■ 魂の成長の成り立ち-24:魂が求めるものへ-2 / しまの  |
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No.1046 2006/07/31(Mon) 15:54:18
■ハイブリッドが示す「選択」の全体像
ハイブリッドが「選択」として呈示するものの全体像を、ここでようやく描写できるように思われます。
ひとつの選択肢は、今まで通り、高い精神性理想によって自己否定し、自分を敵視することです。この結果、現実が貧困化すると同時に、その個人の本性的良心も湧き出なくなり、人間性が貧困化します。そしてそうなった自分を、高い精神性理想によって自己否定します。 奇妙につじつまが合う、自己完結の姿勢になります。これを維持するのは容易です。現実はどんどん破滅に向うでしょうが。
もうひとつの選択肢は、その対極にある「生き方」です。これを選択するためには、3つの開始条件があるように思われます。
開始要件の1つ目は、「自分自身への味方になる」姿勢です。まずは、自分自身に対して凍りついた心を溶かすことが必要です。これは否定型価値感覚の完全な放棄が必要です。
開始要件の2つ目は、「望む自由」思考です。 これが一つの「賭け」のような位置付けにもなるでしょう。なぜなら、「望み」は既に多少とも皮相化荒廃化を帯びているからです。残念ながら、先に欲求を綺麗にしてからこの選択肢に向うという形は、僕の知る限りできません。 まあ犯罪となる恐れのある欲望は、自分自身の利のために非行動化とするのが賢明でしょう。そして多少人に迷惑をかける恐れのある欲求については、自分で自衛すると同時に、人にも自衛してもらえばいいのです。サバイバル世界観です。
そして「望み」を開放した時、それは実際に人に多少迷惑をかける、もしくは人の目に不快に映るものとなる可能性が少なくない。ここに、心理学的視点を携えることで初めて可能になる、選択が生まれます。 高い精神性理想から、望みを停止したままにするか。サバイバル世界観に徹して望みを行動化するか。ただし「行動化」の「現実性刺激」によって自己操縦心性の崩壊が起こる可能性もかなりある。
開始要件の3つ目がまさに、その心性崩壊の結果起きる変化についての、自分を導くに足る知識、そしてそれを信じる意思です。 この「変化」についての知識、「未知への知」が、この最後の解説テーマとするものです。
■心性崩壊による「人間性」の回復成長
結果の方向性を簡単に2つ言っておきましょう。
ひとつは、もともとその個人が現実社会において開放して自然な望みであったケース。まあ行動への恐怖からの単純な抑制があったケースということになる、でしょう。これは比較的単純に、現実を生きる成長体験になると思います。
もうひとつは、精神性理想と皮相化荒廃化という分裂に触れる望みです。 この場合の心理構造を簡潔に言うと、精神性理想から自己否定する裏側で、「アク抜き」によって皮相化荒廃化した欲求への自己嫌悪の膿への直面が避けられているという構造があります。つまり精神性理想からの自己否定感情が、実はさらに濃い自己否定感情である「アク毒」の緩衝材になっているわけです。
この状況で、サバイバル世界観に徹して「望みの強行」をすると、多少の「良心の呵責」的な感覚にその尻尾が垣間見えた「アク毒」の正体がはっきりする、心性崩壊による感情の膿の放出が起きる可能性があります。 これは、それまで自己否定感情と望みの停止によって保たれていた空想的自尊心が崩壊すると共に、精神性理想と皮相化荒廃化の分裂の垣根が取り払われ、「良心」と「欲求」が一体となった衝突融合が起きるらしい。 この結果、心の内面に矛盾分裂のない、「良質な欲求」が根底から湧き出るようになる、新しい人間が再生するという現象が起きるようです。そしてこの「良質な欲求」が、この人間の「自分の人間性」についての揺るぎない自尊心を与えてくれるのです。
これがハイブリッドの呈示する答えであると同時に、それがこの人間にとって一つの危機的体験ともなり得ることを、否定することはできません。 何故なら、再生後の人間が「良質な欲求」に満たされたものであったとしても、心性崩壊の中で対面するのは自らの「荒廃した心の事実」だからです。
■「自己操縦」の絶対善悪から「自己の真実」の絶対善悪へ
ここに至り、再びハブリッド理論のパラドックスを言わなければなりません。
今まで言ったのは、「絶対善悪」を完全に放棄し、「善悪」も「欲求」の一つとして捉えるということです。 これは、「自己操縦」の中で掲げられた「あるべき姿」の否定でした。大元の自己否定から目を反らしたまま、それをもみ消すための「あるべき姿」、そして「他人の目」を基準にした、欺瞞に満ちた「善悪」を完全に解体する。 そして大元の自己の真実に向うことです。
しかしまさにそれによって、大元の自己否定を知るわけです。これがどう救われるのかの記述は、多分皆さんの記憶に残るほど明瞭ではなかったかと。 この「大元の自己否定」は、「あるべき姿」という欺瞞性は少なく、「他人の目の中」においてではなく、「自己の真実」において否定されるべきものとして、個人に体験されます。自己の重心を失った「絶対善悪」を捨て、自己の真実に立った時、自己の重心において「絶対善悪」を見出すのです。
それに対し、この取り組みのスタートラインとした、「感情を鵜呑みにしない」という原則を用いることも多少はできます。しかし今度の「自己の真実」は、もはやそれでは済まされない「正真の真実性」を多分に持つ。
そして再び、ハブリッドが否定してきた言葉が、ここに出てきます。「許し」です。
今まで言ってきたのは、「許し」ではなく「原理原則」です。スポーツにおけるルールと罰則と同じであり、「人の目」の中で揺れる感情に、揺らぎない軸を与えるために、感情を基盤にはしない行動法を選択します。 今まで「許す」という「情緒的判断」を人がする時、それはほぼ100パーセント、自分自身では自尊心を保てない人が、他人が自分の自尊心のお膳立てをしてくれないことへの怒りを「許す」という自己撞着でしかありませんでした。 自分の自尊心は自分で築くものです。だから「許すではなく」でした。
しかし自己の真実に立った上で、感情が必ずしも現実を示すものではないことを踏まえながらも、まさに自分の本心において絶対的に悪しきものである自己を見た時、真の「許し」の意味が現れるように思われます。 なぜなら、純粋な自己というただ一主体の内部における決断になるからです。ちょっと哲学的表現ですが。科学を超えた表現をするなら、「自己と神との間でなされる決断」といえるでしょう。
何において許すのか。それが「変化」です。そして許す決断を支えるのは、もはや「信仰」の領域になってくるのかも知れません。
■人生を賭けた「選択」へ
もはやどんな実際のことを言っているのか、想像もつかなく感じ始めた方も少なくないと思います。
実際、僕がこのことを知ったのは、自分でハイブリッド心理学を作り、「病んだ心」への対処法を明瞭にし、実践することで、加速度的に変化が早くなった、そしてその中で結構な冒険をして生きた結果でした。 その結果、今では自分でも関心するほど人畜無害な(^^;)欲求だけが湧き出るようになり、自分の人間性が人からも信頼されるものに向う方向性に確信を感じるに至ったものです。はっきり言って、ここまでは想定もしてなかった話であり、僕としてはとにかく「迷いのない強い人間」になれれば、多少反社会的でもいいとさえ考えて突き進んだ結果なのです。 ところがこの結果は、社会に大きく受け入れるものになりそうだと。だからこうして大っぴらに著作活動始めたわけです。 ちょっと余談でした。
人生という冒険へ向って見出される、心の真実だということですね。人生を賭けて、見出すものだと思います。 そして僕としては、それが万人の向っていいものだという考えなわけです。これを支える「未知への知」を、この後説明します。
とにかくこの「人生を賭けた選択」がどんな実体験として起きるのか、実例をまず紹介しましょう。
ひとつは僕自身の「魂の浄化」体験のひとつ。まおそまつな失敗体験の話です。 そしてもう一つは、心性崩壊の中で「本性の良心」を回復すると共に、それまでの自らの心の荒廃を許すことができず自ら死を選ばざるを得なかった人物の話になります。ハイブリッドに取り組んだ人の話ではありませんのでご安心を。
後者の例は、「自己の真実」というものが、人生を賭けた、人間存在の究極において初めて見出されるものであることを、比較的分かりやすく示すものになると思います。
そうした事例から、自らの心を健康なものへと開放する心理学的技術というものの本質を、学びたいと思っています。 |
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