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2008.02


心理学本下巻に向けての考察-228:「未知」への意志と信仰-120 / しまの
No.1488 2008/02/29(Fri) 12:30:59

■「病んだ心からの治癒と成長」という応用形

「心の成長」真の姿は、それを歩んだ結果として後から分かるものだという制約がある、という話をしました。
ではそれが見えないところから、それに向かう中で見えるものとは何なのか。何を見ればいいのか。まず見えるのは「人の目」イメージの中で揺れ動く感情だけです。

そこから始めて、深刻なケースにおいては「感情と行動の分離」の「内面感情の開放と理解」あたりを主な踏み台として、何とか「魂感性土台の体験」あたりにまで落ち着かせる。それほど深刻でないケースにおいてはさらっと実践内容を押さえて頂いた上で、魂感性土台と人の目感性土台の違いが分かることあたりから始める。
これが「前期」段階。まあ実はこれは全ての面において準備に過ぎないような話になります。この心理学を整理し始めた頃には、到達だと考えていたようなものが、実は準備段階というような話になるわけです。

ここから、「心の自立」方向性への本格的な取り組みが始まります。
まず理解することからです。「心の依存」「心の自立」で何がどう変わるのか。その先に何があるのか。


■「心の自立」を目指す

「心の依存」の中では、愛情要求「存在の善悪」底流にして、「人間性への怒り」「否定のループ」が心の表面に主に見えるものになります。

「心の自立」の中で、「存在の善悪」は「行動の善悪」に置き換えられます。「価値の生み出し」が、怒り否定することで得る自尊心を、現実において生み出し、価値を認めることのできる自尊心へと置き換えます。もはや「自分」というものに縛られることのない自尊心に支えられ、「愛情要求」は、もやは愛を与えられることなく愛に満たされている「包含の愛」へと、魂を成熟させます。

まずはそうした根本的変化の話を、何とか頭で受け付けることができるかになるでしょう。そんなの絵空事だと言うのではなく。僕みたいな変化体験を語る人々の話を、「作り話」だと受け付けない人も結構います。人間は変わりっこないと。まあそう考えたら、その通りそれで終わりですね。
心理学本下巻実例を重視するのはそのためで、作りようもない未知が起きていることをなるたけ描写したいわけです。

次に、そしてそれを目指す気になれるかという話になるわけです。
まずは、そうして成長できた自分が人に愛されるようになる、自分を嫌った人々も見返せるようになる。これは「感情」としては同じことの繰り返しなのですが、まずはそれでいいんです。というか、そうゆう形でしか「動機」を抱き得ないですね。


■「感情を超えたもの」を見る目へ

「実践」への「動機」は、最初「病んだ感情」の繰り返しの中にある。しかし「実践」は、「病んだ感情」を抜け出す方向のものになっている。
これはつまり、実践に向かわせた動機そのものが、実践の途上で崩れてくるというパラドックス事態が起きることを意味します。

実はこれが「病んだ心からの治癒と成長」の基本形ともなるものであり、それを知ることが同時に、「感情を超えたものを見る目」を意味します。

何が起きるのかを見てみましょう。その時、人は人間の心の全ての真実を見ることになります。
全てが同時に起きます。
「心の自立」に沿った自尊心が心を安定させるほどに、自らの心を成り立たせてきたものの全てが、見える時が訪れます。

まず見えるのは、「心の依存」の中で自分の心を成り立たせていたものです。

それは「愛情要求」という感情をベールとして見えなくされていたもろもろです。純粋な愛への願いの感情。愛されることで何かを得ようとした強欲。愛されるための「あるべき姿」になろうとした嘘。そして、人を愛するような振りをして強欲を叶えようとしたという、最低の人間性。この最後のものは心を病んでいた度合いに応じて、醜く淀んだ色彩の濃い幻想的な恐怖の感情になります。そこに見えるのは、人間の姿をしたできそこないの化け物のようなものになってくる。

そして、幻想が崩れていきます。それは高潔な自分という幻想の中で、幼児的な愛情要求などない顔で、「人の目」によって自分が愛されているという自尊心幻想の崩壊です。そしてそれは、その自尊心幻想のために「これが自分だ」と感じていたものの嘘がばれる時を意味します。それはまさに、自分が「望む資格思考」の中で、「生きる資格などない」とさえ考えていた姿そのものになってくるかも知れません。

そしてやはり心を病んだ度合いに応じて、これらの全体が「恐怖」を引き起こします。それはもうこの世のものとは思えない恐怖です。
それほど深刻でないケースにおいては、この恐怖が、今まで心の安定を脆いバランスの中で維持していた「これが自分だ」という幻想が崩壊する、一種の意識破綻であるという意味が分かるでしょう。最も軽い状態においては、もはやあまり感情動揺を伴わない薄さの中で、心に浮かぶイメージの中で、「あるべき」であったもの、そして「与えられるべき」であったものを嘆く自分のイメージが崩壊する蜃気楼を見るような体験となるでしょう。


■見えないまま起きている治癒と成長

しかしこれが「心の自立」の取り組みの中にあった時、心の治癒と成長としての得がたい積極的な意味がそこにあることを、この人はやがて知ることになります。
主に3つのこと同時に起きていることになります。

「愛情要求」の看取り。「与えられる」ものとしての「愛」を強欲に欲した衝動が、完全に出口を失った消滅へと向かいます。
ここで愛情要求が破綻せざるを得ないのは、愛されるために「こんな自分」であれば、と抱いていた幻想が、何よりもこの意識崩壊の中で抱く「恐怖」によって崩されることです。愛されるための「こんな自分」とは、こんな恐怖など抱いていない、世界に向かっていける自分だったのです。しかし今、自分の現実はそうではなく、病んだ恐怖によって身動きができなくなるという「現実的な障害」を抱えるのが自己の現実であることが晒されます。

深刻なケース初期的段階では、こうした「現実」を受け入れることができません。意識の首座がまだ「空想」の側にあるからです。ただ「自己操縦心性の崩壊」としてだけそれは体験され、いかにそれをやり過ごすかの山場が起きることが観察されます。

こうして2つめのこととして、ありのままの自分に戻るということが起きるわけです。

3つめに、これがさらに特殊な心理学的現象として、その意味が後になってのみ分かることが起きます。これもやはり心の障害の度合いに応じたものになります。
それは「感情の膿の放出」で、ここで述べた感情動揺の中で、特に身体的体調悪化を伴う「脳内毒の放出」とでも表現するのが相応しい状態が起きることです。典型的なのは「吐き気」であり、まるで脳内毒が「感情」として処理されることなく放出され、胃腸で処理されたかのような感じです。貧血状態も良くあるものです。また緩やかな現象として、強烈な眠気に襲われることが起きます。

これらは一種の病気と間違われる可能性があるほどのものですが、ハイブリッド取り組みの中で前後状況が明確な中で起きるものはほぼ100パーセントこの治癒メカニズム現象として起きるものであることを、相談事例の中では指摘して安心させるようにしています。
まあそうした前後文脈とはまったく別にこうした体調悪化が起きるものは、別の病気を疑う必要も出てくるでしょうが、僕が相談対応した中でこうした出来事まであったのは数例程度ですが、全くそうした心配は不要であったのが事実です。

「感情の膿の放出」は、それが「感情」という次元よりも「生理的」という次元で起きるのに対応して、一定時間経過後に、「感情基調」の全体が生理的次元で改善向上していることが分かってきます。感情が純粋に感情として「清明感」を伴って体験され、「感情」に「生理的変化」が伴うという基本的ストレス感が減少します。これは湧き出る感情が基本的に良いものになっていうという変化になります。

このように「見えないまま起きている治癒と成長」の中で、どのように「自らが真に望むもの」が見えてくるのかの流れを、次に振り返りましょう。


心理学本下巻に向けての考察-227:「未知」への意志と信仰-119 / しまの
No.1487 2008/02/29(Fri) 09:55:16

■「心の成長」の基本形

まとめましょう。「心の成長」基本形と、「病んだ心からの治癒と成長」という応用形への、最終的な答えです。
「心」「魂」の関係性、そして「人間性」という視点まで全て視野に入れてのものです。

「心の成長」基本的な姿は、「自己の重心」によってありのままの自分と現実に立つ方向性と、「価値の生み出し」によってもはや「自分」に縛られない、「価値を認めることができる」そして「価値を生み出すことができる」という自尊心を支えにして、人生を生きることで自然と培われるものになります。

「価値の生み出し」の「匿名性思考」自他未分離意識「魂の感情」と調和するものであり、我々をより「魂の望み」の感情へと近づけさせてくれます。やがてそれは、「命が望むもの」として、もはや「愛」と「自尊心」も未分離な、人がそれによって揺ぎなく生かされる芯のようなものになります。これが「魂」の感情「包含の愛」へと成熟させ、この人間の人間性を高めることになります。

こうした成長変化の全体が、「心の自立」という大きな摂理の中にあります。「心の自立」とは、心を人に依存することなく自らによって支えることができるようになっていくということであり、人に依存することなく愛することができる、望むことができる、価値を感じることができるという肯定的能動的な形に、その真の姿があります。

人に依存しないという側面だけを真似て、人に背を向けることで自分が自立しているという錯覚を得るのは、実は依存の中自己の空想に生きているに過ぎません。そして自己の幻想がある先に「人の目」がある時、それは結局は「愛」に帰結します。


■「恐れるもののない心」へ

心の成長は、まず自らを支えることのできる自尊心の獲得を携えて、「望み」に向かい「現実」に向かう体験を通して、自分が真に何を望んでいるのかを知って行く体験として生まれます。決して、自らが望むものを頭の中で十分に知ってから現実に向かうのでは、ないのです。そう考えると人生を見失います。

我々は、今見える望みに向かい現実に向かう体験の中で、自らが真に望むものが何かを、知っていくのです。これは別の表現をするならば、「感情」という表面を見ただけでは、自らが真に望むものが何かを知ることはできないということです。

望みに向かい現実に向かう体験の中で、自らを知る中で、自らが真に望むものとは、「魂」が望むものであり、さらにそれは「命」が望むものであることが分かってきた時、それは「愛」であることが分かってきます。

その時、「魂と心の分離」という構造において、「魂」「命」は我々の「意識」としての「自分」ではなく、もはや自らが「自分」とは別のものに生かされる存在であることを知ります。そして「魂」と「命」が連綿と続くものである時、それは自らが永遠に生かされるものを得たことを意味します。

ここに、「恐れるもののない心」が生まれます。これがハイブリッドの示す「心の成長」おおよその道のりと考えていいでしょう。こうした心の成長は、頭で考えて作り出す姿勢としてとしてではなく、体験を通しての意識変遷として生まれます。


■「命の感性思考」へ

これが基本形として、問題は「病んだ心からの治癒と成長」という応用形になってきます。

上記で強調した「感情という表面だけ見ていては自らの望みは知り得ない」というのがになってきます。
では何を見ればいいのか。そうした、何を見るかの目が問われるのが「感性」であるわけです。

「命の感性」が答えになってきます。それを使う、「命の感性思考」が、「否定価値の放棄」の先に獲得したい、ハイブリッドの到達目標として浮かび上がってきます。


心理学本下巻に向けての考察-226:「未知」への意志と信仰-118 / しまの
No.1486 2008/02/28(Thu) 15:49:02

■自尊心の安定と「貪欲」の分岐路

自尊心「愛されること」「相手を打ち負かすこと」から、「価値の生み出し」に比重が移るにつれて、何が起きるか。

「愛されること」や「相手を打ち負かすこと」への依存度が減ります。心の安定のために、です。
これは話のそのまんまの繰り返しに一見してなるのですが、それ以上の裏があります。

つまり、自尊心として本当の安定が得られてくるということです。これは心の表面としては、「自尊心」をめぐる感情そのものがあまり切羽詰ったものではなくなってくるという変化に、まずなります。もう自尊心を必死に求める必要がなくなってくる。
実はこの感情の安定が、さらなる自尊心になってくるわけです、これもかなりパラドックスですね。

一方、「愛されること」「相手を打ち負かすこと」では、結局のところ自尊心が安定せず、要は自尊心全体が不安定におとしめられるということです。
心の表面では、さらに自尊心を求める衝動に駆られることになります。そしてさらに「愛されること」や「相手を打ち負かすこと」を求める。ここに「貪欲」というものが生まます。


■病んだ心からの治癒成長現象メカニズム

こうして、「価値の生み出し」による自尊心の獲得と共に起きるようになってくる、治癒と成長原理の説明は、以下の図として説明しました。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro20.jpg

一言でいえば、「人の目感性土台の解体」とでも言える変化が起きてくる。全てが見えてくるわけです。
魂の「愛への望み」も、それが「心」を通って「現実世界」の中で叶えられることを求めた時、それがあまりに幼児じみて、叶えられることを問えるようなものではないことも。

魔法のようにきれいになった心がそこですぐ見えるようなものではないことを、ここで説明するのがいいでしょう。「人間性への怒り」「否定のループ」という硬い表面の下に隠した屈折した意識構造どう解消されるのか、その実際の姿は、次のような劇的な心理体験基本的な単位とすることになります。

それは自尊心の安定化の中で、対人関係や社会行動の中で、「自ら望む」ことへの心の動きが台頭してくるような形で始まります。
決してそれは純粋な魂感性によるものではありません。望みはまず人の目の中に始まり、魂へと向かう。それが「不完全性の中の成長」なのです。
それが今起きます。

それについて、僕自身が比較的最近書いた日記の引用で、まず描写したいと思います。ここ最近の考察は、この時見えたことをかなり整理の材料にしたものです。

2007.12.5
・・(略)・・。それはちょっとした夢を見るようなことから始まった訳だ。もしあの人に思いを寄せられたら、自分はどうなれるだろうかと。そこで、望みに向かう中で自分に嘘をつくということが起きる訳だ。そして嘘が心をすさみ、空想した自分のようにはもう相手を愛することのできない自分を知る
 そして自分に戻る。これがありのままの姿なのだ。弱さが残した庇護幻想と自分幻想の中で、自らへの嘘をついた痛みと共に、「心」は「魂」と「現実」に近づく。これが自立のない庇護幻想の中で起きた時、心を病ませる方向に向かう。この一線を定義していきたい。


全てが同時に起きます。心を病ませるものの解消も、心の自立も。さまざまにつながりのない問題の全てが、終わる時には一点に収束するわけです。

始まり「人の目感性」です。人の目にこう見られる自分。
それを引き金にして「望み」が刺激され、現実において向かおうかという「現実性刺激」が心の中に起きる。
すると、今まで屈折した人格構造をオブラートで包んでいた保護膜が取りさられ、全てがありのままに晒されることになるわけです。
純粋な愛への願い。
愛されることで何かを得ようとした強欲。
愛されるために必要な「あるべき自分」を演じることが含んだ嘘。


■自分の中の「最低の人間性」が消える時

そしてここに、この治癒メカニズムの先の説明の際には触れなかった、もう一つの要素もここで晒されることになります。それはこの人間の心にそれが本当にどこまで生きた衝動だったのかはちょっと不明なまま、上記要素の合成のように現われるものです。
嘘をついて何かを得ようとした強欲という、最低の人間性。
これが「アク毒」の正体です。

もしこれが「心の自立」の方向性のない、「人の目」依存の自尊心維持衝動の中で起きた時、このさまざまな側面を一点に同時に収束させた出来事として、「破滅」という色彩がより焦点をあびるようになります。「どうにかしなければ」という圧倒的な衝動に負けた時、この人は現実において「破滅」を生み出す行動に走ってしまうかもしれません。

事実、深刻な心の障害傾向からハイブリッドに取り組んだケースにおいては、まず例外なく、ハイブリッド取り組み以前にはこの現象の中で何らかの破滅的行動をしてしまった傾向がある感じになります。
そしてハイブリッド取り組みを始める中では全く同じ構造の現象「自己操縦心性の崩壊」として起きるのを、「ただ実存を守れ」という指示によって乗り越えてもらいます。アク毒はしばしば吐き気などの体調悪化を伴って吐き出されます。

そして一定時間が過ぎた後に、全てが消えたまっさらな状態が現われます。
治癒成長のまだ初期的な途上段階にある場合は、それはただ「開放感」とだけ理解されます。自分が変化できたと過剰な幻想に再び戻るのが大抵です。そして再び、何らかの契機で「自己操縦心性の崩壊」が起きる。

治癒成長が進むほどに、自分に現われる「未知」の、より積極的な意味が分かってきます。「人の目」が消えた感覚の中で、人に積極的な感情を持つことのできる自分を知るのです。
それはかつての自分にとって、「こうなれれば」という自分そのものに近いのですが、不思議なことに、かつての自分が「こうなれれば」という自分によって叶えようとした願望そのものも、同時に消えています。まあ僕の場合は、「こうなれれば女の子にモテモテなのに」と抱いた自分になれた時、女の子にモテたいという貪欲衝動も消えていたという感じ。アハハ^^;


これが意識の表面で起きることであり、僕としても、一体何がどうなっているのか全く分からないがとにかくこうゆうことが起きるのが病んだ心からの治癒成長メカニズムとして存在するのだということから、この心理学の整理を始めたわけです。

最新視点から、ここで何が起きるのかを整理しましょう。
実際こうした特異な体験にまで及ばないであろう、心の成長のより一般的な意味としてもどう考えられるかという観点で。


心理学本下巻に向けての考察-225:「未知」への意志と信仰-117 / しまの
No.1485 2008/02/28(Thu) 14:10:38

2日スキーの予定を1日に変更しきのう戻ってきたので、ちょっと早めのカキコ復帰^^。

■「自己の重心」から「心の自立」へ

例により最新視点を入れて全体振り返りから始めています。最新視点とは「人間性への惑い」というような話ですね。人間は人間性において不完全な存在だという視点。

表面には「人間性への怒り」という硬い大人の顔と、「否定のループ」という心を病んだ姿がある。その底には、置き去りにされた自立と、生きる方向に惑うがある。そこにはまるで幼児のような未熟な衝動も含まれているのだが、硬い表面に隠されて明瞭には見えない。
これが問題の始まりになります。まあ最初に見えるものですね。

その硬い表面が、ただ単純にその人が健康な心の成長の先に築いた思考なのか、それとも置き去りにしたものを隠した、屈折した意識構造の結果なのかは、もはや本人にさえ良く見えなくなってしまっています。
それでも、どうやら後者に属するものであるらしいことは、その人が対人関係や社会行動でのストレスや、人生への空虚感を抱えていることに示されることになるでしょう。

それに対しハイブリッドは、隠された内面にむやみにメスを入れようとするのではなく、ごく実践的な心理学と行動学のノウハウを示すことから始めます。問題が単に思考法にあったのであれば、それが人生の向上にすぐ役立つでしょう。
一方それが妨げられる様子から、心の底に隠された問題の存在を知り、より本格的な取り組みをすることになります。

それは「自己の重心」最大指針とし、「人が」から「では自分では?」という問いから始めることで、自分の心の状態のありのままの現実を知るとともに、それをハンディとして受け入れた上で、上述のような建設的思考法行動法を試みるという形になります。

それが根本的に目指すのは、「心の自立」でした。自分の「気持ち」は自分で受け止めるという姿です。
その先に生まれる、成長した自分が人に愛され賞賛されるという、「人の目」期待のループに陥るのもいいでしょう。それが心の現実なのであれば、まずそれをありのままに認めることからです。それが「自己の重心」です。
では「人の目」期待のループから、どのように抜け出せるのか。
その問いにも答えとなるような、「心の自立」の成り立ち説明となっている次第です。


■「心の自立」と「人間性」

「心の自立」「人間性」についても再度確認。これは「心の自立」をなぜ目指すのかの話になるでしょう。

ハイブリッドでは「人間性」とは、「思いやり」「真心」をごく初歩的な表面と考えた上で、より根本は「破壊から建設へ」というその人の全体的あり方と、あとは「魂の成熟」だと書きました。
これはまあ平易な表現をするなら、前向き建設的でおおらかで包容力があるという人物イメージへの方向性となるでしょう。そんなイメージで、「人間性」を成長させることは人間的な魅力につながることであり、目指すことのできるものだと。
まあそれによって愛されるという、「人の目」期待ループがまた見えるにしてもです。

でそうした「破壊から建設」「魂の成熟」というものを生み出す原動力として、「心の自立」があるという位置づけと言えるでしょう。

「自立」そのものは、もはや人工的意識法思考法ではなく、「命の最大摂理」として、全ての生きるもののDNAに設計済みのことです。それにありのままに沿うことです。
それが人間の場合、生活基盤についてはあまりにも社会が高度化し、外面的自立というのは見えにくくなる中で、「自分の考え」と言うものを持つこと、そして自分の気持ちを自分を受け止めることといった、内面的「心の自立」が問われてくる。そうした「心の自立」の中で、自分が望むものを知り、建設的な方向でそれに向かう中に、「破壊から建設」「魂の成熟」というものにつながる「人間性の成長」がある、という話になります。


■「価値の生み出し」による「心の自立」と「自尊心」

ハイブリッドのアプローチは、基本的にそのような「心の自立」を目指し促すための方法論となるものだ、と言えるでしょう。

「自己の重心」は、自分の考えを持ち、自分の気持ちを自分を受け止めることへの、基本的な方向を向くための思考法転換と言えます。
そして「価値の生み出し」は、そこでの「自分の考え」の内容、そして自分で受け止める「自分の気持ち」の内容を、上述のような「心の自立」の先にある「人間性の成長」へと向けるための思考法転換だということになります。

「人」ではなく「価値」を見る。それによって、人間関係模様と人間関係順位しか目に入らないような、愛情要求存在の善悪におおわれ、「傲慢で利己的な善」という人間性の惑いの中にある思考から脱する。

これは特に、我々の「自尊心」のあり方に影響するものと言えます。
「自尊心」については、大体3つの形態があるという説明をしています。この3つとは、多少表現が異なる場合もあったかも知れませんが、「愛される」「相手を打ち負かす」「価値の生み出し」という3つです。

「愛される」「相手を打ち負かす」自尊心が、「心の依存」の構図にあります。「愛される自尊心」は自明的にそうですし、「相手を打ち負かす自尊心」はやはり相手の存在に依存します。
さらに言えば、「相手を打ち負かせる自分」が、やはり「人の目」の中にあってこそ自尊心になることにおいて、「相手を打ち負かす自尊心」の背景に実は「愛される幻想」が控えていることが考えられます。これは表面では愛情要求があまり目立たないケースにおいて、人に勝利できる優越の獲得に失敗したときに現われる抑うつ反応に示されることになります。

「価値の生み出し」では、そうした「自尊心」において、もはや「自分」という人物をとっぱらった上で「価値」を見る思考の先に、「価値を生み出すことのできる自尊心」「価値を認めることのできる自尊心」を育てることになります。
これは「自尊心」が実は「自分」についてのものではなくなってくるというパラドックスです。自分そのものではなく、自分が生み出す、自分から離れて生き続けるものに、「自尊心」が移ってくる。

ここに、「自立」という命題と「自尊心」という命題がつながった答えが見えてくると感じる次第です。なぜなら、「自立」の先には、必ず「自己」の衰え、そして「死」があるからです。
「自分」に縛られた「自尊心」は、かならず崩れていく定めがあります。もし人が「自分」に縛られた自尊心に心の安定を求めようとした時、その人がやがて心の安定を失う運命にあることは、火を見るより明らかです。

「価値の生み出し」の「匿名性思考」は、「人物」という枠を捨てた思考の先に、そうした「自立」の宿命に沿った自尊心を、我々に与えてくれます。
またそれが、心のDNAに設計されたものだったのではないかと考える次第。


■「命」が「自尊心」に

また先のカキコの終わりで触れておいたように、この「人物」ではなく「価値」を見る「匿名性思考」は、「魂の思考」と一致したものになります。「魂」はもともと自他未分離の意識しかなく、自他の区別に立つ「愛される」「相手を打ち負かす」自尊心は、魂の感情にはあまりそぐわないんですね。

「人の目」イメージが消えた「魂感性土台」においては、漠然とした人と人のイメージと、抽象化された「価値」のイメージが現われます。
「価値の生み出し思考」は、それと一致する思考形態において、「心」が自尊心を獲得する方向に向かうものになります。
これが「破壊から建設へ」そして「魂の成熟」という人間性の成長にもそのままつながることになるわけです。

すると何が起きるのかという、「治癒と成長」の原理についても振り返り、最後の踏み切り台と着地場所の説明へ行きましょう。


2/28(木)まで不在 / しまの
No.1484 2008/02/25(Mon) 12:29:54

どんどん続けたいところでちょっと中断ですが、また帰省してスキー。
あと数日分程度のカキコで、全て完了できそうな見通しですね^^。


心理学本下巻に向けての考察-224:「未知」への意志と信仰-116 / しまの
No.1483 2008/02/25(Mon) 11:30:26

■「価値の生み出し」を通し「心の自立」へ

「人間性への怒り」「否定のループ」といった表面と、その底にある問題を描写しましたが、その両者がありのままに、ごまかされることなく見据えられることが、ハイブリッドにおける根本的成長へのスタートラインになります。
つまり、まだ何も始まってはおらず、これからが始まりなのです。

なぜか。ここまで問題が明らかになったというのに。
その疑念に、「破壊幻想」が示されるでしょう。問題が明らかになるということと、解決が示されるということとは、全く別のことなのです。

ハイブリッドにおいて、思考法の最も大枠における指針として「自己の重心」を言ってきました。これは、ありのままの自分の現実へと戻るための思考転換です。
その上で「感情と行動の分離」における建設的思考法や、心理メカニズム学習に基づく自己理解も、思考法の転換ではあるでしょう。しかしこれはあくまで「ありのままの現実」に即した思考をするということになるでしょう。建設的思考法とは、ありのままの現実におけるノウハウであり、メカニズム理解ありのままの自己の理解です。

「価値の生み出し」は、そうした「自己の重心」というハイブリッドの最大基本指針と匹敵する、思考転換指針です。
それは、「心の自立」への思考転換という位置づけにおいてです。

この視点から、「価値の生み出し」についてもうちょっと解説を加えましょう。


■「価値の生み出し」とは「匿名性による思考法」

「価値の生み出し」とは、主に「社会行動」と「対人行動」において、我々の行動において「生み出される価値」とは何かを、それを行う人物評価を視界から外した「匿名性」において考えるという、まずは思考方法のことを指します。
そして次に、それに基づく行動をするという行動法が出てきます。この面では、外面的には「建設的行動」ともうあまり違いのあるものではなく、「価値の生み出し」の重要な本質「匿名性による思考法」という点にあると言えます。

誤解されがちなのは、「価値の生み出し」が、「建設的思考法行動法」の先で人に賞賛され自尊心にもつながるような、何か素晴らしい生産的行動をするという、建設的行動の一段の向上のこととして考えるものです。

それは違います。まあ用語として「価値の生み出し」で一番いいかという正しい日本語問題はありますが(^^;)、まず「価値の生み出し」とは、自分が何をできるかという、「自分」という人物評価に向かう思考から、「自分」という人物をとっぱらってしまう思考法なのです。
まず、自分のことであるのかAさんのことであるのかB君のことであるのかではなく、今自分が目の前にしていることがら、そして回りの人々が目の前にしていつことがらにおける「価値」とは何なのかを考える、とても抽象的な思考法です。

こうした思考法を教わることは、まず今までの学校や家庭では、ありません。僕はそれを優れた大企業の中で体系化される、社会と時代をリードするノウハウの教育のようなものとして、学ぶことになりました。
そしてそれが結局、僕の仕事の能力も、人生観も、根本的に変えるようなものになったわけです。

まあこの辺が、世に出ている結構高度なビジネスもしくは人生の成功学ハイブリッド心理学の接点的なものになりますね。
しかしそれがあくまで、この社会を生きるどんな場面においても大きく役立つものだと、僕としては考えるわけです。


■「価値の生み出し」と「心の自立」

ではそうした「匿名性による思考法」である「価値の生み出し」とは、どのように「心の自立」とつながるのか。

まず「心の自立」とは、外面的な自活人に頼らない行動法のことではなく、自分の気持ちを自分で受け止めることができるということなのです。
それに対して、「心の依存」にある姿とは、自分の気持ちを自分で受け止めることができず、自分の気持ちを人に受け止めてもらわないと始まらない、という姿です。

そうしたものとして、「心の自立」を目指すかどうかは、もちろんもう自由です。
しかしハイブリッドは基本的に、自らのDNAに反したものへと向くことは、基本的に健康と幸福を損なうことにつながるという考えを取っています。
「心の自立」について言えば、「そんなのどうでもいいじゃん」と心の表面では考えることに成功したとしても、事実その人がもう「大人」と呼ばれる年齢なのであれば、恐らく、まず「自尊心」が損なわれるのではないかと。それが連鎖的に、「愛」や「人生」を損なうことにつながっているのではないかと、考えるわけです。

「心の自立」に向くことで、それとは逆の好連鎖が起きます。
だから「心の自立」を目指すのが、やはりお勧めです。

で、「価値の生み出し」がどう「心の自立」とつながるのか。

「価値の生み出し」は、「人」ではなく、「価値」を見る思考法です。「価値を見る目」を旨とする思考法です。

一方、「心の依存」では、「人」に縛られた思考法になります。
「心の依存」は、ものごと全てにおいて「人間関係模様」「人間関係順位」しか見ていないような思考になります。まあお昼のメロドラマ中学生の「仲良しグループに入るかいじめか」の世界ですね^^;
これはハイブリッド的には、「愛情要求」と「存在の善悪」でしかものごとを思考できない様子、ということです。

そしてそうした「心の依存」の底には、「人間性」をめぐる人間自身の惑いがあります。
「心の依存」、自分の気持ちを自分で受け止めることができず、人に受け止めてもらう必要がある、その先には、自分の気持ちを人に受け止めてもらうことの先で、「良くしてもらう」という、「自ら望む」ものの不明瞭な「依存幻想」があります。
その先に、「傲慢で利己的な善」という、「存在の善悪」の闇があります。

そうして、「人間性への怒り」「否定のループ」へと戻ります。「心の依存」「愛情要求」「存在の善悪」「傲慢で利己的な善」..。
これら全てがつながっています。出口のないループの中で。

「価値の生み出し」「匿名性思考」は、それとは全く世界のものになります。
ただこの2つの別世界の間をどう飛び越えるのかは、まだ見えないですね。ここまでの話では、ただ別の世界として浮かんでいる感じになります。


いったんカキコして、引き続き「価値の生み出し」「心の自立」のつながりについて。
その「匿名性思考」と、自他未分離「魂」の思考一致してくるという話になります。その先に、2つの別世界の間を飛び越える、最後の踏み切り台着地場所の詳細を説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-223:「未知」への意志と信仰-115 / しまの
No.1482 2008/02/24(Sun) 22:57:30

■置き去りにされた「自立」と「愛」

難解な哲学、もしくは硬直した善悪の思考。
その中で「否定」ばかりに傾いている人の姿が、もしそれが比較的健康な心の成長の先にある姿であるならば、それこそそれは純粋に哲学の議論の話なのかも知れず、それについてハイブリッドはあまり口を出すものではありません。

しかし、この表面の底に、もし「心を病む」という問題が差し挟まれているのであれば、その硬い表面の底には全く異なるものが見えてきます。
それは置き去りにされた「自立」と「愛」という、幼い挫折のまま時間を止めた「魂」が眠っている姿です。

糸口は、この人が他人や自分を怒る時の、理由や基準の曖昧さ不明瞭さになるでしょう。自分でも何をなぜ怒っているのか、良く分からないでいることが、精神分析的な取り組みの先に、判明するかも知れません。
それは、自分で何かを望むことが、できていないのです。まず「人が」、彼彼女のために何者かであってくれなければ、思考が始まらないのです。
「自己の重心」という視点による、思考の形態の詳しい分析が、そこに「阻まれた自立」があることを明瞭にさせていくでしょう。


■あまりにも無様な愛情要求と魂の嗚咽..

そしてその底には、「愛情要求」があります。それが見えた時点で、もう最初の大人の顔での哲学の思考とは、まるで別の姿が見えてきます。
そこにあるのは、自分に注目してくれる相手を必死に求め、稚拙な自己顕示欲にかられながら、人の目に晒されると恐くて何もできなくなるという、その人自身にとってあまりに無様な、愛情要求の中にある姿です。
まさにそれが僕の歩んだ道のりとして書いています。まずこの「自己の現実」認めることができるかどうかが、この先の根本的な治癒と成長の変化に向かうかどうかの別れ目になるでしょう。

そしてさらにその底には、そうした自意識さえ消えた、「魂」の挫折の感情があります。それはただ、出生において自分に向けられた「生からの拒絶」という「罰」にあえぎ、自分がそんな「罰」を受けるような「罪」を背負った存在だという根源的自己否定感情を抱え、自分が進むべき道を示す「神」の声を望みながらそれを得ることができず、ただ嗚咽の中にあるような姿です。

あるいは「魂」はそこで、「悲しみ」を捨て「怒り」と「憎しみ」を選ぶようになるかも知れません。ここにもやはり、分かれ道が現れることになります。「悲しみ」を捨て「憎しみ」を選んだ魂は、もう後戻りのできない荒廃の道へと進んでいくような姿が、人間の歴史の中で観察されています。
しかしそれでも「悲しみ」「愛への願い」置き去りにされたまま、生きています。それが再び取り戻された時、この人間の心に、健康な普通の人々よりもはるかに清らかに浄化された心が生まれる可能性を、マリー・ヒリーのような人間事例が我々に示唆しています。


■「現実世界」と「魂の世界」

こうして我々は、「人間性への怒り」「否定のループ」に対して、難解な哲学思考を繰り返すのとは全く異なるアプローチへの視点を得ることになります。

「自己の重心」がやはり入り口です。「人が」から、「では自分では?」どう考え、何を望むのか。そこから外面向けの思考法行動法の問題として比較的簡単に問題が済むケースもあります。

そうでないケ−スでは、自己の重心を喪失した思考の先に、絶望的な愛情要求の存在が見えてきます。また、見えるかが問題になってくるでしょう。否定傾向が蔓延するケースでは、自分自身の愛情要求があまりに屈辱的であり、他方に存在する否定攻撃衝動との食い違いがあまりに激しいので、ここで意識が弾かれてしまうのです。そして振り出しに戻ります。
多少この繰り返しを続ける中で、意識の土台が徐々に解きほぐされ強くなってくるのに、多少の時間を必要とするかも知れません。

やがて内面外面鮮明に分離される段階が訪れます。愛情要求あまりに幼児じみて、全ての思考を放棄して相手にすがり、身を委ねようとするような、まるで赤子の自分の感情を知ることになります。
こうして本当の現実の自分の感情を知るのですが、そのあまりに極端な「愛を求める」様子に、逆に、それが「現実世界」においては理解を求めたり実現して叶うことを問えるようなものではないことを、次第に感じ取るようになってきます。

ここでもハイブリッドは、他の心理学とは一線を画する道を示します。
そのあまりに現実離れした愛への願望を否定することなく心の中で開放し、一方で「現実世界」においては、対等な大人の個人対個人として歩むことのできる社会行動への道を、進むのです。
ここに、「魂の世界」「現実の世界」という、まじわることのない2つの別世界を歩み続けるという、「ハイブリッドの世界」への入り口が、実はあるのです。


■見えなくなる問題の核心..

現実的ではない愛への願望を、心の中では開放するとは言っても、そこに隘路が再び現われるのを見ることになるでしょう。
それは恐らく、心の中では愛情要求が美化される一方、外面行動においてはストレスを抱えるというのを、基本的な構図にするかも知れません。

その中で、人によって、その現実離れした愛情要求が、現実の中で何らかの特別な癒し的な設定で満たされることが、自分のこれらの「症状」の解消のために必要なのではないかという、安直な心理学の発想に流れがちかも知れません。
人によっては、結局自分の「症状」はもう脳に焼き付けられてしまった病気もしくは体質のようなものであって、解決は脳生理学的なほどこしにあるのではと考えるかも知れません。
あるいは、大人の外面の顔に徹して、自分の心に残る何かの幼少期の影の全てを飲み込んで、自動機械のように進める生活に徹して、人生なんてこんなものだと、もう考えるのをやめてしまうのが正しいのかという考えに流れるかも知れません。


まあここまでが、ハイブリッド取り組みとしては、「魂感性土台の体験」や「人生のリセット感」を経て「とりあえず生きて行く」ことのできるような心の基盤の安定状態の獲得というような、「前期」の完了段階になります。
これは心理医療の現場では“「完治しました」状態”(^^;)なのですが、ハイブリッドにおいては、行方不明だった心がこれからの根本的変化成長の道のりへのスタートラインに立ったような位置づけになります。
また心の障害傾向というほどの深刻さはないケースも、このような心の状態からのスタートと考えると良いかと思います。

大きな方向転換への助走が、「価値の生み出し」として始まります。


心理学本下巻に向けての考察-222:「未知」への意志と信仰-114 / しまの
No.1481 2008/02/24(Sun) 13:45:28

■「不完全性の不受容」の底にあるもの

かくして問題「人間性を損なったものへの怒り」というものを焦点にするようになります。

これは実は心の障害の基本的な姿の話でもあります。それへの取り組みとして始められるハイブリッドの理解は、心を病むメカニズムへのさまざまな視点と、社会を生きるという外面行動におけるノウハウの視点、そして心と魂の成り立ちについての視点を経て、そこに再び焦点が戻ることになります。

また大きく振り返った整理をしてみましょう。「人間性を損なったものへの怒り」というものの底に、何があるのかです。

心の障害の姿とは、否定感情が心をおおい尽した姿です。彼彼女は、人間性を損なった他人と社会と、そして自分を怒ります。
それによって彼彼女は、彼彼女自身が苦しみの中で生きてきた人生において、最後に守るべきものと感じる何かを、守っているのです。
しかしそうして「損なったもの」への否定感情ばかりに心がおおい尽されている自分の姿が、やはり「あるべき姿」に比べると損なっているので、そんな自分を責めるのです。そうして自分を責めるのですが、それによって守るべきものと感じるものを守っているのです。しかしそうして否定感情ばかりに心がおおい尽されている自分の姿が..^^;
出口のない永遠の否定のループが、そこにはあります。

そこには、「不完全なもの」を受け入れない心現実を受け入れない心があります。「現実」というのは、不完全なものです。


■「行動の善悪」と「存在の善悪」

「ありのままの現実を受け入れる」。
この、ハイブリッド以外でも良く言われる命題について、ハイブリッドに興味を持った方々の持つ態度はまちまちです。
ある人は、一生懸命に「受け入れよう」と考えています。でもそうすることができません。ある人は、「善悪の放棄」に疑問を投げかけます。「善悪」を捨てたら人間世界の秩序など成り立たない、と。そして再び怒りの世界にいます。上述のループの繰り返しであるかのように。

こうした混乱を避けるための明瞭な視点は、最近になってようやっと僕としても書いた次第です。
「行動の善悪」「存在の善悪」

「行動の善悪」というのは、大いにあります。それはしっかりと学び理解することです。
ハイブリッドは基本的に(今のところ)、成人後の方々を対象に書いています。独立した人格における、対等な個人同士の関係を尊重する、自由主義社会における行動のマナーとルールというものを、まず「原理原則」として学ぶことを、「感情と行動の分離」における外面向け実践として行います。それが自尊心につながるものとしてです。

「行動の善悪」において、怒るしかない場合には、大いに怒るのがいでしょう。もちろん怒りに頼らず対処できるのであれば、その方がモアベターです。
「怒り」「弱さ」であり、事実我々人間不完全な存在であり弱さを抱える存在である時、実際のところかなり強力な悪意の攻撃に遭遇した場合は、ある程度捨て身の最終手段によって反撃するしかない場合もあるでしょう。
「怒り」とはそうゆう場面で使うものです。ただ、実際そのようになるケースは、あまりないでしょうし、実際僕自身においては幸い、今考えてもそれに値するといえるような場面に遭遇したことは、まだ人生でありません。

いずれにせよ「行動の善悪」というものが厳然とあるのであり、そこにおいて、怒りに頼らずに対処できる他の方法や知恵が手元になく、怒ることで問題の解決に役立つのであれば、大いに怒るのがいいでしょう。
これは「怒りの有用性判断」という、サイトの「「自己建設型」の生き方へ」でも書いた基本的な話の最新整理になります。
http://tspsycho.k-server.org/base/base07-01.html

この辺がまず「否定感情」へのハイブリッドの最初のアプローチになるわけですね。
「とにかく受け入れましょー」という大雑把な話をするのでは、ハイブリッドはないわけです。道徳的善悪に厳しい態度の人が、社会行動のルールに音痴というのが結構ありがちです。むしろ「社会の原則と善悪」大上段から整理することで、独り善がりの善悪を脱するというのが最初になります。

深刻なケースでは、自分にはとても「対等な個人対個人の関係」が考えられないという、深い自己否定感情と絶望感の中で始まるかも知れません。
それについてハイブリッドが言えるのは、むしろその人生の窮地を、ありのままの原点として認めるという意味での、「自己受容」です。を思うのであれば、実際それだけ困苦と不遇の中にあったわけです。それを「普通」などという曖昧な基準で自分を縛ることをやめることです。それを「唯一無二の成長」への原点として受け入れることです。そして「未知」を選ぶのであれば、相変わらずブレーキがかかったままのような中でも、少しづつ前に進む力が芽生えてきます。その中で、ここで書いたような「行動の善悪」を学んでいく。


■「人間性」における「破壊」vs「建設」

そうした「行動の善悪」が解決できてきて、いよいよ心の問題の根本にあったものが見えてくるわけです。
「存在の善悪」という命題と、「人間性」という「価値」

存在に善悪はありません。我々人間は、我々人間自身の「人間性」を、時間を切り取った静止画のように抜き出して、善悪の審判をできるような存在ではないのです。それは自分が神だと考える不実な傲慢です。
「人間性の価値」は、審判すべき基準ではなく、「望み」として向かうべき、輝きです。

これがハイブリッドの主張です。

「人間性の価値」という言葉は、しばしば有名な心理学著書のタイトルにもなったものです。
世の人は、これをハイブリッドとは逆の姿勢で掲げるものにしてしまうのですね。「人間性の価値」が、存在の善悪を決める、と。そして「存在の善悪」という根本的な誤りを放置したまま、「人間性」とは何かと、そして人はどう「あるべき」かと、自分の方が正しく理解しているぞと、競争するかのように難解な哲学の議論を展開します。

そうして「存在の善悪」という根源問題が置き去りにされたまま、「不完全性の不受容」にあるのが、まずは「人間性」における「破壊vs建設」という命題になるでしょう。
もちろん悪を許すという話ではありません。両方とも、いちおう「善」なんです。「破壊」という姿の「善」と、「建設」という姿の「善」

そして「破壊という姿の善」の底には、「破壊幻想」があります。
まずこの人が陥っているかもしれない、最も単純な錯覚勘違いとして、人間性を損なったものへ怒りを向けることで、自分がその同じ欠点を免れるという幻想があるでしょう。

そしてより根本には、人間性を育てること、そしてそれを損なった状態から根本的に清く豊かな人間性へと根本変化する成長の過程への、無知があります。実際のところ、それをどう知るかという問題が難しい話として出てきます。それが分からねば、「人間性における建設」が選びようがない。
そうして、「破壊」を選ばざるを得ない心がそこにあるわけです。

ここまでが見える表面です。そしてこの底には、全く別の心の世界があります。


心理学本下巻に向けての考察-221:「未知」への意志と信仰-113 / しまの
No.1480 2008/02/23(Sat) 17:13:38

■「人間性」はメカニズムではなく「思想」

ということで、まずは「破壊から建設へ」という方向性における、その人の思考と行動の総合的なあり方が、ハイブリッドがまず「人間性」として基本的に考えるものになります。

この表現、また先のカキコで「自ら愛せること」や「自分への嘘のないこと」はまた別の話だといった表現からも分かるように、ハイブリッドとしては「人間性」を、独自のメカニズムの話のことではなく、心のメカニズム全体の中でどの要素に着目し、重要だと考えるかの、「思想」だということになります。

人によっては「愛情の豊かさ」が人間性だと考えるかも知れませんし、「誇り」が人間性だと考えるかも知れません。
それについてハイブリッドとしては別に正しいか間違いかを議論するつもりはなく、あくまでハイブリッドとしては、そうした特定の見栄えの良い感情のことではなく、「破壊から建設へ」として総合的にその人が進んでいる方向性を、重視したいということです。
まあそれをさらに細かく言えば、「建設」の思考と行動がどううまくできているかよりも、それに向く「意志」が重視したいものになるとか言えるでしょう。

そのように、「人間性」として何が正しいかと言うよりも、ハイブリッドとして重視したいものと言う根底には、結局は、それが人を成長と幸福に導くものとして最も重視するものだという話があるわけです。
「幸福」をどう考えるかは、もう決まった正解があるというより、人それぞれでの「思想」の選択になってくるということですね。

そしてそのように、人を成長と幸福に導く、最も重要なものが人においてどう表れているか「人間性」とするならば、「破壊から建設へ」における「思考と行動と意志の総合的なあり方」がまずそれだという話になるわけです。


■「人間性」への視点-3:「魂の成熟」

そのように、「人間性」という独自のメカニズムがあるのではなく、既述のメカニズムにおいてどの要素を重視するかとして、まず思考と行動と意志の総合的な「破壊から建設へ」基本としてあります。それが「人間性」の向上増大への、方向性の獲得という視点です。

次に、その方向性における実際の到達度という視点も出てきます。それが人間性への視点の最後3つ目の、「魂の成熟」です。

つまり、ハイブリッドでは「人間性」とは「破壊から建設へ」という方向性をいかに持つかであり、さらに実際の到達度「魂の成熟」だと考える。
「人間性」とは「魂の成熟」だという結論という風に言ってもいいでしょう。

これはより詳細メカニズム的には、基本的に「包含の愛」の質量の増大を指す、と言えます。
これは2/19「未知」への意志と信仰-106でもまた触れた、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
の図に示すような、「魂の成長と荒廃」という、「魂」の感情が一貫して「愛」というベクトルにあるというものにおける、「愛」の感情の質的変化です。

つまり、「人間性」「魂」のレベルにおける「愛」の感情に示されるという話になります。

全てが「愛」に帰結します。愛に依存しない、優越による自尊心なども、結局は人の目があるところで意味を持ちます。無人島で学歴を誇っても意味ありません^^; 結局は人にどう見てもらえるかという話になるわけです。
そうして「自尊心」も結局人との関係があってこそ意味を持つことにおいて、結局、愛に帰結する。

そのように帰結する「愛」における質的成熟に、人間性というものの要素があります。


■魂は他の魂との関係において「人間性」を感じる

ここで一つの問題状況が想定されます。自分はまだ魂の成熟をしていないし、「包含の愛」も分からない。これは自分の人間性が劣っているということか。
そうした懸念思考ですね。

これは話がおかしな方向になってきます。どうおかしいかと言うと、そうした思考では、「人間性」優劣比較評価されるものになっているということです。
この先には当然、自分の「人間性」を他人のそれと比較して、優越感や劣等感を感じるという話が出てくるでしょう。

自分の人間性の高さに、優越感を感じる。
これは何とも変な話です。それはむしろ、人間性を損なった姿です。


どうゆうことかと言うと、ハイブリッド魂論的に言えば、「魂」はもともと自他がはっきり分離した意識を持っていないので、自分の格の高さ低さというものを他と比較するというのが、もともとないんですね。これは「魂の感情」「この感情において生きる」と表現できるような、対象を明瞭に区別する感情ではないことを体験的に理解した方なら、分かる話だと思います。
一方、「魂」「根源的自己否定感情」において、自らの「人間性」が何か「罰」を受けるような「罪」を背負ったものだという深い思いを抱えます。「魂」はそこにやはり、「人間性」として「あるべき」といえるような何かを漠然と感じています。

これはつまり、ハイブリッドが「人間性」の本体そのものであると考える「魂の成熟」においては、もともと「人間性」は他の「人の目」との関係におけるものでは、ないということです。「関係」を言うのであれば、人間性とは、魂が自らにおいて問うものであり、自他分離の不明瞭な他の魂との間で感じるものであり、さらに「神」との関係において感じるものだということです。


■「人の目」のための「人間性」..?

ですから、世の人がその心の表面「人間性」についての比較競争や、優劣攻撃をする時、実にパラドックス的な事態が起きていることになります。
それが起きたところでは、まず人間性の損ないがおきています。これは恐らく、そうした心の表面の下で、その「人間性」についての比較競争そのものが人間性を損なったものであることを、実は本人が心の底ではうすうすと感じているものと思われます。

さらにパラドックス的なのは、人が自分の人間性に劣等感を感じるという場面です。
これは一体何を指しているのでしょうか。この人の人間性の本体らしき何かに損傷があったということでしょうか。それとも、人間性を他と比較評価しようとしていることの方に、この人の魂が自ら人間性を損なったものを感じ取っているということなのでしょうか。

事実、人の目の中で、自分が高い人間性の持ち主として賞賛され愛されるという空想の先には、あまり人間性が高いとは言えない(^^;)、「存在の善悪」による「利己的な善」が潜んでいるように思われます。

何らかの利害関係の中で、思いやりが足りないと相手を怒る時、人はその相手の人間性に怒り、そこにおいて自分が大切な人間性を守るのだと感じます。しかしその怒り主張もし「神」に認められたならばどうなるのかと、その人の空想の先を見るならば、そこには間違いなく、自分だけが得をするべだという強欲が顔を覗かせるように思われます。

実にパラドックスです。人が「人間性の高さ」を求める時、まさにその姿がその人の人間性を損なうことになるんですね。
なんでこんなことになるのか。
答えは単純な気がします。「人間性だけは完全であるべきだ」と人が考えているからだと。人間の不完全を認めることなくです。

「否定価値の放棄」の「選択」とは何かを言える時が、来た感じですね。


心理学本下巻に向けての考察-220:「未知」への意志と信仰-112 / しまの
No.1479 2008/02/23(Sat) 12:31:46

■「人間性」への視点-2:「破壊」から「建設」へ

ハイブリッド的「人間性」を考えるのであれば、「自ら愛することができる」「自分への嘘をなくす」は、まずは人それぞれの「心の成長」の問題です。また、その結果が、その人の人間的な魅力につながるという話も出てくるでしょう。
しかしそれは「人間性」の問題ではない

どうゆうことか。人は「心を病むメカニズム」という人間の業の中で、その成長の過程において、自ら愛することができなくなる心の苦しみや、自分への嘘を抱えてしまう存在だということです。それが人間の不完全性です。
そうした人間の不完全性を前提として、そしてそれを受け入れた上で、それを成長の原点として歩むことに、「不完全性の中の成長」があります。
そしてハイブリッドが考える「人間性」とは、その成長の歩みにおいて絵に描いた餅の完成された姿のことではなく、そうした「不完全性の中の成長」を歩む方向性をいかに持っているかとして、まず捉えられます。


その人の外から見た姿や、感情の見栄えのことでは、ないんです。
進む方向をどう持っているかなんです。そしてそれを歩んでいるかなんです。

それで言うのであれば、ハイブリッドが捉える「人間性」は、思考と行動の全体における「破壊から建設へ」という方向性です。
これがまずハイブリッドおける「人間性の基本」になります。


■「否定価値の放棄」のターゲットは「人間性への怒り」

実際のところ、世の人が「怒らなければいけない」「決して許してはいけない」と考え、「決して許さずに怒ることに意味がある」と感じるものとは、「人間性を損なったもの」に対してだと思います。

実際のところ、「否定価値の放棄」のターゲットがかなり明瞭になってきたのを感じます。それはまさにそうした、「人間性を損なったもの」に対して我々人間が怒る「怒り」です。

これはもちろん「行動の善悪」習得され解決した先の話を言っています。悪事を許すという話とは、根本的に話題が違います。
「行動の善悪」というものがあり、ルールを守らない行動は罰します。これは答えがはっきりしていることであり、原理原則として学び、自分として持つことが、自分を築くということであり自己の確立ということです。

「行動の善悪」「行動への罰」は、「人間性」を問うものではないんです。
まずこのことを分かって頂けるか。「人間性」を問いがちな「存在の善悪」は、「存在が善」だと全てが許されるような幻想を含んでいます。人間性が高いと賞賛された人の行動は、全てが喜ばれる。
そうではありません。どんなに人間性が高くでも、現実社会の中でミスを犯した時、損失や罰を痛まなければならないんです。

危害が自分に関係するのであれば、「怒り」で反撃することもあるでしょう。これはこうむる危害に対して、怒りに頼らず対処できるほどの技術や強さを持たない場合の背に腹代えられない対処法です。これはもうそれしかない場合というものもある。
「否定価値の放棄」とは、そうした自分を守るための最後の手段としての「怒り」まで捨てるような、「気にしない〜」的ごまかし姿勢を指しているのではありません。

そうした自衛的な怒りとは別種の、そこにおける現実的利害危害の問題ではない、相手の中に見る「人間性を損なったもの」への怒りが、「否定価値の放棄」のターゲットになります。またこれを明瞭に切り分けるのが、この後説明する最後の「中期実践-4」となる「否定価値の放棄の選択」という話になります。


■「人間性への怒り」という不実

実際のところ、ここに「心を病む」という問題の有無に関わらない、人間の根本的な選択があるのを感じます。
「破壊」「建設」のどちらを価値あるものとするか。

「人間性」においてです。
まず言えるのは、「人間性」を生み出すものが何かを知らないままでいる無知と、「人間性を損なったもの」へ「怒らなければ」という姿勢を持つことが、つながることになるでしょう。

この事例として最近印象にあるのは、某年配女優息子薬物違反だか何だかで逮捕されたのを受けてのインタビューに、涙ながらに「勘当したい」だとか「自分が死んで息子が直るのであればいつでも死ねる」とか語っていたもの。
ここに「建設vs破壊」の端的な姿を見た感がありました。

この年配女優の態度姿勢悪いという話じゃ、ないんです。その人の言葉は、大いに「善」を示しています。
「善」なのですが、「破壊」です。
自分が死んだところで、直るという問題じゃないんです。まずそうした不毛な空想思考が起きることに、その人が心を健康に育てるという「建設」について無知であったという、真の問題が示されているという印象を感じました。


■「破壊幻想」という根源

こうした話の根源に、「破壊幻想」があるとハイブリッドでは考えます。悪しきものを破壊すれば、善なるものが生まれるという「幻想」です。
なぜそれが「幻想」なのかというと、悪しきものを破壊して無に帰するのはいいとして、善なるものがどうすれば生み出されるかが、ぽっかり抜けているということです。
まるで、悪を排除すれば、善が地面から生えてくるとでも言うかのように。

そしてそうした「破壊幻想」の背景に、「依存幻想」があります。全てが「与えられる」という構図で思考が回る世界。「生み出す者」は思考の舞台の外にいるような。
自分が「生み出す者」の側にならないと、始まらないと思うんですけど..。それが「自立」というものになります。

この「破壊幻想」典型的な表れが、「DEATH NOTE」のようなストーリーですね。「キラ様」とのこと。それを崇高なる救世主として信奉する人と、あくまで殺人は「悪」とする警察側との攻防..^^;
う〜んいいですけどぉ、話が基本的に子供..という雑なコメントご容赦。

世界は、悪人をどう退治するかという側面よりも、住家を作り水や電気などの社会インフラを作り生産活動をするという側面がまずあって成立しています。この両方のテーマの比率は、天文学的に後者の方が大きい。
「DEATH NOTE」「キラ様」的感覚の先には、どうも水や電気ガスなどの社会インフラというものが、悪人を退治すれば地面から生えて出てくるとでも思っているのかしらんというような印象が..。

まいずれにせよ、我々の脳は、一度に「破壊の思考」と「建設の思考」を回すことはできないようにできています。自らを、破壊を旨とする人間とするか、建設を旨とする人間とするか、選択しなければならないということです。
両者をうまくバランス取って..ということができるのか、僕にはよく分かりません。この辺が、ハイブリッドがあくまで人生の体験を元にした心理学であり、人それぞれにおいては、人それぞれの人生で確かめていただくしかないと思うところです。
僕の場合は、一度「破壊思考」の歯車が回った時、それは僕自身が目の前のことをそれによってどう対処するかどうかを超えて、連鎖的に全てを失っていくことのように思えました。も、自尊心も、そして人間性も..。ここまで自分の心を突き詰めて探求した結果としてです。


否、突き詰めたからというよりも、心を病むというもう一つの問題を、同時に抱えたからということになるのでしょう。最初から健康な心に育てられた情緒の安定なら可能な多少のバランスが、心を病むというもう一つの問題の介入によって、難しくなってくる。
まあこれがこれからの現代人共通の課題になるということなのかも知れませんし、「人間の不完全性」が「心を病むこと」と大きく輪廻を生んでいるという人間の業における課題になるということなのかも知れません。

ですから、僕は人生のある時期に、人生においてもう「破壊」型の思考を一切使わないことに、決めたのです。
「否定価値の放棄」「選択」そのものは、そのような、細かい話は無視した(?^^;)大きな自己決定のようなものになると考える次第です。

そしてそれが、「人間性」というものがどのように成り立つのか、どのように高めるものかについての、しっかりとした理解の上で、「破壊」ではなく「建設」を「選択」することとして、「否定価値の放棄」が成されると考える次第です。

「人間性」についての3つめの「魂の成熟」という視点により、それが確実になるのではないかと考えます。


心理学本下巻に向けての考察-219:「未知」への意志と信仰-111 / しまの
No.1478 2008/02/23(Sat) 10:45:05

■「神的」な感覚観念と「人間性」と「存在の善悪」

「神的」な感覚観念「ストレス症状」「現実を生きる」ことの喪失とつながっているという話に比べると、「人間性」とどう関連するのかという話は、やや複雑です。

まず思い浮かぶであろうのは、対極とも言える姿です。
人は神を敬う信仰の中で、自らの人間性を高めたいと望みます。
一方、「存在の善悪」という論理の中で、自らが神になる傲慢の中で、人間が人間性を失う最も悲劇的な姿が生まれたりします。人類の歴史の中でも最もその端的な表れに、ナチスによるユダヤ人大量虐殺などがありました。その時、ナチスを信奉する人々は、自らが神になるという陶酔に浸ったのでしょう。それによって自らが最高の人間性という高みに上るという、恐らく幻想の中でです。

やはり、パラドックスです。最高の人間性を求める姿が、現実においては最低の人間性へと人の心を破壊する..

現代人の心の悩みにおいても、その感情の揺れの根底には、「存在の善悪」があるように思われます。その審判の目を、人と社会から向けられる圧迫に怯え、心が切り替わると今度は一転して、その目を自分と他人に向けます。
そしてそこで「存在の善悪」の「基準」となる「人間の価値」とは、つきつめるところ「人間性」というものであることが浮かび上がってくるように思われます。

人が「存在の善悪」を向け合う目に取られたとき、そこでは「神」は消えています。「存在の善悪」は一見して我々自身のことだからです。
しかしその時、「神」はじっと、「存在の善悪」の目を向け合う人間の姿を見ている、というイメージが浮かびます。何も語ることなくです。事実その時、人の心の中で、自分が神になるということが起きているように思われます。

先に述べた「神」「未知」とする、「現実世界」においては自らのできること全てを尽くすという姿勢の者は、「存在の善悪」という視線を自他に向けない人であるような印象を受けます。実際僕自身、「存在の善悪」という目を自分の中から完全に捨てたのは、「これは自分が神になることなのだ」という自覚と共に「否定価値の放棄」を成した境目と、ぴったり一致しているように感じます。
そしてその一方で、「存在の善悪」の目を持つ人たちは、日常生活のどこかで、「神の威光」「圧倒」という感覚観念や、「神頼み」的絶対思考を持つ人であろうような印象を受けます。

全てが、見えないところでつながっているようです。


■終章-14:「人間性」とは何か

「神的」な感覚観念と、「人間性」と、「存在の善悪」。
この見えないつながりを解きほぐすために、大上段から整理をしてみましょう。
まずはそもそも、「人間性」とは何なのか。
なおこの見出しの「終章-14」というのは、語るテーマが幾つかあるか数えている程度の、あまり意味のない番号です^^;

まあ先に引用した辞書からの「人間の本性」「人間らしさ」という定義でも、そこには「善いものとしての」というニュアンスが加わっているのが実際でしょう。
で、それはより具体的に、何なのか。

「人間性とは何か」という問いは、ほぼ同じ問いとして「どうすれば人間性を高められるか」という問いを伴っています。
これについてのハイブリッド的分析考察をするならば、3つの視点が考えられます。
1)「思いやり」と「真心」
2)「破壊」から「建設」へ
3)「魂の成熟」

という3つです。


■「人間性」への視点-1:「思いやり」と「真心」

まず世で「人間性とは」という問いの中で語られる典型「思いやり」「真心」というようなものになるでしょう。
これはハイブリッド的に定義するならば、「愛」とくに「自ら愛すること」の話であり、「嘘のないこと」ということになります。

これはそれでいいのですが、「人間性」の話としては初級的(^^;)なものになります。「人間性入門」もしくは「人間性初級」。アハハ^^;

実際のところ、「思いやり」なら爬虫類からしてあります。ワニが子供への愛情を持つ様子が観察されている。
とてもじゃないが、「思いやり」をもって「人間性」というのはあまり答えにならないです。
「人間性」を「思いやり」「真心」という感じで考えるのは、「人間性とは?」という問いに対して、実際のところ答えが出ていない不明惑いという入り口に、その人があることを表していると言えます。

そうして世の人が「思いやり」を「人間性」と考え、「思いやりを持てる人に」と心がけるのは大いに結構なのですが、そこに「人の目目当て」の衝動が侵入してくるごとに、その「思いやり」に「嘘」が混じるということが起きてくるという隘路を抱えます。すると「真心」でなくなる。そして悩むわけです。どうすれば本当に思いやりを持てる人になれるのでしょ〜〜か、と。

まちょっと言葉を茶化した点ご容赦^^; ともかく「思いやり」「真心」という視点については、ハイブリッドとしては「愛における自立」という壮大なテーマと、「自分への嘘」という心を病むメカニズムの問題全体の話になりますので、これは「人間性」の視点としてはもう外すのがお勧めになります。

「愛における自立」「自分への嘘を解く」内面課題と同時に、外面においては、「存在の善悪」ではなしに「行動の善悪」をしっかり分かる原理原則の習得が重要です。「思いやり」「真心」とばかり考える人は、対等な人格同士の関係を前提とする、個人の独立を尊重する現代社会での、「行動の善悪」が実際のところ良く分かっていないという問題に自分でも気づかないという事態になりかねません。社会行動「思いやり」「真心」という思考ではちょっと行動がトンチンカンになりがち。

まあ大人としての社会行動ではやはり、対等な人格という前提での、明確な権利」と「義務」、「役割」、「約束(契約)」「自由」といった原理原則をしっかり把握した行動ができることが、やはり「人間性」の一要素になると思います。
この辺は、ハイブリッド以外でも色々と勉強の手立てがあると思いますのでぜひ視野を広く持って学んで行きたい領域ですね。


心理学本下巻に向けての考察-218:「未知」への意志と信仰-110 / しまの
No.1477 2008/02/22(Fri) 22:55:34

■「現実を生きる」ことの喪失

「神的」な感覚観念の弊害2つ目。これは「神頼み」型の非論理的絶対思考に関連した話です。
話は次第に、心の障害の症状という表に見える顕著なものから、心の成長を裏で大きく妨げるものという問題になってきます。

「神頼み」その他の非現実的絶対思考に頼る中で、人は「ありのままの現実を生きる」ことを失います。つまり「現実の受容」をしないままでいるということです。不完全性を受け入れないまま生きるということです。

ありのままの現実を、ありのままに見て、ありのままに身と心を晒すのとは違う、「こうなれたらいいな」という空想を描くこと自体は、自然であり健全です。しかしあくまでそれは「現実に接する」ということの前段階までの話です。
実際に「現実」に接した時、いかにありのままにそこに身と心を晒すことができるかに、心の成長の分かれ道があります。
「現実」に向かうような場面でなお、「あるべき世界」の空想に生きる。「神頼み」「おまじない」型の思考はそうした姿になってくるでしょう。

「心の豊かさ」は、基本的に損失や喪失を超えた先に生まれる、というのがハイブリッドの基本的な考えです。それは決して、恵まれた条件によって「与えられる」ことが生み出すものではありません。
これは「魂の豊かさ」「魂に魂が宿る」ことによって生まれるという、最も大きなレベルでの「豊かさ」での話です。もちろん恵まれた条件によって豊かな生活ができることは、貧困な生活をするよりは豊かな感情も増えるでしょう。
しかしそれは「魂の豊かさ」に較べれば、誤差の範囲でしかないんですね。

そうした最も大きなレベルにおける「心の豊かさ」は、「魂の豊かさ」つまり「魂の成熟」によるものであり、「魂の成熟」は基本的に「魂に魂が宿る」という仕組みによるものであり、これは基本的に「望みを看取る」ということを一つのサイクルとして、一回の「魂に魂が宿る」ことが起きるというようなメカニズムだと、ハイブリッドでは考えています。

現実は不完全なものであり、そこには必ず損失や喪失があるのであり、それを前提にして魂が成熟するというメカニズムができているんですね。
「神頼み」的絶対思考の中で、そうした「ありのままの現実に心を晒す」ことが、失われています。「あるべき世界」という空想「主」「ありのままの現実」「従」という構図になってしまうからです。


■「ありのままの現実」に向かう姿勢

ではどうすればそうした「ありのままの現実の受容」という方向に向かえるか。意識的実践、意識的な心がけの方向とは。

もちろん、「魂が成熟した人間になろう」と考え、「喪失を痛もう」と考え、「望みを看取ろう」と考えたところで、心は急に止まれない、じゃない急に方向を変えてくれるわけでもありません。
結局、魂が成熟した人間になろうと考えるのはいいのですが、「そうなれてどうなる」の先に「人の目」があるところに、問題が原点に戻るわけです。「自己の重心の喪失」という問題の原点に。

話の全てが、「依存と自立」という最大命題の中にあることを理解下さい。「望みに向かい現実にぶつかっていく」という心の成長大原理は、「自立」に向かう中で働きます。
それが人間の場合、自ら望むことができないまま、「人の目」の中で「こんな自分になれたら」と、それによって何か幸福が自分に与えられるべきだという「依存」の中で、心の成長の真似をするという姿に陥る「さが」があります。

「それがいけない」という減算法的な思考をしたところで、全てが同じことの繰り返しです。
そういった全てを考慮して、ハイブリッドでは意識努力することとその順序を、極めて明確に定義しているわけです。まず「自己の重心」からですと。そして「感情と行動の分離」によって、内面は開放し、ただありのままに理解するまでを行う。感情を正そうとは決してしない。上述のように自己の重心を喪失した「依存」の構図にある心の動きが自分の中にあることも含めてです。なぜならそれが人間の不完全性だからです。

そしてそうした減算法的思考ではなく、加算法的思考として積極的に向かうのが、「価値の生み出し」を携えて「望みに向かう」ということであるわけです。
そこでもやはり、「人の目感性」がきれいに切り離された純粋で見栄えの良い「望み」がまず自分の心に見えてからと考えると、また全てが同じことの繰り返しになります。「望み」がきれいになって行くのは、「不完全性の中の成長」一つのサイクルとした中で起きるのです。望みはまずどうしても「人の目」の中に始まります。人間とはそうゆうものなのです。その中に、「現実において生み出す」要素に着目して、そこに向かうしかないです。
そして「現実」に向かった時に、「現実性刺激」というものが、「ありのままの現実と自分」というものに、我々を向き合わせてくれる。

その時、ありのままの現実に身と心を晒すことで生まれる、神秘なる心の成長の通り道に向かうか、それとも「あるべきこと」という空想を守り、不完全な現実を受け入れない怒りに向かうかは、もはやこの時になって「選択」できることではなく、この人間がそれまでに選択を成していた根底の姿勢によって決せられることになります。
根底の姿勢とは、「心の自立」「信仰」における立ち位置です。

ここで「心の自立」について正しい理解のために手短に言えば、それは「人に頼らない」とかの外面のことではなく、人に依存したいならば依存したいという気持ちを、自分自身で真正面から認めることなのです。人がどうあるべき云々といった論理によって隠すことなくです。
つまり「心の自立」とは、自分の気持ちを人に認めてもらうことで認めることができるのではなく、自分の気持ちは自分自身で受け止めることができるということなのです。これはどんなに腕力経済力など外面的な力が弱くても、大人になる中で心がおのずとそうなることを自ら求めるように、心のDNAに設計されているはずなのです。

まずはそのように、自分の気持ちを人に推し量ってもらうことが始まりと感じる「心の依存性」を克服し、自分の気持ちを自分で受け止めるという「心の自立」を目指すことが、「ありのままの現実とありのままの自分を生きる」ということの最も大局的な一歩です。


■「人事を尽くして天命を待つ」「神は自らを助くるものを助ける」

「信仰」についてはどうか。「神頼み」的な思考をどのように変えるのが良いのか。

その考察の詰めをしているのがここでの話の流れですが、ハイブリッドが示す方向同じものが、実は「天の恵み」といった思考やキリスト教などの「偶像化信仰」の領域でも既に言われている部分があり、実感的に分かりやすいと思いますので、まずそれだけ触れておきましょう。

それは「人事を尽くして天命を待つ」「神は自ら助くるものを助ける」といった言葉です。
まず「現実世界」において、自分のできることの全てを尽くす。その上で、結果を神に任せる。

実際、人生で何かを成した人は、大抵この姿勢の持ち主のように感じます。以前一度触れた話ですが、「神の手」を持つと言われたスーパードクターが、超難関の手術に際し、「思わず心の中で神さま..と言ってました。僕自身は無神論者なんですけどね(笑)」といった談話がそれです。
やはり、「不完全性」の先に、「神」が出てくる。

そこでは、自分にできること全てを尽くせば、神がそれを助けてくれる、という論法になるのですが。ここで「神が助ける」とは、必ずしも望みが叶うことではないことが、実はそれらの言葉には含まれているのではないかと、僕としては思う次第です。神が助けるのは、望みを叶えさせることではなく、望みを尽くした時に現われる、神秘なる魂の成熟の方なのではないかと。
それを、「神に祈ったところで叶うわけがない」という論理思考まではいいとして、「どうせ」という思考に至った時、この人は実は「信仰」において自分が神になる絶対思考に傾いたのかも知れません。

いずれにせよ、「人事を尽くして天命を待つ」「神は自ら助くるものを助ける」と言うとき、自分の全てを尽くすことで向かう先は、「未知」として扱われることになります。そこにおいて「神」「未知」になるわけです。
これはハイブリッドの「未知への信仰」と符号するものであり、「信仰における自立」ということになります。


終わりの方はちょっと書きなぐりで、説明としては中途半端ですが、まとめると、「神的」な感覚観念の弊害として、まず「神の威光」「圧倒」といった感覚観念がストレス症状とつながり、「神頼み」的な絶対思考「現実を生きる」ことを失うこととつながる、という話までしました。
ここまでは「神的」な感覚観念と、心の健康と成長への妨げの、関連が比較的見えやすい話と言えます。

3つ目の弊害の話になり、一見するとテーマは「神」から離れます。「神」の話ではなく、我々自身の話になるからです。
「人間性」というテーマです。
それが、一方で「神」という感覚観念を人間が持つ時、人間が人間自身の「人間性」を、人間を超えた目で見ようとする幻想が生まれるという話になってくる。
そこに、人間が「人間性」の真実を見失った根源があるように思われます。


心理学本下巻に向けての考察-217:「未知」への意志と信仰-109 / しまの
No.1476 2008/02/22(Fri) 11:02:48

■中期実践-3:「神の威光」への依存性の脱却

ということで、「魂感性土台の体験」を足場に、「匿名性」を重要な特徴とする「価値の生み出し」というのを体得する取り組みに向かう。ごく外面における原理原則的な建設的行動ができるようになる。一方で、「人間性」というものにおける深い喪失感が同時に見える。

そんな通り道において同時に検討頂きたい取り組みが出てきます。
「信仰」に直結する話で、「神のような」という感覚への取り組みです。

「神を信じるか?」といった抽象的思考の話ではなく、ごく日常感覚の中に入り込んでいる、「神のような」という「威光」「威圧」そして「圧倒」という感覚感性の影響度を、まず自己把握することです。
何かで特別に優れた人を前にして、何か神のようにあがめたくなる気持ちを体験するようなことはあるか。自分が何か特別にうまく行ったことについて、自分に神が乗り移ったというか自分が神の力を得たというような、空想感覚に浸るという体験はあるか。「選民思考」という話も出しました。人を選り分けるという感覚。その審判をするのは神の位置のわざになります。そんな高みから人間を見下ろすという感覚に陥ったり、他人がその感覚で自分や他人を見下していると感じたり、と。

ごく現実的な問題について、「神頼み」的な思考を使うことがあるか。「おまじない」「占い」もかなりその範疇になってきます。現実的科学的論理のない、何か絶対的な観念に頼る思考。
ありがちなのは、健康や事故災難に遭わないことについて、そうした類の思考に走るものですね。これは最もお勧めでない人生の方法です。健康や事故防止などは最も医学や科学など日進月歩の技術進歩がある領域であり、いかにより高度な技術を自分の味方につけるかが、人生をうまく生きることへと最短につながります。

いや、技術よりも日ごろの心がけだ。神を敬う気持ちが大切だ。それがそうしたものに表れるのだ。科学的な思考への基本的な馴染み度という問題があるかも知れません。
ハイブリッドは基本的に、科学の時代にふさわしい、心の成長と幸福を科学の姿勢で考える心理学ですので、まずそのスタンスに共感する方が、この心理学の取り組みを検討することになるでしょう。


■「神的なもの」への観念感覚とストレス

上述のような「神のような」という観念感覚の弊害を、ここで3つ説明します。どれも、一見すると「神」の話とはつながりのないことです。しかし、それが人間の心のあり方と、心の健康大きく変えているのですね。

ちなみに僕自身は、上述のような傾向は、今はほぼ皆無です。現実世界のことについて神頼み的な観念を持つことは元々ありませんし、特別に優れた人や美人に圧倒的に惹かれなびく感情が湧くことも、もうなくなりました。特別な美人に吸い込まれる感情も湧かなくなったのはごく最近ですが^^;
でも今はそうした人達にも、同じ魂の存在をまず感じるようになりました。これは心の足をちょっとひっぱる足手まといのようなものがなくなった、有難い変化だと感じています。

で、まずそうした「圧倒」という感覚の弊害です。「威光」「威圧」という感覚観念ですね。最後には神の威光が何とかしてくれるというような観念。

これは全く意外な話に聞こえるかと思いますが、これは心の障害としての「ストレス」と、ほぼ同じものを示しています。
つまり、そうした「威光」「威圧」「圧倒」という、ものごとを理屈で考え処理するのとは違う、才能や魅力による「圧倒」の力で他人に影響を与えたいという感覚観念があることと直結したメカニズムとして、「ストレス」という心の機能、脳の機能を用いる傾向になるということです。

つまり、脳に血を集めて、全身の神経と筋肉を緊張させ、内臓の機能を低下させるという、例の状態ですね。終わった後に、自分が健康に害のありそうな嫌な疲労をしていることに気づく、例のやつです。
「威圧」「圧倒」が好きな人の場合、ことあるごとにそれが自動的に起きる傾向が生まれてきます。

人に反論する時や、子供を叱る時、言葉の内容よりも語気の荒さ強さによって相手を押し倒そうとするような傾向。
人が語る内容ではなく、語る物腰や声色のすばらしさによって、語ることが正真のものだと信じる傾向。「こんな素敵な人が言っていることなのだから間違いはない」と。そうして悪徳商法や詐欺のカモになってしまうのですね^^;

まあまずは、そうした外見様子の素晴らしさや圧倒性に惹かれる感情と、そこに存在する論理的問題を、しっかり切り分けることからですね。
魅力を感じるものは、追求し続けるのがいいでしょう。しかしそれが我々の生活の現実問題をどう解決するものかは、全く別の話として、これまた現実的なノウハウを追求し続けることです。

ストレスが嫌であればストレスに頼らずに論理思考で対処するという日ごろの習慣をつけることですね。

これ当然。怒りで相手を圧倒できるのがたまたま起きるのに悦を感じる一方で、大抵は怒って醜い姿になる自分を直したいと考えても、心はそうはいかないんですね。自分が本当に怒りを有益だと考えているのか無益だと考えているのか、まずはっきりさせることです。
そして「選択」を問うわけです。ここでもう人がハイブリッドとは違う道を選ぶことについて、もう何も言えなくなる部分があるのも事実だと思います。心の健康を害しても、怒りが好きならもうしょうがない。
ハイブリッドができるのは選択を示すまでです。また選択の底に横たわる複雑なメカニズムを説明することまでです。まあこれが尽きない話となるわけですが^^;

いったんここでカキコしましょう。残り2つの弊害の話が、さらに大きな視点のものになってきます。


心理学本下巻に向けての考察-216:「未知」への意志と信仰-108 / しまの
No.1475 2008/02/21(Thu) 15:58:02

■「人間性」と「信仰」の問いへ

まあ手短に言えば、まず「自己の重心」によって内面の落ち着きをまず得て、次に外面行動のための原理原則に自信を持てるようにしましょーというのが、先のカキコの話になります。
これがひとたび「どう見られるか」になると、全然違う流れになってくる。そして「こう見られる」ためには「こんな感情にならなければ」というストレスの振り出しに、戻るわけです。ありがちなのはこの先に外面の建設的思考などを考えるものですね。全てが「こんな感情に」から始まっている。その元には「こう見られる」がある。

そこを、まず「自己の重心」からという振り出しにまた戻るという繰り返しが実践になります。そして「人の目」が消えた感覚での外面行動のの原理原則に自信を持てるようになっていく。
という流れ。

まあこの段階で完全に外面では心の健康な人と同じような感じになってきます。深刻な状態からスタートしてそうですし、そうでないケースでも、心にはもやっとした感情が流れても、外面では自信を持って建設的行動ができるという姿になることを、まず通り道と考えています。

内面では、深く「失ったもの」「損なったもの」が見えてくる段階になります。それが、人の目に頼らずに、自分で本当に自分のことをどう感じているのかを自分で分かるようになるということなのです。自分で自分を、どう損ない失っているかを感じ取ることにおいて、人の目の影響は減ります。人の目によってあまり動揺しなくなってくる。
でも内面は深い喪失感を引きずっています。

そうゆう流れなんですね。ハイブリッドが想定しているのは。
それが「まず感情が良くなることから」と、人が心の障害の中で思考の始まりとして持つ思考にとどまるのは、結局、根底の自己否定を塗り消すために「軽蔑されるための自己理想」を描き、人の目に悪意を感じ破壊行動に走るという、全てが同じことの繰り返しにしかならないと考えるわけです。
「自己の重心」の先に、そうした錯綜を全て自分の内部へと取り戻すわけです。

そして、こうした内面外面の安定化が、「現実において生み出す」という一貫した姿勢の先にあるのであれば、我々が根底において「あるべきもの」と感じるものと、それが損なわれたものを前にして怒るということの意味を、根底から問うことが可能になってくると、ハイブリッドでは考えるわけです。
それが一体何の意味を持つのか。そして何がそれに意味を感じさせることになったのか。


■人間は「人間性」において不完全な存在

で話は「否定価値の放棄」直結する実践部分の話になるのですが、もう一つ先日の治癒メカニズム結論と同時に僕がパラドックスとして感じたを感慨を書いておきましょう。

そうして我々が根底において「あるべきもの」と感じ、それを損なったものを前にして怒るものとは、ハイブリッドが上述のような道のりの先に浮き上がらせる、自分自身においてもそれが何か損なわれたという喪失感がテーマにするものを、ここではこの言葉を使って指そうと思います。

それは「人間性」です。人間として、我々が心の底で守るべきものであり、時に自分の中にそれが損なわれた影のようなものを見て自分を責めることになり、また他人の中にそれを損なったものを見て、「怒らなければいけない」と、「決して許さないことに善性がある」と感じる、そしてそれによって我々相互間の根底での「信頼」が築くことができる、そんなものとしての「人間性」です。

もし心の悩みの底に、外面での建設的思考法行動法に習熟してもなお残るもやもやがある時、深い自己理解の先に浮き彫りにされる「根源的な否定感情」は、自分や他人の「人間性」に向けたものであることが分かってくるでしょう。
拭い去れない根源的な自己否定の先にあるのは、自分が「人間性」を損なったという深い感情であるのが分かってくるでしょう。

そもそも「人間性」とは何か。
辞書を見えと、「人間の本性」であるとか、「人間らしさ」とあります。
実際そうです。我々が「人間性」という感覚において自分や他人に問題を感じる時、そこには、人間の顔をした、相互理解不可能な、自分と同じ人間として心を通わせることの不可能な、「まがいもの」のような何かを感じるという問題が起きるわけです。

事実、人間はこの「人間性」において惑いを持つ存在のようです。人間は、人間性において不完全な存在であるようなんですね。

これは「心を病む」ことが人間性を損なうことにつながるというのとは、ちょっと違うように思われる形においてです。僕は自分なりにそうだと言えるのですが、「心を病む」ことを見据えたからこそ、人間性のための真実が見えるということが出てくる。それが次に生まれる心を健康へと導くことにつながるでしょう。一方、そこそこ健康な心でいても、人間性のための真実を分からないまま生きる人というのがやはり出てくる。そしてその下に育つ心が病むということが出てくる。

だから、「心を病む」のは、「心を病む」ことの負の輪廻のように、実際僕自身がこの心理学を整理し始めた頃は考えていました。
でもそうではない。人間が人間性において不完全な存在であることが、「心を病む」ということと、相互の輪廻を成しているんですね。人間とは、そうゆう存在なのです。目頭を熱くさせるような深い思いと共に、この結論を感じている次第です。


ですから問いは、もはや心をどのように病むかの問題を超えた、人間の心の根幹に関わる問いになるわけです。
ハイブリッドとしては、そのためのごく実践的な方法論を用意します。それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-215:「未知」への意志と信仰-107 / しまの
No.1474 2008/02/21(Thu) 13:21:12

■「人間の心の成長」のパラドックス

さて、「心の治癒と成長」メカニズムについては先のカキコのものが結論であり、これについては僕としてももう確信とも言える終結感がある次第です。
その道のりを経ることによって、我々人間の心は、必ず、もはや「叶えられる」ことを必要ともせずに満たされるような形において、「望み」へと向かい続ける心の充実と、もはや何も「恐れるもののない心」の強さと安定へと、成熟することができます。

しかし話はここで終わらないわけで、「否定価値の放棄」への実践の核心部分をまだ残しているという話の段取りもさることながら、まず印象として心を打つのは、そうした心の成長への道のりが、それを歩もうと意識して歩めるものではなくいったん意識を全く別のところに向ける必要があるという、パラドックス的なそのあり方です。

人間の「心の惑い」と「心を病む」という問題は、「魂と心の分離」にまつわる幼少期の挫折体験と、「信仰の誤り」という2大原因による、と考えるのがハイブリッドのほぼ結論になります。

しかし人間は、そのどちらにおいても、まず自分には問題がないという顔をすることに駆られて生き始め、次に、自分がそのどちらかにおいて問題を抱えるという現実に気づきながらも、他方については全く考えることをせず、根本的な人間の心の変化成長を知らないまま生涯を送ります。
あるいは、「普通」という曖昧な基準を用意することで、自分がそこそこ成長できていると考えて生きることにおいて、人間の心の成長を全く知らない人生を歩んでいるのかも知れません。

心の治癒成長のメカニズムの結論をはっきり感じると同時に、僕の心に印象としてまず打つのは、そうしたパラドックス的な姿でした。
で、ちょっとこの「パラドックス」の正体そのものの根本を、ちょっと考えてみました。


■「今の心」で考えては答えの出ない「根本的な変化成長」

人間の心の成長がこのようにパラドックス的なものであり、またパラドックス的な答えを模索する必要があることの理由は、基本的なところにおいてはあまりにも自明であり明白です。
なぜなら、今の心とは全く異なるような心へと根本変化成長するのであれば、今の心で考えていては答えが出ようがない、ということです。

まず、このあまりにも明白で自明の法則に、人は大抵気がつきません。そして一生懸命、今の心を基準にして「どうすれば」と思考します。
それでは答えが見えるはずもありません。

しかしながら、そうは言っても、あくまで我々が思考をできるのは今の心を使ってです。根本的な変化成長というのは、今の心で考えても分からないのですが、今の心で考えるしかない。
これは結局、人間の心の成長というのが、実際のところかなり分からないまま人間の歴史が積み重ねられているのが実情だということになるでしょう。

つまり、我々は人間の心の根本的な変化成長というものは、基本的に後から知るという仕組みがあります。
まあ、さまざまな人間事例などを通して、先人が「後から知った」ものを学ぶという人間の歴史の積み重ねの中に、我々自身も今いるということを踏まえると共に、結局自分自身におけるそれは、「未知」の先にあるといのが答えだということになるでしょう。


■「ありのままの自分」と「ありのままの現実」という成長の原点

一方、やがて根本的な変化成長へとつながるものとして、「今知ることのできるもの」もあります。ハイブリッドがまず目を向けるもの、そして「実践」として強調するのは、それになります。

それは「ありのままの現実」です。ありのままの自分の現実と、ありのままの外界の現実です。そして外界の現実には、それに応じた「知恵とノウハウ」や「ルール」があります。
それを知り、ありのままの自己の「望み」に向かい、ありのままの現実に身を晒し、得られたものをありのままに喜び、損失や喪失をありのままに痛み悲しむ先に、「望みの成熟」という、人間の根本的な変化成長への神秘なる源泉が働くことを、上巻原稿で説明しています。

「望みの成熟」とは何か。なぜそのようなことが起きるのか。望みに向かうその瞬間においては、望みが叶えられることはむしろ稀であり、痛み悲しみの方が多いにもかからわず、そのようなことが起きるのは不思議なことです。
しかしそうした喜びや痛み悲しみの揺れ動きを超えて、そこに何か一貫した、得がたい何かが起きており、その積み重ねが、「望みの成熟」になるのでしょう。

それは「現実を生きている」という実感です。自分に「命」があり、それが自分を突き動かし、「現実」へと羽ばたいているという、そのダイナミック感であり、湧き上がる「力」の感覚であり、「自由」の感覚であり、「開放感」の感覚でもあるとでも言えましょうか。観念論ではなく、そうした感覚が、肌で感じられるように頭の頂点から足の先までを貫く、人生の瞬間というものがあります。

おそらくその部分が、「望みの成熟」の種になる部分なのでしょう。そして望みに向かう中で与えられる「生きる実感」心の樽にたまってくると、やがてそれを他に与えたいという望みへと、望みの全体の質と内容が変化してくる。


■「望みの開放」と「望みの停止」

そこにはまた、「望み」というのはその「満足」によって、心に収まってくるという基本的な法則が働いていることが考えられます。まあ卑近な表現をすれば「飽き」というものが起きる。おなか一杯という感じで。

で僕なりに結構望みを追求した人生<