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過去ログ
2007.05


さすがにたまげた / しまの
No.1241 2007/05/28(Mon) 19:17:36

ジョギングから帰ってTVをつけたら「松岡農相のお通夜」という文字が目に飛び込み、一体松岡農相の誰のお通夜か..と良く見たら松岡農相が自殺とのことで、最近よっぽどのニュースにも驚かない島野ですが、これはさすがにたまげた。

というのも、まあわざわざ解説するほどの話でもありませんが、原理原則的には、松岡農相の政治資金関係の問題は、安部総理がかばっている通り「法律に基づき説明した」とのらりくらりでしのぐか、もしくは腹をくくって自分の非を認め、辞任するなりの潔い姿勢を示せば、それで事は片がつくというのがまずは行動学なわけです。
まあもちろんこれは行動学の話であって、それで道義的なんやらの情緒的問題まで片がつくとは言いませんが。

それを「自殺」とは。。
まあこれはもう「いわずもがな」ですが、「光熱費に500万はナントカ還元水..」なんていう見当はずれな答弁を作ったことからして、この結末という、ヘタな行動学の持ち主だったということになるのでせう。ちなみにアルカリ還元水は僕も浄水器買って使ってる^^;

ま本人の苦しみは察し余るものだったと思いますので、安らかにと祈るのみということで、合掌。


残された問題への視点 / しまの
No.1240 2007/05/28(Mon) 14:22:21

18日のカキコの通り、治癒成長への答え極めて明瞭になっており、一言でいうと「心」と「魂」という2領域それぞれに一つの答えがあるということになります。
「心」においては、穴埋め型の自尊心から「自律型自尊心」へ。
「魂」においては、共鳴愛への願いの挫折を置きざりにしたままの、愛情要求もしくは敵対衝動から、大元の共鳴愛への願いの感情へ。

これは、「心」と「魂」という2領域それぞれにおいて、「障害の膨張」と「治癒成長」を分ける境目が明瞭にそれぞれ一本引かれることを意味します。
これを先日の絵に加えてUpし直しましたので参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro12.jpg

で残された問題は、この境目において両者を分ける、決定的な心の要因とは何かです。これはつまり、その決定的な要因に着目してもらうことが、治癒成長への明確な方向性が見えることにつながることを期待できるものになるということです。
でこれをそれぞれ以下のように、現在考えとります。

1)「幼児型自尊心」

まず「心」においては結構明瞭かと。
これは絵にも加えておきましたが、「自尊心」の種類として、「幼児型自尊心」という考えを入れようかと。

今までこの手のネーミングは安直に過ぎることが多く敬遠していた傾向がありますが、これは自尊心のあり方についてまさに「反省」を促すのがいいかと考えています。
「幼児型自尊心」というのは、要は「前の前の相手」に勝ったり誉めたれすることで自尊心を感じるというタイプの自尊心です。「前の前の相手」に言いくるめらるれなど負かされたり、けなされたりすることで、自尊心が傷ついたと感じるタイプの自尊心。

これに対し、先日のカキコで答えになると言った「自律型自尊心」は、「成熟型自尊心」です。
「目の前の相手」ではなく、広く「世界を知る」というのをベ−スにして、世界全体における自分の優劣位置付けを知る視点による自尊心です。

「自分の優劣位置付け」が自尊心において問われるという発想は、残り続けます。これについて、「真の自尊心は優越には関係ない」とかいう、安直な気休め的発想は、僕は言うつもりはありません。まさにこの点についてシビアに、自己の全ての可能性を尽くすことに人生があると考えており、努力をすることもなく何の優越性も獲得しないで終わると、単に人生において負けた人間になるだけだと考えています。
まさに、「自分の人生に負けた」者になると。

問題は、「優越」が「幼児型自尊心」の中で考えられてしまうことにあります。幼児型自尊心とは、とにかく人目を浴びる、目立つことを優越の材料と感じる感性です。
成熟型自尊心は、それを超えた目を持つ自尊心です。「姿」よりも、何が生み出されるか、何をスタートラインにしてどのように前進したかに、より多くの価値材料を見出す感性です。

この視点からは、全ての人間が、唯一無二の優越者になり得ます。なぜなら、全ての人が、唯一無二のスタートラインに立っているからです。今の、そして結果の「姿」ではなく、スタートラインからの前進を、成熟型自尊心は見ます。そして成された前進に、感動し、それを褒め称えます。

ということで、自分の自尊心が「幼児型」か「成熟型」かという「反省」は、有益ではないかと。
「幼児型」というと、安直な自省をまねき、「これが悪いんだ」という自己否定につながりがちですが、この点においては、安直な反省でもおおいに結構「幼児型自尊心の自分は駄目だ!」がまさに幼児型自尊心になりますので、それを含め、では成熟型自尊心だとどのように考えられのか、考えてみるのがいいですね。

自尊心の内容というのはもともとかなり知的に考える問題なので、こうした単純な道しるべで充分役に立つのではと。

2)自己嫌悪の起源:「原罪感情」

一方、「魂」の側で「共鳴愛への挫折」に再び向き合うか、それを否定し去り遠ざかろうとする「愛情要求」もしくは「敵対復讐心」に向かうか、この境目を決定づけるのが何かは、僕の中で、つまりハイブリッド理論として相変わらず残された問題と感じているのが現状です。

「幼児型自尊心」遠ざける要因として取り組み課題になるのは間違いないでしょう。「幼児型自尊心」は愛情要求と敵対復讐心という、魂の大元の願いから遠ざかる感情と結びついています。そして我々が「使える」のは結局「心」の方なので、自尊心として幼児型と成熟型のどっちを取るかが、大勢を決めるものになる。

成熟型自尊心への転換が、心に多くの「肯定の芽」を生み出すと考えています。そして実際に成熟型自尊心への方向性の中で、外面における建設的思考法行動法によってある程度の内面の自信を得ることが、魂の側での方向転換に向かうための、いわば安全な帰港場所になる。

ここで、愛情要求と復讐心が強すぎて、そもそも「自尊心」がトータルに見えないケースも考えられます。こうしたイタチごっこはどこでも起き得ますが、イタチごっこを追うのではなく、トータルな「自己放棄」がまず起きていることに取り組むのがいいでしょう。
そしてその後は、やはりとにかく「心」の側にアプローチです。

成熟型自尊心への方向性が生み出す「肯定の芽」と、来歴の中で骨の芯まで染み付いた「否定価値」との内面戦争が、一つの大きな道標になります。「否定価値の完全なる放棄」というのが、やはり最大の中間道標であり続ける。
これがいつどのように成されるのかが、最も難しいところになるでしょう。この正確な定義がハイブリッドに残された課題かと。

難しいのは、これは「空想立脚」という、思考法や心の姿勢だけの問題ではなく、「現実覚醒レベル」という「障害」の問題に関わってくることです。
現実覚醒レベルが低いとは、それだけ魂が弱い状態と言えます。「心と魂の役割分担論」では、現実を志向するのは魂の役割です。魂が弱い状態として、愛情要求と敵対復讐心に流れ、空想立脚の意識土台になると。

で、この状況を解く鍵は、「恐怖の克服」であり「自己嫌悪の起源」だというのが今の考え。アプローチは、恐怖の正体を知ることです。これを感情分析で行います。
そして恐怖の正体は、必ず、外部ではなく内部へと移っていきます。これは残念ながら恐怖が減ることではなく、恐怖の正体についての認識が変化する効果だけです。


向き合えない恐怖が、「与えられるべき」という感性論理の歪みを生み出し、問題が自分の内部から外部へと映し出される。
これは知的思考では全く解けない問題であり、感情分析でその中核へと自ら問題を紐解いていく意志が、まず必要になります。また感情分析だけではなく、いったん外面への恐怖を減らすという、長い下積みも必要になるでしょう。

そうやって、外部に恐怖の大元があるのではないことが分かってくると、初めて、自分の内部に、何か良くわからないものがあるという疑問感が現実味を帯びてきます。
これで、ようやく、「魂」の側において「膨張」への方向性がやんできます。境目に至るのはまだまだ先で、これでようやくその第1歩が始められるという状況。

この先が、ほとんど「未知」になります。外面への恐怖は次第に減少する。ただし自己の内部への恐怖は、減りません。やがてその正体が次第に明瞭になってきます。
次第に明瞭になってくるのですが、それは同時に、今までの日常言葉では表現できないものであることが明瞭になってきます。
それが「感情の膿」であり、「魂が抱く恐怖」なんですね。

それへのアプローチが極めて重要になってくる。
基本的な考え方を言いますと、恐怖は基本的に、自己処罰感情への恐怖です。自己処罰が自分の外面ではなく、内部に向けられるものであることが分かってくる。つまり、自己嫌悪の正体が何かということが、外部から内部に移ってくるわけです。
その先に何があるのかを、明確にするのがハイブリッドの残された課題

そして、自己嫌悪の正体が外部から内部に移っていき最後に現れるものが、ハイブリッドで「原罪」という言葉を使う自己嫌悪です。
言えるのは、そこまで行けば、今までの意識の全てがはじけて新しい意識土台がリロードされるということです。現象としては、それが間違いのない話です。

この、「自己嫌悪」と「恐怖」が決定づける「意識土台」という構造、その質的変化のメカニズムを解明するのが、ハイブリッドの残された課題ということになりますね。
まだまだ、壮大な心の領域が残されているという感じ。最初の心理学本では、多分ほんの1行程度(^^;)この未知の領域が広大にあることを示唆するのでまあいいかという気分。

ま昨日の夜、そんな新しい話なども頭にめぐらせたので、メモがてら徒然なるままに書いた次第ですが、思い浮かんだのは、実は「魂と心の分離」こそが「原罪」なのではないか..という発想だった次第。

まあこれは後の課題として、とにかく最初の心理学本の原稿をまとめねばp(^^)q


さっそく最新解説の絵などUp / しまの
No.1239 2007/05/18(Fri) 16:45:44

さっそくですが、最初の心理学本で説明に使おうと思う絵など作りましたのでUpします。
例によりかなり細かいのがちょっと悩ましい所ですが、かなり分かりやすくなってきたのではと。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro12.jpg

結局のところ、「感情の中身」としては、「愛の挫折への見返しとして自尊心を追う」というのが問題の根源なわけで、それに恐怖の問題やら価値観思考やらの尾ひれがついて、心の障害というものが生まれる。

解決は、「自尊心」の3態の中での「自律型自尊心」にあるということになります。目の前の相手にどう見られるかではなく、自分を下に見た目を見返すためでもなく、広く社会と世界を知る目を持って、「楽しみ」という感情を基本的な羅針盤にして、自分が生み出すことのできる価値を追求することです。

そうして「穴埋め型自尊心」依存型自尊心敵対型自尊心)は本来の自尊心ではなく愛の挫折の問題として分離し、自律型自尊心によって得る自信と安心感によって、愛の挫折への対処については、大元の魂の願いに向き合うという方向性です。

これは「怒り」が「悲しみ」に変わるのが意識表面で、根底では魂の成長が起きるというのが答え。
これがかなり確実な答えとして言えますね。

あとはさまざまな尾ひれがついてこれが見えなくなるというのが、話が膨らむ部分。今まで長いことかけて精緻なメカニズムを追っていたのはそれなんですが、芯にある問題と答えの軸は、極めて明瞭なわけです。
心理学本は、尾ひれの難しさを切り捨てずにうまく整理して、その明瞭な答えを分かりやすく解説するものにしたいですね。


最初の心理学本原稿へとまい進中! / しまの
No.1238 2007/05/18(Fri) 12:36:38

ということで、近々「次の著作予定」を更新できると思いますが、かなり構想を一新して、「分かりやすさ」を第一とした読みやすい本というのを考えています。
読者層としても、高校生くらいから読んでもらえるように、ハイブリッド用語をできるだけ使わないものにしたいなと。まいわゆる「心理学本」で売れる手のもの狙いですね。でへ^^;

というのも魂論でかなり話が明瞭になってきたからですね。
最初の心理学本ではここ最近の掲示板解説をさらに練って、結局心の障害の中で起きる感情はどんなもので、それがどう解決できるのかという結論「一般言葉」レベルでずばりと説明するものを書こうと思っています。

キモの部分は掲示板にUpしますので、今後ともチェックよろしく^o^)v!


「魂に善悪はない」米工科大乱射犯人を含め追悼した米学生達 / しまの
No.1237 2007/05/15(Tue) 17:13:47

カキコしようと思って新聞記事取っておいたのは、先月16日に起きた、米国史上最悪の銃乱射事件である米バージニア工科大学での事件の話。

19日の読売新聞朝刊の記事の最後の方に出ていた、次の文章が僕の注意を引きました。
建築専攻の学生たちはキャンパスの一角の木々に犠牲者を追悼する黒いリボンをつけた。その数はチョ容疑者も含めた33。同じ専攻の日本人学生(22)は「僕は賛成できない」と言いながらも、連帯を大切にしようとする同級生の心情に理解を示した。

僕はこの話を、学生たちの行動に共感を覚えると、「善悪の放棄」の説明として書こうと思っていたわけです。

「善悪の放棄」の説明は、今日書きました。結局、最もその本質は、「魂には善悪はない」なんですね。チョ容疑者の起こした行動は、彼の「心」が起こしたことです。それはこの現実世界においては「悪」であり、もし彼が生きていれば罰せられる必要があります。僕がその審判を下す役割を持つのであれば、もちろん死刑という判断になります。

しかしその彼の「心」が起こした行動によって、彼の「魂」も犠牲になったのだと感じるわけです。
米学生たちの行動は、同じことを感じてのことだったと思う次第。それは被害者側だけの「連帯」のためというのとは、ちょっと違った気がするんですね。

同じ19日のその朝刊一面には、長崎市長襲撃事件への社説が大きく出ていました。この同じ朝刊に出た、似た出来事への、ちょっと違う雰囲気の言葉が、何とも対照的なのを感じた次第。
「絶対に暴力に屈してはならない。」

こっちの言葉には、ちょっと異和感を感じ。
なぜか。いまさらそう言っても、何にもならないような気がしてですね。まあもちろん、暴力は罰せられるべき行為です。
まあこれはやはり「破壊モード思考回路」になっていように感じますね。「〜ではいけない」「建設モード思考回路」だと「ではどうすればいいか」の答えを出します。良く言っているように、精神論ではなく、技術が伴う答えです。

「暴力に屈してはならない」。ではどうすればいいのか。行動学という技術があります。それがないと、「暴力に屈してはならない」と言ってる人間がまた暴力するような結末になりかねない^^;
まあ、僕が言わなくとも大丈夫でしょうが。

いずれにせよ、こうした行動や言葉の違いから、何となく「魂」に向いている人とそうでない人というのが違ってくるんだとうなぁと感じる今日この頃。

少し前の『アンビリバボー』でも、全身不随の息子の車椅子を押して走る米国人アスリートのこんな話が出ていました。
息子はその中で「自分が障害者であることを忘れた」という、生きる喜びを見出す。父親はそのために全てを投げ打ち人生を捧げる。それが何の不遇を嘆くのでもない、ごく自然なことであるかのように。
やがて62歳の時、この父親アスリートは心筋梗塞で倒れるも、その処置の中で、医者に、「体を鍛えていなければ40前に心筋梗塞で死んでいた」と言われる。全身不随の子供が生まれたことは、実は不遇ではなく、この2つの魂を生かすために神がなしたことなのだ、という感じの話として伝えられていました。

そんな話聞くと、アメリカ人ってやっぱ結構魂が強いんだろかなーと感じた次第。

ということで、今後の掲示板ときたまのお知らせや徒然などあった時にカキコします〜。


魂の治癒成長への実践-68(End) / しまの
No.1236 2007/05/15(Tue) 15:58:28

ではこの「魂の治癒成長への実践」シリーズの最後。
このところちょー駆け足であっちこっちの角度からサマったり返答メール紹介したりと、文章レベル統一まるでなしのてんで分かりにくい感じになったかと思いますが、とりあえず僕としては整理できたので..エヘ^^;

あとはまあ、とにかく今度こそこれで正真正銘、執筆作業を出版本側に移し、今度どれだけ分かりやすい説明をできるかを、出版本の方で頑張っていこうと思います
まあともう一カキコ、当面ありますどね。

とにかくの方にこうご期待。質問などは読書広場へどーぞ♪


■「感情の偽装」

「成長」「障害」そして「治癒」へのを、とりあえず文章レベル未統一のまま収めるべきところに収めるための番地整理のようなものだけ駆け足でしましたが、こうして3つの軸で整理したものが、我々の意識で捉えられるものになります。

最後に、我々の意識では捉えられないものが出てきます。
それが「感情の偽装」です。これだけは、そうした3つの軸のどこからアプローチしても、分かりません。分かるのは、自己操縦心性が崩壊した時に、それが「感情の偽装」であったことが分かるだけです。
「自己操縦心性の崩壊が最後まで特別な現象であり続ける」と書いたのは、そうゆう意味です。

「感情の偽装」については、一連の描写の中でを出しました。その41(4/25)の最後の方です。
===========================================
勝手な自己イメージの中で、自分が誇大的に疾走していたのを感じた。それは現実の自分、少なくとも今のこの感情を全く知らなかったから、成立していたものだった。
===========================================

説明は過去してあり、ここでは省略します。やたら詳しい説明(^^;)が以下などにありますが分かりやすいかどうかは読み返さないと何とも分からない。
2006/06/10 自己操縦心性の成り立ち-87-88:「アク抜き」と「アク毒」-6-7
2006/06/15 自己操縦心性の成り立ち-89:「アク抜き」と「アク毒」-8


これを一体どのように解釈すればいいか。魂論としては、です。

まあこれが、「治癒」の軸の最後である「魂の望みに向かう」の先にあるものだということですね。これが「人格脳」の側の変化になるということです。
これは我々の意識の外側で起きることであって、我々の意識はそれについて「知る」ことはできない、ということになります。
だが、それが「ある」ことは分かる

それを通った時、我々は「現実を生きる」ということを、知ることができます。
しかし不思議な話です。そのあと自分の生きている心の世界がどれだけ「現実」なのかを、知ることはできません。言えるのは、自ら望みに向かい現実世界へと行動する「現実性刺激」によって、「空想を生きる」という殻が破られる効果があるということです。

一体何が本当なのか。何が現実なのか。そう考えるかも知れません。
それに対して言えることはとても簡単で、心に現れるものがあれば、それが「心の現実」だということです。それをベースにして、そこから、向上への歩みをする以外には、ないということです。それが今まで述べた、成長と治癒の軸です。

そうした向上への歩みの中で、「魂の望み」に向かうことが、「現実」へと導きます。これについてはその57(5/11)58(5/12)で先に書いてあります。
現実を志向します。しかし魂は現実を知ることはできない。
「心」外界の現実を見ることはできます。しかし「心」は「現実を生きる」ことを知ることはできない。
できるのは、魂の望みに向かう歩みが導く方向へと向かうことだけだ、と。


これはハイブリッド心理学そのものの、一つの限界とも言えます。それが説明することの中には、「我々」には根本的に不可能なことがあると。しかし、「我々」を超えた何かが、それを起こすのも、また現実だとくる。
まあ、これ自体が「不完全性の受容」の一つだとも言えますが、それで終わるものでもない。「変化を成せないことを知ったときに変化が始まる」とも言えます。

まあいずれにせよ、言葉で説明するのは無理な話です..と実に安直な結論?^^;
最初の心理学本をこの言葉で終わらせるかどうかは分かりませんが(たぶん違いそうな^^;)、答えは、「生きる」ことの中に全てがあるということですね。


魂の治癒成長への実践-67 / しまの
No.1235 2007/05/15(Tue) 13:56:25

間もなくこのシリーズ完結近し♪


■「治癒」(続き)

5)自己の受容・望みに向かう

まず「障害の低減」を成し、「障害から成長への転換点」を迎える。
最後に、「障害からの成長への歩み」になります。

これは「自己の受容・望みに向かう」と呼んでおきたいと思います。

「望みに向かう」ということについてはもうあまり書き加えることも少ないかと思います。「自らは望まない」という最大の「自分自身についた嘘」が「障害」である時、「望みに向かう」が大きな治癒の軸になるわけです。
そして「自己の受容」はこの最後でも出てきます。結局これは最初と最後に出てくるということですね。

最初の自己受容「基本的自己受容」でした。これはその59(5/12)で書いた通り、「唯一無二の存在としての自己の成長へ向かう意志」です。

最後の自己受容「自己の魂の受容」です。以前「真の自己受容」と呼んだのもこれと同じです。
そしてこれが、先に「恐怖の克服の3段階」と言った最後の、「恐怖に怯える魂を守る」と触れたものです。
つまりこれは、「魂の望み」に向かい、「魂の願いを果たすための行動」へと歩み出すことを是とし、その中で怯える魂を守るという、「心」が成す最後の「選択」なのです。

これは僕自身がこうしてハイブリッド心理学を自分なりに完成させることができたと感じる、その最後の「進むべき道」が、今僕自身の人生においても現在進行形の出来事の中でも見えた、ということの中で、その確実感を感じているものでもあります。

それは、僕自身が自分自身の心理学によって涙が出た、「自己操縦心性がついた嘘」に続く2度目の感動的なことでした。
ということで、それを書いたつい先日の日記を紹介しましょう。
=======================================================
・・(略)・・僕はそれについて、自分の中に起きる感情を全て見尽くしたいという考えでいて、こんな場面でかつて自分にあった、「平静の幻想」が壊される、もしくは何かが崩壊する幻想の中に投げ込まれるような出来事もあったのを思い出した。XXXXさんの場合もそうだった。1年前になるか..と。
 そんな中で、僕は間もなく
最終総括を書く内容のことを考えていた。「恐れの克服」ということになる。

 我々にとって「恐怖」とは、結局何なのか。それは「自己像」をめぐるもののようだった。そしてその根底には、魂が抱く、愛が失われることへの恐れがあるように思えた。
 
「心」が抱く怖れは、科学によって克服する。だが「魂の怖れ」は、科学では克服できない。
 それは何によって克服できるのか、と考えた。すぐには答えは見つからなかった。事実
僕はその答えが分からないまま、魂が抱く恐怖の中に晒され、ただ耐えるだけの体験を持っていた
 それは救いのないことのように思えた。だが、
何かが救えるはずであることも感じた。だから今僕がいる、と。
 「神」に救いを求める、というのも浮かんだ。だがそれは僕が使う観念ではない。

 あとは..「命」..か、と思えた。「命」が守られれば、「愛」が守られる。「現実」がどのような形になったとしてもだ。
 そこにおいて「怯える必要はない」と魂をなだめる役割が「心」にはあるように思えた。では「命」が消えた時どうなるのか。「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる。

 そう分かった時、僕は泣いた。そこには、まだ僕の中で怯えていた魂の安堵があったのかも知れない・・。
=======================================================

「成長」「障害」そして「治癒」の軸は以上となります。

そして最後に、やはり、「自己操縦心性の崩壊」特別な位置付けで出てきます。それが締めになります。


魂の治癒成長への実践-66 / しまの
No.1234 2007/05/15(Tue) 12:57:55

■「治癒」(続き)

4)善悪の放棄

ここまで説明した「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」そして「愛と自尊心の分離」は、「治癒軸における治癒」とも言える局面です。つまりそれはもっぱら、「障害の軽減」を図るものです。

次が、「障害から成長への転換点」です。これをここでは、「善悪の放棄」と呼びたいと思います。
今まで説明したハイブリッド用語だと、「否定型価値感覚の放棄」そして「不完全性の受容」です。

なぜこれが、やはり「善悪の放棄」なのか。
「魂」の世界には、善悪がないからです。「心」の世界にはあります。はっきり言いますが、「心」には良し悪しというものがあります。良い心と悪い心。
しかし、魂にはそれはありません。魂は、みんな同じです。良い魂悪い魂というものはありません。


これが、今まで読者の方からもよく質問や疑問が投げかけられていた、「善悪観念の完全な放棄」というハイブリッドの思想の、最も正確な理由になるでしょう。

魂には、そして魂の世界には、善悪はありません。
ひとつ言えることがあります。魂の世界では、善悪を使うと、同じものが自分にはね返ってくる、ということです。
「お前には悪霊がついている!悪の化身だ!」と怒る者は、その後に自分を見ると、自分に同じ悪霊がついていることに気づくでしょう。同様に、他の魂を許した時、自らの魂も、救われるのです。


今までの話も含めたもう少し分かりやすい整理は、心理学本の方で。これが多分終盤の大きなテーマになってくると思います。

ここでは、最近の返答メールから、「否定型価値感覚の放棄」そして「不完全性の受容」について説明した最新の説明を掲載しておきます。
これが「治癒の軸」となるのは、そこで説明しているように、「否定する価値」の背景には「空想と現実」という「障害」の軸があるからです。

そしてこれが人間の「怒り」の第3の、もっとも広範囲の大局メカニズムになるでしょう。「善悪」です。
「怒り」は「人間の病」なのです。
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■「現実の選択」

>P.209「現実を生きることができていません。空想の世界で生きています」
P210「事実、「現実」こそが心の圧制者の嫌うものでした」 このあたりが
「そうか、「空想の世界の自分」を今まで「自分」と思っていたんだ」という発見でした。
>プライドも劣等感も作り上げていたのは「空想・妄想・想いの世界の私」でした。「現実のみが進む道」という実感がします。

大きな気づきだと思いますね^^。

というのも、何をどう考えるかという中身ではなく、何に立って考えるかとという、言わば「意識の足場」の選択のような話だからです。
そして実際それが、自尊心人生をどう考えるかという中身の話の外側にある、人間の心に埋め込まれたミスのようなものに関わる、大きな話になります。

「空想に立脚」して考えるか、「現実に立脚」して考えるか、という「選択」です。
そしてこれが意識で選ぶというだけではなく、すでにそのどっちかに方向づけられた意識の中で、思考が動くという厄介な問題があります。

それはいわば「夢」の世界です。半分夢の世界で考えていたわけですね。


■自分を救うためにあったものが自分を破壊する

>今考えると「空想の私」からは、かなりの脅迫状が届いていました。
>もともと「その私」は自分を「不安から守る」ために発生したのではないのでしょうか?それなのに破壊・破滅に追い込んでいってしまうのはなぜなんでしょうか?

これも根本に関わる問いです。

その通り、「空想の自分」は、もともと自分を恐怖から守るために生み出されたものです。そうでもしないと耐えられないような、恐怖があったんですね。
だから、これ現実ではない、本当の自分は空想した方なんだ、という「空想による救済」メカニズムというものが人間にはあります。

>「一部」だったものが「すべてを覆う」ようになってしまったのは、あまりにも対処を「怒り」にたよったからなのでしょうか?

怒りに頼ったからではなく、恐怖が強すぎたからということになるでしょう。

ところが、やがてその空想の中で抱いた「こうあるべき」の価値が、一人歩きしてしまうんですね。
「こうあるべき」空想世界こそが主であり、「現実」は従となる。そして空想から現実を否定することで、その価値の確認をするという心の動きが生まれます。
やがてそれが、その心の動きが望む通り、現実を否定ばかりすることで、現実が貧弱になり、「空想から現実を否定できる」ことが確実になっていきます

これは、人間の心に埋め込まれた、プログラム・ミスです。
それ以外の何ものでも、ありません。


これについてまだお読みでなければ、以下を読んで頂くといいと思います。
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3


なぜ心が否定破壊ばかりになったのか。それはあまりにも自分に不利な結果になるにも関わらずです。
確かにそこには、人間の脳に宿命として組み込まれたミスもあります。
しかし最後にあるのは、「愛」なんですね。全てが、傷ついたものを救おうとした愛に始まっている。僕は今でもこの起源を遡った時、涙が出る感があります。


■「否定価値」の完全なる放棄へ

空想から現実を否定することが、大元では傷ついた自分を救うための「自己操縦心性の愛」に始まっていた。
そのことを理解するならば、大きな転換を自分に問うことができると思います。

空想から現実を否定することでしか、自分を救い得なかったものがあった。それが全ての始まりでした。
ならば、これからはその役割を、自分自身が「現実を向上させる」という別の方法によって、担うことです。そのための強さを、自分がもう持ち始めていることを、しっかりと見据えることです。

それを選択するのであれば、あらゆる「否定価値」に、全く何の意味もないことが見えてくると思います。
これを「否定型価値感覚の放棄」と呼んでいます。「否定価値の完全なる放棄」と言ってもいいかと。

実際それは、「善悪」観念さえ完全に崩壊させるほどの転換でもあり得ます。
なぜなら「善悪」は、否定破壊を前提にした観念だからです。まあルールと罰則の遂行としては、それは確かに必要です。
しかし、もし「罰の遂行」という場面を除くならば、「否定する」のではなく「現実に向上させる」ために向き合うことにおいて、「悪」なんていう観念を使う必要は、全くないんですね。

まずはぜひこれを、日常の生活の中で確認して頂ければ。
なぜそれでは「駄目」なのか。
それは結局、「駄目だ」と否定できることに価値を感じたから、駄目だと考えた。それだけのことしかないのではと思います。


■不完全性の受容

「それでもこれだけは」という「否定の基準」を保ち続けたい、という感覚も残るかも知れません。

>仕事をカゼで3日も休むなんてダメな人間だ。
>人間関係も上手く付き合えないなんて生きていく資格ないぞ。

この辺はその類ですね。

これは「不完全性の受容」というテーマに関連します。

「否定できる価値」のために否定するというより、あくまで「理想」として保ちたいという気持ちから、「これだけは許せない」という信念を守りたい。まあ世の人は大抵そう考えるものです。

僕はそれさえも完全に放棄したわけです。
なぜなら、それは「完全」を求める姿勢だからです。「現実」というもの、そして人間という存在の、不完全さを、認めない姿勢です。
そして結局、「これだけは許せない」という「基準」から、否定破壊を向けます。現実はそれによって破壊されます。結局同じなんですね。


なぜそんなことが起きてしまうのか。結局「完全なるもの」という、「空想の世界」に立っているからです。
別にそんな完全を求めているのではない。あまりにひどいものがあるということだ。そう感じるかも知れません。実際僕はこの選択に際して、そう問いを出しました。

しかし、それが本当に「あまりにひどいもの」なのか。そうして自分が考えた「基準」は、正しいのか
そう考えるならば、不完全性とはまさにそこにあるんですね。「あまりにひどいもの」と感じる基準を定める能力自体、不完全なわけです。それが自分の感覚が正しいと主張することは、自分が完全なる神だと主張することです。

そう考えた時、僕の中で、「それはひどい」という感覚そのものが、根底から崩壊したわけです。
そして日常生活の中で、全てにおいて、ほぼ100%、「肯定形」だけで思考するように変化して行きました。
やがてそれが、「怒り」が根底から消える変化にもなった次第です。僕が人生で「怒り」に駆られたのは、いちおう2004年頃が最後です。


ということで、「否定価値の完全なる放棄」「不完全性の受容」というのが、とても大きな転換点になります。
これをぜひ日常生活の中で確認実践してみて頂きたいですね。

その後のことまで書いておきますと、「現実への歩み」そこから始まります否定価値を放棄し、不完全性の受容「頭の中」では成した時、心の世界は一変すると思います。
しかしそれもやはり「空想の世界」にあります。

より肯定的な姿勢で、望みへと向かい、人に接することです。すると初めて、「心の現実」が見えてくるのです。
今掲示板で書いているような、「置き去りにした弱い魂」を再び迎えに行く歩みが、そこから始まります。-------------------------------------------------------------------------

「魂に善悪はない」
このテーマについては、この「魂の治癒成長への実践」シリーズをいったん締めたあと、当面の掲示板カキコの締めとして最近起きた大きな社会的悲劇を題材に一筆書こうかと思っています。


魂の治癒成長への実践-65 / しまの
No.1233 2007/05/15(Tue) 11:56:11

「治癒」の軸として「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」の次の話。

ちょーサマリー返答メール紹介という、全くレベル統一感がないカキコになってますが、とにかく駆け足で内容として書くべきこと書いて、当面の開示版解説を絞め、心理学原稿とりまとめに行こうかと考えており。


■「治癒」(続き)

3)愛と自尊心の分離

これは心理障害メカニズムが「魂の感情を偽った心」という構造である結果起きる、「愛と自尊心の刺し違え相互破壊」への実践的対処法です。
治癒への軸の中でも、最も感情分析的なノウハウになります。

これについては、最近の返答メールから紹介します。
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■「愛を求め自尊心を失う」という心の罠

前のメールで「愛と自尊心の分離」について話ますと触れておきましたが、まず理解頂きたいのは、「愛を求め自尊心を失う」という心の罠があることです。

>例えば、私の場合小学校の時通知表に「消極的なのでもっと積極的になってください」「分かっているのに手をあげていません、もっと意欲的に」と書かれ一人傷ついていました。「積極的でないと先生に受け入れてもらえない」と。
>もし友達が「暑いね〜」といえば「そうだね〜暑いね〜」なんて例え寒いと思っていてもいいませんでした。

これらは全てそうですね。

愛情を求める気持ちの中で、「相手に気持ちを合わせる」ことが愛だと感じる感覚が、人間にはあります。まあこれ自体は自然な心の働きです。「共感」ですね。相手が自分と一緒にいて楽しそうにすると、気分が弾みます。痛み苦しむ相手を前にすると、心が痛みます。
これが「愛」の最も基本的な機能だとも言えるでしょう。

問題は、自分が本当にはそう思っていない時にも相手に合わせる。それが愛だという感覚まで、人間は持ちがちなことです。
「それは愛ではない」とは言いません。それも「愛」かも知れません。

しかし言えるのは、それは自尊心を損なうということです。自分としての考えをしっかりと持ち、自分の考えで積極的に行動できるというのが、自尊心の基本的な基礎だからです。
そして言えるのは、「自尊心」は人間の心にとり極めて重要なので、それが傷つけられた時、どうしても「怒り」が起きるということです。
これが「愛」を破壊してしまいます。

上の例で言いますと、自尊心とは、「消極的であること」の良し悪しについて自分自身の考えを確立することです。それが本当に悪いことなのか。自分としては暑いか寒いか。自分で判断できることです。

相手に合わせることで愛を求めると、そうした「自己の確立」を失ってしまいます。これが心の底で、自尊心を失わされていることへの苛立ちを生みます。その結果、愛情のために自分を合わせようとした当の相手に対して、心底から愛情一本とはいえない、反発感を同時に感じてしまいます。

愛を求めて自尊心を失うのですが、それが愛を壊すんですね。皮肉な話です。

さらにそこには「心の罠」もう一面があります。
そうして自分を失って相手に合わせても、相手にとってもこの人に愛は感じられなくなってしまう傾向があります。なぜなら、相手に自分がないのですから。ただの空気を相手にしているようで、心の手ごたえがないわけです。

「愛を求めて自分をなくす」ことをした時、自分自身の愛の感情が損なわれると同時に、相手からの愛も損なってしまう。全くの、求めるものと逆の結果になるわけです。


■「愛と自尊心の分離」と「建設的対人行動法」

つまり、そこにあるのは、「愛」「自尊心」という、心理メカニズムとしては本来別々のものです。
それが、互いを損ね合うような、人間の心の罠、勘違いがある。

それを本来の別々のものにする思考法が、「愛と自尊心の分離」です。
「切り分け」の重要性を話しましたが、その一バージョンですね。「問題の切り分け」「感情と現実の切り分け」そして「愛と自尊心の切り分け」。最後のが最も人間の深層感情に関わってきます。

ごく実践的な話について言いますと、相手の愛情を得たいという気持ちと、相手の意見などについて自分の考えでは本当にはどう考えるのかを、分離することです。後者は、前者とは無関係に、相手の意見だけではなく、世界全体を見る目と知性で考えることです。

相手の愛情を得たいという気持ちは、どうするのか。これは深い話になります。

相手の愛情を得ようとして自分をなくすという方法が、全く逆の結果しか生まないことは上に説明しました。
そしてまた、相手の愛情を得ようとする感情が、人生の中で自分の心の底に抱き続けた自己否定感情の打消しのために生まれることも知る必要があるでしょう。これは愛に似て非なる感情です。相手が自分を愛さないと、怒りに変わる感情です。

そうした感情を非行動化し、相手の愛情を得たいという気持ちから考え得ることの中の、一片の建設的要素に着目して、それを後押しすることです。
それが「共通目標共通利益のみに着目する」という対人行動法です。「建設的対人行動法」ですね。

そうした実践、それはもう「実践」というよりも「生き方」であり「生きる体験」の積み重ねが、心を成長させます。
そして「愛」は、心の成長につれて増え、質的にも変化して行きます。
どのように変化するのか。まあ一言で言えば愛は相手に求めるものではなく、自分の中から溢れるものになります。これは「未知の感情」として現れます。
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魂の治癒成長への実践-64 / しまの
No.1232 2007/05/15(Tue) 11:26:18

■「治癒」

「治癒」の軸を次に。
これは、「成長」の軸が「障害」の軸によって妨げられ起きた混乱を元に戻すための軸です。それでちょっと数が多くなります。

5つ。「恐怖の克服」「自己の真実に向かう」「愛と自尊心の分離」「善悪の放棄」そして「望みに向かう」。
それぞれを簡潔に説明します。

1)恐怖の克服

「障害」が「恐怖」によって始まるものである限り、「恐怖の克服」は最も基本的な治癒への軸であり続けます。

「恐怖」はいわば、心理障害型の感性・思考・感情の歯車を回すための基本的なガソリンと言えます。感性・思考・感情の内容をあれこれと検討する以前の問題として、いかに正しい恐怖の克服姿勢を持っているかが、外枠で感性思考感情の全体を方向づけています。
詳しくはその58〜61(5/12)を参照のこと。

正しい恐怖の克服姿勢によって、「治癒」は8割がたは決まるといっても過言ではないように感じます。

「恐怖の克服」への道のりは3段階になるような気がしています。

まず第1段階は、外界現実への恐怖を克服することです。科学的思考によって非合理的な恐怖感情を捨て建設的に生きることで人生の基盤を築くことが重要です。
これは精神論ではなく、前者においては多分に科学知識、そして後者においては「社会を生きるスキル」の習得が大切になります。
心理障害が生まれるところには、本来心理障害メカニズムとは全く無関係な話として、そうした科学知識や社会スキルについての大きな勘違いがありがちなので、まずその修正を図りたいですね。後者は一言でいえば、「やる気頑張り」ではなく「役割を見抜く知性」が重要です。

第2段階は、内面の恐怖への対処です。これはその58〜61(5/12)で述べたように、まず「耐性」が重要です。そして「自分に嘘をつかない」こと。

第3段階は、「恐怖に怯える魂を守る」です。これは最後の最後に説明します。この後の話を踏まえないと、意味がないからです。

2)自己の真実に向かう

心理障害メカニズムは基本的に、「魂の感情を偽った心」という構造です。
従って、恐怖の克服姿勢によって、まずその歯車を回す力を減少させていくという外側の話の次にくるのは、「自分自身についた嘘」を解くことになります。これは上述の通り「恐怖の克服」にも含まれる話であり、「恐怖を解く」という意義もあります。

これは「感情分析」になります。心理メカニズム理論の理解は、基本的にこれのためです。
「感情分析」の実践についての、これ以上の最新の分かりやすい説明は、最初の心理学本に譲ります。断片的なものは今後も掲示板に掲載できるかと。

まずここまででカキコしましょう。
治癒の基本は、この「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」の2つになりますね。


■「成長」のノウハウは「治癒」のノウハウでもある

同時に補足したい重要な点は、「成長」へのノウハウである「建設的であること」「生み出すことに生きる」は、この「治癒」への軸を同時に支えるものになるということです。
前者は具体的思考法行動法であり、恐怖の克服につながります。後者は根本的な生きる姿勢つまり価値観であり、その検討が自分についた嘘を解除することにつながります。

このつながりが、「成長」が「治癒」を生み「治癒」が「成長」を進化させる、という好循環の基本的土台になります。


魂の治癒成長への実践-63 / しまの
No.1231 2007/05/14(Mon) 17:03:48

■「愛」と「自尊心」の相互破壊:怒りの大局メカニズム1

先のカキコで「障害」メカニズムを最新視点から整理し直しましたが、より魂論に立って、何が起きているのかを考察しましょう。

「魂」「愛」をつかさどります。「心」「自尊心」をつかさどります。
この本来の役割分担を考慮した時、何が起きているのかは、極めて単純かつとんでもない不毛な事態です。

つまり、「心」が、「魂」の「愛」への願いの挫折への穴埋めを追うことに躍起になっているという事態です。しかしそれは「心」においてなので、意識上は「自尊心」の問題であるかのように見えてくる、ということです。
これでは、根本的に、何も得るものはありません。


あるのは、「愛と自尊心の刺し違え相互破壊」ともいうべき事態です。
「心」は自尊心をつかさどるものです。行動への原動力が愛情要求であれ、復讐心であれ、それとも純粋な「心の感情」に基づくものであれ、「自尊心」とは、自らによって自分を尊重できるような、豊かさを築くことを言います。

愛情要求を通して自尊心を満たそうとした時、まさにその姿勢によって、自尊心が損なわれます。損なわれた自尊心の反応として「怒り」が起きます。これが愛を破壊します。

復習心によって自尊心を満たそうとする、つまり愛を与えられなかった悔しさを見返すために、人を打ち負かす優越の獲得は、一見してそれよりは素直な話のように感じます。
しかし復習の勝利は、愛を破壊します。すると駒が元に戻ります。愛されない悔しさが再び刺激されます。そして復讐心が刺激されます。膨張した復讐心は、満足の敷居が次第に高くなっていきます。
やがてこの人間の敵は他人というよりも、自分の内部の「フラストレーション」になります。それは自分の敗北の印だからです。「フラストレーション」とはつまり「怒り」です。「怒り」を敗北の印として、怒ります。


これが大局的な「怒り」のメカニズムに、なるのかも知れません。

愛されることで自尊心を満たそうとすると、その姿勢によって自尊心が損なわれるので、怒りが起きます。
人を打ち負かすことで自尊心を満たそうとすると、自尊心が満たされないので、怒りが起きます。
怒りが愛を破壊するので、怒ります。怒りが自分を敗北させるので、怒ります。
怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、....^^;


■「空想通りでない現実」:怒りの大局メカニズム2

「怒りの大局的メカニズム」としては、「空想と現実」というもうひとつの軸においてもありそうです。

「あるべき姿」という「空想」を主座としたことにおいて、これは単純な話になりそうです。
「空想通りでない現実」を怒る。

この怒りは、上述の「愛と自尊心の刺し違え」の大局構造で起きる怒りも供給源になる部分もあるでしょう。
そしてもう一つの大局構造が、「あるべき姿」という「神の国」の論理に根ざしているように思われます。
ここに来て、全ての話が最初の駒に戻ります。

全てが「神の国」に生まれ、望む通りに愛されなかった挫折と怒りに始まったように思われます。
そこで魂が抱いた恐怖を、心は受け入れることができず、魂の挫折を否定した「なるべき自分」という空想の中に生きるようになる。しかしそれを貫く論理は、「神の国」が持っていた「正しければ与えられる」という論理です。
結局、全てが、果たされなかったその命題を盾に、破壊的に愛を得ようとする復讐の中にあったように思われます。

なぜその命題を盾にするしかなかったのか。
弱いからです。そして、弱いから、怒ります。怒り弱さの表れです。
全てがここから始まっています。

従って、「治癒」は、この「弱さ」の克服から始まります。つまり「恐怖の克服」です。
魂論からの「治癒」の側面総括を次に。


魂の治癒成長への実践-62 / しまの
No.1230 2007/05/14(Mon) 15:18:03

では最終総括へと行きたいと思います。「魂」「心」という「2つの自分」の関係の中に、全てがつながってくる、ハイブリッド心理学の総絵巻。


■「成長」

「成長」の軸は「愛」「自尊心」です。「魂」「愛」をつかさどり、「心」「自尊心」をつかさどる。
ですから、我々が日常の生きる過程の中でまず目指すべきは、「自尊心」であり「強さ」です。

「愛」「求めることなく向かう」のがいいでしょう。「人生」「魂の願いを果たす」ことの中にあるように思われます。これは「自尊心」を支えにして、「魂の望み」に向かう行動へと踏み出す歩みがその形となります。
それが果たされた時、「魂」が成長し、「愛」は「求める愛」から「溢れる愛」へと、別種の感情へと変化します。


「建設的であること」「生み出すものにおいて生きる」は、そのためのノウハウです。前者は思考法行動法という具体的実践の話であり、後者は根本的な生きる姿勢の話です。

なぜそれが成長へのノウハウとなるのか。それは、その対照の姿が、成長が妨げられる「障害」を生み出すからです。
対照の姿とは、「姿において生きる」であり「破壊的に生きる」です。これによって、この人間は自らの中に生きる原動力を見失い、「人の目」を通じて生き、その過程において、自らにとり最も重要であったはずの「姿」を、自ら貧困化させる「現実の破壊」へと向かいます。

この「障害」の姿を次に概観しましょう。そして「治癒」の側面へと視点を移していきます。


■「障害」

「障害」の軸は「恐怖」そして「空想と現実」です。

「障害」は、人の心がまだ「心と魂」に分離していない、幼少期に抱えた「恐怖」に端を発します。
神の国」に生まれ、「大きな目」の中で、「宇宙の愛」に守られるべきであった自分がそうではなかったという、怒りと自己否定感情を伴う「恐怖」です。幼い心にとってこれを意識体験することはあまりにも破壊的であり、「心」と「魂」の分離を背景に、「心」からは切り離され、意識下に追いやられます。

かくして、「心」にとって、「魂が抱く恐怖」は、全く対処ができない、最大の脅威になります。これが「感情の膿」の正体です。
同時に、「魂の望み」の感情が意識下へと置き去りにされます。「魂の望み」が意識されると、同時に魂が抱く恐怖である感情の膿が意識に触れてしまうからです。

次に、「空想による救済」メカニズムが働くようです。自己操縦心性です。
これは「魂」と「心」のどちらの機能というよりも、心と魂の分離を調整統括している「人格脳」という外枠器の機能と考えるのが正しいようです。「心」はこの「空想による救済」メカニズムの中で動きます。
そして何から何を救済しているかというと、対処することができないような「魂の挫折と恐怖」を抱えるに至った、「現実の不遇」から「心」を、何とか「心」としてのまとまりを保つために行う「救済」、ということになると思われます。
これは大きく3つの側面からなります。

第1の側面は、この人物の「生」において、「空想」が「主座」を獲得することです。まず空想が先にあり、現実をそれに合わせて評価するというのが、この人物の基本的な「生き方」になります。

第2の側面は、その空想の内容とそれをめぐる感情の内容です。これはまず、魂の挫折と恐怖が存在しないかのような「自分の姿」「なるべき自分の姿」とします。
次に、その「姿」の実現へと向かうエネルギーが必要です。「魂の望み」の感情は、感情の膿を伴うので使えません。従って、魂の望みが挫折した後の穴埋め的な連鎖的衝動が、「心」の主要なエネルーになります。これは具体的には、「愛情要求」と「怒り復讐心」です。

第3の側面は、上記のような「なるべき自分の姿」の実現衝動に伴う、思考と感覚感性における独特の論理的偏りです。
これは「与えられるべき」感覚です。自分が特別に、何か良いものを与えられるべきだという感覚。
これは欲求情動論理思考感覚感性という3つの次元で、それぞれ毛色の異なった結果を生みます。
欲求情動においては、自分が特別扱いになれるような、内面外面に渡る材料物を欲しがる、強力な欲求になります。
論理思考においては、「対等性の欠如」になります。意識表面に良く現れるのは、「なぜ自分だけがこんな目に」という思考です。
感覚感性においては、人の目が特別に自分に注がれるという感覚になります。

正確な理論整理を頭の中でしているせいもあり、ちょっと細かくなりましたね。

まとめると、魂の恐怖を受け入れることができずに、「心」魂の挫折と恐怖を否定した「なるべき自分」の姿を描き、大元の「魂の望み」の感情ではなく、それが損なわれた損失を埋めようとして連鎖反応として生まれた「愛情要求」「怒り復讐心」を、それが生来の自分の「欲求」なのだと感じて生きるようになる、ということです。

それがうまく行ったと感じることができている時、全ての問題が存在しないかのように意識体験されるという仕組みは、その57(5/11)で述べたように、恐るべきものがあります。
しかしそれはやがてほころびを見せ、「心理障害という生き方」ができあがることになります。

この描写は「メカニズム」の観点からのものです。
本人の意識体験において、置き去りにされた魂の感情を取り戻すために、つまり魂の視点からこの「障害」がどのように位置付けられるのかを、次にまとめます。


魂の治癒成長への実践-61 / しまの
No.1229 2007/05/12(Sat) 13:00:53

では引き続き返答メールの続き
「恐怖の克服」の基本の続き、そしてその先にある「成長」に踏み出すための、基本的な視点の部分を掲載しましょう。

今日はなにやら突貫工事のようにカキコを連続していますが、まあ僕としても自分自身の人生の駒を一つ前に進めたいということで、この掲示板解説大団円(アハハ^^;)に終わらせ、最初の心理学本原稿とりまとめ作業へ移るのが見えてきた感じで、ラストスパートモード^^;
まあまだ結構あるんですけどね。

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■「恐怖の克服」の基本2:「建設」

次に重要なのが、そうして検知した何らかの「脅威」に対して、どのように対処して克服しようとするかの、基本姿勢です。
これが「破壊」「自衛」「建設」という3つのモードがあるわけです。もちろんハイブリッドとしては、後ろのものほど推奨します。それによって、「恐怖を乗り越える強さ」を現実において獲得することです。

まず考慮しなければならない問題パターンは、概してスタートラインで「弱い」ほど、「破壊」が最初に選ばれてしまうケースが多いことです。
「破壊」つまり「怒りで対処する」のは、「弱さ」の表れです。でも怒り破壊で対処しようとすると、ほぼ必然的に、報復の攻撃を受けることになります。従って脅威の克服ができず、恐怖の中に置かれたままになります。

かくして、「弱さ」が「怒り」を呼びさらに「恐怖」に駆られるという、「弱さと怒りと恐怖の膨張スパイラル」が出来上がります。

まずはこの「弱さと怒りと恐怖の膨張スパイラル」を脱することを選ぶかが、「選択」になるわけです。
それとは異なる「自衛と建設」という方向性を向くか。


まあ最初の敷居は、この選択思考を一貫してできるかどうかですね。
大抵、恐怖はなくしたいと考えるが、怒りを捨てることが考えられない。まずは、この2つがセットであることを知ることから、ということになると思います。

そして「怒り」を取るのであれば、同時に「恐怖」に怯える生涯であることを、受け入れるかどうかです。
まあこれも、「恐怖に怯える自分」は受け入れられない「怒り」の中で考える、というのがまず考えられる。

これが「恐怖の克服」の基本の3つ目の話になります。


■「恐怖の克服」の基本3:嘘をつくのをやめる

「恐怖の克服」の基本3つ目は、恐怖そのものの位置付けについての今までの話とはちょっと違う方向から入ってくる話です。

「嘘をつくのをやめる」ということ、つまり「自分に正直でいる」ということです。
「嘘」は基本的にストレスを生み出し、「嘘がばれる事態」への恐怖という、新たなる恐怖要因を加えます。


ですから、「恐怖を認める」「克服対処」の2段階の両方において、自分への嘘をなくす姿勢が望ましいものです。
恐怖に怯える自分を、「心の現実」として認めることです。
克服においては、嘘による対処はせず、「建設」による克服をすることです。

まあこの3つが基本になるのですが、難しいのは「嘘を使わずに建設による克服」の具体的内容です。
人間の素の思考では、まずこれは思い浮かばないこと請け合いです。これを請け合ってもどうしようもありませんが^^;

こうした問題が出てくるのはやはり心理障害メカニズムが絡んでなので、ここまでの「基本」の話を踏まえながら、さらに「心の障害」における重要なテーマを追加して考える必要があります。

それが「空想と現実」というテーマです。


■「自己像」は「自分」ではない

「成長」は、「愛」「自尊心」というテーマを軸にすることを掲示板で書きました。
「障害」は、「恐怖」と、やはり「空想と現実」というテーマが軸になります。

つまり、「障害」は、「恐怖」によって「空想」が「現実」を覆い、「現実における成長」ができなくなってしまうことにあります。「現実における成長」ができないので、「恐怖」がいつまでも克服できません。

>私がこの恐怖を押して行動したらどうなるかというと、死ぬかと思うほど動悸がして、呼吸が苦しくパニックになり、滝のような汗にまみれて正常な思考が働かなくなります。それこそ目の前が真っ白になります。どうあっても、この恐怖をおして行動はできないと痛感しました。どうしてもその先に行けないのです。
>頭で一人で考えている自己像と、実際に行動してみた現実の自分とのあまりのギャップに改めてめまいのする思いでした。

まず言えるのは、「空想は現実ではない」ということです。同じように、「自己像は自分ではない」
この、あまりにも当たり前のことを、どう考えるかが、実情として「恐怖の克服」の第一歩になるでしょう。


■「心のハンディ」を受け入れる

今までの話を踏まえて、その状態に対して言えることをサマリーしましょう。

まずそれは「現実外界の脅威」を示すものではありません
一方、何かを恐怖に感じて、行動できないほどになってしまう。この事実は、「心の現実」として受け入れるのがいいことです。そうするしかありません。

僕がそれをどう受け入れたかの、実感としての言葉を言いましょう。僕も同じだったんです。
それは「心のハンディ」です。現実外界とは別に、怯えてしまう自分の心がある。これをどう考えようとも、これは一つの現実なんですね。

それを現実として受け入れどう対処するかに、「建設」という話が出てきます。Aさんに一番分からないのは、この部分だと思います。

僕自身の体験を言えば、僕はそこで、自分を「心のハンディのある者」として、受け入れました。ここからは、身体ハンディのある人と、同じです。自分のハンディを「これは悪い夢だ」と怒っても、それは消えてはくれません。
これを受け入れるまでに、時間と失意の谷間が必要かも知れません。それなしに、思考法だけで受け入れることができたわけでも、僕もありません。

受け入れたら、まずそれをいたわるしかないです。怯える自分の心を、優しくいたわることです。
そしてその上で、多少の痛みへの耐性をつけ、それをスタートラインにして、自分がハンディを抱えたまま何をできるかを、探していくわけです。
身体のハンディの場合と同じです。

違うのは、そうして受け入れて自分にできることを探していく「建設」の先で、大元の「心のハンディ」そのものが消える変化へと向かったことです。


■「心のハンディ」を受け入れる空想世界と受け入れない空想世界

頭で一人で考えている自己像」は「空想」です。
「得体の知れないものに怯えた自分」は「現実」です。

この2つのギャップをどう考えるかがキーポイントになりそうですね。

「頭で一人で考えている自己像」とは一体どんなものだったのか。
それを取り下げて、「得体の知れないものに怯えた自分」という「現実に合わせた自己像」を考えようとしたところで、それはやはり「空想」です。

まあ「自己像」の内容よりも、それを考える姿勢が重要になる、とは言えるでしょう。

「自己像」を考える背景にある価値観であり人間観人生観世界観が重要になってきます。これが、取り上げ始めている「価値観思考」になるわけです。

話が長くなりましたので、この具体的検討を今後の課題と考えて頂き、ここでは参考例を出しておきましょう。
『悲しみの彼方への旅』から。

P.58--------------------
残された抑圧の解放

 その後私の中で開放されたのは、もはや「対人関係の改善」を目指して自己分析を始めた人間像とは似ても似つかない内面でした。絶対善悪の否定はすでに高校時代に果たしていましたが、それでもまだつけ続けていた
理想論者の仮面を自らはがしていくような日々が続きます。
 ある出来事の中では、「若い女性を憎むことにこれからの人生の目標をおこうか」と考えるほどの屈辱感と憎悪の中に。
 そして
この世界は万人の万人に対する競争なのだという攻撃性の哲学が自分の中にあることを自覚します。心の中が「敵意と軽蔑のモヤ」に覆われていました。

 しかし、感情の抑圧に回されていた心のエネルギーは、抑圧の解除に伴って、内面の力として、自ら湧き出る感情のエネルギーとなって回復してきます。
 やがて次第に私の中で敵意と軽蔑のモヤが消え、自分の心の中にある幾つかの断片的な感情の構図が見えてきます。
傲慢なナルシズム感情への確信と、それとは全く対照的な、自分はみずぼらしい人間だという被軽蔑感。自分の中のサディズム的性衝動に直面し、その中の暴走色を解除すると同時に、残っていた道徳者的仮面を破棄する時も訪れました。
P.105-------------------
 その日の午後、私は漠然と考えていました。街で見かけた、
自分の外見を勝ち誇るように歩いていた女の子・・。今まで僕には信念のようなものがあった。あの女の子みたいに、自分の外見を勝ち誇るような生き方は、幸福につながらない。自信は内面から生まれるものだと。
 それも結局は、
自分を偽ったステレオタイプの信条であったような気がする。この現代とは、彼女のような生き方で通用する時代なのだ・・。

 自己分析によって目指した、人格の成長。そして自分を飾ろうとする自己への恥辱・・。
 全てが、この現実世界にたち打ちするための心の鎧でした。でも本当に追い求めたものは、そこにはなかったのです。
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そうして、自分が心の根底の本心で考えていることに、一度真正面から取り組むのが、やはり根本的な「恐怖の克服」への通り道になると思います。
そして「万人の万人に対する競争なのだという攻撃性の哲学」の中で生きるとは、結局恐怖の中に怯える人生だと。

その哲学によって、自分の現実を認めないという心の動きになります。手短にその先のメカニズムを言えば、自己軽蔑している何かを、他人に見つけて怒り軽蔑するという心の動きになり、「現実」はその攻撃性が自分自身に向かう潜在的な場として「得体の知れない恐怖」の世界になります。

そしてハイブリッドが示す転換は、そうした心の根底の本心において、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」そして「現実の受け入れ(サバイバル世界観)」などを問うことになります。
そうして、「恐怖」という心の現実ハンディの受容が成されます。
そこに立って、恐怖の克服意志を持つことで、真の「恐怖の克服」への道のりが始まります。
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魂の治癒成長への実践-60 / しまの
No.1228 2007/05/12(Sat) 12:17:30

ではその58で紹介した返答メールの続き、「恐怖の克服」概説を。

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■「恐怖」とは何なのか

取り組み実践上は、そうした難解なメカニズムを理解するより、「恐怖の克服」についての正しい理解と姿勢を獲得することが何よりも重要です。

まず、そもそも「恐怖」とは何なのかについての理解からです。

「恐怖」についてのごく基本的で根本的な理解の誤りが、実は「境界性人格障害」などの派手で極端な感情動揺の裏にはあるのではと僕は考えています。
だからこの基本的理解の修正を図ることが、表の感情動揺への「治療」とは全く無関係に見える一方で、劇的に治癒への方向性を生み出す可能性があるのではないかと。
どうでもいい話ですが、これは精神医学にとっても重要な発見になるかも知れません。

でまず「恐怖」とは何なのかですが、学術的表現をすれば、「恐怖」とは極めて中途半端な「危険回避システム」であることを理解する必要があります。

それはまず危険を察知した時の、「逃げろ」という脳の信号です。
その行動に仕向けるだけの、嫌な感情として体験させ、さらに、怒りの場合と同じように多少とも怪我をするのを前提とした、心身状態の変化と機能低下を引き起こします。怒りの場合攻撃エネルギーが促進されますが、恐怖の場合はむしろ活動エネルギーは停止に向かわせられます。

かくして、「恐怖」が逆に危険を増加させる場合があります。足がすくみ腰が抜ける。ヘビににらまれたカエルですね。現実の危険に対処できないどころか、積極的にその餌食になるような始末まであり得る。
こうして、「恐怖の感情」それ自体が「脅威」になる現実があるわけです。

このように、「恐怖」はきわめて「暫定的な危険回避システム」であって、基本的にそれを使う状態から使わない状態への移行が求められるものと考えられます。

まあ実際その移行が、動物の進化であり自然界における勝者を決めるものだったと言えます。
答えは、やみくもに恐怖がなくなればいいというのでもなく、より正解に現実の危険を察知し、より有効に対処できる、「恐怖の感情」とは別の「完成された危険回避システム」を獲得することです。

もちろん、人類の場合それは「科学」です。


■「恐怖の理解」の基本

ですから、より平たく言いますと、「恐怖の克服」の基本の話になります。
まずは「恐怖」とは何なのか「理解」の基本からです。

まず、「恐怖の感情」を、「現実の危険を示すもの」と考えてはいけません。そう考えたらアウトです。つまり恐怖の克服はできません。
これは実に単純な話です。「現実にある危険」を察知するために「恐怖感情」を使おうとするのであれば、「恐怖」がなくなることは、あり得ません。

ですからこれについては、「恐怖」を、「現実の危険を示すもの」と考えるのではなく、あくまで「心が危険を感じている」、それ以上のことでもそれ以下のことでもなく、「現実の危険」については、恐怖感だけで判断するのではなく科学的知性で判断する姿勢が、極めて重要になります。

一方、「恐怖を感じないのがいい」と考えるのもあまりいい方法ではありません。

これは2つの理由があります。一つは恐怖に代わる危険察知の知性が充分発達してない時にそれをすると、「蛮勇」という姿になるからです。これが実際この人間を危険にさらしやすくします。
もう一つの理由は、「恐怖を感じる自分をこき下ろす」という、自己否定自己処罰を生むからです。恐怖を感じる自分を駄目だと考える。そして実はこの「自己否定」が新たなる「内面の脅威」として、実際のところ恐怖を引き起こします。

ですから、「恐怖」というものを理解するための基本は、まず「心が危険を感じている」という、それ以上のことでもそれ以下のことでもないものと知り、受け入れ、その一方で「現実の危険」について科学的知性を使う、ということです。

やはりこの2つを「同時に見る姿勢」が極めて重要です。


■「恐怖の克服」の基本1:「耐性」

次に、そうして認識した恐怖をどう「克服」するかの基本です。
これはまず2つのことが大きいと思います。

まず基本的に、「恐怖」という感情への「耐性」をつけることです。

これは「悪感情への耐性」と言っている話の中の、基本的なものです。「悪感情への耐性」としては他にも、フラスト感苦しみ感嫉妬空虚感嫌悪感被嫌悪感と言ったさまざまな悪感情への、「耐性」というごく単純な姿勢が含まれます。

この「悪感情への耐性」という、地味な話(^^;)が、ハイブリッドの中でも、その話の内容の単純さゆえにあまり多くの説明文章を割かなかったせいもあり、あまり重要に感じなかった方も多いかもしれませんが、これは決定的なものなんですね。

「恐怖への耐性」を説明するごく平易な例は、「注射を怖がらなくなる」ということそのものです。
これはちょっと分析すると、2つの要素からなる。痛みを実際に体験して、「それほどでもない」と感じられるということ。そしてもう一つは、それが役に立つことでもあるのを納得すること。
「それほどでもない」なんて言ってられない痛みでも、人生を変えるほどの役割があれば、まあ人はなんとかそれを耐えるものです。「感情の膿」なんてそれなんですけどね。

まずはとにかく受け流す強さですね。それが「役に立つ」ものでもあることを知るのは、感情の膿を流した後の変化が実感として分かるような、かなり先の話になります。
まずは受け流す強さとしての「耐性」を獲得する、「習得」することが重要です。

僕が変化できた理由として、「恐怖」に対しては、徹底的に科学的思考による「耐性」をつけたという基本的で地味な歩みが、底流にあります。一度この件への自負を短めに書いたことがありますが、その徹底度については絶大なる自信があります。
2005/06/17 「異形」の起源と受容
など。
あまりグロな話を書くのもなんですが、人が死ぬ形態を色々考えて、恐れる必要はないという科学的思考などしたり、結構したものです。
こうしたことなしに、「感情の膿」というもの、「心理障害」というものの克服は、ちょっと難しいのではないかしらと僕は考えているのですが..

まあ取り組み実践においてはそんなラディカルなこと(^^;)をすぐ始める必要はあまりせん。
まずは、日常の生活の中で、恐れを感じた時に、「怖いと感じるということは現実が恐ろしく駄目だということだ」という「感情による決めつけ」思考をやめることです。

そして恐怖を感じたことを嘆き騒ぐことで誇張する姿勢を解除することです。ここに「耐性」が基本的に始まります。

つまり、まずは恐怖感情を受け入れることです。恐怖感情を、感じてはならないものとは考えずに、ただそのままに感じ取る姿勢が重要です。

そして次に、上で述べた「理解」を図ること。「恐怖を感じるという心の現実」と「科学的知性による現実の危険判断」の両方をしっかり見ることです。
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■「痛みや恐怖への耐性のなさ」と「自分で人生を生きることへの絶望無力感」

ちょっとここで補足を入れておきますと、逆の「耐性のなさ」は、先に述べた「自分で人生を生きる」ことへの絶望無力感とも強く結びついていることが考えられます。

当然、「誰かに助けてもらう」という基本的感覚が心の底流にあるわけで、基本手に「耐性」どころの話ではなく、痛みや恐怖を強調する姿勢が生まれることが考えられます。
これがさらに、痛みや恐怖を感じる「か弱さ」「繊細さ」を美化してしまうと、もう完全にアウトです。「痛がり」ちゃんや「怖がり」ちゃん^^;
感情の膿に触れた時に、心理障害の餌食になってあっちの世界にさようなら〜ということになりかねない。いやこの表現は余計^^;

あとはまあ「感情没入」「忘我衝動」といったものによって、痛みや恐怖の感情が強調されることもあるかも知れません。これは本人が感情分析によって解除することが望ましいものです。
これはホーナイ『神経症と人間の成長』の中で、愛情要求に関連して述べたものです。ちょっと引用しておきましょう(P.315)。一部分かりやすい言葉に修正してあります。
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大きな何かに自己を明渡したいという願望は、多くの宗教のなかの本質的な要素であるように思われる。・・(略)・・それは愛に対する切望という形をとるばかりではなく、他にも多くの形をとって現れるのである。
それは、あらゆる感情に我を忘れようとする彼の傾向の中の一要素にすぎないのである。彼は「涙の海」や、自然に対する恍惚とした感情や、罪悪感への沈溺や、性の快感眠りの中での忘我状態への熱望や、究極の自己消滅としての死への願望に我を忘れることもしばしばなのである。

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僕自身が大いに身に覚えがあるものです^^;
そしてそうした「忘我願望」が強いほど、その裏には置き去りにされた「自分で人生を生きることへの絶望と無力感」が隠されていることも、自分自身の体験を通して直感的に理解できる話です。

それがまだ完全に隠された状態の描写も、『悲しみの彼方への旅』から引用しておきましょう(P.60)
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 それは、人生に対する深い絶望感でした。
 もしこのまま自分の容貌の価値さえ失われたら・・。
 それが最後の〃本丸〃だった。感情は何の意味も持たなかった。感情を材料にしていたのは、〃人生が自分に強制されたから〃にすぎなかった・・。
 僕にとって本当は人生など何の意味も持っていなかった・・。
 私は特に大きな感情も感じることなく、ただ自分の中に浮かぶそんな思考を漫然と眺めます。
 その底にある、本当の心の闇の姿を知らないまま・・。

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これは一見、「人生への絶望と無力感」「隠されている」のではなく、「現れている」ように見えるかもしれません。
しかしこれは「魂の絶望感情」をカモフラージュする「心のイメージ」でしかありません。それは「空想から現実を見下す」という「自分自身への優越感」によって、ごく皮相な感情としてごまかされているのです。

この人間が心の底に抱いた、本当の「人生への絶望と無力感」は、この本での描写が示す通り、「望みに向かう」ことで露わになります。
ここで「最後の答え」と言ったものによって、最初の峠が現れるというような話になってしまいますね。

まあそんなものです。全ての話が、大きなスパイラルとなって幾重にも循環します。説明している順番というのは、その中の順番であって、一度一通りこなせば終わりという英単語ドリルの勉強のようなものとは、根本的に話が違います。

先のカキコで述べたような否定感情蔓延ケースでは、僕の体験と同じように、その中盤において最大の絶望の峠を経るというのが、やはりハイブリッドからの理論的帰結です。
ただし、『悲しみの彼方への旅』で描写されたその深い谷のような巨大な絶望は、実は本質的なものではなく、何度か書いたように、「絶望は問題の深さを示すのではなく解決の無知を示す」ものであったに過ぎません。

魂論を踏まえ、明確に治癒と成長への道を知る中においてのそれは、そのように巨大な絶望感の姿になることは全くの無用だと考えています。


魂の治癒成長への実践-59 / しまの
No.1227 2007/05/12(Sat) 10:27:11

■「基本的自己受容」から「恐怖の克服」へ

「恐怖の克服」は、魂論における「治癒への取り組み」の、2番手として位置付けられるものと言えます。

一番手はやはり「基本的自己受容」であり続けます。つまりハイブリッドの取り組みの最初に位置付けられるのがこれです。
これは「ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長への道」でも、そのように示していましたね。
http://tspsycho.k-server.org/guide/m00.html

「基本的自己受容」は、「唯一無二の存在としての自己の成長」へ向かう意志と定義されます。これは、人生の生き方を、自分で考えて、自分で選択していくということです。ハイブリッドはですから、「こうしなさい」とは言わず、「心の使い方」の選択肢を示し、選択を委ねるという解説スタイルを取ります。

案外、これが全くすっ飛ばされたまま、ハイブリッド取り組みをしようとするケースがあるのが時々です。それに本人も、そして僕も気づいてないまま^^;
ちょっとその状況をここで書いておきましょう。結構役に立つ話と思われ。

僕としては、ハイブリッドはあくまで「自らによる成長」を支援する心理学であって、お任せモードで「治療」してもらうという「療法」ではありませんよという最初の確認をしてからスタートしているつもり。
そして実に熱心な相談やり取りが続いたあと、突然流れが途切れ、その途切れ方から、その方が実は内面に「基本的自己拒絶」を抱え、「自分など信じない」という頑とした姿勢の上で獲得した、全てが人の目基準での「理解」と「努力」そして「ストレス」の中にあったであろうことが分かります。
あらこれじゃ全然話にならないだわさ、と僕は気づくのですが、後の祭り。チャンチャン、という次第^^;

これは比較的、精神科や心療内科などに通院したような方であるケースが大抵です。つまり、やはり最初に「療法を受ける」という「お任せ」モードがある。いかに僕の意に添うかが治癒だと勘違いしていたケース。
根底には「基本的自己拒絶」

この場合はう〜んとちょっと考えてしまうのですが、感情分析から入って「基本的自己拒絶」をまず明らかにするのがアプローチかなぁと考えています。
本人にまずこれを自覚してもらって、まずはそこに最初の選択があるのだということを、話し合う必要があると感じます。
でないと、その先の全てが始まらないと。

「魂への取り組み」の第1段階として説明した「自分に向き合う価値を知る」というのは、「基本的自己受容」の魂の視点からの表現になりますね。

そうして、自分の頭で考えて自分で決めていくという基本的な姿勢ができて、次に「恐怖の克服」2番手、そしてハイブリッド取り組みの全体を貫く、大きな「治癒への実践」として位置付けられるものになります。


■「自分で人生を生きる」ことへの絶望無力感という「成長」への峠

またこうした「基本的自己受容」が問題になるのは、多少ともハイブリッド取り組みが進んだ後の段階においてもあり得ます。

これは心理障害が生み出す感情動揺が、もっぱら治癒取り組みを促したケースです。とにかくその感情動揺への向き合い方を学ぶことで、多少の心性崩壊などを乗り越え、意識土台が改善される。以前のような絶望的動揺ではなく、なんとなく生活を維持できる。
しかしその後に、ほぼ「完全なる停滞状態」が訪れます。自己嫌悪感被嫌悪感、そして全般的空虚感の中で、全く前進が見えない状態になる。

ここでもやはり、「自分で人生を生きることへの絶望無力感」という、幼児期から獲得した感情の塊が放置されたままになっていることが考えられます。その結果、それが「与えられるべき」感覚幻想に化け、「与えられる」ためには「心がこうならねば」となり、一方で荒廃した衝動があり、自棄的な怒り感情が他人に向けられ、その報復の怒りが向けられるという感覚が起きる。
こうして、いつ終わるのか分からない「恐怖に囲まれた人生」だけが見える状況になります。

これは「人生を生きる」ということ、そしてこの世界と人間についての理解、そうした人生観・世界観・人間観を問う「価値観思考」の検討と同時に行われる感情分析が、アプローチになると考えています。
そしてハイブリッドのサバイバル世界観と科学的人間観が、この人間が幼少期から抱いたそれに対する対案として示されます。

それを、頭の中で考えるだけではなく、一度「自分で人生を生きることへの絶望無力感」に立ち返って、検討する必要があります。
「恐怖の克服」への理解も、そこに連合軍として参加する必要があるでしょう。また「自分で人生を生きることへの絶望無力」の原因となった、社会で生きるスキルについての勘違いも修正を図らねばなりません。
最後に必要なのは、間違いなく、「生と死」というものを天秤にかけての、「自己の現実」に立った「基本的自己受容」を選択する勇気になるでしょう。
これはこの後紹介する返答文の続きで、自分を「心のハンディを持つ者」として受け入れる姿勢として説明しています。

基本的自己受容」そして「恐怖の克服」は、こうして、ハイブリッド取り組みの入り口だけではなく、その中盤においても大きく問われるテーマになるわけです。

こうしてここで書いたような話は、主に最初から否定感情が蔓延した難しいケースの話になりますが、それが成された時、その後の道のりは、そうではない、比較的短期間で変化を体験されている良好なケースと同じものになると考えています。
まあその峠が大きいということになるでしょう。

ちょっと毛色の違うテーマも入ったので、これだけカキコして、「恐怖の克服」概説を次に。


魂の治癒成長への実践-58 / しまの
No.1226 2007/05/12(Sat) 08:29:56

■「見えないものの大きなつながり」サマリー

「見えないものの大きなつながり」の鍵は、「恐怖」「与えられるべき」観念です。
まずこれについて説明した返答メールを紹介しましょう。

そして「見えないものの大きなつながり」のメカニズムとは何なのか。結論を書いておくと、「魂が抱く恐怖」「感情の膿」です。それに対する耐性がない、つまり「強すぎる恐怖」によって、人格の根底に隔離された恐怖感情の膿と、「人生を自ら生きる」ことへの無力絶望感情が置き去りにされ、意識表面には「与えられるべき」観念が生まれる。
「心がこうであれば」というイメージと、「あるべき姿」によって「与えられる」という「自らは望まない」という「自らについた嘘」の最大骨格が生まれます。

答えは「恐怖の克服」にあります。これは意識思考における恐怖の克服と、感情の膿に実際に向かい得る強さという2面によって成されます。
意識思考における恐怖の克服によって、「与えられるべき」観念の中の思考論理面が解消克服されると考えています。
一方、「与えられるべき」観念のイメージ感性面はそれだけでは解消克服されず、ここに「感情の偽装」という最後の「自らについた嘘」の核とも言うべきものが焦点を浴びるようになる。

それを突破する、「望みに向かう」が答えの最後に位置付けられます。最後まで「自己操縦心性の崩壊」が特別な現象として、その役割を果たすものになります。
それにより、我々は自らの心の不実を知ることになるのですが、同時に、なぜそれが必要であったのかを理解しなければなりません。
嘘と真実「現実を生きる」ということ、そして人間の不完全性というものの真の姿を、我々はその時初めて知ることができます。それを受け入れ、全てが「傷ついた自分」を救うために自己操縦心性が成したことであったのを受け入れた時、我々は「無条件の愛」という人生における光を、始めて見ることができるでしょう。

そこに、その光に照らされた、新しい、揺らぎのない人生が見出されると、僕は感じるわけです。


ではまず、「恐怖」と「与えられるべき」観念の意識下つながりという、「見えないものの大きなつながり」のメカニズム解説から。
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■「与えられるべき」感覚の幻想と思考障害

まず、先日のメールで「今まで手付かずだった」と言った件について説明しておきましょう。
これは心理メカニズムアプローチもいまいち見えなかった部分であり、Aさんにもその該当する「症状」があったという話になります。

これは「与えられるべき」感覚の話です。
Aさんの場合ですと、「自分が相手の立場で自分を見たら」という設定で考えてもらった結果、かなり辛辣に攻撃する内容の思考が現れていました。
一方で、でも実際には「攻撃される覚えはない」と感じるという話。これは論理の矛盾です。

つまり、「自分だけは特別」という感覚でもありますね。これはAさんだけの話ではなく、ハイブリッドに相談に来られて、なかなか変化しない方に共通の特徴です。どうも奇妙に、周りの人間世界と自分とが対等な関係にあるのではなく、一方的に自分が与えられる側に立つという論理の偏りのようなものがあるのを、僕としては感じていたわけです。

でその偏りが、どうもハイブリッドで一般的に扱う「感情の動揺」とは、ちょっと異質な問題であるのを感じていたのが正直なところです。
はっきり申し上げますが、つまりそれは「感情の障害」ではなく、「思考の障害」が起きているということです。
これは程度が強くなると、「精神障害」と分類されるものに該当してきます。

ただし「精神障害」というのは実際その強度深刻さが社会生活を難しくするほどのものであり、この要素はいわゆる心の悩み、心理障害においても一般に起きています。Aさんの場合も、レベルとしては充分セーフなので、こうして相談してもらっている^^;

ただまあこの異質な問題の厄介さが深刻なのは否定できず、「感情の障害」ならどんな深刻でも極端でも「精神障害」にはならないのですが、「思考の障害」は深刻になると一気に「病態」の質が悪化してしまいます。
Aさんも以前自分が「境界性人格障害」だと感じたこともあるとのことだったと思いますが、その「精神障害との境界性」が、この「自分だけは特別」という感覚論理になるわけです。


■未克服の「魂の恐怖」(感情の膿)が「与えられるべき」感覚の幻想を生み出す

で今まで、この「自分だけは特別」という感覚論理について、僕としては何とか理性に訴えてその不合理性を自覚してもらうというアプローチしか考えられなかったのが状況でした。
「人にこう思われる」の候補立て分析なども、これを浮き彫りにする手法として考えた次第。

でもそうして「自分だけは特別」という感覚論理を本人に自覚してもらっても、それを自分で疑うことができない状況も考えられ、そうなるとちょっとお手上げかとも考えていた訳です。
Aさんの場合もちょっとこの可能性があるかもと。

ところがどうも、今まで考えつかなかったメカニズムが見えてきたわけです。

それは先日の「人生への嫉妬」が実はイメージの嘘が作っているらしい、という発見あたりからです。この「人生への嫉妬」も、やはり「与えられるべき」感覚があってこそ、そうなりますので。

で考察は、それがなくなった段階までの流れを追ったわけで、この辺のもう少し正確な話は掲示板でまた考察しようと思いますが、明らかに、それがなくなる段階との間には、どうも「恐怖が強すぎて向き合えない」というものが間に介在していたということです。
それがなくなると、「与えられるべき」論理のない感情論理の世界になります。この2つの間には、意識上のつながりは全くありません。

つまり、一方には恐怖が強すぎて向き合えないものが心の底にあり、一方には「自分だけは特別に与えられるべき」という論理が幻想的にあるわけです。この2つの間の意識上のつながりがない

従って、「恐怖が強すぎて向き合えないもの」がなくなれば、意識上ではそのつながりは全くないまま、「自分だけは特別に与えられるべき」という論理の消えた思考が現れるのではないか、というのが僕の今の仮説です。
これが昨日のメールで「恐怖の克服方法が分かってくると、思考の内容が非連続的に変化する」と書いた話です。


■「与えられるべき」感覚幻想の3形態

なおこの「思考障害」としての「与えられるべき」感覚幻想には、大体3形態があると考えています。

これは詳しくはここではどうでもいい話ですが、僕の整理としてこの場を借りて書いておけば、
1)自分は特別に怒り非難を免れるという論理
2)対等性の欠如
3)自分が人に特別に意識されるという感覚

となります。

先日の親睦会欠席の件は、上記3)を浮き彫りにして、対案思考をできるようにすることを狙ったものです。

>>「空気を読んで」の結果としてではなく、つまりAさんの職場ではなく他で同じ状況の人がいた場合の、人がどう思うかの候補として考えて下さい。
>空気を読まず、単純に考えるなら、「行きたくないなら行かないでいいんじゃないの」ですね。

まあ大体そんなところですが、僕が用意した答えは、「特に気にしない」です。
「行きたくないなら行かないでいい」とさえ、意識はしない。

これは非難されるという想定とは逆の形で、孤立感を刺激する可能性があるものです。つまり、自分の存在など誰も気にしないという感覚。
ということは、非難されるイメージは、実はその回避のために生まれているというメカニズムも考えられます。「実は得ているものがある」わけですね。

>実際欠席したからといって誰かの態度が変わるということもありませんでした。

これはまあ「さもありなん」ですね。

こうした思考整理で重要なのは、「白い目イメージ」がまずは現実ではないというのを、しっかりと実感を得ることです。
それは人が自分に向ける目の現実ではない。

ではそれは何かというと、結局「自分の目」なわけです。
そこで、「自分が相手の立場で自分のような人間を見たら」という設問が意味をもってきます。明らかに、自分を攻撃するのは、他人ではなく自分なんですね。

そこに「恐怖」が起きます。

自分に向けられる白い目が他人の現実ではない。自分は非難を免れるべきである。自分が相手なら自分を攻撃している。
これは論理が成立しません。「恐怖」がどこから向かってくるのか、得体の知れないような形になります。
話がつながってきましたね。
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魂の治癒成長への実践-57 / しまの
No.1225 2007/05/11(Fri) 16:51:28

■「ガチガチ人格脳」の3つの特徴(続き)

3)断絶隔離された深層感情の存在

現実の不在」そして「感情の強制」に続く、「ガチガチ人格脳」状態の3大特徴の最後は、今までの話が本人にも何とか分かる話であるのに対して、今度の話は本人には完全に分からなくなるものです。

それは、全く意識体験されていない、全く異なる感情が意識下に存在するということです。
「精神分析」とは、まさにこれがあって成立した科学領域です。ハイブリッドの「感情分析」も、それに近づくアプローチです。
この様子は、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg
に図示しましたので参照あれ。

この「断絶隔離された深層感情」の存在を描写した分かりやすい例は、僕の最初の出版本である『悲しみの彼方への旅』の全体そのものです。事実僕はそれを社会に知らせるために、この本を書いたとも言えます。

中でも最も端的なのは、この自分自身の内面の内面に苦悩し、やがて自己の探求の中で置き去りにされた過去の自分を蘇らせた主人公に、それとは全く別の人間として生きることに成功していた「躁の時代」という人生期間が存在したことです。快活さを演じ、自分が思いのままに行動して人とも仲良くなれることに、一点の曇りも感じなかった人生の期間です。
それとは異なる内面を、今の僕の目でその時の、“やがて今の僕になった人間”に見出そうとしても、感じることができるのはその描写で書いた通り、だた“全く音のない静寂”だけが見えるという印象です(P.33)

その同じ人物が、やがて描写したような「心の旅」を歩む。


■恐るべき「魂にとって別人」への成り切りメカニズム

そう概観したとき、人間が心の底に隔離した「魂の感情」とは別人になり切ることが実際のところできる可能性は、恐るべきものがあるように感じます。
事実、心理障害傾向に悩まれる方に、同じように「うまくいっていた自分」という人生の時期を持つ方が少なくありません。そしてしばしば、その気持ちは当然分かるような話として、そうした「元の自分」に戻ることが、自分の心の問題解決なのだと考えます。
これは一体何なのか。

実際のところ、「うまくいっていれば」、そうした「うまくいっていた自分」のままだったかもしれないのです。僕のように心の深層に全くそれとは違う闇の感情が「実在」していたとしてもです。

そうした「うまくいっていた自分」においては、心の成長が実はどうかという視点は、ハイブリッドにはありません。
ただ言えるのは、実際のところそのままでいることができなくなったという事実があり、そこからハイブリッドの視点が始まるわけです。同時に、人が「うまくいっていた自分」のままで最後までい続けることが本質的に可能かどうかを考える視点はハイブリッドにはなく、ただ言えるのは、一度「うまくいかない自分」になった人間が「うまくいっていた自分」に戻ることを解決と考えても、それはまず不可能だろうということです。

実際僕の場合も、「躁の時代」の中では心の成長は止まっていたかと考えれば別にそうでもなく、今の僕から言えるのはただ、それも自分の人生の一時期だったという、それ以上のことでもそれ以下のことでもない「現実」があるということです。
一方その後の人格動乱(^^;)の中では、「躁の時代」の自分への現実感が一過的に失われる場面もあります。これは人格の断裂がある中で、一つの人格から他の人格が見えなくなるというメカニズムでしょう。治癒に伴ってこれは解消し、人生の全ての時期がつながって実感されてくるという形になります。

そしてまた、これだけは言えるというのは、「魂の感情」を偽った感情の上で築いたものは、人生においては何も残らなかった、ということです。
実際それは具体的に何かと考えても、特に何が残らなかったという印象さえ薄いほど、単純に、その時期の自分で今も残るのは、写真の趣味くらいのもので、特に人間関係の面では何も残るものはありません。


■「なりたい自分になれている」という幻想とその崩壊

事実上記の雑感が、その35(4/22)“「あんな心があったら」どうなれると言うのか”という問いを出し、次のカキコで考察すると書きながらしないままでいた(^^;)答えです。

「自分には何の心の問題もない」という自己イメージで生きる状態に、なり得るということです。
ところがこれは、http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg
の図における、「ガチガチ人格脳」と「ピュア人格脳」の奇妙な相似形を気づかせるものです。つまり、「ガチガチ人格脳」が完全に深層の魂感情層を切り離すことに成功した時、人は自らの心をピュア人格脳だと錯覚して生きることになる、ということです。
この極端な姿は、もちろん精神障害の世界になります。もはや現実とは全く別の、自己完結した空想世界の中で生きる姿です。

ではその中で生きる人間自身から見た時、何を「現実」と考えればいいのか。
一方には、「自分には何の心の問題もない」と感じて生きている人間がいます。僕の「躁の時代」のように。そして『悲しみの彼方への旅』に描写された内面の闇の中の放浪へと向かう人物も、同じ人間である。そう思い浮かべる時、そのあまりの別世界の感覚に、いったいそのどっちが「現実」なのかという疑問が浮かぶ錯覚も覚えます。

これが、魂論における「治癒」の側面の大きな軸である、「空想と現実」というテーマを投げかけます。
「なりたい自分」に「なれている」という感覚が幻想であるとした時、「現実」はその空想通りであって、それが「現実」ではないかという考えも浮かびます。一方、内面の放浪の中で蘇らせた魂の感情こそが「現実」だとした時、それはあまりに「現実」とは別の、内面だけの話のようだという考えも浮かびます。

まあこれがハイブリッド魂論の中でも、最も深淵な話の領域になります。
結論だけ言っておけば、「魂は現実を志向する。だが魂は現実を知ることができない。心は現実を見ることができるが、心は空想を使いもする。そして恐怖から逃れるために心が空想を使った時、魂の感情と現実が失われる」となります。

「見えないものの大きなつながり」のメカニズムを示唆するもう一つの側面として、「なりたい自分になれている」という幻想がどのように崩壊していくかの過程が、ちょっと僕の興味を引きました。

これはどうでもいい話かも知れませんが、簡潔に言うと、まずそれは自分の心への異和感から始まるように、僕自身の、そして他の多くの例を概観して感じます。
それは「なりたい自分」でいるために「必要な感情」が、自分の中に湧いてこないことへの異和感のように思われます。まるで車のガソリンが切れてしまったかのようです。
そして暗雲の焦りの感覚と共に、自分が別の自分へと変化していくという時間を迎えます。暗雲の焦りはやがて、「なりたい自分ではなくなった自分」が、回りの人々や世界の中で、自分にとってなってはならない構図の中に置かれるというイメージへと明瞭化されます。自己嫌悪感情と、他人から自分に陰険残忍な軽蔑嫌悪が向けられるというイメージが心を覆うようになり、「心理障害状態」として「感情動揺に満ちた状態」へと「安定」します。

このように、「なりたい自分になるために必要な感情」という内面におけるズレが、やがて回りの世界と他人との軋轢と圧迫へと、まるで同芯円が拡大するかのように拡がっていく、という流れです。


■魂論における「治癒」軸のサマリー

一体何がどうなっているのかと感じられるかも知れませんが、答えは実に単純なんですね。
「現実」は「知って」向かい得るものではない、ということです。

魂は現実に向かおうとします。だから、魂の望みに向かうことで、我々は「現実を生きる」ことに近づきます。
そこに「恐怖」が出てきます。「新たな現実」は「恐怖という敷居」の先に開かれます。
つまり、我々は望みに向かうことで現実に向かいます。そこにおいて、望むことが「恐怖」になります。


「心」が恐怖の克服を知らず、恐怖から逃れるために、空想という「自らについた嘘」を使ったことが、全ての問題の始まりです。
「自らは望まない」という嘘をです。「あるべき姿」であれば「与えられる」という嘘を。


従って、魂論における治癒の「軸」は、「恐怖の克服」「望みに向かう」になるわけです。

これを理解するために必要な、「見えないものの大きなつながり」のメカニズムの説明を入れてから、最終総括へと行きましょう。


魂の治癒成長への実践-56 / しまの
No.1224 2007/05/10(Thu) 17:00:01

■「ガチガチ人格脳」の3つの特徴

さて、先のカキコで『悲しみの彼方への旅』から描写を抜粋したような、「ガチガチ人格脳状態」の特徴としては、大きく3つのことを指摘できると思います。

1)「現実」の不在

まず第1に、僕自身が実感としてしみじみそう感じるのですが、「現実」というものが心の中にほとんど存在しないと言える状況が起きていることです。

もちろん完全に「現実」が「瓦解」する「精神障害」ではないので、「現実」が「空想」とは一応別(^^;)に存在していることは分かっているのですが、心の中のイメージや衝動があまりに強く、足元から根こそぎさらうような圧倒性を持っているので、どうしても「現実」をイメージや衝動を通して見るという形にならざるを得ない状態があったわけです。

つまり、空想世界がこの人間の「生」における「主座」を持っています。

中でも、「なりたい自分」「なるべき自分」の空想の圧倒的優先度が特徴と言えるでしょう。外見の話よりも内面の、「持つべき感情」というのが重要な話になります。そこにおいて、空想とは違う「現実の自分の感情」というものを見るならば、まずそこにあるのは「無の空間」であり、まずそれを埋められるものとしてあるのは、「なるべき自分」に合わせての「感情の強制」があるわけです。

そして実際にそう振舞おうとして、そうできない場合にあるのは、やはり「現実の自分の感情」というより、そんな自分を処罰する感情です。まずそれが目の前を覆います。
ここにおいては、はっきり言って、「現実は邪魔者」なのです。

2)感情の強制

2つ目の大きな特徴は、上で既に触れました。「感情の強制」です。

「感情の強制」というのは、改めて書きますが、奇妙な人間の心理現象であって、通常そんなものは何のことか分からないものです。健康な心においては、それは基本的に存在しないものです。一方、感情の強制が充分に機能していると、本人がその存在に気づきません
つまり、感情の強制が知覚されるとは、感情の強制が不十分に機能した状態です。

つまり、「感情の強制」が自覚されるのは、それが存在する心理障害をこうむってから、健康な心へと治癒する過渡期のみに、その存在が本人に自覚されるものです。

これが実に分かりやすい描写が、今行っている僕自身の日記読み返しで、つい先日そんなものがありましたので紹介しましょう。
「実例描写1」の時期のもので、いちおう「メルト人格脳」状態でのものです。
前半は「感情の強制」とは別のものですが、一応それも面白い心理メカニズムが読み取れるものですので、ついでに載せておきましょう。

2003.6.18(水)
 会社で午前、
“頭に血が昇る怒り”の起きる出来事があった。協力会社のTさんから、「・・・をお願いします」とメールが来た時だ。自分の作業はその前段までであって、その作業は先方の役割だった。結局彼が分かっていなかっただけで、その「怒りの反応」によって一時的に起こした心身不調は、事実全くの無駄だったのだ。
 
「戦闘モード」になった時、“相手の力に押される”という感覚があったように思える。それに対抗して、自分の力を結集して相手にぶつけ返すというイメージだ。
 
相手が“力で威圧しに来る”というイメージがスター