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2007.11


心理学本下巻に向けての考察-133:「未知」への意志と信仰-25 / しまの
No.1386 2007/11/30(Fri) 11:48:36

■「嫌悪と悪意のメカニズム」

先のカキコまでで、「否定価値感覚」の成り立ちとして、「自立の置き去り」に由来する「4つの幻想」というのを説明しました。
これはさらに、そのさらなる由来である「根源的自己否定感情」その受け取りを拒否した「心」という、「魂と心の分離」の大局構図において、その実際の挙動メカニズムを理解することができます。

これは心を病むメカニズムにおいて自他への「嫌悪」、そしてその中でやり取りされる「悪意」の、大きな構造になります。
この点、心を病むメカニズムの中で人が最も翻弄され動揺する感情の根源メカニズムが、今ようやっとハイブリッド理論としての最終形が完成するということになるかも知れません。
「嫌悪と悪意のメカニズム」と呼んでいいものになるでしょう。

つまり、幼少期に植えつけられるに至った「根源的自己否定感情」を、分離していく「心」は受け取ることができず、そんな「魂の挫折」などないものという顔をして生き始めるという大きな構造の上に、先の「4つの幻想」が発達するわけです。
その中で人が向う思考と感情は、全く皮肉とも言える、良かれと考えて向う先がことごとく悪しき状況を積極的に招く歯車を、自ら一生懸命回す姿になります。

「否定価値の放棄」は、4つの幻想とは全く別世界となる「心の自立」そして「未知への信仰」という方向性を理解し、実践を通した体得を得る中で、この実に不実な「嫌悪と悪意のメカニズム」を理解し、その根核となる「人間価値基準の絶対性幻想」の放棄を問うことによって成される。
これが「否定価値の放棄」への最終的方法論となるかと。

この「嫌悪と悪意のメカニズム」として、今のところ2つの大きなメカニズムが浮かんでいるところです。
一つは「被軽蔑感情の必然メカニズム」とでも呼んでおきます。これは、「こう見られたい理想像」と掲げることで、まさにその理想像を基準にして自分が人から軽蔑されるという感情が起きるメカニズムです。まさに「軽蔑されるための理想」になるわけですね。
もう一つは「被悪意感覚の必然メカニズム」と呼んでおきます。これは、善意により愛されようとすることが、その偽り性を疑う悪意に迎えられるという感覚の必然性メカニズムです。「善意が悪意に出会う必然性」のメカニズムと言えます。

両者とも、全てがこの人の心の中で自動的に起きます。他人は一切何をする必要もありません。ただそこに立ってこの人を見れば、この人は、自分がある理想基準から軽蔑されていると感じるし、自分の善意に相手からの悪意が向けられると感じるのです。


■「被軽蔑感情の必然メカニズム」

まず「被軽蔑感情の必然メカニズム」ですが、説明がやや遠回りになりますが、僕自身が「否定価値の放棄」に至った状況が、このメカニズムを解明するヒントになっています。

つまり、1997年の年末、僕はかなり「現実において生み出す」行動への習熟に伴い、仕事での成果も結構あり、年末人事考課では最高ランクの評価を期待していた。しかしちょっとしたリーダーシップ不足を見られ、そこそこの評価で終った。で僕は「結局自分は何の役にも立たない人間」かという自己否定感情に、ようやく真正面から向き合うことになったわけです。

これが「否定価値の放棄」への転機となったと言えるのですから、これは実はそれで良かったことであるようにも、今としては思える次第です。これは負け惜しみ的な感覚を含まずに、真剣な話としてそんな気がします。もしそのちょっとしたリーダーシップ躓きがなければ(つまり性格に難のある女性メンバー参加という不運^^;がなければ)、僕は最高ランクで評価され、その調子で仕事に一直線に向うので良いのだと考える人生へと進んだかも知れません。そうなったら今の僕はなかった気がする。

そんな経緯があるとして、要は、僕はその直前まで、人に「こんな人間として見られる」ことによって自己肯定ができるようになるのではないかという幻の中にいたということです。これは「自分幻想」です。空想の自分、特に「人にこう見られる自分」という空想を「自分」と感じるという幻想です。
それが解け、というか破れ、ようやく、本当には自分は自分のことをどう感じているのかということを、問えるようになった。

その結果はっきり自覚したのは、自分がある特定の理想基準から、自分を駄目だと断じている、それはもうただそうであることとして、逃れようのない事実としてそうである。それがはっきりしてきたわけです。
僕が否定価値の放棄をしたのはその直後でした。

これはつまり、根底では自己否定しており、その上で「人にこう見られる」ことに依存した自尊心を抱こうとしているという構造です。そのために、「こう見られたい理想」を抱くわけです。
しかしこれは、「人にこう見られる」をとっぱらったらどんな構図になるかと言うと、「こう見られたい理想」を基準にして根底では自己否定するという構図になわけです。
しかし本人はただ「人にこう見られる」ことだけに意識が向くことにおいて、この結果はほぼ必然的に、「こう見られたい理想」を基準にして自分は他人に軽蔑されるという構図になるということです。


実にバカげたとも言えるほど皮肉なことであるのを感じます。人に良く見られたいために掲げた理想像において、まさに人から軽蔑されるという意識を作り出しているのです。

なぜこんなバカげた事が起きるのかというと、「本当は自分では自分のことをどう感じているのか」が全く見えなくなっているという論理欠損がまず原因です。
しかしそれを問えばこれが解消するというほど生易しい問題ではありません。その底には幼少期から抱えた「根源的自己否定感情」および「感情の膿」の直接体験というドグマが控えているからです。これは「心」の「命」つまり「魂」の根幹を揺るがす事態です。

ですから、ここでまず見えてくるのは、否定価値の放棄への道筋として、最後に「自分幻想」を解いた先に「人間価値基準の絶対性幻想」を解くという順序が考えられるとして、これが成せるためには自分を根源的自己否定感情と感情の膿から守るための内面の強さ豊かさが十分に準備されていることが必要である、ということです。
この準備とは、何よりもまず「破壊幻想」を捨て、「現実において生み出す」という生き方と行動を歩むことになるでしょう。


それによって内面の「論理性のない」根源的自己否定感情に充分に対抗できる「論理性のある」この社会を生きる自信を天秤にかける中で、「目指すべきもの」として掲げる「人間価値理想」の「掲げ方」の根底にある根本的な「不実と傲慢」の正体が見えてくる。
これが「人間価値基準の絶対性幻想」であり、これを根底から捨て去るという最大の選択肢が見えてくるということになります。


次に「被悪意感覚の必然メカニズム」について概観し、「否定価値感覚」の成り立ちその放棄についての最終結論へと進めます。


心理学本下巻に向けての考察-132:「未知」への意志と信仰-24 / しまの
No.1385 2007/11/27(Tue) 14:13:43

■「否定価値感覚」によって得るもの

話を「否定価値感覚」の成り立ちから、その放棄を行わせるものへと移します。
これは大枠では、否定価値感覚によって得るものと、その代償として失っているものを実感的に理解することであり、それと、否定価値を放棄して得られるものを理解した上で、両者を天秤にかけるということになるでしょう。

否定価値感覚によって得るものは明白です。「自分は正しい」という感覚です。
自分はあるべき姿をちゃんと知っているのであり、それに満たないものを怒ることによって、あるべき道にあるのだという感覚を得ることができます。

しかし、「正しければどうなる?」という問いの先にある、心の水面下での情動は、そこでは隠されています。
間違いなく、正しく、怒るならば、世界は良くなるはずなのです。しかしそうはなっていないので、怒ります。怒れば、良くなるはずなのです。しかしそうはなっていないので、怒り..。
この感覚を維持して、ずっと怒ります。それが、この人の心を支えるのです。これが人間の心の一つの世界なんですね。

一方、この「正しい怒り」の中にある人を見た時に実に印象的なのは、自分が持つ恵まれた境遇の側面への、見事なまでの感覚の麻痺です。
当然です。その恵まれた境遇の側面は、与えられて当然のものなのです。なぜなら自分は「正しい」のですから。
そうして与えられた境遇の良い側面は当然のこととして、やはり未来を向けば望みが出てきます。意識が未来に向くのであれば、次にそれは自分が正しいことによって叶えられるなずなのです。でも現実は大抵そうではありません。
だから、怒ります。正しいのに与えられないものを見続けて、怒り続けます。

かくして、「自立の置き去り」という、ハイブリッド取り組みの「中期」の後半に射程圏内に捉える内面課題は、ハイブリッド心理学が着目する人間の奇妙に不幸な姿という振り出しの問題を、真正面に捉えるわけです。
「私は正しく、そして不幸だ」という、怒る人間の姿です。

事実、この「否定価値感覚」人生の主原動力として生きた時、そこに現れるのは、不平不満が化け物のように膨張する姿でしょう。


■なぜ「怒るべき悪」は消えないのか

「怒りの有害性」については、ハイブリッド心理学を読んだ大抵の人が実感し、怒りの強度と頻度を大きく減少させた生活へと向っておられます。
しかし根本的に怒りを捨てた人は稀です。実際それについて、現状ではどれだけの人がそこにまで至ったとは言うことはできず、そもそもその段階に至っていれば人生を一人歩きしているので、そのことがもう僕の耳に入ることもない可能性も高く、感触で言うなら「ゼロではないようには感じる」程度の話です。まあハイブリッド自体がまだ駆け出し心理学で世にはほとんど出ていない揺籃期ということで、ハイブリッド心理学の効果実像が見えてくるのはまあ半世紀後(^^;)くらいかとのんびり構えている次第。

まそんな話はどーでもいいとして、ハイブリッドを学んだ多くの方は、「激しい怒り」をなるべく持たないようにと変化します。そして、自分は怒りの無益さを理解したと感じるところまでは行きます。
しかし「穏やかな怒り」については、もうそれをはっきりと「怒り」とは自覚しないまま、その中で生きる生活が、やはり続くことになるのが基本パターンのように思われます。

まあ実際、「怒りが基本」(^^;)である人の様子を実感として感じるのは、日本のTVドラマが流れているのをちらっと見かけた時などですね。「ごく普通の家族の会話」が、何かを真剣高飛車に、何か怒っているように喋っているのが、そのドラマとしての何の出来事でもない背景場面として流れるわけです。僕としては思わず「れれー^^;」と画面を見る次第。
参考例として普段の僕の生活雰囲気など言いますと、ほとんど誰と直接接することもない一人で生活するなかで、口元が緩んでいるのがどうも基本であるのに時に気づきます。あれ僕笑ってらーという感じ。何もないような事柄で結構うすら笑い(^^;)してますね。それだけ見たらちょっとキモいかおバカに見えるかも。アハハ..まこれはどーでもいい話^^;

そして僕にとり、「悪」というものは存在しない。これは重要な論理転換がしっかりあるので後で説明します。

いずれにせと、「穏やかな怒り」がもう「怒り」であることさえ感じないまま、その中にいるのが基本であることと符号して、いつか必ず、「怒り」がそう捨てられるものではないことを自覚すると思います。怒る以外にどうしようもない「悪」というものに出会うことで。
そしてハイブリッドが言う「善悪の完全なる放棄」疑問を抱くでしょう。そんなことが人間として成立するのか、と。この感覚は分かります。ちょっと後にさらに説明を加えますが、「否定価値の放棄」を成してからまだ少しの時期の時、僕自身が「これでいいのか?」と自分で疑問を感じたような面がちょっとありました。

否定価値の放棄」では、そんな基本的な「悪を怒る」という感覚さえ、崩壊するのです。


■最後まで残る「庇護幻想」

一方、なぜ「怒り」「悪」がそこまで人間にとって骨の髄にまで染み込んだ基本感覚であるのか、それを支えるメカニズムがあります。
それは「庇護幻想」の強力さです。自分が基本的に「人の目」によるつながりの中にあるという感覚が、無意識下で人の心を支える強力さです。

これがある限り、人の目の中で、「あるべき姿」をちゃんとわきまえ、それに従うことで生活し、それを損なったものを怒るということは、実に自然なことになると思います。だから「善悪」の感覚があり、正しければ怒るわけです。怒れば、「人の目」によってつながっている世界が、良くしてくれるはずです。しかしそうは現実がなっておらず、怒るわけです。
話が戻りますね。とにかく、正しく不幸でいるのが良いことなのです。

事実僕がこの「庇護幻想」を捨てたのは、ごく最近です。話が膨らむのがまだまだ続くよーという感じですが、その場面の日記を下に紹介しましょう。

つまり、「自立の置き去り」の先に、「人間価値基準の絶対性幻想」の中で、怒ることに価値を感じる「否定価値感覚」が生まれたのですが、それが生み出す怒りや自己嫌悪感情の膨張というマイナス側面を脱する転換として「否定価値の放棄」が成されるとして、これは「自立」を目指すベクトルを原動力にするものではない、ということです。

かくして話は極めて難解になります。実際、それを体験した僕自身が、自分が一体何でこんなになってしまたのかと(^^;)、その理屈が良くつながらずにこうしてあーでもないこーでもないと整理を続けているありさまです。
ただこれはこの先に見えてくる命題も視野に入れれば、おぼろげなまま納得感を帯びた何かが近づいてくるのを感じます。人間の心の成り立ちの構造極めて重要な一面が見えないまま、それを除いた残りで全ての事柄の説明をしようとするから、難解になるのではと。

こうして見て来た人間の心の成り立ちとは、まず「」「自尊心」「恐怖」であり、次に、「自立」とその置き去りの話が出ました。
その先にあるのは、「空想と現実」であり、「善悪」と「神と人間」であり、「不実と傲慢」そして「罪と罰」と「許し」という、人間の心の深奥の世界です。
「自立」が人間にとって結局は不完全なものであり、「庇護の幻想」が最後まで受け皿としてある中で、問われるのは別の命題になってくるということです。


■消えて初めて気づく「庇護幻想」の存在

ここでは「庇護幻想」そのものが消える場面の描写例を、僕の比較的最近の日記から紹介しましょう。
それを紹介するのは、そうして消えたことによって、初めてその存在が分かったような代物だからです。

以下に紹介するのは2005年6月のもので、5月下旬に「渡りに舟」的な早期退職キャンペーン(^^;)に乗り電光石化起死回生的な退職を決め、残りの有給を消化するために6月中旬に定常勤務を終え、ノンサラリーマンモードに入った直後のことでした。
そのあまりに「自由」の生活感覚に、僕自身がちょっと面食らった面があったわけです。それで、これはどーゆうことかと感情分析した次第。

なお、退職を決めた瞬間は、友人で自分で会社を作るに転じた者は「自分が鳥になったような自由な気分を感じたけど、直後に急に恐ろしくなってきた」とか言っていましたが、僕はそれはなかったですね。まあかなりの覚悟の上だったこともあり。
とにかく「僕は野に放たれた」という開放感で一杯だった。
で、一人で自由な生活が本格的に始まった時、あり続けた「庇護幻想」が消える変化が起きたわけです。

2005.6.13 (月)
 今日から
ノンサラリーマンモードの生活が始まったという感じだ。それで少し泣き感のようなものがあった。“何ともつながりがないという感覚を抱えた自分”という感覚が少しあったと思う。喉の詰まり感が少しあり、夕食を準備する頃から、僕はしきりに発生練習を始めていた。風呂に入る頃には声の通りも良くなり、泣き感を伴う感覚は消えていた。

2005.6.15 (水)
 (略。前日火曜に六本木の歯医者や新宿のカイロプラクティックに出かけ、夜は息抜きモードでビールをかなり夜更かしして飲んだことを書いています^^;)
 今日起きたのは10時過ぎ。起きてから、お腹のむかつきと、
世の人達が普通に働いているであろう午前の時間が、そうして何もしないまま消えている自分の状態に、少し情けないものを見る感覚を覚える。これがあるいは実に久しぶりの「自己嫌悪感情」かも知れないと考えたりする。
 遅い昼食の後、メールのフォルダー整理などしている内に、午後3時が近づき、掃除を始めながらこのメモを書いている。
ちょっと泣き感が流れていることもあり、だ。
 この
泣き感は、人や社会につながるような意欲に後押しされた行動の中にある自分、という心の世界のようなものがあり、その中にいるべきところを、自分の不注意か何かのうちに、気づいたら外の場所に出てしまっている自分、という感覚なのだ。思い出すのは、中3か高1の頃だが、大したこともない体調不良で、家で寝ていた時の感覚だ。皆が学校にいるその時間に、何もない家の空間の中で、天井を見ていた自分今の感覚、そしておとといの感覚の中にも、そんなものがあった。
 逆に、そうでない方にあったのは、
「皆と同じことをしている」という感覚だったと思う。あくまで行っている行為は自分の目の前のことなのだが、そうしていることにおいて自分がある集団の中にいるという感覚だ。そして、そうして目の前の作業をしていても、回りに仲間達の姿や気配がなくなると、その人間は作業をしていることはできず、自分がその中にいるべき集団を見つける方に心が向わされる。いつも群れの中で回りと同じことをすることに安心しようとする羊を思い出した次第。

ここで自分の中で浮き掘りになった感覚を「まるで羊」と感じたことが、もはやそれを不要として捨て去る変化が僕の中に起きていたことを表現していると思います。


■「人の目幻想」のさらに先へ

自分がその中で「ちゃんと生きている」と無意識の中で確認してながら日々の生活を送っているような、集団所属幻想があるということになりますね。それは結局のところ、自分が「人の目の中にある」という深層感覚なのだろうと思います。
それは僕の場合も、「否定価値の放棄」もはるかに過ぎたこんな時期まであったということになります。

今ではそんな感覚もなく、少し前に書いたように、無人島の牢屋で自然とたわむれることができれば日なが一日もの書きしているようなのと大して変わらない、大自然の中で一匹の動物が好きな時に起き好きな時に眠るような感覚で生きる今となっている次第です。

それだけ、強力な「庇護幻想」そして「集団所属幻想」、つまるところ「人の目幻想」というものが、人間にはある。
その中で、本当の自分とは別の人間になろうとする自分の嘘を、人は自分で気づくことができなくなる。その中で人間の価値の絶対性の感覚の中で、何ものかに成ろうとする「望み」の中に、人は不実と傲慢を抱えることになるわけです。
そしてその下に、魂が深めた原罪を..。

「否定価値の放棄」とは、それを解消するものではありません。

言えるのは、「否定価値の放棄」を成す前は、逆に、その自らが抱えた不実と傲慢が暴露される恐れによって、「望み」に向うことができなくなることです。そして自ら望むのをやめ、人の目を通して望むという生き方の中で、他人の傲慢を怒るようになるわけです。自分は「あるべき姿」を知っていると。そしてその「あるべき姿」の絶対性が自分に向かい、自分を責めて生きるわけです。
ここに真の不実があるのを感じます。


「否定価値の放棄」とは、これを解消するのではなく、人間の不完全性としての「許し」を用意するものです。
その結果「魂」「望み」に向い、そこで自らが塗り消した自らの不実と傲慢に出会うのです。魂は原罪に打たれ、危機を迎えることになります。しかしそこに全ての答えが出されるわけです。

何か、2重の大どんでん返しが用意されている。そんな印象ですね。
まず最初の大どんでん返しである「否定価値の放棄」を成させるベクトルの正体へと次に目を向けます。


心理学本下巻に向けての考察-131:「未知」への意志と信仰-23 / しまの
No.1384 2007/11/27(Tue) 00:00:28

■「人間価値基準の絶対性」幻想

「自立の置き去り」が生み出した「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」という3つの土台幻想が生み出すのは、「庇護の目の中で怒ることができ愛される自分」とでも言える、人間の生き方における一つの「自己の方向性」のイメージです。

そして「一体化の愛」を願って生まれた魂が、願う通りには愛されなかった怒りというものが、現代社会人の広範囲に避け得ないものとして起きていることを考えた時、この「自己の方向性」が、幼少期に起きた「挫折」の程度に応じた破壊性を帯びて、人の心にまず生まれることになるのでしょう。

一方、それとは異なる、健康な心として回復向上するための「自己の方向性」とは、ありのままの現実を受け入れ、「望み」に向い「現実」にぶつかって行く中で、生み出す知恵とノウハウを学び、全ての可能性を尽くすというものです。

そしてこれが幼少期に植えつけられた「根源的自己否定感情」と「感情の膿」という自己内部の脅威、そしてそれを生んだ不遇が必然的にもたらしている外面的困苦を前に、人間の幼い素の思考では、自分の心に起きていることを心理学の目で理解し、自らを回復へと導くことなどは到底不可能です。

つまり、何の抵抗を受けることもなく、「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」という3つの土台幻想を背景とした人間の思考は、人間の究極的な業ともいえる最終的な幻想へと収束し安定化するように思われます。
それが「人間価値基準の絶対性」幻想です。

これは定義としては、人間そのものが帯びる価値として望ましいと考えられるもの、例えば美しさや能力や性格人柄といった個人価値、さらに人と人の繋がりの姿や家族友人の豊かさといった人間関係の価値、地位や財産や身につけるものや所属する集団などのステータス・シンボル、最後に「人生を生きる姿」といった自己像の高さなど、その「価値内容」のどれに強調が置かれているかはかなりの千差万別において、そうした「人間の価値」が、愛されるための、そして自分を肯定でき自尊心を持てるための条件なのだという、「人間価値」の「基準」についての「絶対性」の確信の感覚です。


■「魂と心の分離」で置き去りにされた命題の合流

人間価値の基準についての絶対性感覚という要素だけを純粋に考えるならば、これは「自立の置き去り」がもっぱら生み出すものとは必ずしも考える必要はなく、自ら望みに向うという方向性においても、「人間の価値」は間違いなく「望みが目指すもの」であり、それが熱狂的な絶対性を帯びるだけの話です。

問題はむしろ、「自立の置き去り」にまつわる、幾つかの根源的命題との結合です。

一つは「庇護」を与えられる条件としての意味合いです。愛され守られるために、その人間価値が絶対的な条件になる。その理想を損なった者は、逆に庇護を剥奪されます。つまりその人間価値は、「愛される資格」条件になるわけです。

これが、「魂の挫折」からつながっています。「魂」は本来、「無条件の愛」を求めたのであり、条件によって愛されるような愛を望んだのではありませんでした。
しかし根源的自己否定感情という受け入れ難い内面を抱えた「心」は、そんな「魂の挫折」を飲み込み、「無条件の愛」を願った悲しみを、人よりも特別な愛を手に入れる「愛への復讐の愛」への野望によって塗り消しました。

しかしこの時、「魂」は深い「原罪」を抱えることになりました。

「自立の置き去り」が残した、大きな命題がありました。「善悪」であり、「あるべきもの」です。
その「人間の価値」があるべきものです。それによって、自分は愛されるべきなのです。
しかし現実にはあまり愛されていません。そして自立を置き去りにしたこの者の「愛」は「怒りに変わる愛」です。怒ることが「愛」と化している傾向があります。


■「否定価値感覚」の誕生

こうした置き去りにされた根源命題を背景にして、人間の不完全性が必要とする「信仰」のために用意された脳の思考領域が、一つの不実な思考を、まるで結晶のように生み出したように思われます。
それが「あるべき姿を損なったものを怒るべき」だという感覚です。

これで、「魂と心の分離」にまつわり、ばらばらな形で宙に浮いたような根源のベクトルが、一つに収束します。
「あるべき姿」とは、健康な姿においては、魂が望む輝きであり惹かれる魅力価値でした。「望み」の感情が殺されたまま、求めるものが形を維持することになります。
それが「あるべき」ものとして掲げられるのは、自立を置き去りにした「庇護幻想」の中で、守られ愛されるための資格だということです。それが満たされれば愛されるべきであり、それを損なった時、愛を剥奪されるべきなのです。
怒りが愛と自尊心になるという「破壊幻想」がここに結びつきます。これは心を病む度合いに応じて破壊的になってきます。
「自分幻想」がここに結びつきます。自分はこの価値基準を知っている。この人間価値基準を知り、それを損なったものを許さず怒るのが自分だ。

かくして「否定できることに価値を感じる」「否定できる自分に価値を感じる」という「否定価値感覚」ができあがります。これは「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」を同時に満たします。

最後に、「信仰の思考」がこれをそのはけ口として選択するわけです。「信仰」とは自己の不完全性を補う、無限で永遠なるもののへの観念です。
その無限と永遠を、自らが選んだその「人間価値」の「条件としての絶対性」に込めることが、この者における「信仰」になるのです。

つまりこれは、人間の不完全性「神」という観念を不可避的に生み出すものである時、自らが神になるという信仰です。自分の思考が絶対であると。ここに「傲慢」が生まれたように感じます。

「信仰」に基本的に2形態があるということになります。
自ら全ての努力と可能性を尽くし、後は神に委ねるという信仰。
もう一つは、自ら努力と可能性を尽くすのではなく、自分が神になるという信仰。


■「人間の価値基準」の一人歩きと遊離蔓延する「怒り」

「否定価値感覚」
とはこのように、「自立の置き去り」が生み出した「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」を背景にして、「自分は人間の価値基準を知っている」という感覚におけるその絶対性が、「信仰」的な無限の価値を帯びたものというのが、ハイブリッド理論としての結論になるのではないかと考えています。

そのような成り立ちが考えられる一方、成立した「否定価値感覚」は、もはやその成り立ち背景から独立し一人歩きした、実に人間に根源的かつ究極の幻想感覚であるように感じます。

実際僕としてはこの考察を、人が「あるべき姿」というものを抱き、そうでないものは怒らねばならない、と感じる感覚の実に独立した自然さを思い浮かべることから整理して行きました。そこにはもう、それによって「庇護」がどう与えられるかという観念も、「愛」がどうなるか、「自尊心」がどうなるかという観念も、意識の前面には見えなくなっています。

しかし、人がある理想を損なった姿である時、それをことさら怒る必要は、論理的には全くないはずです。少なくともそれによって自分が何の直接の危害をこうむらない限りは。そして実際怒ったところで何も向上しないのであれば。
しかし、人々はまるで惹きつけられるように、「理想を損なった姿」に目を向けます。そして、怒るのです。

その感情の水面下をじっと見つめると、そこに、愛されない悲しみから変化した怒りと、自らの幸福への願いを全てその「人間の価値の基準」に賭け、その姿通りになれば世界が自分を幸せにしてくれるはずだという、出生の来歴における挫折を見返そうとした情念が透けて見えるように感じます。

そんな中で、人間の望みの象徴である「人間の価値」が、その価値意識を抱くことにおいて自分が何ものかでいるという感覚と、悪しきものを破壊すれば良くなるという幻想が結びついた、究極的な人間の業の感覚が、もはや単独感覚化したのでしょう。

それが心の骨の髄にまで染みつきながら、暴走を始めるわけです。「人間の理想価値」イメージだけがその融通の利かない絶対性を帯びながら成長する中で、それに満たないもの全てへの破壊の怒りが自動的に起きるという強力な心の歯車の誕生です。
当然それは自分自身にも向けられることになります。「自己嫌悪感情」です。
これはまさに人間の心の悲劇とも言える業のように思われます。

話を、この不実を自覚し脱却するための視点へと移しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-130:「未知」への意志と信仰-22 / しまの
No.1383 2007/11/26(Mon) 18:49:45

■「自立」を置き去りにした幻想世界

ハイブリッド取り組みの「中期」としては、「魂感性土台の体験」を足場にして、「成長」の根底軸である「自立」へと向う歩みが、やがて「治癒」の根底軸である「空想から現実へ」という転換へと向います。これが成されるのが「否定価値の放棄」です。
この2つの根底軸をつなげるものを整理しましょう。

これはずばり、「自立」という全ての生きるものの摂理命題を置き去りにした心に現れた幻想世界、という話になります。
「自立」という命題を置き去りにしたまま、庇護の下にあった世界の論理を、自立していくはずの世界に向う論理として抱くようになった。
そこに、この人間の心に、「自立」未満の世界にあった論理を映した、幻想の世界が現れていることになります。
「中期」の実践として説明した、「健康な心の世界」を念頭にした思考法行動法は、この内面の幻想世界とはいったん切り離して、外面現実に向う思考法行動法を考えましょう、という話でした。

「自立」を置き去りにした内面の幻想世界と、なんとか「自立」していく「現実世界」という外面。この2つの世界を同時に見据えた時、「否定価値の放棄」を成立させる、極めて重大な心の選択が成される、と考えています。


■3つの土台幻想と1つの究極幻想

この「自立」を置き去りにした幻想世界を、3つの「土台幻想」1つの「究極幻想」という構図で捉えたいと思っています。つごう、4つの幻想からなることになります。
3つの「土台幻想」とは、「庇護幻想「破壊幻想」「自分幻想」です。
1つの「究極幻想」とは、「人間の価値基準を知る」ことにおける「絶対性」の幻想です。これがまさに自己操縦心性を発動させたものの正体であり、「否定価値の放棄」はこれを捨て去ることで成されます。

1)庇護幻想

「庇護幻想」とは、自分が何かの庇護の下にあるという幻想です。

この庇護を用意するために、自分を見る「目」が向けられているという感覚を伴います。これは「人の目」さらに「神の目」というイメージになります。
「善悪」はこの「庇護幻想」ととても強い結びつきがあります。「善」であれば、その庇護が与えられます。「悪」であれば、剥奪されます。

これは3つの土台幻想の中においても最初に位置づけられる、基本的な土台です。「自立」が置き去りにされることの直接的な結果と思われるからです。
そして人間の不完全性は、完全な自立というものがなく、最後には「神への委ね」なりの庇護幻想が、むしろ健康形でもある得るものとして脳にプログラムされていると考えるわけです。
この人間の不完全性が、この後の心を病む方向での幻想への基本的な通り道を用意しているとも言えるでしょう。それだけ、次の幻想、特に最後の「究極幻想」が、人間の一つの業になったという印象を感じます。

2)破壊幻想

「破壊幻想」とは、「怒り」「破壊」が解決になるという幻想です。

これは2つの位置づけがあります。一つは、行動様式としての「破壊」を過大視するという、人間の基本的な愚かさから生まれます。
これを端的に表現したストーリーが『デス・ノート』だと言えるでしょう。まだ見てないんだけど^^; 悪人を抹消していけば世界は理想的になるという発想。しかし現実にこの発想をする者ができるのは、新たな殺人を増やすだけのことでしかありません。

もう一つは心を病むメカニズムにおいて、「荒廃化」を背景にして「破壊」が実に強力な解決策としての価値を帯びてしまいます。
それは他人を打ち負かすという勝利での、「自尊心」の供給源になります。
そして荒廃した心においては、「破壊」が「愛」と化すわけです。この最も原初的な姿は、愛されない悲しみが怒りに変わった猫の話や、愛されない怒りの中にいる幼い子供が癇癪を起し、泣きながらものを壊しつづけるような姿に示されます。

「一体化の愛」への絶望が強固であればあるほど、「愛」対等な一体化ではなく、力づくで得るものと化し、愛されない屈辱が激しいほど、相手もしくは自分を傷つけ破壊することが「愛」を意味するという要素を帯びてきます。
愛されない怒りを直接相手にぶつけることが「愛」であり、自分を傷つけ、自分を見る「目」に罪悪感を抱かせることが「愛」になるのです。
これは基本的に自立が停止され庇護の中にあるという文脈で起きることです。

かくして、相手を怒り破壊することが、「愛」と「自尊心」の「統合された」解決策になるという、人間の心の業の大きな一面が生まれます。

3)自分幻想

「自分幻想」とは、「これが自分だと感じられる空想」を自分そのものだと感じる幻想です。

ハイブリッド理論をじっくり読んできた方なら、これが感情の膿が人格に組み込まれることで起きる「現実離断」において、つまり「現実覚醒レベル」が基本的に低下した意識状態の中で、「自己像固執」という意識状態として起きるものであることを、容易に理解できると思います。
(自己像固執については2006/03/14「自己操縦心性の成り立ち-45:現実離断とは何か-14」など参照)

まあそんな難解なメカニズムがどの程度入り込むかはケースバイケースとしても、人間の不完全性ということでもはや何人たりとも免れないのが、人にどう見られるかの空想に対応した自己像というものです。
結局我々人間は他人との関係の中で生きているのであり、その中で自己の重心を損なった程度に応じて、人にどう見られるかによって自分の感情が変化してしまいます。そして「こんな感情を抱く自分」というのがやはり自己像の一部でもあることにおいて、人にどう見られるかの期待や空想に対応して、「自分はこんな人間だ」と感じる「自分」そのものが変化してしまいます。

これを問題視してどうにかしようと考えることは不毛です。これは人間の本質的な一側面なのです。
問題は、人にどう見られるかが自己像の一部になるという正の側面ではなく、その裏に、根本的な自己否定があり、これをそれで塗り消そうとして、「現実の自分」というものを見ることができなくなるという、負の側面の存在です。


この負の側面を持たない状態とは、魂の感情で生き、自己評価は人の目イメージよりも客観的な実績で行うというものです。
しかしこれだけで生きる完璧人間とは、むしろ「成長」というものを全くとっぱらって最初から完璧な姿で生まれるという化け物です。
健全な姿は、「これができれば人にこう見られる」といった「空想」を本質的一面とする「望み」に向って現実の行動へと向う中で、身をもって自分の現実というものを知りながら豊かにしていくという成長のサイクルです。
問題は、これを止めるものは何かということです。


次の「究極幻想」がその答えになります。それによって、身をもって自分の現実を知り豊かにしていくことをやめる「不実と傲慢」に陥りながら、意識の表面においては自己嫌悪感情と怒りばかりが膨張していく結果が、それによって生み出されます。
この究極幻想のメカニズムとそこからの脱出である「否定価値の放棄」について、説明を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-129:「未知」への意志と信仰-21 / しまの
No.1382 2007/11/26(Mon) 11:59:03

先のカキコに続けて書き始めていたものの、う〜んこれじゃ話がつながらんということでまた整理に数日を要した次第^^;


■「治癒と成長」における「否定価値の放棄」の位置づけ

ということで3日間ほどプリント裏紙のメモを何枚も書きながら結論として見えてきたことは、ハイブリッドの道のりにおける「治癒と成長」の根底軸における「否定価値の放棄」の位置づけです。

「魂感性土台の体験」を足場にして進む「中期」の取り組みは、まずは「自立」という、「成長」における最大摂理と呼んでいるものに沿った、実践の洗練を主眼にするというところまで来ました。
それは自分の脳の中に全く別世界の心の基盤があるという体験的実感を踏まえて、「人の目イメージ」を前に翻弄される自分の今までの感情と自動思考とは、全く異なる思考法行動法を探っていく取り組みです。これは一言でいえば「健康な心の世界」そして「健康な心の人」を目指すことを動機として進むのが良いということになります。

「健康な心の世界」とは、「人の目感情」を向け合わない世界だと書きました。「人の目感情」とは「人の目」というイメージを前提にして飛び交わされる感情です。対照となる「魂の感情」「人の目」を全く前提にすることなく「この感情において生きる」と感じることのできる感情であるのと、全く対照的な、自己の重心を失った感情です。
そうした「人の目感情」は、人に向けない。また向けられても反応しない。自分が「どう見られるか」には心を惑わさずに、「生み出すもの」に意識を向け、それにおいて人とのつながりを持っていく世界です。

それが「心の自立」でもあるわけです。「自ら守る」「自ら与える」そして「自ら愛する」へと。
そして「弱さを認める強さ」を目指す先に、やがて相手の中に弱さを見て、それを思いやれる「愛」が芽生えてくることあたりをもって、「愛における自立」がひとまずできた段階だろうという話をしました。
その次に、「否定価値の放棄」が来ると。その「弱さに向けられる愛」によって「不完全性の受容」ができるのだと。

しかしこの話では不十分さが残ります。これらの流れは主に「成長」の側面を述べたものであり、その先にある「否定価値の放棄」とは、最大の妨げが解決解消する転機になるものだからです。つまり上記の「成長」を妨げる最大の問題が、上記の「成長」の先に解決解消する時が訪れるという話です。
これは一見話が矛盾します。

まあこれは「治癒」と「成長」のどっちが先かという、いたちごっこの話でもあります。実際このいたちごっこがあるので、成長に向けないと治癒が起きず、成長ができないとい悪循環と、その逆である好循環というのが基本的に底流にあります。
むしろより正確には、「成長」に完成はないという「終わりなき向上」という視点から、「成長」が常に不完全なものであるという視点を持つのが正解のように思われます。つまり、「成長」を目指す心の動きが「治癒」を生み、それが「成長」を前進させると。当然、ここでさらなる「成長」を目指すことが、さらなる「治癒」を生むという、終わりのないサイクルが考えられるということになります。

こうした終わりなきスパイラルでの治癒と成長として、最小の単位としては、「次はこんなことしてみよう」今までの自分を超えるものを目指す思考法をして、そして実際にその行動に出る体験の中で多少の感情動揺を経る治癒が起き、そして「未知の増大」を得てさらに思考法が変化していくという成長が起きる、というものを考えることができます。

一方、このスパイラル向上の全体を一つの大きな変化過程で見た時、「成長を目指し治癒が起き成長が進む」という流れにおいて、「否定価値の放棄」最大の治癒節目になる形で、前期−中期−後期という流れになると考えることができるように思われます。

「最大の治癒節目」であるとは、事実、心を病むメカニズムの中に起きた決定打、「自己操縦心性の発動」が思春期に起きたであろうことを逆へと戻すという大きな転換が、「否定価値の放棄」で起きるということです。
ここに、ハイブリッドの「障害メカニズム−治癒メカニズム」という話としても一貫とした完結にできるものであろうと、今回整理するに至った次第です。


■「心の自立」への成長を妨げる「空想を生きる生」からの脱出へ

具体的な話としては、上記の「心の自立」への「成長」という視点では不十分だといったものを埋める話です。

「人の目イメージ」そしてそれを引き金に動く「人の目感情」「心の自立」を妨げるものとして、どんな妨げなのかの先の話があり、今までの話としてはそれが「人間の価値」を問う中にあるものだという話でした。
なぜそんなことが起きたのかの起源を探る中で、「」「善悪」「愛されるべき思考」などが出たわけです。

その先に、「人間の価値基準」への「絶対的確信」とも言える人間の観念が存在します。「否定価値の放棄」とは、それを捨てるものです。
これは同時に、「空想を生きる生」という、自己操縦心性がもたらした基本的な存在様式からの脱却でもあります。

つまり、「魂完成土台の体験」を足場に、全く別世界の「健康な心の世界」への「心の自立」を目指すというのがまずある。それは外面での思考法行動法について「弱さを認める強さ」という視点を中心に学ぶ。

一方、内面向けには、それを妨げた「人の目感性土台」の根底にあった自分自身の「空想を生きる生」の本質を理解するという感情分析が実践となります。
まあとにかく、外面においては建設的であること、内面においては感情の開放自己理解という、最初からの基本枠の一貫ですね。
こうした外面と内面への切り離された実践において、この先にそれがクロスするのが「否定価値の放棄」ということになります。

この最後の部分がまだつながっていないのを埋める話を、具体的にしていきます。


心理学本下巻に向けての考察-128:「未知」への意志と信仰-20 / しまの
No.1381 2007/11/22(Thu) 21:30:15

■3つの脱出ポイント

「3つの脱出ポイント」とは、結局のところ根本変化への転換がどこにあるのか、という話です。
感情と行動の分離」に始まる「前期」、そして「心の自立」という視点で前進する「中期」として説明したのは、「実践」であり、トンネルを掘るためのつるはしやスコップという道具とその使い方の技術の話です。それはそうとして、では今目の前にある、「心を病むメカニズム」という錯綜した岩脈と土壁のどこに、向こうに通じる穴が掘れるのか

これはもう難解な話はなしです。実感的な話です。ただそこに突入すれば、根本変化へ通じる道が掘り進み始めます。
またこれは、ハイブリッド取り組み自体が得てして「人の目の中でこんな人間に」という動機の中で進められ、まるでその期待とは違う方向に必然的に行くことになる中で、「もうどうしていいか分からない!」とサジを投げるような状況でまさに見えるものになります。

それが、人生をかけた転換への3つの入り口になるわけです。あとはそれを好むかどうかの選択が現れることになります。ハイブリッドの細かい説明は、それを支えるものであるに過ぎません。また相互に掛け合わせが出てくるのが複雑なだけです。
」「自尊心」「苦しみと恐怖」にそれぞれ次の転換

「愛」においては、幼少期において「生からの拒絶」を受けた悲しみと嘆きを、そのまま開放し流すことです。怒りは行動化せず、ただ見つめることです。これを通ることなしに「愛」の変化を考えることは不毛です。
これは「開放」という、自然治癒力自然成長力への触媒です。

「自尊心」においては、自分を脅かすものへの反撃攻撃ではなく、できるだけそれには反応せずに、「現実において生み出す」ことに生き、その中に自尊心を見出すことです。
これは「成長」基本方向性です。

「苦しみと恐怖」においては、自分を本当に脅かしてるいるものは何かを見極めることです。それは間違いなく自分自身です。間違いなくというか、その事実が見れるようになるための手助けをハイブリッドは提供するわけです。
自分を本当に脅かしているのは自分自身であれば、もう自分で立ち上がってその脅威と戦うしかありません。
これは「自立」という根底命題です。


今まで「根本変化」どんなものかという話は結構してきたと思いますが、その結果イメージ取り組み実践の話がちょっと離れており、いたずらに根本変化の結果ばかりを追う轍がありがちですが、この3つが入り口という話は分かりやすい整理だと思いますね。
結局この3つを通らないと、変化が起きない。

なぜそうなのかというメカニズム、どのようにしてという実践、実際これが起きる前後状況といった諸々はさんざん書いてきたのでここでは省略。あとは本の方で全体整理します。

こうした根本変化の入り口の先に、「否定価値の放棄」でテーマになる一連の論理転換があるということになります。
何とか最終結論を出せるかと。それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-127:「未知」への意志と信仰-19 / しまの
No.1380 2007/11/21(Wed) 23:40:11

ハイブリッド理論最終構図をざっと説明するのと、説明未了の解説。


■「魂の挫折」が見えなくなり現れた「存在への否定攻撃」世界

まずハイブリッドが何を問題として取り上げるのかと言うと、「魂」が受けた「生からの拒絶」という、幼少期の根源から始まる諸々の心の問題です。
一体化の愛」を願って生まれた魂は、「生からの拒絶」を受け、悲しみと嘆きと怒りを抱きます。同時に、根源的自己否定感情感情の膿が、もはや意識がそれに触れることから逃げるしかない、自らの中に抱える本当の脅威として心の底に植え付けられたわけです。

しかしもの心ついた学童期になった時、それはもう見えなくなり、それが起きたということさえ分からなくなっているような心の平静が、「魂の挫折」とはまるでつながりのない形で現れます。
その代わりに、もの心ついた幼い「心」は、この世界には何か「人間の価値基準」があり、それに劣った時「存在への軽蔑と怒り」が向けられるのだと解釈する意識を抱きます。一方その「人間の価値基準」を満たした時「存在への賞賛と愛情」が向けられるのだ、と。

「愛されない屈辱」の度合いに応じて、この子供の心に、自分がこうむった苦しみを他に与えることに快を感じる「荒廃化」が起きていることが考えられます。理想通りになることをしくじって、「存在への軽蔑と怒り」を向けられる他者を見ると、「いい気味だ」と感じます。自分にそれが向けられるのは恥辱です。

全てがここでもうすでに始まっています。
この世界「存在への否定攻撃」が向けられるか、「存在への許し」が向けられるかの戦争の世界です。自分より劣った者に「存在への否定攻撃」を向けることのできる力を目指します。しかしこれを目指した者は、それを必ず自分自身に向けるように定められているのです。

回りの人間からは、この子供が心を病み始めているとは分からないまま、見えるのは、「理想をめぐる賞賛と軽蔑」という人間にとりごく自然なテーマへの、健康な心の過程にある者と、病んだ心の過程にある者との、大きな違いです。
前者は理想に近づくことを、向上への努力として楽しむのですが、後者は、まるで絞首刑への審判を受けることであるかのように、ストレスを感じ、それに耐えられずに自らそれを放棄してしまいがちです。そして理想に近づくことのできない自分に、世界から「存在への軽蔑と怒り」が向けられてくると感じます。

なぜこんな違いが出てくるのか、本人は最初は「性格」の違いだと考えます。そしてそんなマイナス性格になったのは、親に愛されず否定されて育ったからだ、と親と世界を憎むようになってきます。しばしば世の心理学が、「悪いのは親」と、この憎しみを支持するかのようなありさまです。


■「愛されるべき・はず」の破綻とターニング・ポイント

「愛されるべき」「愛されるはず」という絶対思考メカニズムを、この「存在への否定攻撃世界」という意識枠で説明します。
障害メカニズムの話は手短にして、話をすぐ解決への方向性へと移しましょう。

「愛されるべき」だと感じるのは、まさに「愛」を気高いものとして求める気持ちにおいて、「愛されるべき」だと感じるというメカニズムになるようです。
これは一面では真理に基づいています。確かに「愛」はそれを求めるもの同士の間において基本的に生まれるからです。
しかしそこに「べき」という絶対性が加わった時、どこかにズレが起きています。愛を願って得られなかったこの世界において欠いているものを、この自分が求めている。そこにおいて、愛を求める自分はそれを求めない他人よりも気高い存在なのだと感じます。だから、他人は自分を気高い存在として、賞賛し、愛するべきなのです。

そして人との信頼関係への「気高い意志」を自分が持てていると感じた時、それによって自分が「愛されるはず」だという空想が描かれます。確かにそれによって人に近づくことが可能になるという面もあります。
しかし期待したような暖かい反応が人から返ってきない時、「なぜ愛されないんだ!?」と、得体の知れない悪意に出会ったかのような感覚に襲われるわけです。それは自分に、人から愛されるに値しない根本的欠損があるという不安を、相手が悪意で突いてきたのを見るかのようです。

もしこれが相手の悪意ではないとしたら、自分が何か間違いを犯したということになります。それともやはり相手にひどい悪意があるのか。
自分への相手の態度にあからさまな拒絶や軽蔑が含まれていた場合、それは自分に対し「存在の消滅」を命じる声であるかのように意識にまとわりついてくるかもしれません。それは自分の存在にかかわります。自分を守るためには、逆にその声の主を消滅させなければならない。そうして世の中で心の荒廃を示す事件が表面化します。

そこまで破壊的事態に陥らなくとも、やがて「不信」という冷めた感情の中に落ち着くかも知れません。信じられないのが他人であるにせよ、それとも自分の中に根本的に人に嫌われるものがあるにせよ、自分から愛さなければこんな嫌なことを味あわずに済む。「もう愛さなければいいんだ」と。

もう少し穏やかな心境としてであれば、自分が思う通りに愛されないのは、精神性が低く粗野な他人のせいになのだと自分を納得させるように考えるかも知れません。
そして「相手に多くを求め過ぎないことだ」という、これまた真理でもある結論へと落ち着くかも知れません。人は人、自分は自分。
確かにそれはその通りです。

かくして、問題が何なのかが見えなくなります。
何も問題はなかったかのように他人との適切な距離を保つという、健康な心の成長と外見は似たまま、失われたものが何なのかはもう自分でもよく分かりません。それを再び蒸し返そうとしてもまた苦しくなるだけのように見えます。
これが人生なのだ。現実などというものは、どうせこんなものなのだ。


■「否定価値の放棄」へ

全ては、この世界に「人間の価値基準」というものがあり、それに劣ったものには「存在への怒り」が向けられるのがルールなのだと解釈する中で、「生からの拒絶」を受けた魂の悲しみと嘆きと怒りを飲み込み、何もなかったかのような平静を作った時に、起きていたのです。

その中で、自分が求めた愛を気高いものだと考え、自分は良い者として愛されると共に、あるべき愛を損なったような悪を決して許すまいと考えた、実に自然で健気な幼い意志の中で、愛を損なった大人たちとまるで同じように、彼彼女の中で自然な愛が失われます。
空想の中で、こうであれば愛されるという「愛される資格」絶対性を帯びるごとに、彼彼女の心の中で何か重要なものが損なわれているのです。

やがて彼彼女は空想の中で抱いた「愛される資格」を基準にしてものごとを考え始めるようになります。まず目に入るのは自分のことよりも、その基準を損なった他人が人に怒りを向けられる場面かも知れません。
自分の空想した「愛される資格」を確かめることででもあるかのように。いい気味だ..この悪魔のような感情が自分の中に流れていることに、最初は気づかないままかも知れません。自分はあんな目に合わないようにしよう。自分はちゃんと知っている。自分は愛されるはずだ。

ところが「現実」はそうはいきません。「愛への良い意志」を持つ自分を愛さないという「悪」に出会うのです。悪意によって「存在の否定」を向けられたのだとそれを見ます。その悪意を決して許すわけにはいかない。存在が否定されるべきは、向こうだ。
自分のこの怒りに対して、人から嫌悪の目が向けられのも感じます。誰よりも良い意志の持ち主であるはずの自分が、現実にできていることは、怒りの苦い空気を発散しているだけ..。悪いのは相手なのか、自分なのか、よく分からなくなってきます。

一体何が「悪い」のか、と考えるかも知れません。自分はこんなに一生懸命、悪いことをやめ、良くなろうとしているのに。

まさにその姿勢が問題を引き起こしているわけです。善と悪を区別し、悪を否定することによって善になろうとする姿勢が。
悪を否定することによって善になれる。これは実に「不実」な錯覚であり、大きな勘違いです。この「否定できることに価値がある」と感じる感性を、「否定価値感覚」とハイブリッドでは呼んでいます。

否定するというナイマス性「悪い」のでしょか。
ループしていますね^^; 否定することが問題だと否定するよりも、本質はもっと深いところにあるようです。
否定することが問題なのではなく、その裏で失われているものが問題です。

何が失われているのかがしっかりと見えた時に、「否定価値の放棄」が見出されると言えるでしょう。
「3つの脱出ポイント」は、否定価値感覚の裏で失われたものを回復する進路だと言えます。それを失う代償として選択した「否定価値感覚」が、実はそれに見合う価値を何らもたらしていないことをはっきりと自覚した時、「否定価値の放棄」はもはや頭で考える思考としてではなく、全人格的な直感として生まれるのではないかと思われます。

「3つの脱出ポイント」について次に。


心理学本下巻に向けての考察-126:「未知」への意志と信仰-18 / しまの
No.1379 2007/11/21(Wed) 11:27:16

■終章-7:ハイブリッド最終理論(^^:)

人間の思考型を一通り整理したところで、「魂と心の分離」という根源メカニズムから再度全てを整理ということで、また1日半ほど時間を食いましたが、今度こそ(^^;)下巻のベースにできる理論図式を出せるのではないかと期待。

ちょー大局的に言うと、「魂と心の分離」(「心と」..とどっちに言葉統一するか課題ですが..^^;)に始まる心を病むメカニズムがあり、そこにおいて3つの脱出ポイントがまず出てくると言う構図を考えています。
その3つの脱出ポイントが合流するところに、「否定価値の放棄」が来る。ここまでが「中期」であり、その先は「後期」として「魂の望みへの歩み」となり、最終解決である「原罪への向き合いと許し」の先にまっさらな未知が現れる、という全体構図になります。

1)「中期」まで

これはまるで目の前の大きな山肌を前に、この山の向こうにある光溢れる世界への歩みとしてイメージされます。まず掘り進めるポイントが3つだけある。それ以外はどう掘りんでも、迷路のように戻ってきてしまう。3つだけ、掘り進める。
それらは最初相互に全くつながりがないが、断片的に掘り進むうちに、相互に掘り進んだ分が磁石で引き合うように、さらに前進できるようになってくる。
そして3つの進路が合流するところが現れるわけです。

3つの進路とは「愛」「自尊心」「恐怖と苦しみ」における脱出ポイントです。スコップを当てるポイントは「開放」「生み出すこと」「正体を知る」と言えるでしょう。掘り進むベクトルは、「心の自立」です。

3つの進路が合流した時、この進む道が何なのかという、もう一つの合流したベクトルが見出されます。それは「不実と傲慢」から「真摯と堅実」へです。これが、心を病むメカニズムを全てその上に維持させていた、「空想への立脚」を捨て去ることとして、「不完全性の受容」として「否定価値の放棄」が成されます。

2)「後期」から

これは出生の来歴において挫折し置き去りにされていた魂という構図を回復させ、「人の目」の重みを凌駕する「魂の望み」を湧き出させ始める一方、魂がその望みに近いづいた時初めて、置き去りにしたままの挫折の正体が露わになります。
これは「魂」の危機を意味します。しかし「心」はそれを救う力をもうこの時得ています。「心」が全ての善悪観念を放棄し、その判断を「未知」に委ねることにおいて、「生からの拒絶」に怯える「魂」を救うのです。この姿勢を「未知への信仰」と呼びたいと思います。
そうして魂がありのままに「原罪」に向き合う中で、魂の挫折は看取られ、荒廃の浄化を経て豊かさを得たまっさらな魂の感情が現れます。

最終的に見出されるのは、「魂」の世界の豊かさです。それが「心」に「命」を与える一方、その先はただ「未知」となり、他方で「心」はこの「現実世界」を生きる。この2つの世界を持つ自己の構図において、自己は魂の望みを果たすために現実世界を生きる存在であることが見出されてきます。
でも魂は自己ではありません。これは自己が自己の望みを叶えるために生きるというよりも、別の存在のために生きている、「自分」というもの自体が一つの「かりもの」なのだという感覚さえ生み出すようです。

しかしそうであれば、もはや何も恐れる必要もなく、望みを満たさなければと躍起になる必要さえなくなってくるということであり、実に平安で充実した心でいることが可能になるようです。自分は自分の望みを叶えるためというより、未知の魂という他のもののために生きることにおいて、叶えられる必要もなく満たされてくるということです。
これが、人間が太古から自らの不完全性と共に生きる中で得て、そしてDNAに刻んだことでなかったかと、ハイブリッドとしては考えるわけです。

以下、この全体を、「愛されるべき」思考など説明未了のものも含め手短に説明し、考察シリーズを締めようかと。


心理学本下巻に向けての考察-125:「未知」への意志と信仰-17 / しまの
No.1378 2007/11/19(Mon) 13:48:19

■破綻の始まり 「愛されるべき」

「愛されなければならない」という切羽つまった感情がやがて破綻を向かえるよりもずっと以前に、「破綻の始まり」はこの本人が全く自覚することもないまま、その思考の中に明瞭に始まっていたことが考えられます。
それはまず「愛されるべき」という観念であったろうと思われます。

確かに、愛されることは人間にとってとても心地良いことです。自分が愛情を得ていると感じることそのものにおける気分の良さもさることながら、愛されることの副次的な報酬(?^^;)として、人はかなり沢山の利益を得るわけです。文字通りそれは金銭経済的な利益であったり、性愛の満足であったり、その他相手が直接自分に与えてくれる生活や楽しみ事における便宜なり、さらに相手の魅力に応じて、その相手との関係を持つ自分へのプライドなどです。
これらを含め、相手が自分に感じさせる外面内面で魅力を感じるものを、「愛される」ことによって自分が得ることができる。それはそうした存在としての相手そのものを「所有する」というニュアンスもある満足感を与えてくれるかも知れません。

ですから、「愛されたい」と思うのは実に自然な話です。


■「愛の成立」の健全形

ただし現実というものは、そうは簡単に問屋が卸すものではありません。基本的に言って、人は「愛されたい」と思う欲求によって愛されるのではあまりないわけです。

自分が誰かに愛されたいと思うのと同じように、自分が相手からも「この人に愛されたい」と思われるような魅力や価値を持つ人間であることにおいて、そしてさらに重要なこととして、「愛されたい」という感情とは別の感情としての、自分から相手を「愛する」という感情を抱けることによって、人は相手に愛されるようになるのです。これが最も自然に、愛し愛されることつまり「相思相愛」が成立する姿です。

多少話が膨らみますが、愛は「成立」から「成熟」へとその成り立ち内容をかなり変化させることも理解しておくことができます。ただしまあハイブリッドで主に取り組み課題とするのは愛の成立までの困苦や障害の克復であって、掛け値なしに成立できた愛のその先については、もう他の心理学なり文芸なりにお任せの気分。
それでもその基本的な変化を言うならば、「成立」においては内面外面なりのはっきりした価値魅力に惹かれ合ってという引き金があり、一方その後愛は育み成熟することによって、間違いなく、相手がその相手であることにおいて「無条件」のものへと変化するはずです。

実際、最初の「成立」の時の価値魅力間違いなくその後枯れる運命にあります。しかし同時に、人の心の中で、成立した愛を生きることにより、「無条件の愛」を抱く能力も、その愛の質に応じて成長を始める。その結果、この人間は相手の価値魅力に関係なしに無条件に人を愛する感情を持つようになり、その最も強いものは、まさにその感情を彼彼女に芽生えさせた相手である他方へと向けられる、というメカニズムが感じられます。

こうした「愛の成熟」メカニズムは、案外、「愛の成立」段階においてすでに作用するものであり、安定した恋人関係や結婚といった外面的な絆の成立の段階で、一方が他方に一方的に感じさせる価値魅力は重みを減らしていることも考えられます。
つまり、相手がその相手であることにおいて、それだけで自分から相手を愛するという感情の共鳴が、最後には決め手になるのではないかということです。


■特定相手への「自分から愛する」とは

これはなかなか敷居が高い話であり、まず大抵の人は、その中の一部を損なっている状況から始まります。
多くの場合、「自分から相手を愛する感情」をなかなか持てません。

「自ら愛することのできる人」という話をしました。それは「愛を願う気持ちが自分の中にあることをはっきりと認めることのできる人」であり、自らの「愛」に嘘をつかない人だと。(11/4 心理学本下巻に向けての考察-103:「心」と「魂」の原点へ-12)

これがさらに特定の相手に関して「自分から愛する感情」であるとは、
1)自分が相手の何にどのくらい価値魅力を感じているか。
2)相手に実際どのくらい近づけることを望んでいるのか。一方的な憧れで満足できる話なのか、少しでもお近づきになれれば嬉しい程度の話か。それとも互いを最も大切な相手とするカップルになりたいのか。
3)そのような相手との関係の中で、実際自分は相手と一緒に何をしたいのか。趣味活動やデートを楽しめればいいのか。生活を共にしたいのか。子供を産み育てたいのか。どれもかなり話が違ってきます。
これらを自分自身ではっきりと感じ取れることを言います。

最も堅実に他者との愛情関係が築かれるのは、上記2)3)が互いに共通一致した場合です。
つまり、互いに相手とどれだけ近いづきたいのかの気持ちが一致し、かつそのように近づいた上で、一緒に何をしたいのかも一致する場合です。

これは別の表現をすれば、現実の関係というのは、互いを愛する気持ち、互いに近づきたいという気持ちだけでは成立持続しない面が多々あるということです。
かくして相思相愛のように始まりながらも、すれちがいというのが実に多くなる。これはもう人間という動物がそうなっている、さらに現代社会では、一昔前のように「家庭」ありきで生活が維持される時代ではなく、一人でも十分に快適な生活が送れる可能性のある時代です。「愛し合っていれば一緒に暮らすもんだ」という固定観念はもうあまり意味を持たない、多種多様な生活スタイルの時代であり、その中で各人が自分の人生の最適解を探求し続ければいい。

人は愛のみによって生きるのではない」というのも事実です。「愛とは別」の人生領域にも目を向けることがとても大切です。
それが、「愛だけ」ではどうしても不安定になる愛情関係を育てる上での、良い下支えになるわけです。
愛だけに見入ると、逆に愛は見えなくなる。愛だけに見入ることなく、人生と社会の全体を見る。一方で、求める愛があるのであれば、それに背を向けることなく真正面から向き合うことです。
この両面を探求し続けた先に、やがて、「生きる」ことそのものが「愛する」ことなのだということが見えてくる、心の成長がある。これがハイブリッドの見出した最終的な方向性だといういことになります。

「否定価値の放棄」によって、揺らぎなくその方向性への歩みが始まるのが、「後期」だということになります。


■「自分から愛する」ことにおける不完全性

上述のような方向性妨げるものを見ていきましょう。

まず、心の未熟段階、さらにはその先においてもこの方向性における完全な達成というものは考えにくい、人間の不完全性があります。
これは「妨げ」ですらありません。むしろこの未熟性や不完全性を受け入れられない時、そこに「生きることは愛する」ことを根本的に見えなくする、自ら愛を破壊する「自己破壊」が生まれてくるように感じます。

この未熟性不完全性とは、「自分から愛する」ことの前に「どう愛されるか」が先に意識の制御権を持ってしまうような心の状態です。
これは当然、空想と現実が混沌とした事態の中で進みます。自分が相手にどう愛されるかのイメージや、それを示す実に些細な出来事によって、相手に対する自分の感情がまるで別人に対するものであるかのように動揺してしまう。これは苦しいことです。なぜならその中でおうおうにして、今まで触れることを避けていたような、心の底の情念の膿のようなものに触れることになってくるからです。

そうして愛を得たい相手から自分がどう愛されるかのイメージによって湧き起る、自分の心の底の情念の膿のようなものも含めた感情動揺に対して、どのような向き合い方をするかが、この人間が心の成長を成すか、それとも自ら愛と人生を見失っていくかが、分かれることになります。
向き合い方の構成要因とは、ハイブリッド取り組みの全てです。外面においては怒りに頼らない思考法行動法を実践し、内面においては、そうした行動でも愛が得られないことへの自分の感情にありのままに向き合い、心理学の助けを借りて、自分の心に何が起きているのかを理解することです。そして心には「自立」という課題がDNAのレベルで刻まれており、形を取りえない「愛への願い」においてはそれに身を委ね看取るだけができることであることを知ることです。

その時、心には「未知」の変化が起きています。その「未知」の自分に立って、相手との関係に再び目を向けてみるのがいいでしょう。その時、もはや以前の自分とは別の自分としてそれを見ることのできる自分を見出すはずです。


■「自ら愛する」ことの「不完全性の受容」の先にある「自ら愛せる」成長

「どう愛されるか」に揺れる感情、つまりこれは「人の目感性土台」であり「自己操縦心性」でもあるのですが、この状態の存在「妨げ」ではありません。この人間の業とも言える不完全性を持ちながら、この状態を受け入れることができず、そんな未熟性や不完全性など自分は持たないと主張するかのような心の動きが、「妨げ」なのです。それは何かのシナリオを描き、それに沿わない他人や自分を破壊しようとします。

この破壊性をもはや意識コントロール不可能な形で組み込んだのが、「人の目感性土台」であり「自己操縦心性」です。
パラドックスです。まさに「人の目感性土台」と「自己操縦心性」が、「人の目感性土台」と「自己操縦心性」を軽蔑します。
この構造の最も根幹にある、破壊性の歯車への対処姿勢を確立するのが、「否定価値の放棄」だとも言えます。それは心の底から破壊衝動が都合良く消え去ってくれるのではなく、意識コントロールを外れて生じる破壊衝動に対抗し得る前進の方向性が、この人間の意識コントロールの嘘のない首座になるということです。

その妨げとなる、自らの未熟性不完全性を認めない心の動きと、その根底メカニズムを説明し、「否定価値の放棄」根本転換の本質説明を続けます。
妨げとして、「愛されるべき」思考から説明して行きます。


心理学本下巻に向けての考察-124:「未知」への意志と信仰-16 / しまの
No.1377 2007/11/18(Sun) 13:09:46

■終章-6:病理思考「愛されなければならない」「愛さなければいい」

人間の思考の形態を整理してきたわけですが、論理性を失った、何か絶対的な観念として、「非健全形」として「愛されれば」「べき・はず」がありました。前者は自立の喪失放棄、後者は一般的な論理ミスとして起き得ます。
そしてこの2つが合体した「愛されるべき」「愛されるはず」が、かなり明瞭に、「病んだ心」に特有の思考として浮かび上がってきます。

これをさらに、病んだ心に「特有に伴う」ことを越えて、病んだ心の「症状」そのものとして、「病理思考」として起きるものがあるように思われます。
まずそれは「愛されなければならない」です。これがこの人間の心を壊すかのような感情動揺を引き起こし、何とか沈静化した時、それは「愛さなければいい」という思考へと終るという流れがかなり典型的なものとして考えられます。

先のカキコでは「思考の病理」としてはっきり現れるのは「心理障害」段階ではなく「精神障害」段階だと述べましたが、この「愛されなければならない」と「愛さなければいい」は、「心理障害」段階でもおおいに現れるのみならず、比較的健全に見える一般の心の悩み段階でも十分に見られるものです。
しかしこれは病理です。なぜなら、これは「現実」ではないからです。もう完全に幻想の世界です。

その点で、この2思考、その中でも始点となる「愛されなければならない」は、心の健康から病理までも連綿とつらぬく、一本線の支柱のようになる病んだ思考だと言えるでしょう。

これらの思考に意識が占拠され、知性思考がそれを疑うことができなくなる度合いをもって、「病理の重篤度」と考えることができそうです。病理として深刻なほど、知性思考でもそれを疑うことができなくなります。
取り組み実践上は、この思考を疑い、それとは異なる「現実」をどのように考え理解することができるかが、基本的なステップになるでしょう。障害が深刻であるほど、この「現実からの乖離」が大きいので、それだけしっかり自分の思考を疑えることが重要になってくるのですが、障害が深刻であるほど、自分の思考を疑えないどころか逆に確信的になってきます。障害が軽く健全に近いほど、自分の思考を真剣に疑うようになってくるのです。これは皮肉で厄介な隘路です。

ただし自分の思考を疑えること以上に重要なのは、その先にある答えを理解することの方かも知れません。

これが下巻原稿の全ての結論とも言えるかも知れない重要な観点に近づいているいる話です。
全ては、人間が愛を望む気持ちが満たされ得るものと考えたところに始まっていたように思えてきている次第。愛が満たされるものだとし、そこから、どうすれば「愛される資格」が得られるのかと考えたところに、「不実と傲慢」が忍び込むというメカニズムになります。それがこの人間に、愛を完全に見失わせます。
答えは、愛を満たされ得るものとすることなく、それに向うことです。それにおいて、満たされるのです。全くのパラドックス。しかしこれが「魂と心の分離」という根源にぴったりと符号する答えなんですね。

順次、この病理思考答えの合間を埋めるものを説明していきます。


■「愛されなければならない」という意識破綻と心性崩壊

まず、「愛されなければならない」という思考がどのように病理かの説明。

実際この「愛されなければならない」が問題になる時は、思考として問題になるよりも、感情として問題になります。「愛されなければならない」という切迫した感情に駆られるわけです。
それに対して、「それは現実ではありません。愛されなければならないことなんてないんです」と説明したところで、あまり意味はありません。もともと思考論理が問題なのではなく、感情としてそうだということです。その感情を思考として表現すると、そうなるのです。

ですから、他人がどう「愛されなければならないことなんてないんですヨ!」と言ったところで、この人は自分が「愛されなければならない」と感じます。
それはまず恐怖のためです。人に否定され嫌われることへの恐怖が、まずあります。だから、愛されなければならない。

冷静な他人がその様子を見て、「別に愛されなければならないことなんてないんだけど」という時、この冷静な他人が見ている「現実」とは、この人が「愛されなければならない」というほとんどパニックに陥っている一方で、誰がどうその人を愛せばいいのかという話が、「現実」をどう見回してもない、ということです。
僕が愛せばいいのかな?それともA君かなBさんかな、と考えてあげることはできます。パニックを鎮めてあげるためにです。ただこれは本当に「愛する」こととは大分別のことです。

もし「愛されなければならない」という思考が特定の身近な相手に向うものである時、それはまあ大抵出来かけて壊れかけている関係でしょうが、この人の「愛されなければならない」と相手にしがみつくストレスはまさに、相手がこの人をとてもではないが愛せない、逆に自分を守るために離れる必要性を感じるという結果を招くものです。

こうした状況をこの人自身が視野に入れることは、基本的に「意識の破滅」を意味します。この「愛されなければならない」は、行き所がない情念として、宙に浮き、はじけ散り、後にはただ意識が崩壊した自己が残ります。

実はこれは「自己操縦心性の崩壊」として起きることそのものです。
ですから、心性崩壊治癒現象としてのそれと、悪化としての精神破綻と、一見して区別がつかない両刃の剣のような精神の峠だといえる状況があります。

ただし「治癒としての心性崩壊」と「悪化としての精神破綻」の
境目があります。
「悪化としての精神破綻」は、「愛されなければならない」が「どうにもならない」という意識破綻で終らせずに、「相手の悪意」としてこの事態を捉え始めた時、その先はもう「治癒としての心性崩壊」の意味は消え、あとは事態に任せた収拾もしくは現実的な破局をこうむるかという流れになります。


これが「愛されなければならない」という病理思考の流れの最終表面に見えることですね。
ではなぜこの「愛されなければならない」が生まれたのかの由来メカニズムと、それが生み出した必然的破綻構造を説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-123:「未知」への意志と信仰-15 / しまの
No.1376 2007/11/17(Sat) 19:08:18

■「法律」も「べき」もない人々

人間の思考型として最後の「べき・はず」という心を病むメカニズムの根核歯車を考察する前に、それを全く持たない人々というのを考えたいと思います。
ハイブリッドでは「べき」思考はまず法律などの「原理原則」思考に置き換えるのを推奨するとして、「法律」さえも持たずに生きている人々です。

これはまず現代文明社会では考えるのは難しく、未開部族の類になります。
首狩族人食い人種の話ではありません。アハハ。まあその言葉が浮かび、それもちょっと考慮すべきかと一瞬考え、ネットで見たりしたところ、良くわからん..というかそんな言葉があるのはやはりそうゆう民族がいたのも十分あり得ることでしょう。人間は他部族や他人種を自分と同じ人間と考えない思考の中で、結構残酷なことをしてきた歴史があります。近代戦争もその一つでしょう。

そうゆう話ではなく、今も生きている未開部族です。これはまず攻撃性の少ない人々だと僕は認識しています。なぜなら、攻撃性が高い場合は、対外接触が多い結果、未開部族の原形がとどまらなくなる。また対外接触が少なく内部での争いが多いと、その集団自体が消滅に向います。
ですから、今も未開部族として時おりドキュメンタリーなどで紹介される未開部族は、大抵、実に温和です。

記憶に残るのは、『たけしの万物創世記』だったか、「色」にとても敏感な人々の部族の話だったか。実に微妙な色の違いに別の言葉が用意されており、人々は自分のカラーを持っている。色への敏感さがどう関係するのかは分かりませんが、実に温和で感情豊かで、ちょっと狩りだか畑仕事だか、仕事を終えると大人が子供に混ざって日なが一日ワーワー遊んでいるという生活。
彼らは、時おりやってくる現代文明人を、ちょっと不思議そうに、自分達とはべつの動物というか人種と考え、自分達を呼ぶのとは別の言葉で指したとのです。

でその現代文明人を指す言葉の語源は、どうも「感情が乏しくワシら人間に満たない人間」というような意味だったという話だったような記憶があります。

これは先のカキコの冒頭でおさらいした、人間の思考の健全形でほぼ充足した姿のように感じます。
魂には善悪感情があり、本性的に開放されていれば自明論的な性善説的に機能する。あとは科学が未発達な中でも自分達の知恵で生き、自らの限界を超えたものを神に祈り神を敬って生きる。
ここには、「法律」もなければ、「べき」の思考もない「自然人」の姿があるのかも知れません。


■「善悪」の「感情」と「思考」

「べき」のない未開部族の話に触れたのは、「魂の善悪感情」は、明瞭に意識しなくても機能する、ということの確認です。

つまり、我々人間は、「魂」と「心」の区別は置いといても、「善悪」についての「感情」を持つということです。ハイブリッドではそれを「魂」起源だと考えるのですが、先にこれを「魂の善悪感覚」と呼びました。これはやはり「感覚」というより「善悪感情」ですね。「魂」は「感覚・観念・思考」といった細かい意識階層は持たないので。

そして、「魂の善悪感情」開放され機能している分においては、情緒豊かな未開部族の姿が示唆するように、それはあまり心で意識する必要もなく機能するものだということです。それは善悪そのものを意識した感情として機能するのではなく、行動を導く「望みの感情」がすでに善悪感情を含んでいるということです。

それとは異なり、明瞭に心で意識され、善悪そのものをことさらに意識した感情があります。これは「心」の側で展開されるものと考えていいかと。
「罪悪感」「正義感」です。後者はよく「義憤」の形を取ります。そして善悪をことさらに意識した感情と対応して、善悪を意識した思考が出てきます。それが「べき・はず」です。

これら「善悪感情」「善悪思考」そのものの発生自体は別に問題のあるものではなく、多種多様な人間から成る多種多様な集団内外での秩序と平和を守ろうと、それが大きく展開したのが人類文化の一面でもあります。
ただし、「罪悪感」「義憤」などは、それが強度持続性を増すごとに、心のバランスを崩し、心の健康を失っていくベクトルの影がちらつき始めます。

かくして、「善悪」についての感情と思考は、人間の心の健康にとってのいわば鬼門になってきたという、人間の脳と心の進化の歴史があったと言えるのではないかと。
大きくは社会統制の原理、そしてやはり宗教の中で、時には血を流す抗争の中で、人間にとっていかなる善悪の原理が利にかなっているかを淘汰する年月が費やされた。
社会統制原理としては、絶対君主制社会共産主義があり、やがて自由民主主義が人類をリードするようになった。そこでは感情や非科学観念から独立した、明文化された「法律」によって、「善悪」という原初的な概念そのものさえも用いない方向へと発展してきたわけです。

今ではもはや、「善悪思考」というものそのものの意義自体が、人の心の中で混乱を起こしているようなありさまです。
かくして、もう意識思考においては「善悪」を完全に放棄し「原理原則思考」に徹し、一方で「魂の感情」を開放しましょうというハイブリッド心理学なんてものを言い出す人間が現れた。僕ですけど^^;


■病んだ心独自の思考型:「愛されれば」と「べき・はず」の合成

戯言は置いといて(^^;)、問題を整理しましょう。
魂の本性的善悪感情」「心の論理思考」「神の観念と信仰」そして「善悪の感情と思考」という風に、人間の思考の形態を整理してきましたが、ここまでは、その内容にはかなりの混乱と淘汰の歴史がある中でも、「病んだ心」を決定づけるものはまだありません。

「愛されれば」は、「自立の喪失」という点で、論理性を放棄した一種の絶対思考でした。だがこれだけでもまだジリ貧傾向だけでとどまります。

「べき・はず」、特に科学的論理性を欠いた「べき・はず」はまさに絶対思考です。
社会統制や宗教の抗争において、「べき」が人の心に及ぼした圧迫は、社会的な問題であって「心を病むメカニズム」の問題からは外しておきましょう。
「べき・はず」はあとは、生活の中で恐怖から逃れ望みを叶える非論理思考として使われます。「占い」「おまじない」の類。この一般形も、とりあえず科学の遅れとして、考察から外しましょう。

「べき・はず」が、「病んだ心」の実に典型的な絶対思考として焦点を浴びるものが浮かんできます。「愛されれば」と結びついたものです。
「愛されれば」の前段に「べき・はず」が来るというものです。「愛されれば」の前の、「愛される」に。
つまり「愛されるべき」「愛されるはず」です。


人間の思考形態の整理としてはざっとそんなもんでいいでしょう。
このように、人間の思考はもともと論理思考と非論理思考が混在しながら、それなりに人々が「望み」に向かいがむしゃらに生きることを支えてきたわけです。
それが、全く道をそれた、「自己破壊」へと転じる思考型は、「愛されれば」という自立阻害と「はず・べき」という絶対思考の結びつきに至りようやくその姿をはっきりさせるように思われます。

思考論理というその表面の底にあるメカニズム、そしてその解決への転換となる「否定価値の放棄」のメカニズムの考察を、その思考に焦点を当てて続けます。


心理学本下巻に向けての考察-122:「未知」への意志と信仰-14 / しまの
No.1375 2007/11/17(Sat) 12:12:52

■終章-5:非論理思考「愛されれば」「べき・はず」

さてここまでの話をまとめると、

1)魂には「あるべきもの」という善悪の感覚があるようだ。
まずそれは、それを自らが損なった「原罪感情」に表れる。しかしさらに以前に、魂が抱く「愛されない怒り」において、すでにそれは表れていたことが考えられます。魂はまず愛を願って生まれ、愛されるはずだった「神の世界」を生きたわけです。愛されなかった時、悲しみはやがて憎しみに変わった。

2)「心」現実世界へと接することに向う。ここでは科学的で現実的な思考が強く推奨されるものになる。ただし科学も限界があり、かつ時代の進歩にも依存する。それが及ばない範囲において、人は「神頼み」的な非論理的思考を使いがちである。

3)根本的に科学を越えた世界もあり、「命」の外側がそれだと言える。ここで「信仰」の思考が現れて人間の不完全性、特に、他の動物にはない「自意識」を持つがゆえに抱くようになった「死」やその他避け得ない困苦への恐怖から、「信仰」の情緒により開放されることは、その思考内容が科学や現実と矛盾しな限りにおいては大いに利にかなった結構なことである。

という感じ。まあこれが人間の思考「論理性」という視点からの整理になりますね。

そのように、人間の思考はもともと論理の妥当性についてはかなり不完全であり、特に上記2)「現実世界」向けの思考においても、かなり個人差や時代差のある中で、非科学的、非論理的思考が幅をきかせる事態があります。

でもまあそれでも、これで健全形として大体問題ないわけです。「心の健康」としては。
特に時代を遡り非科学思考の神頼みが大手を振るっていたとしても、その中で人々は生きる中で「望み」に向かい、死に物狂いで生きてきたわけで、それで「心の健康」には大した問題があったわけではなかった。
論理思考と非論理思考を混在させながら、それらは「望み」に向かうものになっていた。

それが、やはり同じように不完全な論理思考が混ざる人間の思考形態において、非論理思考の配置が微妙にズレて、同じように論理思考と非論理思考を混在させながら、全く異なる反対の方向に向う結果が起きてくる。
向う方向とは、「自己破壊」です。それはまるで「怒るべきだ」とういう「信仰」を頂点として編成されているかのような思考です。
そして他人と現実を、怒るわけです。次に、そうして怒った自分を怒ります。

これは残りの非論理思考形が関係するものと思われます。
それが「愛されれば」と、「べき・はず」になります。


■「愛されれば」「べき・はず」の思考

人間の不完全性への補いである非論理思考として、「善悪」「」「信仰」というのをまず「健康形」として説明しました。
残りの非論理思考である「愛されれば」「べき・はず」が、「非健康形」になります。

まあ「病理形」にまではまだなっていない。「思考」としての「病理形」は、心理障害ではなく精神障害の世界です。現実が瓦解した空想が現実をおおう思考です。
それに比べれば「非健康形」である「愛されれば」「べき・はず」は、まだその一線は保っています。
しかし論理の崩れは明白です。それが本人でも分からなくなってくるところに、限りなく病理へと近づく潜在性を潜めていると言えるかも知れません。

その一方で「愛されれば」「べき・はず」かなりの広範囲で、比較的健康な心にも浸潤する思考です。僕自身の比較的最近例もあとで説明しましょう。
そこに、「心が健康であること」自体において、人間の不完全性が見えるような気がします。「否定価値の放棄」を生む「不完全性の受容」とは、まさにこの「心が健康であること」における不完全性の受容なのです。


■自立の喪失形としての「愛されれば」

「愛されれば」という「非論理思考」としては、すでに「愛されれば安全」という勘違い思考(^^;)を説明しています。
これは現実社会生活でそれが出てくると、完全な勘違いであり、自分で自分が守れなくなり、生活と人生が自分で切り開かれる推進力を失い、どうしてもジリ貧になっていく方向性を「獲得」してしまいます。

まあこれが心の病として表面化したのを氷山の一角とするように、現代人の広範囲にあるのが現実ではあるかと。だから現代人のマジョリティ年取るとわびしい生活が「普通」という雰囲気さえ出てくる。そうなる前に「心の自立」をして生きた人間であれば、逆に歳取るごとに人生が豊かさを増す方向性さえあり得ると思うんですけどね。

いずれにせよこの「愛されれば」「非健康形」であるゆえんは、「自立」という全ての生きるもののDNAに刻まれた命題への、自らによる逆行が起きていることです。
逆に言えば、子供の心においては、「愛されれば」はもともとかなり強力に作用する思考のベクトルです。とにかく他人の庇護の下で生きる時、「主人」に愛されるかどうかはかなり影響の大きい話です。

これが大人になっても持続することは十分にあり得る。「非健康」とさえならない形で。
つまりはっきり自覚して他人の庇護の下で生きる大人の場合ですね。権謀術数図ってご主人さまに愛されるのがいいでしょう^^;

実はこれはまだ「心の自立」をしているケースでさえあるんですね。自らの望みと意志として、うまいこと強く豊かな人間に取り入って、その庇護の下で豊かで楽チン人生を享受する。自分自身の目を頂点として、眼下にある豊かな他人を餌として、自らの原理原則として、自らの意志としてそれに取り入るために全力を尽くす。
ハイブリッドが考える「健康な心」として、これは全然オーケーです。

「心の自立」が損なわれた姿とは、そうゆう外面姿の問題ではなく、「自ら望む」「自らの意志によって」というのが消え、「望み」を他人に依存するようになってくるのが、まず第一特徴なわけです。
人から求められれば望める。相手から愛されるのであれば愛せる。

ただここで終れば、それはまだ「病んだ心」にさえなってはいません。人生がジリ貧にはなるでしょうが、その中に安住できるのであれば、それはもうそれで良しとすることもできるものです。
「病んだ心」とは、それでは終らないものです。自立を喪失するだけではなく、依存しながら、依存する相手が完全でないことを怒る形になります。完全な相手はいないので、これは、他人に依存しながらその相手を破壊することになります。これは一直線に「破滅」へと向う道になります。

そうなる形へと加わるのが、次の「べき・はず」になります。


■「愛への依存」の健全形としての「委ね」

「自立」が命題だとして、そこにも人間の不完全性があるという話をしています。
最後には、誰かに助けられる、誰かにすがる、ということも出てくる。これは「依存」と言えばそうではあります。

そうした「依存」が、「健全形」として論理思考の中で生きた人間においても、自己の不完全性を受容し、自己の限界を受け入れる姿勢の中で生まれる時、ハイブリッドはそこに人間の一つの真実の感情がやはり見出されるのを感じます。
それは「委ね」の感情です。これが「信仰の情緒性」の実体だとも言えるかも知れません。

これはやはり「愛」に関連します。でも「愛されれば」ではありません。「愛されれば」では、そうなれば「どうなる」が続きます。そこに、非論理性非現実性が生まれ得る。
「愛への委ね」は、「自ら愛する」感情への「委ね」です。この先には論理がありません。ただ、「愛」に身を委ねるのです。これはもう論理も非論理もなく、現実も非現実もありません。


■「愛への委ね」は「愛における自立」への脳内ホルモン?

「愛への委ね」は、僕自身の体験的実感としても、「病んだ心から健康な心への道」における極めて大きな役割を果たす感情です。
それは明らかに、魂の感情です。
そしてそれを「心」が認め、受け入れることの中に、その前後においてかなり淀んだ色彩の感情の存在を暴きながら、心の治癒への根本的なものが起きるという印象を感じます。
これは僕が『悲しみの彼方への旅』で描こうとした主題そのものとも言えます。

「心」に「命」を与えるのは「魂」であり、「魂」が「愛」をつかさどるものであることにおいて、「愛への委ね」は「魂」自身の命のサイクルの一つの成り立ちを示している。そんな印象さえ感じます。
僕はこの「愛への委ね」の感情を、それを感じる魂をイメージしただけでも、目が潤むような感情が起き鼻水がたれてくるのを感じます。アハハ。
これは「魂の願いが看取られる」時の感情であるように思われます。ですからこの感情は「死」にとても関係が深いです。願いが看取られ、消えていくのですから、その先には意識はありません。ただ愛の感情に身が委ねられ、そして一定時間後に消えていきます。その時「魂」が一つ豊かなものへと成長している、というメカニズムがあるのではないかと。

これが、「愛における自立」を生み出す、心の自然治癒力自然成長力の正体にかなり近いものであるように感じます。なぜなら、この「愛への委ね」において、「愛される」という前提が消えた「愛」が起きるからです。
そして一つ成長した魂からは、「愛されることに依存することなく愛する」感情が湧き出しているようになっている。

これが脳のメカニズムなのではないかと。「心」がそれを受け取り、「愛への委ね」の感情に身を任せた時、多分脳の前頭前野を発信源として、脳の広範囲に電気信号の飽和が起き、癒し物質が大量に放出され、一定時間後に電気信号の鎮静化が起きます。そしてストレスが消失している。

そして人間の根本的な不完全性において、自己の限界を受け入れる最後には、「神の愛への委ね」が起き、それは「死の恐怖」を凌駕するものになる。これは実に利にかなった脳のメカニズムです。
こうした「愛への委ね」の感情を持つ者が、死を前にして恐れない姿が、映画『タイタニック』などでも描写されている話をしたことがあります。(2006/09/09 魂の成長の成り立ち-53:魂が求めるものへ-30)


■宗教文化と魂の成長

それはアメリカ人キリスト教が浸透しており、日本人とは比べ物にならない自然な思考として「神の愛への委ね」が抱かれている姿でもあったと思います。
その点キリスト教は、ハイブリッドが考える魂のメカニズムからしてもかなり利にかなった宗教です。だから他の宗教と比べその普及力は一歩抜きん出ており、地球の宗教の代表選手としたらやはりキリスト教になるのではと。
ハイブリッドとしては、やはりまあその擬人化の花盛りはあまりいただけない非科学思考ではありますが..

それに比べ、日本の第一宗教(?)である「仏教」は、そもそもそれがお葬式宗教(^^;)と化している現状もさることながら、やはりどうも人間の心に寄与するその本質がどうも不明瞭難解であり、現実的に言って日本人の心の健康にはあまり役立ってはいないのが現状ではないかと。

同時に、「神」の観念を抱く日本人少数派です。どーでもいい話ですが、結婚相手募集というとしばしば「特定宗教はお断り」というのが出てくるかと^^;
その点僕自身は日本人の平均よりも「神」の観念を抱く人間であるようにさえ、今は至っている感があります。今の命が終ったら、「神の国」に帰って守られるのだ、と深い情緒として感じるわけです。この情緒だけ見れば、変な宗教家(^^;)よりもよっぽど信仰心があるのではとさえ感じる次第。

で、神など考えないというポーズが主流の現代日本人の人生が、ことあるごとに神を持ち出すアメリカ人に比べて、心が健康かというと、言わずもがなですが全く逆なんですね。「神」を認めなくても、この事実は誰もが認めるでしょう。
これは一体何なのか。


日本人においては、「神」が消えた代わりに「べき・はず」が蔓延してきた、と言えるかも知れませんね。
ハイブリッドとしては、信仰心の喪失を嘆くのではなく、その底に潜むメカニズムへの着目をお勧めしたい次第です。


心理学本下巻に向けての考察-121:「未知」への意志と信仰-13 / しまの
No.1374 2007/11/16(Fri) 21:44:56

「神」についてあと少しというか「信仰」という心の大きな領域について触れてから、「べき・はず」思考の問題など取り上げましょう。


■終章-4:「科学と信仰」

科学思考最大基盤とするハイブリッドとしては、この「現実世界」にかかわるあらゆる事柄を、まず科学思考によって対処することを強くお勧めするものです。
もちろん科学にも限界はありますが、我々個々人が科学全体を追い越すことはまずなく(^^;)、日々の問題解決において新たな科学知識を学びながら対処を試みることは、生涯続くものと考えるのがいいのはもう言うまでもありません。

ここで言う「科学」とは、もちろん物理自然科学のみならず、医学社会経済学人文科学芸術やスポーツの理論、そして心理学など、総合的に言っています。
そこに確実な知識と知恵があるのであれば、我々はそれを学び、日々の生活において当てはめ実践し、技術として習得すれば、必ず問題は解決でき、恐怖から開放され、望みを叶えることができるわけです。これは何の猜疑を抱く必要もないことです。

ところが、そうした科学の思考が不得手、もしくは自ら好き好んで科学思考とは別の思考を取る人が、世にはまだまだ沢山います。この基本的なものをこのあと整理します。

一方、先のカキコでも書いたように科学には根本的な限界線があり、それを超えたものについて人が取り立てて考えを持つことは、「信仰」という領域として位置付けることができます。
つまり、「思考・意志・信仰」という言い方をすることもありますが、より正確にはこれを並列で並べるのではなく、「思考」の内容として、かなり特殊な領域があるという構図になるのでしょう。まあこれはどーでもいい話。

「科学」と「信仰」は共存できないようにイメージされる方もおられるかも知れませんが、それは「宗教信仰」の場合ですね。
「宗教信仰」となると、物理自然現象を非科学的に説明し、それを信じることを強制する儀式のようなものが出てくるので、かなり科学とは両立できない部分が出てきます。

一方。科学の境界線を極めるようなことをしている人々には、かなり「信仰」というものが出てきます。これはまさに科学の及ばない範囲を、科学を極めたからこそはっきりと視界に捉えているものであり、そこでは「科学と信仰」はむしろセットのようになってきます。


■最も妥当(?)な「命への信仰」

そんな意味で、「最も妥当」な信仰を言うならば、まず「生命」についてのものになるでしょう。

「生命」がなぜ生まれ、この世に生まれた命となる前後になにがあるのかについて、科学は何も言えないという事実が人間の歴史としてもほぼ確定的になり始めているように、僕としては感じています。

福岡伸一さんという分子生物学者『生物と無生物のあいだ』という本を読んでいる途中ですが、最後の方のページをめくって結語と思われるのを読むと、こんなのが出てますね。
「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。」
「私たちは、自然の流れの前にひざまずく以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。」


ただこれをどう「信仰」するかにおいて、道徳でありがちな「どんな命も大切に」「命の尊さ」というのは、僕はあまりいただけない。どの命がどう大切かは命同士のせめぎあいの中にあるのであって、はっきり言って粗末に扱う命もあるし、自らを尊く感じられないでいる命があるのも現実です。

「信仰」という時、そこにはやはり「あるべきもの」という「情緒」が出てきます。「善悪」命題です。
これがもはや科学的論理性を問わない時、「信仰」と言えるのでしょう。自分としては、これは守らねばと感じる。そのかわりそうすればこんないいことがある。
それがもう科学や現実として確かめようもないもの。

それで言うのであれば、科学そして「現実」との矛盾を起こさない「信仰」としては、「どんな命も大切に」ではなく、自らの命については自ら全てを尽くす。そうして自らの命を尽くし、命が終ったら、神に守られる平安がある。こう考えて、科学でも対処不可能な、現実的な災害や病苦、そして誰にでも訪れる「死」への恐怖から開放されるという「情緒」が成り立つのであれば、それは利にかなったことだと考えます。

事実それが人間の脳のDNAに刻まれたことではないかと、僕としても考えるわけです。

つまりぶっちゃけた話を言えば、ハイブリッドとしては、「信仰」は科学や現実と矛盾しなければ、「情緒」として結果が良くなるものであれば勝手に考えていいものだ、ということです。
そうゆう風に脳に用意された思考領域なのだろうと。


■「負の信仰」としての「否定価値感覚」

ただし誤解なきようはっきり述べておくならば、そうした「信仰」のプラス側面は、僕の考えでは、心の障害の治癒克復への効果は全くなく、障害の破壊性を防ぐにはほとんど無力です。良くてせいぜい、障害の構造を維持した中での安定化をもたらすかも知れない。しかしこれもかなり僕は懐疑的です。実際において「信仰」と言うと、宗教の硬直思考のマイナス面をどうしても引きずりがちだからです。

そして実のところ、ここで「信仰」のメカニズムを出しているのは、その治癒効果を説明するためではなく、逆に、このように脳の機能として認知できるだけの思考領域が、心を病むメカニズムの一部として機能していることを、これから理解するための前段として説明しています。
つまり、心を病むメカニズムにおいては、こうした「信仰」のメカニズムががやはり巻き込まれ、「負の信仰」とも言うべきものができあがるわけです。


何のことはない、それが「否定価値感覚」です。これは本来「信仰」に使われるための思考回路が、「怒り」へと用いられるようになったというメカニズムがあるようです。これをこの後考察説明します。

「否定価値の放棄」は、それを放棄するものです。ですからハイブリッド実践としても少なくとも「中期」までのうちは「信仰」は出てきません。ひたすら合理的思考を学び、信仰の負の変形を、一度捨てるのです。


■「信仰」と「愛」

ハイブリッドでは「神」を、「人間の不完全性を補う存在」と位置づけるのですが、正確な科学思考で捉える必要があれば、それはやはりまずは「現実世界における実体」のあるものではなく、人間が人間自身のために持っている「観念」です。

それでも、科学の限界線を認めることにおいて、「現実世界」とは「別の世界」の存在を、やはり科学思考において、認めるわけです。一つの表現で言えば、それは「命」が生まれる源泉の世界であり、我々の「今の命」の外部の世界です。それは完全に「未知」でしかあり得ません。

ですからその範囲では、「神」を人間のような生きもののようにイメージするのは、もう現実世界を無用にアナロジーとして当てはめたものでしかなく、本体「未知」でしかない「神」を知るかのような誤りだということになります。

それでもやはり、「神」が人間のようにイメージされ、「神の愛」という観念が抱かれる理由となる、「人間