掲 示 板
過去ログ
2006.08


魂の成長の成り立ち-42:魂が求めるものへ-19 / しまの
No.1070 2006/08/31(Thu) 23:17:05

■「心が楽に」では歩めない道のり

「心を楽に」という動機だけでは、「人生の喜び」という心のエベレストを登ることはできない。「自己の真の成長に向かう」という、かなり強い動機と意志が必要になるのではないか。

そう考えるのですが、要は、この道のりは出発してかなり早い段階で、「心が楽」な取り組みではなくなるという事情があるということです。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
に示したものだと、自己操縦心性の崩壊という治癒メカニズムを何度も経ていくのがこの道のりなのですが、「心が楽に」だけでは最初の心性崩壊に向かう峠が大きな壁になって、道のり全体の最初のごく僅かで止まってしまうという構図になります。

なぜこのように心が楽な取り組みでなくなってしまうか、その説明について2つの説明ができます。
一つは取り組みの方向性という大きな話。もう一つは、そのための治癒メカニズムという、精緻な話。

1)「大元の自己否定」への向き合い

まず、この取り組みにおける「人生の生き方の大方向転換」とは「自己操縦から真の自己受容へ」です。
そして自己操縦が「大元の自己否定から目を反らしあるべき姿へと自分を操縦する」という生き方である時、この方向転換は必ず「大元の自己否定」に正面から向き合う営みになるということです。

これはどう考えても「心が楽」なんて話にはなりません。
もちろんそれだけでは「大元の自己否定感情の体験」にしかならず、その先に「魂の成長」という世界があるから、答えになるわけです。

2)否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換のための治癒準備

しかし「どうすれば」魂の成長が分かり向かう気になるという動機と意志がもてるのか。
そのためにまずある程度の治癒が準備として必要になる。これが何ともネックになる状況があります。
つまり、治癒成長のためには「心が楽に」を越えたより積極的動機が必要になるのですが、その積極的動機が実感としてはっきり掴めるにまずある程度の治癒が必要である、という自己撞着的な状況があります。


■「感情の膿の絶対量の減少」という前期課題

これはひとえに、感情の膿の絶対量がある程度減らないと、肯定型価値感覚が出てこないという、どうしようもない心理メカニズムに拠ります。

感情の膿とは、自己否定感情の膿であり、恐怖感情の膿です。精神破滅かのような自己否定感情に陥る危険の中では、まるで戦時の空襲の下に置かれた人間のように、安全を前提とした楽しみや喜びの感情は出てこないんですね。これが意識の届かない、心の深層で起きているわけです。

これに対して、「真の自己受容」とは、「魂の成長の方向に向かって歩む意思」のことを言っています。目に見える「心」の動揺を超えて、成長する「魂」を感じ取れることが、まず条件です。
そしてこの「魂の成長」の実体は、肯定型価値感覚の質量両面における増大変化です動揺する心を越えて、肯定型価値感覚の質が変化し、量が増えてきている。より揺ぎないものへ。より心を大きく満たすものへ。
これを感じることが、「実感として」魂の成長を感じるということです。この時初めて、「魂の成長の方向に向かって歩む意思」である「真の自己受容」は、「姿勢のイメージ」を越えて、人生を導く強固な原動力になるのです。

これら全てが、まず心理メカニズム的に、感情の膿の絶対量の減少に、依存します。
実際どうゆうことかというと、取り組みの前半というのは、どうしても「良くなる実感」がないまま心性崩壊を体験する、苦しい道のりが続くということです。


http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
に示した治癒サイクルの繰り返しは、そのことを示しています。まず少なくとも2回程度の心性崩壊が起きて、感情の膿の絶対量が経ることが必要である。
それにより肯定型価値感覚の芽生えが見えてきたところで、いよいよ「人生の大方向転換」の時期が訪れます。これは3大道標感情の流動性の自覚」「否定型価値感覚の放棄」「真の自己受容」が、その順序で比較的集中した時期に訪れるものです。

この「まず2回程度の心性崩壊」というのと「3大道標」の説明を簡潔に次にしましょう。
3大道標の中で「真の自己受容」の前にも1個心性崩壊を入れています。これはメカニズム上のちゃんとした理由があります。

全てが「考えよう」「心の持ちよう」どころではない、厳然とした心のメカニズムに従っています。
それを踏まえて、自らの「取り組む動機」に向き合って頂くアドバイスに続けましょう。


魂の成長の成り立ち-41:魂が求めるものへ-18 / しまの
No.1069 2006/08/30(Wed) 12:16:13

先に「動機」と「治癒成長」の関係について、締めくくりましょう。
まずハイブリッド心理学の全体を大きく振り返ります。


■ハイブリッド総括:心理メカニズム

ハイブリッド心理学の全体は、まず2つの視野を持ちます。「メカニズム」と「取り組み実践」です。
メカニズムについては、3つのことがらを捉えています。「心理障害の構造」「治癒メカニズム」「治癒成長の道のり」です。

1)心理障害の構造
治癒成長の取り組みとなる心の状態。この最新の、シンプルな図が以下。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpg
以下は、本人の意識から見た構造。これは少し以前に書いたもので、あまり分かりやすくない^^;
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg

2)治癒成長のメカニズム
治癒成長がもしうまく成されるならば、こんなメカニズム過程になるという図です。「どうすれば」そうなれるかはここでは示していません。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpg
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro4.jpg
この図は2つとも、「治癒メカニズムの1サイクル」を説明した図です。全体の道のりではありません。

3)治癒成長の道のり全体
治癒成長を通して、根本的な変化を遂げる姿です。この図全体が、取り組みを行う個人の人生全体を示す形になります。
これもやはり、「もしうまく成されるならば」の図であり、「どうすれば」そうなれるかは示していません。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg

4)魂のメカニズム
上記のような根本的変化の道のりがなぜ起きるかの根底のメカニズムとして、目に見えない「魂」という、目に見える「心」が湧き出る源泉があり、それが荒廃から成長へと向かうという考えです。それが以下の図。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg


■ハイブリッド総括:取り組み実践

次の視野は、「ではどうすればそうなれるのか」という、取り組みの実践内容です。
取り組み実践する内容は、その手間と習熟時間などの違いから「心の姿勢」「心の使い方」「心の技術」などと呼ぶことができます。
「心の姿勢」は、意識を向ける姿勢です。例えるば、怒りを是とするか否とするか。
「心の使い方」は、あまり専門知識を必要とせず日常思考で考えることのできる実践です。例えば、怒りの原因よりも怒りの結末を良く考えることで、怒りをよりうまく制御できます。
「心の技術」は、心理学や行動学の専門的な知識に基づいて行う実践です。このため、実践する前に結構な学習が必要です。例えば「原理原則立脚型行動法」。最も難度の高い「感情分析」。

この項目立ては、「次の著作予定」の項目立てを参照下さい。
http://tspsycho.k-server.org/books/book_next.html
「第一部 心の健康と幸福」「第二部 人生を取り戻すために」は主に「心の姿勢」の話です。
「第三部 心を育てる7つのノウハウ」が「心の使い方」と「心の技術」に関する話になります。


■ハイブリッド総括:取り組みへの動機づけと治癒成長

「ものごとを成す」という時、成す「内容」とそのための「手段」そして「動機」という3点セットが必要です。
事件の立証も、起きた事件内容とその手段が解明されただければ「立証」は不十分だと言われます。それに加えて「動機」の解明が必要と言われます。とこれはあまり良い例えではないかも^^;

これがそのままハイブリッドでも大きく言えます。「内容」は「メカニズム」として説明しました。「手段」は「取り組み実践」です。
「動機」はどこに関わるかというと、「道のり全体」の中で「どこまでやるか」の話になります。

つまり、「取り組み実践」でまず言っているのは、山登りの技術のようなものだということです。近所の裏山を登るにも、世界の高峰たとえばエベレストを登るにも、山登りの基本的な技術は一緒です。思考法行動法という必要な装備を身につけ、心理学という方位磁石とピッケルを持って、山登りに応じた歩き方をするわけです。

しかし、裏山を登るのとエベレストを登るのとは、大分話が違います。一歩を歩く振る舞いは同じでも、成されることの全体が違ってくる。エベレストを登るとなると、高度に合わせて大分地面環境も違ってきます。それに応じたさらに高度な技術が必要になってきます。大きな地図が出てきます。これが「道のり全体」なわけです。
だから、「どこまでやるか」という話が出てきます。そしてそれを決める最大の要因は、「どこまでやりたいか」の動機だということです。
そして、これは個人の自由です。その良し悪しは全く問われる問題ではありません。

治癒成長の道のり全体図は、そうした「動機」まで含めた図です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
「動機」として2種類を示しました。「心を楽にする」と「自己の真の成長に向かう

そこで「初期向上」と示したものが、動機をあまり問わずに、「こうすれば」という取り組み実践をざっと学んだレベルで「成される歩み」です。
これは今まで主に「初期の安定化」と呼んだものです。「怒る自分は正しく不幸だ」という、あまりに心の健康と幸福に害のある姿勢をやめた成果と言えるでしょう。今までの生きる姿勢があまりに下手なものだったわけです。

しかしそれ以上の歩みは、「どこまでやりたいのか」という「動機」が大きく関わってきます。

ここで、「動機と目標の食い違い」という問題が発生してきます。最もネックとなるのは、「安定した心で人を愛せるようになる」といった、大抵掲げられる「目標」は、その図で言いますとかなり高い、エベレストに登るような話になってくるということです。
「自己の真の成長に向かう」という強い動機がないと、至れない。


これには心理メカニズムからの厳然とした理由があります。この説明を次に。そして「動機」についてどう考えて頂くのがいいか、僕の考えを述べましょう。

なおこれは否定的感情で心がほぼ占められるている、標準的な(?)深刻さの心理障害を念頭においた話です。生活における肯定的感情の割合が高い、軽度な心理障害の場合は、「動機」について深刻に考える必要もなく歩めるメースも十分あり得ます。


期間メール相談1年以降は無料に改訂! / しまの
No.1068 2006/08/29(Tue) 14:48:37

メールカウンセリングのご案内に示した通り、期間メール相談の6回目以降は無料にすることにしました。

まもともと心理援助相談にお金が発生することはバイアスを生むので極力なくしたいと思っているのですが、はなっから無料開放すると許容量を超えるのは目に見えているので、最初の1年を敷居にするくらいにすれば、これで多少増えても対応可能な範囲にという見込みです。

生涯通して\25000で島野にご相談頂けますということで(^^;)我こそはと思わん方は(アハハ何のこっちゃ)ぜひ申し込みなど。まメール相談対応は僕としても勉強ですんでね。

これは解説中の「ハイブリッドに取り組む動機」にも関連した話で、「成長への動機の不足」があるとどうも続かないという傾向もはっきり見えてきた感じです。だから「取り組む動機」に取り組む(^^;)ためにも、これを考えることを促すものとして、いったん続けると後がタダというパターンがいいかと。

「動機の不足」へのアプローチについてもそもうち解説の方で考え、書こうと思います。


魂の成長の成り立ち-40:魂が求めるものへ-17 / しまの
No.1067 2006/08/29(Tue) 14:17:24

■治癒メカニズムと本人の意識内容:統括

これまでの説明を総括すると、ハイブリッド心理学では心理障害の根本構造として自己操縦心性というものを言い、治癒として心性崩壊というものを言いました。これは心を心理学の目で外から見た、心理メカニズムの話です。

一方、そのような治癒成長に向かう本人の意識としては、「自己操縦」から「真の自己受容」へという、「生き方の大方向転換」を言いました。
しかし「真の自己受容」の意識内容の話をできたのは最後の方であり、ここに至り「真の自己受容」とは、「自分の何でも受け入れる」という言葉からイメージするであろうものとはかなり違う、「命をかけて真実に向かう」こととイコールなのだと言うことができると思われます。
そしてその先にあるのは、「既知の愛と別れ命をかけて真実に向かった時それを越える未知の愛が現れる」というものであり、「心理障害から楽になりたい」という消極的なものを越えた動機は、これを目指すという意志願望になるのではという考えを述べたわけです。


■島野の意識内容

この2種類の動機と治癒過程の関係を考察しようと思うのですが、ここでは積極的動機での向かう先をさらに描写しておきます。
そのために、僕自身がごく最近どんな「意識状態」に至り始めているかを紹介しとこうと思います。

理論をくだくだと考える以前の、体験的考察ということですね。ハイブリッド人生心理学は、人生の体験に基づく心理学です。学問の権威には無縁の心理学。僕自身の人生があり、ホーナイが観察した多数の人生があり、ハイブリッド読者の人生がある。そしてそれが同じ「心のメカニズム」に沿ったものであろうものが見られた時に、それを理論化するわけです。
そうして「理論」にまで昇華できそうな、究極的な心の世界、「魂が求めるもの」の領域の考察になります。
その材料という、始めの一歩。

今回は僕自身の日記からの、ごく断片的な引用になります。詳しい状況や心理の流れはいずれ小説の形で出したい。

そこに何が表れているかの視点は2つ。一つは「空想から現実へ」という、意識土台の外枠の変化です。
そしてもう一つが、「魂が求めるもの」。この大きな流れが分かるよう、時間の経過を大きく追って抜粋しましょう。


1)2002年の「ゼロ線の通過」後のハイテンション状態(^^;)

自分の日記の読み返しが今この辺に来たのですが、この年のGW後の日記の雰囲気は、それ以前とはあまりにもがらりと変化したものになってました。

2002.5.9
 ここ数日、自分が誰か愛する女性を見つけ、家族を作り、子供を育てるという意志を感じたことで、自分が人生における問題を全て克服した人間になった、これからは常におおらかな明るい態度で人に接することができる、という自信感のようなものが生じていた。それは同時に、自分が人間的魅力のある者として存在するというイメージがあった。“人の愛情を得るのは2つの方法がある。魅力によるものと共感によるものだ”。そして自分がこれからは共感によって人からの愛情を得ることができるというイメージを持った。そんな自分が女性から好意を持たれ、上のレベルの女性を相手にできるというイメージにひたった。
 だが今日は、午前中の自分がリーダーのタスクの会議や、午後セミナーに出かける時秘書さんに声をかけるといった行動の中で、何か喋り疲れの感覚があり、そのような幻想感が崩れたところがあった。自分の行動には人の好意を呼ぶものがあるはずだ、といった幻想の感覚が消えた


治癒成長がもたらす気分の上昇は、この手のナルシズム感情を必ず起こします。ホーナイ“健康を祝すどんちゃん騒ぎ”と呼んでいます。それで問題なし。高揚した気分に乗って、積極的に行動するのがいいでしょう。すると幻滅に出会います。
そうして、よりしっかりと現実に足を下ろして前進する心が育ちます。

『悲しみの彼方への旅』P.336の「ただしその高揚感は、多分に今までの反動のナルシズムが生み出した部分もありました。実際の行動の中で、高揚感が幻滅に変わり、感情の混乱と動揺の中で自己分析を繰り返し、やがて自分の内面に確信を伴う安定が生まれてきます。」に該当する部分ですね。
こうした内面の成熟安定化は、現実の行動体験を通してのみ成されます。じっと内面を見て感情分析しているだけでは、決して生まれない治癒成長の側面です。


2)「現実に足を下ろして」から「失敗を通しての成長」へ

心性崩壊によるアク毒放出の際には「自らへの審判」が起きると話したテーマで既に引用した部分。2004年夏頃のもの。
(2006/08/09「魂の成長の成り立ち-29:魂が求めるものへ-6」およびその次)

ここでは、気分の高揚と幻滅といった目に見える感情の動揺を超えて、「成長する自分の魂」というものがはっきりと感じ取れるようになっています。
その結果、「大元の自己否定感情」であるアク毒への対面に際して、「それでも自分は生きて前に進む」という自己審判と意志は、「自分の魂」を基盤にして行う、とても確固としたものになってきます。

(2004年夏)
(・・略)時に感じる「どの女性も僕を求めない」という感情の前には、「自分が求められる」というイメージへの衝動があり、その前には「求めさせる」つまり自分が求めるに値する男だと“思わせようとした”操作的で作為的な衝動があった。軽蔑と怒りはそれに対してのものだったのだろう。
 これはもはや外化というメカニズムを超えたもののようにも思える。自己嫌悪感情はなく、それでも、自分が軽蔑と嫌悪に値する行動を取ったという、本能的で原初的な感覚なのだ。
 ・・(略)・・
 女性探しに向かおうとする気持ちが、リセットされた感がある。風呂に入る頃には、結婚願望がきれいになくなっているのを感じた。
 自己紹介の文章などを新しく作ってみようと思っている。今までは「女性にどう思わせるか」という感覚の中で作っていたが、もっとストレートに今の自分を表現するものへだ。
 それと同時に、自分を心理カウンセラーとして人の前に出そうという考えを持つようになっている。
 ・・(略)・・
 翌朝、僕はもう一度そのメールを見て、僕の中の感情がどこに反応したのかを確かめた。「独りよがりで、・・・」というのがそれだったようだ。確かにその言葉は、自分がどの女性からも愛されないというイメ−ジの象徴でもあったろう。
 まあこれはどっちもどっちということだと考える。独りよがり同士というわけだ。それでも僕は、精一杯愛せる女性を探そうとしたのだ、と考えた。彼女は人を愛せない、と考えた。そんな風に彼女の人間性を見下すような思考は、僕のプライド防衛反応でもあったのだろう。


ここでは書いてませんが、僕はこの時、「自分の本性のままに生きる!」という意志をより強めたわけです。


3)「原罪」に向き合う

これも「自己への審判」に関連して引用したもので、上記よりもさらに深い、根源的な自己否定感情に向き合っています。
(2006/08/11「魂の成長の成り立ち-31:魂が求めるものへ-8」)

上記の「自分の操作的衝動への嫌悪」がまだ社会行動における原理原則という話の次元であったの対して、ここでの自己嫌悪は人間存在そのものに絡むものというレベルのものです。
そのため原理原則的思考で自分を許すという判断はもはやできず、前向きの感情はほとんど失っている瞬間となります。
それでも自分は生きていく。この自己審判は自分の魂との対話として行われ、さらにここで、実は僕の人生で初めてと言っていい話として、「神のみに許される」という観念が感情を伴って現れました

「信仰」というテーマですね。ハイブリッドではこれを宗教思想としてではなく、「信仰のメカニズム」という心理学で捉えたい。これを少し後に説明します。

これが2005年の末頃、つまり今年の冬のことです。
この引用はその前にも2006/05/27「自己操縦心性の成り立ち-77:自分自身からの逃避-13」でしています。そこから再び引用。

(2005.12)
 彼女との間でどうも何か冷めた空気が流れがちだと気にする感覚が、自分の中に流れているのが僕は気になっていた。僕は彼女に対して親しそうな表情や態度を取れるだろうかと気にする。しかし彼女はそう気にしている僕への軽い違和感と軽蔑感を抱くのだ、というような構図ができているのを感じた。そこには、自分だけを見て相手を見れていない人間の姿があった。その姿を嫌悪しているのも、また自分なのだ。その嫌悪が外化されて体験される。
 そのことについて今日考えていて、浮んだイメージは、彼女の前で「こんな自分なんて嫌だ〜」と泣いているような自分のイメージだった。それは誰にも受け入れられる可能性もない、救いのない姿だった。いや、救いのない姿だという、感覚があったのだ。その感情の中で、神に許されることだけに救いがあるというイメージは、何か強い安堵の悲しみを湧かせる感のあるものだった。
 許され、受け入れられることに意味があるような「罪」を、その人間は持つことになる。自分を受け入れることができず、心を開くことができないことが、だ。残存愛情要求において、ということになるだろう。残存愛情要求においては、自分を受け入れ、心を開くことが、あるべき姿となる。そこには真実と非現実の混合がある。
・・(略)・・
 書いていて、これは“愛の障害”ではなく、“自意識の障害”なのだ、とつくづく思えてくる。


「自分を受け入れ心を開く」ことが「あるべき姿」として掲げられる時、実はその根底に、そうはなり得ない自分という深い自己否定があるわけです。それはその先にはもはや進める道のない「原罪」という感覚を抱かせます。
それを受け入れた時、実は「自分を受け入れ心を開く」ことができる自分を見出す。何において受け入れるか。それが「未知への信仰」になるでしょう。
この話を後で。


4)「包含の愛」の感情へ

最後に紹介する場面はごく最近のものです。実は上記引用した年初の冬から春にかけて、僕自身の中でかなり大きな変わり目の時期となった気がしています。
それを決定づけたのが『悲しみの彼方への旅』の出版で、これにあたり僕は肖像権に関わる必要性からも「あの下級生の子」および初恋女性とも連絡を取り、僕自身の来歴をじっくり知ってもらう機会を持ちました。できあがった本を近親者も読み、今の僕はもう根本から隠すものをあまり持たない人間になっています。

それがやはり人生の一つの区切りなんでしょうね。「」というテーマについても、大きな区切りがあったと感じます。詳しい話は一切省きますが、どんな心理場面があったかだけ日記から引用しましょう。
それを経て、今の僕としては、もう「恋」という感情そのものから卒業したような感覚も感じるようになっています。まあまだまだ人生これからだと思っていますし、こうした頭で「自分はこうなった」と感じることは、常に事実と錯覚の混合ですが、そんな区切り場面の心の表現だけ抜粋して紹介しましょう。

2006.3.1
 ・・(略)・・
 今日昼過ぎに短いメールを出しておいた。桜が咲く頃会わないか、ということで。
 今午後6時だがまだ返信はない。すぐ返信が来るのを期待していた部分も心の一部にはあったろうし、その分、そうでなかったことで僕の中に少し何かの反応が起きたようだった。
 彼女からの返信が来ない..それで心を埋めていたものの一部をぽっかりと失うような感覚、と共に感じる反応ということか。それは自分にとっての「命」が失われる感覚とも言えるのだろう。「愛は命そのものなのだ」 そんなことを考えたりした。
 ・・(略)・・
 (この後ちょっと、これまた別の女性(^^;)に惹かれる感覚とそれにまつわる疲労の感覚を感情分析しています。)
 なぜこんなことが起きるのかというと、愛は存在の根本であり、感情の膿も同様に、存在の根本に関わるのだ。まずそんな言葉が浮かぶ。感情の膿は、今まで考えていた以上に、愛に近いものであるように思えてくる。
 ・・(略)・・
 その後僕の中に一瞬現れたのは、何かあまりにも大きな輝きを見るような思いの対象としての、彼女のイメージだった。それは僕が人生をかけて求めた夢..もしくは闇の中で取り戻した命..そんな感動にも似たイメージだった。


後日この流れで感情の膿が流れる場面なども。変化は常に、感情の膿の放出とセットで起きます。

2006.4.4
 ・・(略)・・
 部屋掃除をしたあと、プリント裏紙に書いている日記メモのノートへの写しをした。奇しくも、約1か月前の、彼女に食事の誘いのメールを出した時のことで、“人生をかけて追い求めた夢”のイメージを感じた言葉が書かれていた。一種の免罪符のような役割を持っていたその感情は、もう自分にはない。そんなことを考えながらジョギングへ。明日会うことについても、漠然とした恐慌が流れるのを感じた。ただ恐いと。何か破滅のような視線が向けられるという、漠然としたイメージ。夕食を食べ風呂に入る頃になって、そうした感情たちは消えていた。


流れが分かるにはあまりに省きに省いた抜粋ですが、今の「意識状態」を言いますと、日記中にも出てきた、「愛が命なのだ」という感覚が強くなってきている今日この頃です。
これは「自己アイデンティティと愛の統合」という一つの「意識状態」の概念を僕に与えています。それを図で示したのが、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
「包含の愛」です。
これは「共鳴の愛」が主に一体化への感情であるのに対して、もう一体化衝動をあまり含まないもので、世界の全てへの湧き出る愛の感情という感じ。

まあ僕の心がそんな完成状態にあるなんてことは全然なく、上記引用にもあるように、感情の膿はまだまだ埋もれているかと。これはまるで、中学校頃には地球の石油はあと40年で尽きるなんて聞いたのに、その30年後の今、今だに一向に尽きる気配がない、それと似た感じです^^;
でも方向性としては、そんなものなのだろうというのが確実なものとして感じられる今日この頃です。

つい先日の返答メールでも、こんなことを書きました。
----------------------------------------
「自分に魅了されない人間はいない」という、オーラと感じられるほどの魅力をつけたいという願望は、まあ大いに結構と言ってもいいでしょう。
ただそれが「実現しない」かどうかを、自分の魅力がそこまで及ぶかという視点だけで考えるのではない、もう一つの心理学的視点を持って欲しい。
これはちょっと新しい話ですが、そうした発想は「魅了される心」というのを前提にしたものだということです。
「魅了される心」というのは、心の成長の途上段階で起きるものです。自分の心に命の重みを失っている時、他人の持つ圧倒的な価値に「魅了」されるという現象が起きます。
自分の心に命が失われている。それを埋めるものを他人に感じるから、「魅了される」という感情になるわけです。

自分自身の心に命の重みを十分に持つまでに成長した心は、「魅了される」という感情はもうありません。
精神的安定を感じさせる人物として、例えば安部官房長官が美人に魅了され我を失った姿を想像すると、それは「意外な未熟」を表す構図になるかと。
心が成長すると、どんな美人を前にしても、心はいつもと変わりない穏やかなまま。そんな心の世界を遠く想定して、自分の歩む道がいづれそんな世界につながっているとイメージすることは悪いことではないかと。

僕自身はちょっとそんな感覚の尻尾が見えてきたことろですね。まあ全てそれに占められるのは10年後以後でいいと思っていますが。
例えば伊藤美咲のような圧倒的美に魅力を感じる感覚と同時に、その内面にある「人格」への、老若男女を問わない愛情感が感じられてきたこの頃です。小さな甥に「人格」を感じるのと似た感覚が、女性に対してもようやく感じる感じになってきた。これはすごく安全感を伴う感覚で、嬉しい次第。

----------------------------------------


ややだらだらと僕自身の日記など紹介しましたが、http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
に示す大きな方向性のようなものをイメージする上で役に立ったかどうか。

それが「魂の求めるもの」であり、それに向かって生きるという意志が、「真の自己受容」だというわけです。
この「魂の求めるもの」について、最後の「心理メカニズム」解説として、上に触れた「自己アイデンティティと愛の統合」について次に説明しましょう。最後に魂が向かおうとするものはこれではないかと。

それが損なわれた典型的症状として、「真のアイデンティティ隠蔽と人工的自己アイデンティティ熱症」という、実に現代社会人にマジョリティな症状を説明します。


魂の成長の成り立ち-39:魂が求めるものへ-16 / しまの
No.1066 2006/08/28(Mon) 14:47:48

■マリー・ヒリーの「心理変化」と治癒成長上の「根本変化」体験

さて、先のカキコで「埋もれたままの自己否定感情と愛情欲求」が根源である「抑うつ感情」が根本的に克服される、秘宝を開けるための難解なパズルのような心理学公式を言いました。
まず「現実において生み出す力」「自己の重心の姿勢」という、一見してこの秘宝を開けるのとは無関係なことを努める。意識的に直接努力できるのは、ここまでです。その先に、この2つと合わさるように「埋もれたままの自己否定感情」が意識の表に「放出」されることによって抑うつの根源が根本的に消え去るという難解な心理学的現象です。

これがその前に書いた、マリー・ヒリーの劇的な心理変化の歩みとどうつながるのか。
上記の文章そのままでは、一見まるで全くつながらない話のようでもあります。事実つながりは上記公式の行間ならぬ語間に現れます。
つまり、「埋もれたままの自己否定感情が意識の表に放出される根本的克服」というのが、この心理過程を外から見た心理学的表現であるのに対して、この先にある本人自身の意識体験内容は、マリー・ヒリーがたどった変化と実に似ているというか、もはやそのものだということです。
つまりこの2つの心理変化の話は、アナロジーではなく本質的に同一であるということです。

マリー・ヒリーの心理変化を、心理学的に分析してみましょう。およそ5つの段階を言うことができると思います。
ハイブリッド心理学として注目するのは、麻薬密売人との誤認逮捕を受けてからの心理変化です。その前の、ジョンへの純粋な愛が生まれたという変化は、もちろんこれも一つの変化ですが、根本変化そのものには含めず、その背景の一つと考えるのが良いと思います。

1)自分を偽り続けることへの心底からの断念
「観念するわ。もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって..」と言った瞬間に起きた心理変化です。自分を偽り別の人間になろうとした衝動を、心底から断念します。
2)自分を偽るストレスからの開放
上記とほぼ同時に起きている心理変化であり、引用した「もう疲れました」という言葉に示されています。これは逆に言えば、今までストレスを伴うことをし続けていたということであり、それを心底から断念したことは、ある種の安堵と開放を伴うということです。
この2つの心理段階は、「今までの生き方をやめた」段階と言えます。次からは「新しい生き方」の段階です。ということで線を引いておきましょう。
==================
3)真実だけに向き合う姿勢
これが「新しい生き方」の芯ともいえる姿勢になります。法廷に向かうマリー・ヒリーが実に真っ直ぐな視線だけになっていたのが印象に残ります。自分を偽り別人になって生きようとする人は、大抵、いつもキョロキョロと回りを気にするものです。
4)愛への願い
ジョンへの純粋な愛の芽生えは既に伏線としてありましたが、真実が晒された後のジョンの変わらない愛によって、マリーのジョンへの愛は質的にも数段階高まる領域に向かったように思われます。
2つの「愛情」を想像してみるといいでしょう。双子の妹テリーを信じながらジョンを愛する感情。嘘をついた自己の真実をも受け入れたジョンへの愛情。前者は危険に満ちた愛情です。何の危険かと言うと、本当の自分は愛されないという危険です。マリーは誤認逮捕を受けるまで、結局この世界に留まっていました。後者は、もはや何の危険要素もない「絶対的な」愛の感情になるように思われます。
またこの「絶対的な愛」への願いは、金銭その他この世のあらゆる俗的悦楽を凌駕するものであろう姿を、その後のマリーの様子から感じ取ることもできるように思われます。
5)罪を補うことへの願い
マリーに最後に現れたと思われる心理状態です。真実だけに向き合い、絶対的な愛への願いの中で生きた時、人の心は極めて清らかな印象を与えるものになるように思われます。それは賞賛される姿でさえあるかも知れません。
で事は万事オーケーには、ならないのです。そのような絶対的な愛の価値を取り戻した時、まさにそれによって、自分が人の愛を傷つけたことへの痛み後悔を、耐えがたい実感として味わうことができるようになるのです。なぜなら自分自身が愛を願う感情によって、人の痛みを理解できるからです。
これはマリーの最後の姿に想像されます。彼女はそのまま、ジョンとの幸せな愛の生活を手にしても良かったのです。でもそうはできなかった。ジョンに何も告げることなく、ボロボロになりながら自分の生まれた家へ向かった時のマリーの心は、察するに余りあるものがあります。

我々が「人間性」という言葉で呼び、人のそれを感じ取り評価したり自分で願ったりするものの本質は、この最後の姿にあるように思います。
はっきり言えるのは、「善悪倫理」という、「人間性を評価」するとき不可欠なものの真の姿は、マリーの最後の姿に示されたように、人からどう見られるかや裁判でどんな判決をされるにはもはや全く関係のない、言わばその人自身の魂との間の問題になるということです。
我々が特定の人物に高い人間性を感じたり、また自らの人間性に確固たるものを感じることができる時とは、本質はそのようなものとしてあります。決して表情や振る舞いや言動の外から見た見栄えによってではないのです。


■「愛」と「真実」と「命」という命題

マリーがまだ自分を偽り、テリーとしてジョンを得ようとしていた時、そこにある愛は「本当の」愛だとしても、多くのものを損なっているように思われます。
心は他人を演じることの成功失敗に意識が取られます。本当の自分は愛されないかも知れないという不安があっても、それに向き合うことはできず、相手のちょっとした淡白さは自分を見破っての嫌悪ではないかという不安に化け、自分を責め後悔することがあるとしたもそれは自分の演じ方の話になります

自分を見せかけて愛を奪おうとする衝動の中にある時、人を傷つけることの痛みは麻痺するでしょう。なぜなら自分が嘘を演じているのと同様に、他人も何か嘘を演じていると概して感じるからです。ただし人を傷つけた自分を見ると、演じるべき理想の姿との違いに、今度は大げさに罪悪感を演じる姿になるかも知れません。

心理障害における「自己操縦という生き方」でも、同じ問題が起こってしまっています。大元にある自己否定感情から逃れるために「なるべき自分」を演じようとし、自己嫌悪感情は大元の自己否定のことなのか、それとも自己操縦の失敗のことなのか、混沌とした感情に陥ります。見せかけの無神経な他人には怒りが起きますが、怒った自分の姿には激しい罪悪感を感じます。

そのように、全く同じ「感情の原型」が起きているのですが、心理障害の場合大きく違うのは、これが心の深い深層でしばしば本人自らを欺くような形で起きることであり、人との間で起きるそれらの原型感情が、実は現実には特にそれに該当するだけの事実がないまま、動くことです。
この違いの話はこの後にもう少し詳しくしましょう。

いずれにせよ、ハイブリッドで言う「自己操縦」「真の自己受容」という全く異なる生き方における転換は、上述の心理的転換そのものだということです。
これをより凝縮したエッセンスの言葉で言うことができそうです。
究極の選択は、「見せかけによって愛を得る衝動」と「真実に生きる意志」との間の選択になる、ということです。


これは「見せかけの愛」vs「真実の愛」という形にはなり得ません。マリーの心理変化における上記3)つまり「真実だけに向き合う姿勢」だけが、この選択の際に目に見えるものになるということです。
むしろ「愛」vs「真実」という構図になるということですね。今まで「愛」と思っていたものに自分を結びつけていた命綱を切って、一度「真実」という闇に飛び込むような感じになります。

では「真実」の後の「愛」はどこに現れるのか。
これはもう「必ずこうなれますよ」なんて言える世界ではなくなってくるように思います。最初に触れた公式、「現実において生み出す力と自己の重心の姿勢の中で埋もれたままの自己否定感情が放出された時消える」にも、「愛」は現れません。

でも「愛」が現れる。マリー・ヒリーの場合もそうだったし、僕自身の体験でも、そうした「感情の原型と転換」を経たあと、「愛」が現れた。それは既知の「愛」ではなく、未知の「愛」でした。

その全体を貫く、新たに取り上げる心理要素が「命」です。「命をかけて真実に向かう」という姿勢です。マリー・ヒリーの場合も自らの命がかかる顛末の中にあったし、僕の『悲しみの彼方への旅』でも僕の「自己への取り組み」は「命をかけた」覚悟の中で行ったものだったことを描写したと思っています。

一つの公式を新たに言えるのではと。
「既知の愛」に別れを告げ「命」をかけて「真実」に向かった時、それを越える「未知の愛」が現れる、と。



これが、ハイブリッドに取り組む「動機」についての話だということになります。
僕自身のごく最近の「意識状態」なども紹介しながら、治癒メカニズム論からの締めくくり考察をしましょう。


魂の成長の成り立ち-38:魂が求めるものへ-15 / しまの
No.1065 2006/08/27(Sun) 00:08:11

マリー・ヒリーの人物記を乗せましたが、心理障害からの治癒成長の道のりで「根本変化」を起こす心理メカニズムである「自己操縦心性の崩壊」で起きるのは、まさに彼女の心に起きた変化そのものを再現するものであるように感じます。

問題の根本を直感的に分かりやすそうな表現で書いてから、そのことを説明しましょう。


■心理障害からの治癒成長総括:入門編

「抑うつの原因とその克服」とかの題目で書こうと考えると、こんな説明ができます。なるべくハイブリッド用語は使わずに、入門編として心理障害からの治癒成長をサマリーするとこんな表現になります。

【問題】
我々は、現実的な不幸災難に見合った、理由のはっきりした悲しみや絶望の感情を、必ずしも心理障害とは考えません。
そうではなく、現実に対してどうも見合わない、また理由のはっきりしない悲しみや絶望の感情を、心理障害として捉えます。

単刀直入に言えば、我々が心理障害と感じるのは、はっきりした悲しみや絶望感ではなく、「抑うつ感情」と呼んでいるものです。
普通の生活の中で、ごく些細なことで、もしくは具体的な原因が全くないまま、落ち込んでふさぎ込むような感情が流れてしまい、対人関係や仕事に支障さえ出てくるように感じます。これは実際困ったことです。だから人はこれを「心理障害」と捉え、人によってははっきりと「脳の病気」なのだと考えたりします。

【原因】
心の深層に注目する心理学からは、抑うつ感情の原因は「心に埋もれたままの感情」が原因であることが、ほぼ確実なこととして知られています。

これは主に2つの方向のものです。一つは「埋もれたままの自己否定感情」。もう一つは「埋もれたままの愛情欲求」
この2方向での埋もれた感情が悪さして、自分が駄目なような気分が訳もなく流れたり、自分が孤立無援の疎外された人間のような気分を感じたりします。2つが重なると、「自分は駄目で孤独な人間」だという「抑うつ感情」になるわけです。

【誤った対処姿勢】
心の底に埋もれたままの自己否定感情や愛情欲求は、そのように抑うつ感情の原因になるだけではなく、さらに人生において大きな問題を引き起こしてしまいます。
それは、「心に埋もれたままの自己否定感情」から逃れるための「自信」を、「自信」として追い求めてしまうことです。
「心に埋もれたままの孤独感」から逃れるための「愛」を、「愛」として追い求めてしまうことです

これはいたしかないところがあります。なぜなら、そう感じるんですもの。
心に埋もれたままの自己否定感情や孤独感がある時、そうした自己否定感情や孤独感を「もう感じないですむ」ようになるものが「自信」であり「愛」なのだと考えるのが「自然な発想」というものです。自然な発想どころか、そう考える以外にどう考えることが一体できるのか、想像もつかないような話です。

しかしそうやって抑うつ感情から自分を解放してくれるような「自信」や「愛」にどう向かおうとしても、なかなかうまく行きません。
そんなものがあるのか疑問になってくるほど、うまく行かなかったりします。ちょっとした心理学を勉強して、多少は「気持ちが楽になる」ことがあっても、人生全体を通して根本的に抑うつ感情が克服されたと自信を持って言えるような変化を聞くのは、極めてまれなことです。

【抑うつの根本的克服】
それに対しハイブリッド人生心理学では、抑うつ感情が根本的に克服される、ひとつの心理メカニズムを見出しています。
これはちょっと難解な、まるで宝の箱のパズルを開けるような感じで、箱を開けるのとは一見して無関係なパズルを2つ動かして、さらにその結果を組み合わせると初めて本当に箱が開くような、そんなイメージを感じさせる事柄です。

その抑うつ感情の根本克服のメカニズムとは、こんな感じです。

1つ目のパズル。抑うつ感情から逃れられるかどうかとは全く無関係に、「現実において生み出す」ことを重視した思考法行動法をします。感情で判断するのではなく、知性で判断する思考法行動法。
これがうまく行くと、感情に左右されない生き方ができるという、独特な自信が育ちます。「感情には関りのない自信」という、一風変わった「自信」です。感情にはあまり関係ないので、これだけでは抑うつ感情もそのままですが。

2つ目のパズル。抑うつ感情を、人との関係で起きた問題ではなく、自分自身の内部で起きている問題として理解することをします。
心理学本ではこの平易な説明を書こうと思いますが、ここでは省略。要は「外化」の理解です。これが極めて重要な鍵になります。
これで達成されるべきものは、「自己の重心の姿勢」です。

具体的な表現を書きましょう。人に否定されて動揺したり怒ったりするのは、実は自分でも心の底で自己否定感情を抱いているからであり、それに目をつぶり忘れ去ろうとする先に起きることであることを、理解することです。人に肯定されることで自己否定感情を消し去ろうとするのでは、根本的な解決にはなっていないことを理解することです。
同様に、心に埋もれたままの愛情欲求とは「愛されても満たされない愛情欲求」であることを、感じ取ることです。そんなものが「ある」ことを、認めることです。

この2つのパズルの操作では、宝の箱は開きません。つまり抑うつ感情の根本的解決にはなりません。
しかしこの「感情には関わりのない自信」と「自己の重心の姿勢」という2つのパズルに、もう一つの動きが加わった時、まるでインディ・ジョーンズが誰にも開けられなかった秘宝を開けたように、秘密のからくりの中で、この宝の箱も開く特別な心理学的現象が起きるのです。

それはまず、「現実において生み出す」力がある中で、埋もれていた自己否定感情がありのままに「放出」されるという出来事です。するとその自己否定感情は根本的に消え去るようです。
そしてこの自己否定感情の根本的消滅に連動して増大する「愛する能力」が埋もれていた愛情欲求を上回った時、人への疎外感や孤独感も完全に感じなくなるという現象です。



感情には関わりのない自信」と「自己の重心の姿勢」という2つのパズルを組み合わせてさらに自己否定感情にありのままに向き合う体験。
これがハイブリッドの見出した根本治癒成長の心理現象だということになります。
入門レベルの易しさで書こうとしても、結局かなり難解なような..う〜ん心理学本原稿の道のりは長い^^;

分かりやすさ上の問題は置いといて、これがマリー・ヒリーの話とどうつながるか。これを次に。


今日の読売朝刊に広告出てま〜す\(^^)/ / しまの
No.1064 2006/08/26(Sat) 11:20:16

先日ちょっと触れた、『悲しみの彼方への旅』写真入で比較的大きな新聞広告今日の読売朝刊に出てます。同じものが毎日新聞でも8/24〜31のいずれか一日ということで掲載予定ですが、同じく今日かどうかは不明。
文芸社の『8月おすすめの一冊』という14コマの中の一つという形。

まずはこれでどう人の目に入るかだな〜という感じ。
広告の写真を今日中にUp予定です。


魂の成長の成り立ち-37:魂が求めるものへ-14 / しまの
No.1063 2006/08/25(Fri) 14:24:16

■「魂の浄化」の中で死を選んだ事例

「命」という命題を描写する事例として、“自己操縦心性の崩壊による「魂の浄化」の中で自ら死を選ばざるを得なかった例”として紹介するのは、世界の犯罪史に残る、マリー・ヒリーという人物です。ご存知の方もおられるかな。
日本語サイトだと唯一以下の説明がありますね。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text/hilley.html

僕がマリー・ヒリーの話を知ったのはフジテレビの「アンビリバボー」で取り上げられたのを見てなのですが、上記サイトよりも「アンビリバボー」で描かれた姿が、よくその心理学的に特筆に価するものを表していたと思いますので、番組を参考にちょっとその人物記を書いてみましょう。

じっくり書いているうちに結構長くなりました。最後の方は書いてて涙うるうる^^; 最近どうも涙もろいようでエヘヘ。
人物記だけいったんカキコして考察は次でしましょう。


I 不幸な未亡美人の素顔

物語は、1951年、アメリカのアラバマ州アニストンで、ごく幸せそうな若いカップルが結婚したことから始まった。

夫はフランク・ヒリー21歳。その妻マリー18歳。2人は幼なじみで、マリーは学生時代には学校一の美人にも選ばれたほど美しい女性で、やがて2人の子供にも恵まれ、誰の目にも、互いに愛し合う幸せな夫婦に見える生活を送っていた。
夫フランクは「君ほど美しい女性を妻にできた僕は本当に幸せだ」といい、妻マリーは「私だってあなたのような本当にやさしい人と結婚できて幸せ」と。
フランクがヒリーに良くいう口癖は、「いつまでも美しい妻でいて欲しい」だった。

異変は結婚から20年も過ぎた1975年に始まった。夫フランクが頻繁に体調不良と吐き気を訴えるようになり、医者に「伝染性の肝炎」と診断されるも、感染ルートは分からないまま、なんと入院から一週間後に急死してしまう。
やがて最愛の夫を失ったこの美しい未亡人を、信じられない不幸が次々と襲うようになる。1年後、庭先で不審火による火事が発生。放火を予告する電話が度重なった挙句のことで、これが何度か重なる。ヒリーは警察の事情聴取で、電話の声に思いあたるものも、また人に恨まれる覚えもないと語った。幸い警察が電話に逆探知機をつけると、それらしき電話もぴたりと止んだ。
間もなく、自宅に空き巣が入り、宝飾品を盗まれる。治安は本来良い街であり、一家に何かが起こり始めていることが、誰の目にも明らかだった。

マリーを襲う不幸は怒涛の様相を示すようになった。1977年、マリーにとって最大の理解者である最愛の母ルシルが癌のため他界。次に、娘キャロルの体にも異変が起こる。それは体調不良と吐き気で、他界した夫の症状に酷似したものだった。
挙句の果てには、キャロルのために家具を買った際の小切手が不渡りとなり、警察に逮捕される。担当判事としても、「一家の大黒柱を失った経済的打撃の先で気の毒だったが、法律は法律で仕方がなかった」と語った。

しかしこれらの不幸には全て裏があった。夫や母の死、そして宝飾品盗難、実はこれら全てが、保険金という報酬をマリーに与えていたのだ!
全ての不幸が実はマリー自身によって作り上げられたものであることが明るみになったのは、彼女の拘留中、入院していた娘キャロルが医師に、「いつも母がしてくれる注射はしなくても良いの?」と尋ねたのがきっかけだった。「そんなものは指示していない。何のことだ!」「だって良く効くんでしょう?」と。
医師の通報によって家宅捜査をした警察は、ヒ素を成分とした農薬のビンを発見。キャロルの体内からもヒ素が検出された。
警察の尋問を前に、ついにこの女の魔性がその姿を現す。うすら笑いするマリーの口から出た言葉は、「だって、あの子の我侭にはホントうんざりだったもの」であった。

この事態を受け、夫フランクの死因の再調査のため墓が掘り返された。驚いたことに、フランクの死体はほとんど腐敗していなかった。真の死因は一目瞭然であった。ヒ素には強力な防腐作用があるのである。同様にして母親ルシルの遺体からもヒ素が検出された。

II 生い立ち

マリーが生まれたのは1933年世界大恐慌の真っ只中であった。共働きで家に不在がちだった両親は、娘に物を買い与えることでその埋め合わせをしようとしたが、幼いマリーはそれに対して素直ではなかったようだ。「そんなものいらない!」と。両親はさらに高価なものを買い与えることで、なんとか娘をなだめた。「彼女が本当に欲しかったのは両親の愛情だったのかも知れません」と担当判事は語っている。

やがて成長したマリーは、町一番の美人になると同時に、その我侭さもエスカレートして行き、金使いの荒い性格になっていったようだ。結婚後もマリーは夫の収入のほとんどを自分自身のための買い物で使い果たし、「いつまでも美しい妻でと言ったのは貴方じゃない!」と言い訳した。度重なる彼女の浪費にさすがに夫が咎めると、今度は自分宛の偽のラブレターを作り、それを夫に見せびらかし離婚を匂わせ、美人妻を持つことに虚栄心を抱いていた夫を折れさせることに成功したのである。

やがて彼女の浪費は、夫に隠す多額の借金を抱えるまでに膨れ上がった。督促が増えるようになり、自分で返すことなどできる由もなく、夫に打ち明けることもできない。窮地に至った彼女が思いついたのが、夫の殺害だったというわけである。彼女はそれにより実際多額の保険金を手にし、再びそれを浪費に当て、金が底をつくと放火や盗難を装った保険金を手にするという行為を繰り返すに至った次第である。元は他人の夫だけならず、実の母や娘にまで毒牙にかけるその精神は、容易には想像できないものがある。

III 放浪

こうして逮捕に至ったわけだが、彼女の話がアンビリバボーなのは、これで彼女の事件が一段落したのではなく、実は幕開けとも言える事態になったことである。

というのも、夫と母の遺体からヒ素は検出されたものの、それが直接の死因であったことが断定されなかったからである。母の直接の死因はやはり癌と断定された。結果、彼女の嫌疑は娘への殺人未遂と保険金詐欺のみとなり、裁判の結果、1万4千ドルの保釈金にて釈放された。その後彼女は街から忽然と姿を消した。
皮肉なことに、フランクの死因がヒ素であったことが最終的に断定されたのは、その後であった。FBIが彼女の捜索に乗り出すも、もはや居場所はつかめなかった。

その数か月後、1000キロ以上離れたフロリダのとある酒場に、一人の美しい女性が現れ、カウンターで男性に優しそうな声で声を掛ける。「ハーイ?お名前は?わたしはリンジーよ」。
マリー・ヒリーその人であった。偽名を使い、12歳もサバをよみ36歳と詐称していた。男はこの町の造船所で働くジョン・ホーマン。彼女は既に何人かの男を手玉に取り収入を得る生活を送っていたようであるが、子供の頃母親をなくし、身よりもなく孤独な人生を送っていた素朴な性格のジョンが、彼女の最も格好の餌食となったわけである。

ジョンは美しく優しいリンジーことマリーに魅了され、2人は結婚する。彼女はリンジー・ホーマンという新しい名を手に入れる。
ジョンは結婚後も彼女への優しさと誠実さを変えることはなかった。彼はこうも言った「君のように美しい人に話し掛けられるなんて、騙されているのかも知れないとも思った」。マリー、「あなたは十分魅力的よ」。全て彼女の想定内だった。

彼女の想定外だったことが2つある。一つはジョンの収入が期待以上に貧しかったことだ。彼女はそれに苛立ち、お決まりのようにジョンに多額の保険金を掛け、再び毒を盛る準備を始める。

もう一つ、ジョンの誠実さが、彼女の想定を超えたものだった。ある日、「新しい洋服が欲しいわ..」と訴えるマリーに対して、ジョンは言った。「君も分かっているように、僕の収入は多くない。でも欲しいものがあれば好きなだけ買えばいい。ただ..これだけは憶えておいて欲しい。僕は君が美しいから好きなわけじゃない。君が何を着ていたって、僕の気持ちは永遠に変わらないよ。」

その後台所には、眉をひそめ心底からの疑問を繰り返すマリーの姿があった。「美しいからじゃない・・?」 自分の美貌こそが男性を惹きつけると考えて人生を送っていた彼女にとって、それは人生で始めての言葉だった。過去の男は誰もが、「美しい君が好きだ」と言った。だがジョンは違った。着飾らない時も、病気になった時も、どんな時も、ジョンは彼女に優しく接した。マリーにとってジョンは、外見ではない本当の自分を愛してくれる、人生で始めての人物となったのである。

IV 変化

マリーの心に明らかに変化が起きたのは、彼女がまさにジョンに毒を盛った食事を与えることを決行しようとした時だった。かつての鉄面皮はなく、心の迷いを映すように、彼女はやや生気を失っていた。ジョンが変わることのない優しさで尋ねる。「元気がないね。体調でも悪いのかい。」答えない彼女を横目に、食事を口に運ぼうとした瞬間であった。
「食べちゃ駄目!」 マリーは食事をテーブルから叩き落す。驚くジョンに、彼女は「今日はおいしく作れなかったの」と言い訳をした。

この後彼女が取った行動は実に奇妙なものだった。心理学的に興味深いものであると同時に、彼女の心中を想像することは深い感慨に余りあるものがある。

通日後、マリーはジョンに「実は子供の頃から心臓に病があるの。でもいい病院が見つかったので明日から入院しようと思うの」と打ち明ける。驚くジョンを尻目に、翌日マリーは家を出る。数週間後、ジョンに「リンジーの家族の者」と名乗る女性の声で、リンジーが亡くなったと電話が入る。ジョンはただ呆然とするだけであった。

容易に推測できるであろうが、「リンジーの家族」というのは嘘で、マリー本人である。心臓病ももちろん嘘だ。
この行動は、マリーの中にジョンへの純粋な愛情が芽生えると同時に、大罪からの逃亡者である自分がジョンに相応しくないという罪悪感のために、自ら身を引いたものであろうと伝えられている。恐らくそれは間違いではないだろうし、マリーの中に生まれた、人生で初めての、人への本心からの愛真実であったであろう。だが彼女は真実を彼に伝えるのではなく、架空を演じるという、それまでの人生の中で骨の髄にまで染み付いた業ともいえる性癖の中でしか表現できなかった。
そこに、真実とニセの混合物があったと言える。

彼女の虚構の性癖は、事実、ジョンから身を引いたはずのマリーが再びジョンに近づく行動に現れた。彼女としては、ただジョンの傍で生きることが望みとなっていたのであろう。さらに深い真実とニセの混合物という様相だ。
マリーが再びジョンの前に姿を現したのは、半年ほどたった時だった。今度は「テリー」という、「リンジーの双子の妹」と偽ってである。髪も金髪に染め、性格も別人を演じた。「一緒に姉の死を乗り越えましょう」と。ジョンはさすがに驚いたが、彼女を受け入れた。

V 愛を求めて

運命の皮肉が再びマリーを翻弄したのは、テリーとしてのジョンとの生活が軌道に乗ろうとしていた時だった。実はこの運命のいたずらが、マリーに真に清らかな心を取り戻させた、この数奇なる人生を生み出した神の手の最後の仕業だったのかも知れない。
マリーは突然、なんと全く無関係な麻薬密売の容疑で逮捕された。恐るべき偶然の一致で、同じく「テリー」と名乗り、マリーが詐称したのと同じ36歳、しかもブロンドの、FBIが追っていた麻薬密売人の女と見なされたのだ。

マリー自身はこの時もちろん逃亡犯マリー・ヒリーとして捕まったのだと思い、心底から観念したようである。「もう観念するわ。正直云って、もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって..」と。混乱したのは刑事たちも同じだった。やがて彼女が指名手配犯マリー・ヒリーであることが判明し、彼女はようやく夫の殺害と娘の殺人未遂容疑で、1983年1月、彼女の故郷アニストンで裁判にかけられ、終身刑が言い渡される。法廷に向かうマリーの表情が映像に残されているが、うつむきがちな中で時折何かを真っ直ぐ見つめる、単なる囚人とは異なる表情を感じさせる。

全ての真実を知ったジョンは、それでもマリーへの愛を貫いた。弁護費用も含め、彼女を支えるために全財産を投げ打ち、何度も面会に通った。「最初から似ているとは思ったけど、まさか本当にリンジーだったなんて..早く言ってくれれば良かったのに..。」 それを聞いたマリーは、ただ泣くだけであった。

彼女はその後刑務所でとても真面目に暮らした。担当判事、「模範囚として出所し、ジョンと暮らすことを夢見ていたのかも知れません。」
1986年3月、彼女は模範囚として3日間だけの仮出所を許された。2日間をジョンと一緒に過ごし、3日目、ジョンに何も告げることなく姿を消した。その4日後、彼女は生まれ育った家のポーチで、ボロボロの姿で発見された。全身が雨に濡れ、傷と痣だらけの姿で。救急車が呼ばれたが、間もなく息を引き取った。

彼女は今、最初の夫フランクの隣で眠っている。ジョン・ホーマンはその後いつまでも、何度も彼女の墓を訪れた。


売上反応な〜〜し^^; / しまの
No.1062 2006/08/24(Thu) 10:07:48

きのうは所用で新宿に行った折り、『悲しみの彼方への旅』初版本配布先の店に寄り、売れてるようであれば補充が置かれているであろう状況など確認。なければ売れておらず返本という感じかという想定にて。
最初は所用先の近くの本屋。次は紀伊国屋本店の文芸本コーナーや心理学関連コーナーも見てみましたが、なかったですね〜。

ということで、今のところ売上反応な〜〜しという感じですが、まあ半分自費出版のような無名人間の自伝著書となると、まあ最初っから名だたる著名人の本と同等の扱いなど望むべくもないということで、こんなもんでしょうねーと。

やっぱ何か起爆剤となるような、新聞や雑誌で書評付で紹介されるとかがあればいいんだけど、これも見通しなど考えるべくもなく、出版契約交わした折りは出版社の人「ゆっくり売れていくタイプではないかと」とのことで、ま僕としても一度売れれば長く売れるものではないかと考えているのですが、とにかく問題は来年以降どう食っていけるかで、「かけだし心理学著作家」などと自分で名乗るようになっていますが、離陸はやはりしていない状況なんだなーと思う次第。
まいつ本で出せるかどうか見通せないとしても、2冊分の心理学本の原稿をまとめるのまでは今の生活の中でやる予定。

とにかく当面の販促として考えているものとして、写真入で比較的大きく紹介される新聞広告が8/24〜31のいずれか一日に読売と毎日の朝刊に出る予定です。過去実績からは28日前後を予想。文芸社の『お勧めの一冊』という14コマの中の一つとして。
現在読売新聞を購読しているので、掲載の暁にはすぐにサイトに乗せられると思いまーす。


魂の成長の成り立ち-36:魂が求めるものへ-13 / しまの
No.1061 2006/08/23(Wed) 11:37:00

■「命」という命題へ

およそ3つの命題が絡む話をしていると考えています。

「未知への知」。ハイブリッドの最大の基本命題とも言える「未知」の、具体的内容とは何なのか。「未知」の先には何があるのか。それを「魂の成長」として整理した図がhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpgです。

「未知を目指す意識」とはどんなものなのか。魂の成長が「愛」を軸にするとは言っても、「愛を目指す」という表現ではかなり薄っぺらい。「命を賭けたとき愛が現れる」という表現がより適切でしょう。これをもうちょっと具体的に描きたい。

「自己への審判」心理障害からの治癒成長というとき、「魂の成長」という言葉だけでではなく、「荒廃した魂の浄化」というテーマが絡みます。魂が浄化される時とは、同時に「荒廃した魂の持ち主であった自分」を自覚する瞬間でもあります。
例えば『悲しみの彼方への旅』13章「自己の受け入れに向かって」「打ち砕かれたプライド」もそんな場面でしたね(P.300)。この瞬間を境にして、主人公の心に、後戻りのない根本変化が起きたことが、行間から感じ取って頂けるかと思います。
このとき我々は、自らの「生きていく望み」についての審判を自らに下すように思われます。この審判の基準となり、支えるのは何なのか。それはこの小説でも明示的には描きませんでした。

「未知」の底辺には「愛」がある。そして「未知」の先にあるものとは、これがもっともしっくり来る言葉を言うならば、「命」だと感じます。

「命」はどのような意識から生まれるのか、なぜ「命」があるのか、なぜ生きなければならないのか、と問うことは、自己撞着です。なぜなら「意識」は「命」があってその後に生まれるものだからです。
「命」がなければ何の「意識」もない。人間の視覚という「意識」もないし、それによって捉えられ描かれた「宇宙」さえも、「命」がなければ存在しないのです。
でも、全てが人間の意識が生み出した幻想だと言うのも適切ではないでしょう。それはあまりにも個人の幻想を超えて客観的な事実のようにも感じられます。
不思議なものです。

それは我々の「知」がとらえた「事実」のことなのか、それとも「知」の姿勢のことなのか、混沌とした領域に焦点が向かうのを感じます。
これは心理学だけの話ではなく、科学そのものがそうした性質を持っています。科学を突き詰めていくと、科学を生み出した人間の意識そのものに、科学理論が接触してしまうのです。量子力学量子宇宙論がそれです。

それは「」なのかはたまた「信仰」なのか。まあその両方なのかも知れませんね。
欧米では昨今、科学の基本教育で「信仰との接点」が教えられるようになってるらしい。この点日本は遅れてますね。


というわけで、「命」という最後のテーマの考察は、くだくだと理論文を重ねるのではなく、ごく叙述的に、2つの事例など紹介しましょう。
一つは“自己操縦心性の崩壊による「魂の浄化」と思われる変化の中で自ら死を選ばざるを得なかった例”として言及していたもの。これはハイブリッドに取り組んだ人の話ではなく、犯罪史に残る特異な人物例
もう一つは、僕自身に最近どんな「意識状態」が現れているのかをちょっとご紹介。

それを踏まえて、根本変化への「動機」のあり方について簡潔に結論を述べたあと、最後にもう一個心理メカニズム解説を入れましょう。「真のアイデンティティ隠蔽と人工的アイデンティティ熱症」という心理メカニズム。「命」という総括テーマに相応しい話題です。
そのあとハイブリッドの取り組み道のりの総括を行い、当面の掲示板解説の連続ものを完了としたいと思います。


魂の成長の成り立ち-35:魂が求めるものへ-12 / しまの
No.1060 2006/08/22(Tue) 18:44:27

「魂のメカニズム」図をここに。その説明です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg


■魂のメカニズム

我々がハイブリッドの取り組みを歩む「動機」として、「苦しみや動揺がなくなる」という消極的動機を越え、「豊かな心と人間性」というより積極的な動機を考える。

これは今までの感情メカニズム論においては、「情動の皮相化荒廃化」が進んだものから、「欲求の浄化」が成され「良質な欲求」が芽生えてくる、というような表現をしたものでした。
ただしその「良質な欲求」の具体的内容は言わないままだったわけです。

それを説明しようとするのが、「魂の荒廃と浄化のメカニズム」です。
これは要は、意識に見えるさまざまな感情の根底に、「魂」という一つの見えない実体があり、その成長や荒廃の状態に応じて意識表面に現れる感情が方向づけられる、というものです。

その具体的内容をにしてみましたので参照あれ。まるで地球の天体図を思わせますね。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg

簡潔に説明しますと、まず我々の「人格」「人間性」を形づくる感情は、全てが大元は「愛」という軸にあると考えます。
「魂の状態」は、「愛」という唯一軸における様態であると捉えられます。
図ではこれを5つの様態として表現しています。「共鳴の愛」を健全形として、それが損なわれた「荒廃」は「怒りの愛」「強制の愛」「破壊の愛」へと荒廃の度を強めます。
「共鳴の愛」よりもさらに成長した魂の状態として、「包含の愛」という様態を考えています。

「愛のベクトル」「優越のベクトル」は、意識表面においての感情色彩を表しています。「愛」と「優越」は、意識表面では違う感情のように体験されがちですが、大元は一次元的な様態変化に支配されているということですね。
人間は優越を求めるのですが、その根底には、優越によって愛されるという目的があるという考え方です。

例えば、「共鳴の愛」という魂状態の上で体験される「」は、主に「親密」という感情になります。この状態で「優越」達成のベクトルの先にあるのは、「誉れ」という感情色彩です。
強制の愛」という魂状態へと荒廃化すると、同じベクトルの感情は「追従」「征服」という風に色彩を変えます。

魂の成長は、意識体験においては「愛」の感情の成長により強い関連例がありますが、「愛」という感情要素だけでは魂の成長は不十分であり、「優越」の要素も必要になります。
そのため図のように、「愛のベクトル」と「優越のベクトル」は、まるで地球の軸が少し水平から傾いたものであるのと似た姿になっているわけです。

かくして、魂の成長がもっとも至高のものとして目指す感情は、「誉れ」です。早稲田実業の斎藤投手のように、自らの達成感と皆に祝される栄光の統合された姿ですね。


■魂の荒廃化

5つの「魂の状態」ですが、今回は時間の都合で(?)それぞれの詳しい説明は省略し、「荒廃化」の基本的な流れについてごく簡潔に、以前返答メールで説明した文章の引用だけしましょう。

健全型の状態が「どんなものか」描写することは、ここでの解説目的からは大幅に省略しときます。どんなにそれをイメージしたところで、それを達成することはできないからです。
イメージするだけでは達成できないものがどう突破されるのかのイメージの方を(^^;)、今回はおぼろげにでも出せればと思います。
突破された後にどんな「未知」があるのかを、後で考察しましょう。

------------------------------------------------------------
共鳴の愛...心を開いてつながり合うものとしての愛。小さな子供はこれをまず親に求めます。

怒りの愛...願う愛が得られない時、自分を愛すべきであった相手(親)に、そのことを怒る形で愛を求めます。ここまではまだ、何とか共感型の愛の回復の余地があります。つまり相手との共感が保たれ、相手の罪悪感を受け入れ許すような形で、再び共感型の愛を持つという方向が残されます。

強制の愛..怒りの中で愛を求めても、さらにその怒りが相手に非難されるような形で、愛が損なわれた時、この変形が起きます。愛への欲求は残りながらも、もはや共感は遮断されます。許すも許さないもなく、冷たい壁を相手との間に置いて、共感型ではない、一方的に奪うような愛を求めるようになります。愛を得ることが復讐の意味合いを帯びる。
支配強制搾取寄生という形での「愛」。相手にそれを仮定して応じようとする受動形では、依存隷従という形での「愛」。
------------------------------------------------------------

さらに荒廃が進むと、憎悪を背景とした破壊衝動が加わります。相手を破壊し傷つけることが喜びになるような、「愛」とは対極のような感情が芽生えてくるのですが、大元は愛への要求があって生まれる感情なんですね。
だから近接した人間関係の中で起きるわけです。


■ハイブリッドが提示する「究極の選択」

図のような、「愛」を軸にした人間成長というのを言っている思想家や心理学者が、これまでにも結構いるかも知れませんね。

だが問題は、「だからどうした?どうすりゃいーの?」という疑問にどう答えるかですね。そしてハイブリッドは、今まで他にはあまり言われたことのなさそうな、「目指し破綻したとき真の達成が現れる」という難解な道筋を言おうとする心理学なわけです。

この難解な側面を考慮しなくても、それなりに向上は得られると思います。だが、この側面を経た変化は、それなしに得られる向上とはあまりにも違うレベルの根本変化であり、脳の構造が変わったかと思えるほどの変化は、この側面を見ない限り見出せないと考える次第です。

我々の意識においては、一体何を目指したとき、そのような道が開けるのか。この後幾つかの事例を紹介して考察しましょう。
それがハイブリッドの提示する、究極の「選択」になるでしょう。

人間にとって不可避な業とも言える心理障害の中で、我々は心の中に「荒廃した魂」を抱えることになります。それを認めることは極めて苦しい事態であると同時に、それに真正面から向き合った時初めて、「魂」の根本からの「浄化」が起きる。その先に、「魂」が成長した状態への根本的変化がある。
自己操縦心性は、それを認めようとせず、自分の「魂」だけは純粋であり汚れているのは世界だという幻想の中に、人をとどめようとするメカニズムだと言えます。これを意識努力で「正す」ことはできません。


その中にとどまり続けるか。それともそれを突破する歩みに向かうか。自由に選択するのがいいでしょう。ハイブリッドが行おうとするのは、その道の地図と、その歩き方の説明を作るまでです。あとは人それぞれの選択に任せられます。


魂の成長の成り立ち-34:魂が求めるものへ-11 / しまの
No.1059 2006/08/22(Tue) 11:49:38

ハイブリッド心理学を完結させるための最後の考察テーマ
「未知」とは何なのか。「未知」の先には何があるのか。この、「未知への知」の解説へいざ。

それが「魂の求めるもの」であり、「それに向かって生きる意志」が、「真の自己受容」だということになります。


■ハイブリッドにおける「未知」

そもそも「未知」は、ハイブリッドの根本理念ともいえるものです。

それはこのサイトで最初に心理障害の根本治癒について説明し始めた時に、最も基本的に理解すべきこととして話したことでもありました。
つまりそれは、心理障害の中で「こうなれればとイメ−ジした自分」になるのとはまるっきり違う、未知の自分になることだということです。それは「生まれてからこんなにいい気分を体験したことはない」と感じるような、良好な心の状態だと。

治癒メカニズムにおいては、最後にそれを成すのは「自己操縦心性崩壊によるアク毒の放出」だという難解な話をし、本人の意識思考においては、「魂が住む心の世界」の根本的転換が必要だという話をしました。

しかし治癒メカニズムを理解しても(理解できるシロモノでさえないかも知れませんが^^;)、また「心の命題における転換」をいくら意識努力しても、その根本治癒変化はそれだけで成せるものではありません。
なぜならそれはあくまで根本変化がどう起きるかという「手段と出来事」の話であり、それに向かう「動機」の話が抜けているからです。そしてこの「動機」はかなり別の話になるということです。



■ハイブリッドの取り組みへの「動機」

振り返れば、今までハイブリッドでは「取り組み方法」とそのメカニズムを解説するのに終始しており、そもそもこの取り組みを何のために行うのかについては、あまり定義しないできました。
まあもちろん「健康な心」とか「心の成長」と言い、成長とは「自らによって幸福になる能力の増大」であるとは言ってましたが、これはあまりに漠然とした広い話であり、「どうなれるか」ではなく「方向性を知りそれを歩むことが重要」とか、お茶を濁していた(?^^;)面があります。

で、今に至り、ハイブリッドの取り組みを行う「動機」についても、これまたメカニズム論的に言うことのできる話がある段階になったと感じる次第です。
またその「動機」のあり方によって、実際どのような治癒成長が成されるかもかなり左右されるという、これ自体が治癒メカニズム論の一テーマになる次第です。

自らの心への取り組みを行う「動機」は、およそ3種類のものになり得ると思います。

1つ目は、心理障害の苦しみからとにかく開放されたいという、「消極的」な動機です。
もちろんこれは全ての人の取り組み動機の基本的な部分として当てはまるでしょうし、実際、この動機に支えられることによって、取り組み初期の向上と多少の安定達成は、ハイブリッド心理学を実践するほぼ全ての方に得られると考えています。それだけの具体的内容を用意しているつもりです。
というのも、このような心理学の知恵なしに自分の頭で考えてきたそれまでの思考法が、あまりにも自己の幸福の理(利)にかなっていない、自分で自分を苦しめるものが、あまりにも多いからですね。それを修正することで、比較的短期間に、初期の向上が成されます。

「多少の安定」を越えてさらに「未知の自分」になるような「根本変化」に向かうかどうかとなると、人によりかなり違いが出てきます。
この一つの要因として、ホーナイ「神経症が現実生活で通ってしまう」と言った状況では、それ以上の変化は起きにくいという話はあります。本人の自動感情自動思考がそのまま通用してしまう人間集団環境で生きているケースで起きがち。
例えばまあ、依存的な愛情要求の問題を抱えた人が、支配的な「愛情」の持ち主のパートナーの庇護の中にとどまってはその克服は難しいというような話になるでしょう。
ただこれはあまりにケース・バイ・ケースであり、あまり一般論的なことを言うと乱暴な話になると思いますので、ちょっと置いときましょう。

やはり、「感情の安定」「気持ちが楽になる」を越えて、より積極的に何を目指そうとするかの「動機」によって違いが出てくるという面に注目したいと思います。
それ以上はもう目指さないというケースもあります。これは自由です^^; あくまでそれ以上のものを目指す場合の話をします。


■2種類の「より積極的な動機」

ごく抽象的な言葉を言うことはできます。「豊かな心」であり「人間性の豊かさ」です。それを目指す。それをより多く獲得することによって、より幸福になれると考えています。
それ以上のことを言うならば、ここでやはり心理学の視点を入れる必要があります。それなしに日常思考の用語だけでは、もう残る2つの動機の違いを言うことができません。

その違いとは、似たように「豊かな心」「豊かな人間性」を目指すとして、それが「自己操縦」の構図として目指すものか、それとも自己操縦を根本的に脱したものとして目指すかです。
つまり、残りの2種類の「より積極的な動機」とは、自己操縦を成功させることにおいて「ある人間」にならんと欲するのか、それとも、自己操縦を完全に脱した存在としての「ある人間」になることを目指すか。この2種類だということになります。
そしてもちろん、ハイブリッドが考える「根本治癒成長」後者にあります。

ところがーっ!我々が意識的に「こうなりたい」と考えることはほとんど、「自己操縦の構図」の中でしか考え得ないんですね。
ここに、最後の最後まで根本的な難しさがあります。だから結局それを「未知」としか言えないような状況がある。


より専門的に言えば、我々は「自己操縦という人格外衝動」の外枠の中で考えるわけです。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpgの図のように。
それが崩壊するがの根本治癒変化とくる。

まあつまり、「ハイブリッドによってこんな人間にならんと欲する衝動が崩壊することで達成される成長を遂げた人間」になることを目指すのが、正解だということになります。
今までより分かりやすい表現を、と考えて書き始めたものの、やっぱ駄目だこりゃ〜という感じ?^^;


■「愛」を唯一軸にした「魂」の荒廃と成長

まっ、そんな感じで向かう先をイメージできるかですねぇ〜〜。(←と表現力のトーンダウン^^;アハハ)

とにか〜く!(と再び襟を正し^^;)、あくまで問題が心理障害という特別な心理メカニズムにおいての「自己操縦」という問題を克服する課題である限り、目に見える目標像は崩れ去ったあとにそれを超える達成が起きるのだという基本的構図を理解せねばならないんですね。

この難解な構図を踏まえないまま、どんな言葉で目標を示そうとしても、その本質の姿とはちがう薄っぺらいものになってしまう。
この「目標像を越えた達成」という構図の中で起きる変化の姿を一本の軸において理解し、それに向かうことを、「苦しみからの開放」という消極的な動機を越えた、「豊かな心と人間性」の成長というより積極的な動機として、取り組む姿勢というのを考えたいものだと思います。

ハイブリッドではこの「変化」の根底を、目に見えない「魂」がたったひとつの軸において一貫した形で成長変化するものと考えたいと思っています。
目に見える感情としては、愛情要求優越欲求アイデンティティ衝動があり、その皮相化荒廃化と浄化という変化があります。その過程で見られる感情には、怒り憎悪嫉妬破壊衝動復讐衝動などがある。
意識に現れたそうした感情はあくまで別々の感情なのですが、根底にあるのは、目に見えない一つの「魂」がたった一つの軸において、荒廃から成長への治癒変化を成すということです。
そしてその軸が、「愛」になります。

結局全ての情動変形が、「愛」を始点にしていたという考えですね。
「愛」というたった一つの軸で、「魂」が荒廃から成長へと変化するメカニズムというものを考えたいと思っています。その上にどのように、今までの感情メカニズムの全てが配置されるのか。

「愛」を一本軸とした「魂」の成長方向にあるもの。これが、我々がハイブリッドに取り組む目標動機として、多少はより具体的にイメージできるものになるのではということで、次にその具体的内容整理を書きましょう。
「多少は」と相変わらず弱気表現なのは、結局「イメージ」はこの方向性の本質ではないからです。

では、より本質に近い、この方向性を目指す我々の意識とはどのような形になり得るのか。これを最後の方で考察します。
これはどうやらもう、「愛を目指す」という意識とはちょっと違うような気がしています。「命を賭ける」という方が正解ではないかと。「命を賭けたとき愛が現れる」とでも言えますか。
そしてその「変化」への「信念」が、心性崩壊による「アク毒放出」を越えさせる、「自己への審判」を支えるものになるのではないか、ということです。

う〜〜ん、抽象難解用語に流れる傾向に相変わらず苦慮しながら..^^;


究極の行動学:原理原則立脚型行動法-6 / しまの
No.1058 2006/08/21(Mon) 13:47:37

つれづれネタのワンポイント解説として、原理原則立脚型行動法について具体例など一つ。
この手のつれづれワンポイント解説は、現在の一連解説終了後も適宜Upしていこうと思います。


■無理難題への原理原則立脚型行動法^^;

今朝のワイドニュースで取り上げていたのは、自己中心的な保護者への対応に苦慮している教師の実態。
たとえば、例その1「子供が朝起きないので起こして欲しい」
例その2「家の娘は箱入り娘なので、学校では喧嘩に会わないという念書を書いて欲しい」
例その3校内でけがした生徒の通学用タクシー代を請求。
他にもきりなし。
こうした保護者への対応に苦慮し、体調を崩し精神科に通院する教師の数も増えているとのこと。

それを聞いて、さすがに僕もそうゆうのに押し寄せられたら苛つくかなあ..とちょっと考え、いややっぱ原理原則立脚型行動法なら事は簡単と思った次第。

まあ対処法を簡潔に述べると、例1では「家庭生活についての責任は学校ではなく家庭自身にありますので、すいませんがそこまでは..」とか言うのがまず考えられる。
要点は、特に話がこじれそうな場合はそれが鉄則になりますが、問題状況を誰がどうするかと言わずに、それを考えるために拠って立つ原理原則を、お互いに確認することです。

「家庭内の問題だ」と突っぱねるような言い方はしない方が良いでしょう。それでは教師側の責任について全く認めようとしない、これまたあまり信頼の置けない態度になってしまいます。「学校側は家庭生活についての指導も極力行う。しかし実際の家庭生活場面は家庭内の責任になる。」という線で、まずは誠意を持って合意するよう努めることです。
そして、教師が直接生徒を起こす行動はできないが、状況を良く聞いて、学校でその生徒への指導を検討することを伝えるのがベストです。そのための方法論を教師は持っている必要があります。

例2の場合は、そもそも原理原則のない話であることを暗に確認させる感じがよろしいかと。というか、まともに受けない技術のようなものが正解の気がしますねぇ。
「すると今度は、娘さんが箱入り娘であることの証明書が必要ですねぇ^^;」とか。まあくまでユーモアとして言うのが重要。

ただし、学校が生徒の喧嘩を防止する努力をする責任はあることを、認めることが必要です。もちろんそのための方法論も。
その上で実際に起きた事件の処理というレベルになると、もうあまり個人の判断で行動するのではなく、民事法律など最も強力な原理原則に則って処理する姿勢を出すこと以外には、最終結論はないと思いますね。
例3のように金銭が絡む話の場合は、もう完全にその領域とするのが正解だと思います。もはや道徳の問題ではないということです。

原理原則立脚型行動法はそのように、その行動法を心がけていれば可能になるという安直なものでは必ずしもなく、日ごろから問題を想定し相手の反応もシミュレーションしながら対処法をしっかり準備することが重要である一方、その対処法の正しさも厳しく問われることに対応できるだけのものであることが重要です。

事前にそこまで準備すれば、あとは、実際の場面は訓練の場と位置づけられます。そう考えるならば、これはまさに教師の本業と位置付けるべきものとさえ考えるのは、僕だけの特異な発想でしょうかねぇ。
またそうした方向で、学校が事例対応例や関連する民事法律などの知識を整理することが当然のような気がするのですが..


■原理原則立脚型行動法による対人関係の向上

より一般的な対人関係向上という話に触れますと、このような原理原則立脚型行動法で行動する人間には、人は怒り剣幕で気倒そうとするような姿勢はもう取らず、常に思慮的な姿勢で接してくるようになります。
結果として、回りがどんな喧騒に溢れていても、この行動法の人間の周りだけは不思議と感情的な軋轢はない世界が広がります。

「人間関係のストレス」と良く言われる世の中ですが、「ストレス的対人関係への対処法」を考えようにも、そもそもそれらしき出来事ことがもう見当たらない、といずれなるほど簡単な話なんですけどねぇ..

もちろん、このためには、自分自身の行動原則として「正義に怒る姿勢」みたいな、怒る態度でものごとを処理する姿勢に完全に別れを告げることが前提として必要です。


魂の成長の成り立ち-33:魂が求めるものへ-10 / しまの
No.1057 2006/08/18(Fri) 15:27:13

■感情分析による性欲の浄化

8/12「魂が求めるものへ-9」で書いたように、「性欲の浄化」は「本性的な愛情能力の回復」と感情分析技術という2つの側面が揃って成り立つ、実に高度な心理学的技術の達成とでも言える事柄のように感じます。

で僕自身のそうした「性欲の感情分析」をした一場面を日記から紹介します。
これは僕自身の中で、既に「子供への愛情」が、まだ年若い異性にも抱き得る性欲を凌駕し打ち消す現象を見るようになったさらに後の話で、僕自身が「性」というものに「そそられる」感覚というものを体験した、今のところ最後の場面とも言えるようなものになっています。

僕はその「そそられる」感覚を感情分析し、それが「愛を強制的に得る」という象徴的感覚を持っていることを感じ取ると同時に、「そそられる」感覚が消失したという例です。
その後の僕自身の「性」についての感覚なども少し紹介した上で、簡潔に考察を書いておきましょう。

なお日記前半には、より一般的な対人感情の分析が書いてあり、それもそのまま紹介します。
表面上ではあまり関連性が見えませんが、深いところでは極めて大きなつながりがあります。考察で説明します。

繰り返しになるかと思いますが、こうした感情分析の場面だけを取り上げて、「こうすればこうなれる」と考えるのは誤りです。その背景に、そうした感情分析が効果を出すようになるための、しかるべき今までの取り組みこの時の心理状況があるわけです。他にも何10回ともつかない、こうした感情分析体験があります。今回これらの詳しい解説は省略し、いずれ性愛の領域をテーマにした本などで書こうと思います。
ここではあくまで、感情分析の具体的例としてこんなものがあるという知識伝授にとどめます。
重要な背景については、後の考察でちょっと触れましょう。

前回お断りのように15歳以下閲覧禁止(?^^;)のちょっとエグい部分もありますが、ま心理学材料には何でもアリということで、この程度は問題ないっしょ^^;

--------------------------------------------------
2005.7.16
 今日は午後3時過ぎにK君が来て、スキー部DBの設計変更について教えたりした。早めに切り上げてジョギングに行きたいと思っていたが、結局8時過ぎまでやっていて、サイゼリアで一緒に夕食を食べて別れる。夕食はいつものように一人で自宅でとも一瞬考えたが、何もそこまでかたくなになることもない、ということだ。
 気分としてはごくおおらかなものの、
会話をどう持たせるかという意識。そして何のことはない話題の中に会話を持てる人々のイメージと、“とりあえず黙っている”自分の対比感というものがあった。
 そして彼と別れた後は、
“人と一緒にいる孤独感”にやや近い、沈んだ悲しみ感を少し感じていた。自分がそうした人々みたいな風になれるのか、という、果たせぬ夢を見る感覚、とでも言うものか。

 どんな心理的関連なのか、昨日から少し僕の中に引っかかっている映像がある。TV番組で、
子役から超有名だった某女優が子供の頃の悲惨ないじめ体験を語ったもので、中学校時代らしいが、それを再現した場面として、セーラー服の女子生徒が3人程度の男子生徒に押さえつけらて、スカートをめくられている場面の映像だった。
 「スカートめくりどころではなかった」とのことで、一体どこまでされたのかいう想像をかきたてられる感があったのだ。性器に直接触る、はては性交までしてしまう、といった空想まで十分できてしまう、と思えた。そして、それをモノにして歓喜する男子生徒の姿..。
 その
“そそられ感”について今日も少し考え、それが“力づくで愛を手に入れる”ことの象徴的色彩を持っているように思えた。しかも自分そのものが「愛」につつまれる形になるわけだ。 精神的に愛を得る能力が損なわれた状態で、その象徴的意味が、性欲そのものに実際の質的強化をしている。こう吟味していて、“そそられ感”が減るのを感じた。
 ただそうゆう歓喜というものは自分も欲しいものだと感じる次第。圧倒的に引き込まれ夢中になれるものがあるというだけでも、それは価値と言えば価値になる。
--------------------------------------------------



■「性欲の浄化」の可能性

現在の僕の性欲についての感覚を簡潔に述べるならば、「どうでもいい欲求のひとつ」になり下がっているのを感じるのが今日この頃です。
ま一方では否定もしませんけどね。いずれ子供を持ちたいので、そのためにも必要です。でももう、相手の人格抜きに湧き出る欲求ではなくなった。「ここで出てもいい」と感じた時に(^^;)湧き出るのではないかと感じる欲求。ま実際にそれを確かめるような状況では今はありませんが^^;

いずれにせよ、性欲というのものがかつて帯びていた淫靡卑猥の感覚が根っこからなくなり、実にあっけらか〜んとしたすがすがしい(?^^;)欲求に変化したことは、自分としては実に「ありがたい事」だと感じています。

ま基本的には性は悪いものとは考えず、元からオープンな思想であり、その点少し前に読んだ夜回り先生の本が援助交際などを極めて激しく悪と糾弾していたのに比べれば、僕は中年おやじが小学校6年の女の子を同伴してホテルになんて話も、互いに合意の上なら倫理的に大して悪とも考えない。需要と供給が一致しただけの話だと。原理原則的な話としては、あとは法律があるだけ。その辺僕は夜回り先生とは全く違う思想の持ち主のようです。

だがそんなことしたいとも、今は根っから思わない。相手の歳に応じた、もっと大きな「愛」の感覚を見出している。それによって世界が明るく照らされた時、今まで闇夜の中の月のように輝いていた性が、もう大して輝くものには見えなくなった。そんな感じ。

それが「ありがたい事」だと感じるとは、結局、性欲を「足でまとい」なものと感じ続けていた感覚が最初から最後まであったということですね。それがなくなったのは、実にありがたい。結局、一方的に性欲に引き込まれる人間の姿を不快に感じる感覚も、人間の本性のものではないかと感じます。ま「内面空虚」の象徴という感覚の類になるでしょう。
今回の『悲しみの彼方への旅』のラストでも、「今では私の心は、生きる喜びと楽しさ、そして何よりも
子供達への愛情で満たされています」と書けたから格好がついていますが、これが「何よりも性欲に満たされています」とか「美しい女性への愛情で満たされています」じゃ、カッコつかないですもんねー。アハハ。

その点、最近ニュースで騒がせた某教団の教祖が、勧誘した女子大生から美しい女性だけを呼んで性の獲物にした人数がウン千とか万とか聞くにつれ、その行動力と精力(?^^;)には「敵ながらアッパレ」(^^;)との感ですが、ちょっと前にTVドラマで放映された松本清張原作の「けものみち」で描かれた老資産家が、若く美しい女性の肌にひっつくことを人生最後の生きがいしていた姿などは、情けなくみっともない姿だと感じた次第。
あ、あと以前小説書きの勉強にでもと思って文庫本で買った、某女流作家の「男」という小説などは、いちおう性愛の世界の描写ではあろうけど、その余りに安易な関係の描写に終始する様子は、1/3くらいまで読んでもう読み続ける気には全くなれなくなった、「貧しい心の世界」の描写本のように感じたのが正直なところでしたねぇ..

ま余分な余談モードですが、結局、性欲そのものは、何のことはない断片的肉体形状に反応する生理的感覚であって、それが歳を重ねても貪欲性を帯びるのは、やはり何かの精神的渇望の象徴的感覚を帯びている場合であり、精神分析によってそれを分離することで浄化が成されるという原理は、今後の社会が理解しておきべき心理学知識だと強く思う次第です。


■大きな背景となる「愛の回復」

そのための心理学的取り組みは、ハイブリッドの基本がここでも成り立ちます。
感情は正さず。心の中では開放する。その先に感情分析という特別な取り組みを行うというものです。

そして感情分析だけで成されるものでもなく、「本性的な愛情能力の回復」という、より大きなテーマがあって、成されるものです。あくまで「愛の喪失と回復」というより大きなテーマがあって、性欲の浄化という各論テーマもあるということです。

そして「愛の喪失と回復」はどのように成されるのか
話をこのより大きなテーマに戻しましょう。先に結論を一言で述べておけば、「愛」は「それに依存するものとして向かう」のではなく、「それを乗り越えるものとして向かう」と共に、その人間が「未来に向かって生きる強さ」を得たとき、「未知の愛」の形で回復する。これがハイブリッドの見出している答えです。

「乗り越えるものとして向かう」とは、愛を求め喪失を悲しむ自分の感情を追体験することも含みます。これもかなり感情分析の実践という感じになってくるでしょう。
上記日記で前半も紹介したのは、それを描写したものとしてです。詳しい解説は今回は時間の都合で省略。

感情分析などの実践取り組みを通した治癒変化の各テーマの背景には、より大きなテーマが必ず横たわっています。それへの視点を持つことが非常に重要です。
「性」というテーマの背景には、「愛」というより大きなテーマがあります。
「愛」というテーマの背景には、「価値」というより大きなテーマがあります。
「価値」というテーマの背景には、「命」というより大きなテーマがあります。

その「命」の根源を見極める、最後の考察へ。


明日から8/16(水)まで不在 / しまの
No.1056 2006/08/13(Sun) 23:48:45

また帰省。今度はお盆で〜す。


魂の成長の成り立ち-32:魂が求めるものへ-9 / しまの
No.1055 2006/08/12(Sat) 16:19:44

ここでちょっと治癒成長への大きな方向性そのものの話から離れますが(裏ではかなりつながりがある)、「性欲の浄化」という特定テーマについて書いておこうと思います。
この手の細かい心理学は出版本で詳しく書いていこうと思ってますが、こんな話があることだけは早めに出しておこうと。

というのも、教師や宗教関係者などの「ハレンチ聖職者」のニュースがあまりに増えており、「性欲の浄化」という心理学は社会的課題とも言えるものと感じるからです。
またそんな例に該当しなくとも、自分の抱える性衝動に心理的葛藤を感じる御仁におかれても、かなり役に立つ話ではないかと思い。

ということで、やや15歳以下閲覧禁止(^^;)のエグい部分もありますが(なこたないか^^;)、この話行きましょー。


■心理障害傾向による性欲の質量強化

まず簡潔に「性欲の浄化」の心理学を。

まず、「愛情欲求阻害による性欲強化」のメカニズムがあります。「心理障害傾向よる性欲強化」と考えてもいいでしょう。
心理障害傾向によって、性欲は質量ともに強化されます。サイトの心理メカ論では「生理的欲求としての性欲発現そのものには心理障害の影響はあまりないと考えられる」と書きましたが、今の僕の見解では、生理的欲求としての性欲そのものが増進すると考えています。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech03-012.html#sy

質的側面においては、情動の皮相化荒廃化の中で、性衝動は「強制的に愛を得る」ことの象徴の感覚を帯びます。さらに荒廃化したサディズム衝動の中では、「枯渇した自分の感情を相手の感情の観察によって補う」寄生的衝動や、相手をいたぶる破壊衝動の感覚を帯びます。
量的側面においては、まず残存愛情要求と、人間本性的な愛情要求の阻害の2要因が、愛を皮相化した象徴である性欲を恒常的に準備する形になります。この結果、対人的接近の敷居が低い同性や児童への性愛という、変形型性衝動もかなり起きる傾向が生まれることになります。

人間本性的な愛情要求」という話が新たに出てますが、これは心理発達過程全体をさらに根底で支配する「魂のメカニズム」という概念で捉えられるものです。
この大局的メカニズムの概念についてはこのあと説明します。

感情の膿が、これら質量ともに強化された性衝動に、強迫性を帯びさせます。それはまるで、大きな恐怖に怯える幼動物が体を寄せつけ合うように、性が「見えない恐怖」からの癒しの役割を帯びているかのようです。
あるいは、感情の膿とはいわば「生命が危険下にある」状態であり、それに備えて生殖行動を促そうという、生物学的な理由があるかのような感を感じます。

最後に、心理障害傾向の帰結感情として生まれる、空虚感や自己嫌悪感情、抑うつ感情などの悪感情全般に対する、麻酔剤として役割を、性が帯びるようになります。

ホーナイは、「どんな対人場面でもすぐに性的雰囲気を出してしまう個人は、基本的不安に悩むレベルの神経症よりも遥かに深い障害を抱えている」と指摘しましたが、これはかつて僕自身が内面において実感したものでした。


■性欲浄化のメカニズム

次に「性欲の浄化」のメカニズムの方を簡潔に述べますと、量的側面においては、残存愛情要求や感情の膿の減少といった治癒全体の進展に伴い、恒常的増進状態にあった性欲が全般的に薄れるという方向に向かいます。

質的側面における浄化には、大きく2つの要因が寄与すると考えています。

ひとつは人間本性的な愛情能力の回復です。これはこの後の「魂のメカニズム」説明でさらに詳しく説明します。
結論を簡潔にいうと、「共鳴愛」という、心理的安全を土台にして湧き出る共感型の愛情の感覚が、上述のようにして皮相化荒廃化した性欲感覚に、真っ向から抗戦する形になります。望まない性は破壊であることの感覚が戻り、精神的交流の中で得られる愛の価値が、前に述べたように「欲望vs社会善悪」ではなく「変形した情動ve本性」という天秤にかけられ、「共鳴愛」が勝ったときに性欲が根底から消えるという現象が見られます。

見られますというか、僕は自分の中でそれを見ました。「共鳴愛」の感覚が芽生えてきたのはここ2年以内程度のかなり最近の話ですが、その時、例えば中学生くらいの女の子を想定した場合、以前は性愛対象として浮かべることがあり得る空想場面において、性的関係よりも単純な「子供への関心」という気分がまさり、とてももう性的対象として見ることなんてできないという感覚が実感になっているのを感じました。

質的側面における浄化のもうひとつの大きな要因が、感情分析です。これが最も「心理学的技術」として特別な話になるでしょう。
僕自身の体験においては、性欲は劇的に質的変貌をとげた感情のひとつでした。これはかなり本格的な感情分析の効果というものを抜きには考えられません。

この場合の感情分析実践内容を具体的に言うと、性衝動全体から、純粋に生理的性欲衝動と、心理的感覚衝動を、感じ分け分離することです。これはワインのソムリエのような、かなりの熟練を要するスキルのようなものかも知れません。あくまで感情分析の日常での実践を通して、感情分析が実際に効果を出すレベルに習熟した先でのことになるでしょう。

ですから「こうすればこうなれますヨ」なんて安直なことは言えませんが、とにかくこんな変化がある得るという特別な心理学を紹介するものとして、僕自身のそんな感情分析一場面を紹介します。
しばしば性が「あらがいがたい欲望」と見られることもありますが、必ずしもそんなことはないのだという心理学の目を、まず示したい次第です。

いったんここでカキコ。


魂の成長の成り立ち-31:魂が求めるものへ-8 / しまの
No.1054 2006/08/11(Fri) 15:37:55

■自己の「荒廃した魂」への対面

「真の自己受容」とは、決して、他人からの非難に無頓着な「何でもオーケー」という態度を目指すものではありません。
その根本は「自らの魂の成長の方向に向かって生きるという意思」です。そしてその一側面として、ものごとの善悪判断を自らの本性の持つ判断能力に委ねるという姿勢が出てきます。

否定型価値感覚の放棄によってそれが初めて可能になる、という話までしました。否定型価値感覚を用いた時、本性が持つ判断能力が麻痺するのです。

稚拙な交際相手探しの中での第二候補女性が、最初は「私ではご満足頂けないかと気後れ致しました」と言い、再度申し込むと「独りよがりで図々しい厚顔無恥」「いい年なんですから自分の言葉には責任を持って頂きたい」と僕を非難した例を出したのも、この対比の説明になるように思えます。
これは否定型価値感覚の世界から出た言葉と言って間違いはないでしょう。「あるべき理想」からの隔たりを否定できることに価値を感じる世界です。最初は、自らを否定し、次は、相手を否定します。

一方、否定型価値感覚を放棄すると、ものごとの善悪判断基準が緩くなるというのは事実でしょう。僕としてはそれなりに魅力を感じたから申し込んだのであって、「私では満足頂けないか」なんてことないと思ったから申し込んだわけです。そして馬鹿正直に他にも候補を考えたことを話すことが「悪い」という感覚も実際あまりありません

ただしそうした行動を続けるのが僕の「本性」だったのでもなく、このケースでは「相手が失礼と感じるかどうか」よりももっと根源的な、「相手に自分を求めさせる衝動」がその内容だった恋愛欲求そのものへの自己嫌悪という「本性」が、まさにこの行動による「現実性刺激」によって明らかになったわけです。
そして自らが欲求そのものへの嫌悪を持つことを深く自覚した結果、皮相な性格を帯びていた恋愛願望そのものが根元から消え去る結果になりました。

これが「アク毒の放出」という根本治癒のメカニズムでもあり、「治癒」として見るなら望ましい事態ではあるもの、これは本人にとって逃げようのない自己否定に対面する危機にもなり得る事態でもあります。

つまり、まず心理障害状態では、皮相化荒廃化した欲求の中で、本人にとって最も受け入れ難い「おぞましい見せかけ」という衝動の色彩だけが「アク抜き」された結果の「こんな自分は特別」という空想的尊大感によって行動できます。
しかし行動による「現実性刺激」によってこの防御メカニズムが崩れ、「見せかけだけだったおぞましい自分」というアク毒の放出と同時に、空想的尊大感が消失します。この後に、「良質な欲求」が芽生える、心理障害治癒後の人格が育つことになります。

しかしアク毒の放出の瞬間に本人が見ることができるのは、アク毒の苦い自己否定感情と過去の現実の自分だけなわけです。
それはまさに「荒廃した魂の持ち主だった自分」の姿です。



■「魂の浄化」への隘路

「荒廃した魂の持ち主だった自分」を自覚して青ざめる瞬間。これは感情の膿の放出という治癒ポイントであると同時に、まさにそれが「魂の浄化」の瞬間だとも言えます。

心理メカニズムからは、こうした事態が起きることは、ちょっと屈折した道のりの先になるということができます。
否定型価値感覚の放棄」や「善悪の完全なる崩壊」といった思考変換によって、「否定することに価値がある」タイプの自己嫌悪感情を劇的に減少させることができます。善悪基準の観念がかなりゆるくなり、大抵のものごとは許せるようになる。
しかしそれによって開放されるこの個人の「望み」は、それまでの心理障害傾向の発達過程によって、多少とも皮相化荒廃化したものであるのが現実です。
それはちょっと人間性の面で劣ったところのある、やや人目に出せない「欲求」の類だったりします。

「だから抑えつける必要があるのだ」と感じる方もいるでしょう。それがまさに「否定型価値感覚」に生きる姿勢の場合ですね。
そして押さえつけることによって、欲求はさらに皮相化荒廃化します。
どっちを向いても隘路があるわけです。

まあまず言えることは、外面行動は原理原則的に律することですね。心の中では思いっきり開放することです。空想だけで罪に問われることはありません。
最初から自ら罪悪感を感じるような「欲求」は、心の中で開放すると同時に、より本格的な感情分析によって浄化することもできます。性欲を例にしてこの説明をこのあとちょっとしましょう。

しかしながら結局、「空想に閉ざされる病」である心理障害を突破するためには、かなり徹底的に「善悪の崩壊」を成し、「未熟」を悪とはせず「相互自衛」の精神に徹し、冒険を犯す勇気をもって「望み」に生きる姿勢が必要ではないか。これが僕の実感です。
そうした「生きる姿勢」の先に、「浄化された魂」の上に成長した豊かな人間性が獲得されるのだと。



■心理学的性善説vs心理学的性悪説

これは多分に、かつての自分からすれば「恥じ知らず」な行動振る舞いをする自分に、一時はなるというような事態を思わせます。
例の件の女性が僕をそうなじったように。

心理メカニズムまで考慮してここまで考えれば、その先何が起きるかについての考えは、日常思考による「性善説vs性悪説」の心理学的発展バージョンである「心理学的性善説vs心理学的性悪説」として捉えることができると思います。
心理学的性善説では、欲求の開放と同時に「本性的良心」の開放も起きる。したがって、多少の失敗を通して、人間性の高度な成長に向かう、と考えます。
心理学的性悪説では、開放された欲求によって恥しらずの人間になるだけ、と考えます。

ハイブリッドは前者つまり心理学的性善説を採ります。
なぜか。それを支えることがらが2つあると言えるでしょう。

一つは、この取り組みが「感情分析」という特別な心理学的技術によって「自分の本心に向かう」ことであることです。今回の例が示したように、「感情分析」によって、「外面の恥」という律則ではない「荒廃した魂を自覚する感性」が引き出されるということです。
こうした特別な心理学的技術を込みにしないと、「心理学的性善説vs心理学的性悪説」の検討にはなりません。

そしてもう一つは、「荒廃した魂を自覚する」先にどんな変化があるのかという、「未知への信仰」のような話になるでしょう。
これがあるから、アク毒の放出の中で「荒廃した魂の持ち主だった自分」を自覚しながら、生き続けることを是とする「自己への審判」を下すという形になる。これが僕が今まで実際に行った「歩き方」だったと感じます。


■「自己への審判」の心理メカニズム

多少話しが繰り返しになりますが、こうして至る「自己への審判」の心理メカニズム。

望みを開放して現実に向かった時、今まで自覚しなかったままの、「アク抜き」されていた自分の皮相性荒廃性への自己嫌悪感情「アク毒」の放出として自覚されます。「アク抜き」は主に「苦しみ」「思いやりの心」を免罪符にするような形で行われていたものです。
これは今までの来歴で目を背け続けていた自己否定感情にさらに苦い味付けをした、濃い自己否定感情の膿に真正面から対面することになります。
ここに至り、「自分は何でもオーケー」なんて気分とは全く対極の、「自分は駄目だ」という感情におおわれる。

これは「自己操縦」という生き方の大元にあった自己否定に、向き合うことだと言えます。
「自己操縦」ではそれに向き合わずに、「あるべき姿」から自分を否定することに心を向けます。自己否定は自己操縦の失敗のことだと考えます。そうして自分に嘘をつき続けるのです。

自分に嘘をつき続け、嘘を重ね続ける重みが、嘘を決壊させるか。
嘘をつくことを心底から断念し、大元の事実に向き合うか。
いずれも、「嘘はばれる」んですね。その時人は、否定されるべき自分を晒すことになります。前者の場合は人の目によって。後者は自分自身の目によって。
結局、「自己への審判」が訪れるわけです。

ハイブリッドの取り組みの先では、自分自身による審判になります。

今回の例では、紹介した日記の最後の方に、僕の「自己への審判」がちょっと書かれています。
「それでも僕は、精一杯愛せる女性を探そうとしたのだ。彼女は人を愛せない。」


■「望む資格」への審判

まあその女性が今実際人を愛せない人かどうかは、僕の知るところではありません。
要は、こうした幼稚な行動で失敗から学ぶ経験を僕が持ったことへの、是非の審判があるわけです。
この「審判」とは、「望む資格」へと反映する「審判」だと言えるでしょう。

今回の例では、こうした交際相手探し行動をする「望み」を是とするか否とするか。まあこれは些細な話です。十分自己肯定感情の中で是とするので、何の問題もない。だから僕の感情としても大してヘコんではいないケースです。

もっとより深刻なケースでは、「生きる望み」を決する審判になります。この場合は、自己肯定感情は完全に消え去り、自己否定感情だけが見えます。
僕自身のそんな例を、 2006/05/27「自己操縦心性の成り立ち-77:自分自身からの逃避-13」で紹介していました。僕が「原罪」という概念を考えるようになった時の話です。
僕はその中で、自己否定感情だけが見える中で、もう何の行動をする望みも見えず、ただ「生きる」ことだけは是とする審判を下したのです。まあ感情動揺としてはこの頃になると十分薄いものですが、流れている感情の色彩内容はそうゆうことなんですね。
またそこだけ引用しときますと、
--------------------------------------------------
「こんな自分なんて嫌だ〜」と泣いているような自分のイメージだった。それは誰にも受け入れられる可能性もない、救いのない姿だった。いや、救いのない姿だという、感覚があったのだ。その感情の中で、神に許されることだけに救いがあるというイメージは、何か強い安堵の悲しみを湧かせる感のあるものだった。
--------------------------------------------------

最悪のケースでは、その人間の純粋な本性に初めて立った時、自らの「生きる望み」さえ絶つ自己審判を下さざるを得なかったケースも出てきます。この具体例を後で紹介しましょう。
そうした人間としての極限において、自分自身の本性にたって行う決断にこそ、その人間の「生の原理」があり、その人間の「人間性」の根源になるんですね。

では何に基づいてその審判を下すのか。
それを決めることになる「心の命題」が、「価値の命題」になるでしょう。「既知」から「未知」へ

(7/22「魂の成長の成り立ち-14:「神の国」から「放たれた野」へ-11」)


■「愛」が軸になる「未知への信仰」

そして「未知」とは何なのか。「愛」を軸にした変化です。
これが最後のテーマとして解説する話になります。

今回紹介した例で僕が「自分は精一杯愛せる女性を探そうとした」自らの行動を是としたのは、感情分析の中で自己の本心に向かうこの取り組みの先に、自分が「より多く愛せる」ように変化するという確信のような感覚があるからです。

これはもう、それがどう正しいかを説明しようのない、「未知への信仰」という感じの話になってくるかも知れません。
「心」はかなり揺れ、変化する。だが見えない「魂」が生き続け成長し続けているのを感じた時、「魂が求めるもの」は「愛」を軸にした成長なのだと感じるわけです。

「根本選択」「大方向転換」として「否定型価値感覚の放棄」「真の自己受容」を言い、その本質は自己への敵であることをやめ、自己の本性によって決断することを核とする、「魂の成長」の方向に向かって歩む意思だと言いました。
このより具体的な内容は、「愛」を軸にしたものであるということです。

頭の中で「愛がこうあるべきだ」と考えて怒りの中で生きるか。
それとも「こうあるべき愛」を捨て心が導くままに生きるか。
どっちが「現実において愛せる」のか、「未知」への変化を含めて天秤にかけるわけです。これが「審判」を成す尺度です。

ハイブリッドでは、「魂の求めるもの」が「愛」という軸に一元化される、そして「真の自己受容」を手段として「魂の求めるもの」へと歩むことができるのだと考えています。
その「愛」の軸に一元化される「未知」の内容を、次に説明します。


その前に、「欲求の浄化」の各論として端的な「感情分析による性欲の浄化」について具体例を紹介の上説明しときましょう。
ワイセツ教師のニュースが絶えない昨今ということで。アハハ^^;


魂の成長の成り立ち-30:魂が求めるものへ-7 / しまの
No.1053 2006/08/10(Thu) 14:45:58

■自分の人間性を疑われた時..

思い出すと自分でも苦いものを感じる行動をした当の相手から、僕への激しい怒りを書いたメールが送られてきたのは、申し込み行動をしてから一週間も経とうとした頃でした。
振られたであろうことはわざわざそんなメールをもらわなくても分かっていた感がありましたが、相手としてはそれだけでは我慢ならなかったのでしょう^^;

ま僕の人間性を疑い非難する文章だったわけです。ご丁寧にも(^^;)箇条書きでそれを述べておられました。
まあ誰が書いたものという話でもないということで紹介しますとこんな感じ。
------------------------------------------------
1.申込をしておきながら、交際する気がないなら、私がお尋ねメールをする前にその旨メールするべきでしょう。それが思いやりかと思います。(これは最初の交際申し込み撤退^^;の件)
2.メールを読ませていただきましたが、書いていらっしゃることがよく分かりません。
3.自分の都合で無視したり、断ってみたり、又連絡してきたり、
独りよがりで、図々しくて失礼な印象を受けました。
歳をとるに従い厚顔無恥になる典型な方だとお見受けしました。

「良い出会いをお祈り」していただいているのではなかったのですか。
(あなたが再登場した時点でぶちこわしです)
それともあれは嘘ですか。
いい年なんですから、自分の言葉には責任を持っていただきたい。
従いまして、私に二度と連絡をとろうなどと、考えないで下さい。

本当に図々しい。
以上。

------------------------------------------------

それに対して僕が感じたことを後日日記に書いたものを紹介しましょう。
この文面そのものでは、「真の自己受容」とは何かはまだあまり明瞭には描写されてないですね。むしろ、こうした場面で「真の自己受容」に立つ前に成さねばならない、幾つかの感情への取り組みが主に描写されているかと。

そうした後に現れる「真の自己受容」の本質とは何かの考察を、引用の後に続けます。

 夏休み初日の昨日は、どうもちょっとブルーな感情の中にいた感じだった。はっきりと理由は分からないが、Zさんからのメールのことなのだろうと思った。あれ程の怒りを向けられることへの悲哀、という感じか。
 メールを見たのは月曜、納涼会から帰ってから。わざわざ3項目箇条立てで書かれ、最後に「図々しい」で終わった、僕への怒りの言葉。最初僕は、自分がどれだけ動揺しないかを確認しながら読む感じだった。まあ血がちょっと揺らいだかな、という程度。そしてZさんが独りよがり(この言葉は彼女が僕に言った言葉だが)なイメージの中で完全に生きているらしい様子に、笑える面もあった
(*)。僕が再登場して「ぶちこわし」と。
(*この女性、最初の申し込みに対してはかなり日を置いたあとに「私のようなものではご満足頂けないかと気後れ致しましたが」とok返事くれた方でした^^;)
 翌朝、僕はもう一度そのメールを見て、僕の中の感情がどこに反応したのかを確かめた。「独りよがりで、・・・」というのがそれだったようだ。確かにその言葉は、自分がどの女性からも愛されないというイメ−ジの象徴でもあったろう。

 まあこれはどっちもどっちということだと考える。
独りよがり同士というわけだ。それでも僕は、精一杯愛せる女性を探そうとしたのだ、と考えた。彼女は人を愛せない、と考えた。そんな風に彼女の人間性を見下すような思考は、僕のプライド防衛反応でもあったのだろう。
 とにかくZさんについてはこれで終わり。Xさんに会う上でも気分が少しすっきりした。



■真の自己受容に立つ前に成すべき心理取り組み

引用した日記部分は、主に「真の自己受容」の前に成すべき心理取り組みを多く描写しています。まずそれを説明しましょう。
それがさらに「真の自己受容」の本質を明瞭に浮き彫りにすると思います。

自分の人間性を疑われ非難されるような言葉を受けた時、まず3つの感情が取り組み課題になると思います。

一つは感情の膿です。自分が相互理解不可能な異形なる獣のように見られるという自己否定感情の膿が、心理障害のメカニズムの中で生み出されています。まずは、これに触れて起きる、生理的不調を伴う感情動揺を、現実の相手との関係が起こしたことではなく、心理メカニズムが起こしたものなのだという、心理学の目が重要です。

そうでないと、生理不調を起こすまでの酷い言葉を相手が言った、あまりにも無神経独断的な言葉を相手が言った、という被害感情に流れることになります。
この結果起きる典型的な感情が、「現実に対応するものではない」という目で取り組むべき、残り2つの感情になるでしょう。
ひとつは報復衝動。人間性が疑われるべきは向こうだ。
もうひとつは悲嘆衝動。自分は確かに悪かった。このため自分は世界からつまはじきに遭う悲劇の主人公だ(^^;)

そのように感情の膿・報復衝動・悲嘆衝動を現実の相手との関係で起きたものと感じ考えるとは、「自己の重心放棄」の基本姿勢を意味しています。自尊心を外部の他人に依存する姿勢です。自尊心は本来「自らを尊重する態度」のことを言います。自尊心を他人の行動で計る姿勢は、もう最初に自尊心を喪失しているんですね。

そうして感情の膿による生理的感情動揺も、報復衝動悲嘆衝動も、現実に対して妥当な感情とは考えず、現実を引き金に起きた、現実には見合わない心理反応として「知るだけ」にとどめます。

上記引用した日記部分でも、ちょっとブルーな気分血が揺らいだ感覚相手の人間性を見下すような思考がちょっと起きたこと。それが感情分析されたわけです。すべて「知るだけ」にとどめるものです。

こうした言葉を現実に浴びる前に、それを予見した感情分析が成されていることが、現実場面での心理動揺の大きな低減に役立っていることが考えられます。まあ一度やった宿題を出されるような感じですね。自分の何が悪いと言われるかはもう分かっているし、その「悪しき面」そのものが、もはや現在形の問題ではなく、今の自分にはない過去の自分の問題になっています。

そのように、感情動揺への「耐性」をつけることは、心理的安定のための「心の強さ」を育てるものでもあります。


■「自らによる審判」としての「真の自己受容」

しかしそのように心理動揺を免れること、そして現実の他者からの人間性批判を跳ね返せるようになることが、「真の自己受容」の本質などでは、全くありません。

それは「真の自己受容」の場への階段を上がる作業と言えます。そして「真の自己受容」の場では、自らの人間性への批判を免れるのではなく、自らの人間性への審判が成されるのです。しかも自分自身によって

つまり「自らの人間性への審判」を行う主体が変わったということです。
他人にどう言われるかという応報、「自己の重心」を欠いた、自分や他人を大きく支配する「善悪」があるという感覚を捨て、全てを自己の本性に立って判断することにおいての、「善悪の審判」が成される。それが「真の自己受容」です。

そしてそれは否定型価値感覚の放棄によって、初めて可能になります。なぜなら否定型価値感覚を自分に向けた時、自らに敵視された心の中で、自分自身が本性として持つ善悪感覚が麻痺するからです。
否定型価値感覚を放棄した時、自分の外部にあるものとしての「善悪」は完全に崩壊し、自分自身への敵視から解除された心は、本性的な善悪感覚を回復させます。それはもう「善悪」という感覚さえない、「自らの欲求」として感じられる「善悪」です。

欲望vs社会善悪」という構図が崩壊し、「変形した情動ve本性」という構図になる。
そして「変形した情動ve本性」という構図の中で、全ての感情が「自らの欲求」という一元化された選択の遡上に上がります。ここに、心理障害の中で分離分裂した人格が、統合に向かう回復ポイントが生まれることになります。

これが「真の自己受容」の、心理メカニズム面からの説明描写になります。
もっと実際の場面でどんな心理過程が起きるのかを、今回の例についてを皮切りに、説明を続けます。


魂の成長の成り立ち-29:魂が求めるものへ-6 / しまの
No.1052 2006/08/09(Wed) 16:17:59

とにかく日記の続きを紹介しましょう^^;


■相手を操作する衝動への嫌悪

「やはりお会いしませんか」と交際申し込みをした第二候補女性から、自分に激しい怒りが向けられるイメージが湧く。
これを感情分析するのですが、まず僕が思い至ったのは、自分は別に悪いことをしたわけではなく、怒るのは女性側の勝手な問題だと考えるのが、自分の知的倫理観なのだという自覚でした。

だが自分に怒りが向けられるイメージは消えない。これは何に対応したものなのか。
で僕は、そうした複数女性に向けた自分の恋愛感情そのものの感情分析に向かいます。
日記に簡潔に結論を書いています。

 僕の場合に女性から軽蔑を含む怒りが返ってくるイメージが湧いたのは、僕が彼女らから“あなただけを見ています”という感情が向けられることを期待した要素に対応したものだと思えた。時に感じる「どの女性も僕を求めない」という感情の前には、「自分が求められる」というイメージへの衝動があり、その前には「求めさせる」つまり自分が求めるに値する男だと“思わせようとした”操作的で作為的な衝動があった。軽蔑と怒りはそれに対してのものだったのだろう。
 これはもはや外化というメカニズムを超えたもののようにも思える。
自己嫌悪感情はなく、それでも、自分が軽蔑と嫌悪に値する行動を取ったという、本能的で原初的な感覚なのだ。

「自分が求めるに値する男だと感じてもらえること」に熱を入れていたのですが、「返ってくる軽蔑と怒り」を追っていく中で、自分が熱を入れていたその衝動そのものの中に、自分自身でおぞましく不快な色彩があることが感じ取られたわけです。

面白いこと(?)に、今の僕としてはこの「おぞましい不快さ」の感覚を、こうしてなぞっても思い出せません。今の僕には「恋愛感情」そのものがなくなっていることに対応したことなのでしょう。
それだけ「別人のような心理状態」への切り替わりが起こり得るのが、感情分析の面白い(?)ところです。
この時も、全く違う心理状態に切り替わった様子が日記に記されています。

 女性探しに向かおうとする気持ちが、リセットされた感がある。風呂に入る頃には、結婚願望がきれいになくなっているのを感じた。
 自己紹介の文章などを新しく作ってみようと思っている。今までは「女性にどう思わせるか」という感覚の中で作っていたが、もっとストレートに今の自分を表現するものへだ。
 それと同時に、自分を心理カウンセラーとして人の前に出そうという考えを持つようになっている。
 ・・(略)・・


最後の一文は引用付けたしですが、ようは、ありのままの自分でこの現実社会に生きていこうという感情が、より強く生まれてきているわけです。


■稚拙な失敗体験でのみ増大していく「現実を生きる強さ」

かくして、2002年春の「ゼロ線の通過」以降復活していた、稚拙な恋愛活動が沈静化し、より落ち着いた恋愛取り組みへと移行した境目のような時期となりました。
この後僕はより本格的に執筆活動に向かうようになり、独立を真剣に考えるような段階に入っていくわけです。

これも軽い心性崩壊体験と捉えることができると思います。本人の意識としては、何か夢の中で格闘していたのが消えたような、あっけない現実生活が始まるような感覚に大抵なるのですが、同時に「ありのままの現実を生きる」という感覚が増えているわけです。

「心理障害の治癒」という極めて特殊な事柄が起きているのですが、ことの発端は自分の恋愛行動が相手の怒りに会うという社会的善悪問題だったりします。
なんとも奇妙な状態が起きているわけですね。「やはり会いませんか」と第二候補女性に連絡した直後、相手の怒りに出会うイメージの感情分析の中で、ことの発端の恋愛気分そのものが、もう僕の中で終わってしまったわけです。

僕としては、こうした出来事は「学び得た失敗」として、もう終わった出来事になります。そうした稚拙な失敗を繰り返す中でのみ、こうした「成長」を得ることが出来ます。
一方最初からこうした稚拙さを許さない高潔な理想を選ぶ場合は、失敗を起こさない代わりに「成長」もない人生を選ぶことになります。
このどっちを選ぶか。ここにハイブリッドの提示する「選択」の根本があるんですね。


ただし、現実はまだ僕が交際申し込みした段階であるという社会的事実は生きています。
数日後、僕としてはもう忘れる方向にあった第二候補女性から、激しい怒りのメールが来ました。まさに案の定の内容^^;

それに対して僕が考えたことが、「真の自己受容」の本質を表現していると思います。
それを次に紹介します。


魂の成長の成り立ち-28:魂が求めるものへ-5 / しまの
No.1051 2006/08/09(Wed) 14:20:37

■倫理観の確立を超えて

僕自身の体験例における、「相手の怒り」を想定しての自分自身の倫理観確認の段階までを紹介しました。
相手は自分の行動を怒るかも知れない。でも自分自身は本心からどう考えるのか。
そうして「相手が怒るかどうか」に影響されることのない、自分の考えでの倫理観を持つ。これだけでは「欲求の浄化」にはつながりませんが、この社会を生きるスキルとしては非常に重要ですね。

自分としてはこれは悪とは思わない。ならば次は相手を良くみて行動することです。色んな人間がいます。「人のあるべき姿」を掲げて怒る人とそうでない人。可能性を尽くすことです。これが「世界を知る」という、自尊心の一つの源泉になります。

そうやって自分の欲求にうまく合致する相手が得られるのであれば、それはこの社会で一つの「勝ち」を納めることになるのでしょうし、得られないままでいることは一つの「負け」でもあるでしょう。
その辺についてあまり精神論的な幸福論を展開する気は僕にはあまりありません。単純に、社会で勝てる人間は、そうでない人間に比べて、幸福に近づける材料を一つ多く持つことになると思っています。

ただそれで話が終わってたらハイブリッドのような深い心理学は不要ですね。

自分では悪だと思わない欲求を抱えたまま、それに向かう自分の姿に何か嫌悪感が残り続ける、人からの嫌悪が向けられるイメージが残り続ける。

これを「欲求vs善悪」という皮相な構図で捉えるのではなく、「情動の変形vs本性」という深い人間心理の問題として捉えることができます。
日常思考を超えた3つの深い視点が加わることになります。
一つは、自尊心や自己嫌悪感情の心理メカニズムです。自尊心の条件とは何なのか。自己嫌悪感情が起きる要因とは何なのか。
もう一つは、感情分析という「心の技術」です。残り続けている否定感覚の核心は何なのかを感じ分ける。
最後に、「真の自己受容」です。この姿勢を取るかどうかで、結果が全く違ってくる。これは自分の欲求も、それを制御する倫理観も、全て自分自身の本性に委ねる姿勢です。

ま難解な話は置いといて、感情分析の続きを紹介しましょう。


■「相手を自分に向かせる」恋愛衝動

知性的倫理観としては悪いことだとは思わない。しかし何か引っかかる抵抗と嫌悪の感覚がある。
このような場面での深い感情分析は、しばしば「欲求の浄化」につながる変化を生むようです。僕の体験的観察。

引き続きそれをしているのですが、何をするのかというと、そうした抵抗や嫌悪が起きる一連の状況における自分の感情や行動の流れをたどり直し、どの時点で抵抗嫌悪が強まるのかを突き止めるわけです。そして自分のこの衝動にこんな抵抗嫌悪が結びついていると確定した時、心の底で、その衝動は自らが嫌うものなのだという心底からの定着が起きるような感じかと思われます。

それまでの僕の恋愛感情の中には、どうも「相手をつなぎとめておかないと離れて行ってしまう」という感情が背景にあったようでした。その結果、全力を尽くして理想女性を探そうとする僕の行動としては、「僕にはこんな魅力がありますよ♪」と自分を精一杯アピールして、それが相手に受け入れられ自分にお熱の視線を向けてくる相手のイメージに惹かれる感情を、相手女性への愛情のように感じる感覚がありました。受動的価値感覚の結晶(^^;)ですね。


■「欲求の浄化につながる感情分析」のメカニズム

ここでちょっと上述のような「恋愛感情」のメカニズムを一考。考えているうちに話が難解な「感情分析メカニズム論」に流れて行きますが..^^;

自己操縦心性の現実覚醒低下の中では、そうした空想的な愛情と、現実における愛情との区別がつきません。空想の比重が大きくて、現実に色付けをしてしまうんですね。自分に熱い視線を向ける相手のイメージを引き金にして湧く愛情を、現実に自分が相手を愛しているものと感じるわけです。

しかしこの裏にある心理メカニズムは、一つは残存愛情要求です。相手を判別しない、宙に浮いたような、浮遊して現実の誰かに引っ付こうとする、愛情要求。
もうひとつは、感情の膿です。求める相手に自分は拒絶される。
この「裏」から上述の「表」が生まれるメカニズムは超難解です。感情の膿への防御のために「現実離断」が起き「自己像固執」の中で心理発達課題達成済みの自己像が描かれ、現実がそれに合致するという幻想的自尊心が起きる。
この最後のところだけが表の意識に現れるわけです。

さらにこの中で完全に見えなくなったメカニズムが、「アク抜き」と「アク毒」です。防御された感情の膿の中の核心にある自己嫌悪感情とは、「見せかけだけのニセモノマガイモノの出来損ないのおぞましい人間!」というものです。心理障害というのは、こんなものが出来ているんですね。治癒は必ず、どこかでこれが出ることを考慮しなければなりません。

心理的抵抗嫌悪が強まる状況の詳しい感情分析は、それに触れることになります。自分の中の「見せかけ」が暴かれ、それに対する自己嫌悪感情が暴かれます。これが、自己操縦心性の受動的価値感覚によって完全に見えなくなった、裏のメカニズムの核心です。

感情分析によって「アク毒」が暴かれた時の心理状態変化は、状況によりかなり異なりますが、基本的には1)「見せかけの自分」への絶望感情の発生、および2)受動的価値感覚に基づく「見せかけ」衝動の消滅、という2つのベクトルがどう起きるかという話になります。
今回のケースでは後者のみ起きています。まあこの段階の僕にとっては、恋愛というもの自体があまり重いテーマではなくなってきていたこともあり。

すっかり難解なメカニズム説明の方に話が流れてしまいましたが(^^;)、日記の続きの感情分析結論部分を次に紹介します。


魂の成長の成り立ち-27:魂が求めるものへ-4 / しまの
No.1050 2006/08/08(Tue) 12:47:01

■「ばか正直な恋愛行動」の中で起きた欲求浄化の例

欲求に駆られる感情vs姿見栄えの自己嫌悪感情」という食い違いの構図ではなく、「欲求の自認行動vs欲求への嫌悪感覚」という、欲求の湧き出る根元で起きる「欲求の浄化」というメカニズム。

これが起きた実例を紹介しましょう。最初のは僕自身の例で、「ばか正直な恋愛行動」の中で起きた欲求浄化の例と言えます。
2年前の2004年夏のことで、その頃僕は堅固な(?^^;)結婚願望の中、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」式に交際相手女性を探す行動をしていました。
詳しい話をすると長くなりますのでかなりはしょりますが、僕はその行動の中で、第二志望ランク(^^;)のある女性に対し、一度交際を申し込んでok返事が来たものの、「実は女性とのお付き合いをめぐる状況と心境がめまぐるしく変化している次第です」と辞退しておきながら、第一志望女性にフラれると再度その女性にお付き合いを申し出るという行動をしていました。

現在の僕の倫理感覚でも、そうした行動を特に「悪い」ものとは考えません。善悪の問題ではなく、そうした行動をする男が魅力ないと思えば、断ればいいのです。
ただし嘘はいけませんね。嘘は常に、人間が本性として嫌う、信頼を損ねる行動です。上記状況で、「貴女がやはり一番」と言うなら、かなり嘘っぽくなり、「倫理的に劣る」行動になると思います。
嘘がなければ、あとは互いの希望要求が合えば一緒になればいい。契約が成立するかどうかということですね。
僕は明示された一夫多妻は悪いものとは考えませんが、浮気不倫の類は嫌ですね。前者は嘘をついていませんが、後者は嘘つきだからです。

いかに相手を大切に感じるかは、やはり重要ですね。これは感情の問題であると同時に、意志の問題でもあります。相手を自分のパートナーと決めたからには、その相手を大切にする。その姿勢が問われることもあると思います。
ただし今回の場面はまだ相手候補探しの段階で、そんな話には及ばない。

そうした知的な恋愛観倫理観は、2年前の当時も現在も、あまり変わってはいません。
しかし感情面感性面は、かなり変わりました。これも紹介し出すとあまりに長くなりますので省略しますが、特に大きかったのは、4/22「自己操縦心性の成り立ち-61:受動型自己アイデンティティと憎悪-9」で紹介した、僕が「島野アイデンティティ」を獲得したと同時に恋愛願望がぽっかりと消えた体験です。
現在を言うと、恋愛やデートには全く関心がありません。「異性愛」という感覚そのものが薄れてきており、老若男女を問わない普遍的人間愛の感覚の方が大きく、一方家庭願望は相変わらず強いという感じ。

今回紹介の体験は、そうした感情面での変化の最初の一つとも言える、稚拙な恋愛願望が減少した体験になります。
一見すると善悪感覚をめぐる感情動揺のようなものが起きたあと、かなり精緻な感情分析が続く形になっています。

ちょっとそれを紹介して、「欲求の浄化」メカニズムの考察へと続けます。


■一見して単純な善悪観念が深い感情分析につながる

第一志望女性にフラれて第二志望女性に再度申し込むという結構雑な行動をした翌日。
僕の中にちょっとした感情動揺が起きました。一見するとそれは自分がその第二志望女性に対してかなり失礼な行動をしてしまったという、ごく世間常識的な(^^;)懸念に近いものでした。

そうした「反省」では、心はどうやら変化しないものと思われます。これはまだ「自分の行動外見への自己嫌悪」の段階です。
まずその段階から、日記を紹介しましょう。
第二志望女性を「Zさん」としています。

 メールを開ける前に思い浮かんだのはZさんのことだった。それも漠然と浮かんだのは、自分に怒りが向けられる、というものだった。
 実際その感覚は、昨日から少し引っかかっていたものだった。改めて考えてみても、彼女からは自分に好意が向けられるイメージがどうも浮かばず、怒りが返ってくるというイメージしか浮かばない感じだった。
 だがそれも当然のように思えてきた。僕が行ったのは、いちど“あっちの女性の方がいい”と言って行きながら、そっちに振られて、“じゃーあんたでもいいよ”と言っているようなものなのだ。
 ひどいことをしたもんだ、と改めて謝るメールを出すことも思い浮かんだが、そうしたところでどうにもなるものでもなし..と考える他はなかった。黙って心に収めておくのが美点とも思えた。


この段階では、「自分が相手の怒りに触れる行動をした」というごく普通の善悪感覚が戻っている状況が見られます。
この「常識的反省」はまだ「欲求の浄化」にはつながりません。なぜなら、相手の怒りを避けるためにやめるという話にはなりますが、それはまだ自己の重心を欠いた感覚であり、自分の本心での欲求はどうなのかが放置されたままだからです。

もし相手が怒らない女性なら、自分はどう感じるのか。ちょっとそれが引っかかりました。実際その女性は清楚な外見の内側にちょっと神経質な印象を感じていた女性でした。だから怒る彼女のイメージが浮かんだことも考えられる。
そう考えて、僕は他の女性に対しても実は似た行動を取っていたことに気づきます。そこから、僕自身の恋愛欲求と倫理感覚を真剣に問う感情分析が始まります。

 だが今書きながら「返ってくる怒り」について考えたのだが、考えてみればちょっと前○子ちゃんに振られた後△さんに対して、ほとんど同じことをしていたと思えた。彼女は無反応だったが、彼女も内心僕に軽蔑を含んだ怒りを感じただろう。そのイメージが浮かんだ。
 だがその怒りは何なのかと考え、少し疑問に思える面もあった。もしこれが結婚後の浮気だとしたら、と考え、川崎麻世とカイヤ夫妻のことが浮かんだ。(当時麻世の浮気にカイヤが猛烈に怒っている様子が報じられていました。)
女性の側の怒りを受け入れ、麻世の側から別れを申し出るとする。するとカイヤは大きなものを失うことになる。まあそこで離婚の慰謝料とかの仕組みがあるわけだが、もし麻世が再びカイヤだけを愛することを選択肢として提示するなら、カイヤは怒りを捨て、悲しみの中で、愛の再開を選ぶこともあり得る。それが現実における愛の姿というものだろう。


ここで何を考えていたかというと、僕のこの時の感情としては、複数女性を愛することはあり得ることであり、「貴方だけを愛します」という約束への違反については問われるべきものでありながらも、それを超えて、複数女性を愛した男の側の感情という事実について怒るならば、それはもう女性側の問題であり、それでも引き続き男を愛するかどうかという女性側の決断の問題でしかない、という僕自身の倫理観を確認したわけです。

「男は一度にただ一人の女性だけを愛するべきである」。この命題は心の「あるべき姿」を言うものです。

心を「あるべき姿」で変えることはできない。これが僕の選択した人間観であり、自分の本心で生きることを選んだのです。「良い人間」ではなく、迷いのない強い人間になるために。欲求と自己嫌悪の葛藤を克服するために、僕は「本心で生きる」ことを手段と考えて生きてきた人間です。そしてそれは正解だったと思っています。
そうした僕の生き方においては、もはや心に浮かんだ女性の怒りは、「対応不要」なものと位置付けられる方向へと向かっていました。(あくまで候補探し段階での話です^^;)
僕はあくまで自分の本性に従って、理想と思える女性を探し続ける。その姿を不快に思うならば、勝手に僕を断ればいい。

しかし、女性から返ってくる怒りのイメージは、どうもそれだけでは切り捨てることができない深い感覚が残るのを感じました。
それを感情分析します。

いったんここでカキコして続けます。


魂の成長の成り立ち-26:魂が求めるものへ-3 / しまの
No.1049 2006/08/08(Tue) 00:43:17

■欲求の「自制」と「浄化」と自己受容

「どうすればきれいな心になれるのか」という問いに対し、ハイブリッドとしては2つの心理メカニズムの話をできるだろうと考えています。
自分の中に、あまり見栄えの良くない、浅薄で利己的な欲求が存在した時、どうそれが克服解消されるのか。

一つの心理メカニズムは、その問いが自己否定の中で出されるものです。高い精神的理想から、自己中心的な欲求を自己非難します。
この場合の心理メカニズムの特徴は、欲求に駆られる感情と、欲求に駆られる自分の姿への自己嫌悪感情が、全く切り離され、相容れない形で連鎖的に起きることです。一種の人格分離が起きていることになります。欲求に駆られる自分と、そんな自分を見て軽蔑非難する自分。

これは自己否定に立ち「あるべき姿」を掲げる「自己操縦」という生き方の様式の中で、必然的に起きることです。自己を敵とするその姿勢がまさに、心の根底での欲求の皮相化荒廃化のメカニズムを駆動するからです。そして皮相化荒廃化した自己欲求を、精神的理想から見下します。
これは「どうすればきれいな心になれるのか」と問いを発したその人の心の姿勢が、まさにそれを不可能にしている姿になります。

もう一つの心理メカニズムは、「欲求の浄化」が起きる心理メカニズムです。
ストレートに上記との対比で心理メカを言うと、欲求に向かう感情がある一方、その利己性自己中心性を自ら許容し、欲求そのものの自制はしない姿勢となります。上記の心理メカでは欲求と自己理想という2要素の対立があるのですが、ここでは、欲求に向かって進むだけの心理要素となります。
その上で、「欲求の浄化」が起きる場合は、欲求そのものへの嫌悪感覚が起きる形になります。

言葉で表現していると実に分かりにくい違いですが、大きな違いが起きていることになります。
かたや、欲求に駆られる感情と、欲求に駆られる自分の姿への自己嫌悪感情。
かたや、欲求に駆られる感情と、欲求への嫌悪感覚。
要は、後者では欲求の湧き出る根元のレベルで対立衝突が起きることです。この結果「浄化」が起きる。前者は「欲求」と「姿見栄え」の対立という全く別次元の話で、「衝突」というより「食い違い」です。これが「自制」という構図。

「欲求の浄化」メカニズムとしてはっきり目に見える部分を言うとそのようになるのですが、これではまだどんな事の話をしているのかてんで分からないと思います。
具体例を出しながら、この「浄化」メカニズムの本質を考えましょう。視点としてはっきり言えるのは、そこに「自己受容」が絡んでいることです。

もちろん、自己操縦姿勢のまま、「浄化のためには欲求を許せばいい」なんて考えると完全に方向を誤ること請け合いです(^^;)。現に自分の欲求に自己嫌悪を感じている状態なら、そう考えることはもう自己不明の極みであり心理障害から精神障害への渡り道を歩くような話になってしまいますのでご注意を。
まずは外面行動においては破壊性を持つ欲求の非行動化の原則。そして道のり前半の大きな道標としての「否定型価値感覚の放棄」に取り組んで頂きたい。

そうして多少の皮相化荒廃化を帯びた欲求であっても、もしそれが共通目標共通利益になり得るなら行動化もありだという自己受容姿勢の先に起きることを、まず考えている心理メカニズムです。

それが「真の自己受容」という姿勢に関係していると考えるわけです。つまりそこでは、多少は何らかの形で「荒廃した魂」自ら許すことで「魂の求めるもの」へと向かう。その中で、自己操縦によって掲げられた「あるべき姿」から否定するのとは全く違った、欲求が湧き出る根元が係争ポイントになる、「魂が持つ本性の倫理感覚」とでも言うようなものが回復する。

まとにかく具体例の考察へ。


魂の成長の成り立ち-25:「真の自己受容」へ-7 / しまの
No.1048 2006/08/07(Mon) 16:52:10

「「真の自己受容」へ-6」では、否定型価値感覚から肯定型価値感覚への転換が実際に成されるための条件として、1)生み出す力の自覚、2)否定型価値感覚における「絶対」という観念の非現実性の自覚、そして最後に、3)「未知への知」がありそうだと体験的には考えられるという話をしました。

で話の焦点を「未知への知」に移したのですが、「真の自己受容」の十分な定義を書かずじまいだったようで(^^;)、ここで改めて書いておこうかと。

ついでというわけではありませんが、ハイブリッドが考える治癒成長道のりにおける「大きな道標」を列記しておきます。


■治癒成長道のりにおける3大道標

ハイブリッドが考える治癒成長道のりというのは、大きく言って自己操縦という生き方から真の自己受容に立った成長へ」と表現できると思います。
これは大きく見れば、人間としての「生」のあり方がある一つのものから別の一つのものへと大きく方向を変える、根幹においてはたった一つの変化という、実は単純なこととも言えます。

従って、片方の「生」のある特徴が、他方の「生」の該当する特徴に変わる節目も、この道のりにおいては一度だけ、後戻りしない形で起きることになります。まあ例えれば、両生類のカエルの場合、オタマジャクシ時代のえら呼吸から、カエルに成長して肺呼吸へと変化する節目は、一匹のカエルにおいて一度だけあるわけです。
ハイブリッドが考える治癒成長道のり上に見られるそうした節目を、よく「道標」と呼んでいます。

今のところ大きな道標としては3つくらい言えるかなと。後ろ2つが既に話を出している大きなものですけどね。一応参考になる話だろうということで、もう一つの道標を加えておきます。

1)感情の流動性の自覚

取り組み前半はとにかく「自己操縦」という構図の中で膨張した、感情の抑圧自己不明の解除が課題です。それが進むごとに、「内面の力」が回復し、開放感が感じられてくるなどの向上がまず考えられます。
その中で一つの大きな節目になり得ると思われるのが、「感情の流動性」が実感として感じられるようになるということです。

これは『悲しみの彼方への旅』ですとP.168の「感情は流れ出るもの」という節で描写したもので、以下のように表現されています。
-----------------------------------------------------
 人に対する感情が本当のものか。それは偽りの愛ではないか。そんな厳しい目を僕は自分自身に向け続けていて、感情が深いところから現れてくる出口を自ら押さえつけて、そもそも自分にどんな感情や願望があるのか分らなくなっていたのだ。
 今は、人に対する感情や願望が、本来は自己規制の全くないところから出てくるものなのだという感じがしている。
 そうだとすると、その感情とは、非常に流動的なものだ。
 今まで自分はその流動性を恐れていたのだ・・。

-----------------------------------------------------

これは心理メカニズム的には、自己内部の感情が他人の中にあるものとして映される「外化」が感情分析の進展によってある程度減少し、感情のエネルギーの主体が外界ではなく自分の側にあることを感じるようになるという変化に対応したものと思われます。
同時にそれは、それまでの感情が主に怒りや恐れや自己嫌悪感情などの「反応性」の感情が主だったのに対して、開放感の中で湧き出る意欲といった「湧出性」の感情が増えてくるという変化も伴っていると考えられます。

ただこの節目がどれだけ明瞭に体験されるかは、多少千差万別かも知れません。比較的軽度な心理障害ではほどんど意識されない場合もあるのではないかと考えられます。
一方抑圧が顕著な「本格的」な心理障害においては、抑圧の減少という初期課題のある程度の達成を示すものとして、この「感情の流動性の自覚」が体験されることが一つの目安になると思われます。

2)否定型価値感覚の放棄

これがやはり最大の道標になります。
これは心理障害傾向を膨張させる方向に回っていたエンジンが、次第に回転力を低下させ、やがて回転が停止し、いよいよ逆の治癒成長に向かう回転に転じる境目です。

否定型価値感覚と肯定型価値感覚とは、それだけ根本的に違う感覚だということですね。

3)真の自己受容の獲得

「真の自己受容」は、その先に現れる節目であり、言わば上述の治癒成長への回転に転じたエンジンによる前進を決定づける、アクセルを踏む出来事だと表現できるでしょう。

定義は、「成長する魂を感じ取り、魂の成長の方向へと歩む意思を持つこと」です。
この定義は2つの要件があることを表現しています。
まず一つは、「魂を感じる」こと。感情は心性崩壊を経る時には大きく動揺しますが、それを超えて存在し、成長し続ける、見えない力が自分の中にあるという実感を得ること。感情という見えるものを「心」と呼ぶ時、それを生み出す見えない源泉がある。それを「魂」と呼んでいます。それを感じ取るためには、」まあ多少の心性崩壊を経ることが必要になるということになるかも知れません。
そしてもう一つが、「魂の成長の方向」を漠然とながら感じ取り、それに向かって生きるという意思です。

ここに至って何が重要かと言うと、この取り組みを歩む動機が、「心の状態が良くなること」を目的にしたものではなくなるということです。そうではなく、魂が求めるものへと歩む。その過程において、心は再び荒波の中に置かれるかも知れないのです。それでも、それに向かって歩む。
そんな方向性を掴むことを、「真の自己受容」と呼んでいるます。決して、「自分の何でも受け入れることができて悩まない」魔法のような精神状態を言っているのではありません。

これは治癒メカニズム論的にも極めて重要です。なぜなら、「心の状態を良くしよう」という動機に捉われている限り、自分の心の状態を監視し続ける「自己像固執」という心理障害の基本的意識状態への対抗打が取れないからです。


■「心が求めるもの」vs「魂が求めるもの」

心が求めるもの」と、「魂が求めるもの」という、別のものを考えることができることになります。

「心が求めるもの」つまり感情が求めるものは、しばしば、「魂が求めるもの」とは違う方向に向かう。これが人間の心というもののようです。
だから、「魂が求めるもの」とは何かという、心理学の知恵が役に立ってくる。「魂が求めるもの」に向かって生きる時、大きな心の治癒と成長が生まれる。これがハイブリッドの見出した事実です。

解説し始めている「魂が求めるものへ」は、そうした「魂が求めるもの」そのものを考察します。またそれが同時に、「欲求の浄化」をもたらす、「魂の浄化」というメカニズムがあること。
それが、人間の「欲望と善悪」という矛盾への、ハイブリッドが見出した答えでもあります。


ということで、「感情の流動性の自覚」「否定型価値感覚の放棄」「真の自己受容」が3つの大きな道標になりますが、どれも、「感情」そのものについての話ではなく、感情が湧き出る大元についての、ある状態の達成という感じの話になっていますね。
一方、ハイブリッドの実践はあくまで目に見える思考や感情を相手にした具体的なものです。心理学本で「心を育てる7つのノウハウ」として整理したい通り。
http://tspsycho.k-server.org/books/book_next.html

つまり上述の「道標」で示される「心の姿勢」、あるいは「魂の姿勢」とでも言えるレベルの話になってきますが、それらはもはや具体的実践として「その姿勢を取るよう努力する」ものでは全くありません。取り組みの先に見えてくる可能性のあることとして心にとめ、見えてきたらしっかりとその道標を通過することを自分の心に刻むことして位置付けるのがいいと思います。


明日から6日まで不在 / しまの
No.1047 2006/08/03(Thu) 22:46:20

ちょっと帰省しま〜す。