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2007.12


年末年始の予定など / しまの
No.1430 2007/12/28(Fri) 12:09:58

今日から帰省し1/3(木)に戻る予定です。
なお帰省中も1日1回はメールチェックし、時間があれば返答も可能かと。

その間掲示板の方もちょっとはカキコしたいですね^^。


心理学本下巻に向けての考察-175:「未知」への意志と信仰-67 / しまの
No.1429 2007/12/27(Thu) 13:30:03

■「家の中人生」

「人生」が見失われるもう一つのベクトルが、「家の中人生」です。
これはそのまんまですが、「人生が家の中にあるもののように感じられる」ものです。より情緒的な表現としては、「人生が親の目の中にあるというのとほぼ同じように人の目の中にあるものとして感じられる」ものです。

つまり、先の「見せつけ人生」は、同じく「人の目の中の人生」という感覚である中で、「飾り見栄え」として人に勝てるカッコ良さを見せつけることができるかという感覚を帯びるものです。
一方「家の中人生」は、人生が主に「善悪」としての良し悪しを見られるという感覚です。まるで親の目にそう見られるであろうように、自分の人生が良いと誉められるか、駄目だと叱られるか、という感覚の中にあるわけです。

世の多くの人が、この「家の中人生」の構図の中で、「仕事」をするように感じます。
つまり上司は親です。さらに視線を上に上げると、社長が父で、専務が母、というような^^;
そうやって、最後まで、人生で自分がすることが、「家の中」にあるような構図になる、というものです。

これが「人生を見失わせる」という危険を孕む要因は、「家の外」への感覚が薄れ、やがて麻痺することです。
「家の外」とは、ハイブリッド的に言えば、「善悪」のない世界です。大自然の荒野です。まあ基本的にはサバイバルの世界です。


そうした大自然に自分が放たれ、自分が生まれ持った「命」の本性をありのままにほとばしらせ自由に生きるという、「生命の力の感覚」を、人は「家の中人生」で見失っていく危険があります。


■「自分を枠に当てはめる」という基本的生き方

先に出したのと同じく、「人生とは何か」グーグルに入力して最初のページに出てくるのに、『普通の人生とは何か〜常識を頼りに生きて行く〜』なんてのもありました。
僕からすればそれは見た瞬間ジョークかと思え大うけでしたが(^^;)、ところがどっこいそれがかなり真剣な人生論のようで。中にこんな一節がありました。
---------------------------------
「結婚しないとまずい!」
なんか知らないけど、周りがそういう雰囲気だ。親がそういう目でみる。となりのおばちゃんがそういう目で見る。
---------------------------------

そんな風に、「人の目の中にある人生」ですね。

そうして「人生」さえもが人の目の中にあるという感覚の先にあるのは、ハイブリッドが最初に出す話です。「人の目」の中に浮かんでくる、何かの枠に、自分を当てはめるという、基本的な生き方。すると「心を解き放つ」ことが見失われていきます。
やがて「命のエネルギー」というものさえ、なかったかのような、「自動生活機械」と化した現代社会人の一面があります。「命のエネルギー」って何?..そんなものあったっけ、というような。


■「見せつけ人生」も実は「家の中人生」の一バージョン

「見せつけ人生」についての先のカキコの終わりでも書いたように、「見せつけ人生」も実は「家の中人生」の一バージョンとしてあります。
つまりそれもやはり、自分を見る親の目同胞の目という構図の中にあります。

多くの場合、それは意識してか意識しないままかに関りなく、同胞との間で親の愛情を奪い合うという構図が生み出した幼少期の競争心を、そのまま社会での人生へと持ち込んだ形で、自分の人生を他人と競い合うという感覚になるでしょう。
凄惨な反社会的事件の多くが、親に愛されなかった恨み憎しみを、社会に対してそのまま持ち越すような、破壊的結末を大々的に演じます。バージニア工科大学の事件のチョ容疑者がそうでしたし、ごく最近では佐世保の猟銃乱射事件の馬込容疑者がそうでした。


■ハイブリッド取り組みにおける「人生」

そのように「人の目の中の人生」という問題ですが、既に述べたように、社会で用意される「人生の枠組み」そのものを否定し始めると話がおかしくなります。

現在の実に整備された社会には、確かにそのような「人生の枠組み」があるのが一つの事実です。それに反発して、社会が用意した枠を否定した人生なんてものを考えることは、恐らく大抵の場合、反抗期の子供が親に反発するのと全く同じ構図で、社会に反発を感じることの表現でしかないでしょう。
つまり「社会への反発」自体が、多分に、「家の中人生」「反発バージョン」になるのではないかと^^;

問題は、外面ではないわけです。問題は内面です。
心を病むメカニズムによって、「人生」がどのように変形を帯びて心に映されていたのか。


事実、ハイブリッド取り組みにおける「人生」は、「魂感性土台の体験」を節目にする前の「前期」と、その後の「中期」および「後期」とで、やや奇妙な、話題としての現れ方の変化をします。
これは比較的深刻な状態から本格的な取り組みをされた相談事例などで顕著で、「魂感性土台の体験」あたりの、節目を迎える段階において、「人生」は一度リセットされたまっさらな白紙として、これから向うような形になります。まあ完全な白紙というよりも、まだまだ淀んだ色彩模様の入った、マイナスからのリセットスタートのようなものになりますが。

そこで僕自身がちょっと奇妙な感を覚えながら思い返される例などは、「前期」の深刻な時期に、実に真摯で高い問題意識の中で「人生」を問うていたような本人の意識が、「中期」を迎える段階だと僕から見るような状況で、「人生への問題意識」そのものの低下とも言える状況が起きることです。
今まで余りにも力んで「人生」を考えていたのが、ややどっちでもいい的な感覚が混じりこんでいる自分を感じる、とでも言いましょうか。まあこの場合は、僕としてはこの後述べる、人生へのより積極的な意識を自らに喚起するのをお勧めするところですが。

「人生の構造図」では、その辺を表現していますので、再度参照頂ければ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg

実はこれは深刻なケースでは、必然的とも言えるメカニズムになります。
「人生」が、あまりにも絶望的な愛情要求や、他人への復讐心のための材料化していたわけです。「自分」そのものが、あまりにも強烈に「見せびらかし品」と化しています。そしてそれに向けられる他人からの視線に、苦しむわけです。
さらにその底には、自分を見せびらかし品化したことへの深い「原罪感情」が、絶望的な濃さで淀んでいます。しかし人の目に向けた感情にあまりに翻弄され、心の奥深くにある原罪感情はもはや目もつぶされ見えない状態のまま、身を削る罪悪感を水面下に満々と控えた薄氷の上で、自分を人の目の中で何とか操ろうと苦しんでいたのです。

「魂感性土台の体験」は、そうした全てから解放される脳の領域が、自分にあることを、本人に伝えるものになるでしょう。

ですからここから先の実践は、「魂感性土台」に立って行います。多くの場合、まだ「人の目感性土台」へと一気に感情や思考が戻ってしまう状態が続きますが、それらは何とかやり過ごし、愛情要求自尊心要求など、人の目感情の論理の深い意味の自己理解を今まで同様に進めます。
その一方で、「魂感性土台」を何度でも思い出し、その先にどのように全く別の発想や行動があり得るのかを、考え始めてみるという実践になります。

それらは全て、「加算法」の思考として行います。「これがいけない」という減算法的否定思考は、不要です。否定思考が動く場合は、否定思考そのものの意味に、引き続き前期の実践として取り組みます。

そうした全く別の視点としてどんなものがあるかを、次に具体的に説明します。
そこから、ホーナイの言葉を借りれば、「自分を駄目にしてきた人生の再建」を、探っていくのです。


心理学本下巻に向けての考察-174:「未知」への意志と信仰-66 / しまの
No.1428 2007/12/24(Mon) 18:18:09

■「人生への意識姿勢」4態

まず、世の人が「人生」について何をどう考えるかの意識姿勢をざっと概観しますと、およそ4態があると言えます。
1)あまり意識しないまま、向うもの
2)あまり意識しないまま、失うもの
3)強く意識して、獲得に向うもの
4)強く意識して、破壊に向うもの

まあ実際、ことさら「人生」というものを意識しないでも、自然にそれに向っており、それを得て行く人々がいます。これは比較的恵まれたマイノリティになるでしょう。生まれ持った資質や環境に押し上げられるように、自分の関心が向く先に向うことで、自然に社会でのいいポジションを得て行くような姿。
一方、「人生」について真剣に考えることのないまま、時間に流されるように「人生」を失った人生を送る人々が沢山いるように感じます。まあ先に述べたようにこれは外見だけでは分からない話ですが、結構現代社会のマジョリティになるかも知れませんね。

一方、「人生」を強く意識し、問うことが、それだけで必ずしも良い結果を生むとは限らず、逆に人生を強く意識ししてそれを失っていく姿が時にあります。
これは概して、人生が人に見せつけるためのシナリオのようになるケースです。その根底で、魂は葬り去られているようなケース。詳しくはこのあと説明して行きます。
あるいはそうして人生が見せつけシナリオの性質を帯びた後にそのストレスから退却するケースも実に多い。するとあれこれと人生を見下す思考が展開されるようになります。先にネットから拾ったその手のものはまずこれですね。

「人生」を強く意識し、努力の先にそれをつかむ姿ももちろんあり、それが人生の先人として人の目に知られることがあります。しかしこれは並大抵ではない努力と、しばしば普通でない境遇を背景として至るものであり、我々凡人としては(^^;)あまり参考にできないことが少なくないかも知れませんね。

ハイブリッド的には、これら4態のうちどれがいいかなんてことは話しようがないです。「失う」より「向う」方がいいに決まってます。
そして「心を病むメカニズム」人間の心の一側面と位置づけて、それへの取り組み方法を考えるものであることにおいて、意識せずに向かえる姿をどう考えたところで、多少の参考になる以上のことはなく、「意識して獲得に向う」ための実際の方法内容を考えるのが、「ハイブリッド人生心理学」であるわけです。


■「前期」段階での自己理解課題:愛と自尊心要求による席捲

「人生の構造図」
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg
に示したように、「人生」について何を理解し検討するかについて、ハイブリッド取り組みの「前期」と、「魂感性土台の体験」を節目に進める「中期」および「後期」で、かなり様相が異なります。

まず「前期」「怒りの非行動化」を主眼とする建設的行動法という外面実践と、感情の解放と自己理解を主眼とする内面実践が中心です。
そこで「人生」は、外面向けにはまだあまり具体的な方向転換を考える余裕もなく、まずはもっぱら内面感情の自己理解として、「人生」というものが「愛情要求」と「皮相化荒廃化した自尊心」の感情によっていかに脚色変形されたものに映っているかを自己把握することがメインです。

図に書いたように、これは主に2つのタイプがあります。「見せつけ人生」「家の中人生」
これはより正確には、2つのタイプというより、「人生が見失われる2つの基本軸」とも言うべきものであり、この2軸によって「人性が見失われる姿」のバリエーションが生まれるということになります。


■「見せつけ人生」

「見せつけ人生」とは、「人生」というものが人に見られる飾り見栄えのような様相を心において示すようになるものです。どんな生き方をしているかが、人に見られ品評されるものとして位置づけられるようなありさまになるわけです。
人の目感覚の全くない「この感情において生きる」という魂の感情に立って設計された人生とは、まさに対極の位置づけになります。

「人生」他人の目を意識した「見せもの」化することによって、この人間の日常生活のあらゆる場面全ての一挙手一投足までもが、自分の人生が人にどう見られるかの材料化し得ます。ごく些細な喜びや苛立ちさえもが、自分の生き方が他人にどう見られるかという感覚によって、見せつけと勝ち負け感情や嫉妬の引き金となり、湧き出たままの純粋さを失い自意識におおわれた屈折した感情になってしまいます。

深刻な心の障害では、「生きること」がそれだけで「見せつけ」化します。単に息をすることや、ものを食べることさえもが、そうなってしまうのです。「前向き」を期待する他人への迎合への自己反発は、しばしば全面的な生理的不活性状態を引き起こします。同時にそんな自分への自己処罰がまず引き起こされるのは免れません。これは深刻な「うつ」や「引きこもり」のメカニズムを最も良く説明できるものになるかも知れません。

「見せつけ人生」のベクトルは、しばしば熱狂的な野心を生みます。人は時にこれによって実際に生産的な人生の時期を過ごす場合があります。
しかし大抵それは、蓄積する疲労が一定段階に達した時、全てが崩壊し頭が真っ白になるような状態へと転機を迎えます。これは本人にとり良い人生の見直し契機を与える可能性がある一方、「人生の品評処罰」感情が強いケースでは一転してうつ状態が現れるのが火を見るより明らかな(?^^;)必然的な流れです。しばしばここから、本人の自覚が促され、本格的な治癒への取り組みが開始されるわけです。


■「人生の混乱と喪失」をまず「人間の不完全性」として受け入れる

こうした、過剰な自意識を伴う側面は、本人や援助者つまりカウンセラーなどによって、比較的自覚把握されやすいものです。
しかし、当然のことながら、この自意識過剰を「これがいけない」と考える自己叱責的なアプローチは、微塵の効果も生まないどころか、問題の正しい理解にさえ近づくことを妨害するものです。

ハイブリッドから言えるアプローチは、「感情と行動の分離」の原則から実直に進めることです。まず怒り破壊を非行動化し、内面感情を解放させるとともにその自己理解を進めることです。
その中で、自分が人生で成した大きな間違いを自覚するのであれば、まずそれをこれからの成長の原点として受け入れることです。これは下巻原稿「5章 自己の受容・未知への選択」で書いたように、気休めの言葉ではなく、深い人間理解に立っての言葉のつもりです。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/b05.htm

そしてその先、外面行動においては、「価値を生み出す」という確かな答えがあることを学ぶことです。これが「中期」の実践になります。
内面においては、「見せつけ人生」を生み出した愛情要求自尊心要求が、病理ではなく人間の弱さであることを深く理解する方向に向うことになります。真の問題は、そうした「人間の不完全性」を許さない思考論理が生まれたことにあります。それが全てを狂わせたのです。それを解くのが、根本解決への答えになります。


次の「家の中人生」のベクトルを見ると、そうした「人間の弱さ」の側面がより明瞭に理解できます。「見せつけ人生」も本質的には「家の中人生」のベクトルの中で描かれるものに過ぎません。


心理学本下巻に向けての考察-173:「未知」への意志と信仰-65 / しまの
No.1427 2007/12/24(Mon) 10:21:41

「人生の構造図」を参照頂きながらの解説。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg


■「人生 概説」^^;

「人生」という心理テーマを真正面にした場合、ハイブリッドとして世の人に何をお伝えしたいのかを、改めて整理しましょう。この形での整理は案外これまでしてなかったような気がする。

で改めて「人生とは何か」と問われて世の人がどう考えるかをネットで探ったところ、実にさまざまなものがありますね。
グーグルでその問いの言葉を入れて検索してみると、「そんなに格好付けて生きている訳でもなく、人生とは“時間の使い方”ということにしませんか」という感じで何とも味気ないものが上から2番目にあったりします。

もうちょっと眺めると、『はてな』というネット上の問答サイトの「人生とは何ですか?」というコーナーがあり、いろんな発想があるのを見ることができます。
http://q.hatena.ne.jp/1174391683
列挙しますと、
・重い荷物を背負って遠い坂道を登っていくようなもの ・何者にもこびず己を磨くこと ・ゲーム ・人が生まれてから死ぬまでの事 ・遊ぶこと ・『今日』のことです ・『恋と革命』 ・苦しみ ・意味はないと思います
とちょっとしんみりしてしまうものもあれば、結構笑えるものも出てくる。
・欲望との戦いで我慢である ・シャットダウンはできてもリブートができない ・「人生が嫌な奴は出て行け!」って知り合いがいっていました。とんでもない野郎でした
あっはっはー。と後を見ていくと、
・一生をかけて解く問題 ・登山 ・学び ・経験と感動 ・魂の修行
とこれは一見ハイブリッドに近いが、「修業」じゃーないですねぇ^^;
・人生とは旅 ・ギャンブル ・人生とは選択である ・幸せな毎日を過ごすこと ・ひまつぶし ・心を成長させる期間
とこれも一見ハイブリッドに近いが、「心を成長させる期間」が人生というより、人生のために心を成長させるわけですね。やや本末転倒的。そして、
・おそらく明快な回答は無いでしょうね
とやはりなる。これが一番安直な分かったふりになりがち。

そこを、ハイブリッドとしては明確な答えを出すわけで。
「人生」とは「魂の成長の変遷」です。
そしてハイブリッドが世の人に伝えたいのは、そのためのノウハウです。どうすればそれをより「生きる喜び」に満ちた、充実したものにできるか。
かなり明瞭な方法論があると考えているわけです。

この、「人生」の方法論というテーマにかなり特化した実践が、「価値の生み出し」です。
なぜこれが人生の方法論に特化したものになるかと言うと、本人の意識において、これは「愛」とも「自尊心」ともいったん関係ないこととして行うからです。自分のことを何とかするという意識からいったん離れて、自分の外に広がる「社会」を、「自意識」には全く巻き込まれない素直な視線で見ることによって、それを行うのです。

世の人が「人生」に向ける意識の類型の話から、この「価値の生み出し」という方法論まで、じゅんぐりに説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-172:「未知」への意志と信仰-64 / しまの
No.1426 2007/12/23(Sun) 15:40:44

■恐るべき「人生の委ね幻想」

「人生の委ね幻想」については12/21「未知」への意志と信仰-61で簡潔に触れましたが、先の僕自身の例で紹介した、「本格就職する気はないのにその場面空想が現実味」を帯びた時に流れた気後れ感卑屈感として、その具体的な姿が端的に示されます。

これは恐るべきことなんですね。
どう恐るべきかと言うと、その後すぐ意識を切り替え、自分が人生で何をするかを確認し生活設計思考を自己掌握下に戻した時の、実に解放感溢れる精神安定感に比べ、その閉塞感溢れる障害感情とも言えるものが、こうして実に僅かな気の緩み(?)で起きてしまうという、その強力さです。

何のことはない、世の人々はその幻想の中で「人生」に追い立てられているわけです。

「人生の委ね幻想」とは、改めて定義すれば、「何かが人生将来を象徴するものになり、それが他人に委ねられ依存していると感じる」幻想です。

この「人生将来を象徴するもの」の最たるものは、「お金」です。次に、「地位」もそれになるでしょう。ここでの「地位」には、会社での肩書きとか、誰々と結婚しているとか、自分が所属すると感じる集団地位たとえば「勝ち組負け組」「セレブ」さらには居住地域人種出身地国籍、身に付けるものの地位象徴性つまりブランド品など、結局のところ人の生活ぶり人生の生き方ぶりを外から眺めて見える何かの象徴物の全てに渡ります。

そうしたものを得ることが、「人生」そのものであるように感じられてくる。
そしてそれをどう自分に与えるかを決める他人がいる。こうなるとその相手に自分が「どう評価されるか」が、自分の人生を決定するようなものに感じられてくる。
かくして、そうした「自分への評価」を追いかけることが人生の全てであるような感覚が生まれてくるわけです。
そしてその先には、その他人がその「人生の象徴物」によって自分の人生をコントロールしようとしてくる、という病んだ幻想感覚が人の心に生まれてくる芽があるように感じます。

それと、先に「人生での覚悟」として説明した、「魂の感じる価値とそれを支える生活」という極めて具体的、自己完結的な人生の生き方との極端な対比を、ここではまず把握頂きたいと思います。


■「人生の委ね幻想」によって起きる「失われた人生」

恐るべきことは、僕自身の例が示すように、「人生の委ね幻想」ちょっとした気の緩みでも気が取られる強力さがある上に、思考がそこに流れた時、「魂の感じる価値を支える人生」が見事に見えなくなる心理状態が生まれることです。
僕にして一瞬なりともそんな状態が起き得たことに、その恐るべき強力さを感じるとともに、僕のように「魂の感じる価値を支える人生」なんて思考を強く持たない時、人の心は「人生の象徴物」を追い求めることが人生そのものだという感覚に完全に覆われ、「魂の感じる価値による人生」なんてものは最初っから完全に視界の外に追いやられたまま生きるであろうことは、火を見るより明らかです。

そして僕自身がもしその「人生の委ね幻想」にまんまと引きづられて、月収ウン十万の満足できる安定収入というものに人生ありきと考えるような方向に向っていたら、これはもう「人生」がぽっかりと失われる状態を意味します。
事実そうして僕は自分の人生の中に、時間が止まったままの人生の時期を幾つか経験しています。まあ『悲しみの彼方への旅』「失われた20年間」と書いたものを改めて評価するなら、まあ4、5年くらいの意味程度だったような気がする。


■「人生の構造」を理解する

一方世の人々を見ると、「人生の象徴物」を追うことを「人生」と考える一生を送る。それはもう「人生」がないまま生きるということとかなり近いことのようにも感じられる。

しかしこの論調は実は公平性を欠きます。そうした「人生の象徴物」はあくまで外から眺めたものであって、それに向うことの中で人々が人生を見出していくという側面も、やはりあるからです。
つまり、人生を外面から見たものと、内面から見たものは、完全に一致するのでも、互いに排斥するものでもなく、少し切り離された形で平行したものとしてあるということです。


事実、「魂の感じる価値による人生」が「唯一無二の人生」への方向性だとして、これを社会がレールのように用意している「人生」とは全く異なるものとして設計しようとすることは至難の技であり、それこそ絵に書いた餅の話になりかねん。

「人生」とは一体何なのか。それは用意されているものなのか。自分で作るものなのか。

整理できそうです。を書きましたので出しておきましょう。引き続き要点を説明します。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg


心理学本下巻に向けての考察-171:「未知」への意志と信仰-63 / しまの
No.1425 2007/12/23(Sun) 14:14:03

「人生での覚悟」と、それとの対比となる「人生の委ね幻想」について簡潔に説明し、「人生」という視点で理解したい事柄の要点をまとめます。
まあこれは「心理メカニズムの理解」という、ハイブリッド取り組みの最も基礎的な実践における、「人生」という側面になりますね。それが「魂感性土台の体験」を節目に始める「中期」の段階に相応しいものになると思います。


■「恐れるもののない心」へ

ということで、まだ本格的求職の段階ではないという前提をぼやかしたまま、本格的就職に面する自分の空想が成立するにつれ、平常心とは違う感覚が起きたことに、こりゃちょっと変だと僕としては自覚したわけです。

そこで僕が行ったことは主に2つあります。
一つは、「魂が感じる価値」を「人生」というレベルで明確化することです。
そしてもう一つは、それを支えるための生活設計を考えることです。これは極めて現実的具体的な話になります。

1)魂が感じる「価値」を見定める

まず「魂が人生で感じる価値」の明確化のために、自分に問うわけです。
「自分は人生で何をしようとしている人間なのか」。また「もし自分の命があと1年だとしたら、何を優先させるか」

ただしそう問いて答えが簡単に出るのは恐らく稀です。
今回の僕の場合言えるのは、とにかく今度の心理学本を出す先にしか、これからの自分の人生は考え得ないということです。それをしないまま、月収何十万円の安定した生活なんて考えても、何の意味もない。
ただしその先は、僕自身分からないのが正直なところです。どこまで書き続けられるかは、生活のための収入という面と、あと社会が僕の心理学をどう必要とするかの状況に依存する。それが大きければさらに書く意欲は増すだろうし、一方僕にはそれとは別にやっぱ家庭を持ち子供をぜひ育てたいという願望も日増しに大きくなるのを感じるこの頃。
だから、まずはとにかく今は、書きたいことを出し惜しみすることなく書き尽くした本を出版することが、今当面の僕の人生課題なわけです。

まあ上記のような問いを出して答えがそう明確に出るのは難しいですが、そう問うことが重要ですね。
特に、「死」というものに向き合う「現実感」「現実性刺激」重要な役割を果たします。現実に「死」を突きつけられることによって、逆に生きることの価値を感じ取るという人間事例が実に沢山あります。TVで流れる感動ドキュメンタリーは大抵その形になっているとさえ言えそうな気がするほど。
最近で印象に残るのとしては『余命1ヶ月の花嫁』なんてのがありましたね。進行性の乳がんが肺に転移して気づいた時手遅れだった例。自らの姿を、生きる我々へのメッセージとして伝える中で語った言葉とは、「みなさんに明日があるのは奇跡です。 それを知っているだけで日常は幸せなことばかり」と。

まあ実際そうした状況に置かれた心は、生きているだけで奇跡であり喜びであるようなものへの、変化の可能性を持つことになります。で僕としてはそうした心の変化効果を、健康でいる時間において活用しない手はないと思うわけです。

まあこうした「死に向き合う」想定思考は、深刻なケース希死念慮自殺願望が旺盛な場合の、取り組みの初期段階では不適です。その段階では「未知への選択」など別の実践がまず必要です。
一方、魂感性土台の先に向う「中期」あたりからは積極的に取り入れるのをお勧めするものになります。

2)魂が感じる「価値」を支えるための生活設計

ということで、とにかく自分が人生で感じる価値について、「人の目」が全く消えるような想定下で考えて見ることが重要です。
それが「魂が感じる価値」であるということです。

あとは、それをどう支えるかの、現実的な生活設計の問題が出てきます。
僕の場合は、とにかく本の原稿を書く間の生活資金と、本の出版にかかる費用とのかね合いで、いつ時点から本格的なITの仕事をする必要があるかと計算するわけです。まあ原稿を一通り書き上げる分には問題ないでせう。あとはそこから出版までを集中専念するか、二足のわらじモードでするかで、若干出版時期に変化は出るだろうが何とか来年中にはという計画だすな。


■「恐れるもののない心」の成り立ち

ということで、「魂が人生で感じる価値」を見定め、それを支えるための生活設計をするというのは、極めてちょー具体的で現実的な作業になってきます。
そして、実際それを定めることができ、それを支える生活が設計できた時、人生がほぼ完全に自分の意志と能力によって自己完結的に自分の掌握下に収められることになります。
これは事実、人生で恐れるものが何もない心の状態を生み出します。


少なくともそこには、「人の目」に由来する脅威の類は微塵もない状態になるわけですね。
「恐れるもののない心」というのは、そのように、「心の持ち方」「心の姿勢」なんて小手先のものではなく、大掛かりで現実的具体的な実践の上に成り立つ、極めて具体的な形を取るものだということをご理解頂ければ。

まあ僕個人について言えば、そうした心の状態のはしくれ段階(^^;)ですね。先はまだ長い。
でもまあ概して「恐れるもの」はないですね。新しい場面や行動に際して不安感緊張感が流れるのはあるでしょう。それは感情の膿がある限りそうなります。
ただしそれが成長への通り道であることにおいて、そうした全体が「恐れるもの」ではなくなるわけです。つまり僕はもう「恐怖を恐怖しない」ということです。

一方、人が恐れ、それにより人生を見失うのは、「恐怖を抱く自分」であったりするでしょう。恐怖を恐怖するわけです。何よりも、恐怖によってコントロールを失う自分を恐れます。そこから逃れようと、現実的なコントロール能力など生まれようもない非論理的観念に頼り、現実から遠ざかり、コントロールを失った現実によって脅威に晒されるわけです。
またTVで報道されている「霊感商法」しかり。「人の目」しかり。
根底にあるのは、自分自身の中に抱えた脅威だということになります。

その正体を解き、根本解決への答えを得る扉を開けるための、最初の「鍵」である「自立」の、最も先の姿をここでは説明しました。
もう一つの「鍵」は、「自立」を妨げる要因についての鍵であり、一言でいえば「幻想」です。
「人生」という側面でのその表れ方を次に。


心理学本下巻に向けての考察-170:「未知」への意志と信仰-62 / しまの
No.1424 2007/12/22(Sat) 14:49:43

■終章-11:人生とは何か

さて「心の自立」について、視点をその結果姿から、より内面の意識へと移して詳しく考察を始めたのですが、「覚悟」という心の行為の形に、基本心理学としての「恐怖の克復」とはまた次元を異にした、「人生における覚悟」というのがあるという話にまで来ました。

これについて整理することは、どうやら「人生とは何か」という、ハイブリッドを「人生心理学」と位置づけるからにはそれこそ本題だと言えるテーマについて、かなり明瞭な答えへと導くようです。

結論を言うならば、人生とは、「魂の成長の変遷」です。これがかなり明確な答えです。
それを感じ取ることにおいて、我々は「人生」というものを感じ取ることができ、また揺らぎない方向性を手にすることができるように感じます。


その過程においてしばしば成されるのが望ましい「人生での覚悟」とは、もはや「恐れの克復」という消極的側面を越えて、「何も恐れるもののない心」への旅立ちなのだとも言える姿になってくる。
そんな印象を感じます。

幾つかの視点から詳しく説明しましょう。


■すこぶる身近な「人生での覚悟」の例

ここではまず、「人生での覚悟」とはどのようなものか、具体例を出して説明します。
それはすこぶる具体的で、身近なものです。

まあ例により手前味噌な僕自身の例ですが、今の執筆三昧生活を今度の心理学本が出版されるまで続けることは、本の経費も含め総合的に計算するとまず不可能であり、ころ合いを見てまたITの仕事を自宅SOHOなどで始めたいと思っています。
で準備を、まあ勉強が主ですがこつこつと始めており、先日当初予定範囲の勉強が終ったので、執筆の傍ら足慣らしにでも始められる仕事がないかとネットでSOHO求人情報など眺め始めたわけです。

まあ多少はそうした求人があるのですが、執筆と両立という目論見に合いそうなのはそう多くはなく、先日見た時はちょっと時期を逃したのがあった程度。
でやはりある程度本格参戦(?)モードで当たらんと駄目か..という感覚で、他の求人情報なども見ると、常時勤務のものなど色々あるわけです。ま要は普通の就職と同じですね。年齢制限にかかりそうなものとか(^^;)、「やる気を重視します」との言葉など..
で僕の思考は現実的算段を回しており、マジにこれで生計を立てる場合はやはり40万程度は欲しいとか考え出すと、向うに浮かんで来るのは本格就職の場面という感じになってくるわけです。


■自分の意志確認なきままの「人の目」空想は必然的に卑屈感を生む

でここで自分の中のスタンスにブレがある、つまり「人生での覚悟」しないままの思考領域があると、おかしなことになってくるわけです。
僕は自分がどうも気後れ感覚、いじけた感覚を感じ始めているのを自覚する。
まあこれは、そもそも僕自身そこまでの参戦意図を持っての話ではなく、つまりそうした本格就職に今応募することを考えて求人情報を見始めたのではないにも関らず、就職審査の目の前に立つ自分という構図の空想は成立しているという、一種の思考ミスが原因です。

この思考ミスに気づかないまま、自分が果たして採用されるかという結果空想まで回し始めると、これはもう必然的に「自分では..」という卑屈感気後れ感の歯車が回るというメカニズムになります。
なぜなら、そもそも自分はそれをやるは気ないのですから、自分で考えても採用者の目に叶う状況ではちょっとないんですね。無意識裏にそれが分かっていながら意識の表では採用者の目に自分が叶うかどうかという意識が働くという、奇妙なことが起きているわけです。

まあこれは実はかなり人間の思考におきがちなミスのように感じます。自分自身がどうしたいのかを確認することをちょっとサボった思考のまま、相手にどう見られるかだけが先走りし始めるわけですね。


■「自分の内面無視の人の目空想」という問題の根の共通性

「人生での覚悟」の実例ということで、僕の例で卑屈感気後れ感が起きたメカニズムのところまで説明しましたが、このメカニズムは実は、心を病むメカニズムが起す問題の共通構造とも言える、根本的なものを示しているかも知れません。

それは自分の内面を無視した形で「人の目」を空想するという構図が引き起こす問題です。
「人の目」を空想することにおいて、我々は人に良く見られる自分への願いを持つのですが、そう願って人の目の前にある自分をイメージした時、それは一人歩きをして、自分自身の内面を無視するものになる。
しかし内面を無視したものになることにおいて、自分はその目に叶うはずもないと、心の底では確信とも言える深さで実は感じているのではないか。

そして無視された内面においては自分が人の目に叶うはずがないことを、心の底で分かっているのが消し去られた形で、人の目をイメージすることにおいて、必然的に、人の目は自分を否定するものとして心に映ることになるのではないか。

これは少し前に、根底での自己否定を抱えたまま抱く「こう見られたい自己理想像」が、実際においては「それを基準として自分は軽蔑される」という意識を必然的にもたらすだけの機能しか果たさないと言ったこと、つまり「軽蔑されるための自己理想」にもつながる話です。

これを解く原理そのものは単純明瞭です。
自分の内面の現実に、意識を切り替えることです。


まあそれが、内面が充分に進歩を遂げていれば、この思考ミスに気がつく程度ですぐ問題解決できるレベルと、根源的自己否定感情と感情の膿への向き合いを余儀なくされる取り組み段階のレベルという大きなバリエーションが出てくる。
それだけのものでしかない、極めて明瞭な共通問題構造ということになりそうです。

まあ僕の場合は思考ミスと気づき、思考を切り替えるわけですが、それが「人生での覚悟」としてどんな積極的プラス側面を生むのかの説明を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-169:「未知」への意志と信仰-61 / しまの
No.1423 2007/12/21(Fri) 14:04:25

■「人生における覚悟」

庇護の幻想からの抜け出し」「覚悟」「現実を生きる強さと自尊心の増大」。

この「自立の構造」は同じまま、人生心理学の視点からは、「人生における覚悟」としてかなり特別な話を加えることができます。かなり特殊特別であり、また重要な話。「唯一無二の人生」という観点にとり決定的なものになるからです。

ですからこの「人生における覚悟」の実際の実践「後期」段階のものに主になるように感じますが、それを妨げるものの理解取り組みは、「心の自立」を目標像に加える「中期」として格好のテーマになると感じます。

「人生における覚悟」というのは、その「現実形」を築くのはなかなか長い取り組みになると思いますが、覚悟して抜け出たい土壌は、至るところに蔓延しています。
それは「人生の委ね幻想」とでも言うべきものです。 これは「庇護幻想」の一貫で生まれる、特別バージョンと言えます。

まずはそれを捉えることからですね。まあ我々はどうしてもその中にぬるま湯の中で安住する面を持つのが現代社会人でもあります。
それを踏まえた上で、そこで陥り易い心の錯覚の弊害を理解しておく。それに足を取られないようにすることで、同じ外面生活においても、異なる内面の強さを持つことが可能になる。
こうした方向性をまず考えたいものです。


■「人生の委ね幻想」

「人生の委ね幻想」とは、文字通り「自分の人生の将来が何かに委ねられていると感じる幻想感覚」と定義できます。

これは2つの側面があります。
1)何かが自分の人生の将来を象徴するものになる。
2)それを自分ではなく他人がコントロールするものと知覚される。

この結果、何か特定の事柄が自分の人生将来を決めるもののように感じられ、かつそれを他人が支配するのですから、その他人に対して極めて卑屈で服従的な感情が起きやすく、かつ自分の人生がその他人によって破滅に向わされるという幻想感覚も起きやすく、この先にかなり破滅的な感情や、事実破滅的な人間関係破壊が起きる素地が生まれる。
そんな心理メカニズムです。

これは実に広範囲に、この社会で見られるものです。
この心理メカニズムそのものは、健康な心においても働くものであり、その範囲においてはもはや取り組む余地も少ないかのような感覚が起きるほど、強力なものであり、一方、心の荒廃を示す事件もまず間違いなくこのメカニズムの中で起きているこことが考えられます。
従ってこれがまさに「現代人の心の課題」として、社会的見地からも筆頭にあげられるもののように感じます。

ちょっと短いですが課題取り上げとしてカキコし、細かい分析考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-168:「未知」への意志と信仰-60 / しまの
No.1422 2007/12/21(Fri) 11:10:51

■「覚悟」と「心の自立」の基本構造

さて「未知」への意志と信仰-59では、「心の自立」とは内面意識においては「覚悟」変化の要ポイントにしたものだと書きましたが、改めてその位置づけを、こう結論づけられるように思われます。

「心の自立」とは、庇護や依存から抜け出るという方向において、「覚悟」を伴って成される一歩であり、その結果「現実」をより直接的に生きることのできる強さが得られることである、と。

「現実をより直接的に」とは、庇護や依存の中で生きる時、自分が「現実」に直接接するのではなく親を通して接するというような形であり、そして時間の流れとともに実際のところ庇護はなくなっていく宿命がある時、そこにとどまることは「幻想」の中で生きるという構図を生み出すようになる、ということです。
つまり「覚悟」を要とする「心の自立」がない時、「現実」においてはもはや存在しない「庇護の目」の中で自分が生きているという「幻想」が生まれてくる、ということです。

これは注射を恐がらなくなくなるという過程で言うと、注射を恐がる時、そこには恐怖におののき恐怖を強調すれば免れる手が差し伸べられるというような「空想」が存在するということです。
まあ本人の意識では「恐れを強調すれば免れる」と今現在ははっきり空想してはいないとしても、過去にその中にまどんろんだであろうその空想を、今断固としてはねのける意志を持たないという形で、その空想に基づいた心の状態を維持し続けている、ということになります。
これは「恐怖すれば救われる」という「無意識の空想」が存在する状態とも言えるでしょう。

それを、「恐怖しても恐怖が解決しないのなら、もう恐怖するのはやめよう」という「意志」である「覚悟」という心の行為を踏むことで、恐怖が消える
まあこれがどれだけの場面に適用できるかの限界は人それぞれにあるかも知れませんが、こうゆう機能が脳にはある程度あるということです。

恐怖が消える」という消極的側面だけではなく、そこで得るもっと積極的側面の理解が大切ですね。どんなメリットがあるのか。
これがやはり「強さ」であり「自尊心」の増大ですね。同じ現実を前に、恐怖に足を取られずに思考を働かせることのできる強さ。またことあるごとに恐怖に怯える自己というのは、やはり自尊心を除々に低下させます。恐怖が全般的に減ることは自尊心の増大につながります。

このように、「庇護の幻想からの抜け出し」「覚悟」「現実を生きる強さと自尊心の増大」という3つがセットになること。
これが「心の自立」の基本構造だと言えそうです。



■ハイブリッド取り組み「前期」からの「覚悟」の作用

こうした「覚悟」の作用は、実はハイブリッド取り組みなどでも「前期」段階から広範囲に始められているものでもあります。
恐怖は必ずしも現実の脅威を示すものではないと考える「感情による決めつけの解除」、感情をただ流す姿勢。また、心理障害メカニズムについて理解することは、漠然とした「庇護されるべき世界で心を損なった自分」というような広範囲な恐怖感覚を減少させることになると思います。

いずせにせよ、「感情の強制」とは違うものとして、「恐がってもしかたないものはもう恐がるのはやめ!」とする心の機能があることを、折りに触れ意識してもらうのは良い実践だと思います。

一方、「恐がらない」が「感情強制」の問題になってしまうのは、「何を恐がるか」の現実対象ではなく、「恐がる自分」「恐がらない自分」という結果を外から見た見栄えだけが一人歩きした意識対象になる場合です。
この場合は、もうその恐怖をどう捉えるかもどう対処するかも、思考が全て無駄だと考えて正解です。まず一人歩きしたその自己像をめぐって、自尊心に関る感情が動いているという不合理で不毛な状況を把握するのがまず先です。
つまりこれは「恐怖の克復」でも「覚悟の問題」でもなく、「感情分析」の実践をするのがいいということです。

まず「恐怖する自分」という一人歩きした自己像を捉える。
で次に、「では本当に自分が恐怖しているものは何か」を捉える。結構これが明瞭な形を取らないことがあります。
そうした中で、なんとか明瞭化された恐怖対象について、「覚悟」というものを考える。
もちろん、「現実の脅威」に対しては建設的な対処を尽くした上での話になります。

こうした取り組み実践の流れは、もうハイブリッドの最初から最後まで続くものになります。意味が分からない恐怖も、かなり最後まで続く。
感情分析・建設的対処・そして覚悟。これがかなり基本的なサイクルとして、スパイラルの中の向上が終ることなく繰り返されることになります。

以上も、話は主に「恐怖の克復」に関連する、一般心理学からの「覚悟」の位置づけになります。
人生心理学からは、人生心理学からと言えるだけの、特殊特別な話が出てきます。それを次に。


薬害肝炎訴訟への政府対応に考える原理原則 / しまの
No.1421 2007/12/21(Fri) 08:00:26

珍しく政治問題に口を出す(?^^;)カキコですが、今回の薬害肝炎訴訟への政府対応は、はっきり言ってNGだと思いますネ。
ただこれはかなり「原理原則論」としての勉強材料でもあります。
何を原理原則として考えるかですね。

手短に言えば、そこに出てくる原理原則の一つ「責任と補償」です。被害を受けた者がおり、それに責任を負う者が、補償をするべきである。で今回も、企業と国の責任をめぐる話が主に取り沙汰されているわけです。

しかしもう一つ考えねばならない原理原則とは、国民が幸福を妨げられた事態をどう国が救えるかという、「国家の機能」なわけです。これはもう「加害責任」とは全く無関係な話。
そうした話で「責任」と問うなら、自然災害について国は責任を負わないので、何の支援もしないなんて話が、論理として同じものになるわけです。

もちろんこの「支援救済」という原理原則の先に、その対象にするものはどんな出来事かという原理原則がまた出てきます。
まーここでまた議論が出るだろうけど、ここまであからさまな「健康への破壊」となる「薬害」というのは、「公害訴訟」の中でも最も深刻な被害が発生したものの事例と同じく、国が「支援救済」できてこそ「国家の機能」だと考える次第。

僕として嘆かわしく感じるのは(まあ感情としてはやはり怒り嘆き感情というのは持ちませんが)、こうした整理された原理原則論をする人がほぼ表の人々に皆無なことです。
その点、原告団もちょっと感情に流れているばかりの感があり、原告団がこうした原理原則論をしっかりと出せば、ちょっと展開が違ってくると思うんだけどなぁ。

まとにかく、責任問題ではない原理原則に則って、予算の考慮も確かに必要はあるだろうけど、基本的には「一律全員救済」に賛成ですね。


心理学本下巻に向けての考察-167:「未知」への意志と信仰-59 / しまの
No.1420 2007/12/20(Thu) 13:35:57

「根本解決への答え」を開ける第1の鍵である「心の自立」について、幾つかの側面を見ていきます。

ここではまず「覚悟を決める」という心の動きの重要性について説明します。


■「心の自立」の外側からの姿と内側からの意識

「心の自立」については、ここ最近の解説において、まずそれが成される姿を、どちらかというと外側から眺める目詳しく分析することから始めました。そこにはまず「守られるから自ら守るへ」「与えられるから与えるへ」「愛されるから自ら愛するへ」という3つの要素があると。
そしてそれを妨げる自立の置き去りによる3つの土台幻想「破壊幻想」「庇護幻想」「自分幻想」がある。ただしこれらは根本では病んだ幻想としてよりも、人間の不完全性としてあるものであり、人間の成長はその中にあると。
そこに「存在の善悪幻想」が加わった時、成長への論理が一気に心を病むものへと一変することを見出したわけです。

ただそこまでの話では、話の全体が、「あるべき姿」を考えるという、今までと同じ思考法の中で受け止められる嫌いが残る話です。
「心の自立をできた人間」にならなければ、と同じ思考の轍が続くかも知れません。
「存在が善」になるために、です。

一方、「心の自立」を目標に掲げる「中期」の取り組みを、今度は本人の意識の内側から仔細に見るならば、まず課題となるのは「価値の生み出しを知る」ことだと書きました。
そしてそこに至るまでの心理過程をたどり始めていますが、そこにあるのは「魂感性土台の体験」「人の目イメージの消失」「自分で自分を守る感情」「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める」「ただ生きるという現実感」といったものです。

ここまではおさらい


■「心の自立」とは「覚悟」なり?

で、そうした「心の自立」外側から見た要素なり内側から見た動きなりの中で、「人間を変える」決定ポイントとなる一つの場所が、僕の感覚としては浮かび上がります。
それは「覚悟を決める」というポイントです。

「心の自立」とは、「覚悟を決める」という人間変化の節目を中心にして、その材料収拾から始まり、「覚悟」という一点に収束によって変化が起き、「ただ生きる現実感」へと新しい世界が広がる
そんな印象を感じます。

それだけ「覚悟を決める」という心の動き、心の使い方が重要になるわけですね。
ここでちょっとその一般心理学を説明しておきましょう。


■「覚悟を決める」が「感情強制」に陥らずに障害感情を唯一直接除去する

まず一般心理学的に言えば、「覚悟を決める」という心の動きが、各種のマイナス感情、つまり基本感情としては「恐怖」「怒り」「悲しみ」などを消滅させる、直接的な心の機能だということです。

これは「感情は直接変えようとはしない」「感情は正さない」「感情そのものよりもそれが湧き出る土台を向上させる」というのを原則としているハイブリッド心理学思想の中で、唯一、意識行為が直接的に感情を良い方向へと変化させるものだと言えるような話になりそうです。

これ以外にも比較的直接に感情を良くする意識行為としては、「プラス思考」が一応あります。何らかの失敗に面して、損失よりも、学べる面に意識の焦点を向けることで、かなり感情が変わってきます。
それでも、そこでどれだけ感情がプラスになるかは、もう意識ではどうこうするべきではなく、ハイブリッドとしての指針は、損失と得る学びなど全てを見据えた上で、その出来事についての自分の感情をあるがままに晒すことです。基本的には痛みを痛み、その中で学ぶことです。
ですからプラス思考も、別に感情を良くすることが必ずしも主眼ではないのです。

「覚悟を決める」は、そうではなく、我々が不完全で誤りの多い危険回避システムとして生まれ持った「恐怖」という足かせから解放させるために、自立の過程において断固として成さねばならない、心の行為なのです。

「覚悟」「恐怖の克復」において決定的な役割を果たすことは、注射を恐がらなくなる過程として観察することができるでしょう。
3、4歳の子供では、まだ注射を恐がるでしょう。注射の痛みが嫌なので、何とかそこから逃げようと、「恐怖の克復」とは逆の「恐怖の強調」をして、泣きわめき、親がなんとか注射を断念することを求めるわけです。

小学生くらいの中で、大抵の子供は「覚悟」ができてきます。もう逃れられないと諦める。で「恐怖の強調」はもうやめる。すると、大して痛くないじゃん、という話にもなってきます。

一方「覚悟」という心の使い方が基本的に不得手な人々が時にいます。大人になっても、注射を恐がり、血を見ると失神してしまうようなことさえ出てくる。
まあこれは単純に「覚悟の欠如」だけではなく、「対人感情」という一見無関係なところから含めた、本人の自意識が関係していると、僕としては踏んでいます。つまり心の障害全体の話になってくるということです。

「覚悟」は時に、「死」に直面するような場面で、人間の態度振舞いを両極端に違うものにします。
ある者は覚悟を決め、恐れることをやめ、冷静さを取り戻すことで、案外道が開けたりする。
ある者は恐怖におののきパニックになり、あらぬ方向へと走り、自滅したりします。

「覚悟を決める」というのは、それだけ決定的な心の機能なのです。
まああとは、「覚悟の内容」の合理性が問題になってくるでしょう。ハイブリッドで心理メカニズムを正しく知ることは、自分の心の動揺について理解し、覚悟するということでもあります。


こうした話を「覚悟」一般心理学として、次に人生心理学からその役割を説明します。
人生を大きくする歩みは、やはり「覚悟」を基本的なステップにするということになります。


心理学本下巻に向けての考察-166:「未知」への意志と信仰-58 / しまの
No.1419 2007/12/20(Thu) 11:06:11

■「覚悟」と「現実感」と「魂感性土台」

先のカキコでは、「魂感性土台の体験」として「人の目イメージ」が消える感覚の先に、「自分で自分を守る感情」「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める」「ただ生きるという現実感」といった心理状況があることをサマリーしました。

これはもちろん、取り組みの道のりにおいては、「魂感性土台の体験」をしたらあとは自然にそうした心理状況が湧き出てくるという話ではありません。
言えるのは、そうした心理要素が連鎖的に促されやすいということです。それをどう人生に役立てるかという話になってくるでしょう。

中でも特徴的なのは、「覚悟を決める」から「ただ生きる現実感」が生まれること、そしてこの状況が魂感性土台ととても親和的なものであり、覚悟を決め現実を感じ取る中で、我々は魂の感性に戻るということです。自分が何のために生きているのかを強く感じ取る状況が、そこに生まれるということです。
一方、「人の目」を前提に思考が働き始めた時、これらのどの部分から崩されるという話ではなく、全てが全く別のことになってくる。そんな印象を感じます。

これは意識の外枠の話です。

これをより具体的に、意識の内容コンテンツに焦点を向けて見ていきましょう。我々の日常生活の中で、何をどのように考えることで、このような心理状況の違いが生まれ得るのか。
その延長上に、我々が生きることに感じる価値と意味をどのように増大させていくことができるのか方法論が浮かんできます。

ここではまずその序論として、ついきのう書いた返答メールを紹介します。

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■「嘆かない」までをシミュレーションしてみる

まずは、

>四面楚歌でも、目をつぶって一人で空想の世界に浸っていれば、その痛みを自覚せずにすむものを…と。

こう言った不合理な不毛思考をできるだけやめちゃうことですね。結局、それでは済まないのが現実という以外にはもうないわけで^^;
で、

>けれど「嘆かない自分」という姿を当てはめると、感情の強制になり意味がないのですね。どうしても自分がそうなっているのを感じます。嘆くまいという意志は、自然と湧き出てくるものなのでしょうか。

これはまずメカニズム理解をしておくのがいいと思います。自己理解はまず何につけ感情メカニズム理解ありきだと考えてまず正解です。
これについては今日(12/19)Upした解説の通り、

人の目イメージが消える」→「自分で自分を守る感情」→「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める

という感じになります。
「嘆かない意志」は単独で考えると感情強制にもなり得ますが、感情強制にならないパターンもあります。
まあ前者は「あるべき姿」といった漠然とした動機の場合であり、後者は「現実的必要性」に駆られてということが言えると思います。

シミュレーションしてみるといいと思います。これはまず、例えば火事に遭遇して、自分の回りから人がいなくなって、自分でどうにかしないとならない、というような状況ですね。
もう嘆くのやめて自分でなんとかしないとどうにもならない、という状況です。

ですから、「人の目」を前にして「嘆かない意志」をどう考えられるかとは、大分違う話になります。良い悪いの話ではなく、全く別の話。


■とにかく「加算法」型思考が正解

で、\(^_\)その話は(/_^)/いったん横に置いといて(アハハ^^;)、

>前回書いた嘆きの理由よりも、会社における人の目恐怖・圧迫感から逃れたいというのが大きいです。
>会社にいるときは、まさに目をつぶっている状態です。本当はそれをどうにかしたい。でも、どうすればいいのか分からない。できることは、それが今の自分の現実なのだと理解することでしょうか。

これは明確な答えがあります。
「それをどうにかしたい」「どうすればいいのか」というのはまさに全く別のことを、「加算法」的に考えることです。

「これがいけない」「これをどうにか」的な、「減算法」的な思考は、結局元に戻ります。「成長」という前進要素を何も生まないからです。

ですから、人の目の恐怖感圧迫感も、それから逃れたいという感情も、全部含め、全く別のことを考える思考を立てる、というのが解決法になるわけです。
もちろんそれを立てただけでは解決完了にはならず、それを実践に移すという先の話が出てきます。

でその「全く別のこと」を、上述のシミュレーションの先にある「自分でどうにかしないとどうにもならない」という内容を、持ってくるわけです。


■「人の目どころでない状況」を設定した思考

ではその内容とはどのようなものか。
火事場から自分で逃げなければどうしようもない、という例は、その先が分かると思いますが、そのように「人の目どころではない」という話が、「職場」だとどうなるかですね。

まあこれも分かりやすい状況設定をしますと、会社が間もなく倒産するという状況です。まあ実際そんなことはないと考えるのはいいとして、実際そうであった時に、Aさんはどう行動しますか。社長から、「悪いけど今月の給料で終わり♪」と言われた状況です。

望ましい形を言っておきますと、即座に別の会社に移るなどできることです。
そのためには、自分がどんな業種でどんな仕事ができるかを知っておかなければならないし、そのために必要なスキルを自分が持っているかを、自己評価自己管理できなければならないし、そのためには具体的な課題においてどんなことをできなければならないかが分かり、実際にそれをこなせることが必要になります。

そうゆうことができるとは、会社が間もなく倒産なんてことにならない今も、人の目なんて気にせずに、人の目にも叶う行動を目の前の課題について行えるということです。


■「自立」はあくまで「根本解決の答え」への鍵

上記の話は、ちょっと考えると分かると思いますが、というか書いていて僕がまず感じたことですが、心理障害の治癒とは本来全く関係のない話です。まあ「会社の倒産に備えた仕事の仕方ができる」ことと、「心理障害の治癒」じゃー実際話が一見全然つながらないですね。

一方それは、「人の目」には揺らぎない自己確立に向う、「心の自立」のかなり高度な姿です。
そうした方向性をしっかり持つことで、それに向う歩みの中で、感情の膿を流す内面動揺を越え、心理障害も克服に向うという方向性は言える。

ただそれはやはり「根本解決の答え」そのものではないです。「根本解決の答え」がその中で現れやすい状況という話です。
「根本解決の答え」の先に「感情の膿の克復除去」という治癒があるのなら、別にそこまで自立など考えなくとも、健康な心というのは共存できる。

そもそも「自立」そのものが不完全なのが人間だという話をしています。大して心の自立をしていないままの、心の健康な人間というもの充分あり得ます。

だから、心の障害傾向の苦しみから解放されたいと考えても、わざわざ極端な心の自立思考など考えないのが人情というもので、すると「根本解決の答え」が現れる状況も作られないままなので、結局苦しみの中にとどまることになります。


■まずは「根本解決の答え」への扉を開ける鍵の獲得から

まあすっきりとしない説明ですが(^^;)、「心の自立」そして「嘆かない意志」とかは、「根本解決の答え」そのものではなく、やはり「鍵」なんですね。

話は上巻原稿の終わりの方の論調に似てきます。
「根本解決の答え」が、ある扉を開けたところにある。まずそのための鍵が幾つか必要になります。
「心の自立」は、ハイブリッドの前期取り組みの先にまずつかむ、第一の鍵とも言える位置づけです。

それ自体が答えではない。だがまず、その鍵をしっかりと手にしないと、答えのあることろへの扉は開けないという形です。だから「心の自立」自体は、一度心底に響くレベルで理解すれば、その先実践する要件はあまりないような話にさえなるかも知れません。

そんな感じで、まずは「鍵」の特徴を良く知ることからですね。
この先は掲示板で説明します。

でその後に、「存在の善悪幻想」次の鍵になり、扉を開けた先にある「根本解決の答え」はやはり「否定価値の放棄」に相当するものです。
だが最後に開ける「扉」そのものは、「信仰」になるかも知れません。ハイブリッドの場合は科学と近い信仰ですが。

いずれにせよ、ここ当面の懇切詳細レベルで、「否定価値の放棄」までどうつながるかを書いていきますので。
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心理学本下巻に向けての考察-165:「未知」への意志と信仰-57 / しまの
No.1418 2007/12/19(Wed) 12:36:53

■「中期」の最初の実践-2:「人の目」を通さずに社会を見る

ハイブリッド取り組みの「中期」は、まず「魂感性土台」において「価値の生み出し」を見出すことが目標だという話から始めましたが、これをどのような心理状況の中で進めるかの前提が、かなりはっきりしてきたのではないかと思います。
単に「魂感性土台に立って価値を生み出す」だと、魂感性土台を体験した内容で、人に向うための思考法を考えてみるというような感じに解釈される嫌いがあると思いますが、かなり話が違ってくることになります。

つまり、「魂感性土台の体験」を含め、次のような心理状況変化がある。その先の話だということになります。
1)魂感性土台を体験し、「人の目イメージ」が全く存在しない視界を前提にした思考法があり得るという可能性を感じ取る。
2)自分で自分を守る感情を感じ取る。
3)嘆くのをやめる意志を持つ。その代わりに「答えを出す」のと「覚悟を決める」ことをする。
4)嘆くのをやめた時に現れる「ただの現実」に心をしっかりと晒す。そこに「喪失」が含まれるのであれば、失うものと同時に得るものにしっかりと目を向ける。
5)「ただの現実」を「ただ生きる」という「現実感」をしっかりと受け入れる。これは先のカキコで書いたように、「生きる喜びを見出す」というより、「死ぬことのできない現実」を痛みと共に受け入れるというような姿勢をイメージする方が、この段階の話としては実情にあったものになるでしょう。
下線を引いた項目を数えると8つになりますね。これだけのことが、スポーツで言うと「運動要領」のようなものとしてあるわけです。「心の動かし方の要領」ですね。

これは「イメージを引き金にした感情による操り人形状態」の世界から抜け出し、過剰な空想の解けた現実世界へと、「ただ生きる」ことへの内面の力を回復した状態とも言えます。これは心の障害からのいったんの治癒が完了したとも言える状態です。
それが、ハイブリッド取り組みにおける「中期」開始状況だということになります。

ですからこれは「そうしよう」と考えてできる話では必ずしもなく、ひとえに「魂感性土台の体験」につながるまでの「前期」取り組みの成果いかんがあり、さらにその上に本人の先に進む意欲と努力という、「実践結果」「実践努力」総合的な段階になってきます。

一方、「中期」から先の話についても、まず頭でできるだけ理解し、イメージを持ってみるということは、最初の段階から可能であり、そうしたイメージに照らし合わせて、現在の自分をより充分に理解することにつながるでしょう。
さらに、「中期」から先の実践を妨げるものについての説明は、「前期」の中心課題である「自己理解」としてまさに重要な内容になるでしょう。

ということで、この先の話も全ての人において重要になるということで、まず理解ありきを考えて頂ければ。
実際に進むのは、頭で考えてではなく身をもって変化する中で、ということで区別して頂くといいでしょう。


「ただ生きる」という内面の力を見出す先に目を向けて頂きたいのが、「人の目を通さずに社会を見る」ということになります。
あるいは「人の目を通さずに生活を豊かにする」という観点でもいいですね。

ちょっと短いですがここまでの全体整理としていったんカキコして、中期の具体的な実践説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-164:「未知」への意志と信仰-56 / しまの
No.1417 2007/12/18(Tue) 15:40:55

■「ただ生きる現実」につながれていく「魂の絆」

「嘆くのをやめる」先に開かれる「ただありのままの現実」に、心を晒す。その時「魂」は、その変化が全く見えないまま、一歩「強さ」へと前進します。
そうした「ありのままの現実」に自らを晒した心が生み出す、「目に見えない」まま起きる「魂の成長」についての締めの話として、1年間の「忘却の日々」を経て僕が再開した日記を紹介します。

失うものは良く見えるが、その時同時に得るものは見えない。
そうした類の「魂の成長」になりますね。それは僕自身にとっても、逃れられない自分の心の混迷に、「こうなれていた自己理想」を失うような感情の中でのことでもありました。それでも、その中で強さを増す魂は、見えないままでは済まず、僕にあることを強く伝えるものでした。

それは「生きる喜び」などという絵に書いた餅ではありません。それがどのように得られるのかは、この後に始まる「価値の生み出し」への模索から始まる歩みの中で見出されるものです。
その前段階です。その時、魂は、この現実を生きていくしかない自分の存在というものを、強烈に伝えるのです。

それが「生への魂の絆」の、最初の芽なのかも知れません。

1986.4.1 (火)
 この日記を書くのは本当に久しぶりのことだ。
 というより、僕はこの日記を書かないつもりでいた。もう2度と書かないつもりでさえいたのだ。
 自分の内面を内省して、日記を書くという行為自体に、何となく嫌悪感、いや軽蔑感のようなものを感じたのだ。
 仕事に関して言えば、これ以上僕に合った仕事はないだろうと言ってよかった。日々の仕事を通して自己を発揮し、ひとかどの人間になれれば・・・もう以前のような自意識に悩むことはもう済んでいいことではないかと思えた。
 しかし、僕はまた
孤立感と、自分の行動のちぐはぐさに、そして他人から受ける嫌悪感に、悩まされ始めた。自分のちぐはぐな態度のために、会社の、特に僕にとって重要だと潜在的に思っていた人々の自分への感情は、完全に冷やかなものになってしまったと思えた。
 そして、
もうこれ以上混乱に悩まされるのは厭だし、これからどのように生きていけばいいのか、分からなくなった。完全に開き直って、他人を無視し、誰とも何の関係も持たずに生きることも考えた。そうしようとしても結局は、他人への期待と苦しみを感じざるを得ないかも知れない将来を思うと、完全に自ら死ぬことを決意する気持ちになった。
 
それでも、結局は、死ぬことはできないのだった。家族のこと、少なくともまだ結婚もしていない妹のことを考えると、どうしても自殺をすることは、それ自身が僕には別の苦しみにならざるを得なかった。

 
それは、はっきりとした、『Human Bondage』なのだ。
 それは、僕の足にはっきりとつながれた、決して切ることのできない、重い鎖なのだ。

 僕は、「人間の絆」から、自分が、徐々に解放されていくのだと考えていた。だが、実際には、僕は初めて、それに気づいたのだ。
 恐らく、それが、今の僕にとって、最大の「生きる理由」なのだとさえ、言っていいような気がする。少なくとも、それは、僕が自ら死ぬことを許されない最大の理由なのだ。少なくとも、それがあることにおいて、僕にとって「生きること」は義務なのだ。
 人間は、自ら死ぬことを、自由意志によって許されると、今までの僕は考えていた。


まあ、かつては、冷徹な知性の中で自殺念慮を浮かべ、「これは僕の生活の問題なのだから。自殺も“生き方”のひとつなのだ。それ自体を絶対的に否定しようとしたって無理なことだ」と、家族の悲しみさえも強引に踏みにじろうとする思考に陥った、別の自分があったという感慨を感じます。『悲しみの彼方への旅』P.159)

なお文中の『Human Bondage』とは「人間の絆」ということで、当時読んだサマセット・モーム『人間の絆』を引用して書いたことです。
これに人生についての感銘を受けた人は少なくないでしょうね。ネットで読者レビューを見たらこんなのありました。
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”人生に意味なんてものはない。いわば人生とはペルシャ絨毯のようなものだ。この絨毯の刺繍のように、おのがめいめい、それぞれに、自分の人生を紡いでいけばよいのだ。それぞれの人生は、だから、紡ぎ上がった時点で、過各人各様の様々な模様になる。人生には使命や意味、そして意義はない。それでいいのだ。”と。私は、この主人公の思念によって、これはいわばモーム自身の魂の遍歴の結果なのですが、自分の人生を救われました。私は大粒の涙とともに、それまでの苦悩がすべて昇華され、大いなる歓喜にひたり、そして大きな心の変動なく、現在40歳にいたっています。私は本著によって本当に救われました。また世界の多くの人々もきっと”人間の絆”によって救われていることであると信じます。
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■「価値を生み出す」ことから歩む「人生」

まあモームの『人間の絆』には僕も当時結構感銘を受けたと思いますが、それは引用した読者レビューのように明瞭なものではなく、「ただ生きる現実がここにある」という感覚の強烈さ自分で受け入れるというようなことであったと感じます。
その裏で、「魂」ははっきりと、その先を見据えて動き始めていたのかも知れません。

「人生に意味はない」というのは、ハイブリッドではもうかなり違う思想になってきますね。

いずれにせよ、その時の僕に、今の僕なら何を伝えるだろうか、とちょっと考え、すぐ出るのは、「ハイブリッドの全て」だということです。魂と心の分離があり、それを取り戻すための道のりがあるということです。

「価値を生み出す」ことを学ぶことから、それが始まります。
同時に、「自殺そのものを否定しようとしたって無理なことだ」と冷徹な知性へ囁いた、悪魔の思考の正体を解く道へと、歩み出すわけです。


心理学本下巻に向けての考察-163:「未知」への意志と信仰-55 / しまの
No.1416 2007/12/18(Tue) 13:48:41

■「中期」の最初の実践-1:「嘆きの空想世界」から「ただ生きる現実」へ

「嘆くのをやめる意志」「前期」の仕上げ的なものとして見出したい、という話をしていますが、これをさらに、「中期」の始まり的な位置づけとして、より積極的な側面から見ることができます。

それは、「嘆き」の中で我々はどっぷりと「空想世界」に浸る一方、「嘆くのをやめる意志」の先にあるのは、その空想世界をとっぱらった、「ただの現実世界」が広がるという意識転換です。

これも良く考えれば、同じ外面世界に対して全く異なる内面があるという、端的な局面です。
「あるべきでない」ことを嘆く時、我々の意識は「あるべきだったこと」と、それが「失われたギャップ」を頭いっぱいに描きます。一方「嘆くのをやめた」時、それらの映像はただ消え、これから自分が生きる「ただの現実」がそこに現れます。

この転換はあまりにも鮮明であるため、人は時に戸惑いを感じるかも知れません。失ったものを嘆くのをやめた時、それは「あるべきもの」の映像さえ消えてしまうことを意味するので、自分の自尊心を支えていたかも知れない何か重要なものを、自分が手放してしまうことであるかのように感じるのかも知れません。
かくして時に人は、過去に失ったものを嘆くことだけに、時間の止まった人生を向けることがよくあるわけです。

ここにも決定的な「選択」があることになりますね。「嘆きの空想世界」を取るか。それとも「これから生きるただの現実」を取るか。
明らかに、どっちも可能です。前者を取っても、それほどおかしくならない(^^;)まま生きていける脳の構造を、人間は持っています。
そしてこの選択のどっちが「正しい」か、さらにはどっちが「より豊かへと向う」かさえも、判定するための論理はありません。嘆くのをやめて、ただ生きることを選択したところで、実際そこにはまだ何もないのですから。

ですからこの「選択」をガイドするためにハイブリッド心理学などができるのは、「ただ生きる」ことを選択した方向性の先にどんなことがあるのかという長い目を説明するだけです。これはハイブリッドだけではなく、人類の歴史を通して先人が人生について色んなことを言ったのが、そうなのだと思います。


■切り替え論理のない「嘆き空想」から「ただの現実」への転換

ここではその「嘆きの空想世界」をまた出しておきましょう。その直後に、12/13「未知」への意志と信仰-47で紹介した、「嘆くのをやめる意志」が生まれたちょっと前のものです。

大学院を出て、中堅システム開発会社に就職して、ホントのホントに「新たな人生」の始まりのような感じの、入社日のものです。
この後紹介したいものを探していて目にとまったのですが、自分で呆れて笑ってしまうような内容なんですが、これが成長の始まりなんですね。
「どう見られるか」ありきの世界の中に、心があるわけです。

メカニズム的には、その底に愛情要求自己否定恐怖があるということになります。
それがこの後どのように根本解消されるかに、「価値の生み出し」「否定価値の放棄」「魂の望みへの歩み」などがあるのですが、ここで紹介する「成長の始まり段階」では、そうした根底が関る以前での、「空想の一人歩き」を解除するという単独側面が、どうしてもあるように感じられます。
これはもう理屈ではありません。ただ、「嘆き空想」から「ただの現実」へと、自分の体の向きを変えなければならない時が、人生には何度か訪れるのだと思います。強固な意志でです。

やや先走った説明までしておけば、そうして「嘆き空想」から「ただの現実」へと体の向きを変えた先に、「失われたものへの嘆き」を切り捨てるのではなく、そこに自分が向けた「望みを看取る」ということが出てくるわけです。
「望みを看取る」というのは、実に両面的なんですね。ただ喪失に見入るだけではできないし、それを意識から振り切り前を向くだけに徹しようとしても、できない。

多面をそれぞれ、一つ一つ踏まえていく必要があります。一つ一つ身を晒していく必要があります。それによって心が根底から一つ一つ変化し、次に両面を同時に見ることで起きる変化に、身を晒すことができるのです。
それを頭で最初からこうだと決めつけて進もうとすると、成長が見失われます。

では頭ではどう考えればいいのか。これは「前期」取り組みでもう言っている指針です。感情は強制せずに、湧き出るままに開放することです。その中に、多面の中のどれかを示す手がかりがあります。それをしっかりと見ることです。どう見るかは、もうさまざまに説明していますね。

そんな訳で、新しく人や社会に出る場面に向うと、やはり心は「人の目」ありきに向かいます。湧き出る感情がそうなっています。
それをありのままの自分の中に見るのも、一つの「自分の心の現実」に身を晒すことだとも言えるでしょう。
そしてそれが幻想世界であることを自覚し、それを脱する意志を持つ。こうしたステップの繰り返しも、やはり最後まで続くスパイラルの外枠の一面です。

1985.4.1 (月)
 今日は
会社の入社式と歓迎会だった。今日そこで僕は、思いもしなかった大きな精神的動揺を味わった。
 入社式が終って、20人くらいか、喫茶店「ルノワ−ル」へ行き、そこから出て帰る時だった。僕はその時までは、皆に積極的に接しようとしていた。
自分が緊張しているという浅薄感も少しあった。
 ルノワールを出て、どうしようかと皆が迷っていた。飲みにでもいくのか。僕も、表面では隠そうとしながら、
内心は優柔不断そのものだった。“イニシアチブを装う”ことに疲れを感じていたのも事実だった。
 少しして、僕と同じく
もう一人の院卒のKくんが帰ると言った。僕もあわててそれに同調した。集団に「じゃ、お先に」と言って。少し歩いてから、僕はものすごい後悔に襲われた。この会社における“安全”を確保しておくために、せめて今日は皆と一緒にいるべきではなかったろうか。僕は自分が“大失敗”をしたように思った。“皆を怒らせた”そう思った。これでずっと、僕はこの会社の中で嫌われて過ごす。そう感じた。その事実に、恐怖さえ感じた。

*補記*
読み返して思わず「我ながら、ハァ〜〜」と深いため息が出る感^^; 「その事実」と、「事実」をカッコでもクオーテーションでも囲まずベタの言葉で書いているのが、この「空想世界」が当時の僕にとってのリアリティを示しているかと。

 Kくんとあともう一人と一緒に歩きながら、僕は“戻って皆に謝ろうか” そんなことを考えた。“最悪の事態だ” そう考えた。何よりもマズかったのは、初めに皆に示した、親しさを装った態度と、これから自分が取るであろう、おどおどした自閉的な態度との、激しい格差だ、と思えた。それに対して、皆が怒りを向けるように思えた。“もうあいつの言うことは何も信じられない” そんな非難を向けられるのを空想した。
 僕の
心の中が少し楽になったのは、明日あたりにあるであろう自己紹介スピーチの時間に、“心理学を学んだのは自分の性格を変えたかったから”ということを喋ることを考えついてからだった。それが、もう自分を装う気疲れなしに、真の自分の姿を知ってもらえる唯一の手段だと思えた。またそこには、同情を求める気持ちもあった。
 またそこで重要なのは、
“悩む自分”を自分自身で許容したことだった。親しさを装うとやっきになっていた時は、僕はむしろそれを排除しようとしていた。

 “情緒不安”とか“自閉的”とかへの、嫌悪、軽蔑、非難を受ける不安を柔わらげるための、強迫的な親愛行動。まさに僕はそれにとりつかれていたのだ。



■「感情の放置」によって近づく「現実の生」

こうした心理状態について、まずメカニズム的に言えることは、本人の思考法の問題以前に、この人間を圧迫している情動の塊が、この人間自身の心の底にあるという事実です。
それは愛情要求であり、自己否定感情であり、恐怖であろうとして、さらに明らかにあるのは、人の性格振舞いについてある容赦なく厳格な理想基準に支配された「存在の善悪幻想」世界がその頭の中にあるのであろうことです。

それに対して、ハイブリッドもなかった当時としては、僕としてその幻想を解こうとした意識努力があったわけでもありません。一応日記の最後の方に、「自己受容」の視点が出ている程度で、あとはものこの感情動揺については「思考の断絶」になったような感じです。

それで正しいんですね。感情動揺を解いて霧散させようとする意識努力は、むしろ感情動揺を増加させることに大抵なります。感情動揺を生み出す大元であるところの、感情動揺がない自分という絵に書いた理想への駆り立てに自分から向うことになるからです。

では最新ハイブリッドで進歩した視点は、どう役に立ってくるのか。「感情の論理を解く」のにさらに役立ちます。
これは「感情の開放と理解」の範囲でやることです。あくまで「理解」の範囲で、自分でも不明な「感情論理」を解くと、変化の可能性がかなり出てきます。
感情そのものを解消するというニュアンス「感情を解く」という意識になってくると、これはむしろ感情強制になってきます。
まずこの違いを見分けていくのが、「前期」的な段階での中心課題になりますね。

そうして開放し理解したら、自己受容の姿勢で、もうそれ以上その感情を追わない。これが正解です。
事実僕の場合も、上記の翌日にはまた何ごともなかったように入社2日目が始まり、そして同じように感情の昇降はあれど、その中で何ごともなかったように続いている「ただの現実」を前に、はっきりと僕の中で「嘆くのをやめる決意」が成されたわけです。

自分の感情を開放し理解し、破壊の非行動化をしたら、あとは「感情を放置」する。これが基本的な治癒の方向性です。その時、治癒の内容としては、「ありのままの現実を生きる」ということへの近づきが起きるのだと考えられます。
魂がさらに強くなっていくわけです。

でその次には、「価値の生み出し」「否定価値の放棄」へと続け、「望みの看取り」なり、より根本的な実践に向うのが望ましいのですが、当時はそれを教える心理学もなく、僕はただ外面に向う「忘却の日々」に入った次第です。
心の底にある情動の塊は、消えてはくれません。1年後に、それを逃れられない自分をはっきりと自覚するわけです。

そこでまた、「生きる喜び」などという絵に書いた姿とは別の形での、魂の成長が起きます。
その紹介を次に。


心理学本下巻に向けての考察-162:「未知」への意志と信仰-54 / しまの
No.1415 2007/12/18(Tue) 11:06:40

■「現実」へとつながれていく「魂の感情」

先のカキコでは、「魂が感じる価値」を中心に据えた時、それを支えるための生活設計や人生設計というものが実に具体性を帯びてくる、という話をしました。

そこでは「夕日を眺める感動」だけを生きる価値にした時、年収2桁の生活という「現実形」が生まれるなどという例も出しましたが、それでは実際のところは「世捨て人」のような話になってきますね^^;
もしくはこの人がもうかなりの年齢で、若い時代にさんざん望みを尽くした経歴の持ち主であれば、もはや人と交わることのない生活の中で、満ち足りた残りの生涯を送るなんてことも考えることが可能になってくるのかも知れません。そんな人間にとっては、「千の風になって」で歌われるように、朝の光から夜の星々まで、そして空を飛ぶ小鳥から川面をはねる魚までの全てに「魂」が宿っているのを感じ、それに触れ合うことで満ち足りた生活を送るということが出てくるのかも知れません。これは遠い昔の人類において、何か実際にあったことのようにイメージされます。

「魂の成熟」とは、そして「魂の豊かさ」とは、そうゆうものです。

しかしそこまで人生を極めた後の話ではない我々現代の一般人としては、世を捨てずに社会の中での自分の生活と人生に向おうとした時、一挙に「人の目」に心が翻弄されることになるわけです。

それでも方向性は同じです。我々は魂が感じ取った「価値」で、「生きること」に真につながれます。魂が感じる「価値」でつながれた「生」は、無条件のものになります。もはやそこでは「生きること」が微塵の疑問も抱く必要のないものになるわけです。

「人の目」が気になった瞬間、「こう見られれば」という空想を基準として、「現在」は「仮」の姿と化します。「空想」が基準になるのですから、「現実」における「生」は、しっかりとつながれていない、脆いものになります。「こう見られる自分」になれない時、「生きる意味」が見えなくなったりします。


■「現実にありのままに心を晒す」ことによる魂の萌芽

そんな中で、「魂の感情」はどう豊かさを増していけるのか。どうすれば「魂の感情」を豊かにでき、生きることに確信と充実と喜びのある人生を始められるのか。

それがまだ見えない段階において、明確に指摘したい一点とは、「現実」です。「現実」に、どうありのままに、ダイレクトに、心を晒すかということだと言えるでしょう。
「理想と現実」という構図ではなしに、です。理想を基準に現実を見ると、現実が時に色あせて見えます。逆に、現実を理想通りだと思い込もうとすると、現実を虚構で粉飾して見る錯覚に陥ります。
そうではなく、「現実」をただ「現実」がそこにそのようにある。それをそのまま心に晒すという、心の機能があります。その時、「心」の表面よりも、「魂」に変化が起きるのです。

人の目感情に絶望的に翻弄される状況を何とか脱し、「魂感性土台」を知った段階、もしくはそれに相応する段階からハイブリッド取り組みを始めようとされる方に、まずお伝えできるのはそれになるかも知れません。

それ以前の深刻な心の障害傾向からの取り組み開始段階においては、「現実にありのままに心が晒される」ことは、往々にして「自己操縦心性の崩壊」を意味します。心の表面完全なる絶望感情と、しばしば希死念慮におおわれます。
しかしそれを越えると、魂の感情が萌芽します。これはもう例外なくそうであることが、相談事例においてもそろそろ両手で数え切れない数の段階に達しています。

そうした「魂の成長変化」は「こうなれれば」「こう見られれば」という「理想」に意識が取られた時、まったく視界に入りません。しかしそれは常にそのように、起きているのです。それにしっかりと目を向けることです。しっかりと目を向けることで、その魂の変化が心に定着します。しっかりと目を向けない時、「魂」の変化は「心」によって無視され、逆戻りさせられてしまうかも知れません。


■「喪失」の中で成長していく「魂」

「現実にありのままに心を晒す」ことによる「魂の成長変化」は、人生において不可避であるさまざまな「喪失」の体験の中でも起きているという、より一般的なことも言うことができるように思われます。
「心」はその時、「喪失」の側面しか見えていません。しかし「魂」「喪失を越えて豊かになっていく」ことが、DNAに刻まれた設計なのだと感じます。これは上巻原稿で書いたように、「望みを看取る」ことで「魂に魂が宿る」というメカニズムによってです。

ですからその点、世の人々は、あまりにも「喪失」を「あるべきことでない」と嘆き過ぎるように、僕としては感じるのですが..。まあこれをあまり表立った事件などに際して言うと、ちょっと道徳心の欠如を糾弾されてしまう嫌いがあり、とりあえずは、「世の悪事を断固許さない原理原則的対処」は別途あると言っておきましょう^^;

以前銘の言葉として次のようなものを思い浮かべたままでしたが、ここで書いておましょう。

「失うものは良く見える。しかしその時同時に得るものは目には見えない。その見えないものを見る目を持つ必要があるのだ」、と。


こうした局面での「魂の成長変化」についてちょっと実例も出そうかと思いますので、いったんここでカキコ。


心理学本下巻に向けての考察-161:「未知」への意志と信仰-53 / しまの
No.1414 2007/12/17(Mon) 14:03:49

■魂感性土台で見出す「価値」とそれを支える生活へ

先のカキコでは、「中期」取り組み2面だと書きました。
1)魂感性土台において価値を見出し生み出して行く
2)人の目感性土台において掲げられる「理想」が脆い根底理由を探る
まず最初の側面について、実情に即した説明をしましょう。

「魂感性土台」はまず、自分に向けられた強い感情のイメージを伴う「人の目イメージ」が消え、一瞬心がまっさらになったかのような、日ごろの日常生活とはむしろ切り離された時間のように体験されると思います。
それは大きな空に沈む夕日の美しさに感動し、常日頃人間関係で実に些細なことをめぐって神経をすり減らしていたのがバカらしいように感じられるような一瞬であったり、「千の風になって」のような深い愛への情感のこもったメロディーに耳を傾けたときに、思わぬように自分の中に湧き上がる、何か子供の頃に失われたものを希求するかのような、あまりにも濃い感情として、体験されると思います。こうして思い浮べただけでも、ちょっとジーンとくるものがある^^;

そこには何かの「感動」があると思います。そfれはもう「人の目」には全く依存しない「感動」です。その瞬間、自分が「この感情において生きている」と感じることのできる状態になっていることを、分かると思います。
事実そのように、「魂の感情」に身を委ねた時、我々は「生きる理由」など考える必要もなく、「魂の感情」によって、生かされるのです。

このような「魂の感情」が向う先、つまり「魂の感情」が求める先にあるのが、「魂が感じる価値」です。
それはもうそれが何なのかと言葉で定義して納得する必要さえない「価値」です。それを敢えて言葉にすれば、「無条件の愛」であったり、「自然との一体化」であったりします。


■「生きていける」最低ライン..

「魂が感じる価値」はそのように、他者に依存することなく、極めて自律的「自分がこの感情において生きている」という充実状態を生み出すものであり、人生において全くブレのないものになります。

従って、このように「魂が見出す価値」を知り、それを別の視線から見下す(これはこのあと説明します)ことなく、大切なものと尊重した時、「魂が見出す価値」の体験を支えるための生活行動を考えるという発想が可能になってきます。
これは「魂感性土台で価値を見出し生み出す」ことそのものではなくなってきますが、それを支えるための行為として、「魂での価値の生み出し」に準ずる行動と位置づけることができるものになります。

例えば大自然の中で沈む夕日に感動するという「魂が見出す価値」を支えるために必要なものとは何か。
これはとにかく生きていければいいという、最低限の生活費を稼ぐ、という話になります。また、その風景を見るために遠くまで出かける必要があるのであれば、そのための必要事項を賄うことが必要です。

ここから話が実に具体的になってくるわけです。実のところ大自然の夕日に感動する体験魂の価値として持ち、それ以外の雑多でブレの多い「人の目の中の価値」に心を惑わさない人間がいたとすれば、3桁に満たないような年収の仕事を細々と続けて生きることで、もうそれだけで幸せな人生生活になるという、「現実形」が考え得るようになってくるということです。
まあ夕日に感動するのが人生の全てとする訳にはちょっといかないのが現実の我々ですね。


■「支えるべき魂の価値」を知った時無意味な仕事が意味を持つ

しかし考え方はまさにそうなのです。我々は一体どれだけの「価値」のために、日々の生活を送っているのか。我々が生活の大きな時間をそれに当てる「仕事」とは、どれだけの「価値」に本当に対応しているものなのか。

全てが「魂の価値」に直結するものになるのであれば、これはハイブリッドが考える理想形になります。例えば僕が執筆だけで生活できるのであれば、これはかなり僕としても理想形に近くなると考えています。
しかしそうは問屋が卸さない。「現実」というのはそうは安々といくものではありません。で僕もまたITの仕事で収入を得ることを考えている。これについては僕自身かなりその現実解を描くのにブレがありましたが、最近かなり現実的な着地ポイントが見えてきました。この技術分野でこの程度の収入で、執筆とどの程度両立できるかとか。

でそうした「生活設計」を、「魂が感じる価値」をしっかりと中心に置いて描くことができれば、結果の外面においては魂などないという顔をして仕事してた時と同じように、結構面白く打ち込める自分を感じてもいる次第です。これも案外楽しいじゃん♪という感じ。
しかしかつての僕がそうであったように、ITを天職のように捉えその中で人の上に立てる技術を極めることを自分のアイデンティティであるかのように考え始めた時、何かが失われる。

失われた結果の姿を、僕はもう充分体験しています。組織で認められることの中に自分の人生があるかのように感じていた、思い返すと別人の自分がいます。ほんの5年前までです。
さらに20代も終る頃まで時間を遡ると、中規模システム開発会社から大手コンピュータ企業に移り、格段にデカいプロジェクトで仕事をするようになった自分がいました。分刻みのスケジュールの中で時に打ち合わせ場所の移動のために短距離走のように走る自分に、バリバリの有能な人材という自己像に酔った時も。

しかしそんな中のある日、突然目の前の仕事の全てに全く意味感を感じられずに頭が真っ白になっている自分を、見出すわけです。いったい僕はなんでこんなことをしているのだろう。僕の人生はいったい何でここに来たのだろう。
そしていたたまれない気分になり、職場を抜け出して、おだやかな日差しの中、公園に接する街路をゆっくりと歩きます。仕事のことなど微塵も考えることができない僕の脳裏に映り流れていたのは、やはり小学校時代の漠然とした映像であったりしました。こんなことしてない自分という人生も、本当はあったのかも知れない..と。そうして30分ほど時間をつぶし、仕方なく職場に戻り、ただ淡々と仕事を続けた。
思い出すと目頭が熱くなる感がありますね..

ということでちょっと余談が入りましたが、「魂が感じる価値」を中心に置いて生活設計や人生設計をするというのは、実に具体的で現実的な検討事だということです。
そして、「魂が感じる価値」を支えるためのものと位置付けることができた時、全ての行動に意味が感じられます。


我々が携わらねばならない「仕事」とは、それ自体に魂で価値を感じていくなどというのは、まず無理であるのが現実だと思います。しかし魂で感じる価値を持ち、それを支えるためにしているものである時、やはり仕事に魂がこもるという姿になるようです。
この辺、仕事に打ち込む人なんでそんなことにそこまで意気込めるものかと冷笑的な観念を抱く時、何か見誤っているかも知れませんね。

ただしまあ、魂を見失った結果仕事中毒というのが、現代社会の大きな問題なわけで^^;
夕日に感動する時に「魂が感じる価値」自律的なものであることは分かっても、それ以上に人生で求めるものを考えた時、それはやはり「人の目」の中にあり、「どう見られるか」ありきの感情動揺の世界に戻ることになる。
その段階での視点を次に。


心理学本下巻に向けての考察-160:「未知」への意志と信仰-52 / しまの
No.1413 2007/12/17(Mon) 10:59:10

■「魂感性土台」で見出す「価値の生み出し」

ハイブリッド取り組みの「中期」でまず目標にする「価値を生み出す」ことは、「魂感性土台」の上で実践します。

「人の目感性土台」の上では行いません。「人の目感性土台」の上での心の動きについて行うのは、全て「前期」のものだけです。つまり破壊の非行動化自己理解のみです。これは最後までその形で残ります。
「中期」「後期」では、全く異なる心の領域を使った歩みを取り入れます。

これは深刻な心の障害傾向から取り組みを始めたケースにおいては、「中期」は、本人の意識においては今までと全く異なる、新たなる人生に向うような心づもりが生まれている状態であるはずです。僕の『悲しみの彼方への旅』では大学4年を終え大学院へ向う時のように。
一方「中期」から合流してこられる、人間関係でストレスを抱えやすい程度の一般のご一行様におかれましては(^^;)、「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いを充分に理解して頂くことをもってスタート条件とします。

その上で、今までと全く異なる「心の使い方」として、「魂感性土台で価値を見出し生み出していく」ことを方向性として実践して頂くわけです。


■まず「人間関係には一切関らない視野」で

これは実際のところ、その最初においては「人間関係には一切関らない視野」にて行うとでもいうような内容から始まる形に、かなりなってくるかも知れません。

それと言うのも、人間関係が関係すると、どうしても人間関係を良くすること「価値」と感じ、今まで考えた「人間関係を良くする方法」の延長で「価値の生み出し」を考えてしまう轍が考えられるからです。

今まで考えた「人間関係を良くする方法」に根本的に誤りがあるのを、ハイブリッドとして軌道修正したいわけです。
はっきり言って、人間関係を良くしようとする思考法が、人間関係を悪くしています。真に人間関係を良くする方法は、人間関係に全く依存しないところに価値を見出し生み出すことが、共通目標共通利益になる所にあります。
これは当然なんですね。脆いものをつなぐために、同じく脆いものを使っていては元も子もありません。揺らぎないものによって脆いものがつなぎとめられた時、全体が一体となり輝く調和が生み出されます。

ですからハイブリッド「中期」の取り組みも、大きく2つの面を持つことになるわけです。
一つの面は、魂感性土台において価値を見出し、生み出していくことです。魂感性土台において見出された価値は人生において微動だにしない安定性があります。
一方、人の目によってつながれた価値は、ガラス細工よりも脆いものです。この脆さの根底の原因を理解していくことが、もう一つの面の取り組みです。それにより人の目由来の価値が破綻の中に飛び散った時、魂が見出す価値が増大しています。


■「あるべき理想」vs「価値の生み出し」?

なぜ人間関係を良くしようとする思考が、逆に人間関係を悪くしてしまうのか。

これはもちろん「人間関係を良くしようと考えなければいい」なんて話ではなく、「人間関係」という領域においてもここでテーマにしている思考法行動法が問われるということです。
つまり「価値を生み出す」ということです。「良い人間関係」は間違いなく「価値」となるものだと思います。人間関係を良くしたければ、人間関係における「価値」を生み出すという思考法行動法が望ましい。

それがそうではなくなってしまうのが、「価値を生み出す」ではなく「あるべき理想」という思考法になります。
事実、「あるべき理想」を抱くことと、「価値を生み出す」ことは、思考法行動法としては全く別世界のものになります。

実際、「価値を生み出す」ことをあまり知らないままでいる方、これはイコール人生の生き方をあまり知らずに人間関係でもストレスを抱えやすい方ということになるほどの大局的な話になるのですが、そうした方々の様子を見て感じるのは、「理想」というものが果たしているらしい、あまりにも皮肉な機能とでもいうべきものです。
人々は「あるべき理想」を自分がちゃんと知っているということに自尊心を感じているのですが、「現実」の中においてできているのは、その「理想」から自分を処罰し、他人に怒ることです。そしてこの自己処罰し怒る姿において、「理想」とはまるで違う姿になってしまっています。

なぜそんなことになるのか。「理想」そのものには確かに間違いはないのですが、何かを根本的に誤っています。
「思いやりが大切」と人は良く考えるのですが、それを強調する人に限って、見るとどうも思いやりがないように見えることがしばしばあります。これは当然と言える事態が、実は起きています。この人は「思いやり」を思いやっているのであって、相手を思いやっているのではないんですね。

僕自身「思いやりが大切」なんて思考はてんでしませんが、自分を見ると実に最大限に人を思いやって