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2007.04


魂の治癒成長への実践-42 / しまの
No.1210 2007/04/28(Sat) 12:37:17

5/1まで帰省で不在予定です。ネットにつなげてメールチャックは可能の予定。

■3段階の「人格脳状態」

さて、ここまで出した実例描写を通して起きた、「脳の構造レベルの人格変化」とはどんなものかを簡潔に説明しておきたいと思います。

結構沢山の感情分析例を出して来ましたが、「脳の構造が変化した」かと言えるほどの変化は、この一連の実例描写の中では、その41で紹介した強烈な「恐怖感情の膿の放出」になって起きています。
つまり、それ以前の沢山の実例内容は、全て脳の構造としては同じ上で起きているものです。同じ意識土台の中で、感情の連鎖を解きほぐす変化が進んでいたものです。

それが、その41での強烈な「恐怖感情の膿の放出」の後に、脳の構造レベルで新しい状態が生まれています。
これが意識上の実感としてどう「脳の構造が変化した」かと言えるほど変化しているかと言うと、後の状態では「イメージのない感情」の世界になっています。これが最も意識構造そのものが根本的に以前と違うものとして、僕自身には体験された変化です。

つまり、結局何が言いたいかというと、今まで実例描写したものを通して、「脳の構造レベルの変化」は、ただ一つだけの境目を持つ変化だということです。
まあそれだけ、この境目でその前後の意識の内容がまるっきり違ってくる、根本的決定的な変化だということになります。

これを図にしてみましたのでご参考あれ。
2つの図があります。

まず、魂論から心理障害メカニズム全体を整理した図。細かく大きい図なのでブラウザを最大化して見てもらえれば。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro10.jpg

次に、「脳の構造レベルの変化」2段階あるという話を図にしています。この際もうはっきり「脳の構造」が変化しているというものと考えることにして(^^;)、「人格脳状態」と呼ぼうかと。それが3種類ある。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg

今回の実例描写は、そこでの「メルト人格脳状態」から「ピュア人格脳状態」への変化が、最後に紹介したもので起きているというものです。
図の詳しい説明は、とにかく結論要点を整理したらすぐ心理学本原稿に取り掛かりたいということで、この際省略しますが(^^;)、「メルト人格脳状態」とは、最終的な健康な人格状態である「ピュア人格状態」に移行するような変化が起こりえる人格脳の状態です。

一方、図に書いた通り、もう一つの人格脳状態があります。「ガチガチ人格脳状態」
これについては、一連の実例紹介の後に、『悲しみの彼方への旅』からそれが描写されている部分を抜粋紹介します。本人の意識においてどう違うかは、それを基に考察説明しましょう。


■「欲しかったこんな心」にさえなるほどへの根本変化への歩み

つまり、今まで紹介した描写例は、全て、「自分に欲しかったこんな心」という自己不全感情を起点にしてさまざまな感情が連鎖していた意識状態です。
その範囲内においても、徐々に変化はしています。これは感情連鎖の解きほぐしによる変化です。

それが、最後に紹介したような「恐怖感情の膿の放出」を境に、「自分に欲しかったこんな心」というイメージそのものが消失した、新しい意識状態が生まれています。これはもう目に見える自分の感情の良し悪し変化というレベルを越えて、例えれば水中と陸上の違いのように、「自分がその中にいる世界」そのものが丸っきり変わっている変化だということです。

最後に紹介した例における、事後の僕の意識状態で何がどう良くなったかというと、まず感じられたのは「焦り・ストレス・薄氷感」という類の感情基調の消滅です。その大元となった「なるべきこんな心」というイメージも心の底のストレス源も消えているのですから。
ですから、それは「欲しかったこんな心」になれた喜び、なんてものは微塵もなく、かなり淡々とした、でもとにかく開放感だけは確実な状態です。

それがさらに、この後紹介する体験を経て、自分の心が「欲しかったこんな心」にさえなり始めているのを感じているのが最近です。これが、とりあえず「ハイブリッド心理学」が自分なりにできてきたと感じた2005年頃にはまだ見えていなかったことであり、その至高の次元(^^;)への変化までを射程内に入れるよう理論を進化させるため、今年になって魂論を展開しているわけです。

「欲しかったこんな心」とは、まあ一言でいえば、この世界の全てへの肯定的感情が最初から湧き出ている心の状態です。
これは特に対人感情の面において端的です。今は、どんな場面でも、どんな相手でも、会う人すれ違う人に、まずごく穏やかな愛着の感情が心に湧くのを感じます。自分がいつも穏やかな笑顔をベースに生きるようになったのを感じます。
まあどんな時もそんなだというほどの超人でもなく、例えば最近小遣い稼ぎに始めた小額投資取引(先日副業といったのはこの実地勉強してたんですけど^^;)がうまく行かない時は素直に凹んだりして、相変わらず自分を題材に悪感情克服のメカニズムを研究するには事欠かない日々ではありますが^^;

そしてそのような「人格脳の構造変化」を生み出したものが、「魂の望みに向かう」という心の動きだということになります。
その実例描写をこの後紹介しましょう。


■「欲しかったこんな心」は完全にイメージの嘘

そうした「人格脳の構造変化」を理解する上でのキーポイントを幾つか述べておきましょう。

まず、「ピュア人格脳」になる前の段階で、障害感情の最も起点にあった「欲しかったこんな心」は完全にイメージの嘘だということです。

これについて、ごく最近になって日記の読み返しで、その34(4/19)に紹介したものを読んだ時、しみじみとそれを感じました。今はもう「欲しかった心」にさえ向かっている自分から、かつての自分のその文章を読んで、僕は日記に赤のポールペンでこう記しておきました。

日記は、2003.2.13(木)で、こんな文章だったもの。
「これを埋めるものとしてイメージするのは、人との会話を楽しむ心..隣のMさんがGさんとかを相手に休みなくくっ喋っているのを横にして、まさに自分がそれを欠いているという感覚が際立つ。」

それについて僕はこう記したわけです。
「自分が人との会話を楽しむ心を欠いている」ことが問題なのではない。人との会話を楽しむことへの願望と挫折の感情が存在したままそれを否定したことが問題なのだ。

重要なのは、ここで言う「自分が人との会話を楽しむ心を欠いているという自己不全感情」と、「人との会話を楽しむことへの願望と挫折の感情」全く別種の感情だということです。
これは言葉にするとかなり似ているのですが、体験上全く違います。この違いが、感情分析の中ではっきりしてくるわけです。
理屈としては同じ内容の感情が、その色味において全く別種の感情がある。それが人間の深層感情のダイナミズムなんですね。

それが明らかにされた時、前者は「イメージの嘘」であり、後者は「魂の感情」であることが分かってくるわけです。
後者が自身に対して否定され、前者が生まれる。

その嘘のメカニズムもメモしておきました。
その結果、「人との会話を楽しむ自分」イメージが生まれる。それを魂の復讐心を背景とした批判眼の中で抱く。

そしてもう一つ、今度は治癒論からのメモ。
このイメージに直接取り組むことはできない。できるのは、それが無意味であることを支持する価値観をいかに持つか。

メカニズム論と治癒論は今までの話と、後の総括にまかせ、ここで上の日記の言葉について再度指摘するならば、「欲しかったこんな心」とは結局のところ「埋めるもの」だったわけです。
何かが失われた穴を、埋めるもの。大元で望んでいた、別のものがあったということになります。

それに向かうわけです。それが「魂の望み」になります。
その時、全てのイメージと今までの感情がはじけ散り、新しい人格脳がリロードされる
その描写を次のカキコから。

しかしまあ、「自分に欲しかった心」という感情がこれまでのような描写例を通して純粋に取り出されるまで、「自分に欲しかった心」という感情は、「こう見える自分」への願望となり、それが「人にこう見られれば」という世界へと変形していたわけです。
それがこの現代社会における「こんな自分になれたら」という自己アイデンティティの観念に、いかに蔓延しているかは、ちょっと想像に余りあるものがあるような気がします。それを、本人は全く疑うことができないのですから。僕がそうでしたから。

それが遠い自分となった、新しい人格脳に至る通り道の描写をこの後ということで。


■人格脳の第1段階変化への峠は「現実の選択」

もう一つのキーポイント。

「ピュア人格脳」に変化する前の準備段階が、「メルト人格脳」状態ということになります。
これは、魂の望み感情の膿が、直接それに対面し得るものとして、視野に入ってきた段階です。

これを支えるのは、「生み出すこと」に価値を見出す価値観と、生み出すことにおける自尊心の獲得です。これについては説明をちょっと図にも書いてあるので見て頂ければ。http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro10.jpg

この前の段階として、全く異なる人格脳状態があります。それが「ガチガチ人格脳」状態です。
これはメルト人格脳においては起き得る「ピュア人格脳への変化」が、完全に起き得ない状態です。

これについては最後に『悲しみの彼方への旅』から該当する描写を抜粋して紹介し、考察を書きます。
ここで手短にキーポイントを述べておくならば、「ガチガチ人格脳」の最大の特徴は、「空想立脚」です。この結果、メルトからピュアへの変化を支えるための、「生み出すこと」に価値を見出す価値観と、生み出すことにおける自尊心の獲得が、完全に阻まれた状態になります。

詳しくはその考察の方で書きますが、今僕自身がその頃のことを思い返して感じるのは、「現実が存在しなかった」ということです。空想だけがあった。

これを突破するための取り組みは、価値観でも自尊心でもなく、かなり特殊な側面にターゲットを置くような気がしています。
「現実の選択」です。
そうしたケースにおいては、これが人生をかけた選択になると思います。

図に書いたように、人格脳の構造変化の2つの境においてそれぞれ、かなりの規模の「自己操縦心性の崩壊」を想定しています。
その「現実の選択」において心性が崩壊し、放出されることになるのは、「生きること」そのものへの絶望という、極めて原初的な感情です。
「現実知性」がそれに向き合えるかが、分かれ目になると考えています。それが難しいケースが、感情面だけではなく思考面における障害が目立ち、心理障害というより精神障害という様相になってくる。まあもちろんハイブリッドを自分で読めるだけの知性があれば心配のない話で、それも考えられようなケースも、こうしたメカニズムで考察できるという話です。

それでも、否定感情が蔓延した、これまでのハイブリッドのアプローチではなかなか変化を達成できないのを感じておられる厄介なケースにおいては、「現実の選択」が道標になるという道しるべは役に立つものになるでしょう。
「絶望の先に光がある」という、ハイブリッドの当初からの銘が、やはり全ての底流にある摂理のようなものとして、その位置付けを再確認したいものだと感じます。

とりあえず、ピュア人格脳への変化例を次に。そこでもやはりその銘が当てはまります。


魂の治癒成長への実践-41 / しまの
No.1209 2007/04/25(Wed) 13:21:12

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

4)空想観念が引き起こした感情連鎖は人格亀裂に触れ「アク毒」と「恐怖感情の膿が」放出される

その39で紹介の日記の続き。
そこにあった流れは、ごく空想の中での観念が、幾つかの感情を連鎖的に揺り起こしている過程です。

「相手不特定の恋愛衝動」を感じる中で「魂の女性」を思い浮かべ流れる、苦い感情。これは意識の表面では何かの理屈で取りつくろってはいても、人格の根底では実は相容れず衝突する衝動が作り出す「人格の亀裂」と、「悪しき者とは実は自分」という「アク毒」の感情に、意識が触れ始めている様子を示しています。

この後に起きることは、本人つまり僕自身の意識からは、全く何が起きているのか分かりません。しかし意識の底で揺り動かされた人格の亀裂は活断層として動き出し、意識の底で大きなうねりを始めるのです。
やがて、今まで何とか平衡が保たれていた人格亀裂の間で、衝突融合が起き始めます。実感としては、上述のような「観念による感情連鎖」という「意識内」の出来事というより、脳の中で何かの毒かモルモンのようなものが流れ、やがて意識が変になってくる。まさにそんな感じです。

その変化が描写された部分です。
なおちょっと駆け足モードで原稿書きしているせいもあり、引用した最後の部分のあとにまだ「観念による感情連鎖」の残りがありましたね。そこから。

・・(略)・・
僕がまず感じたのは、自分は今女性との出会いに関心があるのであって、彼ら男どもの話には興味がない、という軽い優越感を伴った観念だった。そのすぐ後、そうした自分が何か女性から非難と批判の目で見られる存在であるかのような感覚が起きた。例えば△△さんからだ。
 そして別のイメージが現れる。自分は同性の男達の、たわいない楽しみに溶け込んだ存在でなければなかなかった。そして自分にはそれはない..という沈んだ気分が流れるのを感じた。


ここでも「沈んだ気分」は、意識下では「同性への攻撃的優越衝動」が「他人全般への親愛要求」を挫いている、という感情連鎖を見ることができます。

そのどっちがより純粋な「魂」の感情かと言えば、甲乙つけられるものではありません。どちらも、「魂の望み」と「魂の荒廃感情」を合成した混合感情です。どっちを取るのがいいかという問いも、役に立つものではありません。
この後起きる人格根底の地震のような変化の後には、そのどちらも消え去る方向にあるからです。

それが起きはじめます。僕は自分の心の底からただならぬものが湧き出てきているのを感じ、たまらずメモに向かってそれを記すことで心を整理します。

 今、部の全体会議の最中だが、僕の心の中に現れてきたのは、自分が人格混乱を抱えた人間だという感覚だ。それに対する△△さんとかからの、違和感の視線のイメージ。恐らくこの「人格の混乱した人間」というのも、一番受け入れ難い自己像だろう。それは絶対的に信頼できない人間の象徴なのだ。

自分に流れてきた「アク毒」の感覚を、メモに向かって書くことで何とかやりすごしますが、それはまだ洪水が流れ始める前の呼び水を見た段階に過ぎません。
やがて「アク毒」「恐怖感情の膿」と共に、洪水のようにどっと流れ始めます。

それは今この感情動揺の引き金となっている出来事での、相手の人物への弁明のような行動から始まります。まるで自分が嘘をついていたのを誤るかのような気分が流れ始めています。
そしてその行動の後、パニックが起きる、という流れです。

 昼休みを早めに切り上げて、△△さんにメールを出す。11/3に会う件の調整として。2つのメールに分け、最初の方で、土日のメールについて“のぼせ上がっていました”と弁明をつける。その後に、△△さんが自分の理想に近い。今は△△さんが自分の夢、といった言葉を添える。その前あたりに僕に流れていたのは、緊張とも不安とも高揚ともつかないような動悸だった。
 メールを出したあと、
軽い恐慌感のようなものを感じる。メールBOXの“新規メールがあります”のメッセージを見て、△△さんから怒りに満ちた嫌悪が返ってくるイメ−ジが漠然と浮かぶ。「理想の女性像」などという軽々しい言葉への怒り。相手をおだてるという不純さへの怒り

 これをメモした時、僕に流れたのは、
対象を全く持たないかのような恐怖感だった。恐怖の味だけが流れているのだ。まさに体が震えるような恐怖感だ、と感じた。
 その後に続くのは、こうした
恐怖感の中にいる自分は弱々しくて、彼女から見て全く魅力のない男なのだ、こんな自分は駄目なんだ、そんな感情。

ここで僕がこの恐怖感を「対象を全く持たない」「恐怖の味だけ」と認識したのは、2つの要因からです。
一つは、知性としては自分がそれほど粗野で失礼な行動をしたのではないという、原理原則的な思考がしっかりとされていること。
もう一つは、僕自身が「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」という考えをとうに確立しており、今自分に起きていることが治癒現象であることを十分に分かっていること。この2つによります。
ですから、頭では恐怖に値することはない、とかなり確実感の中で考えているわけです。しかし、体には見まごうことのない強烈な恐怖感が流れています。

ハイブリッドを作った僕にして、そう分かっていてさえ、「感情の膿の放出」というのは、今までの「イメージを受け流す」なんて言えていたような平静さでは、もう済まされなくなります。なぜなら、恐怖に値するものはないと分かっても、恐怖によってまともな精神状態が維持できないという新たな問題が、現実に起きるからです。

「感情の膿の放出」は、それを乗り越える心の基盤の獲得によって、本性が自然に導くと書きました(その38)
これは、そうした問題への対処ができるということも、含んでいるのです。そしてそれを可能にする価値観と生きる姿勢です。
一言でいえばここでは、恐怖を感じる自分を許すことと、「姿」ではなく「生み出すもの」に価値を置く価値観が、決定的なものになるでしょう。

そうしたものに支えられながらも、僕は自分の中に起きた変化によってやや打ちのめされる感の中に向かいます。
そしてそれが静まり、新しい意識土台の中で考え始めます。

 こうした感情を味わうことは感情の膿を出すことであって、方向が正しいことは分かっている。だがこれは症状としてはパニック不安であって、人から見ればパニック発作を起こしたように見えるもののように思えた。パニック不安という病気を持つ男、という目。
 会社からの帰り、流れてくるのは、
自分が根本的に女性に近づけない男だという観念だった。そして泣けてくる悲しみ。
 帰る時、席を立ったのはNさん(女)の方が先だったが、エレベーターで一緒になった。僕の中には、駅まで一緒に帰る場面の空想と、それへの警戒感のような躊躇感があった。彼女の方は、エレベーターに乗った時から控えめな他人モードを取ったのが分かった。この場面が、
“自分から離れていく女性”というイメージを浮かばせる。そして僕は悲しみを感じる。
 自己紹介という遊離した情報を見た女性がokを出した。それに基づいた
勝手な自己イメージの中で、自分が誇大的に疾走していたのを感じた。それは現実の自分、少なくとも今のこの感情を全く知らなかったから、成立していたものだった。

一応この翌日の日記の冒頭まで出しておきましょう。

2003.10.28(火)
 今日は△△さんへのメールはなし。感情も特にない。日中少し引っかかったように自覚したのは、自分が彼女に示した好意が、何か自分から遊離して、彼女との間で誇張されたものとなった、というようなイメージだった。
 ・・(略)・・

なお、それ以上の後日談は省略しますが、この後△△さんには大分落ち着いた心の状態で会った次第です。

こうした「治癒現象」によって起きる「脳の構造レベルの根本変化」の道のりを説明し、さらに先の例へと進めます。


魂の治癒成長への実践-40 / しまの
No.1208 2007/04/25(Wed) 00:01:42

■「知っているが自分では持っていない悪しき感情」という「アク抜き」のメカニズム

ここでは、先に紹介した僕自身の一過性恋愛乱痴気感情(^^;)をめぐる日記に例示される、「アク抜き」のメカニズムを説明します。

まず、その恋愛衝動自体については、その衝動はそれほど傲慢な、そしてトゲのある色味の感情としては、自分自身で感じられないという状況があります。
これは感覚としてそうですし、また知的にも、「自由な恋愛」といった観念や、あくまで不倫などを求めるものではないという倫理観とのバランスによって、自分の意識としては自分で許せる感情のように体験されています。
意識の表面においては。

しかし、心の底ではそうではないのです。例えば、自分が魂の感情で求める女性を前にした時、それは共存できない感情です。それが、先の日記では、「不特定相手の恋愛衝動」の中でその「魂が求める女性」を思い浮かべた時に流れる、「苦い感情」として表現されています。
意識から見えるのはこのギャップ感だけです。そのギャップをどうできるかも、そのギャップの底に何があるのかも、全く見えません。

このギャップは、「不特定相手の恋愛衝動」に「潜在的」に含まれる、傲慢な自己中心性と粗雑な人間性の色彩への「潜在的」な自己嫌悪感情が原因です。
この「潜在的」は表現が難しい話です。つまり、その衝動には、傲慢な自己中心性と粗雑な人間性の色味は、実際ありません。少なくもとも意識体験の上では。
自分の意識においてはありませんし、実際に他人の中に見出すそんな色彩の感情は、嫌悪します。その嫌悪すべき色彩はない範囲において、自分が抱く衝動を自分では許せるものと感じます。
まあこの場合は「恋多き感情」程度だと自分で感じるわけです。

つまり、この「潜在的な傲慢さと粗雑さの感情色彩」とは、「知っているが自分では持っていない悪しき感情」として本人に認識されるものだということです。
これが「アク抜き」の基本メカニズムです。



■「知っているが自分は持たない」悪しき感情を他人に見出し破壊攻撃するという意識構造

問題は、そうして「知っているが自分は持たない悪しき感情」を、他人に見出し破壊攻撃するという「意識構造」です。
これが、心理障害メカニズムが生み出す「義憤感情」の基本構図になります。
他人へのあからさまな怒りの形を取らなくても、そうした「知っている悪しき感情」を持たないことが、自分の人間性としての誠実さであり、あるべき心の姿だという、自制道徳的な「心の理想」感情も同じです。

これは基本的に、自他に対する否定破壊的な姿勢を生み出します。そして、「知っている悪しき感情」を相手(これは自分でもあり得ます)に見出して、それを攻撃する姿において、この人間の姿はまさにその「悪しき感情」の持ち主の姿になるというパラドックスが起きます。
極端なカリカチュアをあげると、「優しくなければ駄目。優しくない人間なんてみんな殺してやる!」といった感じの世界ですね。

一体なぜこんなことが起きるのか。
それは、その否定破壊姿勢を取らないと何が起きるかを見ると、分かってきます。
それを今、具体例として出しているわけです。

つまり、善悪の観念を解体し、「感情の良し悪し」を問うことよりも、人間の不完全性を受け入れて「現実において生み出す」ことに価値を見出す姿勢の中で、「人目を通して望む」のではなく、「自ら望む」という自発的な内面の強さが出てきます。そして「自ら望む」行動に出る。
すると、この後描写を出す通り、今まで停滞した平衡の中にあった人格のバランスが崩れ、一種の人格崩壊現象が起きるということです。

これはあまりに難解な言葉の羅列です。それだけ、今までの人間の歴史を通して良く分からず、当てはまる言葉があまりない、「病んだ人格の治癒現象」であるというのが、ハイブリッドの見出した事実です。

最も直感的にこれに近いものとしてイメージできるのは、恐らく死に面するほどの極限状態を経て、人間が根底から変わることがある。そんな話になるでしょう。


■「抑圧」と「アク抜き」

一方「アク抜き」に似た心理メカニズムに「抑圧」があります。

これは「実際に自分で持っている衝動」が一時的に意識の中で圧殺される現象です。その結果大抵、意識表面には、正反対の態度を取るような感情が強制的に起きる形になります。例えば攻撃衝動が抑されて、卑下迎合の態度が前面に出るといったもの。

「抑圧」比較的解除が簡単であり、心理障害の症状の表面的な緩和にはつながると思います。抑えていた怒りを心の中では開放することが、鬱屈したストレスの軽減にはなるかも知れません。
ただしハイブリッドが考える「人格根底からの変化」「脳の構造レベルの変化」には、ほとんど及びません。つまり「抑圧」は、同じ脳の構造の中で起きる感情の流れの変化程度のものだと考えています。


■「心理障害の人格構造」とは「アク抜きの構造」

一方、「アク抜き」のメカニズムが、脳の構造レベルで人格構造を形作っているというのが、ハイブリッドの考えです。
つまり「知っているが自分では持っていない悪しき感情」という薄い氷のような脆いバランスによって、その下の人格亀裂からの崩壊を防いでいる。これが、「心理障害メカニズムが生み出した人格構造」です。

つまり、「心理障害の人格構造」とは、ほぼ「アク抜きの構造」とイコールです。それだけ、このメカニズムは意識の構造を決める大掛かりな仕掛けです。

このメカニズムの下にある人格亀裂の崩壊とは何か。
来歴の中で蓄積したまま封印した、自己否定感情の膿が表面化することです。そしてその膿が「自分が知っている悪しきもの」という感覚と結びつき、「自分こそがその悪しきもの」という破滅を意味するかのような毒々しい自己否定感情の膿である「アク毒」という幻想的感情が膿のように出来上がっています。

これが「建設的であること」「生み出すことに生きる」「自己の真実に向かう」という姿勢の中で獲得された、人生を前に進む心の基盤の中で「放出」された時、障害感情の根本が消失し、脳の構造レベルでの人格治癒変化が生まれる
これがハイブリッドの見出した根本的治癒のメカニズムです。

そしてこの根本治癒メカニズムが発現する引き金が、「魂の望みに向かう」ことを行動化することによる「現実性刺激」だということになります。


これが、心理障害の根源構造と根本治癒についての答えなんですね。といっても、どう表現しようとしても、この何のことやら分からない言葉の羅列にしかならない。一体これをどう、専門用語は使わない方針の最初の心理学本で説明すればいいのかしらと。
だからとにかく、「魂の望みに向かう」ことで起きる、人格根底の崩壊融合の具体的な姿の描写を、とにかく出してみようと思うわけです。

ということで日記の紹介の続きを続けます。


魂の治癒成長への実践-39 / しまの
No.1207 2007/04/24(Tue) 18:30:30

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

次に紹介するのが、先の「建設的に生きる中でイメージをただ受け流す」時期からさらに1年近く経ったものです。
その間に、僕の人生での大きな節目の出来事があり、実際はそっちの方が大きな心性崩壊と感情の膿の放出となったのですが、まだそれはちょっと話せるものではなく、それから少ししてのものです。

2)「魂の望みに向かう」で最初に向かうのは真虚混合のごった煮感情

僕の中で、自分の人生でやり残したことを果たそうという意志が疾走し始め、その一つとしての恋愛への衝動は、心の中でちょっと乱痴気騒ぎの様相を示した時期が現れました。まあ世の恋愛乱痴気騒ぎよりははるかに真面目なものです、一応^^;

これは「魂の望みに向かう」という方向性の中で、一緒に引き出されてくる、皮相荒廃化した愛の感情や、「人間性を損なったとんでもない出来そこない」という「アク毒」の感情など、今まで「ふさわしい姿」といったイメージによって蓋をされていた魂のごった煮状態の感情を描写する例になると思います。

「魂の望み」だからと言って、それに向かった時に見えてくるのは、純粋な感情だけではありません。「あるべき姿」という心の殻でおおい隠されていた、皮相で荒廃した衝動も、「魂の望みに向かう」中で一緒に引き出されます。そうしたごった煮混合状態の中に、純粋な愛の感情もある。そして感情の膿も、これらとほぼ同じところにあります。
感情分析は、こうした「体験」の中で現れるごった煮感情を感じ分けるためにこそあります。

恋愛乱痴気感情に向かって行動化するのですが、あくまで今まで話したような、「建設的であること」「生み出すことに生きる」そして「自己の真実に向かう」という中での、自分なりの真の愛の形を探求したいという真剣な気持ちとして、僕はこうした行動を自分に許したのです。ちょっと弁明^^;
そうでない文脈でこうした恋愛行動の話を出しても、良くある恋愛騒ぎブログ(^^;)みたいなもので、「心と魂の成長」なんてのとはてんで無関係は話になってしまいます。

2003.10.27(月)
 土曜、△△さんへの感情の盛り上がりは大変なものだった。僕は彼女の動画をキャプチャーした画像を何枚も貼り付けた、大きな画像を作ったりした。彼女からのメールは結局土曜の3件のみで、日曜は、何か来るかという期待があったものの、結局来なかった。それで僕はせつなさを感じると共に、
彼女の中で自分があまり大切に見られていない、というイメージを抱いたのだ。あれだけ可愛い女性の相手ということで、自分よりいい男が沢山いそうな感覚がしてくるのは苦いものだった。
 それまで僕の中では△△さん以外の女性が心の中からすっかり消え去った感があったが、そんな気分の中で、きのうの夜は他の女性とも会う気になってきた。そこにはどうも、
手短かな情事関係をつまもうとするような気分も含まれているようだった。
 まあ今の考えとしては、やはり幅広く女性と会ってみるのがいいという気がしている。

 あるいは自分は、
カサノバのように女性の間を放浪する男の道があるのかも、と考えたりもした。
 さっき空想したのは、そんな感じで僕が軽々と女性と付きあって、そこでの体験を小説に書いたりする。それを見た○○さんが、
僕に対して「大っ嫌い」という言葉。僕は、彼女の態度をこれだけ変えてしまうことになる自分の原因というものについて、考え込む。そんな空想だ。

これは、「行動化の現実性刺激」によって、心の底に眠っていたさまざまな衝動が揺り起こされる様子を描写したものでもあります。
心の底に眠っていたさまざまな衝動が揺り起こされる。まず空想の中で、です。今まで思いもつかなかったさまざまな「気持ち」が現れてくる。自分がこんな「気持ち」になるとは、と感じるものが良くあります。

そしてその中に「魂の望み」に近いものがあれば、そこに向かおうという魂の感情も首をもたげてくることになるでしょう。
その時、これまで「望みの停止」によって非活性化されていた、この人間の人格根底にある亀裂が、衝突融合に向うかのように活性化されるのでです。まるで地層のはるか深くに眠っていた亀裂が、活断層として動き始めるかのように。


これが「魂の望みに向かう」時に通過することになる、心理障害の根本治癒メカニズムの発動になるわけです。
「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」の。
それは意識においては何が起きているのか分からない形で、つまりパニック状態で、基本的に起きます。

この日の日記の続きでは、そのように眠っていた亀裂が活断層化し、やがて人格亀裂の衝突によるパニック状態の中で感情の膿が放出される様子が、克明に描写されます。

恋愛乱痴気感情も、感情の膿と共に見事に飛び散って消えます。魂の純粋な望みの感情から離れたものから、捨て去られていくのでしょう。
ですから、今の僕にはこうした軽いノリの恋愛衝動というものは全くありません。一応。まあり難いことです^^;
アハハ..


3)「行動化による現実性刺激」が「魂の感情」と「アク毒」を揺り起こす

上記日記の続き。

まず皮相化した恋愛欲求が流れるのが描写されます。それが「魂の望み」とはちょっと違うものであることが、その感情と同時に「魂の女性」を浮かべた時に流れる苦い感情で示されます。また漠然とした悲しみは、皮相化した恋愛欲求によって魂の愛への願いが妨げられていることの表現です。
ここでは僕としては、まだあまりそれらが区別できていません。

やがて「アク毒」の感情が流れ始めます。

 朝出勤して、エレベーターに乗るとき、ちょっと清楚な印象の女性に目をやる。エレベーターに乗って、その女性を横に見る。目が合う。感情には揺れはなし。こんな女性でも相手として欲しい、と感じる。◇◇さんにも、平日の夕食にでも会いましょうという誘いをすぐにでも出したい衝動に駆られる。ちょっとでも感性が合うものがあれば誰でもいい、という気分を自分が抱いているのを感じる。それほどなら○○さんはどうなのだと考えて、少し苦いものを感じる。
 そのあと流れるのは、
漠然とした悲しみだった。自分ではその意味は分からないと感じながら、部の会議へ。
 Tさん(男)とKさん(男)が、金曜の宴会について、多分ボスのMさん(男)についてだろうが笑いながら話している。僕がまず感じたのは、
自分は今女性との出会いに関心があるのであって、彼ら男どもの話には興味がない、という軽い優越感を伴った観念だった。そのすぐ後、そうした自分が何か女性から非難と批判の目で見られる存在であるかのような感覚が起きた。例えば△△さんからだ。

これは「アク抜き」と「アク毒」のメカニズムを結構分かりやすく描写した例ですね。

いよいよ感情の膿がどっと流れ始めるのはこの後ですが、ここでいったんこの「アク抜き」と「アク毒」メカニズムの最新説明を入れましょう。ハイブリッドによる心理障害の根本治癒メカニズム理論の核となる部分です。


魂の治癒成長への実践-38 / しまの
No.1206 2007/04/24(Tue) 14:16:39

■「魂の望み」へと向かうための心の成長準備

先に紹介した「建設的に生きる中で心に映るイメージをただ流す」段階は、この後に続く「魂の望みに向かう」段階への準備過程とも言えます。
ハイブリッドの長い取り組み道のりとしては、「中盤」に位置付けられるでしょう。紹介した日記は僕自身の「ハイブリッド揺籃期」のものであり、当初のハイブリッド心理学としてはそれをほぼ最終段階のように捉えていたのですが、実はその後にこそ、人間性の根底からの変化への道のりがあったわけです。

それが「魂の望みに向かう」という歩みによってもたらされるのですが、その前に、これが何によって可能になるのかという、準備要件をちょっと考察しておきたいと思います。

それはひとえに、「未知の内面の力の増大」と言えると思います。
これは、これ以前の段階では、「自分に欲しかったこんな心」というイメージがあり、それを基準に自己評価して得られる感情とは、まったく別世界の感情だということです。それはそうしたイメージとの比較を全く伴わない、ただ自分が前に進む力を持つという、まっさらな感情です。

これから説明する「魂の望みに向かう」とは、これまでの人生ではほとんど考えられなかった、新たな行動領域に積極的踏み出すというのが、その外面的な表れになります。
そうした現実外面における積極性について、多くの方は、「自分に欲しいこんな心」が得られてから可能になる、というような漠然としたイメージを抱いているかも知れません。
しかしそれは根本的に違います。少なくとも僕が知る心の成長への道は。

ハイブリッドが見出している道は、それとはむしろ逆になります。
「自分に欲しいこんな心」という自己不全感情への答えは見えないまま、それが残っているのと平行して増大していく、全く未知の内面の力の増大が、その自己危惧感情を凌駕する時が訪れる、という形になります。
そしてそれが、「自分にあるべこんな心」という今まで抱き続けたイメージと衝動を、脅かし、危険にさらすことになるのです。現実の行動に出たら、自分はとんでもない姿を晒すことになるのではないか。その見まごうことのない恐怖が、取り組み課題として前面に立ちはだかるようになります。

その恐怖への取り組み指針は、先のカキコに書いた通りです。恐怖のために行動が不能な自分を、許すことです。
そして行動を諦めるケースもあるでしょう。それでいいんです。その自己および不完全性の受容の姿勢の底で、魂は自分自身に受け入れられた安心感の中で、成長を続けるのです。
そしてやがて、再び行動に出ることを自分に問いた時、増大した内面の力恐怖が拮抗する時が訪れるかも知れません。


■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

1)「最初の一歩」の手前にある「恐れの敷居」を越える

そうした「魂の望みに向かう」段階最初の例として紹介するのは、その歩みの最初のきざしの出来事のようなものです。時期としては実はまだ、先に紹介した「病み上がり状態」の頃です。
それでもこれが、「魂の望みに向かう」という最初のきざしの行動をした時の話ということで、そこで通過する恐怖の性質などを分かりやすく描写したものになると思います。

詳しい状況は省略しますが、2002年の「人生見出し体験」の後、交際相手女性探しに再び一時熱中した頃のもの。つまりまだ『悲しみの彼方への旅』の最後の頃に入っている期間のものですね。
まいずれ小説化などしたいと考えている、この1年後の「魂の望みに向かう行動」(これ自体は今回紹介はちょっとできませんが)への扉が開かれた時という感じです。
余談程度ですね。

2002.6.17(月)
 今日ようやく○○さんへのメールを出した。
 きのうの夜から、多くの人との出会いの場を増やしたいと考え、SくんやKくんに合コンがないかと聞こうかと考えたりした。それで今朝家を出る際に、ふと彼女の写真を見た時、忘れていた彼女が近しさを持ってまた映ってきた。身近な人間のつてで合コンの機会を持ちたいと言うのなら、今会って一番意味のあるのは彼女ではないか。
 それで僕は今日の会社での午後、メールを改めて直して、5時頃送信するまで、今本当に送るべきかと迷い、なかなか踏ん切りがつかなかったが..。送ったら
自分が何か精神的なパニックが起きるのではないかと考えもしたが。震える手でいざ送ったら、結構すっきりした気分。
 
もう、自分がどう行動するのがふさわしいことなのかを考えてから行動するのはなしだ、という気分。
 
犀は投げられた。これはオーバーか。


■「魂の望み」に向かうために根本的に重要になる「悪感情への耐性」

こうした「とにかく怖い」という論理的な中身のない恐怖は、むしろ取り組み上最後の方の、「魂の望みに向かう」段階でより鮮明になる、というのが今の僕の考えです。

なぜなら、それ以前の段階では、「心」が「魂」の恐怖感情に、「あるべき姿」からの解釈論理を貼り付けてしまうからです。人にどう思われるのが怖いとか、何々がうまく行かないのが怖いとか。

取り組み中盤の「建設的に生きる中でイメージをやり過ごす」段階とは、そうした「心」が作り出した恐怖の論理解釈を解体し、外面現実においては恐れるべきことはないという、建設的かつ原理原則的な知性を保ち、外面現実とは全く関係のない、純粋に内面的な恐怖感情を分離抽出する作業だとも言えます。

外面で恐れるべきものはない。恐怖は内面にある。この2つの認識が、来歴を通して心の底に蓄積した恐怖の膿を根本から解消するための、基本姿勢になるわけです。

その姿勢が恐怖を振り払う、のではありません。恐怖の真の克服は、「恐怖を感じなくすること」によってではなく、安全だという認識を保つ一方で、自分が「心の現実」として持つ潜在的恐怖感情を、ありのままに一度体験することによってです。
そうして実際に安全だという認識と同時に恐怖感情を実際に体験した部分において、恐怖感情というのは根底から消失するというメカニズムになります。

これを「安全だという認識で恐怖感を感じないように自分に言い聞かせる」という姿勢を取ろうとすると、多少はそれが可能な仕組みを、人間の心は持っているようです。
「感情の強制」の一バージョンですね。

そうすると、皮肉なことに、いつまでも恐怖は心の底でなくなりません。多分、その「方法」が役に立たないという以上に、「こんな恐怖を感じてはいけない」という自己否定の態度を持ち続けていることが、恐怖の真の克服ができない理由だというメカニズムになると思います。その自己否定の態度とは、結局心の底では安全を感じることができない状態ですから。

これは特に「感情の膿」という厄介な代物の克服に言える話です。これが絡まなければ、まだ、知性と思考法だけで多少の恐怖克服も可能なものがあるかも知れません。

しかし、膿は流した分だけしか減らないです。そして感情の膿は、以前なら基本的に耐えられずに精神崩壊するかのような「感情を越えた恐怖」です。
「減らそう」と考え、「流そう」と考えて、流れるものではありません。これまでに述べた、「建設的であること」「生み出すことに生きる」そして「自己の真実に向かう」という、心の土壌をより純粋で強いものへと成長させる方向性の中で生きることで、結晶が育つように、「本性」がその恐怖感情の強さとそれを超える心の強さのトレード・オフを判断した上で、自然に導くことなのです。

上の例では、まだ「心の殻」破る前の、「魂の望みに向かう」方向への最初の一歩を踏み出す前の恐怖ということで、何よりもとにかく前に進むことが、その恐怖を消していたものです。
「心の殻」は、その先の「魂の望みに向かう」方向への、実際の行動による「現実性刺激」が破るように思われます。そして感情の膿が流れ出します。今までのどの段階よりも、「純粋な」感情の膿がです。
その例を次に紹介しましょう。


魂の治癒成長への実践-37 / しまの
No.1205 2007/04/23(Mon) 17:45:25

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例

次に紹介する一連の感情分析は、先に紹介した最後のものから半年以上過ぎてからのもので、もう「病み上がり感」さえほとんどなくなった段階でのものです。
実はその半年間に、僕の人生上かなり大きな節目となる出来事が入っています。前に紹介した段階から今度紹介する段階への変化がどのように起きているのかの詳細が、僕自身かなり興味ある話ですが、ちょっとそれしている時間ないので、とにかく次の段階の「治癒現象」例を。

まあこの2つの段階の差は、建設的に生きる過程がさらに進み、外面現実世界での自信感も増えると同時に、紹介したような感情分析で膿を出すようなことも何度も通過し、感情の基調がさらにしっかりと上昇したという、基本的な流れを考えればいいと思います。


■真虚混合の「望み」の中にある一片の建設的要素へと向かうことが「心の殻」を突破する

「望みに向かう」ことが心の成長だという理解の上で生きている段階です。ただし、この「望み」はまだ多分に「心が描いた願望」であって、「魂の望み」の感情ではありません。まあほんものと偽ものの混合状態という感じです。
それでも、そこに「現実において生み出す」という一片の建設的要素があれば向かう。その姿勢を僕自身として確固に確立した頃です。

こうした行動は、今まで「じっと自分に見入る」姿勢の中で、「心に張った殻」の中で守っていたものを突き破るような、その中身が何か以前の、今までとは違う世界に自分が向かうという、見まごうことのない恐怖の感情を通過することに、まずなるように思われます。

これはつまり、「どう見られるか」という意識を一種の殻のように身にまとうことで、ありのままの自分が直接「現実」に触れることから身を守っていたような状態が、今まであったということです。
自分が望みに向かうかどうか、「どう見られるか」によって考えていたわけです。これは「自ら望む」ではなく「人の目を通して望む」ですね。

「人の目を通して望む」が、「自主性の欠如」であって望ましくない、とお考えになるようなら、実はそれが「人の目を通して望む」という心の中で動く思考かも知れません。結局「あるべき姿」から考える姿勢。「自主性ある姿」になるよう、望みに向かわねば。
これは「破壊モード」思考ですね。大抵、先回りして「望み」がない振りを自分に対してすることになりがちです。その方が安全ですから。


■「望み」に向かう時に通過する「恐れ」の感情

ではどうすれば自らの自主性を育てることができるのか。望みに向かうことです。そこに一片の建設的要素があるならば。これが「建設モード」思考になります。

すると、それを妨げるものは、「恐れ」になるように思われます。これは「自分があるべき姿ではない姿」になってしまうのではという恐れもあるとして、ほとんど論理性のない恐れでもあります。

この恐れの感情を受け入れることが、「自己受容」として極めて重要な側面になります。なぜなら、この時、初めて、人は自分が抱く恐れのありのままの姿を知ることができるからです。「恐れを感じるのを恐れて」、自分は望んでいないという姿勢を取るのが、最も基本的な「自分についた嘘」です。

人は「恐れの克服」を、恐れの感情を心の中で力づくで抑えることに成功することだと、大きく勘違いしがちです。そのために「気のせい」といった思考空想を使おうとする。それでは「恐れの克服」はできません。なによりもその姿勢は、自分のありのままを受け入れない姿勢だからです。自分自身に否定された心は、いつまでも危険下にあると感じ、心の底の恐れを抱き続けます。
そうではなく、恐れを感じる自分を、ありのままに、十分に認めてあげることが、「恐れの克服」の第一歩です。恐れる自分が自分自身に受け入れられる安心感が、まず生まれるからです。

そして、恐れのために行動ができない自分を、許すことです。自分自身に受け入れられた魂が、安心感の中で成長を始めるんですね。それが恐れを根本的に突破する内面の力を、やがて生み出すわけです。
これは世の人が考えがちな「恐れの克服」とは、反対かも知れませんね。

そうした「恐れ」の感情の通過例を、2つほど紹介しましょう。
前振りだけでちょっと長くなったので、いったんカキコ。


魂の治癒成長への実践-36 / しまの
No.1204 2007/04/23(Mon) 16:38:50

「イメージの嘘を建設的姿勢の中でやり過ごす」段階の感情分析例は、以上で終わりにしておきましょう。次に紹介するのは、そこで突破されなかったものがさらに突破される段階です。

それを踏まえた時、「欲しかったこんな心」という感情がどう位置付けられるかをざっと考察しておきます。例によりかなり視点が錯綜し、ちょー難解な話となると思いますが、まとにかく今は僕自身の頭の中の整理ということでご了承あれ。
最初の心理学本は、こうした話を踏まえた、平易な言葉だけで綴られた、魂に染み入る解説を書きたいと思いますので..


■「こんな心が欲しかった」という「イメージの嘘」の本尊

「自分にあるべきこんな心」というイメージこそが「イメージの嘘」の最大の本尊だと先に述べました。
(参考:4/17「魂の治癒成長への実践-32」)
事実、こうして紹介した一連の感情分析から最終的に見えてくるのは、「こんな心が欲しかった」という感情です。それがほぼ全ての自動感情の起点になっていることを見ることができます。

感情分析においてはその先はもうなく、あるのはただ、その感情が行き場のないものとして「意識破綻」の中に飛び散っていくことだけです。
「こんな心が欲しかった」という自分の感情を自覚するとは、結局のところ「そんな心の持ち主ではない自分」を自覚するということです。感情は一時的に悪化し、「根本的に人間性を損なった自分」という、幻想的な自己像が現れます。これが「アク毒」と呼んでいるものの「放出」のメカニズムです。

先に述べた通り、こうした感情分析が治癒メカニズムの働きを促すのは、本人の根本的な生きる姿勢において「建設的であること」が選択され、そして実際にその方向において生きる体験の積み重ねが、心の一時的な状態変化に動揺することのない「現実において生み出す」という自尊心の基盤を獲得していく中で、ということになります。

より具体的に言えば、「人にどう見られるか」ではなく、「楽しみ」と「喜び」そして「生み出すもの」の共有を、対人関係のベースに置く姿勢です。仕事においても、自分がどう評価されるかではなく、自分にどのような「価値の創造」が可能かを考える姿勢であり、人生においては、それらの総合として、人の目の中でいっぱしの何ものかになることではなく、自分が人生で生み出すものにおいて生きるという姿勢です。

そしてもう一つ加える必要のあった方向性が、「自己の真実に向かう」という姿勢でした。
「建設的であること」という「生きるノウハウ」への現実的な答えに加え、「自分についた嘘」という心理障害メカニズムによる罠を解くことが、心の治癒成長におけるもう一つの大きな軸になるわけです。

それが今まで紹介した感情分析例では、次のように解かれて行ったわけです。
他人の陰険さ」→「感情強制問題」→「敵対攻撃感情」→「人生への嫉妬」→「自分にあるべきだったこんな心」→「欲しかったこんな心」と。
次第に、より根源的な感情へと遡っているのが感じられるかと思います。


■「魂の望み」が捨て去られ「心の願望」が代用品として生まれる

ただし、この段階では、その以上の根源は見えてきません。もう一段階、内面の基盤が強くなる次の段階を待つ必要があります。
その次の段階で見えてくる、より根源的な感情が、「魂の望み」の感情になります。

つまり、今紹介した段階で最後に行き着いた「こんな心が欲しかった」という感情は、魂の感情ではなく、魂の感情を捨て去った「心」が人工的に描いた「自分が望むもの」への感情だということになります。

これまで、「望みに向かって全ての可能性を尽くす」過程が心の成長を生み出す、という表現をしてきました。
しかし、「心理障害」という人間の心の罠のメカニズムは、心の成長にかかわる最も基本的な「望み」という感情において、自分が求めたものとは異なるものを求めさせるという、根源的な嘘のメカニズムを最大の基盤として持っているようです。
そしてこれは、「病気」ではなく、人間の「心のメカニズム」であるわけです。かなり基本的な。
現代に生きるほぼ全ての人に、このメカニズムが足を忍ばせているのを感じます。

そしてそれは自ら解こうとして解くことはできません意識的にできるのは、「建設的であること」「生み出すことに生きる」そして「自己の真実に向かう」ことだけです。自分で意識して解こうという考えが起きるのは、まさにこの心の罠が生み出した、それらの姿勢とは対岸にある姿勢の歯車を回すことを意味します。
対岸にある姿勢とは、「あるべき姿」を掲げ、それに満たないものを「それで駄目だ」と「破壊」を向けること。つまり「破壊的であること」「見下すことに生きる」という姿勢になるでしょう。

これは「建設的であること」が、「不完全性の受容」を含むと言うことができます。なぜなら、「生み出す」ことに価値を置く時、必ずまず「現実」に立脚する必要があるからです。そして「現実」とは、「人間」とは、不完全なものです。


■「現実覚醒レベルの低下」という「病理」が解かれる時

では何が、「自分についた嘘」の最も根底である「欲しかったこんな心」を突き破るのか。

それが心の「本性」です。これはもう知って使うという性質のものではありません。
不純物を取り除いたものをある条件下に置いた時に、人間の技をはるかに越えたような、複雑で美しい結晶が生まれ育つという現象があります。これはそれが持つ「本性」なのです。結晶を作る技術を得てそれを作るというような話とは、根本的に違うのです。

これがもう一つ、治癒メカニズムにおける大きなテーマに関連します。
「病理」というテーマです。より具体的には、「現実覚醒レベルの低下」という問題です。心に映されたイメージを信じ込む度合い。

建設的であること」「生み出すことに生きる」「自己の真実に向かう」という「姿勢」は、意識して分かることです。どんなことなのか考え、イメージして(まあこれが罠にはまりやすいわけですが)、取ることができます。
しかし「現実覚醒レベルの低下」は、意識しても分かりません。我々の意識は、その中に住まわせられており、その中でしか動きません。意識から意識の外側を眺めて、「現実覚醒レベル」が低下しているから覚醒させなければ、という思考はあまり現実的ではありません。

ただし、これは書いたことがありますね。夢の中で夢から醒めようとする思考があり得ます。そしてそれが実際に目を覚まさせる効果がある時があります。
これが心理障害からの治癒成長にも、当てはまるようです。

「欲しかったこんな心」という「心の願望」が生まれることが、ハイブリッドの魂論からの、障害の根源メカニズムになります。
それによって、本来の魂の成長とは全く違う、あらぬ方向を向いた心の構造が生まれる。そこでは「心」は「自分」からはがして宙に浮かせて眺めるような、そして人に見せびらかすような、「飾り」のようなものになります。そうして「心」が「心」に見入って、現実を生きることを知らなくなる。自分自身の中に屈折した人間の姿ができあがります。

この「屈折度」というものを言うことができるように感じます。それがそのまま、心理障害の「病理」の程度ということになるでしょう。これも詳しく説明しているとキリがなく、ごく簡潔に。

第1度...魂の望みの感情が捨て去られ、「欲しかったこんな心」という「心の願望」が生まれる。これは「性格の歪み」という次元のベクトルとして、広範囲に現代人に見られる段階になります。
第2度...「自分を反面教師とした理想」が描かれる段階。心を見せびらかし他人を見下すという攻撃性を、自分の心の中で抑え、そんなもののない純粋な心を理想として掲げます。これは「一般的」な心理障害レベルの病理の基本ベクトルになるかと。
第3度...他人全般が反面教師になります。人間なんて汚い動物。これは精神障害レベルへのベクトルになるように思われます。

ということで、 「建設的であること」「生み出すことに生きる」「自己の真実に向かう」という意識的実践と、「生み出すことができる」という心の基盤の成長に加え、もうひとつ「病理の解消」というもう一つの話がクロスする、とても難しい話に、結局なります。

その先で起きる結晶の成長について、具体的描写へと移りましょう。
何が意識してできることか、何が生きる過程で発現される「本性」に委ねるべきことなのか、といったややっこしい話を考えていくにせよ、その先に生まれる結晶の姿を知ることが、何はともあれそこに向かうという動機と意志を、与えてくれると思いますので。


魂の治癒成長への実践-35 / しまの
No.1203 2007/04/22(Sun) 16:07:31

■実例描写1:映される「イメージの嘘」を建設的に生きる基盤の中でやり過ごす(続き)

他人の陰険さ」→「感情強制問題」→「敵対攻撃感情」→「人生への嫉妬」→「自分にあるべきだったこんな心」という風に、来歴の中で連鎖蓄積した感情をより前のものへと遡っているわけですが、さらにその先のを紹介します。

日記全体から選ぶのはあまりに手間が大変で今回そこまではやらずですが、時間の合間にやってる日記読み返しがちょうどこの「ハイブリッド揺籃期」になっており、最後に読み返した部分は感情分析の進行を描写した良い例にもなりそうなのでちょっと長めに引用してみます。
数日かけて感情分析が進行し、最後に「自己操縦心性の崩壊」と「アク毒の放出」の小規模のものが起きているという感じです。

今説明している「イメージの嘘」としての「自分にあるべきこんな心」というテ−マとしては、先の紹介例は「自分がそれを欠いている」という感情でした。
それをさらに遡る。「自分はそれを欠いている」の前。それは「こんな心が欲しかった」という感情になるわけです。

7)「欲しかったこんな心」という感情の分析は「意識破綻」へと至り「アク毒」が放出される

2003.6.5(木)
 朝出社してから、比較的強い悲しみ感が起きている。最初入り口のドアを開ける時、僕はそれを何か単なる瞬間的な「ずれ」の感覚として感じた。今日もスケジュール上急いでやるべき作業はなく、会社のスキル研修のページを見ているうちに、悲しみの感覚が継続的な感情として湧いているのを自覚する。
 その間にあったのは、XX(
「唯一自ら申し出て心理援助をしたボーダー女性のHP」)を開いて、掲示板でNさんの出産報告にSさんが“すごいね”とかレスを入れているのを見る。それからTさん(男)がHISのビラを広げて、僕に“海外でスキーは?”とか聞いてくるのに対して、“どこでも同じだから..”とか答える。
 2つとも少し、
自分が“対話を楽しむ価値に背を向けている”という感覚が伴っている。この感覚が悲しみ感の原因だろうか。そう言えば、さっき加藤さん(男)がMさん(女)に“いい天気だね”と言ったのを、何もわざわざそんなことを、と考えたりした。
 一方で“会話を楽しむ”という意識があり、一方でそれを冷笑というか軽蔑している意識がある、ということか。

 午前中、悲しみ感は続いていて、
泣いているような感覚も伴っている。そんな中で意識したのは、この今の自分が、少し前までに意識した、“人の前の自分”とは違うという感覚だった。当面一番気になる相手としたら嶺村さん(仮名。『悲しみの彼方への旅』でも登場した初恋女性)だろう。彼女の前で、僕は、「すっかり心が健康になって明るい」人間として再び数年ぶりに再会することがイメージされていたのだ。明日の会社のセミナーで久しぶりに前の所属組織の誰かに会うかも知れないと考えた時に「想定」された自己像もそうだった。それについて僕には少し気後れ感があったのだ。あまり人と顔を合わせたくないな、と。Oさん(前の所属組織での上司)の目から見た自分として想定したのも、そうだ。

 帰りの電車、悲しみ感は消えておらず、その分確実な感情として感じられる。
自分が思った人間ではなかった、という実感。電車の中で、背が高く結構美人な、いかにも自主性豊かで感情表現豊かそうな女性を見て、何とも沈んだ感情を感じる。あんなもの(つまり「あんな心」)があったら..という心境をしみじみと感じる。

という感じで、「自分にあんな心があったら」という観念が露わになる。
「あんな心があったら」どうなれると言うのか。これも一つ考察ポイントになります。これは次のカキコでまとめて考察しましょう。

詳しくは次のカキコで説明しますが、「魂の望みの感情が否定され捨て去られ、代わりに欲しい心のイメージが現れる」というメカニズムになります。この翌日の日記では、イメージの前にあった、捨て去られた魂の望みの感情に近いものが描写されますが、やはりまだ「イメージの望み」にとどまります。魂の望みの感情そのものの回復は、心の基盤がより強くなっての、次の段階になります。

2003.6.6(金)
 朝の電車の中、自分の後ろで喋っている男女の声に耳を惹かれる。落ち着いていて、それでいて楽しそうな喋り方。女性の方の声にはしみじみとした愛情感がある。“ふ〜〜ん”といったあいづちの中に、
愛が乗って運ばれるようなイメージを頭に描き、僕はそれが自分の来歴を通じて欲しかったものであったのを自覚する。ストレートな悲しみが沸き起こる。

感情分析の進行では、そうした望んだイメージが得られないことへの荒廃感情の側面が次に現れるという流れがかなり良く起きます。感情が一時的に悪化する場面ですね。苛立ちの気分が前面に現れてくる。
それが次の日記。

同時に、「自分についた嘘」があったことがはっきり自覚されるのも、大抵そうした荒廃感情を伴いながらという感じに良くなります。「自分についた嘘」によって得ようとしたものがあったわけで、「自分についた嘘」を自覚するのは、同時に、それが得られない感情を自覚することを伴うというわけです。

2003.6.9(月)
 朝から
何となく不機嫌な気分を感じている。会社に出勤してからも、何となく苛立ちがあり、やる気も出ない感覚が続く。最近にしては珍しく、とは思うものの、「ずっと猶予状態であったものがそうではなくなった」という感覚もある。「休み明けの悲しみ感」というよりは、もう少し中身がしっかりした感情という感じである。
 朝起きた時にふっと感じたのは、
「人に見せるための明るさ」だった、といような観念だった。「楽しい、嬉しい気分の中にいる自分」が、だ。例えばそれは嶺村さんに見せるためにあるもののように、ある時にはイメージされていた。

こうした流れの中で、「恐怖感情の膿」の側面もちょっと現れています。
「自分にあるべきだったこんな心」という感情は、感情の膿も背景にして、苦しみの中で求めるかのような感情の色彩を示すようになります。

2003.6.10(火)
 午後4時前、歯医者に行くことをMさん(女)に言付ける時、
緊張している自分に気づく。内心の緊張が表れてしまうかと考えながら声を出すと、それはやはり現れている。それでちょっと体が震えだす、という感じ。どうやら何か(つまり感情の膿)があるらしい。
 そう言えば最近、喉の詰まり感が気になっているなと感じる。打ち合わせでは、相手の話の中身のなさに内心嫌気があるというのもあるとは言え、
自分が“感情的に閉ざされた態度”を見えている、という感覚がある。

 歯科の診察が終わって受付で待っている時、先に受付をしている2人の男性の様子を見ている自分。そこには明らかに、
羨望を若干含んだ観察評価の目があった。「彼らは閉ざされていない。だが自分は..」という意識だった。湧き上がる、「自分は駄目だ..」という、自らに押し込まれた自分のイメージ。
 人にどう見られるかなど、もう自分はあまり気にしないだろうと思っていた。だがその一方で浮かんでいたのは、
緊張することも、高ぶることもなく、内面の素のままに人々に語りかけている自分の姿だった。僕にはそう見える自分が、あまりにも欲しいのだ。いやそれは、「次の自分」がそうなる必要があるものだった。

これは一連の感情分析がほぼ完結する段階に来ている感じです。感情分析がほぼ完結するとは、それらの感情が行き場と出口のない、袋小路にあることの自覚であり、そうした感情が「意識破綻」の中へと飛び散って消えて行くという感じになります。
ここでは同時に、自分が自らの心の中で抑えることで否定していた、人間性を損なった利己的衝動を持つ自分のイメージが現れてきています。「アク毒」の色彩が若干あるものに思われます。
同じ日の日記の続き。

 
苦い感情の中、帰りの電車のホームで、何とも真面目そうで、結構美人だが、でもいかにも結婚しそびれている感じの女性を見る。僕よりいくつか年下か。「自己の制止」を外してそんな女性にアプローチでもしたら、結構うまく行くかも知れないという観念が浮かぶ。
 しかし、そんな観念の中に浮かぶ、女性を前にした自分のイメージは次第に飛散してしまう。そしてまた孤独の中に閉じこもる自分のイメージ。そんな僕に非難を向けながら惜しむ女性のイメージが残る。
 なぜ僕はその“愛”に背を向けるのか。この感情からはそれは見えない。ただはっきり言えることがある。それは違うのだ。それは愛ではない。ありありとしたその感覚が、僕に孤独を選ばせてきた。


日記の読み返しは今ちょうどここまでで、この後の部分はまだじっくり読み返していませんが、感情分析の流れとしてはここで途切れている感じになっていると思います。自分の心に浮かぶそうした感情をどうするかという答えも出そうとしないまま、それらは意識破綻の中へと消えていくわけです。「感情と行動の分離」によって、答えを出すのは外面現実への思考行動における「建設的であること」のみであり、内面感情には答えを求めることさえもしない姿勢がすでにあってですね。

そうして、数週間くらい後に、さらに一段階上昇した開放的な気分が基調になっているという流れになるかと。


■「建設的であること」と「現実において生み出す強さ」が感情分析を導く

「自分にあるべきだったこんな心」というイメージの位置付けについては次のカキコでまとめて考察するとして、上記紹介のような感情分析進行が、何によって導かれるのかを簡潔に書いておきましょう。

それは「建設的であること」を自らの生きる方向性として選択する姿勢です。そしてその上で獲得していく、「現実において生み出す強さ」という心の基盤が、それとは異なるものを求めた、心の底に埋もれた感情にメスと光を当てることになるわけです。
その結果、人の技を超えた、結晶が生まれるような変化の過程が、もはや意識的操作なしに、心の本性として現れるということになるのでしょう。
そうしたものを背景にせずに、こうした事例の表面だけ見て「感情分析をすれば心が良くなる」と考えて自分の中にじっと見入ろうとしても、全くあらぬ方向での結果を招くだけのような気がします。

そしてもう一つが、「自分についた嘘を解く」という基本的姿勢です。
これが「実践メニュー」において、「思考法行動法」「根本的な生きる姿勢」「深層感情への取り組み」という感じの3つの実践を整理しているわけですが、最初の2つが「建設的であること」の2つの深さレベルでの実践として、それに加えることとしてあるのは、「自分についた嘘を解く」だけだという話になるわけです。

それでどのように「心が良くなる」のかも概観しましょう。
まず建設的な心の基盤が、感情の基調を良くします。その中での感情分析は、断片的な気分の悪化を捉えるメスの役割をする。その中で膿が放出され消える。数週間くらい後に、さらに開放的な気分が基調になっている、という流れです。

「感情分析によって心を良く」という短絡的な話とは大分違うものであることが分かるのではないかと。


魂の治癒成長への実践-34 / しまの
No.1202 2007/04/19(Thu) 17:11:58

■実例描写1:映される「イメージの嘘」を建設的に生きる基盤の中でやり過ごす(続き)

5)敵対攻撃衝動のさらに底にある「人生への嫉妬」の感情分析例

先にカキコしたように、僕自身の日記から紹介する感情分析の流れは、「他人の陰険さイメージへの入れ込みの減少」→「感情の強制の根底からの放棄」→「敵対攻撃性の感情分析」と、次第に根底感情に向かっているわけです。

次に紹介するのは、そこから数か月後のもので、内面ではそんな感情分析しながら感情の基調の向上内面の力の増大は順調急速に進み、ハイブリッド心理学の揺籃期とも言える時期を過ごしている中でのものです。

「自分にあるべきだったこんな心」という観念感情が鮮明になってくるのですが、その前に、「人生への嫉妬」の感情も鮮明に心に浮かぶのが観察されています。
この流れをサマリーすると、「他人の陰険さ」→「感情強制」→「敵対攻撃感情」→「人生への嫉妬」→「自分にあるべきだったこんな心」となるわけで、心理メカニズムとしてはこの逆の順番で連鎖発達すると考えることが可能です。
感情分析は、実にメカニズム的な正確さで、そうした連鎖を逆にたどる形になるわけです。

長い取り組み道のり全体としては、こうした連鎖をたどる感情分析をスパイラル状に繰り返していく形になります。もちろん「人生への嫉妬」感情など、この時初めて自覚したものではなく、『悲しみの彼方への旅』の時期からで、初期においては心の全てを覆い尽くす形で翻弄されるものになりますが、治癒成長の前進に伴い、その強度を減らして行き、やがては心の片隅に映る小さなTV映像のように、心への支配力を薄めていきます。

そうした最初から最後まで、同じ感情の歯車が回り続けます。書いたことあると思いますが、「目の前に見える感情は良くならないまま足元の方が強くなっていく」
そうして薄くなった感情は、最後に、ある体験の中で、まるで蜃気楼が突然消えるように、明瞭な消失に至ります。「いつの間にかなくなる」ではありません。明瞭に、「今消えた!」とはっきり体験される時があるわけです。それが分からないうちは、残っていると考えて間違いないと思います。そうした明瞭な解消体験は次の段階のところで。
それだけこれは、「気の持ちよう」の話ではなく、脳内で起きる何かの構造変化なのだという感覚を、僕としては持っている次第です。

感情分析の専門的な前説が長くなりましたが、まず「人生への嫉妬」の感情が見えたのを書いた日記から。

2003.2.5(水)
 退社時刻頃、隣の席のMさん(女性)とTさん(男性)がビルの1階で待ち合わせをする言葉を交わしているのを横で聞き、ちょっと心臓をきゅっと絞るような、かつて良く感じた感覚の残滓のようなものが僅かに走るのを感じる。
 その少し前には、Mさんが隣のGさん(男性)と話していて、まるで何でもないことを大げさに、「なにこれ笑っちゃう〜」という感じで、お喋りに熱中しているのを横にして、以前だったら僕は怒りを感じていたなと、その怒りではなくかつての自分自身そのものの感覚の残滓のようなものを感じた。
 その怒りとは、
自分が見下して捨てた、でも内心ではまだそれを欲しい気持ちがあるものを、自分の目の前であからさまに持っている者への怒り、とでも言えるようなものだった。

 退社のため席を立つ時にはもうGさんも帰った後で、久しぶりに顔を見せたKさん(男性)もいなかった。そして、彼らが皆で飲みに行ったのでは、という連想が起きた。これも以前によくあった感情の残泡のような感覚だった。
自分ひとりを置いて、回りの人たちは楽しみの場に向かう。人は僕のいるのを知っていた。だが誘わなかった。人々の楽しみの場から閉め出されたという感覚。それは「人生の羨望」であり「見捨てられ感情」だった。その残泡のようなものがまだ自分の中にはあるのかも知れない。
 その時に起きたもう一つの観念が、
「僕には心理系の書きものがある」と、「自分を閉め出した人々」に対抗するように考える自分の姿だった。

最後の文章は、「自分にはこれがある」という観念が、何か望んだものを得られない挫折と嫉妬を塗り消すための「代用品」として生まれるというメカニズムが働いているのが描写されています。このメカニズムも結構影響範囲が広いものに感じられます。

6)「人生への嫉妬」のさらに底に「自分にあるべきだったこんな心」の観念がある

この時にはもはや、そうして自分の中に浮かぶ「人生への嫉妬」の感情は心を揺るがす強さを持つものではなく、僕としては心のスクリーンに映されるものをただ眺めている感じです。
同時に、その感情が今の目の前の現実とはおよそ無関係の、心に置き去りにされた遠い感情のなごりでしかないことも、はっきりと自覚されています。なぜなら、そうしたなごりの感覚を自分の心に見る一方で、そのメンバー達と飲みに行くことに自分は全く関心を持っていないことを、自覚しているからです。

置き去りにした「イメージへの感情」をありのままに見据える同時に、それとは別の「現実への感情」を保つ。この全く別世界の2つの感情を同時に見続けることが、心を「未知」へと近づけます。

この場合の「未知」とは、さらに深く閉ざされて自分自身で無自覚になっていた、「望んでいたもの」への感情であり、「自分にあるべきだったこんな心」がその深奥への道しるべのように、心に映されます。

2003.2.13(木)
 どうも、
空虚な悲しみ感がある。仕事にしても、心理系の書き物にしても、何かやる意味が感じられず、意欲が全く起きないのだ。
 仕事について言えば、自分の作ろうとするもの、生産性向上とか情報共有化とか、それが何を生み出すのか、という空虚感。はっきり言えるように思えるのは、以前はそれが何か自分の能力の証明であるかのような「もの作り」への意欲が、時に高揚感を生むほどに存在していたが、今はほとんどないということだ。
「それができる」ことを証明するものが作れたとして、それが意味を持つ場というものがなければ、意味はないと思うのだ。以前はそれが、自分の頭の中で人々から評価される場のイメージのようなものだったと思える。
 今は、仕事については、要求に対応できる最低限の時間だけを割こうと考えるようになっていたが、そうなると今の仕事はあまりにトリガーがなさ過ぎるということか。
 当面は要求に応えることをトリガーとするので良いとしても、活動の意味、何に役立つことをしようとしているのかを意識することが必要になるだろう。

ちょっと解説をはさみますと、ここでは、「人々から評価される場のイメージ」が、自分が何かの作業に意欲を感じられる前提になっているようだ、ということを僕は自覚していたわけです。
そのイメージが消えると、意欲が見えなくなってしまう。魂が求めて行っている行動ではないと、そうゆうメカニズムになると言えるでしょう。上に書いたように、「代用品」でしかない部分が、そうした感情の揺れを起こすわけです。

もちろん僕にとって、執筆は魂が求めて行っている部分が基盤になっているのはこの頃もそうであって、いつもここに紹介したような気分でいたわけではありません。だとするとハイブリッド心理学もできてない^^;
それでも心の膿が「ある」ならば、必ず生活の断片でそうした揺れが起きます。それを感情分析していくわけです。

自分から何かを引き出すという姿勢で行うのではありません。「ある」ものを見る。それだけです。すると、心に埋もれたのとは逆の順に、来歴でより早期に生み出された感情が見えてくるわけです。
「自分にあるべきだったこんな心」という観念が、「人生への嫉妬」のさらに底に見えてくるという次第。
同じ日記の続き。

 心理系の書き物について、スキーが入って中断した感もあるが、書こうとしている対象そのもの(心理の世界)が遠ざかっている感が強い。自分自身の問題としてはもうあまりに遠い過去になろうとしており、また同じものを求めている人間がいるという感覚も消えている。誘因が消えているのだ。
 そうして考えてみると、
自分が人との濃い接点というものを実際ほとんど持っていないのに気づく。孤独の中にある自分を感じる。
 
これを埋めるものとしてイメージするのは、人との会話を楽しむ心..隣のMさんがGさんとかを相手に休みなくくっ喋っているのを横にして、まさに自分がそれを欠いているという感覚が際立つ。
 そう言えば、月曜の菅平からの帰り、都内に入ってK君(男)とHさん(男)のお喋り(血液型とかの会話)に疎隔感(久々の言葉!)を感じ、K君の声の大きさに閉口したりした。
お喋りを楽しむのとは逆の方へ僕の気分は動いたのだ。
 空虚な悲しみ感は、それをきっかけに始まったのではないかと思えてくる。

「敵対攻撃衝動」の底には「人生への嫉妬」があり、そのさらに底には「自分にあるべきだったこんな心」がある、ということになりますね。
そして何のために「こんな心」が必要になったのか、というさらに底が出てくるわけです。

その「心の問題」の真の根底とも言えるものへのつなぎになる部分を次に。


魂の治癒成長への実践-33 / しまの
No.1201 2007/04/17(Tue) 15:27:14

■実例描写1:映される「イメージの嘘」を建設的に生きる基盤の中でやり過ごす(続き)

4)「感情の強制」が根底から捨て去られる時

「自分にあるべき心」という感情が分析された例の前に、もう一つ別のを入れておきたいと思います。
僕の中で「感情の強制」が根底から捨て去られた感情分析体験の例です。

順序が入れ子になりますが、時期としてはさっきの、
3)他人に映された「粗暴な人間性」をただやり過ごすがあり、
その後にこれ
があり、次に
1)子供への抵抗感の原因分析
2)女性から嫌悪の目を向けられる感覚の原因分析

そしてその後に、「自分にあるべき心」という感情の分析と続きます。

このような感情分析の進展は、次第により深層根底の感情に向かうという、裏のれっきとした法則性があります。ここでは、「他人に映された陰険さイメージへの入れ込みの減少」→「感情の強制の根底からの放棄」→「敵対攻撃性の感情分析」という風に、自分自身で認め難い感情への防衛が捨てられて次第にその根底感情が探られていくという流れです。

ただしこうした順序はそんなに厳密なものではなく、取り組み実践上も意識する必要のあるものではありません。
特に「感情の強制の解除」などは、ここで紹介している時期よりはるか前段階から、例えば『悲しみの彼方への旅』で描写した頃からも、その存在の自覚などはされていたと思います。

繰り返しになりますが、感情分析を進展させるために必要なのは、感情分析そのものへの努力ではなく自分の感情のあり方に依存しない建設的価値観の検討です。それが成される部分において、感情分析もほぼ自動的に導かれます。
その具体的な思考手順のテクニックみたいなものは、ちょっと掲示板解説で書いている余裕がなく返答メールなどに散りばめているのが現状で、最初の心理学本には盛り込みたいと思います。とにかく、治癒成長の根本の理屈の記述を済ませるのを急ぎたい。

で、「感情の強制の根底からの放棄」ですが、その裏には、「感情なんてものは不埒なもの」という、「感情」そのもの全体に対する不信感のようなものが、僕の中にどうやらあったのが一因だったようです。
「あるべき感情」を抱きながらです。いや実は、「ありのままに湧き出る感情」への不信が心の底にあったからこそ、そうした、感情を人工的に描くという基本的なイメージ機能を使うようになったのかも知れません。
それが解かれていく感情分析体験例です。

まずは「感情への不信」の感情を自覚した記述です。

2002.10.9(水)
 きのう寝る頃になって、幼少期の自分にとっては、「感情」そのものが“受けどころのない不埒なもの”であったのを感じた。楽しみの笑いは気取ったあさはかなものとして軽蔑され、怒りは収まるところのない、手に負えないものだった。感情を持つことは一種の不正、悪のように感じる感情があったのだ。感情というものを何か人間として劣ったものと感じる感覚があった。


こうした「感情への軽蔑」は、「望みが見えない」という言葉を語るケース、否定的傾向が全般的に蔓延しているケースで結構重要な要因になっているかも。

その翌日の日記では、さらに進展したものが見えてきます。
このガードを取り去った時、いったい何が現れるのか。いかにも精神分析のダイナミズムを思わせる、「心の底に何かがある」という強い匂いを感じさせる記述になっています。

2002.10.10(木)
 ちょっとした人との接触でも、「人の感情」に対しては、同じように感じなければならない、「共感しなければならない」という感覚がまず自動的に起きているのを自覚する。そしてその後、“自分の感情”はもう見えない、というものだ。
 自分にとって「感情」とは何なのかと考えていて、人からの期待とか怒りとかを思い浮かべると、“人間の感情なんて腐ったものだ”という観念が頭の中に湧いてくるのを自覚する。相手の感情を単におうむ返しするように共感する。それ以外の“感情事”には背を向ける、という姿勢が、何かガードの役割をしているらしいことを感じ始めている。
 もし、今度出るスキー部の飲み会に、
こうした姿勢の前提を外した“素の”自分が出たら..と考えた時、僕はパニック状態になって泣き出す自分の姿を空想した。そんな僕を“大丈夫ですよ”とK君とかがなだめているイメージ。

4年と半年ほど前の自分ですが、「魂の感情が自分を生かす」と感じている今となっては、もうあまりに別人の自分という感で読み返し始めましたが、終わりの方は面白いですね。

これは根本的治癒成長への取り組み後半の方で起きることと、それを通るための要件を、端的に示唆しているように感じます。
取り組み後半で自ら内面に向かうことによって露わになっていく深層感情とは、この例のように、あまり論理性のない、しかし濃い情動になってきます。魂の感情がそのようなものだからです。
一方取り組み初期では、魂の感情を「心」が隠し、「人が」という意識論理の世界に翻訳されているわけです。

取り組み初期から後半へという前進は、外面現実においては自分の内面感情で揺らがない、建設的・原理原則立脚的な思考法行動法による自信感安全感の確保が、極めて重要な課題になります。
それが上述のような、論理性のない内面の魂の感情をありのままに感じることを可能にし、また守るわけです。

そうした、全く異なる2つの心の世界を持つ姿勢の中で、「あるべきだった自分のこんな心」という根源的感情にも、向き合っていきます。


魂の治癒成長への実践-32 / しまの
No.1200 2007/04/17(Tue) 11:11:45

■「自分にあるべきこんな心」という「イメージの嘘」の最大中核

「粗暴陰険な他人」というイメージは、自分の自尊心が崩されて自動的に湧く報復衝動の中で描かれます。
これは「そう見られる」ことに依存している自尊心の場合です。「現実において生み出す」ことを基盤にした自尊心は、そのような反応は起こしません。
「そう見られる」ことが重要になる、「こんな心の自分」という、もう一つの「イメージの嘘」本尊があります。

そうであることが、感情の膿を回避するための、危機的切迫感の中で描かれる。だから、それが崩された時の報復衝動は、足元から本人の心をすくう強力さで駆り立て、その中で相手は人間にあるまじき悪意を持つ人間として描かれる。
これが一言でサマリーしたメカニズムになります。

人間の「素の思考」においては全く自覚できない遠くからめぐりめぐる形で、「自分にあるべきこんな心」というイメージこそが、全ての障害感情の鍵となる、「イメージの嘘」の最根底と言えそうです。

実際のところ、「自分にあるべきこんな心」というイメージは、それによって「そうでない自分」への自己処罰感情そして「自分の心への劣等感」を生み出すものである一方で、真の心の成長に導くことはまずありません
できるのは、「こんな心」へのストレスに満ちた感情強制であり、その中で現実に面した時に生まれるのは、「そうできているはずの自分」を尊敬しない他人への怒りがまず主な感情になります。

さらにその一方で、ストレスに満ちた「こんな心」からの逃避衝動も生まれます。時にそれは、「こんな心の自分になりたい」という意識的理想だけが意識表面から消去される一方で、ストレスと生理的反発感だけは持続し、まるで脳が機能を停止させようとするかのような無気力状態を引き起こすこともあります。当然、その状態に対して、自己処罰感情が向かうことになるでしょう。もはや自分が自分の何を罰しているのかさえ分からないままにです。これは「うつ状態」のメカニズムです。

そうして自分から、そして現実の全てから逃げ回って生きる人間の姿を見ることもできます。それは自分の中にあるのであり、逃げることなど根本的にできないにも関わらずです。
そうしてこの心の罠が生み出す人間の「素の思考」に思い入れて、自己と現実から逃げて生きるその最も破壊的な結末を、たとえば太宰治の「人間失格」に見ることができます。

「こんな心になれている」という空想が、自分が人とつながり得る人間だという幻想的自尊心および愛情要求への支えである時、心の中でのちょっとした気分の変調が、「こんな心になれている」という漠然とした幻想を壊し、自分は誰ともつながりを持ち得ない、宇宙に一人で放り投げられたような孤独な人間だという感情が起きます。これがまるで病気のような寂しさ悲しみ感情のメカニズムです。
何でもこれを起点に説明できます。

その根底には、「こんな感情であるべき自分」というイメージがあり、そのさらに根底には、全ての心の膿つまり自己否定感情の膿や恐怖感情の膿や愛情要求の膿、そして「アク毒」が、結局のところ「自分の感情のあり方」をめぐって動くという根底メカニズムがあります。

以下では、そのような「自分にあるべきこんな心」というイメージが起きる状況が描写された例を僕自身の過去の日記から紹介し、それをめぐる各種の感情の動きを見て頂きたいと思います。

そしてそれが根底から解消される次の段階の説明をこの後で行いますが、答えは、上記説明に対応する通り、「自分の感情のあり方」に依存しない自尊心であり、それを築くための「建設的であること」への知恵と姿勢です。それがメスとなって、感情分析はおのずと進みます。

そして全てを見えなくていたものが突破される時が訪れる。それは上記のような言葉を聞いて考えがちな、「自分になるべきこんな心」という観念を「これがいけないんだ」と振り払う」ことではなく、むしろ逆に、そのイメージが生み出された大元で自分が抱いていた感情を、開放させることです。それはこの現実世界に対応した感情ではないのだという知性を保ちながらです。これは「心の膿の放出」という治癒メカニズムの側面です。
鍵は「自らは望まない」という最根底の「自分についた嘘」であり、それを解く「望みに向かう」ということが、人間性の根底からの変化への、答えとなります。

ちょっと前説だけで結構な長さになったので、ここでカキコしておきましょう。


魂の治癒成長への実践-31 / しまの
No.1199 2007/04/16(Mon) 23:17:05

「陰険な他人イメージ」の解説ですが、かなり難しい内容になるかと。まずは僕の理論整理として押さえねばということを書いてますので。これを踏まえて結局どんな思考法をすればいいかは、実際のご相談相手の返答メールなどに散りばめているものなど含め、詳しくは最初の心理学本でかなーと。


■実例描写1:映される「イメージの嘘」を建設的に生きる基盤の中でやり過ごす(続き)

3)他人に映された「粗暴な人間性」をただやり過ごす

「イメージの嘘」の2大本尊とも言える、「自分にあるべきこんな心」「他人に映された粗暴で陰険な人間性」について、まず後者から先に考察しましょう。

まずは僕自身の体験として、この「他人に映された粗暴で陰険な人間性」が、現実から全く乖離した、全くの架空でっちあげだったことが後から振り返って自分で呆れるようなものがありましたのでそれを紹介しましょう。
そして、それが起きるメカニズムと、それが根底から解消されるメカニズムについても考察します。

まずは「陰険な人間性」が相手に映された体験の例。
その30で紹介したものより多少日付がさかのぼりまずが、基本的には同じ「病み上がり」時期のものです。

ここではまず、その相手と仕事上でちょっと口論したことから書いています。この頃の僕は「まだ仕事へのやる気が残っていた」時期(^^;)で、「責任感を示すことが重要」という姿勢でいました。まあ多少手を抜く免罪符を得るためともいう、道徳的というより戦略的モラル姿勢という感じですね。
そうした姿勢も仕事の上の自尊心の一つの材料という背景があった上で、互いの役割についてのちょっとした認識違いがあり、口論になった時の話です。
新しい仕事場に入ってから数か月で、相手とは打ち解け始めたかどうかという時期。

まず口論をして多少動揺した内面感情を日記に書いています。

2002.9.3(火)
 午後またTさんと口論になりかける。自分がタスクリーダーの第2回XX会議の召集メモ上で、議題予定として「YY管理システム(島野所属組織からの要件)」と書いたのに対して、「我々の組織からの要件と言うのは誤解がある。あくまでYY管理者の要件だ」と彼が言ったもの。彼はYY管理者の補佐役割を持ち、YY管理システムは彼が必要とするものでもある。
 僕はそれに対して反論したが、感情的になっていた部分があった。直接感じたのは、
彼が“責任を逃げようとしている”という考えだった。が、よく吟味するとそれは、彼が天性の悪意でこのタスクを利用搾取にかかっていると感じているようなものであることを自覚する。そしてそれに対抗しようとする衝動と、対抗できないと感じる時に、自分が弱い敗北者で、その中で“怒りに震える”というイメ−ジがあったこと。そうなった自分を見る回りの目は当然尊敬ではなく、多少軽蔑を含んだ、弱い者への同情心のイメージがあること。

翌日の日記で、再びそのことを考えているうちに自分の心に浮かんだ粗暴極まりない相手イメージを、自分でも少し呆れながら書いています。

2002.9.4(水)
 少しまたTさんのことを考え、
いかにも仕事をしている振りをしながらしていない、と考え、同時に実はそれは自分のことではないか、とも思い浮かぶ。自分の中にあるものを他人に見つけて攻撃するというやつか。その後もTさんを“嫌いな人物”と思い浮かべる時、彼が平気で嘘をつき、口先で相手を言いくるめる人物だと思え、やがてそんな彼が家では家族、特に子供を苦しめている、などという空想に及び、自分の思考のおかしさに気づく。
 自分ではなく、他の人間が苦しめられると相手を非難するというのは、自分が苦しめられるという弱者感のない形で相手を非難するための思考か。



■「陰険な他人」イメージは感情分析ではなく「現実を生きる」過程が解く

まず、上記日記を紹介した理由でもありますが、「平気で嘘をつき口先で相手を言いくるめ家族子供を苦しめている人物」というこの空想に対し、その後3年ほど彼とは一緒に仕事をしましたが、現実この上なく家族思いで子煩悩な人間だった次第です。最近の日記読み直しで、その空想を発見して呆れた次第。

ややすぱっと竹を割るような解説でない説明になりますが、上記ではそうしたイメージに入れ込まずに流すだけにしている一方、そうした陰険な相手イメージが根本解消し、彼への信頼感親近感を持てるようになったのに対応する感情分析体験は、これと言ったものはありません
その30で紹介したのは、「アク抜き」されたままだった自分の中の敵対攻撃衝動が自覚されたことで、優しい自分を演じることへの抵抗感や、嫌悪の目で見られる感覚が減少するという、抑圧解除と感情改善がかなり直接的関係にある例です。
今度の例は違います。

つまり、今までの解説で、「自分の中の皮相化荒廃化の色彩がアク抜きされ他人に映される」というような表現をしたことがあり、そうした「陰険な他人イメージ」の解消は、自分自身の隠された攻撃的荒廃化の自覚放棄治癒メカニズムではないかと、僕もちょっと考えていました。
しかしこうして具体例をじっくり観察すると、感情演技への抵抗感・被嫌悪感覚についてはそうなのですが、「陰険な他人イメージ」はそうではない、ということになります。
これはあまりに細かい分析理論の話になりますが、典型的障害感情の治癒メカニズムとして結構意味強い話になるかも知れません。

彼に対する「陰険なやつ」イメージが根本解消されたのは、感情分析体験によってではなく、現実において彼を知る、「イメージを通さずに生きる」過程を通じてです。
良く、
「どうすれば人が信じられるようになれるか」という心の悩みの言葉を聞きますが、それが思考法や心の姿勢の問題だと考えるのは、誤りです。思考法や心の姿勢としてはまず、イメージを通さず、ありのままに現実に接することができる心の状態の獲得がまず最初です。

これは魂論で言うと、魂で相手にじかに接することができる状態ということになるでしょう。
相手が実際に信じられる人物か、そうでない人物かは、魂がおのずと感じ取ります。
そしてその「イメージを通さずに生きる心の状態」がどのように獲得されるのか。これはさらに次の段階の例を通して説明します。

つまり、ここに書いているような段階では、「入れ込まずに流す」までが可能なことであり、やはりそうした他人不信イメージは、自動感情として湧き出てしまう段階だということです。
「感情と行動の分離」で、そうしたイメージに立脚しない行動法を積み重ねるのみです。それが内面基盤をより強くし、次の段階へと脱皮する準備になります。



■「陰険な他人」イメージは「嘘の中の自尊心」の攻撃応報の中で生まれる

「陰険な他人」イメージ感情分析で解けるのではなく、「現実を生きる心」で現実の相手に接する結果でなるようになる。

これはちょっとあまりに専門理論的な話になりますが、「陰険な他人」イメージは心理構造として起きるのではなく、感情連鎖反応として起きるということになります。つまり、ある特定の衝動の中で起きるということです。
一方先の感情演技抵抗感・被嫌悪感心理構造的です。つまり常に付きまとう感覚です。

「陰険な他人」イメージがその中で起きる、ある特定の衝動とは、「自尊心が崩されたことへの怒り報復衝動」になりそうです。
上の僕の例でも、自分が弱い敗北者にさせれた震える怒りが、自動的に相手に報復しようという衝動を湧き出させていたという状況が考えられます。
その中で、相手がとんでもない人非人だという観念が起きる。他の例も出すと次第に浮き彫りになってきますが、相手が嘘造言で自分を陥れようとしているという、危機感迫る怒りの観念になります。

そしてこれが起きる背景に、この「崩される自尊心」が「自分についた嘘」で支えられている自尊心である、というのがキモになります。
この「自分についた嘘」は、自分をなんとか守るための「嘘」であり、嘘で人を踏みにじり搾取するという悪意の要素はそうあるものではありません。しかしその潜在的可能性が「アク抜き」され、この「嘘で支えた自尊心」を守ろうという応報への衝動に出た時、相手が事ある事全てにおいて嘘を駆使して自分を落としいれようとするという幻想的な危機感が描かれる、というメカニズムに、どうやらなりそうです。

この結果は、「相手がとんでもない陰険な人間で自分はその被害に遭う」という構図の空想になります。

こうした複雑な心理メカニズム論を理解することは、取り組み実践上あまり重要なことではないように感じます。まあ以上はまず僕自身の理論整理です。
取り組み実践上重要なのは、現実からは全く乖離した、でっちあげの悪人イメージを、自分自身が相手に持ちえることの可能性を、十分にキモに入れることです。それだけこの心理メカニズムは強力だと思います。

そしてそうしたイメージへの対処は、それを振り払って消すことが必要なのではなく、そうしたイメージに全く揺らぐことのない、建設的かつ原理原則的な行動法を習得することです。イメージを否定し消すという減算が答えではなく、イメージに影響されない行動法を見出すという加算が、答えです。
それが、イメージという嘘に支えられるのではない、現実に基盤を置いた自尊心を準備してくれるからです。それがやがて、イメージに支えられた自尊心そのものを自ら突き破る、次の段階につながります。陰険な他人イメージが完全に心の根底から消え、全ての人に微笑むことができるような開放感に満たされるのは、その次の段階を経てということになるでしょう。


■「自分にあるべきこんな心」という問題の根源

その前にもう一つ、そうした「他人を信じることができ誰にでも親しくできる心」が、「自分にあるべき心」としてイメージされるという、もう一つの「イメージの嘘」の本尊を次に説明します。

「自分にあるべきこんな心」に合わせて、自分に「感情の強制」をした結果が、「そうできている」という幻想的自尊心になります。それは自分に嘘をついた自尊心です。
それが「現実」に出会ってつき崩されるとは、現実がその嘘に同調しなかったということです。それへの怒り報復衝動の中で、他者が嘘千万の陰険さに見える。
複雑な心理メカニズムが、「自分にあるべきこんな心」から実は全て始まっています。

それが解ける現象がある。それはここでもまだ全く見えない何かが露わになる現象です。「自分にあるべきこんな心」のさらに根底にある、魂の感情であり、「実は自分こそが最悪の嘘つき」という「アク毒」の感情ということになるでしょう。それが露わになると、全てが単純に消える
上述で説明してきたのは、この単純な魂の土壌という問題の上に繰り広げられる、結晶変化の複雑さということになるでしょう。


■「義憤」のメカニズム

このカキコの最後として、上述の極めて難解な心理メカニズムが、「義憤」という世に溢れる実に単純な感情の、かなり普遍的な源泉になっているらしい、という現在の僕の考察を書いておきましょう。

たとえば、毎日読んでいる新聞朝刊の人生相談欄で、心理障害メカニズムの介入を思わせる相談内容によく注目するのですが、最近こんなのがあります。自分の信念信条に反する生活の他人態度への怒りに駆られ、怒りをどう収めたらいいのかと相談しているものです。
「引っ越した先の近所のママ達が子育てをそれぞれの親に頼りすぎている」という20代主婦。
「母親がブランド品や外食が好きでむだ使いが多い。生活を改めてほしい」という30代主婦。

前のはもちろんのこと、後ろの方のも、相手がこの相談者に子育てや金銭の援助を要求している訳でもなく、向こうはこの相談者とは別の生計生活をしている人々です。

自分には基本的には影響のないはずの他人の生活態度が、許せないと。

これは何かの「信念信条を持つ自己像」で自尊心を支えている時、それに敬意を示すこともなくなびかない他人への怒りが起きるという基本的な心理メカニズムになります。
その底には、「こうあるべき自分の心」になれているはずだという空想的自尊心があり、それは「自分への嘘で支える」自尊心であり、その面において「そう見られる」ことが極めて重要になり、愛情要求というもう一つのベクトルからも、そんな「高い精神性の自分」が敬意と愛情を示されるべきだという要求衝動があり、そうではない現実があり、崩された自尊心による敗北感への報復を向けようとする衝動の中で、相手からも報復の攻撃が自分に向けられるという予期感覚も当然起き、そこに上述の「嘘で落とし入れようとする陰険さ」があるという、許してはならない人間性の低さが相手にはあるという感覚になるわけです。

こうした複雑な歯車が回り回って、意識表面には「義憤」という単純一枚岩のように錯覚される感情が湧く。
事実、客観的に考えれば、どーってことない相手の行動や生活態度に怒りが起きる。自分でも何でこんな怒りに捉われ続けるのか分かりません。で人生相談に投稿するわけです。

心の成長への取り組み上、こうした心理メカニズムを理解する必要はありません。ただ「イメージを信じてはいけない」という単純な真実を肝に銘じるために、裏のメカニズムがあるという裏づけを説明しているだけです。
実際そうしたイメージを信じて行動化してしまうと、人間関係には最も破壊的なものになります。

そして克服においても、そうした心理メカニズムに沿った自己分析は、あまり役に立たないと考える方が正解です。それは結晶の複雑な模様をただなぞるだけのことでしかありません。
そうした他者イメージが心の偏狭さを示すものと、「自分の心でこれがいけないんだ」と考えることも同様です。これは自分の手で結晶を作り上げようとする誤りです。


克服への答えは、単純であり、「建設的であること」です。方向性は単純であり、実践はごく実践的思考法から根本的な生きる姿勢、深層への取り組みに渡ります。
そして建設的な思考法と生きる姿勢が深層の感情を捉えた時、それが否定的感情の根付いた内面への光とメスになるわけです。意識的に努力するのは、ここまでです。今回紹介したような感情分析さえ、もはや意識的努力ではなく、「建設的であること」という光を当てられた内面が本性として自らその凍土を溶かし始める、その表れとして自動的に進展して行きます。


それがやがては、「こうであるべき自分の心」というイメージの嘘の最大本尊とも呼べるものを溶かす光となり、最深奥の「自分についた嘘」を突破することにつながります。
「自らは望まない」という、最深奥の「自分についた嘘」をです。

その突破段階を説明する前に、「こうであるべき自分の心」というイメージの嘘の最大本尊を、例を出して次に説明します。


魂の治癒成長への実践-30 / しまの
No.1198 2007/04/14(Sat) 09:36:42

久々のスキーなしの週末。きのう夜は酒も飲まず、目覚めの快適さにう〜んこんなのもいいなぁ♪と、久しぶりに光溢れる午前ののんびりした土曜を過ごしとります。
..というのも最近平日は執筆と合間の副業(?)で結構あわただしい時間を過ごしているからなんですけどー。



■実例描写1:映される「イメージの嘘」を建設的に生きる基盤の中でやり過ごす

以下は僕自身の日記からの抜粋で、時期としては2002年初夏の「ゼロ線の通過」「人生の見出し体験」を経て、すっかり以前とは別人のような積極的に生きる姿勢を獲得してから間もない頃のものです。

そのような大きな変化体験がどのように起きるのかがまた知りたいところでしょうが、これから話す「人間性の根底からの根本変化」からすると、それはまだ準備段階に過ぎないとさえ言える形になります。準備段階とは言っても、大きな変化、多分の僕の人生で最大の節目となった変化だったと思えるのはその通りですが。

ということで、建設的に生きる心の基盤が堅固に獲得された一方、心の底はまだ病み上がり状態です。この「建設的な生きる姿勢」と「深層の否定感情」のギャップが、「感情分析」という高度な心理学実践にうってつけの状況です。
まるで水晶玉に映る心の謎の鍵を探るように、自分の中に浮かぶ感情の断片を、もはやそれを自分の現実世界への原動力とは全く別のものとする姿勢の中で吟味する作業を行ないます。

映された「イメージの嘘」に関連する表現部分を太字にしています。

1)子供への抵抗感の原因分析

2002.10.25(金)
 帰る際、駅の中で、しゃがんで親指をくわえている小さな男の子を見る。愛情不足(愛情欲求)か、とふと考えたのに続いて、その姿を不快として、口にくわえたその子の手をはねのける空想が浮かぶ。かつて僕が子供の頃、“何ぐずぐずしている!”と頭からはねのける父のイメージ。それと同じ態度にいる自分が浮かぶ。

これは自分の中にある、「愛を求める弱さ」への軽蔑嫌悪感情が捉えられたものと言えます。それまで僕は、子供に優しくする自分を「あるべき姿」と感じながら、実際に子供を前にすると生理的抵抗感を感じるギャップを持て余していました。
その底には、こうした嫌悪感情が埋もれたままだったという原因があったわけです。それを否定した「優しい自分イメージ」が生まれる一方、嫌悪感情を抑圧し優しさ感情を演じる「感情の強制」と、それに対する生理的抵抗感が起きる、というメカニズムになります。

2)女性から嫌悪の目を向けられる感覚の原因分析

2002.11.2(土)
 ここ数日、自分の中で注意を引いたのは、敵対攻撃性の心理だった。..(一つ夢の話。略)
 きのうはスポーツジムに寄って帰るまでの間に、美しい女性を前にした時の自分の意識について感じることが多かった。ひとつはジムでいつも見かけるスレンダーな美女。僕がトレーニングしている時に入ってきて、結構間近で見る機会となった。そうした美女を間近で見た時の自分の意識。自分がその女性を強く意識すると同時に、何かその意識状態を気取られて、相手からも自分に対して何か警戒のような特別な意識が向けられるという感覚。その先にあるのは、自分が見下げられているという感覚だ。
 相手の女性が可愛いことに気づいた時に、瞬間的に自分の中に起きる感覚。ターゲット感というものなのか。以前は、相手に向けた意識に対する相手からの反応がまず気になっていたが、今は、相手の人物ではなく、その「ターゲット感」そのものに、その正体を知りたいという関心が向かう。


これは感情分析が進展する様子を良く示したものです。「自分に嫌悪が向けられる」という、他人に映し出されたイメージから、次第に意識の焦点が自分の内部の衝動に移っているからです。
これがさらに、今まで自覚しないままであった衝動をはっきりさせていきます。

2002.11.5(火)
 街中とかで、美人の女性に引かれる気持ちに、以前のような動揺を感じることなく入れる自分を感じている。同時に、なぜそれが必要だったかを。実際に美人と目が合って凝視する。相手の女性もそれに気づいて目が合う。僕はほとんど動揺なしに、“美人だなあ”と思う。と、閃光のように、そうした美人を自分のものにすることで、自分の男としての評価価値が上がる。それによって自分は他の男達に勝つ、という観念が走る。
 この自覚のあと、悲しみが発作的に現れる。人々に敵対した自分への悲しみ。時に女性が僕に魅力を感じることを観察していた。それは明らかに僕にとって武器になったのだ..


この時、僕が「美人を手に入れることで他の男達に勝つ」という衝動を自覚したのは、実際のところ人生でそう自覚したことの記憶がほとんどない、人生でほとんど初めての、それもほんの一瞬だけの自覚でした。

極めて重要なポイントは、そうは言っても、その観念自体は「思考」と「空想」としては今までにもいくらでも自覚した話だったことです。
可愛い彼女が出来て男としての株が上がる。そんなイメージなら、幾らでも持ちましたし、実際それを目指したこともあります。そうなれて、気分高々の自分を空想することも、可愛い女の子に思いを寄せられる都合良過ぎの(^^;)妄想も抱きます。ただ現実においてきれいな女性に引かれた時、漠然と、自分が嫌悪の目を向けられる感覚が起きる。

上記紹介した体験では、そのように「美人を手に入れて他の男達に勝つ」というベクトル自体は何の新しい話でもない。しかしその時自覚したものは、「思考」「空想」さらには「衝動」においても今まで自覚した同じ内容における、「衝動」の中のある特定の色彩もしくは味の要素だけが今まで自覚されなかったものが自覚された、ということです。
それは極めてトゲトゲしい、破壊的な味の衝動でした。

これが感情分析の重要な本質を示しています。それは単なる感情想起でも、露悪的懺悔や自省でもなく、感情の中のある特殊な色味だけが消去されたものを、復元させるという作業です。これは実際に体験してみないとその特殊性は全く理解できず、違いを言葉で表現することも、言葉で聞いて理解することも、根本的に不可能です。
ですから、世には「懺悔録」といった書き物がありますが、そうしたものには治癒メカニズム効果は全くありません。

惹かれた美人から自分に嫌悪の目が向けられるという感覚は、これを境にかなり消滅に向かったように記憶しています。
破壊的色味だけを消去させるという、「アク抜き」のメカニズムによってごまかされたまま心の底に放置された衝動が、その時心底から捨て去られたということになるでしょう。この時起きた「悲しみの発作」がそれを現しています。

このように、「イメージの嘘」によって覆い隠されたものが解消する変化においては、相手に映されたものへの(ここでは自分に向けられる嫌悪の目)「怒り」であったものが、自分が求めた何かの挫折への(ここでは「人々との調和」)「悲しみ」に変化する、という極めて定式的な変化が伴います。
このメカニズムについてはまた後でもう少し詳しく説明するかも知れません。しないままかも。

ただしそうした変化は、この感情分析体験だけではなく、似たテーマでの、日々の中でのさらに数1