを、「望みがない」と知性まで巻き込まれるように断定してしまっては、それで話が終わっちゃいますね。
ちなみに「知性で望みに導く」においては、単純に「望みが見えてくる」そしてそこに向えるというイメージ浮かべるとしたら、ちょっと違います。
恐怖について触れておきましょう。

3)「望み」「理想」に現実において近づく行動が是か非か

明確な理論的整理は後にして、望みや理想がある程度見えてくると、それに近づく行動はまずかなりの恐怖を伴うことになります。
それに対する基本的指針としては、以下のようなことを言えます。主に3つ。

まず心の中においては、とにかく自己の望みの真実へと向うことです。空想世界でいいから、望みは思いっきり解放する。
次に、現実においては、とにかく現実的に、原理原則立脚を追及した行動法をすることですね。
最後に、恐れを認めることです。恐くて行動できない自分を許す、自分への優しさが必要です。

その3つを入れた時、実際に望むものに近づく「べき」か。これはもう何も言えないんですね。ここで「どうすればいいか」を示して欲しいというような話になると、それがまさに自己操縦の焼き直しなわけです。

そこで、どうするのがいいか、「魂に委ねる」という世界が出てきます。自己操縦ではない、「魂の成長」という世界が出てきます。
そんな見えないものに任せる。そんな見えないものがある、ということをまず自分の中に感じられることから、目標にするといいと思います。そうした「魂への委ね」の中で、「魂の成長」が起きる姿を理解し、知性でそれを導く姿勢が重要になってきます。
もっと具体的な話は「魂の成長の成り立ち」で。

その前に、その方向に向かうために、すべきことがあります。

4)感情分析上級編へ

取り組みのガイドとしては、多少の感情安定後の停滞感から次の根本変化を目指す段階では、感情分析をより精緻なものへと一段階アップすることがまず必要なように想像しています。

一言でいえば、それまでは有無を言わさず突き動かされる感情を必死で理解するような感じで、向こうから感情分析せざるを得ない強さで感情動揺があったわけですが、今度の段階では、自分から糸口を見つけて潜入することが必要になるでしょう。
そこで自分に問い掛けるべき基本的な問いは、5/12「自己操縦心性の成り立ち-70:自分自身からの逃避-6」「自己操縦への自己嫌悪」に関連して感情分析について述べたものです。
つまり、自分は本当には何を求めているのかであり、その感情の来歴を探求することです。

5)まず「破壊型理想の放棄」と「現実との和解」を

そうした感情分析を経て、まず到達したいのが、破壊型理想の放棄です。これは相手を打ち負かすことを優越と位置付ける感情に根ざしています。自分の価値観や行動法の背景にある、破壊型理想の感覚を捉え、その根底にある「完全なるもの」という感覚の誤りを知ることです。
これが「不完全性の受容」であり、「現実との和解」と位置付けているものです。

これが果たされない限り、自己嫌悪感情の克服は、あり得ません。なぜなら、それは否定することに価値を見出す感覚であり、自己嫌悪が価値あるものとして心に抱かれ機能しているからです。ということは感情の膿も消去には向わないということです。

自己嫌悪することの価値を放棄した時、嫌悪することに価値があった自己嫌悪は当然、急速に消滅に向います。
一方、そこで初めて、嫌悪することに価値があるわけではない、根源的な自己嫌悪の姿にありのままに対面することができるようになります。「魂の成長」や感情の膿の減少という根本変化があるのは、ここからですね。

以上が、根本変化への道のりの、最初のスタートの扉を開ける段階の、ざっとしたポイントになります。
ということで引き続き理論整理した解説を続けます。

No.969 2006/05/14(Sun) 12:08:02

日本スケート連盟の金銭疑惑と原理原則.. / しまの

どーでもいいんだけどぉ。(よくない?^^;)
トリノ五輪での真央ちゃん問題でどーもその言動に一貫性を疑い、その名前をわざわざ書いた某日本スケート連盟の城田理事が、いまや手が後ろに回りかねない、時の話題の人となっているのを見る今日この頃。
(2005/12/19 原理原則が示されない浅田真央五輪不出場)

僕はそこで「原理原則を示せない、信頼感の持てない人々だという印象を免れない」と書いたのだけれど、今や、「信頼感の持てない」どころではない、はっきり悪人かもという可能性が出ているわけです。

原理原則立脚型行動法は、「勝つための行動法」「負けないための行動法」と位置付けているのですが、案外、それはもっと大きな意味を持ち、原理原則立脚型の行動が見失われた時、人間は自然に彼らのような姿へと堕ちていく基本的な傾向性がある、そんな「感情に流され」自分と社会を見失うベクトルを持つ存在なのかも、とちらっと思った島野でした。

No.968 2006/05/14(Sun) 10:36:52

自己操縦心性の成り立ち-72:自分自身からの逃避-8 / しまの

■自己離断の動作メカニズム-4:核動作に迫る3

3)自己理想化衝動が消去された空洞状態と背景不安

次の例では、自己理想化衝動の消去という自己離断の現象がさらにはっきりと見え、なぜそれが起きるのかの裏側がちらっと垣間見えています。

先の送迎バスの自己分析の数日後のこと。一人でスキーの自主トレに行こうと、近場のスキー場に決め宿を探し予約の電話をする時です。
老夫婦がやってる安宿という感じでしたが、予約の電話を入れようとした時、その特に緊張する必要もない相手への電話を前に、僕は何か変な緊張感を感じている自分に気がつきました。

なおこうした描写を読んで、「対人恐怖が治ってないんじゃないの?」と感じる御仁もおられるかもしれませんが、そうした「緊張」「不安」感情の有無をもって治癒成長の尺度と考えると、方向を見誤りマスゼ、とコメントしておきましょう。
この後「壁の突破」のために自分を「望みに導く」ことが必要になってくるわけですが、その段階になると緊張や恐怖はこれどころの騒ぎではなくなります。また根本人格変化の際の「人格の衝突融合」は、理由不明な恐慌感がその表れです。むしろ歓迎する姿勢が望ましい。
また、自分を望みに導き、より大きな人生舞台に踊り出す緊張感というものが、何でもない場面でも良く現れます。恐怖が消えてからより大きな人生舞台に向えると考えるより、同じ恐怖の範囲に入る人生舞台が次第に大きくなると考えるのが、成長イメージとしては正解ですね。多少、自分を恐れるものに導く姿勢が必要になってきます。

まこのケースではそんな大そうな話ではありませんが、奇妙な緊張感は、ここでは恐らく、自分自身で全く見えない自己理想化像が崩れる不安を背景にしています。落ち着いて人と接する自分というような理想像の類でしょう。

でこれは離断メカを分析するいい機会だと、自分の心の中を眺めると、まず見えるのは、快活そうに喋る自分のイメージが一瞬現れ、次に「自分はそんな自分を演じる無理はしない」という、自己理想イメージが否定された中空感とでも言うべき奇妙な状態でした。同時に不安が湧き出る、という流れが見えます。

僕としては、これは自己離断のメカニズムが直接見えたもののように感じています。なぜなら、この自己観察の中で起きたことは、ほぼ完全に僕自身の思考や意図を働かせない所で、全て自動的に起きたからです。
つまり、僕自身としては、自分のお喋り口調をより良いものにしたい願望があり、結構そのための練習などもしているほどなのですが、その僕自身の願望とは全く異なる方向への心の動きが、勝手に起きているということです。

自分でこの心理学を作ってる僕が、そうです。つまり僕の願望は、あくまで良い口調で喋りたい、です。
しかし人間の素の思考と感情で行くならば、「そんな願望などない」方が自分の進みたい方向であり、「こうなりたい」は間違った方向だと考えるのが、あまりにも自然な流れになるように思われる事柄です。なぜなら、自分にそんな願望があることを感じると不安が起きるのですから。


■「感情の安定」から「望みへの接近」という舵取り変換

ということで、ハイブリッドの取り組みを始められた多くの方にとって、まずは感情の安定を治癒成長の尺度として、自分自身に取り組む努力をされる形になるかと思います。
しかし、多少の安定化が得られた後にどうも停滞を感じるような場合、必ず、感情の安定はもはや尺度とはできない、根本的変化への方向性が欠けているからだという視点を、まず持って頂くと良いかと思います。

感情の安定ではなく、人生をかけて望むものへの接近が、尺度になる方向性です。

この方向性を理解するためには、それを阻むものの正体と、その真の克服の原理を理解する必要があります。
自己嫌悪の根源と構造、さらに自己離断による「アク抜き」と、その結果による「アク毒」という、これまた実に奇妙難解な概念などを次に..。

No.967 2006/05/12(Fri) 17:30:57

自己操縦心性の成り立ち-71:自分自身からの逃避-7 / しまの

■自己離断の動作メカニズム-3:核動作に迫る2

2)優越誇示衝動が消去され拘束的自己理想像と他者視線への外化が起きる

次の例も僕自身の比較的最近の自己分析ですが、自己離断が働いていることを自分自身で明瞭に感じ取ったものです。
先の例とほぼ同時期で、この数日間どうも自分の中で感情の膿の活動バイオリズムに来ているのかなと感じた、ここ最近珍しい時期で、何かと気になる感情が見えた時期でした。

OB参加のスキー部合宿での、ゲレンデから宿に帰る送迎バスでの一こま。
遅くまで滑った組の10人弱のメンバーの中で、一番年上の僕はバスを運転する宿の親父さんの隣の助手席に座ります。まあ何年もの付き合いの親しみの結果、いつもそんな感じですが、その際ちらっと、「自分が親父さんと一番の馴染みだ」という、かすかな優越感のようなものがちらっと心の中をかすめたのを感じました。

その時どうも居心地の悪い感覚を感じ、心に浮ぶものを観察する。
見えるのは、自分で優越感を感じている感覚ではなく、他のメンバーから自分がそんな存在として見られているという感覚でした。つまり積極的な優越衝動としては否定され、優越した存在と見る人の目という、自己の重心を欠いたイメージとして空想されている、と分析します。

バスが出発してから、何となく拘束感を感じます。それはスキー部最古参で皆から信頼も厚いXさんがいたらその人が助手席なのですが、そのXさんが親父さんとする親しげな会話が、何か「自分もそうしなければ」という感覚の中で浮んでいた次第。
同時に、親父さんから自分に、ちょっと気まずい空気が流れてくる感覚があるのを感じます。それは「ニセの親しさを前にした困惑感」とでもいうものでした。自分の中にちょっと沈んだ気分が流れるのを感じます。

そうした気分になることはここ最近ほとんどなく、普段は何も考えずに会話を交わしている感じですが、感情の膿というのは、微量でもあると決まったメカニズムの一連の感情を流す仕組みになっているんですね。

この例では、「自分が親父さんと一番の馴染み」だと優越誇示したい衝動は体験されず、代わりに、自分が優越した存在かどうか多少猜疑も含めた視線で見る人の目という感覚と、拘束的な「こうあるべき自分」の姿、そして自分が「ニセの親しさ」だと見る他者の視線が、体験されています。
これは、今はもう自分の内部のどんな感情も逃さずありのままに観察できると自分自身では感じている僕にとって、あまりに奇妙なことでした。
つまり、全ては僕自身が自分を優越誇示したい欲求から始まっているはずなのに、その衝動そのものがぽっかりと消え、拘束的な自己理想イメージと他者の目だけが体験されています。こりゃ一体何だ、と感じ、「自己理想化衝動が消去される」、離断の現象という考えが明瞭になった次第です。

この例は自己離断という心理メカニズムの最も基本的な動作を示すものと考えています。
つまり、自己理想化衝動の消去と、大元および自己操縦自体への自己嫌悪さらに自己理想化衝動の、外化です。

こうした心理構造がどのように解消克服されるか。

この心理構造の解消克服を考える前に、この心理構造を土台とした上での障害感情の膨張がどうなっているかが、まず問題になるでしょう。これまで解説してきた心理過程全ての結果が、この自己離断と外化という最後の変形を経て、意識表面の出口から表れた姿になります。

受動型アイデンティティの中で感情を自己アイデンティティにすると、もうどうしようもない程がんじがらめの自他への破壊感情の砦が築かれます。そうしたものから解いていって、行動法、価値観、愛や自信についての考えの修正、そうした取り組みを生活の中で進めることで、心の強さを増し、自分自身で悪感情をたきつけ膨張させる状態を脱する。気分の改善がかなり進む。

多少落ち着いた状態になると、その先は微動だにできない壁があるような状態になります。これが自己離断が働いている心理構造の土台の「素」の状態とも言えます。
この先は、この自己離断や幼少期からの望みの停止来歴を突破する心の動きが必要になります。

それをこの後引き続き解説していくわけですが、上述のように見える範囲の心理分析は結構明確なものであっても、治癒取り組みは背景状況を踏まえて多様な道のりを経るというのが、ここで指摘しておきたいポイントです。

No.966 2006/05/12(Fri) 15:18:49

自己操縦心性の成り立ち-70:自分自身からの逃避-6 / しまの

■自己離断の動作メカニズム-2:核動作に迫る1

「アク抜き」が自己離断の核メカニズムだと書きましたが、この核メカニズム自体が結構難解で、まずどんな心理現象がそこで観察されるかを把握したいと思います。

そこに起きるのは、「自己操縦の基本形」として解説した構図の中で起きる心理現象です。
つまり自己操縦とは、まず何らかの自己否定に立ち自分の感情振る舞いを操縦しようとし、それがうまく行っている範囲において人々から愛され評価されるという空想によって、最初の自己否定により損なった自尊心を回復する、一方操縦がうまく行かない場合は、最初の自己否定なのかそれとも操縦失敗についてのことなのかが不明瞭な自己処罰を感じる、という姿です。
(参照:2006/03/31 自己操縦心性の成り立ち-47:「自己操縦」の基本)

その構図の中で起きる心理メカニズムを微細に観察すると、次のような事柄が見えます。

1)階層構造化された自己嫌悪の下位層が外化される

想像できると思いますが、自己操縦の手本として掲げられた「あるべき姿」への「信奉」の緊迫度が高いほど、最初の自己否定は視野の外になり、操縦失敗そのものへの自己処罰感情が意識前面を覆うことになります。
あるべき姿への信奉緊迫度が減ると、操縦の失敗は少しどうでも良くなってきて、大元の自己否定が見えてくるという状況が考えられます。

こうした状況では、一つの自己否定を塗り消そうと自己操縦が行なわれ、自己操縦の失敗という新たな自己嫌悪が起きる。この自己嫌悪をさらに塗り消そうと次の自己操縦が行なわれる、という風に、自己嫌悪とそれから逃れようとする自己操縦が階層構造的に積み重なる事態が考えられます。
そうした自己嫌悪の中で、発生の早い自己嫌悪が自己操縦によって視野から外されると、その分が外化されて体験される。つまり良く分からない理由で人から嫌悪を向けられると体験される、という定式が成り立つようです。


具体例をあげると、このことを自覚したのは、結構最近、「離断」絡みのメカニズムを追及していた時です。
ちょっと恥ずかしいので詳しい状況は省きますが(変な場所ではありませんアハハ^^;)、結構魅力ある若い女性と一緒にいた時に、どうも何か冷めた雰囲気が向こうから流れてくる感覚を自己分析した時です。

その時の自分の心理状態を分析すると、その女性に対して自分として親しそうな態度や表情をできているか気にする気分がある。つまり自己操縦の状態にある。
感情操縦感情が働いているわけで、ターゲットとなる「親しみ感情」への自己操縦があり、その根元には、そんな自己操縦をしようとする感情がある。これは魅力ある女性と親しくしたいという貪欲や焦りの類となる。まあごく希薄なものと弁明しておきますが^^;

でこの構図において、自分に向けられると感じる冷めた雰囲気の正体は何かと観察したのですが、まずその時自分の視野にあるのは「自分が親しく振舞えるか」でしたが、明らかに、冷めた雰囲気は「親しくできない」自分の姿に対するものではないことを感じました。つまり自己操縦のターゲット感情についての嫌悪ではない。
明らかに、自己操縦しようとしている自分の状態に対して向けられた冷ややかな雰囲気を、自分は感じたのだと、はっきり感じました。

この自覚は、即座に、相手から自分への冷ややかな空気という感覚が消え、かなりリラックスした状態につながっています。満足いく親しみに至れないほろ苦さはそのままですが。
なお一応、この手の効果は、こうした自己分析の一場面だけを切り出して、「こうすればこうなる」なんて簡単なものではなく、その点はあんまり安直に考えないようちょっと留意して下さいませと但し書きしておきます。

この例では、自己離断はあまり働いていません、というか、この例は自己離断が強固に働く状態を解かれる中で、外化が消失するという現象の例です。
つまり、自己離断は外化を強固に生み出します。この2つの心理現象は直接的関係にあります。

次の例では、自己離断と外化の関係がさらに明瞭になると思います。

なお上記例でも残った「満足いく親しみに至れないほろ苦さ」は、さらに上記体験の続きとも言える自己分析の中で解消の方向に向かっています。これは自己離断というテーマよりもさらに深淵なテーマである「魂の成長」という領域に入ってくる事柄と思われますので、ここで安直な描写をするのは避け、「魂の成長」のテーマの中でこの続きを説明します。


■自己操縦によって新たに加わる「自己操縦への自己嫌悪」

上記例に関連してできる説明をもうひとつ加えておきましょう。
自己操縦においては、大元の自己否定があり、操縦失敗についての自己嫌悪という2つの自己否定があることを書いていましたが、明らかに、もうひとつ加わるということです。それは自己操縦そのものへの嫌悪です。
自分を偽って別の存在を演じようとしている姿への嫌悪。その浅ましさ愚かさへの嫌悪。

実際のところ、最も激しく毒に満ちた嫌悪とは、それなのかもしれないのです。
これは一度嘘をつき始めた人間が、その嘘をごまかすためにさらに嘘を重ねるという姿を彷彿とさせます。最初の嘘はごく些細なことで、素直にそれを晒し、なるがままの人間の心に委ねた時、それはもう未来には影響のないこととして収まっていたのかも知れないのです。
重ねられた嘘は次第に大きくなり、同時にこの人間は自分の本来の姿そのものが分からなくなります。

実際、ハイブリッドにおける感情分析、つまり精神分析の作業と効果の大きな割合を占めるのは、この自分自身についた嘘を解いていくことによるストレス軽減にあります。
「こんな自分」になろうとした。それは本当は何を求めてのことだったのか、真剣に自分に問うことです。人々を見返し、打ち負かすためだったのか。それとも愛を求めてか。それを求めるようになった大元で、何が失われたのか。大元でどんな自己否定をしていたのか。
嘘がばれる痛み嘘の重荷が肩から降ろされる救済の両方を伴いながら、ひとつの自己の真実に出会うことができるでしょう。

そうやって大元の自己否定をたどっていく人間の心の探求は、やがて人間の深い業、「原罪」とも言える人間心理にまで行き着くことを見出しています。そこからの救済はどこにあるのか。その摂理とは何か。宗教と重なる領域に足を踏み入れることになります。
これは「自己嫌悪の構造」で解説します。

「自己操縦への自己嫌悪」への対処姿勢についても簡潔に書いておきましょう。
何よりも、「不完全性の受容」の姿勢を向けるべきは、これだということです自己操縦を生み出した大元には、「なるべき自分」という、欠点の一点の曇りもない完全性を求める人間心理があり、そこから生み出される自己操縦を、同じ完全性を求める人間心理が、激しく自己嫌悪するのです。

これが人間の心の限界です。我々は神ではありません。
我々が見ることのできるのは常に、自己操縦と真の成長の混合物でしかありません。そこにある一片の建設的要素に着目して前に進むか、嘘の要素だけに着目して自ら進路を破壊するか。これが完全に自己の意志による「選択」となる心の扉があります。
それが「不完全性の受容」による「現実との和解」への扉ですね。これに近づく道のりと、この扉を開ける力がどこから生まれるのかを、「魂の成長の成り立ち」で考察しましょう。

No.965 2006/05/12(Fri) 11:32:53

自己操縦心性の成り立ち-69:自分自身からの逃避-5 / しまの

■自己離断の動作メカニズム-1:周辺症状

「自己離断」は極めて難解な心理現象で、「離断」という奇妙な用語をわざわざ使うのも、各種の「自己不明状態」の流れを理解する中で、心理メカニズムの流れの中のある根底核とも言えるような一点で、実に奇妙な「意識が飛ぶ」ような現象が想定され、そのごく限定したメカニズムを「自己離断」と呼ぼうと思っている次第です。

つまり、自己離断で起きていることそのものは見えない、結果だけが見えるという感を感じています。
これはまるでブラックホールの天体現象のようです。その中からは光さえ脱出できないブラックホールそのものを「見る」ことは不可能であり、物体がそこに落ち込む際のX線放出などの周辺現象を通して、その存在を推し量ることができるだけです。

自己離断を理解するにあたって、あたかもブラックホールの周辺現象のように、自己離断に関連すると思われる幾つかの心理症状をまず理解するのがいいと思います。
まずそれが周辺で起きるらしい。さらにその中心に向って分析をしてみると、ある一点で「意識が飛ぶ」現象が起きます。これを次に描写しましょう。そして、これらの心理現象の根底にある心理メカニズムの解説へと進めます。

1)「努力」への禁避的嫌悪

自己離断の根底にある心理メカニズムが、意識体験可能な形で緩やかに起きたものと考えられるのが、「努力への禁避的嫌悪」です。
「禁避的」とは、「タブー」ということで、理由を問わずというか理由を考えることさえ厭われるような形で、あるものに近づくことに向けられる嫌悪のことです。

現象としては、あることを「しなければ」と頭に浮んだ瞬間に、奇妙に頭が働かなくなるような形で、その努力に積極的に抵抗しようとするかのような無気力状態が起きるような形になります。
放置したままだと自分自身に不利になる事柄だと見えた所まで記憶にあるものの、そのあと一体なぜここまで何もしないまま過ごしてしまったのか、と自分でも不思議に思うような事態を招いている、というのが典型的です。
まあ敢えて、その時どう考えたのかを把握するならば、「まだ大丈夫」とか「いつかやる気が出れば」とかでしょうが、なぜ「まだ大丈夫」なのかの現実的理論的根拠が全くないような感じであるのが大抵です。

これはしばしば人生での大きな目標達成に影響し、その努力禁避の結果、人生がジリ貧になることが少なくありません。少なくありませんというか、その根底を理解した時、恐らくほとんどの現代人が、この心理メカニズムの結果、人生に何らかの貧困化が起きた中にいると考えるのが妥当でしょう。
つまり「人生の貧困化」への力が働く問題は、過去の問題ではなく、今の問題として、起きてしまった貧困化を自己糾弾することよりも、いつこの力に自ら積極的に抵抗する方向転換をするかなのだと考えるのがいいでしょう。
もちろん、自己糾弾している間、ますますその力は働いているわけです。

この問題が起きる所には、必ず、これとは意識上は全くつながりがない形で、「やる気」「頑張り」への中空つまり中身のない自己理想化イメージがあります。
やる気さえ出れば。そんな自分が人の中で評価されるイメージ。
逆に、そんなイメージへの抵抗が知性化され、「がむしゃらに頑張ったところで」といった思考を持つケースもよくあります。これは「やる気」理想像への衝動の消去である自己離断を知性化した結果とも解釈できるでしょう。

つまり、努力への禁避的嫌悪として起きる無気力状態と、「やる気が出れば」燦然と輝くかのように抱かれる自己像という「やる気の価値」は、同じコインの裏側と表側の関係にあります。
この2つの現象を同じ一つの事柄の別の2面として実感として自己把握することは、この症状の法外さを減少させるために実に有用です。


根底にあるのは、「何かをしたい」という感情が、それを持つことが人間の格であるかのような、「能力」であるかのように感じられている現象です。
仕事をしたい感情。人と親しくしたい感情。それを持つのが優れた者であり、それがないのは劣った者だ。それがない自分は、この社会で評価されない。
感情が「能力」であるかのように感じられる。ということは、必ず、そこに「感情の強制」が働くことを意味します。この強制は、本人が自覚するのはかなり難しい形で意識根底で働き、かつそれがいかにストレスに満ちたものであるかを、その時は体験不可能な形で働きます。
ストレスの側面が意識表面に出た場合は、「何もかも嫌」というような無気力状態が体験されます。その際には、「やる気の輝き」感が意識からは完全に消去されています。
この2つの全く両極の感情が、正真の「やる気」、自己および周囲の人間のイメージ、そして現実の環境という三つ巴のバランスの上で、磁気嵐の中の方位磁石のように揺れ動くことになります。

それが同じコインの2面であることを実感として感じるごとに、現実に比して法外な極端さは薄れるでしょう。ただし根本的な解消のためには、さらに根底にあるものが解決する必要があります。

「感情」が「能力」であるかのように体験されるのは、受動的価値感覚の発達の結果です。望めるためには人に愛され認められることが必要であり、愛され認められる姿として、感情豊かでやる気ある姿が掲げられます。

この辺まで視点を運ぶと、自己離断の核心に近づいてきます。
もう一つの周辺症状がそこで認められるようになります。それを次に。

なお取り組み上の観点としては、治癒変化後の意識状態においては、「感情」「やる気」が人間の品格や魅力を決める「能力」のように感じる感覚が消失していることをまず頭に入れておくのがいいでしょう。
この治癒後感覚においては、「やる気」は純粋に自分の趣味嗜好の問題であって、単純に、それをしたい気持ちをどう行動化するかだけの問題となります。つまる自分の感情が人に見られるという感覚が消失しています。
ただしそうした感覚変化は、「選べる」ものではありません。感情を能力と感じる感覚の放棄」が課題だとは言っても、感覚を変えようとすることは、大抵は自己操縦の繰り返しでしかありません。

実際の変化は、受動的価値感覚に積極的に抵抗する価値観の変革も合わせ、取り組みの総合的結果としての自己操縦心性崩壊によって、そうした根本的感覚変化が起きるというのが、まず言えることです。
自己操縦心性崩壊という峠に向って歩もうとするのであれば、自己離断という病理方向での「意識の狭間」と、心性崩壊による治癒方向での「意識の狭間」を形づくっているものを理解することが、まず近道と考えます。
次の周辺症状が一歩それに近づきます。

2)「見せかけ」への心理的抵抗

自己離断の周辺的症状として、心理障害傾向の中で必ずあるのが、「見せかけ」への心理的抵抗や嫌悪です。

これは本人の意識において、理性知性としても確信的信念にまで格上げされることが少なくないでしょう。極めて攻撃的な破壊型理想の形を取ります。
僕のダイジェス小説でも、「自分が偽りの愛情への激しい嫌悪感を抱いていることを自覚します。・・(略)・・自分勝手に愛情を示す人ほど嫌いなものはない。そんなものとは全く違う、本当に愛し合うことを、自分はこの上なく純粋なイメージで理想像にしている..。」なんてのがありました。

この青年(若い時の僕なんだけど^^;)に、「見せかけの愛」の意図はありません。それがこの青年の価値観であり、誠実性であることを否定するには及ばないでしょう。
しかし彼が糾弾する「見せかけの愛」は、外部にはなく、彼自身の心の世界のものなわけです。それが自己離断によって意識から切り離された、彼自身が自分の中から「アク抜き」したまま、その「アク」の強烈な自己嫌悪毒によって全ての行動を阻まれたものの正体です。

この「アク抜き」のメカニズム自己離断の核メカニズムです。それを次にちょっと実例も含め解説し、それを踏まえて自己離断によって生まれる「アク毒」について、そしてその根本的消滅解消への治癒メカニズムの考察へと進めます。自己嫌悪の根源構造がまず学習課題になります。

No.964 2006/05/11(Thu) 13:11:15

自己操縦心性の成り立ち-68:自分自身からの逃避-4 / しまの

■望みの停止の来歴メカニズム-3:自己離断

大規模な望みの停止が来歴を通して起きる3つ目の心理メカニズムが、「自己離断」です。

詳しい説明はこの後として、定義と位置付けを簡潔に書いておきましょう。
「自己離断」の定義は、「自己理想化衝動の消去」です。つまり、自己否定に立ち「なるべき自分」の姿を掲げてその通りになろうとする「自己操縦」という生き方の中で、「本当の自分ではない別人になろうとする衝動色彩」だけが消去されるという現象です。自己操縦におけるその他の心理要素は消去されないままです。つまり「なるべき自分の姿」は消えないし、感情の膿から起きる焦りも消えません。ただ、自分をその理想像通りにしようとする衝動だけが消えます。

かくして、この個人の「生」が向いている方向が、完全に分からなくなります。

ハイブリッドの心理メカ理論による人間心理の理解としても、ここで大どんでん返し的事態が起きるように感じています。心理障害の中で起きる自己不明によって、我々は「なるべき自分の姿」によって容赦ないストレスに追われるようになった。これがハイブリッドを学び始めた方が抱くイメージだと思います。
しかし詳細に、何が我々自身の本来の心の延長で起き、何が病理によって意識制御不可能な、無自覚に自分を欺くような心の動きとして起きているのかと分析していると、自己理想像を掲げそれに向って自分を駆り立てる心の動きは、心理発達課題をめぐる一連の流れで起きてくるものである一方、そこに無自覚に自分を欺くような病理性は一切ありません。
唯一、無自覚に自分を欺く「自己操縦心性の病理」として起きるのは、完全にそれとは逆の、自分を自己理想像に向って駆り立てる衝動を消去することにおいてのみある、というのが現在の結論です。

つまり、自己操縦心性の病理は、自己理想像に向って自分を容赦なく駆り立てることにあるのではなく、それが打ち消される現象が、本人が全く無自覚なままで病理として起きることにある、ということです。

これは心理障害の治癒克服の取り組みにおける、典型的な誤った姿勢に重なる話です。
つまり誤った「自己受容」の姿勢です。「今の自分を受け入れる」「今の自分で満足する」という発想。これは自己操縦心性の病理をそのまま素直に知性に翻訳した発想です。「全てに感謝」とかもかなりそれに近い。
それが、自己嫌悪感情を回避消去するために自己操縦心性が行なおうとする、病理としての心理メカそのものなわけです。

正しい自己嫌悪感情の克服はそうではなく、1)「見下し型嫌悪」の放棄(不完全性の受容による現実との和解)、2)現実の貧困に由来する自己嫌悪はむしろバネにする向上意欲、3)「原嫌悪」の魂への委ね、と言った、明瞭な心理学的姿勢によって達成されます。
これについては、「自己嫌悪の構造」について学んで頂く必要があります。それはこの後に。自己嫌悪感情の正しい克服方向については「魂の成長の成り立ち」あたりで解説しましょう。

いすれにせよ、自己理想像に向って容赦なく自分を駆り立てることに、病理性はあまりなく、むしろ、来歴を通して抱いたはずの自己理想がごっそりと消去され葬り去られることに、病理性があります。
病理性があるとは、その問題について自分の感情気分に任せた取り組みでは、まったく解決の方向性がないということです。
「自己理想を追うのをやめよう」という方向に、治癒成長はありません。見えなくなったそれを見出そうとする方向に、治癒成長があります。

この問題が突破克服されない内は、どんな順調な改善取り組みも、どこかに空虚感を残した静かな平静へと近づくことしかできません。感情の膿は残り続け、何かの危険下にあるような、「生きる喜び」を停止しまたたの「生」が続くだけです。
今まで解説済みの心の姿勢や心の技術ノウハウでは、この問題への対処にまだ不足します。これを突破するためにハイブリットとして用意したいのが、「知性による望みの導き」になります。

もちろん、ハイブリッドにせよ他の心理療法にせよ、それに救いを求めて来た最初の段階では、大抵あまりにも破壊的自己否定の中にあるのが大抵でしょうから、ここで言っているような話ではなく、「基本的自己受容」として説明するような、自分自身への優しい姿勢から始めて、心の姿勢や心の技術ノウハウ学んで頂く形になります。
それだけでもかなりの気分の改善は得られるでしょう。他のどんな心理療法と比しても負けない効果があると思います。
しかしハイブリッドが目指している根本治癒変化というのは、とても壮大なもので、人類の歴史を通して変化してきた人間の生き方というテーマさえ含めて、その最も健康で「生きる喜び」に満ちたありかたをとことん追及するものです。

心の姿勢や心の技術ノウハウという時、それはまだ「見ることのできる変化」の世界です。根本変化はまだそこにはなく、「見ることのできない変化」へと踏み出した時が、ゴールではない長い道のりのスタートです。

ということで、ハイブリッドの最後の理論領域が、根本変化のスタートを用意することを焦点にしたものになります。
自己離断および自己嫌悪の構造などについて、引き続き解説しましょう。

No.963 2006/05/09(Tue) 13:12:20

自己操縦心性の成り立ち-67:自分自身からの逃避-3 / しまの

■望みの停止の来歴メカニズム-2:現実離断

来歴を通して大規模に起きる望みの停止の2つ目の段階は、現実離断です。これは既に解説済みのように、感情の膿が人格構造に取り込まれるのに伴って、それが意識に触れることを防御するために、現実刺激全般を遠ざけた「現実覚醒レベルの低下した意識土台」という特殊な心理構造を生み出す働きです。
(参照:2006/01/30 自己操縦心性の成り立ち-34:現実離断とは何か-3)

この現実離断が望みの停止に及ぼす役割は、かなり錯綜とした状況の中にあると思われます。主に2つの全く異なるベクトルの合成結果と言えるでしょう。

ひとつは、思春期を迎えて見え始めた人生の行路という大きなテーマを前に、実際のところもう「望まないでは済まない」状況がこの個人の心の中に起きていると思われることです。異性の獲得という生物学的根源に根ざした課題、そして人生を自分でプランして生きるための能力という、大きく2つの源泉からの各種欲求がこの個人に迫るように湧き出てきます。
」と「優越」と「自己アイデンティティ」という欲求群が活発になってきます。

そうして単純に「望まない」では済まされない状況で、感情の膿が人格構造に組み込まれるという事態を前にして、もはや思考や感情をどうにかするレベルでは防御ができず、現実離断という意識土台そのものの質的低下を発動するわけです。
つまり、「望まないでは済まない」という一つのベクトルと、その迫り来る事態に対抗するように、「現実において望んではならない」という強固な壁を課そうとする力が起きるわけです。

この錯綜した状況の結果として個人に現れる心理状態は、主に3つの形態が考えられます。
1つは、現実離断の基本的心理状態としての、現実の全般的な見下しです。これは望み全般を遠ざける姿勢につながります。現実なんてどうせ。人生なんて。
2つ目は、空想的願望という特徴が著しくなる傾向です。現実から乖離した、妄想的色彩を帯びるようになる方向性があります。
3つ目は、破壊型理想の発達とその結果です。破壊型理想が自分自身に向けられると、また向けられざるを得ないのですが、極めて破壊的衝動を伴う、望みの圧殺ともいうべき望みの停止の動きが起きます。これにより、情動全体の荒廃化が一段階さらに進むことになります。これは大抵憎悪感情を伴うので、もはや本人の心の中にとどめられない破壊性が表面化することになります。

上述の心の動きについて、2点補足しましょう。

一つは「妄想性」をどう考えたらいいかという点。特に治癒克服の取り組み観点からです。
まず、現実覚醒レベル低下が重いほど、当然妄想性の度合いは高くなります。現実覚醒レベル低下の重さが、心理障害の重さだと考えていいでしょう。ただこれだけを取り上げてどうこうと言えることはあまりありません。治癒克服取り組みの全体の結果が、その解消解決につながると言えるだけです。

一方、「妄想」の内容。これは心理学的にどう切り込むのがいいかという指針を言うことができます。
それが被愛妄想のような「願望が満たされる空想」については、健康な心理にもあり得るものとして、あまり問題視しないのがいいというのが、僕の考えです。明らかにそれが妄想の度合いを強めても、実害は少ないでしょう(^^;)。
問題は、そうした「願望が満たされる空想」からの些細な違いの現実が、あるべからざる自己への破壊行為が行なわれたという空想に切り替わることです。その際、精神障害ではない限り視覚としては自分への攻撃など特にないことを認知していても、感情として「自分が破滅へと追い込まれている」という感情が伴う形になります。
これは感情の膿が刺激されたことによるものです。何でもない現実を前に、本人の心の中では破滅へと追い込まれた焦りが起きます。かくして「とんでもないひどいことをされた!」という相手への怒り反撃が、しばしば殺人事件にまで発展します。

そうした否定的空想に際して、先に言ったような、原理原則的・現実科学的・サバイバル世界観的姿勢によって取り組むことが基本的指針です。

2つ目の補足。大元の感情の膿は「望み求めるものから自分が排斥される」であり、それを刺激しないために「望まない」という基本ベクトルが生まれるのですが、やがてこれは「望まないという姿勢の中で求める」パラドックス的姿勢の中での衝動につながっていくらしい、ということです。
これは上記心理形態の3番目の、破壊性が昂進した欲求に関連します。これは大抵、自己嫌悪感情の中で破壊的衝動が昂進するという形になります。「望み求めるものから自分が排斥される」という最悪の破綻感情の回避として、「どうせ排斥されるという自棄衝動の中で望める」というパラドックスです。

先日あるメンヘルサイトの掲示板に、「自分を大切にしようと思うと苦しくなる。こんな自分なんて道具にしていいよと思う方が楽。」という女性の書き込みを目にし、どんな心理メカニズムでその思考が起きるのかとちょっと考えていたのですが、根底は、真に求めるものを捨てた「望まない」という姿勢と自己嫌悪感情の中で、荒廃化した衝動を開放するというメカニズムかと考えている次第です。

No.962 2006/05/09(Tue) 11:49:37

自己操縦心性の成り立ち-66:自分自身からの逃避-2 / しまの

■望みの停止の来歴メカニズム-1

人は望みによって生き、望みに向って歩むことで、心が成長する。そして望みを見失うことで心を病む。
これがハイブリッドの基本的な人間観です。

心理障害として心が歪むというとき、歪みの重さの質的程度を進行させる要因とは何か。価値感覚の問題や心理発達課題をめぐる心理メカ、そして感情の膿や残存愛情要求、自己操縦心性をめぐる心理メカ、それら沢山のもろもろの心理要因の中で、心の質的悪化を引き起こす唯一の決定的要因は、「望みの停止」である
これがハイブリッドの基本的な心理障害理論です。

「望みの停止」とは、特定の願望や欲求が、自分の心の中にもはやないものであるかのように非活性化され、葬り去られる状態です。
本人はそれを「諦め」「受容」のように感じることもあるし、「そんなもの!」と意識された無関心として感じることもあるでしょう。そうした本人の意識上の感覚は、あまりこの心理メカにとって意味を持ちません。意味をもつのは、その願望欲求が現実に消化吸収される「卒業」ともいえる健全な減衰をしたのではないという現実があるかどうかです。
健全な減衰ではなく、自己操縦による抑圧というケースです。

すると荒廃化の度合いが一段階進んだ見慣れぬ情動が、その人間の心の中に雨後の筍のように知らない間に湧き出てくるようになっているのを、やがて本人が気づくことになります。破壊性を増した欲求の類です。
あとは上述のさまざまな心理メカが、その、荒廃化レベルの中において自動的に駆動する、という仕組みです。

以下では、そのような「望みの停止」が、人間の来歴においておよそ3つの異なる心理メカニズムを通して行なわれるらしい、という考察です。


1)自発的能動的な望みの埋葬

これまで「望みの停止」が起きる心理メカニズムとして説明したのは、否定型価値感覚を前にしてそれが起きる、ということでした。
否定型価値感覚への反応が、望みの停止だということです。それでは駄目だ。その否定型価値感覚を是とするならば、いったん駄目な姿を消すために、望みの停止という心の動きを行ないます。
(参照:2005/11/16 自己操縦心性の成り立ち-3:背景その1否定型・受動型の価値感-3)

それが意識制御可能な、自覚された形での望みの停止のメカニズムになります。
それとは別に、意識制御不可能な、自覚されない形での望みの停止のメカニズムがあるようです。量的にはこっちの方がはるかに大規模な望みの停止を起こすものと考えています。

これが端的に起きるのは、思春期以前の学童期においてであり、感情の膿への防御として起きると考えています。感情の膿は、思春期以前には人格から単純に切り離されると言っていましたが、実はそうではなく、意識人格領域にも甚大な影響を及ぼしている。これが今の僕の考えです。

これからの話は、感情の膿の内容成分とも言うべき話が重要になってきます。その全体を整理するのは別の機会になりますが、ここで話す事柄から重要なポイントは、感情の膿とは、その根底においては、結局のところ自己否定感情の膿なのだということです。
それは単なる恐怖の膿ではなく、宇宙の愛に守られるべきであった自分でそうでなかったことへの、外界への怒りの膿であり、守られなかった自分はそれに値しない、異形なる邪悪な存在ではないかという、自己否定感情の膿です。

根本治癒姿勢として「感情の膿を流す」ということを言っていますが、それはそうした感情におおわれる体験であることを心得ておくのが有用でしょう。「自己受容」などとは対極のものです。
治癒取り組みとして、それが現実を示すものではなく、心理メカニズム現象であることを心底から保ちえる、原理原則的思考、そして現実科学的思考、さらに悪感情を嘆かずに前に進むことを選ぶサバイバル世界観の姿勢の中で、それが体験された時、それが根底から消える方向に向かう。
これがハイブリッドとして確かなものと見出している、根本治癒現象の一つになるわけです。

そのような自己否定感情の膿の内容を吟味すると、「望み求めるものから自分が排斥される」という感情特色があります。
これに対する一つの単純な防御として、「望まない」という心の動きが、感情の膿の発生とほぼ同時に、幼少期の段階で起きるものと考えています。

感情の膿が体験不可能であるのと同調するように、この「望まない」という幼い心の動きも、本人が自覚可能な範囲を大幅に越えて、ほぼ自動的に起きるものと考えています。

つまり、物心ついた時には既に、「望まない」という感情があるのではなく、ただ、「望めない自分」という既定事実としてそんな自分がある、ということだけが自覚されます。
これが僕自身の記憶を遡っても、実態に合っていると思っています。
なぜ自分が「望めない」のかという考えもなど、しようもありません。ただ「望めない自分」があることから人生がスタートするわけです。

その結果として情動の荒廃化も、既に起きた後です。この子供は概して、物事の見下しや、怒りや、臆病や、無気力を抱えて、この人生を生き始めます。「人生への嫉妬」は既に起きています。

これが、望みの停止が来歴を通して大規模に起きる第1段階学童期までの話になります。
この段階を、「自発的能動的望みの埋葬」とでも言えると思っています。つまりこの段階で停止されるのは、自発的、能動的な望みの類が中心です。
その結果、受動的価値感覚が強固に発達するという経緯となります。

引き続き思春期以降の段階について。「現実離断」と「自己離断」になります。

No.961 2006/05/08(Mon) 17:37:55

自己操縦心性の成り立ち-65:自分自身からの逃避-1 / しまの

ようやっと解説続きカキコですが、かなり間があいたのはダイジェスト小説の最終校正GWが入ったせいもありますが、次の解説内容をどうしようかと整理するのに時間がかかったせいでもあります。
それだけ難しい内容という次第。

今回は、今見えている範囲をごく理論的に簡潔に述べ、この「自己操縦心性の成り立ち」についての当面の解説を絞めようかと思っています。それに引き続き、治癒論の完結をにらみ、治癒原理について「魂の成長の成り立ち」で考察し、そしてその魂の成長によって起きる不可思議な最終的治癒現象の仕組みについて「自己操縦心性の崩壊とは何か」と題して簡潔に考察し、ここ当面の掲示板解説を終了としたいと思っとります。
その後は著作中心に、これから簡潔に解説する難解な心理メカについて、具体的事例も取り上げた詳細な研究をするのが僕のライフワークになるのではという計画。


■自分自身からの逃避・序論

この「自分自身からの逃避」というテーマで解説したいのは、我々人間の心を、我々人間の心自身が分からなくなる仕組みです。
それを我々人間の心で理解しようとするわけですから、難しい話であるのは無論、その解明理解そのものに限界があることを扱おうとするものであるかのような感も受けます。

一方、明らかに、心理障害からの根本治癒は、この仕組みが突破克服されることに依ります。自分自身で分からない状態になった問題が突破されるので、この克服も何が起きているのかはその時本人には分からない形で起きます。

「自分自身からの逃避」として何が起きているのかを整理すると、およそ2つのことが起きていると言えます。
ひとつは、望みの停止が来歴を通して大掛かりに起きる仕組みであり、もうひとつは自己嫌悪感情からの逃避の仕組みです。

それが心理障害という病理現象として起きるということは、その動きを我々の理性では全く制御することはできないことを意味します。制御することはできないどころか、それが起きていること自体、ほぼ全く自覚ない形で起きます。
かくして、自分の感情が一体何なのか、分からなくなる状態が生じます。
この状態からの治癒克服の取り組みは、まるで分断された橋を前にするように、進む方向が分からないものになります。しかもこの自己不明状態は、心理発達のごく早期から起きるらしい。

我々の心は、このように全く見えなくなったものを心の底に葬り去り厚い蓋をした上で、動いています。ハイブリッドの取り組みとして様々に説明してきた心の姿勢や技術ノウハウも、あくまで厚い蓋の上の心の中での改善取り組みでしかありません。感情の改善は、同じ意識土台の上での改善にとどまります。

根本治癒は、その厚い蓋が突破され、見えなくなっていたものが攪拌されるかのように、意識人格の中へと衝突融合が起きる形で起きます。これが自己操縦心性の崩壊です。
既にちょー難解用語の羅列ですね^^; 今回はとにかく今見えている理論の大枠整理ということで。

なお今まで根本治癒への姿勢として言ってきた「感情の膿を流す」「残存愛情要求を看取る」というのは、根本治癒が起きる姿勢としてはその通りで、上記のように厚い蓋が突破される自己操縦心性の崩壊体験の中で、実際にそれが根本治癒体験になります。

心理学として残された問題は、それがどのような状況において起きるかです。
少なくとも、それは「根本治癒を目当てに」「起こそうと」して起きるものでは、全くありません。そうした感覚は、自己操縦姿勢の表れでしかありません。
その厚い蓋の上で動く意識が理性制御不可能な形で自動的に自己操縦となっているところの、自己操縦心性が、崩れるという中で起きます。意識感情においては、あらゆる意味において、まさにそうなってはならないものとして潜在的な恐怖となっていた一種の自己破綻に突入する体験として、それが起きるわけです。

それに巻き込まれるように現実まで破綻してしまっては、元も子もありません。あくまで破綻ではなく、成長としてそれが起きる。そのような成長とは一体何なのか、という積極的な視点が決定的に重要になります
これについて「魂の成長の成り立ち」で考察し、魂の成長が引き起こす自己操縦心性の崩壊メカニズムを、「自己操縦心性の崩壊とは何か」で考察する次第です。

また付け加えるならば、自己操縦心性の崩壊は、その仕組みを理解していなくても、起きる状況であれば、起きるべきして起きるような形になります。僕自身がその好例です。後から何が起きたのかを研究して、この心理学を作っているわけです。
ですから、ハイブイリッド理論がこの辺をまだ十分説明し切れていないとしても、これまでの説明を助けにした取り組みの先で、根本治癒を体験することも十分あり得ることだと考えています。
もっと分かりやすい説明ができて、まず頭でもイメージできるようになれば、より多くの方がそこに向えるようになるのではと期待している次第です。

いずれにせよ、根本治癒は、今の自分の心では全く見えなくなったものへの対面の、実際の体験を通してのみ起きます。頭で理解できることではなく、実際の体験を持った時初めて、心の根本変化というものを知ることになります。
それが根本治癒成長のゴ−ルではなく、スタートです。その先には生涯続く変化成長の道のりがあり、可能性は無限になります。僕自身、自分が持ちえる変化全体に比べたら、今はまた道半ばどころではない、ほんの一歩を踏み出した段階に過ぎないかも知れないと感じているのが、最近の偽らざる心境です。

ということで、まず「自分自身からの逃避」という現象を起こす、望みの停止の大局的メカニズム自己嫌悪からの逃避メカニズムの考察から始めます。

No.960 2006/05/08(Mon) 12:24:47