■ 魂の成長の成り立ち-39:魂が求めるものへ-16 / しまの  |
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No.1066 2006/08/28(Mon) 14:47:48
■マリー・ヒリーの「心理変化」と治癒成長上の「根本変化」体験
さて、先のカキコで「埋もれたままの自己否定感情と愛情欲求」が根源である「抑うつ感情」が根本的に克服される、秘宝を開けるための難解なパズルのような心理学公式を言いました。 まず「現実において生み出す力」と「自己の重心の姿勢」という、一見してこの秘宝を開けるのとは無関係なことを努める。意識的に直接努力できるのは、ここまでです。その先に、この2つと合わさるように「埋もれたままの自己否定感情」が意識の表に「放出」されることによって抑うつの根源が根本的に消え去るという難解な心理学的現象です。
これがその前に書いた、マリー・ヒリーの劇的な心理変化の歩みとどうつながるのか。 上記の文章そのままでは、一見まるで全くつながらない話のようでもあります。事実つながりは上記公式の行間ならぬ語間に現れます。 つまり、「埋もれたままの自己否定感情が意識の表に放出される根本的克服」というのが、この心理過程を外から見た心理学的表現であるのに対して、この先にある本人自身の意識体験内容は、マリー・ヒリーがたどった変化と実に似ているというか、もはやそのものだということです。 つまりこの2つの心理変化の話は、アナロジーではなく本質的に同一であるということです。
マリー・ヒリーの心理変化を、心理学的に分析してみましょう。およそ5つの段階を言うことができると思います。 ハイブリッド心理学として注目するのは、麻薬密売人との誤認逮捕を受けてからの心理変化です。その前の、ジョンへの純粋な愛が生まれたという変化は、もちろんこれも一つの変化ですが、根本変化そのものには含めず、その背景の一つと考えるのが良いと思います。
1)自分を偽り続けることへの心底からの断念 「観念するわ。もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって..」と言った瞬間に起きた心理変化です。自分を偽り別の人間になろうとした衝動を、心底から断念します。 2)自分を偽るストレスからの開放 上記とほぼ同時に起きている心理変化であり、引用した「もう疲れました」という言葉に示されています。これは逆に言えば、今までストレスを伴うことをし続けていたということであり、それを心底から断念したことは、ある種の安堵と開放を伴うということです。 この2つの心理段階は、「今までの生き方をやめた」段階と言えます。次からは「新しい生き方」の段階です。ということで線を引いておきましょう。 ================== 3)真実だけに向き合う姿勢 これが「新しい生き方」の芯ともいえる姿勢になります。法廷に向かうマリー・ヒリーが実に真っ直ぐな視線だけになっていたのが印象に残ります。自分を偽り別人になって生きようとする人は、大抵、いつもキョロキョロと回りを気にするものです。 4)愛への願い ジョンへの純粋な愛の芽生えは既に伏線としてありましたが、真実が晒された後のジョンの変わらない愛によって、マリーのジョンへの愛は質的にも数段階高まる領域に向かったように思われます。 2つの「愛情」を想像してみるといいでしょう。双子の妹テリーを信じながらジョンを愛する感情。嘘をついた自己の真実をも受け入れたジョンへの愛情。前者は危険に満ちた愛情です。何の危険かと言うと、本当の自分は愛されないという危険です。マリーは誤認逮捕を受けるまで、結局この世界に留まっていました。後者は、もはや何の危険要素もない「絶対的な」愛の感情になるように思われます。 またこの「絶対的な愛」への願いは、金銭その他この世のあらゆる俗的悦楽を凌駕するものであろう姿を、その後のマリーの様子から感じ取ることもできるように思われます。 5)罪を補うことへの願い マリーに最後に現れたと思われる心理状態です。真実だけに向き合い、絶対的な愛への願いの中で生きた時、人の心は極めて清らかな印象を与えるものになるように思われます。それは賞賛される姿でさえあるかも知れません。 で事は万事オーケーには、ならないのです。そのような絶対的な愛の価値を取り戻した時、まさにそれによって、自分が人の愛を傷つけたことへの痛み後悔を、耐えがたい実感として味わうことができるようになるのです。なぜなら自分自身が愛を願う感情によって、人の痛みを理解できるからです。 これはマリーの最後の姿に想像されます。彼女はそのまま、ジョンとの幸せな愛の生活を手にしても良かったのです。でもそうはできなかった。ジョンに何も告げることなく、ボロボロになりながら自分の生まれた家へ向かった時のマリーの心は、察するに余りあるものがあります。
我々が「人間性」という言葉で呼び、人のそれを感じ取り評価したり自分で願ったりするものの本質は、この最後の姿にあるように思います。 はっきり言えるのは、「善悪倫理」という、「人間性を評価」するとき不可欠なものの真の姿は、マリーの最後の姿に示されたように、人からどう見られるかや裁判でどんな判決をされるにはもはや全く関係のない、言わばその人自身の魂との間の問題になるということです。 我々が特定の人物に高い人間性を感じたり、また自らの人間性に確固たるものを感じることができる時とは、本質はそのようなものとしてあります。決して表情や振る舞いや言動の外から見た見栄えによってではないのです。
■「愛」と「真実」と「命」という命題
マリーがまだ自分を偽り、テリーとしてジョンを得ようとしていた時、そこにある愛は「本当の」愛だとしても、多くのものを損なっているように思われます。 心は他人を演じることの成功失敗に意識が取られます。本当の自分は愛されないかも知れないという不安があっても、それに向き合うことはできず、相手のちょっとした淡白さは自分を見破っての嫌悪ではないかという不安に化け、自分を責め後悔することがあるとしたもそれは自分の演じ方の話になります
自分を見せかけて愛を奪おうとする衝動の中にある時、人を傷つけることの痛みは麻痺するでしょう。なぜなら自分が嘘を演じているのと同様に、他人も何か嘘を演じていると概して感じるからです。ただし人を傷つけた自分を見ると、演じるべき理想の姿との違いに、今度は大げさに罪悪感を演じる姿になるかも知れません。
心理障害における「自己操縦という生き方」でも、同じ問題が起こってしまっています。大元にある自己否定感情から逃れるために「なるべき自分」を演じようとし、自己嫌悪感情は大元の自己否定のことなのか、それとも自己操縦の失敗のことなのか、混沌とした感情に陥ります。見せかけの無神経な他人には怒りが起きますが、怒った自分の姿には激しい罪悪感を感じます。
そのように、全く同じ「感情の原型」が起きているのですが、心理障害の場合大きく違うのは、これが心の深い深層でしばしば本人自らを欺くような形で起きることであり、人との間で起きるそれらの原型感情が、実は現実には特にそれに該当するだけの事実がないまま、動くことです。 この違いの話はこの後にもう少し詳しくしましょう。
いずれにせよ、ハイブリッドで言う「自己操縦」と「真の自己受容」という全く異なる生き方における転換は、上述の心理的転換そのものだということです。 これをより凝縮したエッセンスの言葉で言うことができそうです。 究極の選択は、「見せかけによって愛を得る衝動」と「真実に生きる意志」との間の選択になる、ということです。
これは「見せかけの愛」vs「真実の愛」という形にはなり得ません。マリーの心理変化における上記3)つまり「真実だけに向き合う姿勢」だけが、この選択の際に目に見えるものになるということです。 むしろ「愛」vs「真実」という構図になるということですね。今まで「愛」と思っていたものに自分を結びつけていた命綱を切って、一度「真実」という闇に飛び込むような感じになります。
では「真実」の後の「愛」はどこに現れるのか。 これはもう「必ずこうなれますよ」なんて言える世界ではなくなってくるように思います。最初に触れた公式、「現実において生み出す力と自己の重心の姿勢の中で埋もれたままの自己否定感情が放出された時消える」にも、「愛」は現れません。
でも「愛」が現れる。マリー・ヒリーの場合もそうだったし、僕自身の体験でも、そうした「感情の原型と転換」を経たあと、「愛」が現れた。それは既知の「愛」ではなく、未知の「愛」でした。
その全体を貫く、新たに取り上げる心理要素が「命」です。「命をかけて真実に向かう」という姿勢です。マリー・ヒリーの場合も自らの命がかかる顛末の中にあったし、僕の『悲しみの彼方への旅』でも僕の「自己への取り組み」は「命をかけた」覚悟の中で行ったものだったことを描写したと思っています。
一つの公式を新たに言えるのではと。 「既知の愛」に別れを告げ「命」をかけて「真実」に向かった時、それを越える「未知の愛」が現れる、と。
これが、ハイブリッドに取り組む「動機」についての話だということになります。 僕自身のごく最近の「意識状態」なども紹介しながら、治癒メカニズム論からの締めくくり考察をしましょう。 |
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