掲 示 板
過去ログ
2007.01


魂の治癒成長への実践-8 / しまの
No.1167 2007/01/31(Wed) 14:07:01

「魂の感情」について、さらに質問への回答を書いたものも一挙掲載します。

同時に、魂論を踏まえたハイブリッドの基本指針も書いています。「魂の感情をベースに生きる」ということです。
もちろん破壊的衝動も魂からのものであり、それをどう「浄化と成長」に導くかが課題なわけです。
これらを踏まえ、第2段階実践の考察へいざ!
--------------------------------------------------------

■魂の感情に「正しいか」という問いはない

>よく私は「相手の表面しか見ていない」と言われますし、そういう「感じ取る」機能を使っていない気はします。しかしその「魂で感じ取ったもの」が果たして正しいのかというとどうなんでしょうか。

魂の感情は、「感じ取る機能として使う」というものではないです。「使う」と言う時、「自分」があり、「機能を使う」という2段階になりますが、魂の感情はそうゆうものではなく、対象について何かを感じ、それが同時に自分そのものになります。

この辺、Aさんが一度「大きな開放感」を体験したことは、実感として理解する足ががりがあるということで、今までよりかなり話がし易いですね^^。

その「大きな開放感」は、この世界について感じたことであり、それを感じるのが自分なのだという、一体のことだったと思います。
またその感情に「正しいか」という問いはありません。これもあれこれ説明するより、Aさん体験した「大きな開放感」そのものは、それが「正しいか誤りか」という問いは無意味だったと思います。
ただそう感じる自分がある。それにおいて自分は生きている、という感じですね。

魂の感情は、そのように、対象と自分自身が渾然一体となった感情だと言えます。心における根源的エネルギーのようなものですね。

ですから、それは実は「現実の対象」についての感情とも言えない面があります。
つまり「現実の相手」という意識になった段階で、次元が異なる、「明晰意識」の「心」の世界になりますね。すると「正しいか」という問いが意味を持つようになってくる。空想と現実という、分かれた世界の突合せというものが出てくる。

魂の感情は、感じ取る機能として使うというものではなく、常に何らかのものが、そこにあります。開放感しかり。空虚感しかり。移ろいゆくものであり、治癒成長に伴い変化するものでもあります。
怒りや悲しさや寂しさも、かなりの面が魂の感情として背景があります。日常生活の感情は、そうした魂の感情を背景に、明晰な心の思考感情や空想が前面におおいかぶさる形になります。


このように魂の感情心の感情を分けて捉え、それをどう意識し考えていくのかが、まさに感情分析になりそうですね。
この線から感情分析実践をさらに具体的に説明できるかも知れません。これでは今後考えたい。


■魂の対人感情

一人の人間が抱く対人感情も、そうした魂の感情の上に心の感情がおおいかぶさる形になります。背景的根源的な対人感情があり、さらに心であれこれ考えている感情がある。
実際の対人場面というのは、その総体結果がさらにやりとりされる、総合的なものになります。

ですから、実際の対人場面でどっちの感じ取り機能を使い分けるという考えはあまり意味がないです。それは皮膚をはがして感じると、と言った話になってしまいます。

それでも、そうした総合的結果をどう考え、今後の対人姿勢につなげるかに、心理学的な話が出てきます。
感じ分ける、つまり感情分析の出番でもある。

まず、現実の対人間の親愛度は、魂の感情同士で結び合う度合いが、現実的結果になるでしょう。人が人を好きになるのも、最も安定したベースはそれになります。
一方で、「心の感情」の方は、より具体的な場面場面の話になったり、さらに、心理障害メカニズムつまり自己操縦心性によってかなりフィルターがかかったものになる。そればかりに意識の焦点が向くと、表層ばかりに心が惑い、深いものが見失われてしまいます。



■ハイブリッドの最大指針:魂の感情をベースに

詳しい話はこれから整理したいと思っていますが、そうした、魂の感情と心の感情を分けて捉え、それぞれへの向き合い方を定義するのが、ハイブリッド「魂の治癒成長論」のキモになると思っています。

今見える大まかな話としては、対人関係の方向性は魂の感情をベースに考えるということです。
これは、今現在自分が持てる対人関係や、今自分が人にどう好かれるかは、自分の魂の感情で大体決まるということです。
それを受け入れる。そして魂の浄化と成長を目指すという方向性になります。


一方、心の感情の方は、ごく瞬間瞬間の話として、外面においては建設的行動法のみです。
それ以外は、障害、つまり幻想として扱う感じになります。

Aさんの場合も、魂の感情としては「愛されない怒り」という感じがまず間違いないところだと思います。魂の荒廃化の基礎ですね。
Aさんがそれを認め受け入れ、魂の浄化と成長を目指すという方向性を選ぶかになります。これは魂の関係性つまり他人の目を一切意識しないで、自分の魂に向き合う姿勢が第一歩になります。

>見せないという時点で演技、振舞っているのではないでしょうか?それに、上記の魂の機能があると、怒りを見せなくとも伝わってしまうのは避けられないと言うことでしょうか?少なくも、今は怒りを感じない事は不可能な意識土台ですし。結局、相手には引き続き「作っている」と思われるような姿で居るしかないでしょうね。

魂で感じるのは相手の魂の感情であり、しかも魂の感情とは相手について感じることであるだけでなく、この個人の存在の仕方そのものでもありますし、魂の感情が他の魂にどう正確に伝わるかというのも、またあまり問えない話になってきます。

荒廃した魂は、まず健全な魂の感情を感じることはできません。これは間違いないように感じます。

健全な魂からは、荒廃した魂が何となく分かります。

ただそれはその人が漠然と怒りの中に生きていることを感じ取る程度であって、自分に向けられる具体的な怒りというのはもう「心」の側の話で、ロールシャッハ原理で敏感な人も鈍感な人もいるでしょう。

「怒りを見せない=振舞う」と感じるのは、基本的に「自分を人に見せる」「見られる」という意識がある場合だと思います。
魂に向き合う姿勢の中だと、それはなくなりますので、内面に怒りを抱えていても、非行動化だけしたら、あとはもう「振舞う」という意識もなくなると思います。怒りが伝わることさえなくなってくるような気がします。


つまり魂の関係性に入る、他人の目は一切関係ないものとして自分の内面に向き合う姿勢によって、魂の感情はもはや他人にはほとんど伝わらなくなると言えます。魂の感情を自分が受け取るからです。
一方、魂に向き合う姿勢がないと、本人は魂の感情への意識が薄れ表面に捉われる一方で、魂の感情が他人に伝わるわけです。魂の感情をパススルーしちゃってるんですね。

まずはそうして魂との関係性に入ると、魂自身が変化を始めると思います。
Aさんの場合も、自分および他人への向き合い方の全体が、完全に反転するような方向転換になるでしょうね。

もう少し僕の方の整理も進めながら、その辺考えていってもらえれば。
--------------------------------------------------------


魂の治癒成長への実践-7 / しまの
No.1166 2007/01/31(Wed) 13:10:07

■「嫌われている」感覚と「アク抜きとアク毒」序論

「好かれない」程度ではなく、「嫌われている」と感じる。その原因は何か。

自分を見る他人の目に、ありありと激しい嫌悪が映る。そうなるメカニズムがあります。
それが「アク抜き」「アク毒」に関連します。それへのアプローチがまさにハイブリッドの取り組みの最大のキモになる部分ですが、返答メールの続きで、まず最も初歩的序論から書いています。

ひとことで言えば、「自分の中に抱えた悪」というテーマになるでしょう。1/25「魂の治癒成長論-20」で書いたように、自分自身の中に、自分自身が悪と感じるものが生まれており、しかしその正体は意識体験不可能になるというメカニズムがあります。
それを、外界現実における罪ではなく内面の魂の世界のこととして、人間の不完全性として許す姿勢の中で、全てを晒すというのが答えになります。

まずは、その正体が体験不可能な形で、自分自身が悪と感じるものが自分自身の中に生まれている。それへの嫌悪が、「自分を見る他人の目」に映される、という現象を理解頂きたいと思います。
全ては現実の中で起きていることではなく、自分自身の中で起きていることなのです。


返答メール後半ではそれを踏まえての、今後の方向性についてアドバイスしていますが、ここではまだ状況理解という序論の範囲です。より実質的内容第2段階の方で。
-----------------------------------------------------

■自分を一番嫌っているのは自分自身

では最大の原因は何か。それは他ならぬ、Aさん自身が、そのAさんを、激しく嫌っているということだと思います。
それが他人の仕草表情に見る感情に映されるわけです。ロールシャッハテストの原理で。

それが分かったのは、ホンジャマカの石塚に「腹黒い」ものを感じると言ったことです。
Aさんがホンジャマカの石塚を見る視線で、人はAさんのことを見ると、実はAさんの心の底に映っているように思えます。そのあまりの理不尽な視線への怒りが起きる。

>冗談で作り笑いとかいうのとは全然違いますし、それぐらいのニュアンスであれば把握できます。あからさまな作り笑いの後、すぐ真顔に戻るというのを好意と思うのは逆に変な気がします。芸人のホンジャマカの石塚のような感じですかね。私はあの人からすごく腹黒そうな印象を覚えますが。

心の中は否定的、上辺だけは笑顔。
実はそれは、Aさんが自分で自分がそうしていると感じるもの、そのものだと思います。

でもAさんのはそれとは違う、と感じるでしょう。そして実際、違うと思います。
どう違うかと言えば、Aさんの場合は良い人間関係への苦しい努力としてそうしていると思います。自分のは善意だと。石塚は..知りませんが。
あれは善意ではない、と感じると思います。腹黒い。

それがAさんの心の深層の、「悪意」だということになると思います。
それが、原因不明の罪悪感の原因であり、「悪いのは自分」「世界の全ての人に謝りたい」という感情の原因だと思います。
そうだとして、Aさんはその自らの「悪意」を体験しません。それがアク抜きのメカニズムです。

アク抜きのメカニズムのより詳細については掲示板に譲りますが、内面心理としては、まさに僕自身がそうであったので、おおよそ分かります。
お笑い系の世界、それを真似る、いかにも大学仲間の世界の人間達。そこにある楽しみや笑顔を、極めて皮相で真実を欠いた、殺伐とした世界だと感じていました。自分は「彼らの側」とは違う。決して「彼らの側」に迎合したりはしない、と。
今は感じ方が大分変化しています。

まだじっくり読んでおらずプリントしたままですが(^^;)先日のAさんの「悪者仕立て上げ衝動」の話も関係します。これは意識に漏れた「悪意」になるでしょう。

そうした自分の悪意を認めて反省しようと考えても、何も変わらないと思います。
解決は、アク毒の放出です。これはもうAさんも体験した。その後に、徐々に意識土台が改善されて来てはいます。

だがまだ、Aさんは分かってこの方向に進む道は、全く見えていません。
それを考えてみましょう。


■選択肢

まず、選択肢を言うことができます。

上記説明を踏まえて、引き続き「嫌われる理由が分からない怒り」に中にい続けるか。
そうではなく、まず自分の現実として理解するか。全体サマリーすると、まず「好かれない」のは仕方ないかと。そして「嫌われる」という感覚については、すぐ答えが出る問題ではなく、心理障害の問題として考えるのが正解だろうということです。内面を映したものだと。

まあ実際のところ、「嫌われる理由が分からない怒り」にいるとは、自分の心理障害を全部度外視して、人間関係についての自分の感情は正しいと主張することだと思います。ならハイブリッドもそもそも必要ないんですけどね。

おそらく、こうした理解選択が自分に突きつけられるという現実そのものがもう嫌だという感情も持つと思います。もうつくづく疲れて嫌になったと。
まAさんの場合、そうして絶望感からすぐ「思考の断絶」に入っちゃってもらうのが、当面一番効率的かも知れない感もありますが^^; とにかくそれが今の意識土台の減少の起きる姿。

頭を働かせるなら、僕が言えるのは一つだけです。
実際それだけの苦境の中で始まった人生なんです。掲示板でも書きましたが、それを受け入れられず死を考えるのであれば、事実、死を考えるほどの現実であることを、認めることです。
そして死を前提にでも、だめもとでやって見る価値があることを試すしかない。

自分の原点をどこに定めるか、ということになると思います。
皆と同じに好かれるべきだったという空想を維持することを原点とするか、事実そうではない現実に生まれてしまった現実を原点と考え、そこから前に歩くことを原点とするか。
ま前者に立っても結局、後者になるしかない現実を見るわけですが。

それを原点とした歩みについては、次のように言えます。
外面内面、全く異なる話になります。


■外面

>また、内面と外面の分離という意味であれば、悪感情を抱えていても外面はそれとは別に振舞うのではないでしょうか?

これはそのままです。建設的行動法の原則。
破壊は行動化しない。共通目標共通利益のみに着目した行動をする。

怒りは表に表さないのが当然いいことです。
ただ「別に振舞う」という表現は何か変ですねぇ。何か演技するみたいな。これは「自分がこんな人間だと人に見せる」というのがAさんの基本意識土台である結果ですが、誰もそんなもの目標利益にはしておらず、内面の問題として取り組む必要があります。

破壊は行動化しない。あとは共通目標共通利益のみです。
そして共通目標共通利益とは、まず自分の目標利益を定められなければならないということです。
これは「魂の自立」が前提です。

結局、外面についてはAさんの場合ほとんど何もないんですね。いい意味でも悪い意味でも。
淡々と仕事していればいいことです。

問題は、「好かれる人間であること」が求められているという感覚になると思います。


■内面

そろそろ読んで理解するのも疲れる感じになってきたと思いますので(^^;)、また僕自身としてもこの先は平易に説明するのが難しい話になるので、ごく全体方向性を言いましょう。

とにかく、自分の問題は外面つまり誰彼に嫌われることだと、その怒りの感情を取り上げ続けるか、それとも、問題の大元に戻るために自分の内面に静かに向き合うか、です。
まず上述で書いたことをどう理解できるか。「嫌われる理由が分からない怒り」をどう位置付けるか。まだ納得できない面があるなら、感性のズレのメカニズムなどについてさらに説明するのもいいでしょう。

そして内面に向き合うのであれば、自分で魂を育てるという関係性の問題として、取り組むことです。
これは他人の目を一切排した内面取り組みになります。

なぜ「好かれる人間が勝者」なんていう世界感覚の中で生きるようになったのか。その裏にある魂の挫折と復讐心に向き合う必要があります。
まあそうした具体的な話はまた後でいいでしょう。

何よりも重要なのは、人生を反れて今に至った現実を原点として、先に歩むのは、先日体験した開放感のような、「姿を眺める」というのではなく、見えないものが自分を支え突き動かす、そうした魂の動きを基盤にしなければならないことです。

つまり、今問題にしているような、細かい心理要素のどれをどうではなく、全部ごっそりと、別の世界に探さなければならないということです。

「魂」と「心」を、もはや比喩ではなく、はっきりと別のものとしてイメ−ジして、全く他人の目を排した形で自らの魂に向き合い、魂の挫折に向き合うことが基本になります。それを他人の目との問題ではなく、心の魂への接し方の問題として取り組むことです。
Aさんはまだこの方向では一歩も歩んでおらず、完全に今までとは世界を反転させるような話になると思います。

実際そのための分かりやすい説明もこれからになりますが。
-----------------------------------------------------


魂の治癒成長への実践-6 / しまの
No.1165 2007/01/31(Wed) 11:26:14

■現実への全破壊衝動を必然とする「好かれる者勝ち」という意識土台

「好かれる者勝ち」という意識土台が、まさに人には好かれなくしてしまいます。
なぜなら、その意識土台において、は「人に好かれる」ことを求め、そのための努力が人に受け入れられ尊重されることを求め、それが「親しみへの努力」なのですが、そこにおける魂の感情は素直な親しみ感情ではなく、むしろ敵意と復讐心の方に近いからです。


なぜこんなことになってしまうのか。第2段階解説に先走って今浮かぶ応えを書いておきますと、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg
という心の構造において、は「愛されない怒りと復讐心」と供給する一方、自己操縦心性「愛される姿」の神格化された理想像を掲げ、感情の膿恐怖からの救いのための愛情要求を湧き出させるからです。
結果は、「愛される姿」への死に物狂いの渇望と、魂の怒りおよび感情の膿の「追い詰められた獣の直情」により、実際には愛されない現実への全破壊衝動が生まれる、ということになります。

まずこの状況を理解し、誤った「好かれる姿への努力」を解除することが、「魂からの人間関係構築」への第一歩になるでしょう。
解除した先にどうするかが大きな問題なんですけどね。それはまた第2段階で。

引き続き返答メールから、この現状理解の解説です。

--------------------------------------------------------------
■「魂で感じ取る感情」と「目で見る感情」

そう感じる「今の現実」において、Aさんはどんな風であれているかを、再度確認しましょう。
「ありのままの自分」は、少しわがままで怒りっぽいけど純粋..そんな自分が好かれてもいいはずなのに、という思いの一方での現実は..ということになると思います。

それについてのは、僕の前の返答にAさんがさらに質問した点が新視点になるかと。

>>・・(略)・・内面で怒りを感じても、それを表に出すことに成功したら、「にこやか」になると感じているのではないかと。実際はそうではないと思いますねぇ。
>>人間が心で抱く感情というのは、自分で表に出すのをとどめても、案外出てしまうものなんですね。表情や声もそうでしょうし、Aさんが「穏やかな言葉」と考えた言葉が、実は一般的にはそうでないこともあるかもしれません。まこれはボイスレコーダーででも録音してもらって僕が分析すれば結構具体的なことを教えられると思いますが、まもちろんそこまでは。
>>さらに、実は人は人の感情を、電磁波か何かで感じ取るというのもあると僕は考えています。
>これは、「人の感情は見えない」というこれまでの島野さんの主張と、どう関係してくるでしょうか?

この質問は実にいい質問かと^^;

人の感情を感じ取る方法に、全く異なる2つの形態があるということです。
一つは、今Aさんが主にそれだけ使っている、「目で見る」です。
もう一つは、「直接感じる」です。見えないものとして、感じ取ります。

見えないものであって、感じるものというと、ハイブリッドが言う「魂」があります。
実はこれはほんど同じ話を言っているのではないかと考えています。

Aさんはこの違いが分かる第一歩に立っていると思います。
今は主に、自分を外から眺めて品評した結果起きる感情がメインだと思いますが、先日一度「大きな開放感」を体験したことがあったと思います。
その開放感は、自分を眺めて肯定したり否定したりの自己評価として湧いた感情とは全く別種の感情だったと思います。
言わば前者は「見ての感情」であり、後者は自分を直接動かす、見えない、ただ「感じる」だけの感情です。

我々が人の感情を感じ取る方法にも、その全く別種の2形態があるということですね。
見えないものとして、感じるもの。
見るもの。これは文字通り表情や言葉声色などを見るわけです。Aさんはこれしか使っていない。


■「目で見る他人の感情」は実は本人の内面を示す

この2形態の結果は、かなり異なります。全く違うと言っていいほど、人の内面についての感じ取り結果が変わります。
自己品評と開放感が違うほど。

人の感情を見えないものとして感じる時、それは「魂」を感じ取るのとほぼ同じ感覚で感じます。見えないが、かなりしっかりと、そこにあるものとして感じます。まあその場の電磁波かどうかは知りません。「魂」を感じるのが五感のどれかと言えない深淵な人間の心の機能であるように、人の感情を見えないものとして感じる、深淵な人間の心の機能があるのだと思います。

一方、見えるものとして感じ取るのは、基本的に静止画の鑑賞という感じになります。視覚が主体です。
この結果はどうなるか。それを端的に示すのがロールシャッハテストです。これは知ってるかと。
つまり、そのテストの目的がまさに示すように、この感じ取り方だと、結果は主に本人の内面を示すのです!

ハイブリッドが考える健康な心では、主に「見えないものとして感じる人の感情」を、対人関係で使います。これは魂を基盤に生きる心ということでも、そうなるのでしょう。

そうではなく、人の姿を目で見て感じる感情ばかりを「人」を知ることに使っている状態とは、実は、その相手のことをほとんど知っちゃーいないし、実は何の関係も持っちゃーいない、切り離された自分の内部で映された世界の中で生きる姿だと、考えています。

この2形態の違いで、人についての見方が如何に違ってしまうかは、驚くべきものがあります。
まあこの両世界をまたがって体験しないと分からないので、世の人々は人が人を見るという同じことの中で、違いがあるのだという感じで人の話題をしているだけです。

もちろん健全形でも「目で見る感情」を使います。「見えないものとして感じる」を骨とし、「目で見る感情」を肉皮とする感じですね。日常の瞬間瞬間は、「目で見る感情」が前面でもあるでしょう。でも「見えないものとして感じる」がないと、それは骨のない、目を離したらいつでも消えてしまうようなものでしかなくなります。
だからまあ、離婚が多いご時世。人間関係が表層的なんですね。


■感性のズレの2大要因:「否定型価値感覚」と「目で見る感情メイン」

話が少し長くなりますが、上述の人の感情の感じ取り方は、健常人との「感性のズレ」の大きな原因になります。
まあ否定型価値感覚によって基本的に思考が否定に傾いていることと、この話が、2大要因と言えるでしょう。

Aさんも含めたメンヘラー(^^;)は、そしてそれはかつての僕もそうでしたが、「優しさ」としてイメージするのは、まるで弥勒菩薩のような静かな穏やかさ優しさになります。
何よりも「自己否定感情の膿を刺激しない」ことが「優しさ」になるからです。その結果、それはまるで目をつぶって傷ついた小動物を愛でるような、優しさの絵になります。

それは「健常人」から見ると、「ちょっと変」なんですね。
なぜ「変」かというと、健康が前提で、たくさんの「活動」をする身なので、それを支持し共に楽しむことが、共感であり優しさのベースになるからです。
メンヘラーにとっての「優しさ」は、傷を癒すのが前提です。そしてそれを、本人は人間関係の基本理想であるかのように求めるので、人間関係に関する感覚に大きなズレが起きます。

僕自身の話をすれば、今になって、「病み上がり」的な要素さえもほとんど消えた、なんでも楽しむ感じになっています。
スキー活動で、メンヘルとは一切関係ないような若者達とも全く自然に慣れ溶ける感じに、マジに今シーズンに至りなった感があります。

そうしてそんな人間関係にいると、かつての僕からは度肝を抜かれるような、悪ふざけジョークにも接します。配車報告の中で「〜とは別になりました。仲が悪いので」なんて。
実はこれは、芯に揺ぎない友愛があるから成せる技(^^;)なんですね。ジョークとして楽しんでわけです。
もちろんそれを真似ろとは言いませんし、実際それはメンタルヘルスへの無理解であって誉められた話でも特にありません。

とにかく指摘しておきたいのは、「目で見る」だけで人の感情を感じるのは、実際は自分の内面を見ているだけ。その相手のことを実は知らないに等しい。自分自身の内部の自己否定感情を克服し、「魂」で感じるようになると、全く違う結果がありえるということです。


■表面だけの「にこやか」はやはり嫌われる

「今の現実世界」におけるAさんの現状確認をさらに続けますと、

>「にこやかに」というのは、その時表面だけ、楽しく話すという事です。
>笑って親しげに話すことが「にこやかに」だと思っているんですが。一時的に感情を殺して、笑って話せればいいというぐらいです。
>表情は笑って話す事ぐらいが限界で、話し方は一般からすれば明るくはきはきとは言えないでしょう。私の中で明るい方という程度です。

Aさんの「内面に比べれば外面は明るい」ということですね^^;

Aさんはこれを、人にどう見られるかについてのプラス材料に考えていたかも知れません。

>それでいて職場では、私は怒りなんて感じてないと思い、誰に対しても訳隔てなく振舞えていると感じる事があります。私はこんなにニュートラルで誰にも悪意を抱いていないのに、なぜ敬遠されるのかとそのときは考えます。

と。

まず言えるのは、Aさんの内面が外面とは違うであろうことは、大抵の人はまず分かるということです。
これがやはり「感性のズレ」です。本人は、人がそれを好印象で受け取ってくれるはずだと考える。
実は、大抵逆です。なぜならそこに「嘘」を見るからです。

僕の最後の職場の現場上司がまさにその好例でした。明らかに、常にほがらかで、笑顔を絶やさず、全てを誉めるような言葉を使おうとしています。強いストレスの中で。それがありありです。
それが人に好かれるか。かなりまちまちだったと思いますが、実は嫌われた方ではなかったかと。まその人の場合、あまりに声が大きいのが生理的に不快だったこともあります。彼が電話している時、僕は時にその側の耳を塞ぎました^^;
また直接関係を持つ部下としては、彼の言葉はまさに上辺だけで、それが上司と来たのですから、嫌悪感は倍増でした。上辺では応援するような口ぶりで、内実は足を引っ張っているかのよう。
隣の席の、口から先に生まれたような男と話を交わした時、「ヘドが出る」なんて言葉を言ってたこともあります。

彼はその後、組織のボスがやり手の厳しい男になると同時に、全くそりが合わず、うつになって現場から離脱しました。
彼は「嘘にまみれた世界に住む男」という感がありました。我々は本能的にそうゆうのを察知する感性があります。そして嘘はやはり、嫌悪の対象になるものです。

まあAさんの場合は、そこまでは当たらないと思います。
一応「良かれ」と考えている分がまさに、人からは「なにこの人?」と見透かされていた可能性があるでしょう。まさに「魂」で感じるからですね。
だがそれも結局は「好かれない」範囲と考えていいと思います。上の話のように「実害ある偽善」の形にならない限りは。

そしてそれがAさんの「嫌われる原因」でもないと思います。
--------------------------------------------------------------

以上、「好かれる者勝ち」という意識土台が、まさに人には好かれなくする状況説明でした。
ただしそれだけではまだ、「人は自分を嫌う」という強烈な感覚の説明にはなっていません。
その話が続きます。


魂の治癒成長への実践-5 / しまの
No.1164 2007/01/31(Wed) 10:21:18

■人間関係における「魂の感情」と「心の表層感情」

魂からの深い感情と、魂に嘘をついたような心の表層の感情がある。
それを自分で感じ分ける実践第2段階の主な取り組みにして頂きたいと思うのですが、実はそれは我々が日常生活の中で互いにしていることでもあります。

まもちろん、心が健康になるほど、人のそれが何となく正確に分かる一方、心理障害傾向は人の中に自分の感情を映し出し、人のことが実際には分からなくしてしまいます。自分の内面の何がどう映されるかを理解するための説明は第2段階の方でしましょう。

そうした心の表層の感情に惑わされず、魂からの深い感情により注目することで、「人間関係を築く」ということの本質が見えてきます。その理解に立った魂への取り組みは、確実に自らの人間関係を改善し、より豊かなものにする方向へと導いてくれるでしょう。

以下はそのための基礎教養講座となるような、メール返答文の紹介です。
「魂からの感情」と「心の表層の感情」が、人間関係の構築においてどのような役割を果たしているのかの説明になります。

メール返答は、相談者の方の「なぜ自分だけが嫌われるのか分からない」という嘆きへの取り組みとして始まっています。
まずその主訴内容への所見(^^;)部分から。これは障害感情が生み出す典型的思考というより、障害感情メカニズムそのものです。必ず起きるものです。

------------------------------------------------------------------------
■「他人びいきの現実」ばかり..

>相変わらず、嫌われる現実が今ひとつ飲み込めないというか、あまりに「自分の存在自体がまるで当然のように否定される」という怒りが強すぎて、自分以外否定してしまいます。ただ一方では、逆の立場なら私は話しづらい相手かもなーぐらいは思います。

とりあえず、「好かれない」程度なら納得できるという感じですかな。
それが「嫌われる」だと納得できない!と。

>あまり好かれないのが現実だとしても、私にない要素ばかり皆は好きになるとすると、自分を肯定させるのに、ありのままではダメだということになり、存在そのものを否定されたと感じるからです。

この文章を見て何となく分かったのですが、「今の現実」の中で自分が嫌われる理由が分からないというより、「今の現実」は他の人だけ人に好かれる現実であって、自分だけ自分が好かれる現実がないのは不公平だ、という感じなのではないかと思うのですが、どうでしょう。
「他人びいきの現実ばかりでずるい」ということですね。

>好かれるための努力は単なる迎合と違いが分かりません。
>周囲は否定するけども、自分だけが自分の存在を肯定している、そんな感覚です。自分は無力で何もできないからこそ、優越感を求めます。

好かれるためのものを人は持ち、自分は持たない。つまり土俵に参加しようもなく、カヤの外という気分だと思います。あとは単なる迎合のみ見える。
そんな無力感を打ち消す、優越感が欲しい。

ということで、この現実の中で嫌われる理由が納得いかないというより、自分だけがカヤの外になる現実という不公平が納得できない、という感覚ではないかと。
ここまでその通りでしょうか。


■意識土台そのものの変化に向かうという選択肢

>それは、そんな歪んだ感覚がある事を否定しても、知的に考えてもどうにも変わらない論理なんです。自己否定すればするほど逆効果です。

いいでしょう。ハイブリッドはまさに、それをどう変更可能かの選択肢を示す心理学です。
選択肢は、今の意識土台の中での選択肢ではなく、意識土台そのものの変化に向かうという選択肢になります。

ただこれが、難しい。とくに、変化に向かう道筋が。
意識土台が変化することがあるのは分かっています。変化すれば、はっきり別世界だと分かります。
そして変化する瞬間の様相も、かなり分かっています。心性崩壊として。
しかし、「変化する前の意識土台の中で」どうすればそうなるかが、とても難しい。

「自己理解の進展により頭で理解するより前に起きる」なんて言ってますが、もう少し分かって進めるようにしたいと思っている次第です。

とりあえずは、今の意識土台を理解し、それとは全く別世界の意識土台を多少なりとも具体的にイメージできるようになることが第一歩かなと。


■「好かれる人間が勝者」という意識土台

まずAさんの現在の意識土台ですが、基本的にこの世界は「好かれる人間が勝者」なのだという感情論理の中にあると思います。
そのために必要なものを、今の現実とは、他人は持ち自分は持たない不公平なものだと。

その感覚を不合理と知的に考えても変わらないし、自己否定すればするほど逆効果。
それはそうだと思います。その意識土台の中で知的に考え、その意識土台の中で自己否定するしかありませんから。

それは基本的に「どれだけ好かれるか」という「品評」の目の中にある世界です。
Aさんがその感覚を変えようにも、あるのは自分のその感覚を「許す」か「駄目だしする」かの、どっちかしかありません。「品評」という意識土台の内側にはその思考回路しかありませんので。
どっちを取っても、その感覚は変わりません。当然です。「品評」という意識土台の内側の選択肢であって、「品評意識土台」と「別の意識土台」の選択肢などではないからです。

「どれだけ好かれるか」という競争の世界という意識土台ですね。
だから「対等」がないわけです。同等に好き合う人間同士の間では何となく対等というのがありそうだが..と。
「対等」はなく、「つるみ合い」つまり腹の探り合いのような世界になってくるかも知れませんね。

競争であるだけではなく、何か自分が世界にいられる条件というものでもあるという感覚だと思います。
「好かれなければならない」という定文の下に世界があるような。
------------------------------------------------------------------------

なぜこうした「好かれる者勝ち」という意識土台ができるのか。その説明は第2段階でします。自分自身の心の中でその成り立ち過程をたどることが、「魂からの感情」と「心の表層の感情」を感じ分け、相互関係を実感する感情分析の取り組みになるわけです。

それは置いといて、自分が置かれた状況を理解するということで、そうした意識土台とは「魂からの感情」と「心の表層の感情」が食い違っている意識土台であり、その意識土台そのものが人間関係を成り立たなくしているのだという理解画重要です。
「好かれる者が勝ち」という意識土台が、まさに好かれることを不可能にしてしまいます。

この現状を理解することは、「心の表層の感情」への無駄な入れ込みをまず放棄するという第一歩につながるでしょう。
現状理解のための説明を引き続き。


魂の治癒成長への実践-4 / しまの
No.1163 2007/01/30(Tue) 22:58:47

■人間関係における「魂」の役割

「自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情」の源である「魂」に向き合い、自らその成長へと取り組むことの意義について、さらに説明しておきます。
それは「人間関係における魂の役割」です。

なぜ人間関係が常に良好に保たれ、人からの信頼を築ける人と、そうではない人がいるのか。恐らく本人の意識的努力においては後者の方がしばしば必死の努力をしているにも関わらずです。
ハイブリッドからは、それについて大きく2つの要因を指摘できます。

一つは行動法の問題です。建設的行動法原理原則立脚型行動法が実際のところできるかどうかが影響します。

そしてもう一つが、「魂の対人感情」です。人間関係が実際のところどれだけ深い信頼で結びついたものかは、魂の対人感情がまずベースになります。
「心の対人感情」は、上辺だけで、人間関係を定着させない傾向があります。より正確には「魂に嘘をついた心の対人感情」は、人間関係を定着させることが全くありません。
この詳しいメカニズム説明は、「魂への取り組み第2段階」の方で説明しましょう。

いずれにせよ、ここで「魂の関係性」について、さらに新しい話が出てくることになります。
「魂」は自らの「心」との間だけに関係を求める、と述べました。一方で、深い人間関係は魂の感情がベースになる、という話が出てきたわけです。


■見えない「魂」と見えない「絆」

ごく体験的考察を書いておきましょう。一応僕自身は現在人間関係はすこぶる良好と感じていますが、それが一体どのような感情によって支えられているのか。

まずそれは魂の感情です。魂の感情として、自分が人と結びついているのを感じる。その感情をベースにして、自分の他者との関係に「絆」があるのを感じます。

では「魂の感情は自分の心だけが受け取れるもので人に見せるものでない」という話はどうなのか。
そのままです。自分が人と結びついているという魂の感情を、心が感じ取るだけで、僕はそれを相手に示す気はないし、そうする行動を考えもしません。
なぜか。その感情は、僕自身だからです。別に人に見せるための何かではないわけです。魂の感情とは、そうゆうものです。


ではその魂の感情において人と結びつくとはどうゆうことか。
これはちょっと考えたのですが、良く分からないんですね..というか、それは自分の魂が自分にも見えないように、自分が人と結びついているという「絆」も、見えないんですね。でも、それがあるのを感じる。感じるというか、「あるんだろうなぁ」と感じる。実はちょっと他人事のような感覚でさえあるのです。自分の魂は人の魂と結びついているのかも知れないなぁと。

感情の中に「結びつき」が包含されているのであって、「結びつきを得て」起きる感情、ではないわけです。「実際の結びつき」を意識するとしたら、その感情とは別の感情や思考を使うことになります。
ま僕自身はもっと積極的に人づきあいした方がいい部類かもしれないですけどね^^;

「愛」とか「絆」とかいうものは、実はそうした見えないものが本質なのかも知れません。
それを、「心」は「明示化」しようと躍起になるわけです。より正確には、「魂の感情に嘘をついた心」は、です。
これは後で詳しく解説。


■人の「魂の感情」は感じ取られる

もう一つ。「魂からの感情」と、魂を放置したような「心の表層の感情」というものがあるわけですが、健全な心は他人のそれを何となく感じ取ることができるようです。

これは「魂は見えない」という話と矛盾することではなく、「魂からの感情」はあくまで「心」に届いて意識体験されているものを言いますので、一応「見える」ものになります。根源の「魂」そのものは見えないままですが。
だから、人が表面では親しみを表していても、その人の魂が感じているのは実は別の感情のようだと、何となく察することもある。

「魂への取り組み第2段階」では、「魂からの感情」と「心の表層の感情」を感じ分ける実践を主な内容と定義したいと思っています。本人がそれを感じ分けることが可能であるように、人が人のそれを感じ分けることも結構可能だということです。僕の相談援助もまさにそれを使うわけです。

かくして、「魂の感情」は、自分の内面の問題としてだけではなく、対人関係において実はかなり実質的な影響を及ぼすメカニズムがあるという考えを採るのが正解なようです。

それについて、メール相談の中でかなり具体的に対人関係の疑問への解説を書いたものがありますので、載せておきます。


魂の治癒成長への実践-3 / しまの
No.1162 2007/01/30(Tue) 16:31:47

一通り書いたら心理学本原稿へ..というか、そのまま心理学本原稿の骨組みドラフトみたいな感じになっていますが、前カキコのような前段説明から引き続き、ハイブリッドの「魂への取り組み」を、実践の段階として考察します。

「段階」であるとは、その順序で、前の段階が後の段階のための準備条件になるということですね。


■魂への取り組み第1段階:自分に向き合うことの価値を知る

先のカキコで「魂との関係性が第一歩」と書いた通り、魂への取り組み第1段階はまず「自分に向き合う」という基本的な姿勢の習得を考えたいと思います。

ま実際ハイブリッドに取り組まれれている方で、変化する人と変化しない人の前提的な違いがここにあったのを感じています。変化しない人というのは、自分に向き合うことができていなかったと思います。
それは多分に、感情の膿による強制的な事柄であり本人の意識努力ではどうしようもない部分もあったと思いますが、「魂と心の分離」という厳然たるメカニズムを理解することで、かなりこの「自分に向き合う」ことの真の意味が分かってくる部分もあるのではないかと。

障害傾向の深刻で厄介なケースで「自分に向き合う」ことができなかったのは、「自分に向き合えることが大切」といった言葉だけだと、どうしても「そうできた自分の姿がどう人の目に映るか」という感覚に再び流れてしまう傾向があったと思います。「人の目に映る自分の姿」というバイアスがかかっているんですね。
まさにそうではなく、自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情がある。それを認め感じ取る姿勢という考え方をするのがいいと思います。

そして、そうして「自分に向き合う」ことが与えてくれる価値を、まず理解するのがいいでしょう。


■「自分で自分を支える」という方向性

「自分に向き合える姿勢」が与えてくれる価値とは、「自分で自分を支える」という方向性になるのではないかと思います。

ただしこれも、この言葉だけを文字通りに受け取ると「自活能力」みたいな話になってしまいますが、そうではないです。
自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情があるとは、それが「魂の感情」だということです。それを受け取ることにおいて、「自分で自分を支える」。つまり、自分の魂を自分で支えるという意味での「自分で自分を支える」です。

これが自分の心や性格や人生への不満足感への取り組みということでちょー重要な話として理解頂きたい心理メカニズムとは、それらの不満足感の原因となる自己嫌悪感情の大きな背景には、「自分自身の成長責任を放棄した自分への嫌悪」があるということです。自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情を放置したまま、「自分にこれがなければ」と外面のことや、「人が」と考えている自分自身への、根底の嫌悪があるということです。
まずはその自己嫌悪感情に向き合うのがいいでしょう。するとそれは消えます。なぜなら、それがまさに自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情だったからです。


それに気づくことはいわば、自分を根本的に変化させる道への、最初の扉を見つけたことに匹敵するでしょう。
ならばその前で立ち止まっているのではなく、扉を開けて、踏み出すことです。

自分の魂を自分で支えるという歩みの最初の指針は、「自己像を他人に依存しない」ということになると思います。自分のことをどう考えるかは、自分によるということです。それが本来できることなのであり、その方向に向かうという意志を持つことです。

というのも、不安定な感情の最大の原因とも言える姿勢が、「自分が自分のことをどう感じたかの責任が他人にある」という姿勢だからです。
相手が自分に対して示した行動や振る舞いの、客観的な妥当性適切性が問題になるのではありません。それによって自分が自分自身について感じたことが、問題になるのです。そして自分が自分について嫌な感情を感じてしまった。それは誰々がそんなことをしたからだ!と怒りが起きます。「自分がこんな気分になってしまった。それは相手のせいだ!」と。そして怒りに取り付かれている自分が、嫌になってしまうのです。


他人が自分に行なったことと、それによって自分が自分自身についてどう感じたかを、分けて考えることです。
なぜ自分は相手の行動振る舞いによって、自分自身について感じることがこうも変わってしまうのか。

まずは、それが、今まで「自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情」に向き合うことをせずに、そうした感情の源泉である「魂」を放置していた結果としての現状であることを、理解するのがいいでしょう。自分の中に芯がなく、周囲にあまりにも揺れ動く心の状態になっているのが現状だということです。それを認めることから、自らの魂の成長への歩みがスタートします。

「魂の成長への歩み」を目指す動機づけのために、さらに「魂」の役割について説明しておきましょう。
人間関係における「魂」の役割の話です。それを次に。


魂の治癒成長への実践-2 / しまの
No.1161 2007/01/30(Tue) 00:30:24

■「心への取り組み」から「魂への取り組み」へ

ハイブリッド心理学の実践を改めてスタートラインから説明する感じの言葉を考えてみますと、それはやはり「心への取り組み」として始まります。

自分自身の心についての、あるいは自分の性格についての、そして人生の生き方についての、漠然としたあるいはかなり具体的に差し迫った、不満足感から始まるわけです。
で、まず心の健康と幸福についての基本的な心理学を学んでもらう。怒りの有害性心を解き放つという幸福の考え方、心を病むということ、生き方の思想と、ハイブリッド心理学が推奨する心理学的幸福主義

そうした基本的な理解に立って、具体的な実践を行なう。まずは「心の成長」への実践というのが基本的な考え方になります。「成長」とは、「自ら幸福になる能力の増大」のことを言います。

「感情と行動の分離」をその第一歩にするのは、いいことでしょう。感情は移ろいやすく、不安定なもので、必ずしもそれによって自らを導くに足るものではありません。心理障害という問題があるのであれば、なおさらです。歪んだ感情を克服したいのであれば、まずはそれを鵜呑みにしないことです。
もちろん感情を無視し続けることはできないし、結局我々人間は感情によって生き、感情によって幸福を感じます。
ですから、「感情と行動の分離」とは、感情によって自分を導くのではなく、感情が湧き出る大元を向上改善することで、結果として感情改善につながる。そのような考え方を取ることです。

「感情が湧き出る大元」への取り組みの最初として、「思考法と行動法」がまず焦点にあげられます。「建設的であること」が大きな指針です。「破壊」から「自衛」と「建設」へ。対人関係においては、共通目標共通利益のみに着目する建設的行動法。そしてこの社会をうまく強く生きるための原理原則立脚型行動法

こうした建設的な思考法行動法を学んで頂きたいのは、それが人生をうまく生き心を成長させるための極めて確実で実のある方法であるにもかかわらず、学校や家庭で教えることがまだほとんどないからです。学校や家庭では、今だに、過去の時代に必要であった情緒道徳思考を伝えています。しかしそれによって何を得ることができるのかが不明瞭になった今、人は生き方の指針を失い始めている。
それに代わる「生き方の指針」として、建設的な思考法行動法を採用することができます。まずはそれを学んで欲しい。

ただしそうした建設的思考法行動法も、自分の心や性格そして人生が良くなるための魔法の杖ではありません。「感情と行動の分離」の言葉に戻れば、我々は揺れ動く感情によって自らを導くことはできないにしても、行動への最終的な原動力は何らかの感情の中に求めるしかありません。思考法行動法によっていわば車のハンドルを回すとしても、ガソリンがなければ車は動かないのです。そしてガソリンは、やはり感情です。

建設的な思考法行動法は、すでに良質なガソリンがあるのであれば、すぐに心の成長という目的地へと人を向かわせてくれるでしょう。それは確実に、より豊かな人生とより豊かな人間性を、我々に与えてくれます。今までのどんな道徳思考が教えたものよりも、です。
しかしガソリンが枯渇していたり、不純物が混在した低質のガソリンのままでは、車はうまく走ってくれません。この場合は、なぜガソリンが枯渇してしまったのか、そして一体何が不純物として混入してしまったのかを理解し、良質で豊富なガソリンへと改善向上させる、全く別の取り組みが必要になります。

それが、感情の大元の原動力である「魂」への、ハイブリッドの取り組みということになるわけです。


■「魂との関係性」という第一歩

「魂への取り組み」の第一歩を、「魂との関係性に入る」という言葉で表現しようと思っています。

「魂」とは、我々の感情が湧き出る「源泉体」です。「感情」は「心」で感じることができ、その意味で「見える」と表現するならば、「魂」そのものを見ることはできません。あくまで、「魂」から湧き出たものが「心」に届いて意識に現れたものが、感情なのです。「魂」そのものは、我々の意識が届かない、心の深層にあります。

なぜそのように直接見ることのできない「魂」などというものを考える必要があるのか。
「魂と心のメカニズム理論」が、それを説明するものだったわけです。我々に見える自分自身の思考や感情の範囲が「心」であり、その「心」を持つ「人格」として我々は存在するわけですが、人間においては、どうやら、「心」が日常の生活や「人の目」にあまりに奪われて、自分自身の深い感情を置き去りにした、上っ面なものになる傾向があるらしい。深い感情の源泉体である「魂」と、明晰な意識をつかさどる「心」が、どうやら人間では分離しているらしい。

そうした日常生活を送る「心」にとって、「魂」は何か自分自身の分身のような「別の人格体」が、心の底に眠っている。そんな様子を考えるのが、どうやら正解のようだ。見ることのできない、その「もう一人の自分」にしっかりと向き合うことが、我々自身の心の成長にとって決定的に重要なようだ。
なぜなら、結局のところ行動への原動力となる「感情」は、「魂」が根源なのだから。もう一つの自分であるその根源にしっかりと向き合わねば、良質か低質かという問題はあろうとも、車を動かすためのガソリンが得られない。

そうして「心」が「魂」にしっかりと向き合った時、「魂」も成長を始める
なぜなら、「魂」は「心」との間だけに直接の関係を持ち、「心」に導かれて成長するからです。人間の心において「魂」と「心」が分離し始める、恐らく3、4歳頃から、「魂」は「心」を仲介にして他人に影響を受けながらも、「魂」の成長への直接責任を果たせるのは「心」だけになっていきます。ですから、「心」は自らの「魂」を成長に導くような姿勢を身につけることが大切になってくるのです。


■「自分に向き合える人」と「自分に向き合えない人」

上述のような心の姿勢は、「魂と心」などと考えなくても、実は結構日常の言葉で言い表されてもいます。「自分に向き合う」ということです。
そしてそれができる人とできない人がおり、その違いが、この姿勢を実践する意義を教えてもくれるでしょう。

やはり、「自分に向き合える人」というのは、人間的な深みがあり、芯がしっかりとある、人間的魅力のある人物をイメージさせます。
一方、「自分に向き合えない人」というのは、移り気で頼りない、浅はかな人物をイメージさせます。
そのような「人間性の魅力」を動機とするのはいいことだと思います。

しかし、そこに向かう「自分に向き合う」実践とは、もちろん、「そうできた自分」という結果の姿を自分に当てはめることではないし、「自分に向き合う」だけで何かが良くなるわけでもありません。
先のカキコで書いた通り、目指す目標への方向性に向かう、「過程」として、自分に向き合い、何を見て、どう考えていくかという、より具体的な話が重要になってきます。

そこで、「魂」という考え方をハイブリッドでは使うわけです。「魂」と「心」を分けて捉えることで、内容を具体化する。
眠気のためいまいち言葉がまとまりませんが(^^;)、こんな話を導入部として、より具体的な内容の考察を次から。


魂の治癒成長への実践-1 / しまの
No.1160 2007/01/29(Mon) 14:00:41

「魂の治癒成長論」シリーズでは、最新ハイブリッド理論の主にメカニズム理論面についてざっとキモの部分を押さえてきましたが、あと少し要点をまとめてから、また心理学本原稿の方に作業を移そうかと。

より具体的な実践面についてですね。ということでタイトルも新たに「魂の治癒成長への実践」ということで。


■「心が良くなる」から「自らによる魂の治癒成長」へ

まず、今までも良く出した言葉ですが、「どうなれたかが重要なのではなく、方向性を知りそれを歩むことが重要」

まあそうなのですが、方向性を知って歩むためには、やはりその先でどうなれるのかという、ある程度の目標像がないと方向もつかめないので、それも必要です。
これはもう心理学に限らない、人生の一般則にもなってきます。大きな目標像を描くことが、我々に「希望」という動機を与えてくれます。しかし実際にそれに向かう歩みとは、その目標像と自分を比較評価することではなく、目標に近づくために一歩一歩の変化を歩むという「過程」の方にあります。

「歩む過程」が常にあり続ける「線」となる。目標像と自分を比較評価するのは、まあ適宜すればいいことですが、それはある時点における断面でしかないわけです。
そうした形での「方向性を知りそれを歩む」ことが、ハイブリッドの実践になります。

でこうした「方向性」について今までのハイブリッドでは「心の成長」と言ってきたわけですが、さらにはっきりと、「魂の成長」という目標を掲げることになります。

もちろん「心の成長」というのもあり続けます。でもこれは思考法行動法の改善向上とその習熟だと、今としては範囲を定義できます。
そしてもう一つの領域が、「魂の成長」です。根源的情動の源泉体としての「魂」の成長です。「心」と「魂」をはっきり分けて捉えることが、その具体的内容へのスタートラインになります。
ということで、どちらも漠然と「心が良くなる」ことを期待して何かをするというのではなく、はっきりとした実際内容があることなのだということを強調しておきたいと思います。

「感情の改善」というのが、こうした取り組みを人々が学ぶ基本的な動機になるでしょうが、それについてはハイブリッドとしては2つの取り組みがあるということになります。
「心への取り組み」では、感情はついてはむしろ一切不問とする姿勢を学びます。そして上述のような思考法行動法の改善向上への取り組みを行なう。
「魂への取り組み」において、感情に直接向き合うことになります。

その具体的内容をおおまかに。
短いですがいったんカキコ。


魂の治癒成長論-22 / しまの
No.1159 2007/01/26(Fri) 18:04:31

■「アク抜き」と「アク毒」のメカニズム

上述の敵対攻撃的な復讐衝動において、意識表面上は「精神性の劣った相手への怒り」が前面をおおいますので、本人はこれを傲慢な利己性とは夢にも思いません。
また実際それは文字通りの利己的傲慢ではないでしょう。利己的傲慢というよりは、追い詰められた者が幻想にすがる姿という感じです。ただしこれは大人として対等な立場から見た場合です。

より弱者、典型的には子供が相手になった時、この姿は、おそらくこの本人が幼少期に目にしてやがて憎しみを抱いた粗野傲慢と、まるでそのもののように似た姿になる可能性があります。
粗野傲慢を憎むことで自分が高い精神性の持ち主だという優越感を持った時、まさにその姿が粗野傲慢になる。これはまるで写真のポジとネガの関係を浮かばせます。反対の姿を身にまとったが、それを裏返すと元の姿になる、というように。
それは人が「憎しみ」において犯す過ちでもあるでしょう。憎しみを行動化することで、憎んだ相手の過ちを自分自身が犯すわけです。ここに輪廻があるのを感じます。

「アク抜き」とは、そのように自らが最も激しく嫌悪軽蔑する「皮相化荒廃化の色彩」が、その衝動において消去されるメカニズムです。
時間の都合上(^^;)簡潔に書きますと、これを可能にする心理要因は3つです。
まず感情の膿による追い詰められ感。
次に「辛さ」「苦しみ」の感情です。「辛い者が与えられる権利を持つ」という論理が、利己性をカモフラージュする免罪符になるわけです。
最後に、「自らは望まない」という感覚です。これが決定打となり、自分が特別扱いを要求しているという感情色彩が消去されるようです。

ここには、「自分自身についた嘘」の最終形とでもいえるものがあります。「自らは望まない」という嘘。
魂はこの自分の姿を見ています。そして自らへの激しい嫌悪と軽蔑を抱く。これが「アク毒」になります。嘘をついて利を得ようとする自分自身への軽蔑嫌悪ですね。

こうして説明してきた心理メカニズムは、自動的強制的に起き、抵抗することはできません。他人への怒り衝動の中で、自分の傲慢性を感じ取り反省しようと考えても、そのようにはなりません。怒り以降だけが意識表面に現れます。

問題の解消は、「アク毒の放出」になります。今までの心理過程を通して、「嘘をついて利を得ようとするおぞましい自分」という毒々しい自己嫌悪感情が、遊離されたように蓄積しています。それが放出される体験。これは、自分の望みの根源を探る感情分析と、望むものに積極的に向かう体験の中で起きます。つまり、「自分が望んでいる」という感情の回復と同時に、起きるわけです。
これを、感情の膿と同様、現実を示すものではなく、心理メカニズム現象なのだと認識してやりすごすことが必要です。



■自己嫌悪感情の3大源泉と対処姿勢

スキーに出発の準備などしつつ超かけ足になりますが(^^;)、今までの心理構造を踏まえると、自己嫌悪感情の大きな源泉として3つを指摘できます。
そのそれぞれへの対処姿勢が、「魂の治癒成長論」による最新ハイブリッドの示す方向性大枠になります。

一つは、心が魂の成長責任を放棄したことに対する、魂が心に対して抱く自己嫌悪感情です。
これに対しては、単純明瞭な方向性を言えます。魂の感情を受け取るのは自分自身以外にはないことを認め、その姿勢を取ることです。
そして「神の国」を願った魂の感情を看取り続けることです。この先には「原罪」の感情も控えています。

二つ目に、敵対攻撃性の中で「あるべき姿」から現実を見下す衝動と、未熟な自己の現実です。
これについては、全人格的取り組みとして、自分を現実において豊かにする、現実において生み出す生き方への思考法行動法の転換です。「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」というはっきりした答えがある領域です。
「放たれた野」を生きる、サバイバル世界観が重要になります。

この2つを踏まえると、建設的感情以外は、全て自分の内部で向き合う問題になります。魂の根源的情動以外の、イメージをめぐる感情は、幻想として、心のスクリーンにただ映るものとして反応しない姿勢が大切です。

三つ目が、感情の膿とアク毒です。これは悪感情への耐性を心がけ、心理メカニズム現象として流す姿勢が大切です。
「神の国」と「放たれた野」の2つの世界を同時に見る姿勢が、それを実現する姿勢になります。

建設的感情が見えないうちは、感情分析によってもっぱらこれを通過する、辛い時期が続くかも知れません。しかし一つ目の、「魂との関係性」に入る姿勢が、なによりも着実に、その裏側で未知の感性を芽生えさせてくれるでしょう。それによって二つ目の建設的な生き方も、その実質的な内容を獲得し始めます。

最後はちょー駆け足でしたが、以上が「魂の治癒成長論」の大枠になります。また後日細かい補足などあればUpしていきます。


魂の治癒成長論-21 / しまの
No.1158 2007/01/26(Fri) 15:16:21

またスキーに出かけるので、ちょっと説明の丁寧さは置いといて、書けるものを書いておきます。


■「来歴における不遇」から新たな問題局面へ

「依存性への神格付与」において、魂の成長責任放棄「自己像の他者依存」論理によって取り繕うまでは、まだ問題の全体は問題の置き去りにとどまっていたと言えます。心は「愛されることへの挫折などない自己像」を追うことに駆られるという、真の解決とは異なる方向に向かい始めるというおまけもついた形でですが。

それが、荒廃した魂の敵対攻撃性復讐衝動をエネルギーとして取り込みながら、自ら固執する「神の国」の倫理である「あるべき姿」とは異なるその姿をさらに取り繕うとするに及んで、問題は「来歴における不遇」ではない、別の様相を示し始めるようになると思われます。
それは、人間の心にある罠に自己を明け渡し、自分自身と他人への破壊への本線ともいえる道に足を踏み入れる、自ら生み出す心の悲劇への道です。


■「ひどいことされた!」感情

鍵は、学童期においてすでに始まっていた、「空想による救済」の中でほぼ必然的に生まれる、「精神的優越感」にあります。

この現実的不遇の中で、空想の中で自尊心を満たすことにおいて、実際この子供は、現実的な資質における優劣はケースバイケースであろうとも、まず間違いなく、自分の不遇を生み出した環境に含まれる精神的粗野と残忍さへの軽蔑と憎しみを抱きます。そしてこの軽蔑と憎しみにおいて、自分の精神性の高さを確認し、それに自尊心を感じるようになります。
これ自体はまだ病理性のない、自然な人間心理と言えます。

彼彼女の誤りは、粗野横暴への憎しみによっては、真の優しさを獲得することはできないという知恵について無知であることです。そして「優しい気分」に耽ることが、必ずしも現実的な優しさではないことを知らずに、粗野横暴への憎しみや空想の中での優しい気分を、人に好かれ愛される「優しさ」だと錯覚することです。
その錯覚に立って、思春期要請で発動する強烈な優越欲求を背景に、荒廃した魂から湧き出る敵対攻撃性と復讐衝動の中で、「相手を打ち負かす優越欲求」に駆られることになります。
その内容テーマは、「精神性」です。「優しさ」や「純粋さ」や「誠実さ」そして「心の健康さ」において、他人を激しく軽蔑攻撃する優越衝動に駆られるわけです!

これはあまりに自己矛盾とパラドックスに満ちた状態であり、安定した心理状態としてはあまり成立し得ず、自分の敵対衝動が自己非難自己軽蔑に合うという、不安定な心理状態が基本になります。
これは1/17「魂の治癒成長論-13」ですでに述べた状態です。「依存性への神格付与」の論理転換をまだ経ていない状態であり、治癒成長取り組みとしても、まずこの状態を原点として向き合うことが必要となる、辛い状態です。

これから問題にする病理メカニズムは、この不安定な心理状態をさらに取り繕い、精神性における攻撃的優越衝動を満たすという、特別なメカニズムです。
それがまさに、今まで出てこなかった、心理障害の根源である感情の膿によって与えられます。つまり、感情の膿は、心理障害メカニズムの中で生まれる敵対的復讐心と精神的優越感のために、利用される様相になるわけです。

これは感情の膿に含まれる、「相互理解不能なできそこないの異形な獣」のようなものから向けられる怒りへの恐怖、もしくはそうした「異形なるものを見る目」を自分に向けられたという、「人にあるまじき」という感覚色彩が使われるものです。

そのメカニズムが意識に表出される感情は、実に巷に溢れているもので、心理障害そのものが人間の心のメカニズムであり、程度の差はあれ誰もがその部分を持つということの結果として、この感情が良く観察されるものになるでしょう。
それが、「ひどいことされた!」という感情です。これは閃光のように瞬間的に起きる感情であり、その後に、この感情を説明するかのような、相手が酷いことをして自分がその犠牲になったという具体的構図が描かれるという特徴があります。


■感情の膿をバネにした復讐勝利衝動の3形態

感情の膿敵対攻撃性と復讐衝動に利用される。それが「ひどいことされた!」という感情となって意識に現れるのですが、背景となる感情論理命題の組み合わせにより、これは結構毛色の違う3つの感情形態となるようです。
話がかなり細かくなってきますが、十分な描写よりも、とにかく論理命題の整理の範囲で書いておきます。

1)「悪いのは向こうだ」論理

何かの不和発生状況などで感情の膿が刺激され、「自分を愛さなかった粗野な他人への怒り」と「愛されるに値しなかった自分への否定感情」の拮抗の中で、後者を避けるために前者を強調するような形になります。
「自分が悪い」という血の毛が引くような感覚が一瞬頭をもたげたあと、瞬時にそれを打ち消し、「悪いのは向こうだ!」という怒りが起きます。

これは敵対攻撃性と復讐衝動が比較的浅く、他人への共感が完全には損なわれていない心理状態の中で働くもののようです。「悪いのは自分だ」という感覚も残りつづけている感じになるかと。

2)悪意仕立て上げ衝動

敵対攻撃性と復讐衝動が強く、他人への共感が全般的に損なわれている心理状態で働くもののようです。
感情の膿が刺激されて起きた「人にあるまじき」という感覚を積極的に相手に帰し、それを怒り攻撃します。
これはまず自己軽蔑が刺激されるのですが、自己軽蔑から目をそむけようとする強いストレスの中で、こんな嫌な気分を起こしたのだから、相手はそれに値する、人にあるまじき悪意を自分に向けたということだ」という論理が展開されます。

これが行動にまで表れた時、これがいかに人間関係を破壊し、本人に対する周囲からの嫌悪と不信を買う行動であるかを、本人が自覚していないことが少なくありません。何といっても本人の意識においては自分が被害者なのであり、自分の行動は相手の誤りを教えてあげたことなのだとさえ考えられますから。
しかしこれはしばしば、自分は被害者だと嘘をついて他人を攻撃するという、最も好ましくない人間性の姿になってしまいます。これが頻繁になるケースは、「社会行動障害」という様相を示すようになります。
そして気分が変わると自分の行動を忘れたかのように、人の好意を求め、それが得られないのに対して、再び「人間にあるまじき悪意」が向けられたと怒る。雪だるまが坂を転げ落ちる様相になります。

ごく簡潔に書いておきますと、こうした行動問題が実際にあるケースでは、「治癒成長」プラスアルファの行動学が必要になります。人間関係の修復はむしろ不可能だと受け入れての慎み深い行動を心がけるのが正解です。

3)「自分一人が辛い目」構図

上記2つの混合形です。罠にはめられたかのように、自分一人が周囲から浮き上がり排斥の目に遭うという構図の空想が描かれ、悲嘆衝動と怒りに心が満たされます。
本人はプライドを守ろうと周囲全体に敵対的行動にしばしば流れ、人間関係を破壊し、自責の念も強く残る結果になります。


感情連鎖の流れとしては、大体この辺までを理解すれば十分でしょう。
こうした流れをもたらす心理構造全体を踏まえての話を続けます。


魂の治癒成長論-20 / しまの
No.1157 2007/01/25(Thu) 13:11:44

■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題(続き)

3)精神性による優越と復讐

これまでの論理命題は、「あるべき姿」の完全性によって「神の国」の庇護論理を掲げることによる、未成長なままの依存性と、魂への心の責任放棄を取り繕うものと言えます。

出生における挫折から始まった心理過程において、取り繕うべき大きなものが残されています。それが荒廃した魂から湧き出るようになった、敵対攻撃性復讐心の衝動です。なぜならこの衝動は、「神の国」で「あるべき姿」とされるものとは、ちょっと異なった姿になってくるからです。

ここにもう一つの大きな心理テーマが重なります。自尊心という生涯を通しての心理発達課題における、「優越」という課題の側面です。

既に述べているように、ハイブリッドでは「優越という課題」を、目をそむけることのできない、心のDNA上に設計された宿命であり、全ての可能性と努力を尽くしてそれに向かうしかないのだと考えています。そしてその現実解は、「相手を打ち負かす」という優越にはなく、「調和」さらには「価値の創造」という優越にあると考えています。

一方で、この心理過程においては、必ず「相手を打ち負かす」という優越衝動が発達します。これが敵対攻撃性と復讐心と合体することで、「優越感を求めて相手を打ち負かす衝動」という、およそこの心理過程にある本人の抱く精神性理想とはかけ離れた、利己的粗野傲慢の姿になります。

これが、必ず起きています。そしてこの心理過程にある個人は、この現実に向き合うことができません。心の姿勢として向き合うことができないのではなく、心理メカニズムとして向き合うことができないような防御策として、論理転換が行なわれます。そしてこの防御策としての論理転換が、自他への破壊的関係を生み出します。ここに人間の心の悲劇の歯車の中核があります。
この論理転換を解き、「破壊」という収束された出口に至った個々の根源を、個別に見つめ直し、それぞれにおいて全く異なる真の解決への対処を取り直すことが、ハイブリッドの示す答えになります。


何が起きるのか。人がそれに向き合うことができないメカニズムとは何か。ずばり言うと次のようになります。
つまり、この個人は自らの現実的不遇を背景にして上述のような「優越感のために相手を打ち負かす利己的傲慢」を激しく憎むのですが、その憎しみにおいて自らが「優越感のために相手を打ち負かす利己的傲慢」の衝動を獲得してしまうのです。

流れとしてはこのようになります。
まず、幼少期からの現実的不遇を生み出した、人の心への無理解と粗野と傲慢への怒り憎しみを抱きます。これは基本的人間心理として自然です。
しかし一方では、現実において弱いこの人間は、強さや優越を求める衝動を持っており、上記のようにそれを「相手を打ち負かす破壊力」のことだとイメージします。これも、人間の心理メカニズムがそうなってしまっているのでしょう。
その結果、他人の利己的粗野傲慢を怒り憎しむことにおいて、自分はそれを許さないという観念と、その観念を抱くことにおいて、自分はそのような利己的粗野傲慢とは反対の誠実性と優しさの高い精神性の持ち主であるという優越感を感じるわけです。これは実は、「相手を打ち負かす破壊力」というタイプの優越に属する心理なのです。

この結果は、しばしば、敢えてこの言葉を使ってしまいますが愚かな、パラドックスになります。
これはジョークに使われることもあります。昔見た『東大一直線』という爆笑マンガで、東大くんが人の些細な振る舞いに勝手に激しい屈辱感を抱き、憎しみに燃えるお婆さんの姿に変身して、「心の優しいお婆さんは復讐を誓うのであった」とつぶやく。「優しいお婆さんは復讐しないの!」というつっこみが入ります。

以前相談メールで、「相手を打ち負かす優越は真の優越ではなく調和が真の優越」と伝えたのに対して、「その通りだと思います。相手を打ち負かす優越など愚の骨頂です」と返ってきたことがありました。これも、「愚の骨頂」という極端な言葉に実はどうも「相手を打ち負かす」用語の感が若干感じられたことなどありました。まこれはつっこみ入れませんでしたが^^;

この個人が実際に「利己的優越衝動」を獲得しているのが事実であることは、時に、気分がいい時に自分が目の前の「相手より自分が上」という感覚に満悦感を感じていることに気づき、あわててその感覚を振り払おうとする場面などに表れます。

現実に相手より上の自分を見ての満悦感そのものは、人間の一般心理としてそれほど害のあるものではありません。まあ上述の「真の優越論」からは全然誉められた話でもありませんが。
この心理過程にある個人が時に心から漏れ出したように感じる「相手より上」満悦感にある病理性とは、その「相手より上」が実は現実でなく極めて空想的な内容であることにあります。それはまず、自分が過去に持ったみじめさ感情を相手の中に投影しての「相手より上」満悦感が、典型的なものになります。
『悲しみの彼方への旅』でもそんな一文がありました。「火曜日は、人の心の中にある絶望感が、私の空想の中に映し出されていました。自分は自己を確立する。一方で、多くの他人は自己を見失った絶望的な人間である。あの子の前で、自分は冷静で強い男になる・・。」(P.96)


■「相手の精神的劣等の仕立て上げ」による優越衝動

上述のような優越衝動は、おしなべて、「相手の精神的劣等の仕立て上げ」を使う心理メカニズムだと言えます。
細かく考察すると、これは一般心理メカニズム心理障害メカニズム2種類がありそうです。

まず一般心理メカニズムとしては、自己軽蔑を感じていることを他人の中に発見してそれを軽蔑するというものです。上述の終わりの方で触れた「満悦感」のタイプ。

これについてハイブリッドの一般指針としては、その感情に入れ込むことも利のないことであり、振り払おうとすることも利のないことです。ようは、関りずらう(って言葉ないんだけど語韻がピッタリ♪)だけ無駄です。
重要なのは、他人への軽蔑は、実は同じ軽蔑を感じる事柄が自分自身の中にもあることを示すということを認識し、その克服が自分の課題であることを認識することです。
どう克服するか。自分がそれを現実場面で問われることになるであろう、自らの望みに向かう歩みが、いずれそれを用意します。今そうしようとして意識的にできることではありません。まず方向性を知ることです。
そして実際のその時が訪れた時は、自らの欠点にありのままに向き合い、改善向上できるものはそうする、できない部分は人間の不完全性として受け入れると同時に、望みを得られない悲しみをありのままに痛むという姿勢も必要になるでしょう。
これは1/13「魂の治癒成長論-9」で言った「現実的不遇に対する全人間的な克服努力」という話になってきます。

「全ての軽蔑は自己軽蔑の表れである」。ぜひこれを銘じて頂ければ。

これは感情分析でも取り組むことができます。ごく最近僕が上記銘の言葉を思い浮かべた体験として、「辛い過去を話す時に涙する」人の様子を、「それってまだ克服してないからでは?」と軽蔑というほどでもありませんが感じたことがありました。でもその後、自分でもこんな感情がまだ自分の中にと思えるような、「辛い過去をさらけ出す涙」の感情が自分の中にもあることを知ったことがあります。で僕は自分でその感情をちょっと自己軽蔑気味に抑圧していたわけです。
でそうした感情を自然なものと受け入れると同時に、やはり膿が出て減った部分もあるのでしょう。さらに感情基調の上昇を感じる結果にはなっています。

心理障害メカニズムとしての「相手の精神的劣等の仕立て上げ」を使う優越衝動は、話が込み入り、かなり厄介なものになります。感情の膿が関わってくるからです。
解決も上述のような一般指針ではすまない、特別な治癒現象がプラスアルファで必要になってきます。「アク毒の放出」です。

ちょっと長くなりそうなので、ここでいったカキコし、感情の膿が関わって起きる、この衝動の裏のメカニズムの解説に進みます。


魂の治癒成長論-19 / しまの
No.1156 2007/01/24(Wed) 16:06:23

理論整理ということで、かなり細かい考察が続きます。
最初の心理学本ではこうした全体を踏まえ、平易かつ簡潔直感的な解説にする予定。


■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題(続き)

2)依存性の温存

この心理メカニズムの意識表現は、「あるべき姿であれば世界と他人が全てを与えてくれる」という論理を裏に隠した、映像的空想です。

まこれ自体は、要は、誰でも抱く都合良過ぎ空想(^^;)と同じです。もし自分がこうであれば、誰からも好かれ尊敬されて、異性にモテて仕事もうまく行って..と。
これ自体は、「望みを達成した自己像」という面では、健全な一般心理でもあります。
それが健全な望み達成像である場合は、それが健全な望み達成像である範囲において、この人間が自らその実現に向かって現実的努力をする方向づけの役割を果たします。それに対して他人がどんな目を向けるかは、健全な望みにとって主眼ではありません。

しかし「依存性への神格付与」における「望み達成像」は、ちょっとニュアンスが違います。
そもそも、それは「望み」の実現像ではありません。あくまで「そうあるべき姿」の空想です。さらに、それは自分のことではなく、まず他人のことなのです。人が自分に何をするか、ようはいかに特別な尊重をしてくれるかの、空想像です。
つまり、まるで赤子なみに全てを他人と世界が用意することを求める依存性をそのまま満たすための条件としての、完全性を備えた「あるべき姿」が描かれます。

そしてこの感情の中においては、これが「依存性」だという感覚さえ完全にありません。それが「あるべき姿」なのです。
これは本人の知性の問題ではなく、その感情が最初っからそうゆう感情として湧くのです。それを障害感情としてどう疑えるか。ここに知性の問題が出てきます。


■自己像の他者依存

事実、この「依存性」は赤子が衣食住の世話を必要とするという依存性とは異質なものです。それが、知性でこの感情の不合理性を疑うことが難しくなる原因でしょう。

しかしこれこそが、「依存性への神格付与」という心理障害の核メカニズムにおいて、それをさらに構成する論理命題の中核の歯車であり、完全なる自己撞着自己矛盾のパラドックスにより根本から論理破綻したまま人の心に抱かれる感情論理です。
それが、「自己像の他者依存」です。
自分が自分のことをどう感じられるかを、他人に依存するという感情論理になります。

この話は「2006/04/18自己操縦心性の成り立ち-56:受動型自己アイデンティティと憎悪-4」などでも既にしました。「自己肯定を与え合うという世界」があり、「自己肯定させてくれなかった!」という憎しみがあると。
今まではそれをもっぱら感情分析の取り組みとして、その不合理性をいかに自覚するかしかありませんでしたが、ここではそれを、挫折した魂を置き去りにしてその成長を止めたまま、魂の成長責任を心が引き受けるのを拒否し、自意識が現実を拒否するという、「魂と心の分離」に際して起きた障害が生み出した感情として説明するのが、新しい話になります。

つまり、ここで問題になる「自己像」とは、「愛されることへの挫折などない自分の姿」だということです。これは挫折した魂が復讐衝動として抱くようになった、自己見せつけ衝動が描く自己像です。
これ自体はまだ障害ではなく、人間の本性です。問題は、「心」がそれをどう受け止め、その真の解決にどう導くかを全く知らないまま、真の解決とは全く別の方向に踏み出す歩みになることです。

魂の復讐衝動だけを通り抜けさせながら、心は荒廃した魂を癒し成長へと回復させることを放棄し、未成長の自己の依存性を神の領域にまで格上げする。あるべき姿であれば世界と他人が全てを与えてくれると。
何を与えてくれるのか。自己肯定をです。自分で自分を受け入れている、自分の姿です。自分で自分を受け入れることができず、拒否しているからこそ、この論理が生まれます。完全なるパラドックスです。

これはまずは基本的に、「魂の自立」という思春期課題をし損じたことへの、言い訳であり取り繕いの位置付けになるでしょう。


■自己像錯綜の根底にあるもの

深いところで自己拒否しているからこそ、「あるべき姿」であれば「愛されることへの挫折などない自分の姿」に世界と他人はしてくれるはずだという信念に、すがります。

この感情論理の底にある魂の感情と、この感情論理におおいかぶさって起きる心の動きの構造を理解することが大切です。これは最終的な個人の意識表面において、自己像や自己理想像への意識が完全に錯綜したものになる状況をもたらします。
その結果起きる自己不明状態が、さらにこの個人に自分をまっとうな人格にまとめ上げることへの絶望感を与えてしまいますので、それを解く感情分析が有益になるでしょう。

深層にある魂の感情とは、愛されることへの挫折感と、「愛されることへの挫折などない自分の姿」によって世界を見返そうとする、復讐心です。まずこれが心へと通り抜けるエネルギーになります。
実はそのさらに深層には、まるで捨てられた子犬のようにひもじい思いで、寂しさの中で愛を求める感情があります。これは完全に葬り去られるか、他の感情の連鎖が途切れた中空の時間に時に意識に漏れ出したりします。

一方で、心はこの魂の成長責任を拒否し、「依存性への神格付与」の歯車が回ります。「あるべき姿」であれば、「愛されることへの挫折などない自分の姿」に世界と他人はしてくれる。
この感情論理を自覚しないまま、「あるべき姿」に成り切ることが、意識表面における命題になります。なぜならこれを自覚するとは、「愛されることへの挫折を抱える自分」が実際の自己像であることが明るみに出てしまうからです。
かくして、「あるべき姿」通りか否かに極度に意識のバイアスがかかった状態になります。

これは以前「自己像固執」と呼んだ意識状態の話と同じです。
以前の説明では、これは感情の膿の組み込みによる現実離断で起きる意識状態としましたが、これはこの意識の外枠の説明です。上記説明が、その内容となる感情論理の説明になります。

でそうした「あるべき姿」に自分が一致するかどうかという意識土台の上で、「依存性への神格付与」の深層メカニズムを抱えた結果、意識表面で動く感情は何とも錯綜した、3段階を踏んで深層にフィードバックされるものになります。
まず、比較的外面についての「あるべき姿」に自分がなれているかどうかの意識が働きます。
その結果に応じて、そんな自分に対して人がどんな目を向けるかという空想が起きます。
そして、その向けられた人の目に対して起きる自尊心感情が、「愛されることへの挫折などない自分の姿」を満たすかどうかがが問われます。これは「受動的自己アイデンティティ」と呼んだ心理メカニズムが、ここで働くということです。

つまりここでは、外面的な「あるべき姿」は必ずしも本当の目的ではなく、それをエサに人の目を集め、自分に向けられた目によって湧き起こる「愛される自分」という自己感覚が、実は目的になります。「愛されることへの挫折などない自分の姿」を満たすからです。
ですから外面的な「あるべき姿」が人の目を集めるだけの達成度に行く見込みがないと、逆に「そんなもの気にしない」という意識もアリになってきます。それも「愛されることへの挫折などない自分の姿」の一パターンだからです。


一方で、そうした外面的な自己理想像は、この個人の全人格としてはごく健全な望みだったりする。しかしこの健全な望みの部分は、上記の錯綜に隠されて見えなくなってしまいます。そして大抵、現実的努力を放棄する方に向かってしまうわけです。そして現実がどんどん貧弱化してしまいます。

ここまでは主に美貌や才能など、ごく外面的な自己理想をめぐる心理の流れの話として、まだ比較的穏やかな(?)話です。
それが、「精神性」をめぐる理想像というテーマになっていくにつれて、「依存性への神格付与」を構成する感情論理の、最後の、極めて破壊的な側面が焦点になってきます。

それが、「自己像の他者依存」という歯車を中核として、出生の来歴における挫折を抱えた魂を放置したまま、その荒廃した情動だけをエネルギーにして、世界への復讐と勝利を成そうとする、心理障害が生み出すひとまずの帰結感情を構成します。
魂はそれをじっと見ています。そして深い自己嫌悪感情を抱く。それを取り繕う「アク抜き」のメカニズムと、その結果生み出される「アク毒」のメカニズムへと、話を続けます。


魂の治癒成長論-18 / しまの
No.1155 2007/01/24(Wed) 13:32:48

■心の罠の歯車の最深奥の先にある「選択」へ

「精神性を欠いた無理解と粗暴と残忍さによって、自分をないがしろにした他人」への怒り憤怒。
これが、「魂の治癒成長論-16」のおさらいで書いた「出生における逆境」から始まる、魂と心の分離に際して起きた障害メカニズムの、一抹の終結感情になります。

ここに至り、「あるべき姿とは違う他人への怒り」という、それなりの論理性を持つごく日常的な感情だけが見えるようになります。
だから、たしかにその論理を、さまざまな人生観価値観から問い、この人間に別の思考法を促すことも意味があるかのように思えもします。
しかしそれを人生観価値観の知的な問題としての議論は、何の意味も成さない可能性が高い。それが「出生における逆境」から始まった、魂の成長を損なった深い内面の問題を含んでいる限り。

それは「成長を阻害された魂を前に、心がその成長責任を果たすことを拒否すると同時に、その事態をもたらした世界と人生を激しく怒る」という状況であると、ハイブリッドでは考えます。
そこには、「あるべき姿通りでないものを怒る」という、ごくあたりまえのような道徳感情の是非を議論するよりも遥かに深い問題が、この人間の心に起きてしまっていることを、正しく認識する必要があるということです。

上記描写に暗示される通り、それは2つあります。魂の成長が阻害されたままだということ。そしてこの個人が、自分で自分を成長させることをできなくなっていることです。それを可能にするのは自分自身だけであるにも関わらずです。
これは「あるべき姿通りでないものを怒る」のがいいか悪いかの問題どころではない、甚大な問題が起きているということです。

それが、「精神性を損なった他人への怒り」に、全てを覆い尽くされるような状態になる。問題を置き去りにして一番不利をこうむるのは、その人本人であるにも関わらず。
その感情が流れたあと、この人はそうして自らを成長に向けることのできない自分に、激しい怒りと絶望を感じるかも知れません。
それは同じことなのです。同じものが、他人に向かうか、自分に向かうかの違いでしかありません。実際その違いについて、この心理メカニズムは無頓着だったりします。

何が起きているのか。この歯車の最深奥を理解し、その先にある「選択」を知る必要があります。


■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題

こうした「依存性への神格付与」というメカニズムに含まれる論理命題を整理してみましょう。
これは主に3つあるように思われます。

1)「あるべき姿」の完全性

人の心がまずその中に出生する「神の国」の情動世界には、「あるべき姿」があります。人がそうあることで、大きな目に見守られ、愛され、幸せであれる姿です。
それが「正しいか」どうかという議論はあまり意味がありません。実際それは人間の心のDNAに刻まれた理想像でもあるでしょう。

一方で、人間は不完全な存在です。「あるべき姿」には完全にはなれない部分を持つ。
ここに「原罪」という感情テーマが生まれてくるのでしょうし、「不完全性を受け入れる」という、人間の心の奥にある最大の分岐路のようなものがある。

この分岐路に人の心が立つ最大の由来は、自分が与える側に回る時だと感じます。与えられる側にある時、不完全性を怒るという論理は自然ですが、与える側に立った時、人間の不完全性がはっきりと見えます。「あるべき姿通りでないもの」は、「怒るべき悪」ではなく、「人間の弱さ」に変わります。
これが、魂の成長における一つの区切り目を生み出すようです。「無条件の愛」が、その魂から湧き出るようになるという、魂の成長の一つの段階の達成なのでしょう。

なぜ不完全性を受容すると、無条件の愛が湧き出るようになるのか。この論理命題は簡単ですね。不完全性を受容したならば、受け入れられるものとは、「全て」になりますから。無条件です。
これはちょっと寄り道テーマでしたが。

「依存性への神格付与」(書いててもっといい呼び名ないかなーと..)のメカニズムにおいては、「あるべき姿」において「完全性」という論理命題が生まれます。完全無比なる、絶対性の価値です。その絶対価値によって、万人がひれ伏すような姿です。

やや長くなりそうなので、いったんカキコ。
「依存性への神格付与」内の論理命題と、関連事項も一緒に整理していきます。


魂の治癒成長論-17 / しまの
No.1154 2007/01/23(Tue) 14:53:15

■自立論理の消滅という病理

「依存性への神格付与」でもたらされる感情論理の最も強烈な特徴について、まず説明しましょう。
「自立論理の消滅」とも言うべき現象です。「自立」という概念観念にかかわる感情論理がごっそりと消滅していることです。自分で何ができるかを考えた結果それを拒否したのではなく、最初っから「自立」という論理が消滅した論理が展開されることです。

どのような形で自立論理が消滅するかというと、次の特徴になります。
「空想による権利」です。空想によって現実の権利を得るという感情論理です。2側面があることになります。「空想によって」と「現実の」。
前者の論理側面を表現するなら、「高い理想を抱いていることにおいて、世界と他人は自分のために仕えるべきである」。
後者は、「自分が空想の中で成したことに対して、他人は現実の中で応えるべきである」。

自分は他人を思いやった(現実には何もしていない)。それに対して他人は現実で応えるべきである。

これは当然、社会における成人人間の論理としては異常であり、これが実際に社会における義務や権利など明瞭な原理原則に侵入するにつれて、この個人は実際、精神異常の姿を示すようになってしまいます。感情の障害だけではなく、「知的障害」というレベルにまで及んでしまい、ハイブリッドが手を出せる範囲を超えてしまう。


■「特別に尊重された自分」という結果イメージ

「心理障害」は、そこまで及ばないものが範囲です。知性への障害は一応ないはずだし、精神的不安定の重篤度が精神障害より軽いということでしょう。
それでも、心理障害傾向にある個人が、上記感情論理の不合理性異常性を、自分ではあまり実感することができません

というのも、この「空想による特別扱い権利」は、その内容はもっぱら「自分が特別に思いやられ尊重される」という漠然とした情緒的期待が主な内容であり、かつそれを「望み願う」という感情色彩はほとんどないまま、特別に思いやられ尊重された結果イメージだけが先行して描かれるからです。

だから知性があまり疑うための視点もあまりない。そしてそれはあまり感情を伴わない、視覚的映像のイメージです。
現実は大抵それとは違うものです。それを心が捉えた瞬間、直情的な怒りが起きます。感情が実感されるのはこの瞬間からです。


この、「自分が望み願う」という感情が伴わずに、特別に尊重された結果イメージだけが描かれるというのが、「アク抜き」メカニズムの基本になります。
なぜこのメカニズムが働くのか。「自分から望んで」しまうと、マズいことになるからです。これはこのあと説明していきましょう。

いずれにせよ、起きたことの結果は定型的であり、「相手の精神性の低劣さ」への怒り憤怒です。そしてこの時、それが「あるべき姿」を損なった相手への怒りとして、全く妥当な感情だという感覚が前面になるので、「自分が望む」という感情色彩が消去されたアク抜きの裏にある自分の内面問題が全く視界をそらされます。

それはまさに、料理の味付けにおいて、実際にはあるはずの食材の特有の味だけが隠されたかのように、この特別扱い要求の感情の味付けの中で、ある毒々しい色味だけ抜かされたという現象を思わせます。
だから「アク抜き」という呼び名をつけた次第。

引き続き、この裏にあるメカニズムを説明します。


魂の治癒成長論-16 / しまの
No.1153 2007/01/23(Tue) 11:17:26

■おさらい

「依存性への神格付与」という最大核メカニズムを考察するにあたり、今までのおさらい。

まず、「子供への愛」が何らかの形で損なわれた出生環境という、現実的逆境があります。これが全ての始まりであることを認識することが大切です。なぜなら、この後の心理障害メカニズムは、それに対する現実的解決を全く用意してくれないからです。心理障害メカニズムを解く先に、この現実的逆境に向き合い、自己のありのままの姿から再出発する成長が、ハイブリッドの示す道になります。

受け入れ難い現実の中で、感情の膿という火種を心の底に蓄積し始めながら、子供の心は空想の中で救済されます。
この「空想による救済」という心の機能が、この後の、人間の心に仕組まれた真の悲劇への序奏ともなります。「魂の自立」が要請される思春期を迎えるにあたり、空想の中で育った「自意識」が、現実を拒絶するのです。

この「人格成立の危機」とも言うべき状況を取り繕うために、自己操縦心性はまず心に対して3つの嘘をつきます。膿の否定魂の否定成長の否定です。
一方で、魂は出生における挫折を抱えたまま、魂の挫折は心が受け取ることなく、荒廃した魂の感情だけが心へと通り抜けるようになります。この「魂の荒廃化」として、まず敵対攻撃性復讐心を説明しました。魂の復讐心は、「あるべき姿」を掲げる敵対攻撃性と、「愛される挫折のない姿の見せつけ衝動」が特徴です。

で「魂の荒廃化」の3要素最後として「依存性への神格付与」を説明し始めたのですが、ちょっと整理修正しようと思います。
これは魂の内部で起きる荒廃化ではないです。取り上げている人格のほころび状況全体に対する、起死回生的かつ決定的取り繕いになる。
先のカキコでは「依存性への神格付与」の定義として、「自分が空想において高い理想を抱いていることにおいて、世界と他人が自分のその空想を実現するために責任を負うべきだという感情論理」と書きました。

「空想」が要となる。つまり自己操縦心性の核機能そのものがこのメカニズムの中核となります。それにより、「魂」と「心」つまり「自意識」が求めるもの全てを、極めて強力な感情論理の中に収束させるものになります。
それは単純に言えばこのようなものになるでしょう。
私は空想の中でこれが「あるべき姿」だと感じる。だから現実はそうあるべきなのだ、と。

そしてそうではない現実に対して、怒りを抱くことになります。
これは「あるべき姿から現実を怒る」という、もはやあまりにも一般的な現代人心理そのものです。
それが実は、ここで説明しているような心理障害メカニズムである。それがハイブリッドの考えです。

その、あまりに一般的な感情論理にまつわる心理要素を整理して、それとは全く別世界の成長への道をはっきりと定義したいと思います。

短いですがいったんここでカキコしときましょう。


魂の治癒成長論-15 / しまの
No.1152 2007/01/18(Thu) 00:01:02

■「魂の荒廃性」の3要素(続き)

挫折した魂を持て余し、自己操縦心性が心についた3つの嘘、「膿の否定」「魂の否定」「成長の否定」。
やがて荒廃した魂から心へと通り抜ける、敵対攻撃性と、「あるべき姿」を掲げながら「愛される挫折のない姿」を見せつける復讐心

こうして狂い始めた心の歯車の結果は、逆境からの救済というそもそもの目的から自己操縦心性が目論んだこととは、まるで逆の、はなはだ望ましくない姿になるように思われます。
それは、人生を生きるための実質的な成長を何も遂げておらず、無力で、恐怖に怯えながらそれを否定し、自分からは決して愛さないことを決め込みながら、愛される姿を貪欲に求めるというものに陥ります。

そもそも自己操縦心性が用意した「空想による救済」は、あくまで一時的回避策であったはずです。不完全な存在である人間の心は、そのことを知らないまま、自分の心に湧き出る感情が人間の本性なのであり、自己操縦心性が映した感情論理が、世界の論理なのだと、狂った歯車のまま人生を駆け抜けようとし始めます。
事実その時、自己操縦心性が用意した「空想による救済」において、そして上述のような「現実の姿」において、もはやこの個人の心は自己の現実を直視することは到底できない状態に、なっているのでしょう。

それでも、その逸れ始めた道の延長で生き続けるとしたら。
それはもう、破滅への運命が時間の問題となったような狂った歯車を、さらに決定的にこの人間の人格の中核に据えようとする、悪あがきの様相になるのかも知れません。

何ともおどろおどろしい表現かも知れませんが、それが人間の心のメカニズムとして、程度の差こそあれ誰の心にも忍び込む心の闇であり、このストレス社会と呼ばれる現代において人々の心に広がりつつあり、明らかに今社会が「心の危機」を抱えている、その根源であると、ハイブリッドは考えるわけです。

それが、余りにもはなはだしいさまざまな不具合を一挙に片をつけようとするかのように、自己操縦心性が、今度は魂に対してついた嘘になると、考えています。
そしてこれが「魂の荒廃化」を魂自身に直視するのが困難なほど悪質なものに改悪し、「アク抜き」「アク毒」という人格根底に抱えた爆弾のような悪感情の塊を生み出す、人間の心の病理の核となるメカニズムになります。

一方で、人間の心は、そのメカニズムをさらに凌駕した、魂の浄化と成長への回復のメカニズムも、心のDNAの上に配置したようです。それは「知って」進むことのできる道ではなく、命をかけて自己の真実へと向かった時初めて現れる、全ての心理要素が収斂してはじける、プラズマの世界を思わせるようなメカニズムです。
それを人間は自ら見出すか。これは神が人間に与えた試練なのだ。そんな言葉が浮かびます。いやー大げさですね〜と言いながらマジに^^;


3)依存性への神格付与

こうして起き始めた歯車の狂い、「膿の否定」も「魂の否定」も「成長の否定」も「敵対攻撃性」も「復讐心」も、実はまだ「正常な心理」なのかも知れません。
心性発動メカニズムの最後に打たれた次の歯車が、決定的な「異常な心理」になります。そしてその感情に支配された時、本人はその異常性を自覚できなくなる。人間の心のメカニズムに最初から組み込まれている狂った歯車であり、それが回転の度合いを強めるにつれて、人の心は「正常心理」から「心理障害」そして「精神障害」へとストレートに悪化する。人間の心の病理の根本核が、次のメカニズムです。
何か似た前振り言葉を何度も繰り返している気がしますが。アハ^^;

それが、「依存性への神格付与」です。
これは、自分が空想において高い理想を抱いていること、自分が良いと感じているものを自分が持つと感じることにおいて、世界と他人が自分のその空想を実現するために責任を負うべきだという感情論理です。
これは基本的に、自らは無力で全てを親にお膳立てしてもらうという赤子の依存性が、「あるべき姿」を抱くことが絶対なる価値を持ち、世界と他人がその価値の下に従属する存在となる、という神格化を獲得する構図の幻想的感覚です。

本人はこれを「依存性」とはあまり感じません。ただ「それがあるべき姿」だと感じます。そしてその通りでない他人と世界を怒ります。

これを「自己中心的依存性」と言うのは皮相です。これは人格崩壊を防ぐための、最後の「自分自身についた嘘」なのです。

この裏で一体何が起きているのかを正確に理解し、この病理メカニズムに頼ることなく魂を治癒と成長へと方向転換させる、DNAに用意された解決へのメカニズムを探る考察を続けます。


魂の治癒成長論-14 / しまの
No.1151 2007/01/17(Wed) 16:58:57

正真正銘、次のカキコがハイブリッド最新の「魂の治癒成長論」の最大核になりますが、その前に「魂の治癒成長論」からの明確な答えを説明し始めておきましょう。


■最大の答えは「魂の関係性」にある

さて、先ほどのカキコで最後の方では、人間の心が抱えた業とでも言える歯車の狂いによって生まれる心の混乱というのに至りました。

これが、「神の国」に生まれ、大きな目に守られて幸せであるはずだった自分がそうではなかったという、「魂の挫折」という最初のつまずきがもたらす、不可避必然な結果と言えるでしょう。
これは不可避です。それが人間の心の業というものです。こうした感情メカニズムに逆らおうとしても、無理ですし、ひいてはそれが自己否定の轍をさらに回すあがきになるのでしょう。

この後の最大の歯車を説明する前に、「魂の治癒成長論」からの明確な答えを説明し始めておきましょう。
答えは、「外面に向かう姿勢」と「魂に向かう姿勢」の峻別、そして「魂の関係性」の回復にあります。

最も大きく俯瞰すると、挫折した魂を抱えながら心が分離していくに際して、自己操縦心性は、「魂の挫折を認めまいとする心」を生み出します。自分の心の底に挫折した魂があるなんてことはないと心に否定させようとする圧力。それが自己操縦心性の正体です。
そうして、魂は挫折を抱えたまま、心はそれを癒すこともなく放置し、それによってさらに魂が荒れる叫びを、他人が責任を持つべき問題だと外界に帰するという構図が、心理障害の膨張土壌です。

人間の心には、それを逆の治癒成長へと向きを変える機能があります。これは魂と心が分離することで生み出された、さらなる高度な心の機能ということになるでしょう。それによって、人間以前の動物がもっぱら荒廃した心の回復を外部に依存するのに対して、人間は自らによって魂の浄化回復と成長へと自己を導くことの可能な存在へと進化させたのだと、僕は考えています。

それが、「魂と心の関係性を持つ」という姿勢です。心の根源からの感情は、「心」が受け取る。他人にはパススルーしない
「心」はそのように魂への、魂だけとの内向きの関係を持つ一方で、外界に対しては全く異なる思考法行動法で対処します。サバイバル世界における建設的行動法と原理原則立脚型行動法が推奨するものになります。

魂が生きることを願った「神の国」への思いを、受け入れることです。その願いがある限り、それを感じ続けることです。これが「看取る」ということです。これは一切の他人の目を意識して行なうことではありません
そうして魂を守りながら、「心」は対外窓口としての強さを目指す必要があります。魂から分離した「心」は、すべてが対等なサバイバル世界に生きるようになります。それを相手に、魂の感情との間の調整役になる必要があります。つまり、「心」は「魂」と「現実世界」との、ネゴシエーターの役割を担うのです。
やがてこの役目を終え、身体が朽ちた時、心と魂は再び一体のものになり、「神の国」へと還っていくのでしょう。


この姿勢を取る鍵は、「人の目」を一切排して、自分の内面感情に向き合うことです。とくに、自分の感情がどんな見栄えのものかと、「人の目」に映るようなものとして、自分の内面を見る自分自身の目を捨てることです。
これはハイブリッドをそもそも何のために取り組むのかの話にも言えます。人に見られる自分ということで「見栄えのいい心を作る」ために内面に取り組むとしたら、それは上記の障害構図を意味します。
そうではなく、「人の目」とは無関係な問題として、自らの魂の荒廃に向き合い直し、魂の浄化と成長を、「人の目」とは無関係な「魂と心だけの対話」によって導くことを、はっきりとこの取り組みの目的にする。それによって初めて、「内面の取り組み」になります。

つまり、ハイブリッドの取り組みは、全く異なる2面から成ります。

「心への取り組み」は、外界と人に対処するための「心」を向上させる取り組みです。これは内面感情を問わない、建設的な思考法行動法だけがありです。
「魂への取り組み」は、そうした建設的な思考法行動法を妨げるものが内面にあると感じる場合、それに進むのがいい取り組みです。これは明瞭に、自らの「挫折した魂」に取り組み、魂を浄化と成長へと導くことがその内容です。これは「人の目」とは一切無関係に行ないます。基本的にこれは悪感情に向き合い直すことが内容になります。

こうして見ると、ハイブリッドには「感情を良いものにしようと」直接試みることは皆無だということが分かると思います。
感情には一切直接手をつけません。感情が湧き出る大元だけに取り組む。それがハイブリッドです。


頭に浮かぶ説明をとにかく書きなぐりましたが、ちょっと抽象的で分かり難いかも知れませんね。
この後説明する最大の障害歯車など踏まえながら、より直感的に理解頂けるよう整理して行きたいと思います。


魂の治癒成長論-13 / しまの
No.1150 2007/01/17(Wed) 14:08:02

■「自分自身についた嘘」と「魂の荒廃性」

自己操縦心性のフィルターを通過して心が受け取る、挫折した魂のすさんだ衝動。

その第1の要素「敵対攻撃性」でした。これは単独純粋、つまり何もなくてもその衝動が湧くようになるという、その個人の人間性そのものの荒廃化として捉えられるものです。
もしそれが本性として根付いてしまったのであれば、それはもう変更つまり浄化は不可能という命題も浮かんできます。

ただしそう悲観的になる必要もないかも知れません。
敵対攻撃性の多くは、次の「復讐心」として湧き出ている部分が大きいからです。これは本人自身は敵対攻撃衝動を単独純粋な自己操縦心性の欲求と感じる場合においてもです。
それが実はそうではなく、深い復讐心、つまり自分が受けた迫害への報復として生まれた衝動であったことが判明する事態がある。純粋な欲求ではなく、です。

この「破壊欲求が実は報復衝動だったことが判明する事態」とは感情分析であったり、この人間が死を前にして初めてありありと自覚することであったりします。
この辺の「暴露過程」の話はここでは省略しますが、鍵を一言でいうと、「生と死に向き合う」ことの「現実性刺激」が、「自分自身についた嘘」を暴くという形になります。感情分析も、その真剣味を仮想的に自ら持つことで進むと言えるでしょう。
「2006/08/28 魂の成長の成り立ち-39:魂が求めるものへ-16」などこの話について書いています。

こうした、疑いようもなかった自分の感情が偽物だったことが露わになる出来事は、「自分自身についた嘘」というメカニズムの役割の大きさを感じさせます。
その核と言うべきものに、以下次第に近づいていきます。


■「魂の荒廃性」の3要素(続き)

2)復讐心

「復讐心」とは、復讐衝動が情動の基本的背景として機能し続ける状態です。

魂の挫折を根源とする復讐心は、健全な(?)一般心理としての復讐衝動とは違う、特有の内容を持ちます。
一般心理としての復讐衝動とは、典型的なものは親兄弟を殺された仇を討つという話などです。
まあこの行動の妥当性を議論するのは今回やめときましょう。ここで言えるその特徴とは、「自分が悪意によって積極的にこうむった被害」への仕返しという性質があります。

一方、魂の挫折を根源とする復讐心は、基本は「自分を愛するべき者が自分を愛さなかった」ことへの復讐です。
この「仕返し」は、「厳密な論理」においては、ややそのままでは形を取りにくい感があります。仕返しとして、「自分も愛さない」。実はこれが事実であり、これが重い意味を持つのかも知れません。
なぜなら、この人間は、基本的に「愛する」ことを自ら遮断するということが、ここで基本的に起きているのかも知れないということでです。

愛することをやめるとは、命を捨てる、人生を捨てるに等しいことのように、今の僕としては感じます。
この後のメカニズム連鎖は、いったんこの事を置いといて、障害感情の独特な論理のさまざまな展開を見て行きます。でも実は、もう「自分からは愛さない」という「復讐心」によって、この後の全ての感情が「自滅」を基本目的にしたものになるのではないか。つまり自分を愛すべき者の前で、自分を破壊する。これがもうこの時点で、全ての根源的衝動として生まれているのではないか。

今書いていて浮かんだ考えとして、それを記しておきましょう。


さて「自分からは愛さない」という基本形ではどうもあまり形を成さない感のある、「魂の復讐心」は、次の2つの独特な心理傾向として、その形を取ろうとするように思われます。

一つは、「あるべき姿」という観念傾向への、攻撃的信念による執着です。
もったいぶった言い回しかと思いますが、ようは、そもそも「あるべき姿」というものをイメージする意識状態を、ハイブリッドではあまり健全で自然な状態ではないと考えています。「そうだと望ましい姿」であれば健全です。だが「あるべき姿」は、一種の論理破綻を起こしています。

「あるべき」とは何か。誰かが望んだということか。もちろんそれを言う人間が望んでいます。
しかし本人はそれを「自分の望み」とは感じません。あくまで「あるべき」ことなのです。
これは恐らく、「望み」として感じることができない状態にあると思われます。なぜなら、望みを感じると、同時に感情の膿を体験しなければならないからです。

いずれにせよ、心理障害傾向の中で必ず出てくる「べき」の執着性は、果たされなかった「神の国」への願いを、復讐と攻撃の盾として掲げようとする心の動きを思わせます。
「神の国」で、「あるべき姿」の中で守られ幸福であるはずだった自分。そうではなかった悔しさを、「あるべき姿」をうとんじた軽薄な外界の人間どもにぶつけるわけです。自己操縦心性のついた「成長の否定」と手を組んで。
「あるべき姿」、それが「神の国」のおきてだったはずだ!と。

「魂の復讐心」の心理