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2006.07


魂の成長の成り立ち-24:魂が求めるものへ-2 / しまの
No.1046 2006/07/31(Mon) 15:54:18

■ハイブリッドが示す「選択」の全体像

ハイブリッドが「選択」として呈示するものの全体像を、ここでようやく描写できるように思われます。

ひとつの選択肢は、今まで通り、高い精神性理想によって自己否定し、自分を敵視することです。この結果、現実が貧困化すると同時に、その個人の本性的良心も湧き出なくなり、人間性が貧困化します。そしてそうなった自分を、高い精神性理想によって自己否定します。
奇妙につじつまが合う、自己完結の姿勢になります。これを維持するのは容易です。現実はどんどん破滅に向うでしょうが。

もうひとつの選択肢は、その対極にある「生き方」です。これを選択するためには、3つの開始条件があるように思われます。

開始要件の1つ目は、「自分自身への味方になる」姿勢です。まずは、自分自身に対して凍りついた心を溶かすことが必要です。これは否定型価値感覚の完全な放棄が必要です。

開始要件の2つ目は、「望む自由」思考です。
これが一つの「賭け」のような位置付けにもなるでしょう。なぜなら、「望み」は既に多少とも皮相化荒廃化を帯びているからです。残念ながら、先に欲求を綺麗にしてからこの選択肢に向うという形は、僕の知る限りできません
まあ犯罪となる恐れのある欲望は、自分自身の利のために非行動化とするのが賢明でしょう。そして多少人に迷惑をかける恐れのある欲求については、自分で自衛すると同時に、人にも自衛してもらえばいいのです。サバイバル世界観です。

そして「望み」を開放した時、それは実際に人に多少迷惑をかける、もしくは人の目に不快に映るものとなる可能性が少なくない。ここに、心理学的視点を携えることで初めて可能になる、選択が生まれます。
高い精神性理想から、望みを停止したままにするか。サバイバル世界観に徹して望みを行動化するか。ただし「行動化」の「現実性刺激」によって自己操縦心性の崩壊が起こる可能性もかなりある。


開始要件の3つ目がまさに、その心性崩壊の結果起きる変化についての、自分を導くに足る知識、そしてそれを信じる意思です。
この「変化」についての知識、「未知への知」が、この最後の解説テーマとするものです。


■心性崩壊による「人間性」の回復成長

結果の方向性を簡単に2つ言っておきましょう。

ひとつは、もともとその個人が現実社会において開放して自然な望みであったケース。まあ行動への恐怖からの単純な抑制があったケースということになる、でしょう。これは比較的単純に、現実を生きる成長体験になると思います。

もうひとつは、精神性理想と皮相化荒廃化という分裂に触れる望みです。
この場合の心理構造を簡潔に言うと、精神性理想から自己否定する裏側で、「アク抜き」によって皮相化荒廃化した欲求への自己嫌悪の膿への直面が避けられているという構造があります。つまり精神性理想からの自己否定感情が、実はさらに濃い自己否定感情である「アク毒」の緩衝材になっているわけです。

この状況で、サバイバル世界観に徹して「望みの強行」をすると、多少の「良心の呵責」的な感覚にその尻尾が垣間見えた「アク毒」の正体がはっきりする、心性崩壊による感情の膿の放出が起きる可能性があります。
これは、それまで自己否定感情と望みの停止によって保たれていた空想的自尊心が崩壊すると共に、精神性理想と皮相化荒廃化の分裂の垣根が取り払われ、「良心」と「欲求」が一体となった衝突融合が起きるらしい。
この結果、心の内面に矛盾分裂のない、「良質な欲求」が根底から湧き出るようになる、新しい人間が再生するという現象が起きるようです。そしてこの「良質な欲求」が、この人間の「自分の人間性」についての揺るぎない自尊心を与えてくれるのです。

これがハイブリッドの呈示する答えであると同時に、それがこの人間にとって一つの危機的体験ともなり得ることを、否定することはできません。
何故なら、再生後の人間が「良質な欲求」に満たされたものであったとしても、心性崩壊の中で対面するのは自らの「荒廃した心の事実」だからです。


■「自己操縦」の絶対善悪から「自己の真実」の絶対善悪へ

ここに至り、再びハブリッド理論のパラドックスを言わなければなりません。

今まで言ったのは、「絶対善悪」を完全に放棄し、「善悪」も「欲求」の一つとして捉えるということです。
これは、「自己操縦」の中で掲げられた「あるべき姿」の否定でした。大元の自己否定から目を反らしたまま、それをもみ消すための「あるべき姿」、そして「他人の目」を基準にした、欺瞞に満ちた「善悪」を完全に解体する。
そして大元の自己の真実に向うことです。

しかしまさにそれによって、大元の自己否定を知るわけです。これがどう救われるのかの記述は、多分皆さんの記憶に残るほど明瞭ではなかったかと。
この「大元の自己否定」は、「あるべき姿」という欺瞞性は少なく、「他人の目の中」においてではなく、「自己の真実」において否定されるべきものとして、個人に体験されます。自己の重心を失った「絶対善悪」を捨て、自己の真実に立った時、自己の重心において「絶対善悪」を見出すのです。

それに対し、この取り組みのスタートラインとした、「感情を鵜呑みにしない」という原則を用いることも多少はできます。しかし今度の「自己の真実」は、もはやそれでは済まされない「正真の真実性」を多分に持つ。

そして再び、ハブリッドが否定してきた言葉が、ここに出てきます。「許し」です。

今まで言ってきたのは、「許し」ではなく「原理原則」です。スポーツにおけるルールと罰則と同じであり、「人の目」の中で揺れる感情に、揺らぎない軸を与えるために、感情を基盤にはしない行動法を選択します。
今まで「許す」という「情緒的判断」を人がする時、それはほぼ100パーセント、自分自身では自尊心を保てない人が、他人が自分の自尊心のお膳立てをしてくれないことへの怒りを「許す」という自己撞着でしかありませんでした。
自分の自尊心は自分で築くものです。だから「許すではなく」でした。

しかし自己の真実に立った上で、感情が必ずしも現実を示すものではないことを踏まえながらも、まさに自分の本心において絶対的に悪しきものである自己を見た時、真の「許し」の意味が現れるように思われます。
なぜなら、純粋な自己というただ一主体の内部における決断になるからです。ちょっと哲学的表現ですが。科学を超えた表現をするなら、「自己と神との間でなされる決断」といえるでしょう。

何において許すのか。それが「変化」です。そして許す決断を支えるのは、もはや「信仰」の領域になってくるのかも知れません。


■人生を賭けた「選択」へ

もはやどんな実際のことを言っているのか、想像もつかなく感じ始めた方も少なくないと思います。

実際、僕がこのことを知ったのは、自分でハイブリッド心理学を作り、「病んだ心」への対処法を明瞭にし、実践することで、加速度的に変化が早くなった、そしてその中で結構な冒険をして生きた結果でした。
その結果、今では自分でも関心するほど人畜無害な(^^;)欲求だけが湧き出るようになり、自分の人間性が人からも信頼されるものに向う方向性に確信を感じるに至ったものです。はっきり言って、ここまでは想定もしてなかった話であり、僕としてはとにかく「迷いのない強い人間」になれれば、多少反社会的でもいいとさえ考えて突き進んだ結果なのです。
ところがこの結果は、社会に大きく受け入れるものになりそうだと。だからこうして大っぴらに著作活動始めたわけです。
ちょっと余談でした。

人生という冒険へ向って見出される、心の真実だということですね。人生を賭けて、見出すものだと思います。
そして僕としては、それが万人の向っていいものだという考えなわけです。これを支える「未知への知」を、この後説明します。

とにかくこの「人生を賭けた選択」がどんな実体験として起きるのか、実例をまず紹介しましょう。

ひとつ僕自身の「魂の浄化」体験のひとつ。まおそまつな失敗体験の話です。
そしてもう一つは、心性崩壊の中で「本性の良心」を回復すると共に、それまでの自らの心の荒廃を許すことができず自ら死を選ばざるを得なかった人物の話になります。ハイブリッドに取り組んだ人の話ではありませんのでご安心を。

後者の例は、「自己の真実」というものが、人生を賭けた、人間存在の究極において初めて見出されるものであることを、比較的分かりやすく示すものになると思います。

そうした事例から、自らの心を健康なものへと開放する心理学的技術というものの本質を、学びたいと思っています。


魂の成長の成り立ち-23:魂が求めるものへ-1 / しまの
No.1045 2006/07/31(Mon) 14:14:17

いよいよ、当面の掲示板開設の最後のテーマ。
この掲示板解説を絞めることができた時、説明の分かりやすさはさておき(^^;)、僕がハイブリッド心理学として伝えねばならんと感じていることの大体の要素を、ほぼ網羅できたことになります。この後は改めて誰にでも分かるような丁寧な文章を心がけ、出版本を対象に心理学解説実例小説などの原稿整理に着手したいなと。

で最後は、「変化」がテーマです。人間はどれだけ変化し得るのか。そしてその「変化を生きる」ことの意味とは何なのか。
そこに、人生の、全ての意味があると感じている次第です。

この最後のテーマの解説が終わったら、いちおう最後のトリとして、短い一考察を書いて絞めとしようかと思います。「自己操縦心性の崩壊とは何か」。心理メカニズムの視点として最後にとっておいた「夢のメカニズム」という視点で。
人間がこの心理障害というメカニズムの中で、救いを求めながら自分自身を破壊していく「夢」を見ることの意味は何なのか。徒然と考えて書いときたい。

では、人間の「心の悪化」の原動力について、僕の見解を改訂することから。


■「望みの停止」を超えた「自己の停止」

これまで、「心の質的悪化をもたらす唯一の要因は望みの停止である」と言ってきました。

心の質的悪化とは、ようは皮相化荒廃化です。
皮相化においては、深層欲求が妨げられ、深みを欠いた表層欲求が膨張します。深い自尊心を欠いた心は、地位肩書きや外見見栄えに執着します。人が深い愛を欠いた時、性が強い誘引を帯びるようになるメカニズムがあります。
荒廃化においては、すさんだ自己嫌悪感情が背景化する中で、破壊性を帯びた欲求が漏れ出します。人を踏みにじり自分だけ得ようとする衝動。さらにはっきりと、破壊し傷つけることが快感を帯びる情動が発生します。

そうした質的悪化の原因は唯一、「望みの停止」だと考えていたわけです。このつながりは比較的イメージしやすいと思います。
親のむごい態度で自分の人生への望みを断たれた子供は、大抵、親だけでない他人を憎みやすく、破壊的感情を人に向けやすいものです。

心の質的悪化の、もうひとつの原因があったようです。否、より大きなレベルでの原因があり、「望みの停止」はその一部に過ぎなかったようです。
それは「自己の停止」です。これは「自己への敵対姿勢」によって起きます。


これは先の「「真の自己受容」へ」で、今までの心理メカニズム解説で漏れていた「敵という関係性」について考察したことから、はっきりしてきたことです。
自分を敵として見る他者を前に、人は攻撃に備え身を固くし、リラックスして自分の内面を開放するのとは異なる姿を示します。上げ足や言葉尻を取られないよう、自分の本心を隠す。自分が本当には何を目指し何をしようとしているのか。そして自分の本当の価値観や善悪観とはどんなものなのか。
それと同じことが、人自身の心の中で起きるようです。自分自身に敵と見られた時、つまり自分自身に否定型価値感覚の矛先を向けられた時、人の心は自分自身に対して、自分の本当の姿を見せなくなるようです。

ようです」と推測形で書くのも、もしこれが現実に起きたとしても、本人自身に本当の自分の姿が分からなくなっているのですから、彼彼女の心が本当に感じていることは今の彼彼女が感じているものとは違うのだということを、誰も知りようもないからです。
表面に見えるものは、典型的な姿です。高い精神的理想を抱く一方で、ひとりよがりな感情と利己的な欲求という現実。そんな自分を否定し、人間はもともと不条理な存在なのだと、「真実を知った」気分によって自尊心を保つのがせいぜいという姿です。


■心理障害と「善悪」と「開放」

ハイブリッド「善悪の完全なる解体」を言い「望みの開放」と言う時、「何をしてもいいというのか」という疑問、そして「自分に全く圧力を加えなくては犯罪者になってしまう」という懸念を良く聞きます。
まあ深い心理学を携えることなく、安直に「開放」したらそんな話になってしまうかも知れませんね。ハイブリッドはあくまで徹底的に「幸福への心理学的技術」を追求した上での話になります。

カイブリッドが考える「開放」の超サマリーを書きましょう。
「善悪の完全なる解体」とは、絶対善悪の否定です。すると「善悪」「欲求」の一種になります。
「望みの開放」という時、「欲求」としての「善悪」も、同時に開放されることになります。これは自分への敵対姿勢によって消失していた、「本性の良心」とも言える感覚の回復になります。

この先に、人間性の根底からの変化があります。

高い精神的理想から自分を否定した時、自らに敵とされた心は、本性として湧き出させる善悪の感覚さえ閉ざすことになり、現実を前にして善悪が分からなくなるというパラドックス的事態が起きます。これはこの個人の、自らの「人間性」への深い不信感を作らざるを得ません。それが何よりも深く、この個人の自尊心を損なうのです。
もちろんこのままの素の思考で「開放」など考えても、答えが出るはずもありません。

もうひとつ考慮しなければならない事態があります。自己が分裂していることです。高い精神性理想から現実を否定し破壊していく時と、貧困化した現実への怒りと自己嫌悪の中ですさんだ衝動に陥る時とで、人格が分離分裂してしまっています。
だからあくまで心理障害の問題として取り組む必要があるのです。

心理障害の問題として取り組む必要があるとは、一言でいって、「感情分析の技術」が必要であるということです。感情を感じ分ける技術人格分裂の解消のためには、心の表層と深層の感情を感じ分けることが重要になります。深層の感情を感じ取ることは、心の根底で起きている人格の分裂に触れることになり、「自己操縦心性の崩壊」を起こします。
変化はこの結果として起きます。分裂した人格が融合に向います。分裂していた「欲望」と「良心」が融合に向う。この結果ははたしてどのようなものか。

いったんここでカキコ。
上記に超サマった方向で、ハイブリッドが示す「選択」の全体像を次に。


魂の成長の成り立ち-22:「真の自己受容」へ-6 / しまの
No.1044 2006/07/30(Sun) 16:09:07

新たな視点も含めた上で、改めて治癒成長道のりを整理し、「大方向転換」の要因の最終まとめをします。
そして最後に残されたテーマへつなげま〜す。
またちょっと書きなぐりで、文章洗練度は低めですけどね^^; もっと洗練させるのは出版本で〜♪


■治癒成長道のり概観

この「魂の成長の成り立ち」では、治癒成長への道のりの中で通るものと考えている、「生き方」の大方向転換について解説しています。

この大方向転換は、長い道のりにおいて、ただ1回だけ起きるものと想定しています。
それだけ大きな、根本的変化なわけです。それはまさに、人の心を病ませるベクトルから、心を健康で強いものへと育てるベクトルの主座が入れ替わる出来事です。その定着のために本人の意識においては多少の確認思案の繰り返しが起きることはあろうものの、意識思考を超えた大きな心のメカニズムによるものであり、揺れ戻りのない、確実なものと考えています。

生き方の根本転換というメインの視点からは、それは「自己操縦という生き方」から「自己受容という生き方」への転換と捉えられます。自己否定に立ち「なるべき自分」へと自己操縦するという生き方から、大元の自己否定に向き合い、自己の本性的克服能力に自己の人生を委ねる意志に立つことです。

繰り返しになりますが、「今の自分を受け入れる」という意味はないことに留意下さい。それはあくまで「なるべき自分」に立って自己否定する、自己操縦ありきで生まれる、自己否定逃れのためのごかまし思考です。
ハイブリッドでの「真の自己受容」は、あくまで大元の自己否定への直面と克服の歩みのことを言います。いかにも「自己受容し心を解き放って生きている人間」というイメージへと自己操縦する焼き直しである「今の自分で満足」「全てに感謝」とかのごまかしではなく、まず自己否定という人間の業を受け入れ、さらにそれを超える自己の成長能力を知ることです。

思考面ではそうした「生き方の根本転換」を支えるものとして、愛と怒り、そして善悪観念などの「心の命題」の転換が必要です。「神の国」と「弱肉強食性悪説世界」の矛盾葛藤の世界から、「サバイバル性善説世界」という、完全に独立した論理思考への転換が必要条件になります。

感情面では、否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換が条件になります。
取り組み上これが最も難しい話になるでしょう。幼少期から深い感性として根付いたものの根底からの転換です。このためには、自己操縦心性の崩壊という、心理障害傾向の外器の弱化がまず必要です。それによって感情の膿の絶対量の減少が、上述の思考面の転換、そして生き方の根本転換の土台として必要になります。

このため、治癒成長への道のりを概観すると、取り組み前半はまず、自己操縦という生き方が膨張した結果起きている自己不明を解いていくことが、主な課題になります。自分が一体何を考え何を感じているのかも分からない状態を、解きほぐしていく。自己理解が進むと、何が起きているのか頭で理解できる前に、自己矛盾が心の底で判明し自己操縦心性が崩壊する体験が進む形になります。
取り組み前半はとにかく動揺に満ち辛い時期となり、感情を鵜呑みにしない知性をいかに築けるか、そして悪感情への耐性をつけることが、勝負を決める主な要因になります。

取り組み前半はとにかく、自分の「自己操縦」状態をつかむことが課題です。それをおろそかにしたまま、上述の「生き方の転換」「心の命題の転換」「価値感覚の転換」を考えると、「それができた自分」を自分に当てはめ「ふり」をするという、まさに自己操縦そものものやき直しになります。これが取り組み前半の最大の留意点になるでしょう。

そうした取り組み前半を経て、どのような条件が整うことで、最も難しい価値感覚の転換が可能になるか、さらに分析していきましょう。


■否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換条件

長い道のりで1回だけ起きる大方向転換の側面要素を上のように整理しましたが、中でも最も難しい「否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換」の条件を考えます。
これは僕自身の体験として実感する要素になります。これを整理することが、論じている「生き方の転換」があくまで「病んだ心から健康な心へ」という特別なものについてのことである、本質要素を浮き彫りにしていくでしょう。

まず取り組み前半の動揺時期は多少収まってきていることが条件になります。
その上で、僕の体験的考察では、主に2つの要因が、大方向転換への足がかりになったと言えると思います。

1)生み出す力の自覚

相手を「否定破壊」できることよりも「現実において生み出す」ことを強さと考え、実際にその強さが自分にあることが条件になります。結構高い敷居かも知れませんね^^;

これへのステップとしては、引き続き僕の体験的考察では、まず「負けない」強さを目指したのが第一歩のように感じます。相手に思うように扱われたり、怒りに脅されて屈従したり、巧みな弁舌で負けたりしない強さをまず目指しました。
そのために「ハーバード流交渉術」を学んだのが、僕の人生の転機の大きな要因の一つになったわけです。

この行動学では、負けないために、我々が素の頭で考えるのとは全く逆方向とも言える、「相手を肯定する技術」のようなものを学びます。卑下追従は素の頭でせいぜい考えられる、下手な方法です。卑下することなく、ものごとの道理つまり原理原則を踏まえ、相手の中にある一片の真実を認めてあげることです。すると相手は、自分を味方として受け入れ、こっちの言い分を劇的に受け入れるようになります。

最初はこれを、感情は「奴は敵だ」と言っている中で、行なうわけです!実際かなり抵抗感を伴いながらの、難しい話ですが、最初はそうならざるを得ません。まあ言わば、表面は負けて、実を取るという姿勢に、自分を多少強制します。
それが上手くいくと、実は勝ったのは自分であることに気づくわけです。

これを「表は負けて実を取る姿」の安直な演技で行なうことなかれ。「原理原則を踏まえ相手の中にある一片の真実を認める」における原理原則の正しさが勝負になります。どんなにこの行動法をしても、「勝てる原理原則」を修得しない人間は、負けるのです。

これが多少できると、既に大方向転換の扉がちょっと視界に入る感じになると思います。
それは今までの世界観がちょっと変化する、奇妙な感覚を感じる瞬間になるでしょう。「敵に負けない」ことが目標だったのですが、その強さを獲得した時というのは、「敵」が消えているわけです。

ここで述べたことのより本質的なのは何かと言いますと、「変化させる力」の獲得自覚がキーポイントになります。
人を変えることは難しいが、自分を変えることはできる、と良くいいます。その通り。
しかしさらに、自分を変えることに慣れ、それが空気のように自然になった時、人を変えることが容易になるのです。
まあ一言でいうと、相手を味方として取り込む技術です。これに勝る「負けない方法」は恐らくないでしょう。

2)否定型価値感覚の論理的誤りの自覚

人を変える強さ」を獲得した上で、否定型価値感覚を根本的に放棄する、内面の問いを行なうことができると思います。
これが自己操縦の焼き直しでないためには、感覚そのものを変えようとするのではなく、感覚が生まれる大元の「心の論理」を捉え、その論理的妥当性を問う形になる必要があると思います。これは深層意識を感じ取る、感情分析の技術が必要になると思います。

妥当性を問う論理とは、以下のようなものになります。
これだけは駄目だと否定することが正しいと感じる、人間の悪しき属性がある。
しかし人間はもともと不完全な存在である。それを駄目だと否定することは、現実には存在しない「完全性」を求めることになる。これは誤りである。
すると問題は、「不完全の範囲」における問題となる。「いくら何でもこれは」と感じるとは、「ここから先は駄目」という「境目基準」を設けることになる。
つまり「これは駄目と否定することが正しい」とは、「境目基準が正しい」という命題である。
しかし人間が不完全な存在であるならば、この「境目基準の正しさ」も不完全だということになる。

僕の場合、意識表面に現れた「足がかり」は、そこまでです。その瞬間僕の中で、「善と悪の境目基準」が完全に崩壊したわけです。
(参照:7/18「魂の成長の成り立ち-11:「神の国」から「放たれた野」へ-8」)


■大方向転換への最後の要因:「未知への知」

上記の2つの足がかりを、「否定型価値感覚を向けると敵という関係性が生まれる」という視点によって、次のようにまとめることができます。直感的にも分かりやすくなると思います。

つまり、「敵でいることが正しいとしたまま相手を変えられない弱さ」から、「味方として変えていく強さ」へと選択変更をするということです。

ただしこれだけで実際に大方向転換を成すことは多分できないでしょう。実際世の多くの人が、多少このことを知ったまま、「相手は敵」という感情の方に良く立つものです。それは「正しい正しくないの問題ではなく、個人的に嫌だから、敵なのだ」という感じになるかと。
そして同じ姿勢を自分自身に向けることになります。こんな自分が嫌なのだ。自分自身に敵とされた自分は固く身構え、本心を自分自身に湧き出さなくなります。そして自分は変化することはないままです。

何が最後の要因として残るのか。キーとなる言葉を既に出してあります。「生み出す強さ」とは「変化」についてのことだということですね。
「生み出す強さ」の先に起きる「変化」とは何なのか。それについての知識知恵、そして信念が、上記の選択変更の動機となるわけです。

この信念が、「真の自己受容」の本質になります。自分の味方でいることで自分を変えられる可能性についての信念。それがあるから、「敵」という関係性を生む否定型価値感覚の放棄をするわけです。
「絶対性」という、論理的な欠陥を持つ全能感万能感の代わりに、「未知」という全能感万能感を選択する。その動機となるのは、その「未知」が現実においてどんなものであり得るのかという、「未知への知」になってくるでしょう。


実際、「真の自己受容」とは「今の自分を受け入れる」ことではなく、自己操縦の大元にあった自己否定に立ち戻り、異なる克服への方向性を選択することなのだと言いました。やはり「否定されるべき自己」がスタートになるのです。
そこからどんな変化があり得るのか。それを視野に入れた時、初めて「選択」が真に問えることになるでしょう。

それを次に考察します。それがいよいよこの掲示板解説の最後のテーマになります。
魂の荒廃」から「魂の浄化」へというメカニズム。それを導く、「魂の求めるものへ」という方向性の、具体的分析です。


魂の成長の成り立ち-21:「真の自己受容」へ-5 / しまの
No.1043 2006/07/30(Sun) 00:06:53

「真の自己受容」の論理的整理。これはちょっと抽象的。

■3つの心の世界における「善悪の転換」

先のカキコで、「真の自己受容」を「否定型価値感覚を解かれて湧き出る本性の善悪感覚に立つという意志」だと述べました。
今まで「善悪の完全なる崩壊」という言葉を出していたこととの関係は?と感じる方も少なくないかと思います。

なおこの定義はまだ「真の自己受容」の一側面を言っているだけにとどまります。もう少し後に最終的定義を。

まず上記が、「「神の国」から「放たれた野」へ」というテーマで説明してきた、3つの「心の世界」における「善悪の転換」を示しているということになります。「神の国」と「弱肉強食性悪説世界」が一つの善悪論理の世界であり、「サバイバル性善説世界」で全く別世界があると。

「サバイバル性善説世界」では、善悪は「あるべき姿」ではなく、個人自身の欲求に基づく理想と位置づけられます。この「放たれた野」に生きるそれぞれの存在が掲げる善悪が相容れない時、その中のどの善悪観が一番正しいのかと見る「大きな目」はもうありません。


■「自己操縦」vs「真の自己受容」

「本性に立つ意志」であるとは、自己操縦心性の心理メカニズムの原形である「自己操縦」という生き方からの根本転換としても理解することができます。こっちの方がピンとくるかと。

自己操縦とは、自己否定に立った上で、「なるべき自分」の姿を自分に課す生き方です。それはまるで厳しい戒律を課す宗教の実践のようで、やがて「なるべき自分」通りに完璧にはなれない自分への自己処罰へと落ちていくのですが、もはやその自己処罰感情の由来は大元の自己否定にあったのか、それとも自己操縦の失敗にあったのか、混沌の中に陥ります。

その時人は、引き続き問題はいかに自己操縦を成功させるかにあるのだという焦りの中で生き続けるか、それとも自己操縦そのものをやめ、大元の自己否定に正面から向き合い、自己操縦以外の生き方の中でそれを克服する道へと歩むかの、選択肢を持つことになります。
「真の自己受容」とは、後者を選択することを指します。

ハイブリッドにおいて「自己受容」は、「今の自分を受け入れる」という意味はほとんど持っていません。
取り組みの始まりには「基本的自己受容」を言います。これは「唯一無二の存在として成長する意志」です。
取り組みの実践では、「自己受容ではなく」です。もっと具体的に何をどう変えていくかに取り組みます。
そしてその前進の目安として、いよいよ人間性の根底からの変化成長への旅立ちを示す、「真の自己受容」を言います。これは「自らの魂の成長の方向へと歩む意志」が定義になります。

まあ結局は「自己否定」という人間の業としての問題があり、そこからの克服成長への方向性を問題にしているんですね。「気持ちが楽になる方法」の話じゃありませんので^^:
その方向性の一つを、「自己受容」と呼んでいるわけです。
そしてそれをあくまで「自己受容」と呼んでいるのは、人間の最も真実といえる本性そのものに、その方向性が宿っている、それを受け入れるという選択だからです。


抽象的ですね。ま僕の理論整理上のメモみたいなものということで。
いずれにせよ、人間としてのある目標に向う姿の、一見すると似たものの、内面における根本転換を解説してるわけです。感情分析も、これを見分けるためにある。

次に、より実際の体験面で、この根本転換が可能になる条件を考察します。
あくまで、「病んだ心」から「健康な心」への克服成長という特別な問題を扱っている重みが、実際の感情面でどんな転換に表現されるのかを見てみます。


魂の成長の成り立ち-20:「真の自己受容」へ-4 / しまの
No.1042 2006/07/29(Sat) 15:51:21

ちょっと書きなぐりですが、これまでの心理メカ理論で抜けていた重大視点から、「真の自己受容」の話の入り口まで。


■典型的心理障害傾向に現れる「敵という関係性」

心理障害傾向の中で、「敵」という関係性が非常に前面に出ます。

治癒成長への取り組み初期段階において、これはもはやあまりにも当たり前の既定事項のように心の背景に広がっており、本人がその感情の存在さえ自覚していないことが少なくないでしょう。

これは僕の『悲しみの彼方への旅』においても、失意の中で他大学心理学科へ編入学した頃、温厚で真面目な人間を演じながら、「自己分析によって対人関係を改善する」という意識の裏にあったのは、実は広範囲に蔓延した他人への敵意なのだということが次第に自覚されてくる様子として描写しました。
まこの局面はかなりはしょってるんですけどね。もうどうしようもない程すさんだ感情の中にあった時期です。「若い女性を憎むことに人生の目標を置こうか」なんて、下手すると道を踏み外してたような感情を知る。自分の心が「敵意と軽蔑のモヤ」に覆われていることを次第に自覚し始めるという次第。

広範囲な敵対感情が自覚されないまま、「良い人間関係」を自分の課題だと考えようものなら、もうそこに現れる思考はひどく歪んだものにならざるを得ません。これは実は心理障害傾向が発達するに任せた結果人が陥る、典型的状況だったりします。
まず、他人というものが、おしなべて極めて悪意に満ちた存在のように感じられます。人の心の中は全てヤクザと同じというような。それに対して、良い関係を築こうと考える自分があまりに清らかでけなげな存在に思える。
そして高い精神性という中空のプライドと、現実の自分への深い自己嫌悪感情を抱えるこの個人は、他人のごく些細な「無配慮」な言動に、まるで傷口にからしを塗られたかのような、「酷い仕打ちを受けた」という反応で受け取り、「やはり他人なんて..」という憎悪に陥る。
あまりにも典型的心理メカニズムの出来上がりです。

人が性悪説的な感覚の中で、「人間は所詮..」という感覚の中で抱く「悪」は、実は「敵意」のように思われます。人は心の中で実は互いに敵意を持つ存在である。

多くの人が感じる「人間集団というものへの嫌悪感」もそれでかなり理解できますね。心の中で実は敵意を持つ人間同士が、何かの利害で結びついた烏合の集団。実に腹黒い、汚れたイメージです。それに比べれば、孤独を選ぶ自分は純粋である。
でも現実には何らかの集団に入らざるを得ません。するともう持ち得るのは、敵の中で受け入れられようとする、屈辱的な迎合や、まるで意地悪な面接官を前にした、些細な「礼儀作法」の成功失敗に心をすり減らしていくような「人間関係のストレス」です。

「敵意」が自然なものと感じるのであれば、そうなります。
それは、自分が敵意を抱いているということになるでしょう。

「敵意」が必然的に生まれる背景となった心理メカニズムを考察しましょう。


■「敵という関係性」の心理発達

心理障害傾向の中で感情の前面をおおうことになる「敵意」の心理発達について。

最近の考察の中では、僕はこれを「優越欲求の荒廃化」、つまり「相手を打ち負かす」ことに優越を求める傾向の発達の結果のようにイメージしていました。となるとこれは思春期以降という、心理発達のかなり後の方で生まれる感情ということになります。
それは事実とちょっと違う感がありますね。もっと早い児童期から、「敵意」は漠然と生まれていると思います。ガキ大将の縄張り争いの世界。

サイト掲載の初期原稿の感情メカ理論で登場の「基本的不安」。これは「自分は世界で孤立しており、他人は潜在的な敵と感じ、それに対抗するには自分は無力だという感覚」です。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech01-012.html

ただし現在の僕としてはこれについては多少違う考えを取っています。ホーナイのその概念だと、「基本的不安」という心理状態が幼児期に心の土台に根付くということで、なにか固定的で、その後の変化があまり感じられないものがイメージされる。
しかし僕としては、その感情はむしろ「感情の膿」という特別品として捉えています。幼児期には多少ともそれは切り離される。やがてそれが意識に触れたり、または「放出」という治癒現象があると。

いずれにせよ、そうした基本的不安の感情の膿の中では、「他人は潜在的な敵」と感じるのであって、「明示的な敵」ではありません。
「宇宙求愛」や「全破壊衝動」といった、自他未分離な原初感情においては、「敵」という感情よりも、むしろ自分の味方であるべきものが自分を攻撃してくるというような、混乱した感情の世界が問題になってくると思われます。

つまり今の考察の結論を言いますと、「敵という関係性」の発達としては、以下のような3段階を考えています。

1)まず生まれるのは世界への漠然とした怒り破壊の感情。これが幼児期初期からになります。

2)破壊できる力による自尊心感情。これは幼児期なかば頃、「自分」という観念が生まれると同時に始まる自尊心を求める感情に、上記の怒り破壊感情という背景が結びついた結果です。
この段階で、同じ感情つまり否定型価値感覚を自分に向けてくる相手は、明示的に「敵」と感じられるようになると思われます。

3)破壊型理想の心理。これは思春期になって、「人生」という観念が生まれ、精神性が現実から乖離した中で抱かれる理想です。
この段階で、否定型価値感覚がはっきりと自分に向けられることになります。自分への敵になるわけです。


■「現実の貧困化」から「人間性の貧困化」へ

かくして、否定型価値感覚の延長で起きる事態について、深刻な隘路をひとつ追加となります。

ひとつの隘路とは、「現実の貧困化」でした。「現実なんて..」という破壊型理想で現実のさまざまなものを見下す姿勢によって、現実を豊かにする術を自ら放棄し、さらにしばしば積極的な現実破壊に流れ、自分の生活基盤の貧困化を招くことです。
(参照2006/02/17「自己操縦心性の成り立ち-40:現実離断とは何か-9」)
これはまだ本人が気づくことができる範囲内のものです。

もうひとつ加えなければならない隘路は、もはや本人が全く気づくことのできない、大きな損失であり、「人間性の貧困化」が起きるという、悲劇的事実です。
ホーナイ自己嫌悪を「人間の心の最大の悲劇」と指摘していましたが、僕としては、その悲劇のシナリオの核となるのがこれなのだと指摘したい。

つまり、「人間性の貧困化」という事態が起きる、明瞭なメカニズムがはっきりあるということです。
それは、破壊型理想が自分自身に向けられることで、本人の心の中で、安全と前提に湧き出る「遊び心」や好奇心や本性からの願望などが凍りつき、湧き出ることなく消失した状態が起きる。
さらに大きな位置付けを持つものとして、本性的に湧き出るはずだった、その人本来の価値観善悪感や倫理感覚が、消失するというメカニズムです。

この結果、高い精神性の理想を掲げるこの人間が、現実場面に際してしばしば善悪感覚を失う結果となります。現実が自分の掲げる理想通りではないことを受け入れた時、もはやものごとの善悪をどう考えていいのか、全く分からなくなってしまうのです。
この「本性的善悪感覚の消失」は、明らかに、この個人の「自分自身の人間性」への深い疑問と不信感を生まざるを得ません。


自分と他人を見下すための高い精神性理想。その一方で、現実の中で善悪を分からない心を抱えた自分。こうなるのがどうやらメカニズムらしいという、驚愕の結果となった次第。
これまで、心理障害傾向の中で人が自分を容赦なくこき下ろす姿は、主に「理想が高すぎる」ために現実が低く見えすぎているもののように、僕自身扱っていました。それだけではない隘路が、否定型価値感覚の先にはあったということですね。

まあまずは、こうした話を、「やはり自分はどうせ」と自己嫌悪の材料に使うことなかれ。まさにそれがこれを生み出している、という全体をまず視野に入れて頂きたい。

そしてより真剣に、「選択」を問う取り組みに向うべきだと思います。


■「真の自己受容」へ

人は「高い人間性」の理想を抱えるのですが、それがまさに、「人間性」の源泉となる本心からの意欲や善悪感覚を消失させる。
この状況を理解頂く先には、主に2つの方向性があると思います。

一つは、この状態の深い自己分析は、自己操縦心性の崩壊に直結せざるを得ないと感じています。これは仕方のないことです。これが治癒だという心理学の目を持って頂きたい。
今まで自分が「生き方」として追っていたものが、全く出口のないものであることを自覚することになります。「自分は駄目だ」という幻想的自己嫌悪感情におおわれ、意識は破綻します。それでいいんです。後は「未知の自分」に任せ、「思考の断絶」に入り、死んだ気になって休むのがいいでしょう。
その後には必ず、肯定型価値感覚への準備が進んだ未知の心の割合が徐々に増えています。

心性崩壊を何度か体験し、もしくは心理障害傾向としても最初から軽度な場合、肯定型価値感覚が多少とも準備されているようであれば、最大の選択を問うべき時が来たと言えるかも知れません。
今までの否定型価値感覚による生き方とは全く違う世界が、視野に入ってくるかも知れません。

その「選択」を我々が成す動機となるのが、まさに、我々がどのようにして我々自身の「人間性」を育て豊かなものにできるかへの、明確な答えなのです。
それが「真の自己受容」になります。この本質は、我々が生きていく上で課される善悪判断を、否定型価値感覚を解かれて湧き出る「本性の善悪感覚」に立って行なっていくという意志です。その先に、「人間性」の根本からの変化成長が始まります。


「善悪の完全なる放棄」が実は、やはり「善悪」に還ってくるんですね〜。

この「選択」の状況について、最終整理をしましょう。


魂の成長の成り立ち-19:「真の自己受容」へ-3 / しまの
No.1041 2006/07/29(Sat) 12:21:50

■「自己への敵」という命題

否定型価値感覚の放棄」を本質とする「不完全性の受容」という最大の道標の先に、「真の自己受容」という、人間性の根底からの成長変化への新たな道のりの始まりを告げる、もうひとつの大きな道標がある。

「否定型価値感覚を放棄した先に、真の自己受容がある」。
この言葉では一体何のことを言っているのかほとんど表に出ない感もありますが、この逆形を考えると、何かが浮かび上がってくるように思われます。
逆形とはつまり、否定型価値感覚の中で、人は自らへの敵になる、ということです。

「自己受容」の対極にある、「自己への敵」という存在様式。
実はこの意味を考えることによって、「真の自己受容」の意味がはっきりしてきました。

「敵」という「関係性」。これが解説済みの心理メカニズム理論の中で抜けていたのは、我ながら大きな抜けでした。
まあ僕自身が、「他人は敵」という感覚をかなり前に捨て、忘れていた面もあったかと。でそれが及ぼす影響範囲の考察が抜けていた。
体験的に言うと、僕にとって他人が敵ではなくなったのは、やはり「不完全性の受容」と同期するものです。

極めてつながりが難解な話なのを感じますが、「敵」という命題を改めて考察するところから。


■「敵」という「関係性」の心理影響

肯定型価値感覚が湧き出る心理状態として、「自分自身の味方でいる姿勢」というのが重要な条件になります。肯定型価値感覚というのは基本的に「安全」を条件にするので、自分が自分の味方でいる安全感が必要だということになるんでしょうね。

否定型価値感覚が広範に染み付いた心理状態では、何かと「敵対姿勢」が目立ちます。人が敵に感じられているし、自分の現実をまるで親の仇の首を取ったかのように見下す、自分自身を敵にするような姿勢もしばしばです。

敵を相手にした時の、人の心理状態を考えるといいでしょう。
最も基本的なのは、身体を固く緊張させる反応です。これは攻撃に備える生理的反応です。

さらに「敵を相手にした心理状態」全般にある特有の圧力がかかる様子は、仕事の中で利害関係の対立する、「敵」となる組織を相手に行動する時の様子に良く現れると思います。
「敵」を相手にした会議では、神経を張り詰め、話の流れの一言一句に注意し、先方の言葉尻を逃さず、こっちに不利にならないよう言動をコントロールすることが求められます。
相手に対して、リラックスした遊び心からのジョークも口にしないし、心の中でどう感じているかという自分の本心も見せない。

また法廷や国会などで、敵味方に分かれて討議している人々の様子でも、相手の落ち度過失は見逃さず徹底的に叩く、身内の落ち度過失は大目に見る、という対極の姿を見ることができます。

相手を敵と感じた人間の特徴は、北朝鮮に拉致されながらも北朝鮮で生きざるを得なかった人物に、最も良く知ることができます。
帰国した蓮池さん夫妻や、ジェンキンズ氏、最近では横田めぐみさんの夫であった、韓国から拉致された金英男(キム・チョルジュン)氏。
日本が敵だという構図の中にある限り、彼らは決して自分の本心を話そうとはしていなかったわけです。本当はどう考えているのか、どう感じているのか。彼らの本当の価値観や善悪感も、北朝鮮当局の統制から本当に開放され安全になるまでは、決して言えるものではありません。

日本に帰り、回りが皆本当の味方なのだという安心感の中で、凍りついた心が解かされ始め、持ち続けていた本当の心を人に示すことができるようになります。


■自己の敵となった時凍りついた「本性」

人が否定的価値観を自分自身に向けた時、その人自身の心の中で、同じことが起きるようです。
自らに否定破壊の目を向けられることを感じた「魂」は、固く身構え、安全感の中で初めて湧き出させることのできる、遊び心や、心の根底で持つ価値観や善悪感覚を、湧き出させなくなる。


これが一体何を意味するのか、今までの心理メカニズム考察と合わせて概観してみましょう。


魂の成長の成り立ち-18:「真の自己受容」へ-2 / しまの
No.1040 2006/07/27(Thu) 14:26:21

■肯定型価値感覚を引き出す方法..

先のカキコで「肯定型価値感覚を引き出す方法論」みたいな言葉を書きましたが、ちょっとこれは誇大広告的な表現だったかも知れないですね^^;
じっくり考察中ですが、肯定型価値感覚は基本的に「何の意識的努力もせずに湧き出てくる」ものなので、「引き出す」という、ピンポイント的にそれを導き出すイメージはちょっと魔法のような、実際にはないものと思われます。

「肯定型価値感覚の中で生きようとする姿勢」はあります。日々の生活の中で、どんな感情や出来事に注目し、それを自分の生きる方向だと考えるか。人との競争の中でのストレスに満ちた勝利感を生きる方向と考えるか、ただ好奇心に導かれた趣味活動の中の喜びを生きる方向と考えるか。そんな話。
これは重要な「選択」ですね。

いずれにせよハイブリッドでは、「否定型価値感覚の完全な放棄」というのを、治癒成長道のり上の最大の中間道標だと考えています。
否定できる自分に価値を感じる」否定型価値感覚が活発状態である限り、人は「否定する自分」と「否定される自分」という分裂状態にあり、「一つの人格として成長」する歩みが起きないままだからです。
人間性の根底からの変化成長への歩みは、「否定型価値感覚の完全な放棄」の後に始まります。

というわけで、「否定型価値感覚の放棄」への方法論を考えているのですが、これについては、心理メカニズム理論の延長として、否定型価値感覚がもたらす影響範囲についてさらに深い理解を図って頂くのが良いかと思います。

今度は「魂」の範囲に踏み込む話になります。
それによって初めて我々は、否定型価値感覚というパンドラの箱によって得たものと失ったもののトレード・オフの真の姿を知ることができるような気もしています。
それは「否定型価値感覚の放棄」という最大の道標をステップとして、さらに先にあるもうひとつの大きな道標への足がかりになるかと思います。


■2つの大きな道標

もう一つの大きな道標とは、「真の自己受容」です。

「真の自己受容」を、「肯定型価値感覚を引き出す心の技術」のように考えてみようという気もあったのですが、どうやら「自己受容」というのは、やはりそんな簡単なものではないらしい。
肯定型価値感覚を引き出すのは、やはりハイブリッドの全ての取り組みを通して、それを妨げたものを取り除くのが方法になります。中でも本質はやはり心性崩壊です。心の土台における肯定型価値感覚の準備は、ほぼそれに依存します。

ある程度の心性崩壊によって肯定型価値感覚が準備された先に、「否定型価値感覚の放棄」という最大の道標が見えてくる。
そのまた先に初めて、「真の自己受容」という深淵なる世界があります。そう言えば今回の『悲しみの彼方への旅』でも、「自己の受け入れに向って」いったのはようやく最後なんですね。

まそうした事柄にかかわる話をします。
否定型価値感覚の放棄」と「真の自己受容」という大きな2つの道標の本質の解説ということになります。

短めですがいったんカキコ。


魂の成長の成り立ち-17:「真の自己受容」へ-1 / しまの
No.1039 2006/07/26(Wed) 10:59:29

否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換を可能にするものは何か、という課題に考察が至った今、これまであまり切り込めないままでいた、大きなテーマをここで前面に出したいと思います。
「自己受容」です。

ここに至ってようやくその分析的な理解が可能になる考察材料が整ったと感じる次第。
肯定型価値感覚という人生の宝石を開放し、促す、「真の自己受容」を考察します。
例によって、位置付け整理の序論から。


■真の自己受容序論:治癒成長を決定づける「価値感覚」

例により何の話をしているのかのおさらい

愛と幸福、怒りと強さといった「心の命題」について、全く異なる論理を持つ「心の世界」がある。
人はその中を、「神の国」に生まれ「放たれた野」へと育つという転換と変遷をなすのが、人間の脳のDNAに刻まれた「成長の摂理」なのだ、とハイブリッドでは考えます。
「依存」と「既知」の世界から、「自立」と「未知」の世界へと。

しかし一方で人間は、幼少から成人へと成長する中でも、「依存と既知」の世界にとどまろうとする部分を、自らの心の中に抱える存在となったようです。
これが生まれた由来は2つでしょう。一つは文明であり、一つは心理障害です。「文明」がその由来とは、まあ「学習」という「既知」に頼りすぎる傾向が人々の中に一般に起きる結果となったということですね。

「自立と未知」の世界に向うか、それとも「依存と既知」の世界にとどまりながら「神の国」と「弱肉強食性悪説世界」の葛藤に迷うか。
この流れを決めるのは、その人間がそれまでの来歴で、「肯定型価値感覚」と「否定型価値感覚」をどのように発達させたかによって、ほぼ決まってくるように思われます。

「肯定型価値感覚」は、無から価値が湧き出る、人生の宝石と言える感覚です。人生の楽しさと喜びは、この感覚に依存します。人が社会文明によって多少「既知」の世界に偏る傾向があっても、健全な姿においては、人生の経験が人を自然と「未知」の方向に向けていくように思われます。「未知」が無限の感覚を、つまり全能感万能感の感覚を与えてくれるからです。そして「未知」を向く姿勢が、「心を解き放つ」ことを可能にします。

「否定型価値感覚」は、「否定できる自分に価値を感じる」感覚です。「生み出す」価値を知らず、自己の重心を欠いた、自己空洞をもたらす、価値を他者に依存する感覚です。
この感覚の中で無限の感覚、全能感万能感の感覚を与えてくれるのは、「既知」の中において「絶対」であることになってきます。
他を否定できるための、「これが絶対」というものが追い求められるものになります。そして価値を他者に依存する心の中で、自分は特別な存在だという漠然とした感覚に「絶対」を求め、全能感万能感を感じる結果、しばしばこの人間を病んだ自己中心的思考と感情の世界へと陥らせます。

ハイブリッドが考える心理障害からの治癒成長では、否定型価値感覚の完全なる放棄である「不完全性の受容」が道のり途上での最大の道標として位置付けられます。これによって、心理障害による積極的感情悪化の威力がなくなります。人間性の根底からの変化過程は、この後に長い道のりとして始まります。
「不完全性の受容」は知的側面においては、「絶対なるもの」の非現実性の自覚が重要になると考えていますが、同時に、建設的行動法の修得による「生み出す価値」の感覚の増大重要な準備過程になります。

ただし来歴の中で否定型価値感覚が広範囲に根付いている場合、建設的思考法行動法そのものが生まれてこない状況が多々あります。建設的」とはハイブリッドでは、対人関係で共通目標共通利益のみに着目する姿勢を指します。そのためには、まず価値を他人に依存せず自律的に感じることができることが前提です。
否定型価値感覚の放棄のためには、まず思考法の転換などによって肯定型価値感覚を伸ばす必要があるのですが、広範に染み付いた否定型価値感覚が、まさにそれを阻みます。

ここに来て、もはやどう考えても変えようのない、治癒成長への限界が生まれてくることになります。実際、この限界のために変化が期待できないケースもあるでしょう。ただしこれはハイブリッドのような取り組みには見向きもしないようなケースになるでしょう。

ハイブリッド心理学を公開し始めて3年半が経過していますが、比較的短期間の内に根本的変化に至った方、最初の感情安定以降は停滞が比較的長い方、そして一進一退の中の除々の向上に時間がかかっている方という、まあ大体3パターンくらいが見えてきている感じです。
この治癒成長パターンは主に感情の抑圧傾向と、価値感覚の優勢状況で決まってくるようです。抑圧が少なく肯定型価値感覚が比較的生きている場合、短期間で根本変化。抑圧が少なく否定型価値感覚の優勢なケースでは変化は起きているが時間がかかる。抑圧が多く否定型価値感覚の優勢なケースでは停滞気味。なお抑圧が多く肯定型価値感覚の生きているケースはまず見かけません。


■「魂」に所属する「肯定型価値感覚」

まいずれにせよ、肯定型価値感覚の準備度合いが治癒成長のなりゆきを大きく決定付けているのですが、その肯定型価値感覚をいかに引き出すかについては、今まで方法論を用意できないまま手をこまねいていた次第です。

というのも、ハイブリッドの取り組みの実践は主に、思考法行動法や感情分析といった「目に見える心」への対処法だからですね。
肯定型価値感覚は、いかなる思考法や心の姿勢で生み出すものでもなく、人間が生来持つものです。「目に見える心」よりも深いところにあるということですね。これをどう開放できるか。

ということで、「肯定型価値感覚のメカニズム」として、ひとつ考え方を導入したいと思います。
肯定型価値感覚は「魂」に所属するという考えです。そして「魂への姿勢」によって肯定型価値感覚の湧き出かたや増進が変わると。

そしてその「魂への姿勢」として、「自己受容」という、今までいまいち切り込めないままだった大きなテーマに、やはり分析的に切り込んでいきたいと思います。

魂をどのように感じ取ることができるか。「自己受容」とはそれに対してどのような姿勢を取ることなのか。
スピリッチュアルなテーマですが、ちょー分析的に行きましょー\(^^)/


魂の成長の成り立ち-16:「神の国」から「放たれた野」へ-13 / しまの
No.1038 2006/07/24(Mon) 14:53:48

魂は「全能感万能感」という価値に導かれて、「心の世界」の変遷を行なうようです。
「生み出す」ことを価値とした時の「未知」という全能感万能感に導かれ、「放たれた野」に向うか。
「既知」の中に生きた時の「絶対なるもの」という全能感万能感に導かれ、「神の国」と「弱肉強食性悪説世界」のかけひきにある「依存」の世界にとどまるか。

この方向を分ける分水嶺を考えます。


■島野の「人生の見出し」体験の分析

「未知」が全能感万能感の源泉になる様子は、今回の小説『悲しみの彼方への旅』でも、「15章 見出された人生」において僕が人生を見出した瞬間の体験として描写しました。「自分はこの人生で何だってできる」と。

ただしこのつながりは、意識体験上ではかなり不明瞭です。
僕がその時自覚したのは、まず、この容赦ない現実世界の中で自分の人生が何か特別なものだと感じていた、幼い時から抱いた感覚の、完全な誤りでした。
この「自分の人生は特別」という感覚自体、かなり漠然としたものだったと思います。もちろん、この社会の中で、何か特別な理由で自分が優遇される存在だなどという意識的思考などは、持つべくもありません。

それは何だったのか..と考えるのですが、結局最も感覚に合う表現は、「世界が自分を中心にした論理では動いていないことへの不満嘆き」という感じになると思っています。
自分はこうなりたい。人が自分にこう接して欲しい。そう考えます。しかしそれとは違う現実..。この嘆き不満の中に、自分は特別な存在であり、大きな目が自分を見ているはずなのに..という感覚を込めていた。そんな気がします。

そしてその感覚が完全な誤りであったのを、感じたわけです。何がどう誤りだと分かったということなのか、「自分もそう感じたいのでもっと詳しく教えてくれ」と言われても、あまり説明のしようがない感も感じます。ま素直にそう言った方が、これが「言葉」という表面では現せない、「深層心理」のことなのだという感覚を理解頂くにはいいことかも知れません。
ただまあ、僕はその時、「自分の人生は何だったのか」という自分の疑問感に意味を感じて、同じ疑問を抱いた人々のことを知ろうとしたわけです。何を知ろうとしたわけでもなかったと思います。ただ、この気持ちをどう収めればいいのか、何でもいいから手ががりを掴みたかった。
しかしそこに現れたのは、僕よりも遥かに悲惨な運命に翻弄された人々の記録でした。

その瞬間、僕の中で、その問いを生み出したものへの答えがでたのではなく、その問いを生み出したものとは全く違う何かが、開放されたんだと思います。
それは何だったのか..一番合う表現では、「未知へと生きようとする心」です。

その時、僕の中に、人生で初めて体験する、大きな「自分の可能性」という感覚が湧き起ってきました。自分はこの人生で何だってできる。
やはり全能感万能感なんですね。

治癒メカニズム論的には、この時の僕の体験は、心性崩壊でもないし、感情の膿の放出でもありません。今から振り返ると、意識土台としては大学4年時の大きな心性崩壊を経た状態から、結局大した向上なく過ごしていたような気がします。主に外面行動スキルの向上が、感情の安定化と多少の感情基調上昇をもたらしていました。

そして30代も終わりになる2000年頃から、再び感情分析が活発化しました。http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpgでの「ゆるやかな感情の膿の放出」に該当する局面だったと思います。「感情の膿の減少による感情基調の上昇」というものをはっきり自覚するようになります。「ゆるやかな心性崩壊」でもあったのかも知れません。

そうした後の出来事で、純粋に「心の姿勢」さらに言えば「魂の姿勢」の変化の体験だったと思います。
「肯定型価値感覚」はかなり準備されてはいたのでしょう。しかし魂がその時まで、「過去」と「既知」を向いていたと思います。受動的自己アイデンティティの感覚もかなり尾を引いていたと思います。
そしてその体験を境に、魂が「未来」と「未知」に向いた、という感じです。


■人は「絶対」もしくは「未知」に無限を求める

というわけで、心理メカニズム論として、「全能感万能感」をめぐる一つの公式を言えると思っています。

「全能感万能感」は、特別な障害感情ではなく、自尊心の最大基盤要素という普遍的テーマの感情であると。
全能万能という無限の広がりをもつ価値を求める方向性のベクトルが2つあるということになります。
ひとつは「絶対」なるもの。これは「既知」における無限です。「既知」という有限が前提なので、その中で無限となるのは、「絶対性」です。如何なる既知にも負けないものということでしょう。
そしてもうひとつが、文字通り「未知」の無限性です。


そしてこの2つのベクトルにおいて、人が「絶対」を追い求めた時、同時に自らを破壊し始めるのだ、と言えるでしょう。なぜなら「絶対」という「完全性」は現実には存在しないからです。
「未知」は現実に存在します。「パンドラの箱」の神話が示唆するように、「未知」という無限性だけは人間に与えられた永遠の福音なのです。

かくして、ホーナイが自己嫌悪という人間の心の最大の悲劇について述べた公式を、ハイブリッドでは少し修正したいと思っています。
ホーナイが述べたのはこうでした。「人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。」

ハイブリッドではこう考えます。
“人間は無限を求める。「絶対」もしくは「未知」という2つの答えがある。「絶対」を求めた時、人は同時に自らを破壊し始め、「未知」を求めた時、人は自らの可能性を解き放つ。”


では何が「未知」と「絶対」という方向性を分けるかと言うと、これはもう「価値感覚」という最も基本的な感性になるでしょう。
肯定型価値感覚というのは「未知」から価値が生まれるという感覚ですし、一方否定型価値感覚は「既知」の中で否定できることに価値を感じる感覚です。否定できることに価値がある世界では、無限の力を持つのは「絶対性」です。上述の「自分が特別」という感覚も、それが具体化されたものでしょう。

ではどうすれば否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換ができるのか。恐らくこれが治癒メカニズムの根幹中の根幹なのですが、今までの話ではその答えが出ません。まだ結果を説明しているだけです。

さらに深いところに話が残されています。それが「魂の荒廃」「魂の浄化」という、ハイブリッドの心理哲学における最も深淵なテーマになるのかと。
ということで、考察がまだまだ続く〜。


魂の成長の成り立ち-15:「神の国」から「放たれた野」へ-12 / しまの
No.1037 2006/07/24(Mon) 11:27:15

「魂が住む心の世界」の話を大体終えましたので、その中における魂の変遷についての考察に移ります。

■魂の成長の摂理

3つの心の世界があります。より正確には少しつながりある2つの世界と、完全に独立した一つの世界
そのどれを自らの心の生きる世界と考えるかは、「選択」であり、「意志」になり得ます。
人間はどの世界を生きるべきだと考えるかは、「思想」の問題になってきます。

一方、特定の目的にとってどれがかなっているかと考えることは、「知恵」の問題になってきます。
ハイブリッドは、もちろん、心理障害からの開放と心の健康そして幸福という目的から、どう考えるのが最も現実に合っているかを考えます。

ハイブリッドが何を「知恵」として示したいかは、もうお分かりだと思います。
もちろん「とにかくサバイバル性善説世界で」ではありません。
変えることのできない、2つの事実があります。子供の心は宇宙の愛に守られることを求め、また守られた状態が本来の健全な姿であったであろうこと。そして「依存から自立へ」という「成長の命題」は、あまりに単純かつ重いこととして、真実であろうこと。ハイブリッドが見出した「心理障害からの治癒」もこの「成長の命題」に大体沿っています。

人間は2つの心の世界で生きるのだ、ということです。「神の国」に生まれ「放たれた野」へと。そして「放たれた野」の中で「生み出す強さ」を獲得した時、子供に向ける「宇宙の愛」に還っていくのだ、ということです。
この2つの全く異なる世界について、来歴におけるどこかで「心の世界の転換」を持つのが、人間の心の本来の姿ではないかと考えるわけです。


この「心の世界の転換」の起きる時期については、僕の考えとしては、3、4歳頃、「自分」という観念が芽生える頃から始まり、思春期にその「転換の要請」が高まり、そこからなるべく早期に転換が完了するのが望ましい姿だ、と考えています。

これを「魂の成長の摂理」と呼びたいと思っています。「魂」というスピリチュアルなテーマの話ですが、これが人間の脳のDNAに刻まれた設計図であり、それに従うことが人間の心の成長と幸福に最もかなっているのだという考えです。

ですから僕自身に子供ができた場合を想定すると、2歳頃まではとにかく宇宙の愛で包むような愛情を向けるのがいいと思っていますが、3、4歳頃、子供が「自分」という観念を持ったであろう段階で、かなり対等な大人に接するのと同じような感覚も持ち始めると考えています。世の中のことも、現実科学的に教えていく。
まあ感情的には、子供が一人立ちするまでは宇宙の愛を持ちながらも、知性面ではどんどん対等な大人のように接するかと。
そう考えていますし、実際に子供を前にして、そんな気持ちに自然になるような気がしています。思春期を迎えた頃には、子供の好きに生きさせる、と。


■「全能感万能感」によって導かれる「心の世界の転換」

「魂の成長の摂理」の上記の考え方をサマリーすると、「与件としての真実」と「ハイブリッドとしての解釈」があるということになります。

「与件としての真実」であろうと思われるのは、宇宙の愛に守られて生まれ、やがて「依存と庇護」という存在様式から、「自立と自由」という存在様式への転換があるということです。
そして「ハイブリッドとしての解釈」は、それを「魂が住む心の世界」における変遷と捉え、「心の世界」の命題を整理した結果として、「神の国から放たれた野へ」というあり方がその実現の形ではないかと考えるということです。「放たれた野」とは「サバイバル性善説世界」です。

実際の人間の生涯において、「魂」はもちろん、そんな風に「命題整理」をして自らが向うべき「心の世界」を決めるなんてことはしていません。こんな難解な心理哲学など考えず、それぞれの人間の来歴に応じて、特定の方向に導かれ、あるいは流されていく。
この魂を導くものの本質を考えたいと思います。

導くものとは、今までの命題を線でつなげることになる、ある特定の価値だということになります。
まずは宇宙の愛によって与えられる価値。そして次に、「善であること」や、「自衛と建設」、あるいは「破壊」という手段によって得ようとする価値。

この、魂の変遷を貫く軸となる価値とは、「全能感万能感」であると考えます。つまり人が何によって全能感万能感を獲得できると感じるかによって、魂の変遷の方向が決まってくると考えます。

健康な心理発達においては、宇宙の愛に守られることが、素朴な全能感万能感を幼児に与えるように思われます。宇宙が自分のためにあり、自分を愛し、自分のすることを支えてくれている。
この、無限の広がりを持つ「力の感覚」こそ、「自尊心」の最大の基盤になるものでしょう。
子供が物心ついてくると、素朴な全能感万能感はさておき、現実の具体的なものごとへの対応能力が必要になります。人生への能力であり、「人間力」などと呼ばれる力に関して、無限の広がりを持つ全能感万能感が必要になる。

人生への能力において全能感万能感のありかたを決める命題は何か。
まさにそれが、最後に整理した「価値の命題」にあると考えています。

全能感万能感の源泉としてはまず上述のように、「宇宙の愛」がある。これは言わば自他未分離の原初感情レベルでの全能感万能感と言えるでしょう。
そしてより清明な意識感情レベルでの全能感万能感には、2種類があるということです。「依存と既知」の世界においては、「絶対なるもの」です。そして自立の世界においては、「未知」が全能感万能感を与えてくれるように思われます。なぜなら「未知」は無限だからです。



神の国から放たれた野」へという「魂の成長の摂理」がある。
しかし同時に人間は、自らの魂のその摂理に、単純自然には向き合えない部分を、自らの心の中に抱える存在となってしまったようです。これは人類に文明というものができたのと同時のことであったろうと想像します。

魂の成長の摂理に自ら反し、自分自身を破壊し始めることになる。この人間の業の由来について、考察を続けます。


魂の成長の成り立ち-14:「神の国」から「放たれた野」へ-11 / しまの
No.1036 2006/07/22(Sat) 00:15:08

■価値感覚の転換と「価値」命題

治癒成長過程における「根本選択」から命題を抽出した時、まず「受動的アイデンティティから能動的アイデンティティへ」という転換からは、「依存から自立へ」という「成長」の命題が抽出できました。この命題は、「治癒」のためという以前に我々の心に課せられた命題のようにも感じます。

残された根本選択は、否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換です。これが根本選択の骨格であり、アイデンティティ姿勢の転換が肉となります。

この大方向転換は、単に意識的思考法だけでは成されず、感情と感性を巻き込んで成されます。
思考面では、「絶対なるもの」という観念の放棄が重要になることを7/18「神の国」から「放たれた野」へ-8で説明しました。
感情面では、思考では変えられない感性として、肯定型価値感覚の芽がどのように生み出されるかがキーポイントになります。そしてこれは大部分が自己操縦心性の崩壊に依存する、というのが僕の考えです。それによる大幅な感情の膿の減少が必要であると。感情の膿「危険下にある」というストレスの塊なので、これが減少しないと、「安全」を前提に湧き出る肯定型価値感覚が開放されないんですね。

そして我々は何に着目することで、心性崩壊時の「完全なる絶望」を超えて生きていく意志を持つことができるか。その先に「未知」があるという「知恵」によってだと考えています。

死に直面して初めて人生の喜びを知るような、建設的絶望体験という心理メカニズムがある。だから我々は、絶望が深ければ深いほど、その後に大きな「再生」があり得ることを、心にとめることができます。その絶望が何かの外面的事柄に関連したものである時、その外面的事柄についての絶望そのものはもう変えようのないことかも知れません。しかし心が未知なものになった時、そのことを全く違う感情の中で見る自分、さらに、それとは全く違う人生領域の中で、初めて「自分自身の人生」と「生きる喜び」を見出した自分がいるかも知れないのです。
そうした「未知の自分」を知らずに人生を終えるとは、実にもったいないことです。

ハイブリッドは、この建設的絶望体験を経た「生きる喜び」の回復を、感情の膿をないものと自分に嘘をついた自己操縦心性が崩壊し、防御の崩れた感情の膿が放出され、意識土台におけるストレスが消滅し、何の意識的努力もなく本性として湧き出る「肯定型価値感覚」が開放されたものと考えています。
この開放状態は、本人の意識においては、常に「未知」として現れます。

従って、「否定型価値感覚から肯定型価値感覚へ」という根本選択の骨格が示す「価値の命題」とは、「既知から未知へ」という命題だと考えたいと思います。
知的側面でその放棄が重要であることを指摘した「絶対なるもの」も、「既知」の世界のもののように思われます。これはまた後で考察します。


■「格上げされた依存」が捨てた「未知」..?

若干余談ですが、先のカキコで受動的アイデンティティ姿勢「パンドラの箱」に例えましたが、上述の話と実に面白いつながりがあります。
受動的アイデンティティ姿勢とは、「自立した姿」を「依存」によって得ようとするパラドックスだと指摘しました。これは自分から「憎しみ」という災いを用意するような姿勢です。
「パンドラの箱」とは、ギリシャ神話に出てくる、人類が自ら開けてしまった災いの箱です。言葉を出すからにはちゃんと理解しておこうと、ちょっとネット辞典を見た次第。

「パンドラの箱」には実に意味深い続きがありました。この災いの箱を開けてしまったパンドラは、あわてて箱を閉めるが、もう既にほとんど全ての「災い」が人間界へと飛び去った後であった。
ただ一つ箱にとどまり人間界にもたらされないで済んだ「災い」とは、「未来を全て分かってしまう災い」だったというのです。だから人類は希望だけは失わずに済んだと。

「パンドラの箱」の神話においては、「全てが既知」であることは、災いとして位置付けられていたわけです。実に深さを感じる話です。
そして受動的アイデンティティ姿勢の中で、人は「自分」が「過去」という「既知」によって作られると感じる「心理障害」の世界にあります。
その中で人は、「パンドラの箱」にとどまった唯一つの災いさえも、開けてしまうということなのかも知れません。


■3つの「心の世界」と「成長と価値の命題」

ということで、今までの話をまとめると、「神の国」「サバイバル性善説世界」「弱肉強食性悪説世界」という3つの心の世界がある。それぞれが閉じた命題論理を持つ。
障害感情は、「神の国」に生まれながら来歴をひきづった状態として描かれ、一方ハイブリッドが立つ世界は「サバイバル性善説世界」でした。

ハイブリッドが考える治癒成長過程での「根本選択」からは、2つの命題が抽出できました。「依存から自立へ」という「成長の命題」と、「既知から未知へ」という「価値の命題」です。これは心の世界をまたがった命題だと考えられます。

この2つの命題から考えると、「神の国」と「弱肉強食性悪説世界」が実はひとつの世界を作っているような気がします。「既知」と「依存」の世界です。
まず、「神が全てを創った」。この言葉から旧約聖書は始まるのでしたっけ。「神の国」でそれが善い者に分け与えられ、「弱肉強食性悪説世界」の悪しき者が、それを奪う。いずれにせよ、「既に生み出されたもの」という「既知の価値」に「依存」しています。

一方、「サバイバル性善説世界」においては「未知」と「自立」が成り立ちます。「自ら生み出す」ものは、「未知」であり他に依存しませんから。


3つの「心の世界」の位置付け整理は以上です。
次に、こうした「心の世界」の中を、魂はどのように変遷するのか、「神の国」における不遇の中で魂がすさんでいく「魂の荒廃」、そしてそこから「魂の洗浄」という深淵なる世界に向うための、「魂の選択」といったテーマの考察に進みます。

それが、治癒メカニズム論において、障害の外器である感情の膿と自己操縦心性の解消メカは大体書いた一方で、障害の内容である残存愛情要求の根本的解決、そして治癒ノウハウとして解説が不十分だった「欲求の浄化」「望みへの導き」といった治癒の根幹についての、根底メカニズムの解説を目論む話になります。


魂の成長の成り立ち-13:「神の国」から「放たれた野」へ-10 / しまの
No.1035 2006/07/20(Thu) 13:58:07

■「成長」と「価値」いう命題

愛と強さ」「幸福」「怒り」「恐れ」といった基本的感情の命題を整理しましたが、これらを包含する、一段階上位の命題を2つ考えることができます。
「成長」「価値」という命題です。3つの「心の世界」で、この命題はどのように捉えられるのか。

心理障害からの治癒成長において、「成長」「価値」という命題が根本的な役割を演じます。

これは2006/04/22「自己操縦心性の成り立ち-60:受動型自己アイデンティティと憎悪-8」で、根本選択価値感覚アイデンティティにある」と述べたことに対応します。
根本選択の全ての根本は、結局のところ、「否定型受動的価値から肯定型能動的価値へ」だと。価値感覚における根本選択が骨であり、アイデンティティ姿勢が肉である。
(7/16:「神の国」から「放たれた野」へ-5)


■アイデンティティ姿勢と「成長」命題

そうした根本選択において、まず「成長」の命題が浮き彫りになるのは、「受動的アイデンティティから能動的アイデンティティへ」という変換です。
受動的アイデンティティ姿勢とは、自己アイデンティティつまり「これが自分」と感じるものを、他人から受けた刺激によって起きる自分の感情に置く姿勢です。特に感情の見栄えについての意識が大きいのが特徴です。

受動的アイデンティティ姿勢とは、その中で自他への関係が極めて悪化する、パンドラの箱とも言える感情の器です。
アイデンティティ要求という、人間を人間たらしめる深い欲求が、「人は自分に何をしてくれるのか」という意識に化けてしまうのですから!

この結果は、しばしば、否、必然的にと言ってもいいぼど、他人への憎悪を生み出します。

何が起きているのか。このパンドラの箱の悪質さをちょっと単純化して言うと、それでも結構複雑ですが、まずこの姿勢によって最初に起きる問題とは、人間性の貧弱化と考えられます。与えられることだけに意識が向き、自分から生み出すことには意識が向かない状態になりますから。
ところが本人は高い人間性の理想像を抱いていますので、自分の貧弱な人間性への激しい自己嫌悪を感じるのですが、その原因は過去に他人が自分を否定したことにあると感じるわけです。他人によって湧き出た自分の感情がアイデンティティですから。
同時にこの自己嫌悪により、「自分は何もできない」という「望みの圧殺」という苦しい状態が起き、「自分を苦しめるもの」への爆発的憎悪感情が用意されます。
かくして、自分を否定した他人への怒りと、望みの圧殺による苦しみへの憎悪が結びついて、自分を否定した他人への爆発的憎悪が起きるんですね。
世にある身内間の殺人事件は、まずこれが心理メカニズムとなって起きるというのが僕の考えです。まあ僕自身がかつてこの轍の中にあったので、この憎悪感情の爆発的威力は良く知ってます^^;

これに対し、ハイブリッドとしては、「能動的アイデンティティ」姿勢への方向転換を、選択肢として示したいと思います。
「感情」そして「見栄え」という「結果」ではなく、そうしたものを生み出す原動力を持つ、「意志」や「行動原則」を自己アイデンティティとする姿勢です。
(参照:2006/04/23「自己操縦心性の成り立ち-63:受動型自己アイデンティティと憎悪-11」および「-12」)

そしてこの方向転換が治癒ポイントになる「病理」とは、「自立した自分」の姿を他人に依存することで実現しようとするという、完全なパラドックスです。これも「受動型自己アイデンティティと憎悪-8」「格上げされた依存性」と指摘しました。自己肯定を他人に用意してもらうというパラドックス。

他人への憎悪の元は、結局全て自身が用意したものだと言える状況が、往々にしてあります。自ら人間性を貧弱化させたのも。それを見て自ら望みを圧殺したのも。
このことに気づいた時、あるいは過去に「酷く否定された」「愛されなかった」という事実そのものが、変化してしまうかも知れません。


「受動的アイデンティティから能動的アイデンティティへ」という治癒成長ポイントから抽出できる「成長」の命題とは、「依存」から「自立」へ、という命題です。
このあまりにも自然な命題を、本来の姿に戻すということです。依存から自立へ。幼少から大人へと成長する過程で、どこかであるはずだったこの単純な転換が、抜け落ちてたわけです。



いったんここでカキコし、価値感覚の転換という最大転換から見えてくる「価値の命題」を次に。


魂の成長の成り立ち-12:「神の国」から「放たれた野」へ-9 / しまの
No.1034 2006/07/19(Wed) 21:35:50

命題を整理しましょう。


■3つの「心の世界」

魂が住むことのできる、3つの「心の世界」があることになります。それぞれの「心の世界」は、それぞれで閉じた、独自の「心の論理」を持ちます。3つの世界にまたがって、どれが正しいのかを言う論理はありません。
どの世界を是とするかは、「選択」になってきます。

まずあるのは、「神の国」。「善悪」があり、正しい者は神に守られるという世界です。
次に、善悪のない「放たれた野」の世界があります。神の目が届かない、生きるもの全てが対等な、個対個の関係だけがある世界です。これに2種類があり、「性善説世界」と「性悪説世界」があります。この言葉だけでは指し示したいものとニュアンスが違ってくる嫌いもあるので、「サバイバル性善説世界」「弱肉強食性悪説世界」と呼んでおきましょうか。


■心の命題の整理

主な「心の命題」を3つの世界について整理すると、以下のようになります。

「愛と強さの命題」については、7/14その3で「放たれた野」に関して既に出しました。
「サバイバル性善説世界」では、「生み出す」ことが強さであり、「弱肉強食性悪説世界」では「破壊する」ことが強さです。
「サバイバル性善説世界」では、「強さが愛を生む」と考え、「弱肉強食性悪説世界」では「愛は弱さ」だと考えます。
「神の国」では、愛については明瞭です。「正しければ愛される」。
強さについてはやや不明瞭です。個人が強さを持つのではなく、正しいものを守る神が強さを持ちます。正義が強さ。天の恵みや天罰。

「幸福」をどう考えるか。
「神の国」では「正しい者が幸福になれる」。「サバイバル性善説世界」では、幸福は自ら築くものです。「弱肉強食性悪説世界」では、幸福は奪い取るものです。
「神の国」はとにかく善悪ありきです。「サバイバル性善説世界」は「自衛と建設」が主題です。「弱肉強食性悪説世界」は「破壊」が主題です。

「怒り」について。
「神の国」では「善が悪を怒る」。「サバイバル性善説世界」では、「怒りは弱さ」です。「弱肉強食性悪説世界」では、「怒りは力」です。

「恐れ」について。これは面白い(?)対比になります。
「サバイバル性善説世界」では、恐れるものからの「自衛」と、恐れの不要な生活基盤の「建設」が克服の手段です。「弱肉強食性悪説世界」では、恐れるものの「破壊」が克服の手段です。

「神の国」には、自分自身で恐れを克服する手段が用意されていないんですね。神頼みというわけです。恐れは基本的に克服できないものという位置付けに近くなってきます。


■「神の国」の荒廃

「神の国の荒廃」というテーマを考えることができそうです。

「神の国」は、善悪のある世界です。上記では「善」という光の側面を書きましたが、「悪」という影の側面もあるわけです。
「善への愛」と「悪への怒り」がある。望みと希望にスポットライトが当たる時は、それはまあ美しい世界でしょうが、望みを押しつぶす側面へとスポットライトが移るにつれて、すさんだ荒廃の風景へと変わっていきます。

「不幸になる義務」という、新たな命題が生まれてきます。悪しき者は不幸になる義務がある。悪しき者に笑顔を向けてはいけない。
「お前は悪だから不幸になる義務がある」という論理の世界です。これは「弱肉強食性悪説世界」に近づいてきます。相手の幸福を奪い取るのですから。

不幸は、「自分が悪いという目を世界から向けられていること」と同じ位置付けのものとして、この人間に扱われることになってくるでしょう。昨年の町田市女子高生刺殺事件の犯人少年が言ったように、「何も悪いことしてないのに無視された」から、殺すわけです。なぜならその時少女はこの少年にとっての宇宙であり、宇宙が間違っていることに対して、全破壊衝動が向けられるからです。

このように、「神の国」「弱肉強食性悪説世界」は、比較的論理的つながりがある世界です。
「神の国」で守られることなく排斥された人間が、「弱肉強食性悪説世界」に向う。そして「無力な善人」をターゲットにして奪うわけです。何かつじつまの合っている、実はこの2つで一つの大集合世界を作っているとも言えるような感があるほどです。


「サバイバル性善説世界」で、完全に他からの論理的独立性が生まれるわけです。

神の国」と「弱肉強食性悪説世界」は、互いに相手を向こうに回して、敵味方関係を持ちます。
サバイバル性善説世界」には、そうした関係性は皆無です。どこふく風という感じになります。


さて、3つの論理世界がお分かり頂けたでしょうか。
どれを取るかは、「知恵を含めての選択」です。そしてハイブリッドがそこに添える「知恵」を次に説明しましょう。
残り2つの、単純で大きな命題、「成長」と「価値」の命題です。


売上アッ〜プ? / しまの
No.1032 2006/07/19(Wed) 01:47:02

どうでもいい話ですが、『悲しみの彼方への旅』売れ行き状況って全然分からないんですが、唯一現在、数字として見ることができるのがアマゾンのページのランキングで、いつ見ても10何万何位だったのが、今見たら6万何位にアッ〜プの模様\(^^)/

..だがまあこの巨大数字にどんな意味があるの???アッハッハ〜
と疑問を感じつつも、まそれなりに何か動きあるんかなーと期待したりして。

ま正確には9月頃に出版社から状況連絡ある予定で、僕としてはとにかく頑張るぞ〜てな気分♪
しかしアマゾンの画像掲載は遅い!)`ε´( ブーっ^^;


 
Re: 売上アッ〜プ? / しまの
No.1033 2006/07/19(Wed) 02:57:56

その後ちょっと情報を仕入れたところ、アマゾンのランキングはほとんど当てにならない模様。
まあ順位がアップしたということは、とりあえず1冊は売れた程度らしい。あっはっは〜。
ま良しとしましょう。
久々の夜長。


魂の成長の成り立ち-11:「神の国」から「放たれた野」へ-8 / しまの
No.1031 2006/07/18(Tue) 19:35:49

■「魂の選択」の命題背景

だいたい材料を書きましたので、「魂の選択」の命題を整理しましょう。
まずこれまでの材料を手短に振り返ります。僕が大方向転換を見出した状況の描写も加えましょう。

1)障害感情の心理メカニズム

最初の材料は、障害感情の心理メカニズムそのものでした。
心理障害の根源は、「感情の膿」です。それは相互理解不可能な「異形なる」他人に囲まれた恐怖の膿であり、望むものから自分は排斥されるという、根深い自己否定感情の膿でした。
やがて、この感情の膿に意識が触れることは自己の破滅として避けようとする、「自己操縦」という生き方に置かれることになります。「空想の中の自尊心」を脅かす他人、そして自分自身の現実に対して、自動的に怒りのエネルギー下に置かれる心理状態が起きます。

こうした心理メカニズムの底に、「出生の来歴を深く引きずった」人間の姿というものを感じ取ることができます。
宇宙の愛に守られるべきであった自分が、事実はそうではなかった。世界が間違っていたという感情と、悪いのは自分だという感情。
自分が出生した「神の国」で果たされなかった望みを取り返そうとするかのように、 「あるべきだったもの」を掲げ、それを理解しない皮相で粗野な他人を怒り、それに満たない自分自身の現実を怒る。

2)大方向転換の知的命題

次の材料は、「人間の心の最大の悲劇」である自己嫌悪感情についてホーナイが指摘し、また僕がそれを「最大の方向転換」を見出す鍵とした命題です。
「絶対なるもの」です。人は無限と絶対なるものを手に入れようとしながら、同時に、自分自身を破壊し始めるのだ。

現実世界には「絶対なるもの」は存在せず、それは空想世界のみに存在し得ます。我々が現実の中で生きる心を選択したいのであれば、この観念の放棄が必要になります。これが最大の方向転換である「否定型価値感覚の放棄」へとつながります。
このつながりは整理の中で説明して行きましょう。
「絶対なるもの」という観念の放棄は、「不完全性の受容」という最大の方向転換の、論理的知性面の命題です。

3)大方向転換の感情命題

3つめの材料は、大方向転換の感情面の命題でした。
「自分は愛されなかった」。この思いの根底には、「愛がこうあるべきだった」という観念があります。その通りには、自分は愛されなかったということです。そして怒ります。同時に、「自分は人をこう愛するべきだ」という観念があります。そうでない自分を怒ります。

僕が大方向転換を見出した場面では、この感情面と上記の知的側面が結合したテーマが描かれていたように思います。
「愛がこうあるべきだった」という観念の中で、他人を激しく怒る感情が僕の中に尾を引いていました。一方で、ハーバード流交渉術などを学び、相手を変えるためには、相手を一切非難せず、むしろ相手を肯定する中でそれが可能であることを学び始めた時でした。


■島野の「不完全性の受容」体験

その時のことは結局日記には何も書いてなかったようですが、僕はこの時に自分の中に起きた「思考戦争」とも言うべきもの、そして「肯定型価値感覚」が勝利し、心の風景に起きたあまりにも鮮明な変化を、はっきりと憶えています。多分現実の他人との出来事の中でではなく、その合間の、純粋に内面で起きた出来事だったと思います。だから日記も書かずじまいだったかと。
しかしその時の思考内容ははっきり憶えています。

相手を変えたければ、相手を肯定することだ。これが実感を持って感じられるようになっていました。「絶対」は現実にはなく、現実は不完全なものであることも、実感を持って感じられるようになっていました。
一方で、「こうあるべきだった」という観念で、「それは許せない」という自分の怒りは「正しい」ものという感情もありました。

ある時、この両者が真っ向からぶつかったわけです。どんな思考戦争があったのかを書きましょう。

心を理解しない粗野な行動の他人が許せず、この怒りだけは正しいという感情。
だがその
相手を肯定して笑顔を向けた時、相手が変わる可能性が生まれる。だがこれは単なる打算妥協ではないか。
だがそもそも現実の人間は不完全なものだ。あるべき理想通りの完璧というものはあり得ず、程度の差の中で、そこから劣ったものがあるということになる。その中で、
ここから先は許せないという境目基準があるということだ。実際のところ「あまりに酷い」ものは、もはや否定せざるを得ない気がする。

となると、僕はその肯定と否定との境目基準を設けたことになる。
その境目基準だけは絶対だということだ。
だが人間が不完全な存在であるなら、否定と肯定との間に
絶対的に「正しい」線引きはは、人間にはできないということになる。この基準が絶対だとは、神が言えることだ。僕は神になろうとしていたのか!

それが、僕の中で、絶対的善悪というものが完全に崩壊した瞬間でした。
基準の不完全性という考えをつきつめると、いかなる悪も悪でなくなり得る。とがめる必要も、とがめられる必要もなく済んでしまう可能性が広がる。そもそも善悪とは、神が言うことである。あとは現実においてそれを変えていく強さを自分が持つかどうかだけの話になる。僕はもう、この「善悪のない世界」を生きる!

そんな感じでしたね。この時の自分の思考内容は極めて強烈だったので、良く憶えています。


■「善悪の完全なる崩壊」を選ばせたもの

一方、なぜ僕が「善悪のない世界」を生きるという選択をその時したのかには、幾つかの背景があると感じます。これはやや漠然として複雑な気がします。

中でも一番明瞭だったのは、「強くなりなかった」そして「恐れを克服したかった」ですかね。全てが自分の強さの問題となった時、あらゆる恐れが克服できる道が開かれます。あとで整理しますが、「善悪のある世界」には、「恐れの克服」への答えがありません
あと一つは、「迷いのない人間」になりたかった。その願いにとって、「善悪」はあまりに迷いの多いものだったわけです。同時に、「善悪」が完全に崩壊した思考は、僕にとって最も自然な科学的思考にマッチしたものでした。

いずれにせよ、この時の僕の「思考戦争」で、今までの思考世界が敗れ、新しい思考世界が勝利し、心の風景が一変したわけです。否定型価値感覚が消えました。否定的感情そのものが消えたわけではなく、否定的感情に価値を感じる感覚が皆無になったわけです。
正しい怒り」と呼べるものはもはや僕の中でゼロであり、「怒り」は「単なる弱さ」へと位置付けを落としました。

心の風景は、それまでの、「神の国」の戒律を象徴するような北欧の中世建物の寒い世界から、南国の自然の風景へと入れ替わったかのような変化が映し出されていました。
もっとも、「南国の自然の風景」とは言っても、南の島の楽園風景ではなく、まだ荒陵とした岩砂漠のような殺伐とした心の風景でしたが。
そこから、全てをサバイバルと考える生き方が始まったわけです。

脳の構造が変化したかと思えるような、感情面における根本的変化への道のりが始まったのは、それからです。
そしてサバイバルを受け入れた強さを自分がやがて獲得した時、「放たれた野」を生きる一匹の勇獣として、「ライオン・ハート」の中でこの世界を愛する感情の中にある自分を知った。てな感じ。


命題の整理と言いながらまた材料描写でしたが、今度こそ命題の整理カキコへ^^;


魂の成長の成り立ち-10:「神の国」から「放たれた野」へ-7 / しまの
No.1030 2006/07/17(Mon) 13:42:52

■「自分は愛されたか」という問いはない

さて、「自分はこう愛されるべきだった」と考えるようには、自分は愛されなかった
その怒りと悲しみは、思春期の僕にもご他聞に漏れず(^^;)あったわけですが、今それについてどう考えているかをお伝えしましょう。

「自分は愛されたか」。この問いにどう答えるか。
そう自分に問いかけた瞬間、奇妙な感覚を覚えます。まず出てくる感覚は、「その問いはない」なのです。


余談ですが、今回の小説にも登場した初恋女性と最近言葉を交わした折り、「親からの愛情は十分に受けたの」といった話を聞く機会がありました。この言葉には別に違和感は感じませんね。これは一つの事実を述べた言葉である。
同じように、僕が自分の小さい頃の親の僕への愛情の注ぎ方は、心理学的に言ってとても完璧なものとは言えなかったと思います。こう考えることも、違和感のない、一つの事実評価として出てくる考えです。

しかし、「自分は愛されたのか?」という問いは、変です。問おうとした瞬間、その問いそのものも含めた全てが消えるという感覚を感じます。

この奇妙な感覚について、結構考えたのですが、まあ2つの理由を言えそうだと。

ひとつは今回の小説でも書きましたが、愛は知ろうとすると見えなくなる、という性質があるということです。「知る」とはまあ、「知る自分」と「知る対象」という構図で成り立つことだと思いますが、その構図には、もはや「愛」はないわけです。なぜなら愛とは、命と命のハーモニーですから。(『悲しみの彼方への旅』P.299)

もう一つの理由は、愛はあくまで「今を生きる」中にしかないと思うわけです。これはあまり言ってなかった表現かな。まあ命と命のハーモニーなら、今生きる命がないと、ハーモニーは分からないわけです。
音楽の美しいメロディーとハーモニーを知るのは、それが実際に流れる「今」でしかありません。過去にどんなに美しい音符が書かれていても、ハーモニーを知るのは、それが演奏される「今」でしかありません。

記憶に残る美しいメロディーとハーモニーがあります。今音楽を聴いていなくても、それが頭の中で再現され、それを味わうことができます。
でも実際に再びその音楽を聞き直すと、別の感じ方をしたりもします。

この例えは一つの答えを示唆すると思います。
つまり、「自分は愛されたか?」と問うことは、「相手は自分にどんな愛情表現を行い自分はそれをどう受け取ったかについての記憶」について問いているのですが、その設問状況が曖昧で、なにか今起きていることを聞く問いかのように響いて、一体何のことかという感覚が起きると思われます。。
これはまるで、今映画を見ている最中に、「その映画面白かった?」と聞かれるような、一瞬何も見えなくなる問いのようです。その映画を前にも見たことがあり、その時はどう感じたかを、思い出すことはできます。しかしそのためには、今その映画を見ているのを、いったん中断しなければなりません。

かなり話が道草だったかも知れません。
ようは、「自分は愛されたか?」という問いは、その設問状況を詳しく考えればそれなりに答えられるであろうが、今を生きる心にとってはかなり異質な問いであり、そもそも何故それが問われる必要があるのかの方が、むしろ本質的なことを示すように思われます。


■「生きる価値」という問い

やや遠回りになりましたが、「自分は親に愛されたか?」という問いについての、僕の考えをはっきりと言いましょう。
その問いはむしろ今の自分自身についての問いではないかということです。さらにはっきりと言いましょう。それは「自分が生きる価値」についての深い懸念を表現した問いではないでしょうか。


そして「自分は愛されなかった」という思いがつきまとうように頭を離れない場合、それは今自分が生きる価値というものをはっきりと感じ取れない、何かの深い喪失感を表現しているように感じます。

つまり、「自分は愛されたのか。」「自分は愛されなかった。何故なのか。」と言った問いに心を取られる時、その人は今を生きることができない心を、自分自身の中に一部抱えているということになります。
それは答えを見出し、心に納められるべき問いです。

主に3つの行き先があるだろうことを、言えるような気がします。
一つは、「自分は愛されたのだ」と言うことができ、心に納めることができるケース。
もう一つは、「自分は愛されなかった」としか言えず、怒りの中で生きるケース。
最後に、「自分は愛されなかった」としか言えないが、それを心に納めることができたケース。

最後のは「できるケース」とは言いません。「できた」時、そうゆうケースがあったとだけ言うことができます。
できるケース」と言うとは、それが「選択」ではなく「条件」であることを示しています。「条件」として言えるのは、「愛された」と言えるケースでしょう。「愛されなかった」と言う時、「怒りの中で生きる」と「心に納める」が「選択」になるということです。

最後のケースの具体例人物を挙げると、デイプ・ぺルザーです。(参考図書
ただし彼の場合もそれは並大抵のことではなかった訳で、彼が実際にその問いに別れを告げることができたのは、彼を虐待した母が死に、最後に「あなたの魂が永遠に安らかでありますように。全能の神があなたを守り、悪から救ってくださいますように。」と祈りを捧げた時でした。
その時、彼の心の中から、巨大な重荷が降ろされたのです。

もうひとつ心理学的な示唆を付け加えておきましょう。これらの問いの答えは、本人の生き方と解釈により、結構変わるというということです。「愛されなかった」がほぼ間違いのない事実であったとしても、それが心に納められた時、「愛されなかった」事実に多少の変化が起きるかも知れません。

そして「心に納める」選択が可能になる条件を指摘するならば、サイバイバル世界観つまり「放たれた野」の世界にあるということです。これがハイブリッドの考えです。
デイプ・ペルザーも極めてサバイバル的な生き方をした人間でした。


ちょっと話が道草っぽく膨らみましたが、「魂の選択」を構成する命題を整理する、材料です。
一つ新しい命題も出てきていますね。「愛」と「生きる価値」のかなり直接的なつながりです。これは後の考察で極めて重要なポイントになってきます。

命題の整理に戻ります。


魂の成長の成り立ち-9:「神の国」から「放たれた野」へ-6 / しまの
No.1029 2006/07/17(Mon) 11:45:09

■「愛」と「怒り」における大方向転換

いくつかの言葉で呼んでいる、一つの大方向転換を、さまざまな角度で分析したいと思います。
不完全性の受容」「現実との和解」「否定型価値感覚の放棄」そして「魂の選択」。4つの言葉を並べましたが、実体は一つです。

それを構成する一つの命題が、「絶対なるもの」でした。これは大方向転換の、知的論理的側面の命題です。「絶対なるもの」は、「神の国」にあり、「放たれた野」にはありません。

次に、感情の側面について考えましょう。「愛」と「怒り」です。この感情は「」においては別の感情ですが、「」においては一つの軸の上にあるようです。
一つの軸の上にある、別の感情の組み合わせにおける大方向転換です。あいかわらず難解複雑です^^;

ここでは、この大方向転換を僕自身の体験として率直に表現した返答メールを紹介したいと思います。分析整理はまだの文章です。
とにかく、心に何が起きるのかを見て頂きたいと思います。そのあとで、この大方向転換の「愛」と「怒り」における命題を考えましょう。


■「自分は愛されなかった」のか..

この返答メールは、多くの人に共通する「思い」である、「自分は親に愛されなかった」という感情に対する、僕自身の考えについて語っています。一部改めて書き直した部分あり。
もちろん、自分に対する親の愛が「ゼロ」だったと感じるケースはあまりないと思います。多分量の問題よりも、質の問題があるんでしょうね。「自分はこう愛されるべきだった」と感じるようには、自分は愛されなかった、ということになると思います。

僕もかつてはそう思っていました。今どう考えているかを、返答メールの紹介の後にお話しましょう。
返答メールの方は、相談者の方が書いた、やはりそのような「思い」へのコメントとして書いたものです。
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■「あるべきだった愛」

>この命題を固く守っていたのは、父に愛されたかったからです。ただ、それだけです。

「愛されたかった」という思いの底には、「愛されなかった」という思いがあると思います。
これをどう考えるかですね。

>無骨な人だったので、私が少しでも欲しがったおもちゃをすべて買い与えるという形でしか愛情を表現できなかっただけですね。そんなものより、欲しかったのは父の愛情だったのにね。

お父さんはAさんを愛していたのかも知れませんね。
いや、愛していたのでしょう。

そうゆう形でしか愛情を表現できなかったとは、弱かったということです。

つまり、Aさんは幼い心の中でそう願った形では、愛されなかったということだと思います。
そうして幼い心は、「自分を愛さなかった者への怒り」を抱くようになります。Aさんのことと言うより、人間の心のこととして。

「あるべきだった愛」がなかったことへの怒り。
一方で人はその先で、「あるべき愛」を自分にも課すようです。それが足りない自分への嫌悪や怒りが向けられると、ストレスを感じるようになります。ストレスへの反発も起きるでしょう。

これは一体何か。


■「愛の穴を埋めず」

詳しい話をこれから「魂の成長の成り立ち」で書こうと思うのですが、そこには何か、大転換のようなものがあるようなんですね。

「あるべき愛」という観念の中で、人は自分自身を圧迫することになります。
「あるべきだった愛」を与えることができなかったのは、弱さだったと考えることができます。

「愛はこうあるべきだった」と言いつづけることが「強さ」だと考えることも、「あるべきだった愛」に見入るのをやめて前を向くことが「強さ」だと考えることも、両方できると思います。
どっちが正しいか誤りかということは、もはや論理的正しさの問題ではない。「選択」だと思います。


そして僕は後者を「選択」として見出した。それをハイブリッドとして伝えようとしています。
なぜなら、それによって僕は自分の中に「愛」を見出せたからです。幼い心の中で抱いた「あるべきだった愛」に近い愛を。


不思議な話ですね。それが人間の心というもののようです。それが「魂の選択」として存在するものらしい。

一体なんでそうなのかというメカニズムは分からなくても、何となく分かるかと思います。
そうした「選択」の後の僕の姿勢を参考までにお伝えしますと、自分の家族に対して「あるべきだった愛」がなかったことへの思春期の怒りや悲しみを、今回の小説ではあまり書かなかったし、これからも当の家族相手に特に話すことではないと感じています。
やがて、治癒体験としてその追体験をした場面などは心理学事例として描写していきたいが、それはもはや現実の人間関係の中に起きたことではない、人間の心にある一つの情景であり原形なのだという感じで書きたい。

この理由は、まずはまあ、現在の家族はあくまで現在を生きる、別の人格を持つ個人だということがあります。良い人間関係のために共通目標共通利益のみに着目する「建設的行動法」です。僕の一般性向としても、あんま泥臭い感情劇は好まないこともある。

また、「過去の辛さをさらけだし受け入れ合う感動」のようなものが実際にあってこそ、心の成長が得られるはずだと考えた時、それは自分の心の問題の解決は他者に依存するという、弱さを残すことを意味します。
まあ難しいところですが、僕はそれに別れを告げることを選択したわけです。その後に、僕は愛を得ました。人に求め得られる愛ではなく、自分の内側から「溢れる愛」です。だからこれはかなり確かなことだと感じているんですね。

かくして「愛の穴を埋めず」という姿勢を取っている次第です。今回の小説は家族親戚も大体読んでもらいましたが、なるべく心気臭い会話はしたくないですね。
「そもそも愛の不足という事実などなかった」という風を取っています。

まこの辺の対人姿勢はもう個人の好き好きの話になってくると思いますが、重要なのは、やはり「選択」があるということですね。
「これは許せない」と信念のように抱いていたことを捨てる「選択」。より観念的表現として「神の国から放たれた野へ」の選択だとして、これから解説を載せていく次第です。

も一つ表現を書いときますと、「愛は過去のためにでなく未来のために」という感覚を持っています。「愛の穴を埋める」努力をするのは、相手が幼い子供の場合。
そうして過去を問うことをやめて未来へと生きる強さの中で、幼い子供に感じる溢れる愛の感情を知ると同時に、世界全体を愛する気持ちを得た、という感じ。
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そんな感じですね。僕はそんな「心の事実」を、前半生で見出したわけです。それをハイブリッド心理学として伝える。
この「事実」を構成する命題を、分析していきます。


魂の成長の成り立ち-8:「神の国」から「放たれた野」へ-5 / しまの
No.1028 2006/07/16(Sun) 12:56:50

■心に迷い込んだ魂

人生の生き方について、実際に自分がそう生きたこと以外のことを言うのは、あまり意味のないことだ、と書きました。
そうした、実際に知る一つの生き方として、ハイブリッドが見出したものをお伝えしようと思います。
それは「心理障害」から「健康な心へ」という、独特な心の状態からの開放と回復へという、一つの「生き方」です。

神の国」に生まれた魂は、思春期を経て、幾つかの生き方の選択に向うという話をしました。
およそ3つの選択がありました。「神の国」の戒律の中に生き続けるか。性善説的な調和に生きるか。性悪説的な競争に生きるか。

「心理障害」とは、そのどれにも安住できない状態を示していると思われます。そしてこれは3つのどの生き方を取ろうとも、現代社会に生きる人間のほぼ全てが、心の一部に抱えることになった状態でもあるのを感じます。
魂が、心の中に迷いこむわけです。

その心の状態を概観するならば、その2で述べたように、「神の国」での来歴を引きずった状態であるのが大きな特徴になります。
宇宙の愛に守られるべきだった自分。しがし事実はそうではなかった。自分を守らなかった世界が悪いという思いと、守られるに値しなかった自分は悪い子なのだという思い。

しかし心はその思いの収まる先を知らないまま、むしろそんな来歴などなかった人間かのようになろうとしたようです。「自己操縦」という一つの生き方へ。それは本人が意識するよりもはるかに深い根底で起きた心の動きであるのを見ました。


■「人生への復讐」と「絶対なるもの」

3つの生き方のどれともつかぬ混沌の現世で、何者かになろうと自らを駆り立て、走り続けようとする心。自らの「なるべき姿」を掲げ、それを否定しようとする他人への激しい怒りと、「なるべき姿」通りではない現実の自分への激しい嫌悪軽蔑

その内面を深く理解した時、我々はそこに、「人生への復讐」という言葉で最も言い表せる、ひとつの生き方を見ます。
つまり一言でいえば、「正しいのに幸せになれなかった」という、あるべきでない事態への怒りと復讐です。

その怒りと復讐のために、この人間は、「神の国」で守られるために存在した「あるべき姿」に、今度は、怒りと復讐のための「神の力」を与えようとしたように思われます。
神の国で、正しいのに守られなかった自分。それを見返すために、自分の足で歩く人生の新しい局面で、自らが神になろうとするわけです。そうなれれば、自分は万人に打ち勝ち、万人が自分を愛する。

同時に、この人間に、定められたかのように「自滅」へと向う、ターニングポイントが訪れることになります。

心理障害の最根底にあるこのターニングポイントを説明したのは、ホーナイでした。
2005/12/15「自己操縦心性の成り立ち-14:背景その1否定型・受動型の価値感-8」で引用しています。僕はそこで、その言葉について、「僕が人生の方向変換をしたのはその教えによるものであり、僕にとってその方向変換は、それまでとそれからとで世界が完全に変わるような、明瞭な変換