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2007.09


心理学本下巻に向けての考察-51 / しまの
No.1301 2007/09/29(Sat) 16:06:24

■「2種類の人間像への行動学」から「魂の望みへの歩み」まで

またちょっと全体俯瞰
「2種類の人間像への行動学」の基本を以下で説明しますが、ハイブリッドにおけるその位置づけは何か。

それはまずは「治癒」の節目であり、「心の自立」への「成長」の実践ということになります。これは「魂感性土台」に立っての、外向きの方向性と言えるでしょう。

「人の目感性土台」は切り捨てられるのではなく、まずは内面だけに区別されます。そして感情分析があり、最後に、「人の目感性土台」へと姿を変えた大元の魂の感情へと戻るという取り組みが成されます。それが「愛と自尊心の分離」になります。これは「魂感性土台」に立っての、内向きの方向性と言えるでしょう。

その先に「魂の望みへの歩み」が現れます。「魂感性土台」に立った、外向きの方向性と内向きの方向性。これは全くの別世界であることが、取り組むごとに明瞭になってくる。
全くの別世界であるからこそ、進めるということになるのかも知れません。結論はやはり深遠です。2つの全くの別世界を歩み続ける。そこに深遠な統合がある。それが「ハイブリッドの世界」なのだ、と。

下巻もやはりかなりスピリッチュアルな最後で終わりそう..^^;
まとにかく「否定価値の放棄」への細かい道のりも視野に入れながら、説明を続けます。


■「2種類の人間像への行動学」の基本

「2種類の人間像への行動学」の基本を説明しましょう。相手に応じた細かい心理の考え方を、それに合わせて説明します。

もし「健康な心の世界」で生き、「健康な心の人」と共に生き、自らも「健康な心の人」になりたいと考えるのであれば、行動法の指針実に単純明快です。

それは、「健康な心の世界」と「健康な心の人」を相手前提とした行動法に徹する、ということです。
要点は3つになるでしょう。
1)他人の人物善悪評価や好悪評価はしない (非行動化)
2)自分に向けられた人物善悪評価や好悪評価には反応しない
3)「現実において生み出す」ものの共通目標共通利益に着目し、積極的に行動を共にする


これを推奨するのは、まずはごく現実的な問題としては、今の自由主義現代社会はなんやかんやと言っても基本的には「健康な心の世界」であり、「健康な心の人」を中心に動いており、「健康な心の人」の活動によって豊かさが生まれていると考えるからです。

まずこの認識を受け入れられるかどうかによって、この行動学を選択できるかどうかがかなり違ってくるでしょうね。

現代社会は「病んだ心の世界」であり、社会の中心にいるのは本音を隠した腹黒い烏合の衆であり、心の清らかな人間は逆に虐げられる世界である。(^^;)
そう考えるのであれば、この行動学の選択はまず無理です。なぜそうした社会観になるかの「感性土台の違い」については説明していますので、該当する場合は「感性土台の違い」の理解から始めて頂ければと。
少なくとも「魂感性土台の体験」をして、「感情が人に向けるものではない」世界がおぼろげに分かり、社会についても「あるいはそうだったのか」程度には上述の社会認識を持てれば、この行動学は実行に移せるでしょう。


■「愛されれば安全」から「自らを守る」という自立転換のために

そのように「感性土台の違い」が実感として分かるようになってくることと、あともう一つこの転換実践で重要な心理状況変化があります。
それは「愛されれば安全」から「自らを守る」へという基本的な意識変化です。

これは「心の自立」という最大命題に関したことであり、「自己の積極的保護」という兆しを自分の中に感じ始めた人であれば、この命題を自分に問うのがいいでしょう。

「自己の積極的保護」とは、「とにかく自分で自分を守らなければならない」という強い衝動を感じる体験だと言えます。「まず理想ありき」ではない、「まずこの自分ありき」という、やはり意識土台そのものが異なるものが自分の中にあるのを視界に捉えるものです。
これはやはり「魂の感情」という、ハイブリッドがその上に人生を考えるものにより近いものであり、「イメージに支配される心」という、抜け出したい「病」とは違う側にあるものと考えることができます。ですから、「魂感性土台の体験」をした先には、そう遠くないところでこれを見出すことができるでしょう。

「愛されれば安全」とは、まだ親が用意した巣の中にいる若鳥の思考です。思考はどうしても、「どうすればどう思ってもらえるか」という、「人の目」「人の感情」を終着にするものになります。「自分に向けられる目」「自分に向けられる感情」についてばかり思考する存在になります。

現実の世界で生み出し豊かさに向かう人々は、そのようには動いていません。感情を人相手に向けるのではなく、現実というもの全体について思考し意志を持つことの中で、動いています。
そして感情を互いに向け合うものと思考する人の様子はそれとなく分かるものであり、そうした人はまだあまりプレーヤーにはなれない「お客さん」として穏やかに脇に置くような対応をします。

ですから、「感情を人には向けないし、自分に向けられたものとしても扱わない」という行動学は、今の一応は(^^;)健康な自由主義現代社会でうまく生きるための行動学でもあり、それがひいては自分を守る行動学にもなるわけです。
同時にそれは別の面でも自分を守るための行動学になります。それは自分を「感情」から守るということです。それは他人から向けられた感情からということでもあり、自分自身の感情からということでもあります。


ということで、幾つか細かく具体的な考慮点など説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-50 / しまの
No.1300 2007/09/28(Fri) 16:46:29

■「病んだ心の世界」

「2種類の人間像への行動学」で定義する「病んだ心の世界」とは、心理障害の重篤性の基準となる「イメージに心が支配される」という特徴が、人間関係における行動原則になってしまっているような集団です。
つまり「イメージに心が支配される」結果として、「感情が人相手に向けられるもの」として位置づけられ、人々がそれを基準にものごとや行動を考えている世界です。

その結果、その集団の中でやりとりされる感情が主に肯定的か否定的かという内容は、もはや二次的な問題です。
「二次的な」とは、感情の内容以前に器がもう違ってしまっているという話の大きさでもあります。
また、その感情の器の中では、どうしても感情が否定的な方向に向かうようにベクトルが働いています。つまり、結局のところ、その集団の中では否定的感情が飛び交い合い、人間関係が壊れるという基本的方向へと力が働いているということです。

なぜそうなるのかというと、それが「現実」だからです。

「人が互いに優しい感情を向け合うことで調和が生まれる」というのは、「空想」の中だけで成立するものです。
「現実」における調和は、人が互いに優しい感情を向け合うというより、人がその中にいる「現実状況」全体に対する、建設的な感情を共有することで成り立ちます。

「人が互いに優しい感情を向け合う調和」というイメージは、実はその背景で「健康な心の世界」における「無条件の愛」が剥奪された状況があることが考えられます。「無条件の愛」は、相手の条件を問わないからこそ、通常ははっきり相手に向けるのではない、漠然とした感情になるのかも知れません。はっきり相手に向ける「優しさ」が必要であるとは、「無条件の敵意」がある世界なのかも知れません。

また、人相手に直接感情が向けられることは、実は人間にとって本能的にあまり心地良いものではないと、ハイブリッドでは考えています。
愛情要求にせよ、怒りにせよ、じっと自分を見つめられ、感情を向けられることは、うっとうしいことです。つまり「重い」わけです^^; まあ「心の自由」を奪われる面があるからですね。あまり相手の目を凝視しないようにすることは、人間の文化でしばしば作法にも取り入れられています。サルは目を合わせると攻撃するものです。アハハ^^;

現実的にそうした「病んだ心の世界」が、大抵は短期間だけ、出現しては消え出現しては消えるのを繰り返すのが、人間世界の一つの側面だと言えます。
まあ「感情を向け合う」という行動原則の中で、うまく主従関係が成り立ったところで、その集団が始まります。そして「誰を仲間に入れるか」にとても強い意識が配られる「仲良しグループ」活動が始まるわけです。
しかしそれはかなり「心の自由」を奪う拘束的な雰囲気を持つことが多く、大抵は誰かしらの離脱を契機に、互いの非難攻撃合戦になり、グループが解消するというのがごく基本的な流れになります。


■「病んだ心の人」

「2種類の人間像への行動学」において「病んだ心の人」と定義されるのは、「病んだ心の世界」の中でしか思考できない人です。
つまり、「感情」を人相手に向けるものと感じる感覚に立って思考する人です。
つまりは、「人の目感性土台」に立って思考する人、ということになります。

これは先に言った心理障害重篤度で言うと、かなり軽い段階からあり得ます。社会文化などの影響によってです。
重度2の「基本的には健康」であったとしてさえ、そうなる可能性があります。実際のところ、「世間体」思考の日本人、なんて言うと、もうそれだけで「病んだ心の人」です。この行動学においては^^; ハイブリッドの行動学はあくまで今後の時代向けなので..。

そうした思考の中で、まずは「いかに良い人間関係を築けるか」と努力します。しかしその努力とは裏腹に、というかその努力がまさに原因になって、人間関係と社会生活があまりうまく行かないのが基本になります。
なぜなら、その努力が基本的に「使用」するところである彼彼女の「感情」というものが、「人そのもの相手」に向ける感情であることにおいて、概して人にあまり快く受け取られないという事情がまずあるからです。

これは「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」のどっちでのことか、そして「健康な心の人」と「病んだ心の人」のどっちを相手にしてかで、そうした基本事情がある上で、結構様子が異なります。
「健康な心の世界」では、最初からうまくいかないのを感じ、「健康な心の人」には漠然と劣等感を感じ、「病んだ心の人」同士で交際を持とうとするが、次第にその相手とも関係が壊れる、という経過になりがちです。これは今の「現実の社会」がそんな感じだと言えます。
「病んだ心の世界」では、そうした努力は最初は「道徳的」「良い人」と評価されるように感じられる一方、やがて仲良しグループへの仲間入りと離脱をめぐって陰湿な攻撃軽蔑バトルを起こしがち、という感じかと。まあ今の「学校」ですかね。

こうした場と相手による流れの重要なポイントを、幾つかより詳しく説明します。
いずれにせよ、本人は良かれと考えて行う努力がそうしてうまく行かないことについて、人生と社会の理不尽さを感じ、怒ることになります。

なぜそのように、概して悪い結果にしかならない思考法になるのかというと、既に述べているように、心理障害の重篤度と、社会文化などの影響にもよる知的思考法の、2つの影響によってです。

心理障害の重篤度「重い心理障害」あたりになってくると、感情の膿や愛情要求の圧力があまりに強くなり、「現実」というものそのものが意識から遠ざかり、「人が互いに優しい感情を向け合う調和」という空想理想を基準にしてしか意識が動かなくなってしまいます。
知的思考の問題としては、自分の愛情要求と怒りを高い精神性として評価していることが、ここで述べている傾向を生み出す原因になります。社会と他人を、それに対してどう応えるものかによって評価しようとする思考になるわけです。

「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」、そして「健康な心の人」と「病んだ心の人」の基本特徴は大体そんなところですね。
次に、これらをまたがってやり取りされる心理の流れに着目し、その幾つかの重要なポイントを踏まえ、「健康な心の世界」「健康な心の人」を目指すための行動学へと説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-49 / しまの
No.1299 2007/09/28(Fri) 10:30:15

■「2種類の人間像への行動学」の基礎:何を目指すのか

さて、「魂感性土台の体験」を足がかりにして「2種類の人間像への行動学」を学んで頂きたい、ということになります。
逆に言えば、「魂感性土台の体験」をしていない場合、もしくは「人の目感性土台」との違いが実感として分からない場合、この行動学は理解できない可能性が高くなります。その場合どのように理解できないのかも説明しますので、それが役に立つかも知れません^^;

まず最初の基礎として提示する命題があります。「何を目指すのか」です。次のどっちかです。
「健康な心の世界」かそれとも「病んだ心の世界」か。自分がこれから生きていく世界としてです。
「健康な心の人」かそれとも「病んだ心の人」か。自分がこれからなりたい人間としてです。

もし「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いが実感として分からない場合、これから先の実践説明はあまり役に立つものではなく、漠然と「健康な心の人」を目指すとは考えるでしょうが、実際には「病んだ心の世界」を目指す思考法の中にあると考えてまず間違いありません。

まずは「どっちの世界を目指すか」で話しが全く違ってきます。
「病んだ心の世界」を目指す思考法の中で、「健康な心の人」と「病んだ心の人」の違いを考えても、あまり意味はありません。正しくその違いを捉えることができなくなります。
「健康な心の世界」を目指す思考法をすると、「健康な心の人」と「病んだ心の人」の違いが、はっきりと分かるようになります。「健康な心の人になりたい」と考える動機と、そこにおいて「健康な心の人」と考える内容が、一致してきます。

それだけ、「魂感性土台」と、もう一方の「人の目感性土台」は、心の別世界をつかさどる脳の機能なのだと言えます。
最近のメールやり取りから紹介しますと、実際に魂感性土台を体験した相談者の方に感性の違いを指摘したのに対し、こんな感想などもらっています。
島野> Aさんの場合ですと、魂感性土台を体験したものとして、夕焼けに感動したとか、芸術表現への意欲を感じる時間とかがあげられます。
相談者> この時の感覚と現在の不安感覚はまったく違います。同じ人間の感性とは思えません。

まあ「同じ人間の感性とは思えない」とは「同じ自分の感性とは思えない」ということですね^^。
「健康な心の世界」を目指したいならば、同じように、今までは考え得なかったような世界を考えないと、どうしても過去の維持の方に向いてしまうということが、何となく分かるかと思います。


■「健康な心の世界」

まず「健康な心の世界」「病んだ心の世界」の違いの定義から。
なおこれはあくまで「2種類の人間像への行動学」における「目指す方向の目安」としての定義です。「健康な」とか「病んだ」とかの言葉は、どんな視点でそれを言うかによって、かなり定義が変わってきます。ここではあくまでこの行動学での考え方ということで、一般論として「健康な心」「病んだ心」とはどうゆうことかは論じないものとします。

それで言いますと、「感情」というものがどのように飛び交うものであると位置づけられるかが、その違いの要になります。「感情」の内容以前に、「感情」を入れる器がまったく違うということです。
これは「魂感性土台」と「人の目感性土台」で「感情」がどう体験されるかの大きな違いに対応しています。

「健康な心の世界」では、「感情」人の好悪評価として向けられるものではなく、人を中心においた「現実状況」全体に対して向けられるものとして位置づけられます。またそのような感情のあり方が信頼を受けます。

つまり、全ての人がそうした感情の持ち方だけということは現実にはあり得ず、人は誰でも「魂感性土台」と「人の目感性土台」を一定配分で共存させており、人への好悪評価の感情も持つ人もいるし、そんな感情が時に心に流れるのを大抵の人は感じます。でもそれは心のバランスを欠いた、もしくは子供じみた感情だという認識がある世界だということです。
ですから、そうした感情は非建設的な感情として、人々が自然に「感情と行動の分離」をして、人そのものは好悪評価せずに、「現実状況」の方に着目しようとする姿勢があるということです。

そうした姿勢の中で、高く評価され好感を得るのは、「現実において生み出す」という方向におけるものです。何を生み出すかと言うと、「あらゆる向上」「喜び」「楽しみ」「感動」などの、「価値」を生み出すという方向です。
つまり人々は、相手の好悪評価感情はいったん心の片隅において、まずそうした「現実において生み出す」ことへの魅力の感情によって、互いに集まり結びつきあいます。

ですから、こうした集団はオープンな雰囲気を持ちます。「喜び」や「楽しみ」を共有する人がいれば誰でも歓迎されるし、一方それに関心を持たない場合は、その時だけ別行動をするというのが、何の軋轢でもなく自然に行われる集団です。


■「健康な心の人」

「健康な心の人」とは、この行動学では、「健康な心の世界」を自らが生きて前に進む世界とする姿勢を持つ人、と定義できます。

これは実質的には、「魂感性土台」を主体に生きる姿勢ということになります。
「姿勢」ということで、「感性」と「知的思考」および「意志」を総合した姿勢として、魂感性土台に立脚して前進する姿勢が取れることが条件になります。

これは前カキコでの心理障害重篤度では重度4の「軽い心理障害」あたりからは可能であろうと考えています。
心理障害重篤度とは、要は自己操縦心性の支配度とも言えます。「軽い心理障害」あたりが、自己操縦心性が心の主座を占める強度をなくし、健康な心の部分が主座になり得る状態という目安です。その段階から、「健康な心の世界」で生きる「健康な心の人」になり得る。

一方、重度5あたりからは、健康な心の世界に向くことが難しくなってきます。理由はなんと言っても、「人の目感性土台」があまりに強くなると、「魂感性土台」の世界つまり「健康な心の世界」が逆に精神性を欠いた、「腹黒い烏合の衆」に見えてくるからです。それじゃー目指しようがないですね^^;
そこを、「魂感性土台の体験」を足場にして、障害度の低い世界へと強力に導くツールとして、この「2種類の人間像への行動学」を活用頂ければと思います。


■「感情は人に向けない」原則

まずはいかに「健康な心の世界」を想定できるかにかかってくるでしょう。
「健康な心の世界」では、人々は基本的に「魂感情」としての「穏やかな肯定感」によって、「その集団への受け入れ」については何の条件も必要とせずに、事実そこには「受け入れる」という意識さえない形で集っています。あとは、その集団が旨とする「生み出す楽しさ」をどれだけ共有するかによって、その集団にい続けるか、それとも離れるかはそれぞれの自由であり何の軋轢も起こさないことです。

その「穏やかな肯定感」が、実は「無条件の愛」でもあります。それが実際どれだけ「濃い」プラス感情であるかは、その人の魂の成熟度によるでしょう。
魂の成熟度が高く、濃い「無条件の愛」の感情を持つ人は、実におおらかで誰にでも親しみのこもった振舞いをするでしょう。しかし「平均的」な「健康な心の人」の愛情表現がどんなものかは、社会文化にもより、あまりはっきりとは「愛情」としては表に出ないのが通常と考えるのがまず間違いないところだと思います。

これは「病んだ心の人」が考える「無条件の愛」とは、かなり違ったものになるはずです。「病んだ心の人」が考える「無条件の愛」は、自分自身の攻撃性への許し、そして自分自身の攻撃性をまず間違いなく最大の原因とする自己嫌悪感情を中和してくれる、特別な慈悲の優しさのイメージです。
この後説明するように、「病んだ心の人」は時にそれを「理想的な愛のあるべき姿」として信念を抱きさえします。実に条件のハードルが高い「無条件の愛」なわけです^^; そしてそれを用意しない他人と社会を怒ります。

「無条件の愛」がすでにあるという感覚に立っているので、それ以上の「愛」をことさら人に求める感情は人に向けません。
愛情要求にせよ、怒りにせよ、そして人の人物評価にせよ、「感情はことさら人そのもの相手には向けない」という姿勢が原則になります。
実際のところ、人の人物評価が好悪感情を伴う時、それは間違いなく、相手が自分の愛情要求にどう応えるかについてのことであるという心理メカニズムがあります。ですから、「健康な心の人」はそうした人への好悪感情が自分の中に流れても、「感情と行動の分離」によって、その相手への行動は別の視点で考えます。「別の視点」とは、自分がその相手と行動を共にする旨とする「共通目標共通利益」において、相手がどう望ましいか望ましくないかという視点です。その点で望ましくないのであれば、何らかの手段を講じて、関りを持たないようにすることも考えます。

これは恋愛や結婚といった「濃い愛情」を前提とする活動においても、大体同じ原則が成り立ちます。
「愛し愛されたい」という気持ちだけでは、それはやはりあまり長続きするものではなく、互いがどんなデートを楽しみたいのか、そしてどんな家庭を築きたいのかという、「共通目標共通利益」が重要なテーマになってくるわけです。

引き続き「病んだ心の世界」「病んだ心の人」の説明をします。


心理学本下巻に向けての考察-48 / しまの
No.1298 2007/09/27(Thu) 10:37:20

■「健康な心」への動機が初めて意味を持つ「現実とイメージの分離」

自己の積極的保護」を最初の兆候として、「イメージに自分が使われる」から「自分がイメージを使う」というあり方への方向転換が見えてきます。
これが、初めて本当の意味で、健康な心とはどうゆうものなのかを知り、実際に自らその方向へと積極的に向かうことの始まりなのだ、という印象を感じます。

なぜなら今まではどのように考えたとしても、「健康な心」は、「人の目」の中で「心が健康な人」と「見られる姿」という、結局のところ空想に覆い尽くされた心の中で考えるテーマでしかなかったからです。
それが心の病理の世界なのです。
それが、根本的に違うものが見えてくる。そもそも「人の目イメージ」のない世界。それは「魂感性土台の体験」から、そうは遠くないところに感じ取れるはずです。

それが感じ取れるようになったら、自分に問うのがいいでしょう。
「人から向けられる目」「人から向けられる感情」に対して、うまく考えうまく行動することに、自分の人生の成功と向かうべき先があると感じていたと思います。
しかし実は、「人から向けられる目」「人から向けられる感情」の内容がどう良くなるか悪くなるか以前に、実は自分はそうしたものの圧迫や重さそのものに、「つくづく嫌になる」という感情を実は抱いているのではないか、と。

以前はそうではなかったはずです。いかに「人が人に向ける感情」を見逃さず、それを見逃したり間抜けな対処をすることで招く「人生の失敗」を、機敏に避ける観察判断能力こそが、自分に人生の成功を与えるものだと考えていたはずです。
そして「人が人に向ける感情」に、実際のところ自分が誰よりも敏感であるらしいことに自尊心さえ感じていたと思います。

実はその全てが、根本的に、自分の心を病ませ、自分の人生を危機に陥れていたものであったことが、そろそろ感じ取れるかも知れません。

いかに「人が人に向ける感情」に機敏になれるかが成功だと考えながら、自分よりはるかに鈍感そうな他人が、実に自然に人とうまくやっていけている様子に、あまりにも理不尽な人生の疑問を感じたと思います。

しかし「魂感性土台の体験」をしたならば、そろそろ、自分がその中で生きていたのとは全く異なる対人感情の世界があることに、気づき始めても良いのではと思われます。
「人が人に向ける感情」がはっきりある世界と、それがない世界。つまり、現実世界全体に向けられた穏やかな感情だけがある世界

この先のハイブリッド取り組みは、そのように、「人の目」「人の感情」という「イメージの内容」ではなく、そうした「イメージ」の存在そのものを根本的に見直すという動機によって進めるものになります。
それによって、「健康な心になりたい」という願いと、その願いに支えられた実践の内容が、一致してくるわけです。
これがようやくこの段階に至ってのことなのだとは、何とも感慨深いものがあります。これがまさに本当の始まりと言えるような話でしょうから。


■「人の目イメージ」そのものを「未成長」「病」として捉え直す

「現実とイメージの分離」については、実践上のキモ9/16「心理学本下巻に向けての考察-35」で解説したとおりです。
=================================================
「イメージは現実か」「事実か」という思考法をするのではなく、またその思考法での答えを求めることもせず、「イメージ」と「現実」の2つが両方あるという思考法をします。
1)「人の目イメージ」は他人よりも自分の「心の現実」を示すものと考える
2)現実外界の他人については2種類の人間像を想定する
=================================================

これは、上述のような「健康な心で人とうまくやっていく」という目標への、ハイブリッドとしてのより高度な行動学のための最初の基盤になります。
「人の目イメージ」を相手にした行動法と、イメージを除外した行動法の違いを理解する。その結果がこの現実世界ではどんな良いもしくは悪い結果になるのかを理解する。
そうした、かなり高度な行動学をこれから説明します。それが「2種類の人間像への行動学」です。

そのために、ここで一つ、「人の目イメージ」の位置づけについて説明を加えねばなりません。
自分に向けられる人の目人の感情をいかに見逃さないかが重要だと考えていたかも知れませんが、その「人の感情を見抜く感覚のリアルさ」は、それを自尊心にまで感じるような度合いの強さが、心理障害の重篤度にほぼ対応します。

僕の感覚では、心理障害の重篤度最大を10として、以下のようなものと考えています。
どーでもいい話ですが、『悲しみの彼方への旅』で描写した時期も含めての、島野自身の自己診断を参考まで付記しておきます。
重度1 
重度2 基本的には健康
 (←今の島野^^;)
重度3 悩みがちな性格
 (社会人時代)
---------------
重度4 軽い心理障害 (大学院時代)
重度5   
(大学時代)
重度6 重い心理障害(就業困難レベル)
---------------
重度7 境界性人格障害
重度8 精神障害(統合失調症)
重度9 閉鎖病棟措置
重度10


このように、心理障害の「病理」としての重篤度つまり深刻さは、「感情動揺の激しさ」よりも、「空想イメージに心が支配される」という感性土台の歪みの程度が、その本質です。「感性土台の歪み」であって、思考法の問題ではない根深いところの問題です。
一方、「人の感情を見抜く能力」「向けられた感情を見逃すまい」といった「思考」「心の姿勢」は、こうした歪みを明らかに悪化方向に傾ける性質があります。


ですから、「魂感性土台の体験を」足場にした実践というのは、心理障害の治癒を実に直接的に視野に入れた実践という位置づけになるわけです。闇の中の手探り状態で何とかここまできたとして、この先は自分の治癒変化する方向を先取りして進むことが可能になります。


■「人間が人間に向ける感情」への理解と対処という根本変化道のりへの準備

そのような「障害の重篤度」について、やはり「人間が人間に向ける感情」というのが出てきます。

それはやはり「嫌悪」「軽蔑」の類の話になります。そしてここで理解しておくべきは、「嫌悪」「軽蔑」は「健康な心から病んだ心へ向けられる」という構図にはならず、「健康」の度合いが高まるにつれて、「病んだ心」への否定的感情はごく穏やかな敬遠へと薄れることです。
一方、「障害」の度合いが高まるにつれて、「病んだ心から病んだ心へ」の嫌悪や軽蔑はその激しさを増すという構図になります。「障害」はしばしば自らへの特権的な理解を他人や社会に要求する感情を抱くのと平行してです。

こうした整理で何をしようとしているのかと言うと、「人間が人間に向ける感情」の全てのパターンを理解するということです。そしてその中でどのような対処行動をするのが、「健康」と「豊かさ」を増すための方向性の答えであるかを、明瞭に定義しようとしています。

それがゴールではありません。その答えは何の疑問もない、決まりきったものなのです。ただ実に多くの方が、これについて違う方向を向く思考法を、学校や家庭の影響もあり持ち続けていたようです。
その答えが整って初めて、「根本変化」への、自らの内面の神秘なる未知への探求が、スタートを切れることになります。

これが「2種類の人間像への行動学」であり、「魂立脚の原理原則思考」と呼んだのもこの話です。

「魂立脚の感情分析」がこれによって可能になるということになります。ハイブリッドの実践として、当初、感情分析が根幹の実践になると言っていましたが、その実体は「魂立脚の感情分析」のことであり、それが可能になるためにここまでの道のりがあるという話になりますね。

事実まあ「魂立脚の感情分析」ハイブリッドの根幹があると言えます。「根本変化」への道のりはそこからであり、それに較べれば実はまだ何も始まってはいなかったとさえ言えるような世界になるわけです。
今説明してい段階にある人であれば、ここまで来るのに精一杯という感覚ではあるでしょうが(^^;)、その「未知」がさらに向かうに値する魅力あるものであることを、おぼろげに感じることができるのではないかと思います。

ということで、「2種類の人間像への行動学」の内容説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-47 / しまの
No.1297 2007/09/26(Wed) 10:47:45

■心の「病理」と「健康」へのベクトル転換「自己の積極的保護」

http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg
を参考頂きながら、「魂感性土台の体験」から始まる「否定価値の放棄」までの大転換を説明したいと思います。
まず「自己の積極的保護」の兆候が現れるであろうことまで説明しました。

これは今まで「とにかくハイブリッドの言う通りに」という追従型姿勢において来た方の場合は、まずハイブリッド実践から心が離れることが理論的帰結とも言えるものになります。

それでokです。その「ハイブリッドからの心離れ」の瞬間においてはまさにハイブリッドの言葉を全て視界から外してもらっていいのですが、そうした自分の変化の意味を理解してもらうのが、ハイブリッドの新たな歩みの始まりになると考えるのがいいということになります。
まあそうではなく最初っからハイブリッドを自己判断の下に実践していたのであれば、ハイブリッド実践から心が離れるということを意識するかどうかでなしに、その変化の意味を意識できると思います。

その「変化の意味」とは、「空想上の理想のために自分がある」という意識状態が心を覆い尽くしていたものから、「まず自分がいて自分を守る」という感情が芽生えてきたという変化だということです。

これは先のカキコで書いた「心の自立」という最大摂理命題とは、また別のものです。
「心の自立」は「愛されれば安全」という、「依存」の基本命題からの脱却であり、実際に愛に頼らずに自分を守ることへの歩みだしの話です。つまり「成長」の命題だということですね。

その点で、「自己の積極的保護」はまだ「成長」ではありません。心の自立未満であり、心の自立はこの先の課題です。
つまり「治癒」の命題に関係しているということです。


■「治癒」と「成長」のクロスの先にある「人間の心の真実」

まあこれは取り組み実践上からはどーでもいい話ですが、純理論的な考察としては、「人間の心の真実」というものがどこにあるのかというテーマとも言えるような、深い感慨を感じる次第です。
どうしても、「治癒」の問題と、「成長」の問題が、クロスする。

どっちが先とも言い切れない。
空想によって現実が覆い尽くされるという「病理」のために、「愛されれば安全」という、成長を阻まれた姿が生まれたのか。
「愛されれば安全」という成長の妨げによって、空想によって現実が覆い尽くされるという「病理」が生まれたのか。
まあそのどっちでもあるのでしょう。

「自分で自分を守る」という命題の前には、「現実」がより重みを持ちます。
「愛されれば安全」という命題は、どうしても「空想」の中で働くことになります。

「理想」「人の目」といった「イメージ」は、その内容が同じままでも、どっちの命題の先に置かれるかによって、全く異なる存在様式になるように思われます。
「自分で自分を守る」という命題の先では、「イメージ」は自分を守るために「使う」ゲームの駒になります。
「愛されれば安全」つまり「守られる」という命題の先では、「イメージ」は「守られるための条件」として心を支配するものになります。そしてこれが、自分自身の心への脅威となるのです。

空想によって心を覆い尽くされることからの脱出「治癒」である時、それが同時に、「守られる」という空想世界からの脱出でもあり、「愛されれば安全」ではなしに、「自らを守る」という「自立」の最大命題に方向づけられることでもあるでしょう。
ですから、「自己の積極的保護」という転換とは、「病理からの自立」なのだと言えるのかも知れません。

そしてその先には、「愛からの自立」があるということになるわけです。これが「成長」になります。

「愛からの自立」とは、もちろん「愛を壊せる態度」のことではありません。それは逆に、「愛されれば安全」という命題の中で、「守られるための属性」に自尊心を感じるという、愚かとも言える心のメカニズムの結果起きた、「愛されない屈辱」から生まれます。
「守られる能力」に自尊心を求める結果、人に向かう感情はもはや愛ではなくなり、愛を失い、愛を失うことで守られずに恐怖に怯え、自尊心を失う。つまり全てを失うわけです。
これは「負のクロス」と表現できるでしょう。


■「否定価値の放棄」の基本原理

「正のクロス」はどんな形を取るのか。
一言でいえば、「現実を向上させる価値」「空想を守る価値」とのせめぎあいの先に、前者が勝利を収める収束点の出現と言えます。
それが「否定価値の完全放棄」になります。

ここで重要なポイントになるのは、つまり「否定価値の完全放棄」の基本原理ともなるのは、「イメージの使い方」です。

「負のクロス」の方においては、「理想」というイメージは自分がそのために生きるものとも言える絶対的な価値を帯びると同時に、自らを圧迫する脅威となります。
「正のクロス」において「現実を向上させる価値」とは、「イメージ」の圧力を嫌って「理想」から目をそらすことではありません。目をそらすのは、全く同じ以前のままの世界にいることを意味します。

「イメージの使い方」が根底から変わるということです。なぜそれが起きるのか言うと、「自己の積極的保護」を節目にして、「まずイメージありき」という病理が解け、「まず自分ありき」という健康な方向性への変化が起きていることにおいて、「イメージ」はそれによって「自分が使われるもの」から「自ら使うもの」という位置づけにその様相を変化させ始めているからです。
だから、「イメージ」を「現実を破壊する」ために使うのか、それとも「現実を向上させる」ために使うのかという、人間の心のメカニズムにおける全ての根底とも言える歯車における、「選択」が問えるようになってくるということです。


ただし「選択」は、実際そのどっちの使い方を本人ができるようになるかに、かなり依存することになると言えそうです。

事実この人はこの段階では、「イメージの使い方」を選択するどころか、「イメージ」に支配される生き方しか知らずに人生を過ごしてきたのであり、しかも、「イメージ」に振り回されることの中に自尊心があるとさえ思い込まされていたわけです。病んだ心のメカニズムによってです。
しかしこの段階になればそろそろ、「イメージの内容」そして「イメージを基準にした現実の満足度」がどうなるかの問題を超えて、「イメージ」の存在のあり方そのものが自分の人生を大枠において損なっていることを、薄々と感じることができるはずです。

その先に、「イメージ」というものを根本的に今までの人生とは別の形で使う最大の転換が脳の中に見出される道が開かれます。

本質は、今までにも解説してきたように、「絶対なるもの」という観念の放棄がポイントになります。それは「不完全性の受容」です。「絶対なるもの」空想の中だけに存在するものであり、「現実」には存在しません。

ただしこれはここで考察している文脈においては、どうもまだ話がつながっていない、一段階下の細かいレベルになるように感じます。「空想の中だけ」ということと、「魂」がどう関るのかが鍵になりそう。「神」がそこで一つのテーマになります。問題の全ての始まりが「神の国」に生まれた出生の挫折にあることと、それはどう関連するのか。

今見えるのはその範囲として、とりあえず「イメージの使い方」実践説明に行きましょう。とにかく、今までの「イメージに振り回される」のではない、「イメージを使う」という心の使い方を学んで頂く。それがあることを知ることからです。
そしてそれによって「現実を向上させる価値」を実際に体得した段階で、「否定価値の完全」「不完全性の受容」という選択lが問えるということになるでしょう。

自己の積極的保護」と「否定価値の完全」「不完全性の受容」の間に、結構な道のりがあるということになりそうですね。
この「イメージの使い方」に絡んだ実践が3つ。今まで別々の文脈で触れていたテーマですが、この流れで整理されることになります。
1)現実とイメージの分離
2)2種類の人間像への行動学
3)愛と自尊心の分離


心理学本下巻に向けての考察-46 / しまの
No.1296 2007/09/24(Mon) 19:41:17

■全てを貫く根底命題 「心の自立」

さて、材料がかなり揃ってきたということで、「魂感性土台の体験」から先の道のりについて、その基本的な本質をどう考えて進むのがいいかという話をしようと思います。
「否定価値の完全放棄」というひとまずのターゲットの、基本的な探し方の話も、そこからつながってきます。

それで言いますと、この大きな転換期に起きるさまざまな内面変化と、それをメドにして考えたいさまざまな実践の全てが、あるたった一つの単純かつ決定的に大きな命題に沿ったものであることを言うことができます。

それは「心の自立」です。
これ自体はもう「実践」ではありません。「実践」である面もありますが、同時に「内面変化」でもあるし、さらにそれは「命」に定められたある大きな根本的な摂理の話になると思われます。
「自立」です。命あるものとして生まれ、守られて育ち、やがて一人立ちする。そして自らが新たな命を守り育て、そして自らの命を終える。

この大きな摂理によって我々人間のDNAに刻まれた、その本性そのものへと我々の心を回帰させる取り組み。
それがハイブリッドなのだと言うことができるように思われます。ハイブリッドが成そうとするのは、決して、理想的な心の健康の姿の追求でも、人の目を気にしない生き方の試みでも、ないのです。
追求するのは、「命」という全ての始まりの、根本的に解き放たれたあり方です。

「心の自立」という根底命題の具体的な組み立てが、「愛されれば安全」という歯車の狂いのような思考の問題を通して、次第に明らかになってくるように思われます。
その基本とは、「自分は自分で守る」ということになるでしょう。「自立」とは、そうゆうことです。とてもシンプルです。
ですから、この転換の要は、どうすれば愛され自信が持てるかの「理想」をめぐる話ではなく、「恐怖」がテーマになるわけです。


■「守るため」に

自分は自分で守る。この実に単純な命題から、愛と自尊心などの命題の全てがその様相を変えていきます。当然、「人の目」の位置づけが、それによって変化します。

自分は自分で守る。この言葉は時に殺伐とした印象を与えるかも知れませんが、それは実は守れていないということになるでしょう。
自分で自分を守れた時、その人は次に他者を守ることができる能力も持つことに向かうことができます。何よりも「愛」がそこで、この転換の前とは全く異なるものとして姿を現すはずです。

「否定価値の放棄」も、この文脈の先で、その本質を理解することができそうです。この文脈とは、全てが「守られる」ために必要な条件という位置づけから、「守る」ために自らが使うものという位置づけになるということです。

そもそも、「守る」ことができるためには、何から我々自身を守らねばならないのかを知ることが必要になります。そもそも、我々は一体何に対して我々自身を守る必要があるのか。
それで言うならば、それは明らかに、災害や疫病などの外部、そして同じ人間同士における攻撃がまず対象になるとして、我々は自分自身の心を、自分自身の心から守らなければならないのだと言えるように思われます。人間とは、そうゆう存在なのです。

そのように、自分を何から守るべきかを正しく認識できない時、我々は脅威が全て外部にあると感じるようになります。そして守るべき相手を知らないままでいる時、我々はそこからの攻撃を無力に受け続けることになる。
それと同じことが、自分自身の内部と外部において起きるわけです。自分自身の内部に自らを守るべき脅威があることを認識できない時、人はいつまでも外部を恐れる存在になります。


「否定価値の放棄」は、その構図の解決の姿を示すものと言えそうです。
「魂感性土台の体験」から、この転換の流れを見ていきましょう。


心理学本下巻に向けての考察-45 / しまの
No.1295 2007/09/23(Sun) 14:59:57

■「一人立ち」を告げる「自己の積極的保護」

「一人立ち」を告げるもう一つの節目、つまり「否定価値の放棄」に到達するまでに通る主な節目の最初のもの。

それは「自己の積極的保護」です。
これは、理想から自分の現実を叩き見下す衝動と、自己否定によって自らが受ける痛み苦しみから自分を守ろうとする衝動のせめぎあいにおいて、後者が優勢になってくるという節目です。

これは面白いというか微妙な節目ですね。本人はまずそうとはあまり自覚していないまま、全てが本人の心の中でのみ進行している、大きな2つの力の対決として、健康な心への回帰への力が初めて優位に立ったような出来事として、それは起きます。

そしてこれがいったん「ハイブリッドとの別れ」を成す「一人立ち」を示すことでもあるように思われる面が多々あります。
なぜなら、まず間違いなく、今までのハイブリッド実践そのものが、空想上の理想を大明神にした意識において進められていたからです。自分を見下し叩く衝動の中で、ハイブリッドの言う通りの実践をせねばと、自分を駆り立ててていたわけです。
ハイブリッドの実践を通し、健康な心への回帰のベクトルが優勢になることは、まずそうしたハイブリッド実践そのものから心が離れるという兆候を、ひとつの理論的帰結とも言えるような形で、生み出すことになります。

一方、意識上は案外それが「後退」であるかのような感覚が起きがちかも知れません。空想理想の大明神もまだかなり優勢ですから。
ですからそれに類するような兆候を自分の中に感じた場合は、まず自分を許すことです。そして空想よりも「現実の自分」を守ろうとする感情が自分の中に芽生えている事実を、しっかりと見てやることです。

それを僕が助言して確認してもらうことは、ありません。助言なしに、自分からそれに気づくことが、この大きな節目になります。助言を引き金として借りることなく、それに気づく姿勢を考えてもらえれば。
今そうなったようですよ。確認してみて下さい、と僕が言うと、ちょっと話が変になるような^^;

ですからこの場も借りて最近もらった話などでは、今まで考えることのなかった「薬の助け」についての相談などがあります。1件のみならず。
それも案外そうした「自己の積極的保護」の方向にあるかも知れません。実際それに該当するかどうかの確認は、僕の方ではしません。自分で確認してみて下さい。については、副作用や依存性がないものを補助活用するのは問題なし、というのが基本アドバイスになります。

「取り組みの先に取り組みをやめることが現れる」。この進行過程の構図は、既にホーナイから指摘されていたもので、僕の『悲しみの彼方への旅』では、それがあのような巨大な絶望の谷間にもなったわけですが、今のハイブリッドではもう進め方が全く違っており、大きな悪化の心配はまず必要ないものと考えています。
先のカキコでも書いたように、深刻なケースでは「否定価値の放棄」に至るまでは自殺念慮を完全には脱することができない可能性があります。しかし、心の根底では、もうそこから自分を守れる力が十分に芽を伸ばしています。もし実際何か事件が起きたとしても、それは多分もう心理障害とその取り組みの話とは別の話が絡んでになると思われます。とまあ何とも都合のいい結論ですが^^;


■「自己嫌悪をやめる」ではなく「自己嫌悪に対抗できる知恵の獲得」へ

自己否定自己嫌悪が生み出す悪感情状態に対して、自分を積極的に守ろうとする「自己の積極的保護」の姿勢は、この先の歩み全般において、極めて重要になってきます。なぜなら、この先、自己嫌悪感情は、「自己嫌悪をやめる」という感覚において解消することは基本的にはなく、意識コントロールの外部から自分に襲いかかる別人格のような自己嫌悪感情に対して、いかに心理学的な知恵を用いてそれに対抗し、突き抜けることができるかという形で解消に向かう面がかなりあるからです。

その点、実は「自己嫌悪をしない自分」イメージこそが、自己操縦心性の掲げた蜃気楼であり、自己否定自己嫌悪感情の根源だとも言えます。
この視点で振り返るならば、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg
にも示した通り、ハイブリッドには最初っから最後まで「自己嫌悪をやめる」なんて実践はないんですね。それには直接手を出さないまま、心の基盤向上をひたすら実践する道のりです。

それがこの先の道のりにおいても、より高度な内容のものになってくるわけです。「魂感性土台」という「感性土台の違い」を視点として加えた、知性思考や感情分析。「感情と行動の分離」に始まる大枠は、そのままです。そこに新たに追加になります。
そして「一人立ち」を契機に、いったん分離させたものの「統合」へと歩む道のりが始まるわけです。


■「一人立ち」後のハイブリッド実践

なおこれもこの場を借りて言っておきますと、「一人立ち」そして「ハイブリッドとの別れ」という節目によって、メ−ル相談に特に変化があるとは考えなくて構いません。
重要なのは、一人立ちへの内面の変化があること、そして一人立ちしてそこに「ただ人生がある」ものとして歩む力が自分にあることを、自ら確認することです。それについて僕の方で気づかせるためのような言葉は、本当にその時になればなるほど、言わないのが基本になると思います。

その上で、やはり何かあれば積極的に相談してもらうのがいいでしょう。思考法行動法にせよ、感情分析にせよ、とにかく細かい話でのノウハウが沢山あるからです。これについては、僕の方でも常に進歩しているので、教え尽くせることはまずないと思います^^)v

とにかくまあ、「魂感性の土台体験」あたりから先に行こうとするような段階になったら、基本的に先へと自分を導くのは自分自身の意志になってくるのだと考えて頂ければ。今までどっちかと言うと受身の形で「魂感性の土台体験」あたりまで導かれたのと同じように、「否定価値の完全放棄」にまで「導かれる」ことは、もうないということですね。

とにかく、より高度な実践段階へのノウハウを適宜伝授しますので、いってらっしゃ〜いということで^^;
そうした「一人立ち」へと携えてもらうノウハウとして、「否定価値の放棄」までおよびその先を整理しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-44 / しまの
No.1294 2007/09/23(Sun) 12:02:15

■「否定価値の放棄」の前にある「ハイブリッドとの別れ」

「魂感性土台の体験」から先の、「否定価値の放棄」という最大道標までの段取りについての考察は、僕自身予想もしなかった結論へと収まりつつあります。

その2つの間に、「ハイブリッドとの別れ」があるようです。これは要は、「取り組み実践」として見ていた自分の人生という状況をを、「取り組み」という視点を取り去るということです。もう、ただ「人生」がそこにある。それだけにします。
プラクティカルに言えば、メール相談でやってきた人の場合であれば、ひとまずの終結として一人立ちする。僕の助言なしに考え行動する。独習でやってきた人であれば、ハイブリッドの言葉によって方向を考えていたのを、完全に自分の言葉と視界だけで進む

なぜそれが必要か。単純です。「人生の方向」についてハイブリッドからの助言を受ける形のままでは、真の「自分自身の人生」にはならないからです。
ハイブリッドは、それを超えたものを目指します。だから、一度ハイブリッドとの別れが必要なのです。最後までパラドックスです。

これは僕自身、今回の心理学本出版で事例をどう紹介できるかについていまいち見通しが立たたない感があったことへの、ちょっと予想外の、しかしとても安定感のある答えになっているのが今感じるところです。
ハイブリッド相談でこんな大きく変化できた人がいるんですヨ。それを示すことができるのは、間違いなく大きなアドバンテージになるはずです。
少なくとも「否定価値の放棄」について、深刻な事例から始まって相談対応の中でそうなれたものを出せるかがポイントになると感じていました。

そうはならない。そうした人が「否定価値の放棄」に至ったとしても、まずは相談期間をひとまず終えてから後の話です。これがかなり確実な結論として見えてきた。
まあその分、比較的健康な事例でのそれは出せそう。そこから分かったこともこの後説明します。
後は、相談事例という形でないものとして、「ハイブリッドを通しての人生転換」手記でも募集しようかなーと。採用者には小額金一封とか^^; まあこれは後で検討します。
「魂の望みへの歩み」の事例も、それに近い断片的一例を入れ、基本は僕の一人旅を主事例として書く予定。


■「否定価値の放棄」までの3つの前提節目

原稿事情の方はどーでもいとして、「否定価値の放棄」までの主な段取りを説明しましょう。以下のがまとめになります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg

でまず僕自身に見えた順序として説明しますと、「否定価値の放棄」そして「不完全性の受容」とは、「空想上の理想」という、これまでの人生において明らかに大明神の座にあったものが、野原の片隅に捨てられた残骸のようにその価値を崩壊させる、天変地異とも言える思考転換です。

それだけのことが可能になるには、やはり前提背景があった。色々と整理考察して、それが3つになりそうです。

第3の前提から見ていきます。後ろの方、つまり「否定価値の放棄」に至る直前の方から見ています。
まず言えるのは、何やかんや言っても、そうなるだけの「現実における自尊心」が増していた状況が、まずあっただろうということです。
それは具体的には、「現実において自分や他人を変えることができる」という、自分の力の自覚が背景にありました。

この「自他を変える力」は具体的には、この後説明する「2種類の人間像への行動学」によるものといえます。
ですから、この先を目指す方は、まずその行動学を適用して実際に日々を生きる過程で、その力を習得獲得することがまず課題になります。そのための行動学は、一人立ちされる方へのハイブリッドからのはなむけと言えるでしょう。

第2の前提は、最初から比較的問題が軽かった事例で、「否定価値の放棄」を思わせる大きな心境変化が成された事例で分かったことです。これは「A子さん」として紹介の事例で、より具体的な内容は下巻原稿で。
その「心境変化」についてあまり詳しいやり取り確認はしてないのですが、ともかくポイントになっているのは、「今まで空想の中の自分を自分だと感じていたことに気づいた」というものです。

つまり、「空想ではなく現実が自分」という感覚への到達です。無論これは思考の変化ではなく、感覚の変化であることに意味があります。従って、これは思考法の問題より、心性崩壊と膿の放出の進展の問題にかなりなってきます。

これが、とても大きい転換ポイントになってきます。全てを空想基準ではなく現実基準で感じ考えるという方向への基本的転換だからです。この先に、「あるべき姿」という根本的な命題そのものの大崩壊、そして現実において自己がこうむっているあらゆる不遇や損失への積極的受容という、生命が持つ最も深遠なパワーとも言うべき領域への道が開かれるからです。


■まず「一人立ち」が前になる「否定価値の放棄」

まずこの2つ、つまり「空想ではなく現実が自分」感覚と、「現実における自尊心」のそれなりの増大。これが「否定価値の完全放棄」を成せる段階への到達条件と言えるでしょう。

そしてこれが深刻な状態をスタート地点とした本格的なハイブリッドの歩みとして来た場合、それは一人立ちつまり「ハイブリッドとの別れ」を一度した後の話になってくる。そう言えるように思えてきている次第です。
一度、僕の助言もハイブリッドの言葉もなしに、ありのままの現実とこの社会に向かって生きる、それなりの期間の歩みの先に、それが生まれてくるでしょう。

その理由は、「現実における自尊心」について言えば自明です。人の助言を受けることなく自分で考え行動して、現実を向上できる体験の積み重ねが、それを育てます。それが「現実における自尊心」の基本的条件です。
これは当然ですね。「社会で生きる自信」がつくまで親が職場まで一緒に付き添っているなんてことはあり得ませんね。そんなの期待しているからいつまでも自信が育たない。

「空想ではなく現実が自分感覚」への到達については、「一人立ち」は直接の関係はありません。もっぱら膿の減少量に依存します。膿の減少がしかるべき条件で、そうした感覚命題を自分に問うことで、そこに至るでしょう。

それについて本格的な歩みでの状況を考えるならば、まず言えるのは、自己嫌悪自己否定感情に流されることなく、「空想ではなく現実が自分」と感じられるというのは、やはり「現実における自尊心」もしくはかなりの心性崩壊と膿の放出が前提になる、かなりハードルの高い事柄であろうということです。
「空想ではなく現実が自分感覚」は、あくまで、空想理想を大明神とした意識でふと現実を目の当たりにする「この駄目な現実が自分」という感情の話ではなく、「この駄目な」という感覚をもたらした「あるべき自分」という空想基準そのものが意味をなくす感覚のことを言っています。

そして本格的な歩みの状況を概観した時、もう一つの節目段階が、その遥か以前に現れるのを見ることができるようです。
それが同時に、「一人立ち」を告げるものになるようです。


いったんここでカキコし、もう一つの節目、そして「否定価値の放棄」の基本的探し方の説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-43 / しまの
No.1293 2007/09/22(Sat) 13:07:18

■「空想世界」と「現実世界」における問題の循環

「魂感性土台の体験」を足がかりにして、何ができるかをまず以下に図にしました。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro15.jpg

まず、「空想」と「現実」における問題の循環を理解頂きたいと思います。図の左側になります。

まず空想世界です。「与えられるべき愛」というイメージに、全てが始まっています。
「愛を与えられ得る姿」によって自尊心を感じようとします。しかし「与えられるべき愛」が与えられず、自尊心を持てません。それを見返そうとする衝動を自尊心に当てようとすることもありますが、それでは愛を破壊できるだけです。
愛されることで安全」になろうとします。愛が得られてないので、怯えています。

現実世界においては、 「愛されることで安全に」という思考によって、ますますこの人は弱い存在となり、恐怖が克服できません。当然自尊心も育ちません
現実世界においては、自尊心が生み出す安全感によって、愛が意識することなく溢れてくるようになります。この人の場合は、自尊心が育たないので、愛も湧き出ません。ただ「愛が与えられるべき」と感じるだけです。

そうして空想世界での「愛が与えられない」に戻ります。この人が愛を得ることができないのは、自分から愛することができないからであるのが、現実的な原因です。
自分から愛する人に、人は自然に愛を向けるように、現実世界はできています。

もちろんそう聞いて「自分から愛さねば」と考えることは、答えではありません。そうした誤りでどうしようもなくなった結果、ハイブリッドを学ぶようになったと思います。

そのように、空想世界と現実世界を通して、「恐怖」の問題が橋渡しとなった上で、それぞれの世界で問題が自動連鎖していると大体考えることができます。
空想世界では、「愛が与えられるべき」から始まって、「自尊心を持てない」「恐怖に怯える」まではほぼ自動連鎖です。
現実世界では、逆の流れとなり、「恐怖が克服できない」から始まって、「自尊心が育たない」「自分から愛せない」と自動連鎖。
「愛されれば安全」という思考が、この2つの自動連鎖をつなげます。
そして、現実世界で「自分から愛せない」が、空想世界での「愛を得られない」へと戻ります。
とてもきれいに(^^;)循環します。


■「否定価値の放棄」までの間にある意識の闇

それがどう解け解決するか。「否定価値の完全放棄」にまでです。

「否定価値の完全放棄」が、ハイブリッド取り組みの大きな目標であり続けます。根本変化はまだその先なのですが、「否定価値の完全放棄」を成せば、日常の感情気分基調は一変して良いものになります。「魂の望みへの歩み」もその先なのですが、もう心配はいりません。
「否定価値の完全放棄」までは、深刻なケースにおいては、自殺念慮を根本的に脱するのは困難です。基本的に自己嫌悪自己処罰が、自ら求める形でこの人を苦しめるからです。その苦しみには心底から嘆き怒り嫌気を感じるのですが、一方で、それを生み出す自分の根本姿勢を、自分の心の支えにしているのです。
それが「否定価値感性」です。

「否定価値感性」を生み出すものは、意識より下にあります。図での右側にあります。
これに対しては、意識的な努力では近づくことができません。心性崩壊と感情の膿の放出だけが、この問題を解消し、それにおうじて、「肯定価値感性」が開放されます。
「否定価値の完全放棄」のためには、「肯定価値感性」の開放がある一定度合いに達することが必要であると考えています。

心の問題が深刻化した今、あまりにも理不尽な否定感情の中で生きる人の姿が増えています。不遇の中で貧困な現実を抱え、さらにその現実を空想上の理想から叩き、「現実向上」というれっきとした解決があるのに、自らそれに背を向ける人々。それがさらにその人を苦しめているのですが、何よりもその「空想」が支えなのです。

そうしてふと現実を前に苦しむ人を見て、僕はこう浮かべます。「現実はずっとこうだったのに、逆になぜ前に自尊心みたいなものを感じることができたのだろう」。まあつまり、最初っから「空想の中の理想」などなければ、誰もが与えられた現実の中を向上できるわけです。

現実を叩き見下すことで自尊心を守るという、不遇の心を守ろうとするメカニズムがあるのです。その根底には、「生」からの拒絶を受けた来歴の膿があります。そこから逃れるために、「空想の中の理想」にすがるしかないのです。
それが、意識より深いところで起きています。「空想の中の理想なんてとらわれないように」と考えるその人の思考でさえ、びくともしないこのメカニズムの上で動きます。

「理想のあり方」「理想の用い方」についての「合理的」な思考努力の一切が、このメカニズムの前では無駄です。
ただ一つできるのは、意識が破綻する「恐怖への突入」でしかないのです。

それをすれば、また心性崩壊と感情の膿の放出が起きて、また「肯定価値感性」の開放が進む。それがある程度進んだところで、「理想のあり方」「理想の用い方」についての思考法転換が、この人の心に巨大な転換を可能とさせる時が訪れます。

それはいつ訪れるのか。訪れるまでの段取りはどう考えればいいか。
これを考えましょう。

とにかく言えるのは、「魂感性土台の体験」を足場にして意識努力できるのは、「恐怖の克服」への新たなる方法論の習得です。それがこの後説明する「2種類の人間像への対人行動学」です。「人の目掌握思考」を用います。

それができれば、上述した連鎖が良い方向に回り始めます。
現実において恐怖が克服できれば、自尊心につながります。自分から愛せるようになります。人からも愛されます。愛される自尊心も持てます。世界が恐くなくなってきます。

しかしその好連鎖が「否定価値の完全放棄」という心の大転換になるかどうかは、「肯定価値感性の開放」という、全く手が出せない深いところに依存します。それはもう人それぞれの感情の膿の残量によって決まってくる。
つまり、「魂感性土台の体験」から「否定価値の完全放棄」の間には、やはりまったく予知不可能な、闇の谷間が存在するということです。

まあ実はこれは、話が収まるべき所に収まってきた感のある話でもあります。
もし意識的実践として「否定価値の完全放棄」までが導き得るものであるならば、実際そこに進めないという行き止まりが、その人の実質的限界として確実視できてしまうからです。これはハイブリッドそのものの限界ということでもあり、全ての終結、不満足な終結となり、人によっては「これでおしまい。死ぬのがやっぱ正解」となるかも知れません。
しかしその絶望が、やはり次への答えになるんですね。いいか悪いか(^^;)、結局最後まで「未知」がつきまとう。

そんなことを踏まえて、「否定価値の完全放棄」までの段取りと、その基本的な探し方を整理しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-42 / しまの
No.1292 2007/09/22(Sat) 11:06:01

■「真の未知」への歩みへ

社会文化の影響まで含めた「知性思考」という別のベクトルからの合流も出てきたところで、またハイブリッド道のりの俯瞰に戻りたいと思います。
「魂感性土台の体験」という足がかりから、この先の歩みがどう進むことができるのかの考察です。重要なのは、この後に控える「否定価値の完全放棄」というハイブリッド最大の中間道標にどう至ることができるのかです。

かなり見えてきました。ちょっと深い感慨と共に。
一言でその「感慨」を表現するならば、「否定価値の完全放棄」を、ハイブリッド心理学がその人に見出させることはできない、ということにちょっとした結論感を感じる。そんな感慨です。
つまり、「否定価値の完全放棄」を見出すのは、その人自身が、その人自身のみによって成すことのように思われます。それは同時にその人の「現実との和解」になります。

それはもう、ハイブリッドから教えられることとして見出そうとする姿勢の上では見出すことはできず、その人自身がその人自身から教えられることとしてのみ、見出されることが可能になると思われます。
それはもはや、「ハイブリッド心理学との別れ」を告げた後になるような..だから、感慨。

「真の未知」が、そこから始まるように思われます。

それを教えるのが、つまりどうこの心理学と別れるかを教えるのが、ハイブリッドだということです。パラドックスです。
まとりあえずそこまでの道のりを説明しましょう。この考察もそれで終わりに近づく。でとにかく出版本原稿に入らねば!^^;


■全てを決する「空想という巣」の外への一人立ち

「魂感性土台の体験」という、これまでの歩みの一つの成果と言えるものから、何が見えてくるのかを考察してきました。
まず言えることとして、その体験は、その人が「自分の脳の中に今までの生き方とは全く別の領域」があるという実感を与えてくれるものになるでしょう。
それは、全くストレスなく、この世界と一体化した存在として前に進むことのできる自分のありかた、というものの土台になることを、漠然とは感じ取れると思います。

しかしそれ以上先は、まだ全く見えないままです。いったん「現実」の「他人」を前にすると、一気にかつ一瞬にして、今までの「人の目感性土台」で動く感情と思考の世界になります。その中で、魂感性土台の中にいたような伸び伸びした自分を描いたところで、全てが今までの焼き直しです。

一つの重要なファクターが、全く別のところから見えてきました。「愛されれば安全」という、とにかく親の庇護を終着にするかのような思考の存在です。それがとても大きな枠として、「成長のない世界」にその人をとどめているという印象を受けます。
その対照として、「人の目」「人の感情」を思考の終着にするのではなく、むしろそこから先を考える、言わば「人の目掌握思考」とでも呼ぶべき思考法が、「現実を生きる自尊心」の強力なツールになることを言うことができます。

そしてその「現実を生きる自尊心」が、まだ見えない、そしてこの先にあるものの一つであるわけです。
「愛」における「この先」は、さらにまだ良くみえないままです。でも言えるのは、「現実を生きる自尊心」の先に、全く未知の「溢れる愛」があるということです。

「安全」つまり「恐怖の克服」に関する分かれ目がまずあります。その先として合流する形で、今歩む先の「自尊心」があり、そのまた先に「愛」がある、という順序になります。

これは要は、親の下から一人立ちする姿そのものです。それはまず、親に守られる、つまり「愛によって安全」になることから、全く一人で恐怖に向かうというのが、そこにある転換の本質と思われます。その結果、今までとは異なる「自尊心」「愛」が生まれてくる。
かくして、「魂感性土台の体験」の先に控えるのは、単独とも言える形で、「恐怖」の問題だと思われます。それを掛け橋にして、「自尊心」「愛」へとつながっていく。


■「魂の感性」と「恐怖の克服」をつなぐ接点「現実感の増大」

「愛」には全く依存しない形で、恐怖を乗り越える。これはどうゆうことでしょうか。

それについては、まずは全く何の特別な思考法や行動法の話でもなく、それが心のDNAに設計されたことなのだという感がします。時が訪れれば、それは誰に教えられるまでもなく、空気を吸うことや排泄をすることを教えられることなくするように、そこに向かうことなのだと感じます。まあ多少最初の一歩は鮮明な分かれ目になるでしょうが。

今まであるのは、単に、それに積極的に逆らおうとする、病んだ心の病根であり、人間が不自然に本性を捨てた思考法だったわけです。
それを取り除いていく。ならば「一人立ちへの志向」は、教えられることなく姿を見せ始めるはずです。

それをキャッチする接点が、実は「魂感性土台の体験」にあります。
それは「現実感の増大」です。別にそれが恐怖の克服法について何のプラスを与えてくれるものでもありません。しかし今までの「空想」にある誤りを、それは示すでしょう。
「愛されれば安全」だなどということは、「現実」ではないのだ、ということです。

それぞれの人がどうそれを感じ取るのかは、人それぞれでしょう。
まあ最も典型的なのは、「何もない今の現実」に気づく瞬間とでも言うものです。空想の中で、こんな自分になれば、こんな風に愛されて..騒がしい時間がふと解けて、「何もない今の現実」がじかに魂に感じ取られます。
どんなに空想の中で安全を謳歌したところで、現実が前に進んでいなければ、何もない元に戻るだけです。

「空想の仕方において努力する」ことの不毛さを、感じ取ることはできるでしょう。しかし「現実における安全」については、学ぶ必要があります。それをこれから説明します。

いずれにせよ、「魂感性土台の体験」が、やはりその入り口になるわけです。

こうして考察すると、魂感情の体験が「愛されれば安全」という誤りを解くというつながりが、上巻原稿最後の女性の言葉にも示されていたことに、印象深く思いあたります。
「不思議ですが、今、悲しいのですが、前のように誰かに抱きしめていて欲しい、暖かさが欲しいとは、思っていません。」
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/14.htm
この女性は以前には「抱きしめられると安心する」と言ってたのに対して、僕は「それで問題が片付く訳でないので変な話ですねぇ」とか指摘していた次第でした。


さて、この先はかなりの学習を踏まえて、一人立ちへです。全体を整理して、その詳細説明へと行きましょう。

そうしたら、その後ハイブリッドができることは、一人旅へと旅立つ人を見送ることだけです。「否定価値の放棄」そして「現実との和解」は、人それぞれが、その一人旅の中で見出す事柄になります。基本的な探し方だけは教えます。
「魂の望みへの歩み」という最終段階が、その先にあります。「真の未知」は、そのまた先に見出されます。


心理学本下巻に向けての考察-41 / しまの
No.1291 2007/09/21(Fri) 11:22:13

■「愛されれば安全」vs「愛されても安全とは無関係」

変化する人変化できない人とで、「恐怖」についての姿勢決定的な違いがある。
これが結構その本質がはっきりしてきましたので、まず結論から言いましょう。

「変化できない人」というのは、まず、「恐怖と安全」の問題を、全て「人の目」ベースで考えます。白い目で見られることに恐怖を感じ、愛情の目で見られることに、安全を感じます。
ただしこれは「人の目感性」においては誰でも基本的にはそうゆう感情が流れます。「魂感性土台の体験」をしても、これは誰でもかなり継続します。

問題は、知性思考の面に現れます。
「変化できない人」という印象を僕が感じる人は、「安全」についての思考がすべて「人の目」「人の感情」に終始します。
「変化できる人」という印象を僕が感じる人は、「安全」についての思考が「人の目」「人の感情」を含んだとして、むしろその後の「現実外界全体」の結果を思考します。

当然この結果、この両者が話す事柄の内容は、「変化できない人」の場合どうも「社会行動見識が不足している」ような、「人の目を気にしすぎる」印象を感じさせるものになります。
で僕としても社会行動スキルの話はしますし、基本的に感性土台の違いに焦点を当ててきている訳です。

しかしそこには、そうした「何か足りないもの」ではない、「何か積極的に違うものに向いている」ものがあります。それがはっきりした感がある次第。
それは、「愛されると安全になる」と感じ考えているらしいことです。
それじゃー当然、全ての話が「人の目」に終始しますね。

一方、「変化できる人」という印象を漠然と感じる人の場合、対応する命題は「愛されても安全とは全く無関係」となります。「安全」とは、「身の安全」の話であり、「人生の安全」です。
それと「愛されること」は全くの別の話。だから、人に嫌悪を目を向けられる恐怖「不安感」の問題であり「恐怖感」の問題として「取り組む」わけです。「安全」の問題として取り組むのではありません

「変化できない人」という印象を漠然と感じる人の場合、それが「安全」の問題になってしまっている。「人の愛情の目」が「安全」のゴールになってしまっているわけです。


■本来「愛」とは全く関係ない事柄への思考法

ごくプラクティカルな視点で言いますと、「変化できない印象の人」の思考の問題は、「愛」についてどう考えるかの問題では全くなく、本来「愛」とは全く無関係な事柄についての思考が見事に欠落しているという印象を感じます。

どう愛され抱きしめられようとも、蚊がいれば食われるんです。ころべば足をすりむくのです。
それが、どうも、「人に愛されれば」蚊がいても食われこともないし、ころんでも足をすりむくこともないと考えているかのよう。
そんな風に、この人生を生きることについて、「愛されれば全てがうまく行く」ことを期待しているのかしらんと思えるような。
まあ、愛されれば、その相手が常に蚊を追い払い、ころんでも地面に落ちる前に自分を抱き起こしてくれるはずだ、と考えているのかも知れませんね。アハハ..

つまりはっきり言っっちゃって、赤ちゃんの思考です^^; ハイブリッドの取り組みにおいては、幼いままの「魂」の開放は是とします。しかしそれを守る役割が「心」にあるというのが、この先の道のりの基本的な考えです。

人に愛され守られることへの願望を、自分自身で受け止めます。そうした感情については、「正す」という姿勢は不毛です。「感情」に、この先に歩む上での問題があるのではありません。

しかしそれが「知性思考」にまで及んでいる時、どうも別の問題が起きていることを考えずにはいられません。そしてその状況にあるのであれば、「知性思考」についてはかなりの覚悟と意志をもって、「正す」という表現もできるような意識変革が必要になると考えます。


■「自分は社会の歯車..」ではなく「社会を自分の歯車として利用」という思考

もし上記を読んで「赤ちゃん思考の自分は駄目だ」とお感じになった方がおられたとしたら、多分それがまさに「人の目感性土台」の先にさらに「人の愛の中で安全になれる」思考による、人の目の中の自己理想からの見下しではないかと、確認頂ければ。
では何が「選択」になるのかを説明しましょう。

それは、「人の目」「人の感情」を自分の思考行動の終着先であるかのように考える思考法から、逆に「人の目」「人の感情」を一つの駒としてその後のことを考える思考を築きあげることです。
「どうすれば愛されるか」「どうすればこんな目で自分を見られずにすむか」ではなく、「愛されてどうなる」「こんな目で自分を見る他人が果たして社会のどこに位置づけられるか」を考えることです。

より具体的にいえば、多くの方が社会に出ることについて、「社会の歯車になるなんて」と空しさを感じると共に「社会に受け入れられる」ことへの不安を感じます。
僕もまあそうした時期は『悲しみの彼方への旅』で書いたようにあったわけですが、良く考えるとかなりその一瞬に限られた感じがあり、日常思考全般ではそうした思考はどうもあまりなかったような気がします。人生の全体を通してであり、ということは心の障害傾向の深刻さとはあまり関係ないものとして、そうだったということです。

そして今の感覚を言うならば、自分が社会の歯車だなんて感覚は、全くと言っていいほどありません。むしろ、社会が、僕の歯車だと感じます。社会を歯車としてうまく利用して、今の実にストレスのない生活を送れていると感じます。
そうでなく、「人に愛されれば安全」と感じ、「社会の歯車になって」という思考をして生きるって、それってなんか「社会に飼われている」という言葉が浮かぶような印象を与えるもののような気がする次第。

実際のところ、「社会での身の安全」については、「愛されれば安全」なんてのとは全く逆の感覚を感じるのが正直なところです。愛に頼れば、逆に危うくなる。なぜなら愛は基本的に自由を損なう性質も含むからです。これまた逆に言えば、それを犯してまで「愛する」ことの真の意味という話が出てくるわけです。

自分の人生戦略のために、「人の愛情の目」を目指すどころか、その逆も良くでてきます。実際僕は会社勤めの終わりの頃は、あえて自分が能力不足に見られるように振舞った面が多々あります。能力あると見られ仕事を増やすと、定時で帰れなくなり執筆もできなくなってしまうので。そして自分の成果が少ないのは、努力不足ではなく根本的に能力が足りないとボスに思われるように、不足を責められた時は真剣に悩む振りをした訳です^^;


■感性土台の影響と社会文化の影響

そうした思考法の違いは、心を病むメカニズムとしては愛情要求人の目感性土台の結果もたらされる面もあるでしょうが、それを超えて、やはり社会文化や学校家庭での教育そして親の日ごろの言動の影響が大きいでしょう。

やはり、「人の目」を基準にした道徳的思考をする環境では、「愛されれば安全」的な思考になるでしょう。「人に後ろ指さされるようなことだけは」「人にバカにされることだけは」「人様に迷惑かけることだけは」の類。なにその「人様」の「様」って?という感じなんですけど。という感じー^^;
かくして、「何も悪いことしてないのに何でこんな目に」的なことを言う人が沢山社会に出てくる。そりゃアンタの自衛能力がなかったということなんですけど。という感じー^^;

人をバカにすることでしか自尊心をもてない人は、かなりバカです^^; 相手が悪人であれば、相手に迷惑な事のほうが善です。
目の前の相手を基準に考えるのではなく、その相手は一体この社会全体でどんな人間なのかというのを考える目が大切ですね。それが「優れた社会見識」を培います。

どうもこれはやはり江戸時代の農耕民衆向けにカスタマイズされた「儒教」信仰の影響が大きいと思いますね。「人の和」「人の絆」を神のようにあがめる思想ですね。最初っから人の下で生きる人のための思考です。
僕の親はそうゆうのではなかった。「道徳家」というより「策略家」という感じで。多分それが、僕が親から心理障害の種をもらうと同時に、自らそれを乗り越える芽も与えられたという状況だったのだろうと。


ということで、ちょっと言葉が雑になりましたが(^^;)、魂感性土台の体験という内面治癒段階から先の道のりと、こうした思考法の問題の関係について、治癒論としての整理を次に。


心理学本下巻に向けての考察-40 / しまの
No.1290 2007/09/20(Thu) 14:58:42

■魂感性土台から先の「自尊心」「愛」「恐怖」

ここでは、
1)「魂感性土台の体験」の体験として実際に得られている内面変化
2)この先の根本的治癒成長変化の方向性。つまり1)だけでは得られていないもの

という視点について、「自尊心」「」「恐怖」という3つのテーマにおいて僕自身および多数の相談者事例を踏まえた実際を描写してみたいと思います。

引き続きまとめた表を参照頂きながら。
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html


■「自尊心」における変化の芽と成長の先

人の目感性土台と魂完成土台とで、違いが最も端的明瞭に感じられるは、「自尊心」になるでしょう。これはあまりに明瞭です。

人の目感性土台では、文字通り「人の目の中」で、見上げられるような賞賛の目の先に自分があるという、実に空想的な高揚感をもって、「自尊心」と感じます。まあ破壊性を帯びて荒廃化したケースでは、人が劣等感を感じながら自分を見るという空想になるかと。

魂感性土台の先に成長した自尊心は、まるっきり違います。
まず僕の感覚を言えば、これはまさに大草原で一匹の獣が、自分の力で生き抜く能力を得たことに自信を感じる、その感覚そのものであることを想像します。つまり、そこには、他の獣がこの獣を見上げる目など、全く必要ないのです。

これを「弱肉強食のギスギスした勝利」の話か、と感じる方もおられるかも知れません。そうじゃないですね。それは同時に、自分が多くの命をこれから育て守り愛することができるという、「強さと愛」の統合された、実に豊かな感覚なのです。

この違いは、魂感性土台の体験の段階で、多少は視界に捉えられるかも知れません。
なぜなら、「現実感の増大」と共に、「空想の中の自尊心」の価値実感として下がるからです。そんなもの幾ら繰り返しても、「現実」においての自尊心には結局つながっていないことがわかるし、どんなに空想の中で自尊心に浸っても、「現実の豊かさ」が増えるわけでもない

そして「現実の中の自尊心」のはしくれとも言えるものが、案外早く得られているかも知れません。
なぜなら、「空想の中の自尊心」の不毛さに気づいた時点で、大きな前進を果たしたことになるからです。実際のところ、この人間世界で実に多くの人々が、空想の中だけで生涯を送ります。それに較べれば、何か一歩を成したと感じたとしても、それは決して自己誇大自賛ではないと言っていいものです。恐らくそれだけでも、この人は後に生きる人々に、何か伝え得るものを得たことになるのです。

その先も、まさに「空想した通りになれること」ではなく、「現実を生きる」ことそのものが生み出す自尊心の増大があります。それはまさに、「空想」という蓑から外に出て生きたという、そのことを起点とする自尊心なのです。

そのために、より積極的に「自ら望んで生きる」ことが重要になってきます。残りのテーマ「愛」そして「恐怖」が次第に、それを妨げるものとして目の前に現れるものになってくるでしょう。


■「愛」における変化の芽と成長の先

魂感性土台の体験という形を取って、「人への穏やかな肯定感」というのが現れたかも知れません。まあ今までの、愛が得られないフラストレーションと怒りが一時的に消え、他人イメージにつきまとっていたトゲトゲしい色彩が薄れた感覚ということになるでしょう。

しかしこれはまだ、この人が「人生で欲する愛」について、何の答えになるものでもありません。
なぜならば、実際のところ心の底に愛情要求を抱えているこの段階においては、人の「愛情の目」が基本的に「愛への入り口」なのであり、まずそれが得られた先の、愛し愛される栄光が、求めるものになっているからです。

ですから、まとめた表
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
においても、「愛」については、「得られた変化」として書くことはまだ何もありません。
つまり、「愛」については、変化する先がまだ視界には入らないまま、この先の歩みをする必要があるということです。

一言でいえば、「愛」に関する感情は引き続き、今までの人の目感性土台の感情として動きます。それを心の中に置き続けることを許す2つの感性の共存の中で、一方はその感情が欲しがる「愛」とは違うものへと向かうという、実に難しい道のりがあります。
これが実際のところ、この先の歩みのキモの話になるでしょうし、ハイブリッドの実践の最大本質そのものになるでしょう。それが「ハイブリッドが進む世界」になるのです。

上巻原稿で表現したように、「2つの世界」を同時に見続けることです。「魂」が願った愛の世界と、それに挫折した「心」が「人の目」を起点にして空想の中で抱く世界と。
その2つの世界が交わるところに、2つの世界を生み出した根源がはじけ、新たなる「未知」が現れることになります。「愛」は完全なる「未知」として増大していきます。

これはまず生涯において最後まで完全には果たせないものと考えてまず正解です。そしてこれを歩み続けるのが人生になるわけです。

魂感性土台の体験ではまだ得られないものとして、この先の歩み方について、正確な知識正確な実践をハイブリッドで定義します。これが下巻原稿の目的です。

この「2つの感性土台のまたがり方」について、一言ではこう言えそうです。
「人の目イメージは、受けるが、向かわない」そして何に向かうかといえば「魂の願いを果たす」ことへと向かう。
人の目イメージと感情は否定しません。ただし行動方向性は、人の目を越えたものにします。この両立共存が、これからの歩みです。

そして表に表現しましたが、イメージと感情は人の目感性という状況に変化があまりない一方で、「現実を生きる自尊心」が「未知の愛」への鍵になってくるというのが出てきます。
これも難しいテーマです。このあとじっくり考察しましょう。

で、これを阻むものが最後に出てくる。


■「恐怖」における変化の芽と成長の先

「愛」については感性感情面でまだ変化はないが、「自尊心」における変化が「愛」の変化への鍵になる、という構図。
ということで、「魂感性土台」の体験として、「自尊心」については変化が視野に入る。
「愛」になると変化がなくなる。だが変化への鍵が視野に入る。

そして「恐怖」について考えて、魂感性土台の体験との関係がさらに見えなくなります。
というか、全く関係がなくなるのです。事実僕は先の表をまとめるにあたり、最初「恐怖」の項目をすっかり抜かしていました。

話は全く別のところから合流してきます。良く検討するテーマですが、ハイブリッドに取り組んでもらって、結構スンナリ変化する人と、なかなか変化できない人がいる。その違いは、何かかなり決定的な事柄に関連しているらしい気配を感じるのですが、それをはっきり定義できていない。

実のところ、それがハイブリッド心理学の発展の歩みそのものでもあります。最初それは精神分析と認知療法をミックスしたようなものとして始まりました。「感情分析」が根幹になります。
ところが「感情分析」をして意味のある人と、てんで意味にならない人がいる。感情分析作業の仕方そのものではなく、それをする姿勢に重要なものがありそうだ。で「建設的生き方」を考える。
そして「建設的生き方」がどうも定着できない人がいる。何か「正しければ幸福に」のような、ちょっと甘い(^^;)人生思考が問題かも。で「サバイバル世界観」なんて出してみる。

そうして、その「決定的な事柄」がまさにテーマになる、この転換期の実践考察に至ったわけです。
「決定的な違い」の一つは、「感性土台の違い」です。その先での「自尊心」「愛」が全く別物になる。

残された「決定的な違い」が見えてきました。それが「恐怖」です。変化する人としない人が「恐怖」に面する姿勢が全く違う
そしてそれがやはり「感性土台の違い」に関連する。

ただし、答えが全く別のところから来る。「知的思考」です。これは内面治癒の流れよりも、社会文化科学思考などの「外部」から、答えが出てくる。まあ「現実世界を生きるノウハウ」という根幹ベクトルというもう一つの流れの方からということですね。
それが「感性土台の違い」を接点にして、合流してきます。

それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-39 / しまの
No.1289 2007/09/20(Thu) 09:53:39

■「魂感性土台」の体験から先の変化方向性まとめ

魂感性土台の体験を足がかりにした、ハイブリッドの道のり後半への転換を説明していますが、基本的な視点は2つあります。
1)「魂感性土台の体験」の体験として実際に得られている内面変化
2)この先の根本的治癒成長変化の方向性。つまり1)だけでは得られていないもの


それを先日の表を更新してまとめています。
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
「実際に得られる内面変化」であり、は内面変化だけでは足りず、自らその方向性を強く意識する必要があるものです。

こうまとめるのも、ハイブリッドが目指す「新しい生き方」が本当に心の根底からの変革になるためには、どうしても頭で考えるだけでは不可能な面が多々あるからです。
なにより、「自己の重心」という基本方向性を言い、「人の目ではなく自らの望みへ」と考えたとして、まず大抵、それは結局その人の「人の目感性土台」の上で「人の目を気にしない自分」が人の目の中にあれるという、焼き直しを描くことにしかなれないのが実情です。

ですからそれを、根本的に「人の目の中で人目を気にしない自分」を超えた真の生き方変革にしようとするならば、まず「感性土台の違い」という脳のレベルでの別領域が自分の中にあるという実体験をもって、「新しい生き方」を頭で考えて目指す前半段階から、本当に脳のレベルで変革を成していく後半段階に移行するという変わり目を通るという主旨になります。

「魂感性土台の体験」は、比較的深刻な障害傾向があるケースにおいては、まず多少の心性崩壊および膿の放出体験が必要になります。

一方そうではない比較的一般人(?)向けには、とりあえず「千の風になって」などを聞いて感動する時の感覚の確認をもってそれに当てもらうことを考えたいと思います。やはりとにかく実体験ベースで考えてもらう。
あとは大自然に触れて感動した時、良く「日ごろの悩みがあまりにちっぽけに思えた」といった言葉が出る感覚ですね。日ごろ思い悩む「人にどう思われるか」がなぜか薄れる感覚
そうしたプラクティカルな実践順序として、下巻原稿はまとめる所存。


■断片的なだけの「魂感性土台の体験」

そうした魂感性土台の体験は、比較的深刻なケースでも一般的心の悩みケースでも、まずは、思い煩う日ごろとは切り離された時間として体験するに過ぎない形になると思います。

思い煩う時間の辛さには、あまり変わりはありません。深刻なケースでは、「原罪感情」と「理想からの見下し軽蔑」が異質なものとして体験されてくるという変化がありますが、それはやはり心を下り坂に向かわせます。「原罪感情」においてはもはや「理想通りになる」ことすら解決にはならいという、さらに行き詰まりの感覚を引き起こすかも知れません。
一般的なケースでは、上記プラスティスだけでは、日ごろの悩み時間に戻れば、大抵はあまり変わりのない元のままです。

比較的深刻なケースでは、一般ケースよりもやはり苦境のままですが、その分光のきざしが見え始めます。
それが「現実感の増大」です。日ごろの感覚として、今まではまるで夢を見続けていたような、空想の中だけで生きる自分がいた。何かそこから目が覚めたという感覚。
ハイブリッドに長く取り組んだ先のそれは、それが何かのプラス方向に向かうことであることが、何となく感じられるかも知れません。比較的短期間に変化しようとするケースでは、それはまだ暗雲の切れ間程度で実に淡々とした断片でしかないかも知れません。今後ハイブリッドも良く整理され普及してくると、後者のケースが多くなってくるでしょう。

いずれにせよ、「素の思考」だけでは、魂感性土台の体験を、その先の根本変化につなげるのはまず無理です。意識的に、この先を理解し、まずそこに向かいたいかという自分の関心動機の確認からから始めて、実に意識的な実践がこの先必要になるということです。

これは医学と全く同じ話です。問題の加速を止め一時的に気分が良くなる程度のことは、進め方に多少のブレがあっても至ります。とにかく問題を加速させたものから離れればいいのですから。
根本解決へは、違います。かなり正確な医学知識が必要になります。かなり正確なその実践が必要になります。


ということで、「魂感性土台」を足がかりにして意識実践すべき内容を、「自尊心」「」「恐怖」という視点から引き続きまとめます。
どうやら、「自尊心」「愛」をこの魂感性土台の先に育てるのが答えとして、そのために全く別方向からの話が必要になるようです。それが「恐怖」の克服という視点で明瞭になります。


心理学本下巻に向けての考察-38 / しまの
No.1288 2007/09/19(Wed) 14:05:30

材料出し整理ということで、例により流れが順不同ですが、ちょっとまた話の流れを変えます^^;


■「原罪感情」の向こうにある「最終解決」

先のカキコで書いたように、「魂感性土台の体験」から先の道のりにおいては、嫌悪軽蔑感情において「原罪感情」「理想からの見下し」明瞭に異なるものとして意識体験されてくるのが、この先の治癒過程において重要な意味を持ってきます。

まあこれを本人の意識体験で見るならば、こう表現できるでしょう。
以前は、「理想に満たないまがいもの!」
これからは、「理想に満たない情けなさ」「理想を蓑にしようとしたまがいもの!」の2種類の体験。

前者理想からの見下しであり、後者原罪感情に対応します。後者がより強烈になり、前者つまり理想に満たないことへの軽蔑嫌悪感情は徐々に緩やかになっていきます。
つまり、「理想をめぐる感情」は、過度に駆り立てられるのでも、自己嫌悪回避のために理想から目をそらそうとするのでもない、本来の健康な感情へと徐々に回復しているのが、既におき始めているのを見ることができます。

ただし本人はあまり治癒回復とは気づかないままにです。原罪感情の強烈さが相変わらず、場合によっては今までにも増して、この人の心を不安定もしくは下り坂にするからです。

これは同時に、この道のりにおける「最終解決」が視野に捉えられることが可能になる時が近づいているものでもあります。
なぜなら「原罪感情」とは、幼少期における「生からの拒絶」を受けた「根源的自己否定感情」に対応するものだからです。学童期には、それを否定し去ろうとするベクトルと、ごく自然な願望との混合物として、「なりたい自分」像が生まれたという経緯でした。
「根源的自己否定感情」が今、「原罪感情」として明瞭に意識の表面に戻ってきたことにおいて、「なりたい自分」という混合物から、「根源的自己否定感情」とその否定に由来する部分が除去されるという、この先の根本治癒原理が働くことが可能になるわけです。


■「障害の除去」という「治癒」だけではやはり足りない「恐怖の克服」

本人の「素の意識」では、そうした治癒の積極的意義の側面を感じ取ることはできません。少なくとも、まだ優勢な「人の目感性」で外界の他人や社会に面する限り、自動的な感情と思考は、根源的自己否定感情から逃れるために理想通りになることが全てだという感情論理を生み出す、自己操縦心性の中で動くからです。

それは相変わらず、「自然と人に繋がることのできる活発な人間」を理想像としてイメージさせながら、「結局自分は人と繋がることが根本的にできない心を損なった人間だ」という自己否定感情を湧き出させがちです。

事実、上述の「原罪感情の向こうにある最終解決」として書いたものも、「なりたい自分という混合物から根源的自己否定感情とその否定に由来する部分が除去される」という、「問題が取り除かれる」という消極的な側面だけでしかありません。

ということで、次にその「最終解決」について、僕自身の日記例なども出して説明しようとしていたところですが、どうも大きな抜けがあるのに気づいた次第です。

それは、「自尊心」と「恐怖の克服」に関連する方向性です。
昨日Upした
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
は、「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という「魂」側の「治癒」のベクトルから整理したものと言えます。
それだけではやはり、大きなベクトルが抜けています。それは「心」の側の「成長」のベクトルとして、そこにつけ加えたいものです。

事実その表では、「恐怖」の項目が抜けています。そして、魂感性土台だけでは、状況が変えられないのです。
一言でいえば、「知性思考」がやはり今までの「人の目感性土台」の上にあったものそのままでは、「恐怖の克服」はできません。



■「魂感性土台」と手を組んで「心」の真の役割が姿を見せる

大きな話の流れで言うと、「魂感性土台」の体験を契機にした、新たな段階の説明をしています。「魂感性土台」から、「人の目感性」が捉えたのとは違う人間像を想定しましょうという話をしています。
これは「魂」の側の治癒進展が可能にするものです。

それと手を携える形で、「心」の側に、独自の役割が求められるようです。「心」にやはり、「魂」を恐怖から守り、「魂」を「強さ」へと導く役割があります。
それはここまでの流れとして説明した範囲では、どうも出ていない。ここまでの実践では、どうじっと待っても「魂」は強くならない

具体的には、「サバイバル知性思考」が、ここで本当の意味を持つようです。
「感性土台の違い」と「サバイバル知性思考」がどう結びつくかに、大きなキーポイントがあるようです。
それを次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-37 / しまの
No.1287 2007/09/18(Tue) 14:43:51

■「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という状況変化

魂感性土台の体験から先の実践を説明していますが、同時に、心が置かれる状況にも変化が起きています。
実践説明をいったん置いといて、メカニズム説明を入れましょう。

それをまとめたのがこの表(HTML表直接表示不可^^;)
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html

この転換段階を最も特徴づけるのは、「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という2つを言えると思います。

「現実感の増大」というのは、文字通りの感覚で、体験してみないと分からない特殊な面もありますが、今まで何かの夢の中で生きていたようなのが、目が覚めたリセット感覚みたいなのがあります。

「原罪感情の明瞭化」というのは、今まで自己嫌悪を全て「理想からの見下し」としてしか体験しなかったものを、明らかにそれとは異なる嫌悪があるというのが意識で感じられるようになってくるということです。
それは結論から言えば、「理想を掲げて人に近づこうとした意識」そのものへの非難嫌悪であり、罪悪感です。

メカニズムとしては、この「原罪感情」が、来歴を通しての心を病むメカニズムとして上巻原稿で説明した、最も根源となる、幼少期の「根源的自己否定感情」が置き去りにされていたものが、遡り治癒過程として意識に現れるようになったものと言えます。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/08.htm

幼少期における根源と、学童期における「なるべき自分」による問題のぼやかし。
この大局構造が、ここでかなり見分けられるようになってくるわけです。

「幼少期における根源」が、意識の構造を変えるインパクトを持っており、そこから逃れるために、半夢状態の「空想を生きる生」という意識土台ができていたという構図になります。
ですから、治癒の進展によって、空想の殻が次第に崩壊し、現実感が増大するという治癒の一方で、それまで防御されていた、今までの自己嫌悪感情とはちょっと異質なものが意識に現れてくるという、新たな隘路の様相にもなることを考慮する必要があります。


■「原罪を受け入れ乗り越える生」へ

方向性の観点に戻し、手短にキーポイントを説明しておきましょう。

「原罪感情」が明瞭になるに従い、感じ取られる新たな命題とは、意識上においては次のような否定形になると思います。
「この悪感情においては理想通りになることさえ解決にならない」
理想像通りになるかどうかが問題ではない。もっと根本的な、自分の「人格」への不信嫌悪の問題となっている。
そう体験されると思います。

しかし、まさにその否定形の裏で見えない「未知」に、答えがあるわけです。それは、
「理想像通りになることではないところに答えがある」ということです。

どんな答えなのか。「未知」です。
それをできるだけ肯定形で先取り思考するのが、これからの実践になるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-36 / しまの
No.1286 2007/09/17(Mon) 12:52:43

■「2種類の他人像想定」というハイブリッド後半道のりへの関所

「開放感」「魂の愛への願いの感情」などの体験を通して、まず「魂感性土台」という、今までの「人の目感性土台」とは全く別の感性が自分の中に用意されていることを、しっかりとキャッチする。

そしたら次は、この2種類の感性土台の上にできあがる、2種類の人間像を知ることです。これは体験として知る話ではなく、まだ未体験の世界への先取り思考をするということです。まだ未体験ですから、心理学知識として学びます。
キモは、魂感性主体人間は、感情を人相手そのものに向けるのではなく「現実状況」全体に向けるということです。それは今までの人の目感性土台の中で「感じ取った人の目と感情」とは、実は全く別世界のものかも知れない。この想定をしてみることが、この先への前進にとって、とても重要になってきます。

その想定は今の自分にはできない。「軽蔑の目を持たない他人イメージ」など考えられない。
ならばまだこの折り返し時点より前の状況だということです。まだ自己操縦心性が強い状況で、空想が心の全てを覆っている状況です。そうして前進し得ない自分への絶望を感じるのであれば、それが心性崩壊の前進でもあるでしょう。パラドックスです。とにかく生き続けることです。

実は「軽蔑の目を持たない他人イメージ」を想定できるような、潜在的治癒にすでに来ているかも知れません。しかし今までの思考法があまりに骨の髄にまで染み付き、「人の目イメージ」を起点として考える思考に固執している結果、そうなっているかも知れません。
その場合は、今説明している「2種類の人間像想定」の実践にかかってきます。話は単純です。それができたら、この先に進めます。できなければ、この先には進みません。それだけです。
治癒がまだ不十分だからにせよ、思考法の固執にせよ、ここがハイブリッド道のりの後半から先に進むか進まないかの、明瞭な関所であることを心得て頂ければ。


意識実践上のポイントとしては、「開放感」「魂の愛への願いの感情」などを感じ、人の目イメージの圧力が減り、この世界と人々への穏やかな肯定感の中で人にはあまり感情を向けていない自分の状態をまず追想する。なぜ人に感情向けない状態になるかというと、それは当然のことで、「感情の箱」が自分内部の「魂の感情」で塞がれているからです。「人に感情向ける」というのもまた「感情」であって、それはちょっとこの塞がった箱には今は入りません。
そしてそれを今度はその状態にある他人を想定してみる。他人は他人で、他人自身の中の「感情の箱」が「魂の感情」で塞がれている。
まあそんな他人像を想定してみる感じですね。

一方、今での「人の目イメージ」の中の「人」は、自分自身が「人の目イメージ」を引き金にして起きた感情をまた人に向ける。そのままの同じ姿として「人」がイメージされていたと思います。

この2種類の人間像想定をできる自分の心の2形態を、まずしっかりと把握する。


■「人の目感性主体の自分」で「人の目感性主体の他人」に向かうパターン

次に、その2種類の人間像想定をできる、自分の心の2つの状態それぞれで、他人への行動姿勢がどうなるかを、また想定してみましょう。

自分人の目感性主体の感覚で、他人人の目主体でイメージされた時の行動様式は、次のように言えると思います。
「愛情の目を期待して向かい、それが報われない悪意に出会い、怒りを返す」

これは面白いほど(?^^;)、必ずそうなります。ほとんど自分と他人の事態状況を問わずです。これはもう内面メカニズムとしてそうなるんですね。
「報われない悪意」には、およそ3種類があるでしょう。はっきりと他人から向けられる、自分への不信軽蔑の目状況全体が、自分の向かう先を妨害するようになるという感覚。最後に、自分自身の内面気分が、自分の行動を妨げるふがいないものに変化するという、自分自身の内部にある「悪意」

そうなって「正常」です。なぜならば、「人の目」を目当てに行動するという心の動きそのものが、心の最根底において、それとは全く異なる行動姿勢が心の自然な成長の先にあるものという、最大の心の摂理命題に反するものを、自分が行おうとしているという、強烈な自己軽蔑が起きているからです。
逆にこれが起きないとは、人間性を損なった、自己本意に他人を踏みにじる行動に自分でも疑問を感じないという、心理障害とは全く別カテゴリーで心を損なった何かにあることを示すものと言えます。
まあそうしたケースの人間は、そもそもハイブリッドを読むこともないでしょう。

ただし、実のところその自己軽蔑を何とかはねのけようとして掲げられたのが、自己理想像でもあります。
つまり問題はあきらかに2重構造にあるということです。
「人の目」を目当てにするという心の動きそのものへの、深く強烈な自己軽蔑。これは「原罪感情」に関係します。
それをはねのけられるような、輝かしい自分の理想像そこから自分を見下す自己軽蔑。これは自然な望みである側面と、そうなれれば「原罪感情」をはねのけられるという錯覚の、2面を持っています。
後者は完全なる錯覚です。「原罪感情」はそんな生易しいものではありません。


■ハイブリッド後半道のりの治癒原理

この先の治癒の答えも言っておきましょう。
自己理想像の「自然な望み」の側面へと、成長していく心がより意識を向けることで、「望みに向かう行動」に踏み出すことで、必ず、人の目感性の中で起きている上記2重構造が露わになり、必ず、「自己理想願望」と「原罪感情」の衝突が起きます。
これは極めて苦痛度の高い感情状態になり、その中で、「自己