7章 現代人の心の荒廃 −失なわれた「自己の重心」−
*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*
現代人の心の荒廃
「心の荒廃」が今、社会で一つの危機的な問題として叫ばれています。
その表れはさまざまです。「親殺し」に代表される、近親者の間での殺傷事件や、相手を選ばない、通り魔的な事件の発生。毎年3万人を超える自殺者。「いじめ」の問題や、職場におけるストレスと過労。あらゆる場面で見られる、人間関係の悩み。そして「心の病」の増加。
そうした「心の荒廃」は、大きく分けるならば、それによって他人が被害を受けるものと、本人が悩み苦しむものの、2つのカテゴリーに分けることもできます。本人が苦しむものを「心の障害」として、精神医療の現場ではさまざまな「診断」も行われます。「うつ病」「パニック障害」「境界性人格障害」などなど。
しかしハイブリッド心理学では、全ての心の問題の根源は同じものだと考えています。
それは人間がもともと持つ「心のメカニズム」の一つの側面なのだと。「心のメカニズム」なので、何種類もあるわけではなく、あるのは一種類のメカニズムだけです。心がその上で動く「脳」のメカニズムも一種類しかないからです。
「第1部−2 心が病むメカニズム」では、そうした「心のメカニズム」として、ハイブリッド心理学が「心の障害」をどのように捉え、どのような克服へのアプローチを考えているのかを、その概要を説明したいと思います。
「心の病理」の本質とは
まず、私たちは何をもって「心の障害」「病んだ心」と考えればいいのか、その正確な心理学的理解を図りたいと思います。
別に心を病んでいなくとも、私たちは生きる上でさまざまな困難に出会い、動揺したり悩んだりすることはあるものです。大勢の人前で話す大きな舞台を前にしたり、重要な試験や試合に望んで緊張することは自然なことであり、大切な人との別れや、健康や財産を失った時に悲しみに打ちひしがれることは、別に「心の病」ではありません。
むしろ、そのように人生においてかならずある困苦にありのままに向き合い、克服への向上の努力をすることが、「こんなことはあるべきではない」という怒りによって妨げられる姿が、「心の障害」なのだと考えることができるように思われます。
健康な状態との違いを本質的に示す特徴を、「病理」と言います。
「心の障害」であることを示す「心の病理」として、ハイブリッド心理学では4つの特徴を考えています。「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」そして「論理性の歪み」です。
それぞれを簡潔に説明していきましょう。
度を越えたストレス
「心の病理」の1つ目は、「度を越えたストレス」です。
「ストレス社会」と呼ばれ、「ストレス」は現代社会の病理の一つだと言われることがありますが、強いストレスは必ずしも心の障害の表れではありません。たとえば日本の総理大臣やアメリカ合衆国の大統領が日々感じているであろうストレスを、心の障害とは呼びません。オリンピックの試合で選手が体験する強烈な緊張感を、心の障害とは呼びません。これらは「現実に見合った」ストレスと考えられます。
そうではなく、どう考えても「現実」とは不釣合いな、度を越えたストレスがそこにある時、それを心の病理として、心の障害の表れと考えることができます。何において「度を越えている」のかと言えば、ストレスが持続する時間およびストレスの強度においてです。
ただしどの程度のストレスが「現実に見合ったもの」と考えるかは、かなり個人差のある話です。そして重要なことに、自分の持つストレスが「現実に見合ったもの」と考えるかどうかで、ストレスの克服は全く違った話しになってくるのです。
自分の体験する強いストレスが「現実に見合ったもの」だと考えるのであれば、「現実」が変わらない限りストレスは逃れられないものと決め付けることになります。逆に、自分の体験する強いストレスが「現実とは不釣合いだ」と考えるならば、ストレスを克服する方向への歩みが始まり得ます。
私自身の感覚を言いますならば、明らかに高いストレスが不可避なのは、どう考えてもとにかく戦時下です。それに較べれば、現代社会少なくとも今の日本は、ストレスはかなり克服が可能な社会だと考えています。事実私自身は、自らの心の成長への歩みの中で、会社の仕事場面でのストレスはほとんど皆無になりました。
「日本人ジョーク」として、面白い映像を見たことがあります。短いマンガ映像で、一人の日本人男子が、まるで運動会のかけっこ競争のように、スタートの合図のピストルの音と共におぎゃーと生まれ、死んで天に召されるまで、目をつり上げ、駆け抜けて行きます。
人生の全体が、競争のストレスの中にあるわけです。多くの人が、それが今の日本社会なのだと考え、今の社会は生きにくいと考えているようです。
これは果たして「現実に見合ったもの」でしょうか。もう少し別の視点を入れると、必ずしもそうではないことが分かってくるのではないかと思います。つまり、ストレスは「現実」にあるのではなく、自らの内部にあるということがです。
自己の分裂と疎外
心の病理の2つ目は、心の内部に取り込まれたストレスによって始まる、次の連鎖的な病理だと言えるでしょう。それは、「自己の分裂と疎外」が起きるということです。
自分自身にストレスをかけ続けた結果、本来一人の人間に一つのまとまったものとしてあるはずの「自分」というものが、矛盾した思考や感情に分裂したり、「自分が分からなくなる」といった状態が起きてきます。ストレスは必ず、心の内部に怒りと抵抗の反発を生みます。自分自身にストレスをかける方向と、それに怒り反発する方向。この両者が共に蓄積され、ある時点でその対立はもはは表面の平衡を保つことが難しいほどのものへと膨張してしまいます。
こうした「自己の分裂」は仕事や恋愛など、日常の多岐に渡ります。その極端な姿は時に「人格の分裂」「多重人格」として人の目にとまります。
しかし実は私たちのごくささいな心の悩みから、こうした「自己の分裂」が常に背景にあります。人と仲良くしたいが、人が好きになることができない。頑張らなくちゃと思いながら、やる気が出ない。
それだけ、人間の心のメカニズムはもともと沢山の歯車の分裂と協調の中にあるのであり、その僅かな狂いでも「自己の分裂」が起きるのだとハイブリッド心理学では考えています。
「葛藤」
自分自身の内面に矛盾し対立した自己を抱えることは、人の心の表面に「葛藤」と呼ばれる、苦しい心理状態を生み出します。
「葛藤」とは、心の中に矛盾し相容れない複数の感情を抱え、そのどちらを選ぶこともできず、「心が引き裂かれる」ような苦しみを感じることを言います。
つまり「葛藤」とは、単に複数の選択肢のどれを選ぶかに悩む状態を言うのではありません。今夜の食事をカレーにしようか中華にしようか迷うことを、葛藤とはあまり言いません。そうではなく、選択肢のどちらもその人にとって重要で、捨てることができず、必要不可欠と感じられながら、選択肢が互いにまったく相容れず、両立しない。その結果その人が選択不能の状態に陥ることを言います。
そして選択不能でありながらも、どちらかを選択しないと、その人の存在基盤そのものが危うくなるかのような切迫した状況です。選択不可能であるのに、選択しないままでいることもできない。だから、「葛藤」は「心が引き裂かれる」という、精神的な強烈な苦しみとして体験されることになります。
つまり葛藤とは、選択肢の間で起きることではなく、人間としての相容れない存在の仕方の間でおきることだと言えます。
かくして、カレーと中華に迷う時は、半人前のを両方を食べればそれで万事解決ですが、不倫の恋に陥ると家庭との共存は困難であり、そこで人はしばしば葛藤を体験するわけです。
「自己の分裂」が「人格の分裂」と言えるほどに根深いものになった時、それは葛藤を生み出す葛藤を生み出す「構造的背景」になります。
構造的背景であるとは、その人の外部状況がどんなであるかに関わらず、内面において葛藤するということです。その人は、葛藤を、外面のあれとこれとの葛藤だと考えるかも知れません。でも実はそれは、内面の分裂が外面に映し出されたものに過ぎないかも知れません。
葛藤の破壊性と「転位行動」
人格が「分裂」していて、人の心の焦点が分離した2つの人格にまたがった時、「心が切り裂かれる」という現象が起きます。この破壊性は容易には知り尽くせません。最も重度な心理障害は、かつて「精神分裂病」と呼ばれていました。心の分裂は、「狂気」への入口でもあるようです。
こうした葛藤の破壊性を示唆する、動物行動学上の言葉に、「転位行動」というのがあります。これは、全く相容れない2つの行動のどちらかを取ろうという選択において、どっちつかずの全く中間にバランスが取れてしまった時、動物が突然全く関係のない行動を取ることです。例えば、同等の相手と出くわして攻撃するか逃げるかの全く中間でどっちつかずの時などに良く見られます。その時急に体を掻いたり、あくびをしたりといった行動をするというものです。
これは、2つの行動の選択のちょうど中間点どっちつかずの葛藤において、ストレスの緊張が極大になってしまうということでしょう。全くの中間点で緊張が極大化することを避けるために、全く関係のない行動をして、いったん緊張を緩めるということでしょう。
そうして、心身の緊張をいったん戻してから、再び逃げるか戦うか、行動の再開をするわけです。
「嘘」と「自己の疎外」
では人間における「転移行動」とは何でしょうか。
それは「嘘」であるとハイブリッド心理学では考えています。つまり「嘘」が、人間における転移行動です。
それが、「ありのままの自分」でいることを許さず、「あるべき姿」を掲げ、怒りに頼る思考法によって生きる現代人の、ごく幼少期から起きています。
ありのままの自分でいたいという願望は、本来人間の本能です。それが、「ありのままの自分では駄目」だという自己否定感情と、内面に取り込まれた「怒りを向けられる恐怖」との板ばさみになるわけです。
その葛藤から逃れるために、子供の心に起きる転移行動。それが「自分自身に対してついた嘘」になるわけです。自分はもともと「こうあるべき」人間なのであり、そんな人間なんだ。それでいいんだ。ありのままの自分だと思ったのは気のせいだ。悲しくなんてない。自分はもともとそんなものなんて求めてはいないんだ。これでいいんだ。
こうして、自己の分裂という病理から始まった「自分自身への嘘」は、もうひとつの病理の様相を付け加えることになります。それは、ありのままの自分の心を感じ取ることから、遠ざかることです。自分が本当には何を感じているのかが、自分自身で分からなくなってくるのです。
これが「自己の疎外」です。
「自分自身への嘘」というものが存在することは、他の動物に比較しての、人間の「生」の悲劇性というものを示しているように思われます。
動物の場合、葛藤は主に身体的攻撃を前に起きるものと言えます。そしてその状況が示す通り、転位行動とは本来、すぐ解除して、しかるべき選択をしなければならないものなのです。
しかし人間の場合、主に精神的攻撃によって、「追い詰められた」という葛藤状態に置かれます。そしてそこで起きる人間の転位行動としての「嘘」は、一度使うと解除が難しい性質があります。さらに、「嘘」はそれ自体が人間の心にとってストレスなのです。
ここに、全ての心のストレスが固定化される決定打が打たれます。それはありのままの自分でいたい願望と、別の自分でいることで逃れる恐怖を、根本的に解決するものではなく、その解決を永遠に先延ばしして、固定化するものになると言えるでしょう。
こうした「自己の分裂と葛藤」そして「自己の疎外」が、病んだ心の背景には必ずあります。
「こうあるべき」通りになれているような自分。そうなれなくて、駄目な自分。人に合うと自動的にあいそ笑いをしてしまう自分。別の人間には見下し気分の中で生活する自分。押し付けられた拘束に反発するように人に背を向ける自分。そして何が本当で、何が真実なのか、そして何が現実なのかが、分らなくなってくるのです。
情動の荒廃化
内面に固定されたストレスは、さらに次の3つ目の心の病理を生み出します。それは「情動の荒廃化」です。これは思考や行動へのエネルギーが、全体的にすさんだ破壊性を帯びてくることです。つまり怒りや憎悪が、行動へのエネルギーになってくるという状態です。
怒りに頼る思考法をしていると、実際のところ人間を動かすのは怒りだという錯覚さえ起きることがあります。
もちろん人を動かすのは「怒り」だけではありません。人を動かす大きな感情として「怒り」とは別にある感情は、「喜び」と「楽しみ」です。ハイブリッド心理学では、「喜び」と「楽しみ」を原動力とすることが、心の本来の健康な姿だと考えています。
怒りに頼る思考法をしていると、しばしば「喜び」と「楽しみ」の純粋形がどんなものだったのか、分からなくなってきます。怒りのストレスが軽くなることを、「楽しみ」だと錯覚したりするのです。かくして、「あるべき姿」にならなければというストレスの中で生きた時、一流大学や一流企業に入れることが「喜び」「楽しみ」だと考えるわけです。
しかしそこに入って行うことへの純粋な「喜び」と「楽しみ」を感じているわけではありません。だからしばらくすると、何のために自分がそこにいるのか分からなくなり、何の行動への意欲もなくなるうつ状態が起きるわけです。「五月病」です。
破壊性の膨張という問題
心の障害は、他人もしくは自分自身に向けられた破壊的衝動が、その基本的な表れです。ストレスとは、自分自身に向けた怒りです。「うつ状態」や「自己嫌悪感情」しかり。
問題は、「破壊性の膨張」の仕組みです。ほんのささいな「不満」が「怒り」となり、「怒り」が「憎悪」となるメカニズムが、人間の心にはあります。そしてその最後に行き着く、最も病んだ姿とは、「人を傷つけことが喜びになる」という姿です。つまり破壊が快楽を帯びるという姿です。
この人間の心のメカニズムの最も惨い姿を、私たちは時に「快楽殺人」の事件として知ります。この端的な例が、記憶にも新しい2005年11月に起きました。「大阪美人姉妹強殺事件」の山地悠紀夫殺人犯です。
マンションで暮らしていたこの全く見ず知らずの美しい姉妹を、山地はまず帰宅した姉がドアを開ける背後から襲い、ナイフで胸を刺した後強姦します。そのすぐ後に帰宅してきた妹を、まだ息のある姉の目前で、同じように刺して強姦。ぐったりしている姉妹をそのままにしてベランダでたばこを吸った後、彼は改めてとどめをさすために姉妹の胸を突き刺し、室内に火を放って逃亡しました。
逮捕された彼はこの事件の動機を、「人を殺したかった」と供述しています。彼は16歳の時に母親を金属バットで殴り殺しており、その時「人を殺す楽しさを覚えた」とも言っていたようです。私はこれに、日本の犯罪の歴史の中でも最も「荒廃した心」が表に現れた事件であったような印象を受けています。
「望みの停止」による情動の荒廃化
一体なぜそこまで残酷な「情動の荒廃化」が人間の心に生まれるのか。
「それが人間の本能の一面なのだ」と世に言う人もいます。しかしそれは何かを説明した気分がする以上の意味はない言葉です。なぜなら、DNA上に準備された可能性を「本能」と言うのであれば、単純な食欲から高度な学習能力および創造性といった、さまざまな人間心理の全てが、やはり「本能の一面」だからです。心理学的に問題になるのは、それらがどのような条件によって引き出され発動するのかという、心の歯車のメカニズムです。
また、こうした「心の荒廃」の表れとなる事件の報道に際し、世の識者の多くはそれを「あまりに自己中心的で利己的」と怒り、「現代人は自分の欲求を抑えることを知らなくなった」と嘆きます。道徳教育の必要性も説かれます。
しかし問題は「欲求を抑える」かどうかなどという話ではなく、なぜそんな「欲求」になるかなのです。それは子供がおもちゃを欲しがるのを我慢させるというような話とは、訳が違うのです。
その観点で見るならば、カレン・ホーナイが指摘したように、そうした残酷な人間性を発達させる人物は、例外なく、来歴において自分の人生に極めて深い絶望感を抱いた人間であることを、古くから多くの文人たちが直感的に感じ取っていました。自分の人生に深い絶望を抱き、やがてそれが確定的ともいえる沈んだ断念がなされた時、人の心に、他人の幸福を破壊することに快感を帯びる情動が芽生え始める、と。
事実、山地悠紀夫殺人犯もそうした人間の一人でした。恵まれない家庭環境に生まれ、父親は大酒飲みのろくでなし。母親は借金返済のために働き通しで、子供をかまう時間もない。家には借金取りが押しかけ、ガスや電気も止められる生活だったようです。
彼が16歳の時に母親を撲殺したのは、当時彼が交際していた相手の女性に、この母親が無言電話をかけたことが引き金でした。彼はこの母親の行動が許せなかったのです。彼はこう供述しています。「母親はいろんな事を一人で背負ってしまう。もっと相談して欲しかった。もっとかまって欲しかった」。こうした言葉は、彼が生まれついての快楽殺人者ではなく、人間の心の一端がその来歴の中にはあったことを感じさせます。
そして少年院を出所するも生計は立たず、完全な自暴自棄に向かったわけです。「自分には守るべきものも失うものも何もない。どうせ自分のことを引き留める人もいないなら、やりたいことをやってやる」と。
「自分のことを引き留める人」という言葉が心に痛く残ります。それは彼の中に最後に残された、人間性の残骸だったのかも知れません。もし彼の生い立ちに痛みを感じ、涙を流して彼の生活をいさめようとする人間がいたならば、2人の姉妹の命は救われたかも知れないのです。
同じように、幼児強姦などの倒錯性欲の犯罪者が、例外なく、「どうせ自分なんて」と、同年代の異性に近づくことへの自棄的な断念を抱いた人物であることを、私はニュース報道の中で常に確認していました。2004年の奈良女児誘拐殺害事件の小林薫死刑囚もその典型的な例でした。
ハイブリッド心理学では、「情動の荒廃化」の直接的な原因は、「望みの停止」だと考えています。それは主に、もの心ついた幼児期から思春期の前後に至るまでの間に、自分が生きる上での大切なものへの、深い断念が成されるという心の動きです。つまり「人生における望み」が停止した時、「荒廃化した衝動」が生まれるのです。
そしてその背景には、「良い人間だけが望む資格がある」という、「あるべき姿」を掲げて怒りに頼る人間の思考があります。ありのままの自分では駄目だ、ありのままの自分では悪いのだという自分への怒りによって、心の根底で抱いた人生への望みが停止した時、人は自らの中に荒廃化した衝動を見るようになります。だからこそ、「あるべき姿」が本格的に必要になるのです。そうして自らの中に完結した、「あるべき姿」へのストレスの中で生きる生き方ができあがります。
多くの識者たちは、心の荒廃を示す事件に際して、「人間が欲求を抑えることを知らなくなった」と嘆きの言葉を言うかも知れません。しかしそれは「人生における望みの停止」によって、より大きなレベルで「人格の悪化」がどう起きたかの、あとの話でしかありません。
破壊が快楽を帯びるような「荒廃化した衝動」と少し似て異なる感情に、「嫉妬」があります。嫉妬もやはり、それを引き金に相手の幸福を破壊しようとする衝動へとつながります。
これは一見して、人の持つ良いものを羨む羨望と、競争心の中で欲求が暴走したものにように見えるかも知れません。しかしこれも実は、「望みの停止」が先に起きているのです。それは必ず、望むものへと自ら積極的に努力する純粋な気持ちを捨てた、「そんなもの別に」という「自分自身への嘘」のポーズが背景にあります。その上で、本心では自分が願うものを持つ他人に出会った時、フラストレーションと敗北感が刺激されることで、破壊的な衝動へと化すのです。
嫉妬は比較的日常の中でも観察される感情であり、動物にも見ることのできる感情でもあります。そしかしそれは単純な欲望の感情ではなく、競争心の中で「そんなもの望まない」と自分につこうとした嘘が失敗して起きる感情という、実に複雑なメカニズムをすでに備えた感情なのです。
「望みの停止」が「情動の荒廃化」の原因である時、それとは逆の「望みの回復」による「情動の浄化」という深遠なる心理メカニズムへの視点を開かせます。それはもちろん、すでに荒廃化した衝動をそのまま開放するという話ではなく、そうした荒廃化を引き起こした大元の由来にある、「人生の望み」へと遡り、還ることです。
この「人生における望み」が、ハイブリッド心理学が考える、病んだ心とその治癒のメカニズムについての、最も根幹となります。もちろん、「荒廃化した衝動」から大元の「人生における望み」への回帰は、単純な思考法や心の姿勢だけで成される安易なものではなく、思考法行動法から根本的な生きる姿勢の転換と共に、深層感情へとメスと光をあてる「感情分析」という特別な心理学的技術を使ってなされる、「人生をかけた取り組み」になります。
論理性の歪み
最後のそして4つ目の心の病理が、独特な「論理性の歪み」です。
これは思考や感情さらには視覚聴覚などの感覚感性までに渡って、人が健康な状態でものごとを論理的につじつま正しく認識するのとは異なる、何らかの「歪み」が起きているらしい、ということです。
これを「現実からの乖離」という少し難しい言葉を使って呼ぶこともあります。心が現実とは別の、何か不条理な論理に満ちた幻想におおわれてしまうということです。
この極端なものは、「妄想」や「幻覚」として知られます。実際多くの異常な犯罪事件が、妄想や幻覚の中で行われたことが疑われる時、「精神鑑定」が行われ、心を病んでの行動であったのかが論議されます。
例えばつい最近起きた事件ですと、2007年5月に横浜の地下街で2歳の女の子がいきなり見知らぬ若い女にナイフで背中を刺される事件がありました。その時の犯人女性を目撃した通行人の言葉として、「焦点の定まらない危険な目つきをしてブルブルけいれんしていた。意識がないように見えた」と報道されていました。その後犯人女性が供述したのは、「人に狙われている」「自分の前を裸の子供が歩いていた」「子どもに手をかまれてしまうと思い、自分を守るためにやった」といった言葉です。
これが「現実から乖離」した「妄想」であることは、恐らく間違いないでしょう。しかし私たちが普段の生活の中で人間関係や仕事の問題に悩む時、心に飛び交うイメージが本当に現実通りだとは限らないのは、たとえその「乖離の度合い」は異なるにせよ、本質はかなり似たものなのです。
人にこんな風に思われているんじゃないか。こんな目で見られた。どうすれば人に評価され、好きになってもらえるのか。こうなったら破滅だ。そうした「イメージ」がストレスの中で一人歩きして、自分が追い詰められているという焦燥感に陥り、すさんだ怒りがたまり、やがて今までに見せていた自分が保てなくなり、「キレて」分裂した別の自己へと走ってしまうのです。
下線を引いた通り、「心の病理」は問題の程度の差を越えて、同じパターンで現れます。ささいな心の悩みから、深刻な心の障害まで、心の問題があるところの全てにおいて、同じものが現れるのです。
では最後の「論理性の歪み」の共通項とは何でしょうか。
心の健康と幸福が見失なわれる時、同じように現れる「歪み」とは。
「自己の重心」の喪失
これを指摘した心理学を、私は他にあまり見た記憶がありません。しかしハイブリッド心理学では、そこがまさに、全ての心の問題を貫く、一貫した「歪み」なのだと考えています。
それは「自己の重心」の喪失という歪みです。
「自己の重心」とは、自分の思考や感情が、自分と他人の間のどこに「重み」を置いて感じ取られるかということです。自分の思考や感情なのですから、「自己の重心」は自分にあるのが自然で健康な状態です。
それが、「自己の重心」が損なわれ、「自己の重心」が軽くなってくると、自分自身よりも他人の側により大きな「重み」が移ってきます。自分のことよりも人のことを大切にするという意味での「重み」ではありません。あくまで自分がどう感じ考えるかということそのものにおいて、「自分」の重みや失われ、「他人」の重みが大きくなっていくのです。
例えば、怒りの感情を感じた時、健康な心では「自分が誰々を怒った」と考えます。それが、自己の重心が失われてくると、「誰々が自分を怒らせた」という思考になってきます。つまり、「自分によって」ではなく、「人のせいで」になってくるのです。
こうした「自己の重心」の喪失は、私たちが日常使う言葉でも、時に表現されます。例えば、「あの人には自分というものがない」。
相手によって言うことが違う。それも本人が使い分けているというより、自動的で、何か余裕がなくて、何かから逃げるかのように、一貫した感情や行動が見られない。性格に裏表がある。相手に合せていい顔をしようとするだけみたいで、中身がない。
「自己の重心」と「感情の自発性」
「自己の重心」とは、「感情」というものがどのように起きるかについての「感じ方」でもあります。
自己の重心がしっかりと自分自身の中心に保たれている時、「感情」は自分の内側のなにもないところから、必要に迫られることなく湧き出てくるように感じられます。このように「自ら湧き出る」ことを「感情の自発性」と言います。
「自発性」が高い感情の代表としては、「楽しみ」「喜び」そして「愛」があります。つまり「感情の自発性」は、幸福にとても深い関係があります。
一方、自己の重心が自分自身から失われ、他人の側に移ってくると、自分自身の内部では自発的な感情があまり湧き出てこなくなってきます。つまり、自分自身で湧き出る自発的な感情が、枯渇してくるわけです。当然、内面に「空虚感」が起きるようになってきます。
そして感情はもっぱら、他人から受ける働きかけへの反応として起きるようになってきます。このような感情を「反応性の感情」と言います。「反応性の感情」の最も代表的なものは、「恐怖」と「怒り」です。これは明らかに、「不幸」と結びつく状態です。
なぜ自己の重心が失われ、恐怖と怒りしか湧き出てこなくなるのか。
心が安全ではないからです。心が危険におおわれ、それを脱するすべを知らないでいるから、心に常に不安が控え、自発的な感情が湧き出てこなくなるのです。人は脅されている最中は、どんなご馳走も楽しむことはできないものです。それが、生きている時間の全てにおいて続いているわけです。
心が安全になってくると、楽しみや喜び、そして愛といった感情が自然に湧き出てきます。それは「明るい性格でいなきゃ」「人を愛さなきゃ」と自分へのストレスで脅しても、湧き出てはこないのです。
従って、「心の安全」は幸福とって極めて重要な条件になってきます。
「心が病む礎」としての「自己の重心の喪失」
私たちはこのような「自己の重心の喪失」を、現代社会のあちこちに見ることができます。
そもそも、「道徳」や「善悪」の思考は、かなり自己の重心を失った思考法です。それは良いことですか、それとも悪いことですか。良い人になりさない。悪い人間に望む資格などありません。
「善悪」はもともと、「群れ」や「社会」を前提にして生まれる観念です。「個」対「個」では処理できず、集団の力で解決しようとする観念です。「善」であれば、「皆」が味方してくれる。「悪」は、「誰か」が罰を与えてくれる。
自己の重心を喪失した思考法はしばしば、非科学的思考とも結びつきます。あんなことをしたせいで、ばちが当たった。これも神のおかげ。こんなおまじないをすれば。
そうして、「自分が」何を考え何を望むのかという、「自己の重心」を失った思考法が、生活の広範囲に蔓延してきます。「自分が怒った」のではなく「あいつのせいで怒らされた」。誰々のせいで一日じゅう気分が悪くなった。あの人が私を元気にしてくれる。あの人がいると明るくなれる。
「自殺はいけないことですか」。生きることに悩む中高生がそう新聞やインターネットに投稿します。それを見た大人は、大抵、慌てふためいたような、訳のわからない答えを書きます。
問題はその問いへの答えではないのです。自殺という問いが生まれたことが、それを生み出すまでの生き方が、すでに問題なのです。
ありのままの自分で心を解き放つことを良しとせず、「あるべき姿」を掲げて怒りに頼る思考法の中で生きた現代人は、心に安全を失い、自発的な感情が枯渇した心の中で、自己の重心を損なった思考法に染まっていきます。
こうして生まされた「自己の重心の喪失」は、そこからさらに「心の病理」が深刻化する上での、いわば「心が病む礎」とも言える役割を果たすことになります。それはいわば、心が病むメカニズムを構成する歯車全ての、共通構造です。
それはまず、「自己の重心の喪失」を生み出したストレスが、さらに個人の内面を侵食していく姿となって現れます。なぜなら、人が多少のストレスを受けたとしてもそれをはね返せる潜在能力を持つのは、「自分」という内面の芯を持ってこそです。
そうした、「ストレスに打ち克つ源泉となる『自己』が失なわれる」わけです。これはあたかも、基礎体力と免疫抵抗力が失われた状態です。健康な心身であれば容易に跳ね返せるようなストレスや外部の悪影響に対してさえ、その人の心は容易に侵され、バランスが崩れてしまう。彼彼女自身の自己が湧き出ないために、枯れた泉のように回りの水に侵されていきます。
外界に映されていく内面
「自己の重心の喪失」はやがて、「心の病理」における新たな段階へとつながって行きます。本来自分の内部にある心の問題が、もはや自分自身のことではなく、外部の問題であるように心に映されてくるのです。
自分自身の心に枠をはめて生きる辛さを、「自分が」自分の心を圧迫しているのではなく、「今の社会」が生きにくいのであり、「人生が」辛いものなのだと考えます。自分の心に矛盾があるのではなく、「人間が」矛盾した存在だと考えます。怒りの中で愛を求めても愛が得られないのを、「本当の愛なんてない」と考えます。「人はこうあるべき」が現実にはそぐわないのを、「本当に正しいことなんてない」と考えます。
こうして心を病む過程にある人は、ほぼ例外なく、難解な哲学を考えるようになります。なぜ生きるのか。自分とはなにか。幸福とは何か。愛とはなにか。人間とは、人生とは何か。
それに対して満足のいく答えが出ることはありません。当然です。問いそのものの中に、何かの誤りが含まれているからです。
「自己の重心の喪失」は、やがて2つのタイプの悲劇的な最終結末へと膨張することを指摘できます。
一つは、「人にどう扱われるか」「人にどう思われるか」が「自分自身そのもの」と化します。つまり、「人にこう見られる」のが「自分自身」なのであり、自分自身の「存在」をかけて、「人にこう見られる」ことが必要になってくるのです。
人にそう見られないとは、「自己の存在」そのものを失い、自分自身を破壊されるということです。「自分をこう見ない」他人に対して、自己存在そのものを危うくされた怒り憎しみが起きてくるようにさえなります。そしてその憎悪が行動化される悲劇が起きます。嫌われたから、殺すのです。
この典型的とも言える殺人事件として、2つの事例が記憶に新しいものとして浮かびます。一つは、2005年に京都の学習塾で小学6年女子が塾講師に殺傷された事件です。犯人である萩野裕被告は供述で、「キモいと言われ、その言葉が消えない」そして被害者少女が「消えれば苦しみから解放される」といった言葉を述べていたとのことです。
そしてもう一つの鮮烈な「自己の重心の喪失」の表れの悲劇が、2005年の11月に起きた町田市女子高生刺殺事件でした。高校1年の少女が自宅で体や顔など50か所以上を刺されて死亡しているのが発見され、間もなく同級生の男子が犯人として逮捕されます。そして供述で述べられた言葉がこれでした。
「何も悪いことしてないのに無視されたから殺した」
これは一体何なのか。その鮮烈な疑問が私たちを捉えるのを感じます。そこには、その明らかに「現実から乖離」した歪んだ論理の先に、「善と悪」そして「愛と自尊心」といった人間の心のテーマが深く絡んでいることが見えてきます。
「自己の重心の喪失」の、もう一つの悲劇的な最終結末は、「心の病理」の重篤化です。これは「自己の重心の喪失」が思考や感情のレベルにとどまらず、視覚や聴覚などの「感覚」にまで及んでくるものです。
自分の感情はもはや自分が抱くものではなく、他人に操られるものとして体験されるようになってきます。意識の中で、現実と非現実の境界が崩壊をはじめるのです。自分の感情や思考が、他人からの電波で操られる。自分の思考や感情が漏れ出て行く。これは「精神障害」と呼ばれる段階になってきます。
以上が、「心が病む」という現象の、「表面」です。
ハイブリッド心理学では、こうして説明して来たように、ごくささいな心の悩みから重い精神障害まで、心の問題は一貫した一つの同じメカニズムの上で起きる、連続的な現象であると考えています。幾つかの種類の「心の病気」があるのではなく、あくまでこれが人間の心のメカニズムの一面なのだと。
それでも、最後に触れた町田市の事件での犯人少年の言葉や、視覚や聴覚のレベルにまで至る「歪み」は、「ストレス」「自己の分裂」そして「荒廃化」といった、まだ私たちの日常感覚でも何とか理解可能なものとはさらに異質な、何らかの異常性が起きていることを誰の目にも感じさせると思います。
ハイブリッド心理学では、さらにその内側のメカニズムも明瞭に見出しています。それが「愛」や「自尊心」という人間の心のテーマと、どのように関係するのかも。
この後の章でそれらの説明へと移りたいと思います。
自己の重心の回復へ
「自己の重心の喪失」が心を病む歯車全ての共通構造であるならば、「自己の重心の選択」が、病んだ心から健康な心への治癒と成長の、さまざまな取り組みを貫く基本選択になります。自分自身の思考と感情を、自分自身を始点にして考えることです。
「人のせいで」と考えるのではなく、「自分自身によって」と考えることです。「誰々が自分を怒らせた」ではなく「自分が何々を怒った」。「侮辱された」ではなく、「自分が侮辱として受け取った」。
これは、人のことを気にせずに何でも自己中心的に考えるということではありません。あくまで、自分自身のことを「人の目」を通して考えるのをやめ、自分自身を自分の目で見るという、ごく自然な思考の「向き」に変えるということです。
もちろん、「人の目」が気になる感情が、それだけで消えることはありません。まず行うのは、そうした感情が「他人のせい」で引き起こされたのではなく、人にどのように見られることを求めるのかという、「自己の欲求」として捉えるという、心理学的な目を持つことです。
そこから、なぜそのような「欲求」が生まれるのか、そしてその克服とはどのようなものかという、さらに本格的な心理学が広がります。
そして事実、そのように「思考の方向」を変えるだけでも、内面の変化が始まるのです。
これはハイブリッド心理学を実践したさまざまな方々の実例に共通して言えることです。変化はまず、人との関係で揺れ動く感情は解決しないまま、それに向かう自分自身の内面が強くなっているという変化として体験されます。私はそれをよく「目に見える感情は変わらないまま足元がしっかりしてくる」と表現しています。
やがて足元がしっかりしてきた変化そのものが、純粋に感情の変化となって現れます。それは「開放感」であり、「内面の力の増大の感覚」です。文字通り、自分の内面に力が湧いてくる、と実感として感じるのです。人との関係の中で揺れ動く感情へのより本格的な取り組みも、その内面の力を踏み台にして進めることができます。
「自己の重心の選択」によって変わる日常生活
さて、「自己の重心」のありようによって、私たちの日常生活も、思いがけないほどの違いが出てくるかもしれません。
そんなことを思い浮べた、比較的最近の出来事を紹介して、この章の考察を終わりにしたいと思います。
一つは、記録に残る豪雪の年となった2006年のスキーシーズンでの出来事です。
会社時代のスキー部にOBとして参加しているのですが、その時はスキー部以外からも社員の参加が可能なスキースクールが開催されました。私も講師として参加しました。
その時私の車には、初めて参加する2人の女性が乗る予定だったのですが、金曜日の夜、出発直前になり、そのうちの一人が大雪を心配する家族に止められたのでキャンセルしたいと連絡してきたのです。
確かに当時、新潟方面のスキー場では雪崩による事故なども伝えられてはいました。しかしこれから向かう長野方面の天候には問題はなく、雪崩が起きるような場所ではないと伝えはしましたが、結局私としても何の責任も持てる話ではなく、それ以上思いとどまるよう説得することもなく、残りのメンバーで出発したのです。
で現地に着いてみると、土日の2日間とも、めったにない快晴で雪の質も最高。私の車で行ったもう一人の女性は、超明るい性格の女性講師が受け持った、似たような技術レベルの数名のレデース班に参加し、とても楽しかったとのことでした。
一方その土日、首都圏は大雪となり、スキーから帰ってきた私はまたゲレンデ近くに来たかと錯覚する気分がするほどでした。
さて、この結果を後で考えたのですが、私としては自分の移動経路に沿った天候の確認をしていたわけです。そして全く問題はないと。
一方、キャンセルした女性の家族はまず間違いなく、スキー場方面の天候の情報は持たないまま、首都圏の天気予報を見て、危険だと止めたのではないかと思えました。これは明らかに、「自分の心配をして人の行動に口を出すという構図」だなあと感じた次第です。
あるいはその女性は、後になって事実を知った時、引きとめた家族に不満をぶつけるかも知れません。しかしそれだとしたら、それもまた、自分の行動を自分で決めないという、同じ姿勢を意味することになります。
自分のことを自分で考えることをやめ、互いに相手のことを考え合うことを良しとして生きる人たちというのが、実際世の中にはいるものです。あるいはそれが日本人の主流なのかも知れません。「自分の行動の責任を他人が取ってくれるのを求める」世界のような・・。しかしそれは、「相互牽制し合うだけの人生」を送るような世界があります。人間関係の表に現れるのは、当然、不満と怒りが中心になるでしょう。
自己責任と自己決断によって生きる人間は、当然、人の自己責任自己決断も尊重します。人の決断には原則として口をはさまず、楽しみや喜びを共有できる範囲において、喜んで行動を共にします。そうした人々の人間関係は、楽しいことだけが表に出るようなになります。
もう一つの出来事も、同じく2006年頃のことでした。とある心理関係の知人に連絡を取った時でした。大学当時の知人で、当時も素直でけなげな性格が印象に残っていた人ですが、その延長で心理関係の活動もするようになったようで、ちょっとしたきっかけで連絡を取ることがあったのです。
その時、その人は心労の日々を送っていたようで、私にも「毎日魂の琴線はりつめてぎりぎりの精神状態の中でがんばって私も生きてます」なんて言葉を伝えてきました。
後日その人のHPで、メンタルヘルスについてのその人が考えが書かれている文章を見ました。「追い詰つめられている人への心の癒しが必要」というような内容でした。
それを読み、私は思わずその人に伝えたい言葉が浮かびました。再度連絡を取る機会がなく、そのままでしたが。
「いや、追いつめているのは、自分自身なんだよ」、と。