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2007.10


心理学本下巻に向けての考察-96:「心」と「魂」の原点へ-5 / しまの
No.1347 2007/10/31(Wed) 12:13:42

■「心の自立」と「魂の自立」

「心の自立」については9/24「心理学本下巻に向けての考察-46」あたりでも焦点を当て、そこでは、それはもう「実践」というよりは「一人立ち」するという「命の摂理」であり、その基本は「自分は自分で守る」ことだと書きました。
より詳しい心理メカニズムの視点から、改めて定義をしましょう。

まずお伝えしたいのは、ハイブリッドが考える「心の自立」とは、それをしているかしていないかで、心の状態が全く別世界となる、極めて大きな違いを考えているということです。
大自然において自立している動物していない動物の違いに匹敵するほどにです。まあ「自立していない動物」とは、大自然に生きるのではなく人に飼われて生きるという話になるでしょう。同じです。我々人間も、「心の自立」をしていない場合は、社会や回りの人々に飼ってもらうことで生きていけるような心の状態になっていることを意味します。

そうした大きな違いは、「人の目感性土台」「魂感性土台」別世界の違いにそのまま対応しています。
「人の目感性」に影響された心の領域には、「心の自立」はありません。そして先に「人の目感性」は「克服できない」と述べたことにおいて、ここでは「実践として克服はできない」とより正確に付け足しておきますが、同じように「心の自立」は意識努力だけではどうしても成しえないのが、人間の不完全性の大きな一つだということになります。

そんな状況において、「否定価値の放棄」は、ハイブリッドの取り組みにおいて、意識努力で成しえる範囲での「心の自立」の獲得解決です。これをまずは「心の自立」と呼ぶので良いかと。
ただし「否定価値の放棄」だけでは、「人の目感性」はもはや「土台」であることをやめたまま残されます。これは「感情」としてはまだ「自立できていない感情」がかなり心に流れるということです。

真に自立を成した結果としての「未知の感情」が心に流れ出すのは、その先の「魂の望みへの歩み」の中で、「魂の挫折の原点」に戻って、その原点が「まっさらな未知」の中へと消え去った後です。
これを「魂の自立」と呼んでいいと思います。

ですから「否定価値の放棄」では一応病気が治った病み上がりで、「魂の挫折の原点」を超えた先に、病んだ要素が完全に消えた心の領域が現れるという構図になります。
まあもちろんそもそも心を病むメカニズム人間の心の基本的なメカニズムであることにおいて、この構図における「完全形」をいたずらに目標とすることは、もはや誤りです。それはどう頭でイメージしよとしても、「人の目の中でこうあれる自分」の焼き直しの絵に描いた餅にしかならないでしょう。

意識実践の目標はやはり「否定価値の放棄」です。そしてそれがまだかなり不完全な人間の姿であることにおいて、まさにその不完全性の受容とはどうゆうことかを見出すのが、「否定価値の放棄」なのです。それが成されれば、あとは「魂」が導いてくれます。

まあありがちな轍は、「心の自立」について考えることが、「こうなれれば心の自立した人間として社会や人から見られる」という目標像を考える思考に陥っているものですね。「心の自立」とはまさに、そのように「こう見られれば」という思考を超えた思考を築くことを言います。
まあまずは「ちゃんと心の自立した人間の思考法行動法」を学ぶという、ごくプラクティカルなアプローチから始めるのでいいと思います。それだけでも社会を生きるノウハウとして高度な領域になってきますので。
そしてそれを実践する中で、単に処世術のようなものを超えた真の「心の自立」とはどうゆうことかを考えていくのがいいでしょう。

ということで、位置づけの話をしましたが、午後出かけることもありここでカキコして、「心の自立」のより具体的な構成要素、そしてそれがどのように「否定価値の放棄」へつながるのかの、考察説明を行いますす。


心理学本下巻に向けての考察-95:「心」と「魂」の原点へ-4 / しまの
No.1346 2007/10/30(Tue) 23:31:48

「心の自立」については書けていなかった面が多く、サマリーというよりややじっくりになるかと。


■「中期」への基本視点2:「心の自立」へ

まずここでは、「心の自立」というのが基本的に難しいテーマになっている現代社会、さらには人類文明(大きい^^;)という状況から話したいと思います。
まあそれが結局は、人類の文明と共に「心を病む」という人間特有の問題が発生したという、文化人類学的な背景が実際のところ、「心を病むメカニズム」にはあると僕としては思っとります。

これはまあ現代社会のように高度に整備された社会であれば、こうなるのも仕方のない状況ですが、どうゆうことかと言うと、内面において精神的な「心の自立」をしていようといまいと、大して違いのない外面生活になるという状況ということです。
この「大して違いのない」と言うのは、大自然の動物界に比べるとはっきりしてきます。大自然の動物においては、自立できないでいることは、基本的に死を意味します。
だから、大自然の動物は、「自立とは何か」なんていう哲学的心理学的な問いをする暇があれば、とっとと自立していくわけです。

それに比べれば、今の社会というか人間の社会は基本的に、精神的な自立をしないままでもそれなりに大人の生活になります。で「心の自立」をしていない人は、「心の自立」をしている人と自分との違いが良く分からないまま、何となく自分が生きて前に進むのが不器用で、うまくやっている人々が何かずるい世界の住民であるかのような苦い感情に置かれがちになるわけです。
かくして心理学が世に溢れ(ハイブリッドもその一つ^^;)、「心の自立」というテーマが時に言われたりします。


■人類の歴史における「自尊心」と「自立」

しかしちょっとアカデミックに考えて頂きたいのは、人間の脳数百万年の歴史を通して醸造(酒か!!)されたものであり、恐らくは文明社会以前のホモ・サピエンスが、大自然の中で「それができないことは死を意味する」ほどの重みも持つ「自立」によって、「自尊心」という心の成長課題が達成されるという設計が、ほぼ今も脳の基盤にあるのではないだろうかと。
この文明社会なんて、数100万年の人類の歴史の中での、まだほんの数千年なんですね。

また他では言う機会のなかなかない話なので言っておきますと、人類文明において「女性」は「男性」に対し受身の社会的立場に置かれた歴史を持つ一方、「自尊心」のDNA構造は人間共通で男女を通してあまり変わらない脳の構造ではないかと、僕としては推測しています。
脳の構造には多少の性差があることも知られており、心理的な機能についても、恐らくは「愛情」特に子供へのそれの働きなどには、多少の違いがあると僕としても推測しています。
しかしハイブリッド心理学として述べる話は、そうした違いは誤差程度の小さなものとしての、人間として性に関らずに共通普遍的と考える内容を述べておりますので。

ですから、現代社会では人間としては同じ「自尊心」課題において、「女性」はやや不利をこうむってきた歴史があり、今はまさにそれを脱却するという時代の転換期にあると考えています。
従来型の社会における「女性観」「女性の役割」には縛られることのない、「命」という本性において女として生きることの中にある「心の自立」というのが、僕としてもぜひ多くの女性に考えて欲しいところである次第です。


■「心の健康」の基本的目安としての「心の自立」

「心の自立」は、上述のように、もう人類文明の発達とともに人間が抱えるようになった課題という、基本的に難しい話である。

そんな背景もある中で、心の障害からの回復と成長のために「心の自立」が必要になるとは、「普通」よりもさらに高い志を持つ必要があるような感も抱かせる面があります。
心の障害傾向などない「普通の人」「心の自立」などしていない人はゴマンといるでしょう。むしろそれが現代社会のマジョリティかも知れません。しかし心の障害から脱出したいと感じる人が、せめて「普通の人」程度に安定した心になりたいと考え、「普通の人」と同じ程度の「心の自立」ができれば、と考えたら、もう治癒成長は止まると感じます。結局、そうした「普通」と言ったレッテルによって自分とは別の人間になろうとするという大元の問題が全くそのまま維持されるからです。

一方、「心の自立」をしている人で、「病んだ心の人」というのはいません。
それだけ、「心の自立」というのは難しいテーマであると同時に、心の健康を目指す上での実に強力な指標であり、それを目指すことが自然と心の治癒と成長への道へと自分を導いてくれる確実な目標にし得るものです。

だから、結局、「心の自立」というものを真正面から考えるしかない。
そして、そうした難しい課題だからこそ、ハイブリッドのような総合的で難しい心理学をわざわざ作っているわけです。エッヘン(^^;)

「心の自立」というテーマについて若干余談的な話が長くなりましたが、それがどんな本質的転換として、「問題のひとまずの解決」でもある「否定価値の放棄」へと我々を至らせるのかを次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-94:「心」と「魂」の原点へ-3 / しまの
No.1345 2007/10/30(Tue) 14:51:08

■「中期」への基本視点1:「健康な心の世界」へ

「中期」つまり「魂感性土台の体験」から「否定価値の放棄」までの要点を概観しましょう。

まず何よりも思考法行動法について、「魂感性土台の体験」を足場にしての、より洗練された検討を課題とすることになります。
まず「健康な心の世界」という視点を加える。

「病んだ心の世界」とは、「人間の価値」を見る目、それも主に否定的な「審判の基準」で見る目を前に、そこから向けられる潜在的な「存在への怒り」を何とか跳ね返し、逆に「愛情と賞賛の目」を獲得しようと躍起になるやり取りが成される世界です。

まずは、そうした「人間の価値を否定的に審判する目」に「どう見られるか」によって自分の自尊心を保とうとする姿勢こそが、何よりも自分の自尊心を危うくしている脅威なのだと、認識するのがいいでしょう。

今これを書こうとしてた時、TVの昼のワイドショー番組で、よくありがちな「嫁と姑バトル」みたいな場面が流れていました。嫁の「人間の価値」に否定的な「審判の目」を向ける姑という構図。鬼の首を取ったように、自分の方には一切の誤りはないという高みから見下す批判の表情。そんなものを向けられる場面を想像すると、ここで問われる命題が分かりやすいでしょう^^;

そもそもそうゆう目を人に向けるののは、「病んだ心の人」なのです。その人に「どう見られた」ところで、その人が社会における自分の位置づけや安全などを実際に確保してくれることなど、何もないわけです。それよりも、自分が自分で自尊心を感じられることは何かなのを見出し、それを自分で伸ばす努力をすることです。そして、人にどう「見られる」かではなく、自分の努力の結果という「現実」を見ることによって、自分自身で自分を評価できる視点を育てることです。

それが積極的な方向性として、それを見出す前に、まず自分の中にある消極的な側面の原因に目を向けなければならないかも知れません。
「人にどう見られるか」に心を駆られ、人に見られる場においてはどうしても「こう見られなければ」という譲れないような基準があるなら、「本当の」もしくは「現実の」自分はその基準において何ものなのか、ということを考える必要があるかも知れません。
「人に見られる時だけはこんな自分で」というのも一つの生き方なのかも知れませんが、もしそうなら、果たしてそれが「生きる」ということとして本当に意味のあることなのかと、自分自身に問う必要があるかも知れません。


■「自尊心」テーマ・「魂」への問い・「現実」

上記の問いは、「自尊心」というテーマにおいて、「魂」まで届くように自分に問うということ、そして「現実」というテーマを加味した問いです。
「人の目」は結局「空想の世界」です。もし上記のような問いの先に、「自分自身による」そして「現実に立脚した」自尊心への姿勢を選択するのであれば、「人の目」はその「病んだ心の人」においては事実その通り存在するものだとしても、もはやこちら側にとっては「ただのイメージ」として無視できるものになるわけです。

一方で、「人に見られる時だけは」という姿勢の裏には、自分自身で目をそむけ続けていた、貧困の窮地にある自分の現実があるかも知れません。否、「人に見られる時だけは」という姿勢が強ければ強いほど、そこには貧困の窮地にある自己の現実があると考えて正解でしょう。
「現実」については、ハイブリッドとしては何の言い訳気休めも用意しません。ただ「現実」がそうなのであれば、それが「現実」です。そして「感情の開放」という前期からの実践として言えるのは、ただ「現実」をありのままに見据え、もしそこに損失があるのであれば、ありのままに痛みと悲しみを流すことです。「現実はこうであるべき」という怒りだけは捨ててです。

なぜなら、人生の損失をありのままに痛み悲しむことで、それを乗り超えて前に向く力を回復させるという、心の自然治癒力と自然成長力が人間の、そして全ての生きるものの心のDNAには本来用意されているからです。
ただ人間だけが、それを「はず」「べき」という、自ら神になろうとする傲慢によって閉ざしてしまいました。

これらの問いは、「自尊心」というテーマにおいて、「人の目感性土台」から「魂感性土台」への移行方向性のための問いです。同時にそれは「現実」というテーマにおけるその方向性です。「魂感性土台」は、基本的に「現実に近づく」という方向性を持ちます。
「人の目」から「現実」へ。そしてそれを見る自分自身の目へ。

「人間の価値基準」命題はまだ残されますね。次に「自立」の命題を加えます。


心理学本下巻に向けての考察-93:「心」と「魂」の原点へ-2 / しまの
No.1344 2007/10/30(Tue) 13:11:06

さてハイブリッドの全て「神の国」から「放たれた野」への「自立」という根源命題で捉えられるということで、当面の最終整理(となるはず^^;)をしたいと思います。
特に、「否定価値の放棄」という「ひとまずの解決」と、「魂の望みへの歩み」の中に見出される「魂の挫折の原点」に戻る最終解決構造的なズレが、取り組み道のりの枠を大きく決定づけているという観点で。

やはり3つの段階ということで、なるべく今までと重複した話は省略の上、残されていた視点からのサマリーを書きましょう。
以下のような3段階になります。
I.前期 <自己との未知の関係へ>
II.中期と「否定価値の放棄」 <自己と他者と現実世界との未知の関係へ>
III.後期 <魂の望みへの歩み>



■ I.前期 <自己との未知の関係へ>

「病んだ心」という問題は、幼少期に起きた「魂」の挫折と、「心」がそれを置き去りにし、かつそれを否定し見返すような「愛」と「自尊心」を求めるようになる、という構図で始まります。

それによって、本来は「心」が「魂」を守り、「魂」の生命力を受け取り開放することで「愛」「自尊心」が育つところを、「愛されない屈辱」を見返そうとする自尊心によってさらに愛を破壊し、「愛されない屈辱」に戻るという悪循環によって、「愛」と「自尊心」を自ら破壊していくという構図に置かれます。
そして、自らが置かれたこの心の苦境を、「自分を否定できる自己理想」を掲げるという自己矛盾と、自己への強制というストレスをはらんだ「自分を良くする方法」を基本として生きた結果、自分がいったい何を感じ何を考え何を苦しんでいるのかさえ分からなくなってしまう、心の混乱状態に至るわけです。

感情と行動の分離」に始まるハイブリッドの取り組みは、まず「前期」として「魂感性土台の体験」あたりまでを考えることができます。
これは2種類の感性土台の話で言うと、基本的に「人の目感性土台」主体であった人格構造に、「魂感性土台」という全く異なる脳の領域の存在が自覚されてくる、という変化として位置付けられます。
つまり、置き去りにされた「魂」がその存在の芽を出す、というのがこの「前期」での目標成果です。

そのための実践は、「怒りの有害性の理解」「感情の開放」「自己の理解」といった、まずは「自分との関係改善」を言えるでしょう。「未知への知思考」としては、自己との未知の関係というものを考えることが課題になるわけです。


■II.中盤と「否定価値の放棄」 <自己と他者と現実世界との未知の関係へ>

「否定価値の放棄」は、「心と魂の分離」にまつわる問題の「ひとまずの解決」という、ハイブリッド取り組み全体の目標成果に位置づけられます。

それだけのさまざまな変化が収束する大転換ということで、今まで「否定価値の放棄」を「最大の中間道標」と言い、それまでを「前半」と呼んでいましたが、やや見方が変わってくることになります。
というのも、「魂感性土台の体験」は、主に「内面感情の開放」や「自己の理解」と言った、主に「自己との関係の改善」によって、比較的容易に至ることができるからです。まあ深刻な障害傾向からスタ−トした場合は、多少の「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」が必要になり、それなりに大変ではありますが。

そこから「否定価値の放棄」に至るまでには、かなりの思考転換が求められます。
まず何よりも「魂感性土台の体験」を足場にして、「健康な心の世界」そして「心の自立」という命題を検討して頂きたい。その意味で、「魂感性土台の体験」まで「前期」、そこから「否定価値の放棄」まで「中期」として、明確に「期間」として別立てで考えるのがいいかと思っています。
下巻原稿「部」の構成としては多少違う感じのままかも知れませんが..

「健康な心の世界」「心の自立」という命題を入れた時、他人やこの現実社会への思考に、かなり大きな転換が求められることになります。「未知への知思考」として、「他人と現実世界との未知の関係」へ向うことが求められる。それをフィードバックすることで、「自己との未知の関係」への模索は引き続き新たな局面が始まります。

その要点を次にサマリーしましょう。


心理学本下巻に向けての考察-92:「心」と「魂」の原点へ-1 / しまの
No.1343 2007/10/29(Mon) 15:23:50

■全ては「神の国」から「放たれた野」への「自立」の中に

さて、「人の目感性」は「克服」はされないという先のカキコの話や、「未知への知」の話も含め、最終的な整理をしたいと思います。
どうやら、ハイブリッドの全ての話が、ただ一つの命題の下に収束して整理できそうです。

それは「心の自立」です。
全てが、「魂」が「神の国」に生まれ「心」が「放たれた野」へ自立するという命題の下で、挫折した魂とそれを置き去りにした心という問題の発生と、そこからの回復と魂の命への回帰という構図で捉えられるのだと。


「人の目感性は克服されない」。ここではもう「土台」という言葉は取り去りました。つまり、「否定価値の放棄」によって、「人の目感性土台」はもはや感情と思考までを大きく巻き込む「土台」であることをやめ、ただの「人の目感性」として、イメージだけは相変わらず心に流し続けるものになります。イメージだけとは言っても、それが心の視界のかなり基本的な部分として映っていますので、まだかなりの影響度があります。

そのように「克服」はされない代わりに、次の「魂の望みに向う」という最後の歩みの中で、「魂の挫折の原点」が露わになった時、「人の目感性」は「消滅」します。これによって、「心と魂の分離」にまつわる問題を残し続けた人間の姿に、最終的な解決の時が訪れ、この人間はただの「まっさらな人間」へと戻ります。

これはつまり、全てが一つの問題と一つの解決という出来事の中で起きているのであり、「思考・感情・意志」という通常の心の働きにおいては「否定価値の放棄」でひとまずの解決に至っているのであり、ハイブリッドの全ての取り組みがそれを目指すものになるということです。
しかし「感性」はそれでは終わらない。それは脳に閉ざされた問題という「病理」によって、「克服」はできないまま残るということです。しかしこれが同時に本当の解決の始まりとなるのです。

「魂の望み」に向った時、「病理」によって閉ざされていた「魂の挫折の原点」の、ありのままの姿が晒されます。ここにこそ、「人間の不完全性」という命題の真の姿が示されるように感じます。「罪」「許し」そして「神」という人間の根源的な観念がそこに現れ、全てが終わり、まっさらな「未知」が生まれる。

こう書いていて、実に胸が熱くなります。多分それが、この心と魂の「あり方」が、人間の心のDNAに刻まれた本性なのだろうと、ただ本性に従って生きるのを旨とした僕としては感じる次第です。


ということで、このカキコを序説とし、サブタイトルはそのままでもいい内容ではありますがとりあえず『「心」と「魂」の原点へ』として、次のカキコから、ちょっとサマリー的になりますが最終整理を書きましょう。
「魂の挫折の原点が露わになる最終解決」については、僕の日記からまた例を一つ出します。

その整理が一通り終わってから最後に、「信仰」の領域の話について『未知への意志と信仰』とでもサブタイトルして、手短に書いてこの考察シリーズを締めとしようかと。
これは「つけたし」ではなく、かなり本質的な話で、これが出てようやく全ての話が完結することになります。

それで下巻原稿に入りたい段取り。


心理学本下巻に向けての考察-91:「人間の価値」と「原罪」-16 / しまの
No.1342 2007/10/28(Sun) 14:28:04

■「否定価値の放棄」と「感性土台」の構造

さて、「未知への知」思考という観点を踏まえて、「否定価値の放棄」本質とその実践について最終的な考察(になれるか?^^;)をしたいと思います。

それにあたり、「感性土台の構造」という話をしておきたいと思います。と言うのも、「否定価値の放棄」前後にある変化は、イメージ感性・感情・思考というその基本構造において、どの層が変化するかに段階的なズレがあるからです。一緒に根本変化するのではない。
これはつまり、何の変化が何の変化を導くのかという、根源的なメカニズムがあるということで、それを踏まえた実践論が最終的なものになるのではと考えられるからです。

「人の目感性土台」で言うと、次のような構造になります。
まず「人の目イメージ」が基盤になります。「人間の価値」を見る人の目です。それを前にした自分のイメージ。なりたい自分。なれている自分。なれていない自分。それによって自分に向けられる「人の感情」イメージがあります。
次にそれを引き金にした「人の目感情」が流れます。怖い。愛されたい。怒り。
それを表現する「人の目思考」が展開されます。人はどうせこれこれの良し悪しを重視するのだ。それに対して自分は..。現実は何と不公平か。自分はこんな気持ちなのだから、人は自分をこう扱うべきだ。あの人間のこんな目を何とかしなければ。
つまり、イメージ・感情・自動思考という基本構造です。

ハイブリッド取り組みの前半段階の中で、やがて「魂感性土台の体験」が起きます。
これはまだかなり断片的なものです。「人の目」イメージが一瞬消えたような谷間の時間。つまり基本的にイメージがあまりない感性土台です。魂が惹かれるもののイメージがある時、それは感情カラーセロハンの貼られていない、漠然としたイメージです。
魂の感情」として、「この感情において生きている」と感じられるものが流れます。
「魂の思考」と言えるようなものは、もうあまり見えません。実際のところ、「魂」そのものには「思考」というものがあまり存在しないようです。思考はあくまで「心」によってつかざどられるのでしょう。


■「否定価値の放棄」では「イメージ」がそのままで「感情」が変化する

「否定価値の放棄」を成しても、「人の目感性土台」は大体そのままだ、と先のカキコで説明しました。「人の目」イメージは相変わらずだし、それを前にした自分イメージに応じて流れる感情もやはり流れています。それに応じた自動思考が展開されます。

大きく変わるのは、その全体への入れ込み具合です。これが大きく減少します。つまり人の目感性土台の中で揺れ動いた問題がどう解決したかの答えはあまりないまま、ただその全体がもう自分には影響しないことだという感覚が増えてきます。より正確には、それが持つ自分への影響力が減じたというより、そもそもその影響を取り上げる意味さえない、別の存在へと自分が変化していくという形になると思われます。

そのように全体の入れ込み度が減少するとして、では「人の目感性土台への入れ込み度減少」とは、イメージ・感情・自動思考という3層構造において均一に減少するということか。

そうでもなく、やはり一番大きな減少影響があるのは「感情」ですね。人の目イメージあまり変化を実感できません。だが感情はかなり変化しています。なぜ今までの自分はそうした人の目イメージであんなことを感じ考えたのだろうと疑問さえ抱けるほどに。自動思考はほとんど感情の表現展開なので、感情が消えるのとほぼ同調して消えます。

そしてその「感情の変化」は単に強度の変化ではなく、質的な変化でもあります。何よりも、「これだけは」「どうしても」「絶対に」といった緊迫感が消えます。人の目感情は、もう流れるとしても、一歩踏み止まって眺め、考えることのできる性質のものに変化します。
同時に、「全てを許すことができる」という別の感情が流れ始めます。これは「魂の感情」からの流れと思われます。


■「純粋知性思考」と「意志」と「信仰」

こうした「イメージ」と「感情・自動思考」での層的なズレのある変化というのは、この出来事全体が「感性土台」という範囲で起きているのではなく、「感性土台」とは別の心の機能、脳の機能が働いて起きていると考えるのが分かりやすく、実体を示すものになると思われます。

別の心の機能として考えられるものとは、「純粋知性思考」「意志」そして「信仰」です。

ちょっとまた準備整理的な話の流れになりましたが、いったんカキコしてその役割の考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-90:「人間の価値」と「原罪」-15 / しまの
No.1341 2007/10/27(Sat) 14:36:14

■「自立」としての「否定価値の放棄」

「未知への知」という新たな大要因を踏まえて、「否定価値の放棄」が成される流れを考えます。
これは同時に、「人の目感性土台」どう克服されるかの問題でもありました。

「未知への知」に僕が焦点を当てたのも、この2つの関係を考えてです。
つまり、まず「人の目感性土台」で動く心の状態があります。その中で、「否定価値の放棄」へと向うわけです。
それは「人の目感性土台」がどう克服されるということか。その克服を生み出すものは、「否定価値の放棄」とどう関係するのか。
そう考えたわけです。

それで言いますと、まず、「否定価値の放棄」が成される時、「人の目感性土台」は、克服されません
大体そのままです。


これは僕自身の否定価値放棄体験の流れを詳しく追って分かってきたことです。僕の場合、「人と自然に打ちとける」ことのできない自分の人格上の「欠損」を、「人間の価値」として容赦なく弾劾する「人の目感性土台」の心の動きがありました。
そしてそれが「否定価値の放棄」を境目にどう変わったかというと、あまり変わっていません。相変わらずに、「人と自然に打ちとける」ことのできない自分の「人格の欠損」を感じ、それが人の目には「人間の価値」を損なったものと映るであろうことを感じ、それを落胆する感情が流れます。

大きな変化が一つありました。それは「自分を許す」というのが出てきていることです。これは一応「感情」面の変化です。
何を許したのかが、「不完全性の受容」ということになるでしょう。

ただし得てして「不完全性の受容」というと、読者の方がまず意識を向けるのは「自分の不完全性の受容」には大いに関心があるようですが、「べき」「はず」にはあまり変わりない思考の中におられるのを良く見ます。
「否定価値の放棄」における「不完全性の受容」は、そうしたのとはちょっと違いますね。
ちょっと違うというか大いに違っており、「べき」「はず」が完全に崩壊した全く別世界に移行するという感じでの、「不完全性への許し」です。それはもちろん自分の不完全性でもあり他人の不完全性でもあり「現実」の不完全性でもある。
全てにおいて「許すことができる」という感覚の出現です。

一方で、今までの「人の目感性土台」のイメージ・感情そして自動思考は、あまり変わることなく、やはり心には流れます。

これは要は、「人の目感性土台」は「克服」はされない、という結論を僕に感じさせます。それは「克服」されるのではなく、ただ、それに影響を受けない、全く別の存在となる心の領域が生まれ、そして増えていく。そんな感じです。
これは芋虫が蝶へと変化する変化と同じような話としてイメージされます。芋虫時代には、蟻の攻撃に煩わされます。蟻が自分をどう見るかが自分の安全に関る問題でもあるので、気になります。そんなものある「べき」ではないという感情が流れます。
しかし成長して蝶として飛び立った時には、その全てが自分にあまり影響を与えるものではなくなっています。もし自分が芋虫のままだと「空想」したら、同じように、蟻の様子が気になってしかたない感情が流れるかも知れません。しかし「現実」は、自分はもう蟻を眼下にして空を自由に飛ぶことのできる存在です。

書いていて、「病んだ心」からの治癒成長も、まるっきり同じ話のように感じますね。「既知への知」の中で、「空想の中の自分」を「自分」と感じ、「べき」「はず」という思考に閉ざされ、自分が蟻に攻撃される芋虫だと感じる心の世界に、とどまり続けているわけです。


■「心」の導き準備によって開放される「魂の自立」

ですから、「否定価値の放棄」は、何よりも「自立」命題によって捉えられるわけです。
人間の価値」、それを見る「人の目」、自分がそれをどう考え感じるかという思考と感情。それらの内容全体が別に大して変化するわけでもなく、ただ、それら全体をもう離れて別の存在になっていく、別の自分が生まれる。

そうゆう感じです。そうゆう「未知」になるのだとしか、説明できません。
あとは、明らかに、それを「心」が主導的に導けるような思考の役割が出てくるということです。

それが「未知への知」です。
僕の否定価値放棄体験を振りかえっても、その流れの中で僕の中にあった人の目感性土台のイメージ・感情・自動思考は、否定価値放棄をしないままの多くの方の場合のものと、ほとんど変わりがないんですね。日記に書かれたもの自体は、もうそのまんまでしかないわけです。
そこで「審判基準を放棄する」といった消極的側面をどう実践して頂くことを検討しても、どうも何か否定価値放棄をさせた根本が足りない気がしていたわけです。

一方僕の中に最初から他の人と違うように見受けられるものとして存在したのが、「未知への知」でした。
あったのはそれだけです。その時の僕の「未知への知」は、ハイブリッドも当然なかった当時ですから、「治癒成長としての未知」があるという「未知への知」ではありません。
ただ、「現実」には「べき」も「はず」もない。そんなもの分かったもんじゃない、というごく基本的な思考があった。
それだけです。

だがそれだけ「未知への知」思考が根本的に重要になってくるということですね。さらに「治癒成長としての未知」を知っていれば、僕の変化は遥かにもっと人生の早期に起きていたと確信しています。その点僕もまだかなり成り行きまかせの受け身で変化して、今に至ったわけです。

「人の目」はこんなイメージだし、自分はこう感じるし、というのはそのままです。
ただ、「現実」は分かったもんじゃない。人の感情なんて分かったものじゃないし、自分がどう変化するかなんかも、分かったものじゃない。
ただそんな風に、自分から「未知」をブロックしなかっただけです。すると「未知」は多分、向うから誰にでもやってくるのでしょう。
逆に、いかに世の人が「未知ブロック思考」の中で生きているかと感じる次第。ロシアの女子バレーボールチームのブロック並みに、それは鉄壁なブロックかと^^;


「未知の存在」への自立。これが「否定価値の放棄」として、その「自立」とは根源命題におけるどのような転換であるのかを、ここまでの整理から明確に言えるようです。それを視野に入れた「未知への知」が、もっとも良くこの変化を導く思考様式だということになるでしょう。
その根源命題における転換を整理します。それが「否定価値の放棄」の後「魂の挫折の原点への向き合い」の意味を明瞭化すると思います。


心理学本下巻に向けての考察-89:「人間の価値」と「原罪」-14 / しまの
No.1340 2007/10/27(Sat) 11:53:44

■「既知への知」が阻む「自己の理解」

「既知への知」vs「未知への知」という基本思考モードが影響する、「否定価値の放棄」以前の問題。

先のカキコで言ったのは、「既知への知」モードでは、基本的に病んだ心の強い維持への力が働くという全般的傾向でした。
これを「感情と行動の分離」という基本で、外面問題内面問題と大きく2つに分けて考えることができます。

外面問題について言えば、重なる話ですが、「既知への知」モードだと基本的に「知」が不正確です。つまり現実世界を生きるノウハウという面で、勘違い無知が多くなるという基本的傾向です。
これは「既知への知」が好む(^^;)「べき」「はず」が特に道徳的思考になる一方、現実社会は道徳の授業ではないということで(^^;)、特に社会行動における勘違いや見識不足を招き易いという一般的問題。

これもまあ具体的な話を出したらきりがない話で、とにかくこの後の話も含め、「未知への知」モードへの思考様式転換を考えて頂き、それでいかにこの世界のことについて別の考え方をできるかの広大な能性性が開かれることを感じ取って頂くことが、実践になると思います。

内面問題について言えば、基本的な実践は「内面感情の開放」と「自己の理解」ですが、後者つまり「自己の理解」に、大きな妨げが出てきやすいように思われます。
どんな妨げかというと、「現実の自分」を見ることができない傾向です。「空想の自分」を「自分」と感じて生き続ける傾向です。

ここで言う「空想の自分」とは、主に「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」という3つです。この構図の中で「現実の自分」と指摘すると、得てしてその人は「なれていない駄目な自分」を見ろと指摘されていると感じるかも知れません。
そうではありません。それも「空想の自分」でしかありません。

ハイブリッドの視点からの「現実の自分」とは、「自己操縦」の構図にある自分の全体のことを言います。
心の底に魂の挫折を抱えた一方、もはやそんなものがあったこととどんな関係があるのかなど分からないまま、「人にこう見られる自分」を追うという構図にある自分です。


もちろんこうした構図は、ハイブリッドなどの心理学を学び、しっかりと自分に向き合ってこそ見えてくるものです。
そうした自己理解を、「既知の知」モ−ドは基本的に妨げます。自己操縦の構図の中で、「こんな自分に」という、「自己操縦される自分」を「自分」として見るだけの視界によって、「意識の狭窄」が起きてしまいます。「どんな自分」という「空想」のスクリーンに映っている自分しか、見えなくなるのです。
しかし「現実の自分」は、むしろその「空想のスクリーン」を前に操縦席もしくは観客席にぽつんと座っている、「自分」の方です。
本人の意識がいかに「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」の間だけで揺れ動いていても、自己操縦の構図全体にある一人の人間の姿が、「現実世界」にはあります。

そして本人がその構図で自分を自覚しなくても、「現実世界」は、「自己操縦している一人の人間」というありのままの姿で、その人を扱います。その人間が「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」の間でどう感じているかによって、その人を扱うのではありません。


■「魂の世界」を取るか「人の目の世界」を取るか

まあ「選択」ですね。
もし今の自分の人生が大体において満足の行くものであれば、今の自分に見える「自分」を見るというそのままでいいと思います。
しかし、今の自分の人生があまり満足の行くものでなく、それが何か自分自身の内面によって根本的に妨げられている面があるのを感じるのであれば、今の自分に見える「自分」で考えるのではなく、そう見る「自分というイメージ」によって自己操縦しようとしてる、自分の全体への視線を考えてみることです。
それがハイブリッドとしての提案です。

そしてその自己操縦の底にあるのは、「魂の挫折」を抱えたままの内面があるかも知れない。これがハイブリッドからお伝えできるガイダンスになります。
ハイブリッドとしては、自己操縦そのものを問題視するのではなく、現に「挫折した魂」が存在するのであれば、それに視点を向けます。別にそんなものなければ、自己操縦も大いに結構。
でも「魂の挫折」を置き去りにしたままどのように自己操縦しようとも、問題の解決はないのだと。


まあ「問題の解決はない」消極的表現ですね。
ハイブリッドとしては、置き去りにした「魂の挫折」に向き合う先に、どんな解決があり、それによってどんな人生が開けるのかを、明瞭にしていきたい。
それと、今の人生を「選択」の天秤にかけるのがいいでしょう。選択は自由です。

「魂の世界」を取るのであれば、まず次のように自分の全体を理解することです。
自分や他人を「どんな人間」「どんな振舞い」「どんな感情」という風に、何かの基準から見ているということです。
そして、それが「こうであれば」、こうである「べき」「はず」だという思考法をしているということです。

シンプルなその2つの文章の視点の底に、病んだ心の「根源」と「根源の根源」が横たわっています。まあこの2つの区別はまだあまり厳密ではありませんが^^;
「根源」とは、意識世界上の問題の根源であり、「怒りに変わる愛」です。「べき」「はず」という思考がここに絡みます。「べき」「はず」は怒りの表現です。
また「根源」にはもう一つ「自立」という命題があります。「怒りに変わる愛」という根源命題を背にして、「怒り」ではなく「愛」を選ぶことは、「自立」とどうやらイコールのようです。

「べき」「はず」思考法であり、「怒り」「愛」感情です。「自立」は思考でも感情でもありません。「存在」そのものの、「未知」への旅立ちです。
う〜ん深遠ですね^^; それを「選ぶ」とはどうゆうことか。まず考え、意識することです。そして実際は「選択する」のではなく、それを阻むものを捨て、「開放」するのです。まあそれがこの後の「否定価値の放棄」以降の段階の話になります。

「根源の根源」とは、「根源」のさらに意識下の根源です。「人間の価値」「審判の基準」そして「自ら神になる」「何かの基準」から自分や他人を見る視線に、それが表れます。


■「否定価値の放棄」への第3の根源命題「現実」

このような文脈からは、「否定価値の放棄」より前の、ハイブリッド取り組みの前半段階の実践の本質は、「人の目の世界」から「魂の世界」へと近づく歩みだと言えるでしょう。

「人の目」を前にした「こんな自分」というイメージの中で思考する世界から、その底にある自己操縦と、その根底にある魂の挫折にしっかりと向き合う歩みです。「こう見られる」という思考と感情に終始した自己理解から、「では自分ではそれについて心底ではどう感じているのか」に向き合う歩みです。
その中で、「怒りに変わる愛」「人間の価値」「審判の基準」そして「自立」といったさまざまな命題で、自分が自分について、そして他人と世界について感じ考えていることを、何度でも捉え直す歩みです。

それは先にも言ったように、次第に「感情の改善」という尺度動機にできるものではなくなり、「知」の基本形態における動機にかかってくるように感じます。
そして「既知への知」志向では、基本的に、進めない

もはや「感情の改善」という尺度ではなく、「全く別の世界」というものに向うという動機が決め手になってくると思います。
そして「知」の基本様式が「未知への知」に向くことで、それが可能になると感じます。

ですから、「既知への知」モードの影響を考えるに、それだと基本的に「初期向上」だけにとどまると言えるようなものになりそうです。「初期向上」とは、怒りの有害性を理解するなど、今まで生き方をがあまりにも心の健康にとって誤ったものであったことを理解することで、誰でもほぼ例外なく得られる最初の多少の感情安定です。
あとは、感情の流れをとにかく自覚する初歩的な感情分析の結果、自己操縦心性の崩壊が何度か起きての意識土台の向上が受身的に起きます。
「既知への知」モードだと、ずばりそこまでだと思います。

その先に行きたい場合は、「未知への知」モードによって、基本的な思考において「全くの別世界」をかなりふんだんに視野に入れることが必要になる。
これが、「否定価値の放棄」のかなり前の段階の話になると思います。

では「未知への知」モードだとなぜ「全くの別世界」がふんだんに視野に入ってくるのか。
それが「現実」だからです。つまり「現実」そのものが「未知」として捉えられるようになるということです。また、「現実」そのものを「未知」として捉えられるようにするのが、「否定価値の放棄」への準備段階のかなり本質と言えるものになってきます。

かくして「現実」は、「怒りに変わる愛」「自立」と並んでの、第3の「根源命題」だと言えるでしょう。
そしてハイブリッドはその「現実とは何か」について、ある特有の思想を提示します。それが「自ら神になる過ち」に関係します。

そうなって、「否定価値の放棄」が結構射程圏内に入ってくる。
その辺の詳しい話に移します。


心理学本下巻に向けての考察-88:「人間の価値」と「原罪」-13 / しまの
No.1339 2007/10/26(Fri) 21:53:35

■「既知への知」志向による障害感情の基本的維持

さて、基本的な思考の形態としての「未知への知」という要因を踏まえ、「否定価値の放棄」やその先の変化が成される背景を考察しようと考えたのですが、この思考の基本形態という大要因の影響範囲を考えると、それどころの問題ではないという感がしてきている次第です。
ですからここで、ハイブリッド取り組みの最初の段階から「未知への知」を考慮した治癒成長への要点を改めて整理してみましょう。

基本的にやはり大きく3段階です。「否定価値の放棄」以前。それが成される段階。そしてその後の段階

まず「否定価値の放棄」以前の段階の問題として言えるのは、強い「既知への知」志向があると、どうしても障害感情全般を維持する強力な力が働くことです。
これは当然です。基本的に「病んだ心」が今までの人生で生み出した思考内容「既知」として、今の自分の目の前のことについて「自分は知っている」という感覚を維持する力が働くからです。
つまり、病んだ心の論理通りに物事を考えようとする傾向が実に強固になってきます。

「人間の価値」としてこれこれが基準になるのであり、人はこうゆう目で人を見るのであり、それに満たない自分はこう扱われるのであり、それによって自分はこう苦しむのであり、それはこう恐ろしいことなのであり、恐ろしければこんな行動できるわけもないのであり..。
まあ一言でいえば「決めつけ」思考ですね。それが病んだ心の論理による決め付けであれば、当然病んだ心はしっかりと維持されるわなと。これは実に単純なことです。


■「既知への知」はどんな思考?

ここで、もらった相談メールにさっそく「未知への知」に触れたものがありましたので、ごく基本的な説明をしましょう。
前カキコの話ではちょっと抽象的に感じたとのことで、より具体的に「未知への知」とはどんな思考形態なのか

まず、自分が基本的に「既知への知」モードか「未知への知」モードかは、簡単に判定する方法があります。
「既知への知」は、「知っている」となれるのを目標にする。
「未知への知」は、「何を知らないか」を知るのを目標にする。
前カキコで書いたこの基本的定義で、この2つの違いが実感として分かるのであれば、「未知への知」モードがある人です。その話ではよく分からないのであれば、「既知への知」モードが強い人です。

まあこれはスポーツの技術でも同じことが出てきます。ある技術を習得した人は、別の人がその技術を習得しているかを、見分けることができます。一方その技術を頭で知っただけで実際にはまだ習得していない人は、人の演技を見てその人がその技術を使っているかどうかを、見分けることができません。
これは外見では一見同じに見えても、微妙な身体運動の流れに、それと分かるかなり特徴的なものが現れるからです。これは実際にその技術を習得して、自分がどんな風に骨格や筋肉を使うかを体得することで、他人の演技に現れるそれも直感的に分かります。

まあそんな話はどーでもいいとして、具体的な話をしましょう。

まず総論
何かについて「知らない」と言うことは不面目か恥ずかしいように感じる感覚がある人は、間違いなく強力な「既知への知」志向型です。
「知らない」と素直に堂々というのを楽しいと感じる感覚がある人は、「未知への知」志向型です。

各論
「既知への知」志向型の思考では、次のような言葉が良く使われます。
当然」「常識」「絶対に」「どうしても」「ありえない」そして「べき」「はず」。

まあ「未知への知」を自認する僕でも、「当然」などは良く使いますね。ただ僕の感覚だと「当然」を使うと、まるで枕言葉のように、その次に「なぜなら」という論理展開の言葉が自分でも意識しなくても出てくる感じがあります。
つまり、ものごとの論理を、「なぜなら」とどこまでも追求して、「ここまでが分かる範囲。この先は知らない」という境界がはっきりしているのが、「未知への知」です。

まあこれも多少抽象的な説明ですが、まずはとにかく、「べき」「はず」「当然」という感じで自分が言う論理の次に、「なぜなら」論理の掘り下げをするエクササイズをして頂き、「どうしても!」(^^;)と論理でない情緒が出てくるケースは、間違いなく「既知への知」モードですので確認あれ。

「否定価値の放棄」以前について、もう一つ考慮点の解説を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-87:「人間の価値」と「原罪」-12 / しまの
No.1338 2007/10/26(Fri) 11:14:48

■「心」が向かい得る「ある特定のもの」とは「未知への知」

「根源の根源」が解決する時、「魂」は「愛への復讐の愛」「原罪感情」というその「挫折の原点」へと向かう。
「心」はその時すでに「人間の価値」「審判基準」命題を放棄している。この放棄は、これより先に「否定価値の放棄」として成されているものである。
では「心」がそうした「放棄」という消極的側面の一方で向っている、積極的なものは何か。

これについてじっくりと考えた結果、答えは「未知への知」であるように思われます。
つまりこれは「思考」の側面です。ハイブリッドで今まで主に言っていた治癒成長としての「未知」ではありません「現実」全体を基本的に「未知」のものとして捉えようとする思考の形態があるということです。

これに対し、「現実」を基本的に「既知」のものとして捉えようとする、もっと分かりやすい言葉としては、「既知」のものとして「収めようとする」思考の形態があります。

この両者は、感性土台の違いと匹敵する、人間の心の全く異なる世界です。
それだけ別世界の違いが、「思考」という領域においても、やはりあるということです。「否定価値の放棄」を成す者と成さない者の違いはここに起因するとも言っていいとも言える感があるほど、これは大きな違いです。


■人間知の基本モード「既知への知」と「未知への知」

この「思考の基本形態」として「未知への知」というのがあると昨日夜考えていて気づいた時は、久々に自分の考察作業で興奮を覚えた次第です。というのも、これは心理学にとどまらない、あらゆる「人間知」に言える、大きなことだからです。

つまり、人間の行動様式に「破壊」「自衛」「建設」という基本3モードがあるのと同等に、人間の「知」には基本的な2モードがあるということになります。
「既知志向」つまり「既知への知」と、「未知志向」つまり「未知への知」です。

これがどれだけの違いになるかを考察するに、まず印象として感じるのは、僕自身が今までの人生で人が何かについての「知」を語る時に、何か「知を極めている」という尊敬感を感じられるものと、そうではなく何か自己満足的であまり「知」として当てにならない短絡感を感じるものの2種類があるのを感じ続けていました。
その根本的な要因は、前者「未知への知」として、後者「既知への知」として展開されているというのが、どうも根本要因だったと分かった感があります。

なぜなら両者では、「思考」が何を目指して回るか、その最初の時点で目指している方向が全く逆になるわけです。
「既知への知」では、「自分はこれを知っているぞ」と言えることが目標です。「未知への知」では、「自分はこれを知らない」さらには「人間はこれを知りえない」ことは何かを、極めることを目標にします。

人間において「知性」が自らを変革させ得る、他の動物において基本的に自己を動かすものである「感情」を根本的に変化させ導くものになり得る。それは「未知への知」として思考が働いた時であるように感じます。
なぜなら「既知への知」「自分は知っているぞ」と言える満足感や優越感のような、「感情」といういわば賄賂に影響を受ける思考のように思えるからです。「自分は知っている」と思えるためには、知っていることが全てだと論理をショートカットしてしまえば、簡単にできるからです。

「未知への知」の場合は、「知」が純粋に極められるように感じます。なぜなら「自分はこれを知らない」と言えるためには、まず自分が何を知るかから始めた上で、何を知らないかを知っていくという、終結がほとんど見えないような方向へといつまでも続けられる思考になるからです。
当然、「自分はこれを知っている」で終わる思考よりも、「自分はこれを知っているがこれは知らない」と正確に言える思考では、後者の方が遥かに正確性が増すと同時に、「知の拡大」への展開性が開かれます。

僕が独力で心理障害を抜け出せたのは、科学図鑑を隅から隅まで眺めるのを楽しみにしていた子供時代が培ってくれた科学思考によるものが大きいと感じるとよく書いていますが、その本質もそこにあったのだと思います。また僕は人生で、頭を回すことについては基本的に何でも実にうまく行ってきました。それはそうした子供時代の影響で、思考が基本的に「未知への知」として動くようになっていたからだと、今にしてその要因が分かった気がします。
自分の科学的思考の徹底度については、世の一般の人とどうも次元が違う気がするとも書いてきましたが、これがその答えなんですね。はっきり言って、同じ脳みそでも、頭の回し方が最初から逆と言えるほど違うんですね。

最初っから、「自分は何を知らないのか」へと働く思考。これが「人生」「現実」そして「」という観念へも大きな影響を与えるわけです。
こうした「未知への知」思考モードが、やはり心の問題に限らずお勧めですね。感情を克服したいという課題について言えば、「思考」が使えるものとして、そうであるためには「思考」が基本的に「感情」に流れるようでは、「思考による感情の克服」などあり得ないものと言えるように感じます。賄賂で動く役人の仕事など、当てにできませんよね。

ではそうした心の問題を超えた「未知への知」姿勢が、僕の場合なども含め、「否定価値の放棄」やその後の「魂の挫折の原点への向き合い」をどう支え導くのか、その本質を考察したいと思います。


心理学本下巻に向けての考察-86:「人間の価値」と「原罪」-11 / しまの
No.1337 2007/10/25(Thu) 14:20:35

■「現実に向かう」とは何か

「根源の根源」は、「魂の世界」においてはその挫折の原点へと還ることが解決になる。
その時、「心の世界」において心はどこに向かっているのかを浮き彫りにしていきたいと思います。

言えるのは、そこに向かう中で、「心」主導的な役割を果たして「否定価値の放棄」が成されることです。それは「人間の価値」における「審判の基準」という命題が放棄され、同時に、愛をつかさどるものとしての「魂」がこの不完全なものとしての「現実」に向かって開放されます。
この表現からも大枠は分かると思います。「心」は強力に、「現実」へと向かっています。そこにおいて「審判の基準」を放棄し、「魂」を「現実」へと開放させたわけです。

ではその「現実」とは何か。その「捉え方」が、最終局面へと自らを導くために「心」が向かう「ある特定のもの」となります。

この話はハイブリッドの基本理念としてはこれまでも何度も話してきた、「現実を生きる」という命題でもあります。
それを、魂論と根源命題という最新の枠において、より正確に定義したいという話になります。「現実を生きる」とは、より具体的に何をどう捉え、何に向かうことを意識するということなのか。


■変化できない典型思考1:「ハイブリッドでこうなれた自分」イメージ

それを考える上で良いヒントとなるであろう、「変化できない思考パターン」をまた幾つか取り上げます。
ここで取り上げるのは、ハイブリッド取り組みそのものがその「変化できない思考パターン」の中で目指されるという、最も典型的なものです。つまりハイブリッド取り組みの動機そのものが、ハイブリッドが目指すのとは逆を向いているというもの。当然、多少の効果が最初は出た先に、それが妨げになって、ぐるぐる同じところを回るような袋小路に行き当たります。

その袋小路から抜け出すための、根本的に異なる方向がある。
それを明確にして行ければ。

「変化できない思考」そのものは何度か話していることと重なる部分もありますので、簡潔に説明しましょう。
2つのパターンを説明します。

まず一つ目は、「ハイブリッドによって変化できた自分」という結果イメージを求めるもの。つまり、変化への「過程」よりも「結果」に意識が向くものです。
その結果起きがちなのは、「実践」として説明しているもののについて、終わりの方のものから実践を試みようとするようなものです。
自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」そして「否定価値の放棄」などがその代表になるものでしょう。

ただまあそれはハイブリッドの説明の分かりにくさにも一因があります^^; もともと、まずそうした「治癒現象」を見出したことから理論整理が始まり、そのメカニズムの考察、そしてそれに向かうための意識実践という順序で、僕自身の整理が進んでいます。
それでも「感情と行動の分離」とか「建設的に生きる」といった基本の基本を自分がどれだけ分かっていないかがすっかり視界から消えてしまった状態で、「否定価値の放棄」などに至れない自分を嘆く思考をするのを見かけることがあります。


■「こうなれた自分」イメージをむしろ明瞭化させる

そのような轍については以前、「まず建設的に生きる時間が必要」という指摘もしましたが、最新の考察枠組みでさらに話を前進させましょう。

ハイブリッドの言う通りに変化できない自分への嘆きを感じた場合、そうした「基本の見直し」の前に、はっきりとその「嘆き」の中にある、一つの命題を見据えるのがいいでしょう。
それは、結局のところ自分が、「こんな人間」というある特定の自己イメージを掲げ、それを自分に当てはめるという心の使い方の中にいる、ということです。
それを「そうしてはいけない」と反省するのではありません。そうした「反省」がまさに今言っている轍の焼き直しになります。ある自己像を自分に当てはめていることを反省するのではなく、その自己像の価値を、より明確に把握することです


たとえば「否定価値の放棄」ができた自分とは、どんな自分をイメージしたのか。
それは自意識に捉われた感情が消え、人に向かって素直に感情を向けていける自分。多分そんな類のものでしょう。あるいは、何か人間的で精神的な価値を達成した自分が、人に賞賛され愛され、人に勝るというイメージがあるかも知れません。

そうしたものを、とにかく明確につかむことです。つまり実践としては感情分析です。

ではそうしたイメージを抱いている自分について、どうするのか。
何もしません。
感情はただありのままに把握するまでが実践であり、感情を小手先でどうこう変えようとはしないのがハイブリッドの基本です。
つまり僕の感覚で言いますと、自分がそうしたイメージを抱くことについては、「放置」します。

ただそれだけではどうも積極的に向かう方向性が乏しいので、それを明瞭化します。次のパターンも踏まえて。


■変化できない典型思考2:ハイブリッドの言うように「感じられるか」を問う思考

変化できない典型思考2つ目は、ハイブリッドの実践習得を、「どう感じられるか」で考えているものです。

取り組みの初期においては、これはまあそれでいいというか、とにかく長い目で考えることが重要であるにせよ「感情の改善」が目的で始めることでもあります。そのために、小手先で感情を弄そうとする誤りを捨て、感情が湧き出る心の基盤の向上への実践をします。
その習得結果は、悪感情に揺るがされる度合いが総合的に減少し、プラス感情が増えてくるという変化として実感するのでいいでしょう。

しかし、「魂感性土台の体験」あたりを境に、ハイブリッドが目指すものとして示したいと考えるのは、それとは大分様相を異にしてくる、というのが僕の実感です。
事実ここから先は、先にも述べたように、意識世界論神の観念など、ごく実践的な心理学行動学とは次元の異なる領域について、ハイブリッドとしてかなり明確な「思想」を打ち出したいと考えています。ごく実践的な範囲だけ集めたハイブリッドというのを作ったとしたら、それとはもう全く別の心理学になるかのような話でもあります。

つまり、「魂感性土台の体験」あたりから先は、もう「どう感じられるか」とは全く異なる視点で、ハイブリッド実践の習得前進というものを考えて頂きたい、ということになります。

たとえば、有能さ容姿の美しさ性格の良さなどが、「人間の価値基準」として社会にはあるように感じる。そうゆう目で見られるイメージがあるし、ある理想を基準に自分をどう感じられるかで、極端に落ち込んだり高揚したりする。それが自分を苦しめている。
で僕としては、それが必ずしも社会でそれだけの重みがあるとは限らないというアドバイスをしたりします。

しかし、そうした「現実思考」「原理原則思考」の習得によって、そのように動揺する感情とは違う見方でそうした「人間の価値基準」に捉われなく「感じられる」ようになるのが、ハイブリッドの進む道かというと、そうゆうものではないのです。
まあこの辺は、ではどこに進むのかを、僕はほとんど言わないままであったような気もする^^; まあそれを言うだけの整理がなかったということで。

同じように、これからの仕事や人間関係などでの重要なことを前に、それについて「こう感じられるようになれば」というように、「どう感じるか」の将来目標を定めようとしているかのような方を見かけることがあります。
それは誤りです。それではいつまでも「現実を生きる」ことはできません。


では何に向かうのか。次のカキコから具体的に書いてみます。


心理学本下巻に向けての考察-85:「人間の価値」と「原罪」-10 / しまの
No.1336 2007/10/24(Wed) 22:02:07

■「心」が向かい得る「ある特定のもの」序論

「根源の根源」は、「愛への復讐としての愛」「原罪感情」にありのままに向き合うことで消滅に向かう。これはいわば「魂の挫折の原点」に還るということです。その時「愛への復讐の愛」と「原罪感情」の両方が同時に消え、まっさらな「未知」が現れる。
これは「魂の世界」で起きることです。

一方その時「心」は、「人間の価値基準」という、「根源の根源」において掲げられた命題にはもはや支配されていない、ある特定のものへと明確に向いていることが必要です。この「ある特定のもの」をこれから明瞭化していきます。

つまり、「魂の挫折の原点」と、そこから一歩踏み出した、「人間の価値基準」というものを審判の命題であるかのように掲げた人間の意識行為の間に、極めて大きな一線があるということです。
にすると以下のような感じ。

================================================================
<心> 「人間の価値の審判基準」
--------------------- 
↑この一線を超えることで人間は自ら掲げた審判基準により内面の地獄へと落ちる
<魂> 「愛への復讐の愛」 「原罪感情」

================================================================

「内面の地獄」という表現をしているのは、ホーナイにならってです。実際この根源命題をすでに見出していたのがホーナイであり、僕自身も「否定価値の放棄」を成した時、ホーナイの言葉が頭の中に浮かび続けていました。自分はある「人間の価値基準」により、自分自身を叩きのめしている。「絶対なるもの」を求める人間の過ちによってそれが始まったのだとホーナイは言った。自分の中にある「ここまで劣っては」という感情の論理のどこにその過ちがあるのか..
そうした思考の先に、僕は自分が神になろうとしていた過ちを、頭でというより魂で感じ取ったという感じです。

そのホーナイの言葉は、
2006/07/16 魂の成長の成り立ち-8:「神の国」から「放たれた野」へ-5
でも引用しましたが、もう一度ここに引用しておきましょう。
--------------------------------------
「自己嫌悪とその破壊的な威力を概観してきたが、そこに大きな悲劇があることに注目せざるを得ない。それは恐らく人間の心にとって最大の悲劇だろう。
人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない。」 (『神経症と人間の成長』
P.196)
--------------------------------------


つまり、「人間の価値」について何かを「審判基準」のように掲げるのを放棄することが、「否定価値の放棄」です。それは不完全な存在である人間が成せるものではない。
それが頭の中の思考のレベルではなく、「魂が現実へ開放される」節目として起きるのが「否定価値の放棄」だと説明をしてきました。それを促す「魂の成長」の原動力になるともう未知の世界になると。

一方、その時「心」が向かっていた「ある特定のもの」を浮き彫りにしようとしています。絶対なるもの「捨てる」審判基準として掲げるもの「放棄する」と言った消極形ではなく、その代わりに向かう、積極形で言えるはっきとしたものがあることが分かって来ました。

それを明瞭にするために、「否定価値の放棄」のような変革を成せないままでいる轍のような思考パターンを幾つか次に見てみます。それは「人間の価値基準」が根本で結局捨てられないでいる姿です。
そこから、「人間の価値基準」として掲げられるものの本質は結局のところ何なのかという内容の話が出てきます。その本質において、異なるものへと「心」が転換する先というのが、「ある特定のもの」になります。


心理学本下巻に向けての考察-84:「人間の価値」と「原罪」-9 / しまの
No.1335 2007/10/24(Wed) 16:07:27

■大局的整理1:問題の理解

「問題」について根源の根源という話が出、「解決」について駆動力のさらに根本という話になっているということで、ここでまたいったん最も大局的な、今までの話の整理をしておこうと思います。

まず「問題」については、上巻原稿「心の病理」の本質特徴として「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」「論理性の歪み」という4つを述べることにおいて、ハイブリッド理論がスタートすることになります。そしてそうした「心の病理」全体を駆動するベクトルとして、「自己の重心」の喪失という方向性が働いていることを指摘しました。

そうした「心の病理」が生まれるメカニズムとして、今回の原稿では、「幼少期」における「自他未分離意識」から「自他分離意識」そして「自意識」への推移に、極めて大きな位置づけを置いているのが主旨になります。
「心を病む過程」においては、まず幼少期に適切な愛を与えられないことが問題の引き金となり、「生から受けた拒絶」が「根源的自己否定感情」として心に植えつけられ、やがてそれが「感情の膿」となり、その恐怖の圧力からの防御構造として、「空想と現実が逆転」した「自己操縦心性」という意識土台が発動する。

そうした意識外枠の変形の中で起きているのは、自他未分離意識の中で与えられるべきだった「宇宙の愛」が損なわれたことへの深い挫折と、そこに置き去りにされた「愛への願いと憎しみ」でした。やがて「自意識」の中で「愛されることに依存しない自尊心」が心の課題となる一方、「愛されること」で自尊心を感じようとする「愛情要求」と、一方で愛を叩きつぶすことで自尊心を感じる感情が、完全に矛盾と混乱を起こし、もはや収拾のつかない事態に陥ります。

最後に人がすがることができるのは、「苦しみ」と「嘆き」によって自分が高貴な存在だと感じる幻想になります。それはやがて、苦しむために現実を破壊し、破壊された現実によって苦しむという泥沼の悪循環へと人を陥れ、もしこのメカニズムに全人格的に飲み込まれた時、太宰治の『人間失格』が描写したように、人を容易に「廃人」化させ、そこでようやく沈静するという結末に至ります。

解決への方向性について上巻原稿では、「望みに向かう」ことに心の治癒と成長への基本的な鍵があることを説明し、「望み」について我々には「現実世界」に向かう心と、あともう一つ、置き去りにされた「魂」が生き続けている、その2つの世界に向かい続けるというハイブリッドの基本的方向性を説明したわけです。


■大局的整理2:解決への実践

下巻原稿では、解決への実践をまとめると同時に、その解決がなぜそのように起きるのかという、根源のメカニズムに焦点を当てます。

すでに最初の方をUpしていますが、実践の基本は「感情と行動の分離」です。感情を克服したいので、まず感情を鵜呑みにしない思考法行動法を確立するわけです。
まずその大枠は、外面については「建設的であること」。内面については「自己の受容」と「内面感情の開放」そして「自己の理解」です。それぞれのより実践的方法として、行動学悪感情の軽減姿勢感情分析があります。

それをある程度積み重ねると、やがて一つの転機のような形で、「魂感性土台の体験」が起きます。これによって、頭で理解するのではなく実際の体験として、自分の脳に全く別の世界があることを知ることができますので、これを足がかりにしてより詳しく正確に根本的変化への道のりを見ることができます。

感情と行動の分離」という実践の枠に変わりはないまま、その内容には、向かうべき「別の世界」という視点が入ってきます。
つまり、ここまでの実践では、「感情そのものではなく感情が湧き出る土台の改善向上」というのが基本視点だったと言えます。そこに、人間の心をめぐる幾つかの「世界」という視点に移ってくるわけです。これはもはや「感情」とそのための「心の基盤」という一元的な視点の世界から、心が遷移する幾つかの「世界」という、多元的で高次元の視点に、話が変わるわけです。

かくして、話はごく実践的な心理学と行動学から、意識の哲学意志と信仰そして神という観念の問題になってくる。そこに、今回のハイブリッド理論が全ての根源として取り上げた「自他未分離意識世界」から「自意識」への遷移という節目に、何が起きていたのかの根源を絡めた実践の話になってきます。

そうした視点で、「否定価値の放棄」という最大の道標も捉えられることになります。
その最後の解明に向かおうかと。


■大局的整理3:人間の心の世界と根源へ

「向かうべき別の世界」という視点をまず取り入れた実践として、行動学の一段階前進を考えることができます。2種類の人間像を想定した行動学であり、「健康な心の世界」「健康な心の人」を目指すことが主旨になります。それは「人の目感情」は向け合わない世界です。

「恐怖の克服」が、外面への行動法と内面向き合いを総合した、取り組み全体を駆動するものとして前面に位置づけられるようになってきます。
そのためにまず、「愛されれば安全」という感覚の誤りを自覚し、「どう見られるか」を超えて「どう見られてその先どうなる」までも計算に入れるような、「人の目掌握思考」が、原理原則型や建設的な行動学をより強力にするものとして重要になってきます。

内面への向き合い、それは感情分析を活用した「自己の理解」ですが、それは最初の段階では愛や自尊心や恐怖をめぐり、まずは自分の中にどんな感情があるのかをしっかりとつかむこととして行われます。それがこの「別の世界」を視野に入れた段階では、そうした一つ一つの感情の内部の「根源」を感じ取るというものへと前進します。
かくして話も「根源の世界」に移ってきたわけでした。

「別の世界」をまたがった底にある「根源の命題」として、2つのものを言うことができます。

一つは「怒りに変わる愛」愛されない悲しみがやがて怒りに変わるという、猫にも見られた原初的な情動の流れの上に起きたのが、上巻原稿でも書いた愛と自尊心の矛盾と錯綜の混迷でした。人間において、まず自尊心は「愛された自尊心」を足場にして「愛されることに依存しない自尊心」へと成長するという構図があることにおいて、その移り目に「愛されないことが屈辱」という心理が生み出されたわけです。その屈辱を見返すために、愛を破壊できることに自尊心を求めた時、自ら愛を破壊することで再び「愛されない屈辱」へ戻るという、まるでメビウスの輪のように永遠に続く隘路が生み出されたわけです。

もう一つの根源命題が「自立」です。これはまず、「愛されれば安全」という感覚から、「自らを守る」意志への変化と言えます。
これはまず「恐怖の克服」のあり方に直結する話になるでしょう。自立していない時、恐怖は基本的に自分で克服するものではなく、誰かに解決してもらうものです。だから「人の目」「人の感情」が思考の終着先であるかのようになるわけです。これでは自尊心は育たず、自分から他を愛することはできません。

「自立」という命題の先に、さらに「根源の根源」があるように思われます。「怒りに変わる愛」も、「自立」の先に、全く別の世界が開かれることが、ここでおぼろげに見えてくるでしょう。

それは何か。「根源の根源」として浮かんでくるのが、「人間の価値」という命題でした。それは「愛への復讐としての愛」を求めるようになった時、「原罪感情」を心の底に隠したまま、掲げられるようになったものです。それは「心」がなした「神の国への謀反」であり、「魂」を抱き込み「祖国への裏切り」であるかのように「原罪」を確定させることになったわけです。

先のカキコまでで、この「根源の根源」は、そのありのままの原点に戻ることが最終解決になると述べました。つまり「愛への復讐の愛」「原罪感情」を、そのままの単独純粋な形で体験することです。すると、その両者が同時に消え、まっさらな「未知」が現れます。これが「浄化」のメカニズムでもあります。

重要なのは、これが起き得るような、この時「心」が向かっている方向性です。その「根源の根源」が生み出した「人間の価値基準」という命題に心が支配され、その基準の上でどう自分があれるかどう人に見られるかに心をやつしているだけの状態の時、やはり「愛への復讐の愛」と「原罪感情」は意識に流れはしても、心を病む生き方がそのまま続くだけです。

では「心」はその時、何に向かおうとしているのか。本人の意識実践として、最もその本質となるのは何なのか。
それを明瞭化する考察になっているという次第。

「人の目感性土台」が結局どう克服されるのかもその話になってくるのですが、あとちょっと材料の話で出しておきたいものを幾つか出して、結論へと進めていきます。


心理学本下巻に向けての考察-83:「人間の価値」と「原罪」-8 / しまの
No.1334 2007/10/23(Tue) 14:10:34

■「魂の挫折の原点」に戻り向かうことのできる心へ

先のカキコでは「愛への復讐の愛」と「原罪感情」にありのままに向き合う「最終局面」への準備過程について、方向性を説明しました。

これはその「最終局面」「魂の挫折の原点に戻る」ことだと捉えられる一方、魂の挫折にはもう巻き込まれない心によってそれに向き合うということです。
問題の根本解消はそれによって、もはや意識努力で生み出すものではなく、「魂の自然治癒力」によって生み出されます。

ですから、意識努力で向かうべきは、まず「魂の挫折に巻き込まれない心」です。

それは魂の挫折に端を発する内面世界とは全く別の、この「現実世界」という外面に向かうための、「愛への復讐の愛」「原罪感情」にはあまり揺るがされない思考法行動法を習得することです。
一言でいえば、大人として生きる今、現実世界は幼少期の心の世界とはもう別の世界として動いているのだということを、しっかりと見ることです。
それはもう「愛されれば安全」という命題が成り立つ世界ではない代わりに、愛されるためにありのままの自分とは異なる別人を演じるストレスも、もはや必要ではない世界だということになります。

まあもっと積極的な捉え方もまだ必要ですね。実はそれが僕としても十分に表現し切れていないものでもあります。
上記のように「揺るがされない」「成り立つ世界ではない」「必要ではない」という消極的表現ではなく、もっと積極的表現で書けるもの。
それがまずは「現実則」であり「自らを守る」という「恐怖の克服」という課題をまず考えるという話なのですが、ではその「課題」に対する「答え」についてのハイブリッドの本質がまだちょっと説明が残されています。
あと少しこの明瞭化をしておきたいと思います。

もちろんその最大の本質は「未知」なのですが、「未知に向かう姿勢」の本質というものがやはりあるということです。


■「人の目感性土台」として残るもの

そうした「未知に向かう姿勢」を浮き彫りにするために、まず以下の状況があることを言えます。

1)「未知」はまず「感性土台」の違いとして体験することができる。人の目感性土台魂感性土台の違い。
2)ただしそれはかなり断片的なものであり、「現実」に向かおうとする時、
我々はやはり人の目感性土台で他人や自分をイメージすることから思考が始まる。と言うかその部分が取り組み対象となる。魂感性土台で見えることにはそのまま向かえば良い。
3)人の目感性土台ではさらに、
「愛への復讐の愛」「原罪感情」による感情動揺を底にしながら、「人間の価値基準」を掲げての「存在への怒り」応報へと向かうような感情さらには思考までも、自動的に起きる。
4)そうした「自動思考」とはいったん別の、
「知性思考」というのをどう持つかがまず鍵になる

つまり、「人間の価値基準を掲げての存在への怒り応報」が、感性から感情そして思考までは、自動的に起きる状態がまずあると言うことです。それが「人の目感性土台」というものなんですね。

ですから「未知」への方向性のために使えるのは、まずは「知性思考」です。

つまり、感性と感情そして自動思考まで、「魂の挫折」に巻き込まれたものが動くということです。それが「治った」状態を自分に当てはめてみることは、方向性を誤ります。どう誤るかというと、「そうなれた自分」イメージから、そうではない「現実の自分」を叩くことにしかならない、ということです。

感性・感情・自動思考まである方向に向いているのを自分の中に見ながら、それとは全く違う方向に歩む姿勢が必要になるわけです。
それを生み出すのは、「知性思考」がまず使えるとして、やはりそれだけでは足りないものが出てくる。
あと必要になるのは「意志」と、さらに「信仰」としか言えない領域が出てきます。これは「未知への意志と信仰」としてもう少し後に説明します。

ここではまず、「人の目感性土台」とはそうゆうものだという認識をして頂くことを主旨としましょう。
取り組み方向性要素を色々説明しましたが、結局「人の目感性土台」がどう克服されるのかを、感性・感情・自動思考というレベルで、何をどう考えるかという話にはなっていませんでしたので、その視点で考察を書いておきます。

いったんカキコして。


心理学本下巻に向けての考察-82:「人間の価値」と「原罪」-7 / しまの
No.1333 2007/10/22(Mon) 13:27:12

今回の考察レベルで解決への方向性をまとめると、次のようになります。


■「人間の価値基準」と「原罪」克服への準備過程

「心と魂の分離」に由来を持つ、これまで述べたような問題についてハイブリッドが見出している方向性とは、その最終局面においては、「愛への復讐の愛」と「原罪感情」に向き合うことが一つの重要な通過点になるというものです。これにより「魂」の大元の本性が開放され、「魂の望みへの歩み」という最終段階への歩みが開かれます。

より実践的な観点から重要なのは、それを可能にする「心」の状態に、いかに向かうかです。
つまりその時、「愛への復讐の愛」「原罪感情」は、もはや「現実世界」とはまったく別の、「魂の世界」の出来事として、「魂」がそこに還ることを支えることができる心の状態が必要になる、ということです。

これは要は、「現実世界」においては「愛への復讐の愛」および「原罪感情」には揺らぐことのない、「現実世界」向けの建設的な生き方と思考法行動法を確立し、「魂の世界」とはいったん別の「現実世界での強さ」を獲得する必要がある、ということです。

これの逆を言うと分かりやすいかも知れません。上記のとは、「現実世界」において、「愛への復讐の愛」を目指す生き方を続け、その裏で原罪感情に脅かされている心の状態です。
「べき」「はず」という思考法をして、「人間の価値基準」によってこの世の人々の「勝ち負け」が決まるのだと感じ、日常思考をそれをスタート地点にしている心の状態です。


従って後者から前者への転換は、まず次のように言えます。
「べき」「はず」という思考法から、それを使わない思考法へ。「現実」に立脚した科学的、原理原則的思考へ。
「人間の価値基準による勝ち負け」というものとは異なる、「現実世界での強さ」へ。これがちょっと難しい話でもありますね。僕としてもあまり強調して説明できていない部分でもある。「自分の弱さを知る強さ」というものがとても重要になってきます。これはやはり人間が不完全な存在であることから、極めて重要になる事柄です。

意識的に変えるのはそれです。
「愛への復讐の愛」「原罪感情」は、意識努力で「変える」ことはできず、最終局面で向き合うことに委ねます。
ただしそれに足元をすくわれない方向性の獲得が重要です。これも基本的には上記の転換が支えてくれます。

まず「現実世界での強さ」を目指すことが、「愛への復讐の愛」とは別の人生目標になるでしょう。これは精神論ではなく、「現実における強さ」とは何かという命題を、人生を通して考え、社会で生きる中で学ぶことが重要です。

科学的思考原理原則的思考は、「現実世界での強さ」へのツールになると同時に、「原罪感情」に打ちのめされることを防いでくれるはずです。「原罪感情」はあくまで魂が感じている罪であって、現実社会で罪を犯しているわけではありません。
こうした「感情」と「現実」を、しっかりと分けることです。


■「感情と行動の分離」の基本から

結局それは、「感情と行動の分離」という基本に何の変わりもない話です。内面世界と外面世界をしっかりと切り分け、外面世界については「現実則」に立った思考を築くことです。内面感情に関りなくです。
それは「べき」「はず」はもうない世界です。

「現実世界」という外面は、「愛されるべきだった」という、人それぞれの幼少期の心に起きた出来事をめぐっていた感情の論理とは、違う論理で動いています。それをしっかると見るしかありません。またそれはしっかりと見れば、内面感情の変化への歩みよりははるかに短期間で分かるはずです。まずはそれを考えてみることです。

幼少期の子供が親に愛されるべきだったと思うのと同じ命題で、対等な個人同士としての人が人にどう愛されるべきかという命題は、もう現実世界の中にはないということです。愛されるべきだという命題にどうかなっているかと相手を評価する目では、もう人は人を見てはいないということです。もちろんそうした目で人を見る人はやはりこの現実世界にいます。しかしそれは同じく幼少期からの心の問題を抱えた人です。

「健康な心の世界」では、大人になった者同士は、「愛されるべきだ」という命題に人がどうかなっているかではなく、お互いの生活とこの社会全体を支えるために、立場に応じた役割をどう遂行できるかで相手を見ます。それはもう「愛されるべきだ」という命題にとっての「人間の価値評価」とは、全く別のものなのです。どうそれを習得できるかは、社会における自分の位置とそこでの役割をごく知的実務的に理解すれば、答えはすぐに出ます。まずはその習得に励むことです。

それはプライベートでも同じです。人々は「愛されるべきだ」という命題にどうかなっているかによって、集まっているのではありません。そこで行われている活動への「楽しみ」「喜び」という役割を共有することによって集っています。もし孤独から逃れたいために人と交わろうと考えても、それを楽しむことができないのであれば、繋がりは続けていけるものではないことを心得る必要があります。その場合はつまり、孤独を受け入れるべきだということです。それが「けじめ」として、つまり「健康な心の世界」に向かう意志としてです。

では孤独はどう解決するのか。
それを、これからの「未知」への内面変化に委ねるべきです。そのための実践を説明しています。
内面感情については、まずありのままに開放する。そして自分が何を感じているのかを理解することです。

「孤独」がどう解決するか。ここで意識的実践として一つだけ言えることがあります。「怒り」よりも「悲しみ」を選択することです。そして「悲しみを看取る」ことです。
これが「魂の成長」につながります。なぜなら魂の願いを看取った時、魂が一つ豊かになるからです。これが魂の成長になり、魂の成長の先には「未知」があります。

この、「外面現実の世界」と、「内面の魂の世界」を、全く別の世界として、歩み続ける。それだけです。
まず内面感情にはかかわりなく「べき」「はず」のない「現実則」というものを見る目とスキルを身につける。それが「内面の強さ」を促し始めます。内面の強さは「恐怖の克服」につながり、それが生み出す「心の安全」によって、「楽しめるもの」が増えてきます。
そうして上述した「感情と行動の分離」の実践は同じまま、心に現れるものは変化し続けるのです。


■「否定価値の放棄」という「未知」

それがやがて「否定価値の放棄」として、「人間の価値基準」という命題そのものを自ら崩壊させる節目につながるかも知れません。

この考察の文脈で「否定価値の放棄」のメカニズムを考えても、やはりここで一度論理のつながりが切れる空間があるのを感じます。
まずいえるのは、「否定価値」が、「愛への復讐の愛」への積極的に向かおうとした心が、自ら神になろうとして抱かれたものであることです。
一方、「否定価値の放棄」でそれを誤りだと自覚するのは、自分が「愛されるべき側」である存在から、「愛すべき側」に移ったのだという、「魂」の深い自覚が前提になることです。
その自覚を前提に、「否定価値」「人間の価値」に基準をおき、それを愛を剥奪すべき、つまり「存在への怒り」を向けるべき、何か許すべきではないものを切り分ける「基準」として、自分がそれを定め得るという感覚に、根本的な誤りがあるという感覚と共に、それは成されるのだろうと思います。

そしてそれを支える「自分が愛すべき側に移った」という魂の自覚を生み出すところの、「魂」の成長変化がどう生み出されるかのメカニズムは、やはり「未知」なんですね。
「魂の成長」について、結局我々は「未知」です。我々にできるのは、「未知」に自分から蓋をして閉ざすのをやめ、「未知」を開放させる努力です。あとはその努力と共に「生きる」ことが、「魂の成長」を導きます。

ということで、一言でまとめると、「現実に向かい、内面を知り、未知へ向かう」と表現できるでしょう。

あと少し留意点を説明してから、「愛への復讐としての愛」「原罪感情」の中で捨てられるという最終局面の例など交えた説明をします。


心理学本下巻に向けての考察-81:「人間の価値」と「原罪」-6 / しまの
No.1332 2007/10/21(Sun) 18:08:48

■「人間の価値基準」の由来から「否定価値の放棄」まで

先のカキコで説明した「人間の価値基準」が生まれる経緯から、「否定価値の放棄」までの流れを引き続き考察します。
どんな問題が起き、どう解決されるのか。ここでは特に「自己嫌悪感情」の発生とその解決に焦点を当ててみたいと思います。

まず「心」「愛への復讐の愛」を求めるようになり、同時に「魂」が深い「原罪感情」を感じるようになる、というのが最初の状況でした。
実は、この両者がそれぞれこの単独形で同時に心に体験されるのが、治癒になります。この具体例はあとで紹介します。
つまりそれは、「愛への復讐の愛」を捨て、原罪感情に出合う中で、大元の魂の愛に戻っていくという方向になるということです。
ただしそれは「否定価値の放棄」成された後の話です。

心が病むメカニズムにおいては、「愛への復讐の愛」のために、「比類なき人間の価値」が掲げられるようになります。それが、自分が排斥された「神の国」で安住できた人々への、復讐のための武器になるわけです。
それがあれば、他人を見返す勝利と、得ることができなかった愛を超える愛を手にすることができる。この願望に潜む、他人を踏みつけ踏みにじる破壊性を帯びた感情の強度が、「荒廃化」の度合いを示すことになります。

荒廃化が強ければ強いほど、「魂」が抱く原罪感情も深さを増すことが考えられます。それは「神の国」という祖国への破壊的な裏切りだからです。
原罪感情を抱く「魂」を抱き込むために、「心」は「魂」に、「悲しみを捨て怒れ」と囁きます。
そして悲しみを捨てる代償として、怒りを向ける対象を用意する。「人間の価値」です。「人間の価値」に、怒りを向けろと。


■「べき」「はず」に移っていく自尊心の力点

ここにはもう少し細かい内部メカニズムがあるようです。

というのも、「心」にとっては本来、「愛されることに依存しない自尊心」が課せられているからです。「愛への復讐としての愛」を勝ち取りたいにせよ、「自分から愛を求める」という感情要素はなるべく感じたくない事情があります。

ですから、「自分から愛を求める」という感情は感じないまま、前カキコで書いたような、「比類なき人間の価値の前に万人がひれ伏す」という栄光の構図が、何よりも求めるものになるわけです。
大元に愛への挫折と枯渇を埋めようとする衝動があることなど、感じてはならないのは無論です。

ですから、「心」「自尊心感情」は、次第に「愛」とは別のものに焦点が移ってくることが考えられます。
それが「べき」「はず」という「尊大な知の感覚」です。
「尊大な知の感覚」という言い方をしたのもここが始めてだと思いますが、実際のところ、「べき」「はず」とは実に尊大で自己誇大的な観念なんですね。

ここに「心」が「魂」と分離する際に介入した、「荒廃化」「病理」の本質を感じます。
「荒廃化」は、世界への復讐として自らが神になる力を獲得するという傲慢性になります。これが「べき」「はず」観念です。まあ「べき」「はず」を傲慢と感じる感覚は、誰にもあまりないのが実情でしょう。もともと「傲慢性」を情緒としては感じないままに世界への復讐の力を得るものとして格好の手段になるのが、それなのですから。
「病理」はその「空想性」にあります。「べき」「はず」は実際のところ、「空想」の中でのみ存在し得ます。「現実」の中に、それはありません。
つまり、「べき」「はず」は基本的に、空想の世界で自分が神になり他人を踏みつけた高みに昇るための思考法です。


■自己嫌悪感情の発生

「人間の価値基準」も、それによって愛される「べき」「はず」であり、それを損なった時には軽蔑され嫌われる「べき」「はず」ものとして掲げられます。

まず最初は、こうした「尊大知」そのものを自分が持っているということにおいて、それも「人間の価値基準」となるでしょう。「べき」「はず」を心得ている自分は他人より優れており、愛される「べき」「はず」という感覚を生み出しているでしょう。それを持たないであろう他人を軽蔑します。

「べき」「はず」通りになることに自尊心を感じ、その通りにならないことに、憤懣を感じます。「人間の価値基準」を損なったものを自分の中に見出した時、自らを軽蔑するべきです。その通りにならない「べき」「はず」を持ち憤懣を感じることも、そこでは「人間の価値基準」を損なったものの一つとして取り上げられるでしょう。それが自分であれば、自分に怒りと軽蔑向けるべきです。
かくして「自己嫌悪感情」というものが生まれると考えられます。

「自己嫌悪感情」には大きく3つのメカニズムがあります。「自己理想からの見下し(自分自身への優越感)」、「原罪嫌悪」、「現実的な自己不満」。
そこで「自己理想からの見下し(自分自身への優越感)」について、魂論からのより微細なメカニズムが言えるわけですね。
それは魂の挫折と「愛された自尊心」の損傷を見返そうとした「心」が、「神の国」に背をむけ自らが神になろうとして抱いた、「人間の価値基準」と「べき」「はず」という尊大知による自尊心からの、自分への見下しということになります。


■「魂」の怒りの「抱き込み」の完成

「魂」が「悲しみを捨て怒りを選ぶ」ように仕向けるという「抱き込み」も、「べき」「はず」の「尊大知」によってこそ、しっくりと行くように思われます。

「魂」が今だに「愛されること」を求めていることにおいて、「心」はこの「尊大知」を「魂」に振りかざし、「人間の価値基準」によって愛される「べき」「はず」だと誘惑するわけです。
「魂」は、そうした「人間の価値」が、「与えられる愛」という今だ心を引きずるものが約束されるものとして、そうした「人間の価値」を「持つ者」に、文字通り魂を吸い込まれるような感情を感じるようになるかも知れません。まあ多少これが「心」にとってはまた足手まといになることも出てきますが。

一方、「現実」はそうした「べき」「はず」の通りの世界ではありません。これは約束された「与えられる愛」が得られないということです。
まさにそれが、「心」が「魂」に、怒りを向けるべきものとして囁いたものです。この、あるべからざる「現実」を、神の国に排斥された憎しみによって、怒るのだ


こうして、まず「心」「べき」「はず」の尊大知によって自ら神になろうとし、その中で「人間の価値基準」を抱いた、という形になります。それによって世界への復讐を勝ち取る。
「魂」は、自らを神とした「心」について行く形で、「べき」「はず」通りでない「現実」への怒りを開放させるようになります。ただしそれは「神の国」という祖国への裏切りであり、原罪感情を裏で深めていることになります。


■「敵対感」が「人間の価値基準」を損なうという結末

これが問題の状況になります。

これらのメカニズムの結果、意識の表面でまず必然的に生み出されるのは、全般的な「敵対感」の蔓延です。
これはまず、「べき」「はず」観念が基本的に自ら神になり他人に優越しようとする観念であることにおいて、「敵対感」を生み出します。
しかしこの「敵対感」が、同時に抱く「人間の価値基準」としてまず含まれるであろう「感情の豊かさ」「信頼関係」「安定して人とつながれる心」などを損ない、自己嫌悪感情と、愛が損なわれたことへの魂の怒りを生み出します。

「心」が自らそうなるように仕組んだシナリオ通りであることなど、本人の意識では感じ取られないままにです。
もちろん硬直した「べき」が自分の感情を硬くしていること程度は感じることができます。だから「べき」を捨てようとは考える。
しかしそれがまたこのメカニズムの歯車の回転そのままで思考されるわけです。「べき」をすてる「べき」だ。それによって「人間の価値基準」を叶えるために。それができれば愛される「べき」「はず」だ。
基本的に思考がループします。


■解決への視点

この考察レベルでの、解決への流れに視点を移しましょう。

まず言えるのは、最終的な解決は、「心」と「魂」それぞれにおける、この問題の起点における感情をそれぞれ単独に並列のまま体験することにある、という最初に書いたことです。
つまり「心」においては「愛への復讐の愛」が抱かれたこと。「魂」においては原罪感情が抱かれたこと。

そこに戻ることです。そして今度は「魂」側が主導になって、「心」が抱いた「愛への復讐の愛」を原罪感情の中で捨てていくというのが、ハイブリッドとして見出している方向性になります。
それによって、そこに閉ざされていた「魂」の本性を開放することです。


そのために何が必要か。より実践的な視点からの考察を次に。


心理学本下巻に向けての考察-80:「人間の価値」と「原罪」-5 / しまの
No.1331 2007/10/20(Sat) 12:41:16

■「心」による「魂の愛への願い」の阻止

「心と魂の分離」にまたがった「荒廃化」のメカニズムは、幼少期における愛の損失に対する、「魂」と「心」の微妙な反応の違いにまず端を発するようです。

「魂」は、「自分が愛されていない」ことにまず「悲しみ」を感じ、やがてそれが「怒り」に変わります。
「心」は、「自分が愛されていない」ことを「軽蔑されている」と感じ、つまり「屈辱」を感じ、やがてそれが「見返し」つまり「復讐」への衝動に変わります。

問題は、もの心がつき自我が活発になるにつれ、「心」の側の自尊心への要求が前面になり、「魂」の側の愛への願いは影に回ることです。
「心」からすれば、「もう一人の自分」である「魂」が、自分をさしおいて引き続き「愛への望み」を願い出ることは、何としてでも阻止しなければならない状況があります。なぜなら、実際のところそれがまた表に出たところで、それはもう叶えられる状況は「現実」の中には失われているからです。

これは2つの理由があります。
一つは、それが本来自他未分離意識の中で叶えられるべきものであったことにおいて、事実もう時期を逸していること。
そして幼少期にそれを損なわせた環境というのは、やはり今も引き続き愛を損なう環境である可能性が高いこと。

この2つの理由により、「魂の愛への願い」がもし顔を出したら、それは誰にも受け取られようもなく宙に浮いてしまうものになってしまいます。しかもこの「魂」ときたら、「愛への願い」を差し出して叶えられない時、まるで無力で空ろな無様な姿を示すわけです。これはとても「愛されることに依存しない自尊心」を課題にして分離し始めた「心」には、受け入れられるものではありません。
かくして、「心」は、そんな「魂」などないという顔をして、生き始めるわけです。


■空想の中で抱かれる「人間の価値基準」の絶対的威光

一方で、「愛された自分」という自尊心を与えられなかったことを見返すための、「空想」をふんだんに使った心の動きが始まります。
「感情の膿」への防御もここで働き始めます。「現実」とは、何かの「あるべからざるもの」を潜ませた世界であり、それを免れるために、完璧な空想を描き現実をそれに合わせることが最善の「生き方」なのだという決めが成されるわけです。また「現実にあった」その「あるべからざる」ことに受けた心の傷はあまりに破壊的なので、「魂の挫折」は記憶もろとも否定されます。

かくして、幼少期において挫折した魂の存在を否定し、「愛された自尊心」を損なったことを見返そうとして、「普通に」得られていたであろう愛を超える「愛」を、自分は獲得するのだという勝利へのシナリオが、空想の中で描かれます。
それは比類なき「人間としての価値」を自分が帯びるという形を取るのが基本になります。つまりそこでの復讐性「万人をさしおいて自分が特別に扱われる愛」を得ることにあるのですが、それを自らが強欲に奪い取るような姿になってはいけません。それでは自分が最初に挫折しているからこそそんな衝動を抱いていることがばれてしまうからです。ですから、自分が比類なき「人間としての価値」を帯びることで、自分からは手を下さなくても、人々が無力に自分の前にひれ伏すようにならなければならないのす。

こうしてこの人間の心に、絶対的な威光を持った「人間の価値基準」が抱かれるようになります。
この人は、その「人間の価値基準」が実際のところ、この世界の人間の「勝ち負け」を決定する基準なのだと感じます。実際にはそんな基準にはあまり心を動かされない人間が多数いることなど分かりようもなく、自分が感じること疑うことができません。なぜなら実際自分がその「人間の価値」を前にすると、打ちのめされた敗北感を感じるからです。

かくして、「人間の価値基準」が、それがこの人間においてなぜ抱かれたのかの経緯を離れて、一人歩きの暴走を始めるわけです。「人間の価値基準」は、それを携えて世界へと宣戦布告する武器となる一方、やがて自分自分に下される「審判」へのストレスとして、この人間を苛むようになるわけです。


■「神の国」に背を向けた「心」の抱き込みに罪を深める魂の原罪

そうして「心」が「人間の価値基準」への幻惑と圧迫に揺れ動く影で、「魂」は何をしているのか。「心」によって出生における挫折を否定されたまま、眠りについたようにその活動を停止させたのか。
どうやらそうではないです。事実「心の生命力」が「魂」にある限り、「心」は「魂」からのエネルギーを必要とするのであり、ただ切り離すだけでは収まりがつきません。

どうやらそこで、「心」による「魂」の「抱き込み」とでもいうべき事態が起きたようです。

幼少期において与えられなかった「一体化の愛」を見返すための、「愛への復讐としての愛」の獲得を抱いた「心」。それは「神」に守られた世界で「一体化の愛」が与えられるはずであった、「神の国」に背を向ける動きであったように思われます。それは「神の国」への離反であり、謀反であり、「神の国」への見返し復讐であったように思われます。
「神」の大きな目の下にあった人々を見返す優越。それは自らが「神」の権限を手にすることです。それが「人間の価値基準」の威光です。これが「神の国」全体への復讐です。

そうして「神の国」に謀反を起こそうとする「心」は、「魂」もこの動きに同調させようとします。そのためには、「魂」が「一体化への愛」への引きずる思いを捨てさせなければなりません。
それが可能になり得る感情の動きを、「魂」がすでに示していました。「悲しみ」「怒り」に変わるという流れです。ならば「悲しみ」を捨てさせる必要があります。「悲しみ」にはまだ「一体化の愛への願い」が含まれるからです。それが「怒り」に変わった時、もうそこには「一体化の愛への願い」が見えなくなります。

かくして、「心」から「魂」への「ささやき」が成されたようです。悲しみを捨て、怒れと。
それによって「心」は、「魂」さえもが「神の国」に背を向けるように仕組んだようです。悲しみを捨てる代償として、魂に怒りを向けさせる対象を用意してあげるのです。
それがまさに「人間の価値」に他なりません。「人間の価値」に対して、怒りを向けるのだ。

「魂」がそれに向かってしまうのも理由があります。なぜならそこに「あるべきもの」という「神の国」の命題そのものが保たれるからです。あるべきだった愛。それが奪われた怒りをそのまま、この「心のささやき」によって生かし続けることができる。

しかしこれは「魂」の深い心においては、「悪の囁き」であったようです。それは神の国への謀反なのですから。人間に「悪」という観念が生まれたのは、恐らくこの瞬間でしょう。神の大きな目の下で、「一体化の愛」に満たされるべきであった自分が、復讐のための「禁断の愛」の誘惑に屈した。
「魂」が抱く「罪」は、ここで深まります。「原罪」とは、恐らくここで確定した罪を指すのでしょう。

「魂」はもはや、「神の国」に素直に戻ることはできなくなります。なぜなら、自分はもう、一度そこに背を向け、裏切った者だからです。
いわば「祖国を捨てた者」です。帰る国を失った「魂」はもはや根なし草のような無力感を抱え、「心」について行くしかありません。「原罪」深い罪悪感を心の一方に抱えたままにです。

容易に想像できると思いますが、これはキリスト教における「原罪思想」そのものと同じです。
キリスト教の「原罪思想」では、そうして「人間は罪深い存在」と定義しているようです。
ハイブリッドでは、こうして「人間は罪深い存在」と感じる、脳のメカニズムがあるという考え方をするわけです。メカニズムとして理解するということは、「実際人間は罪深い存在か」という問いはもうしないことになります。

ただしそうして「魂」が抱いた原罪にどう向き合うかの話が、キリスト教とハイブリッドで全くの正反対になってきます。
この話を次にしましょう。


■「人間性崩壊」のメカニズム

親殺しにまで発展するような「怒りの爆発」のメカニズムについては、「魂」の「自分を愛すべきであった者への怒り」「心」の「自尊心損傷への怒り」という単独要素の素直な合算