9章 心が病むメカニズム−2 −「思春期」における発動−

 

*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*

 

思春期−「感情の強制」と「自己理想化像」の破綻−

 

 幼少期にまかれた「病んだ心」の芽は、表面にはあまり目立たないまま一連のメカニズムが進む学童期を経て、「思春期」に至り、「心の障害」として表面化します。

 「思春期」は、心理学から見ても特別な時期であり、まずそれは「子供から大人への転換期」だと言えます。その意味でここでは「思春期」を、主に小学校高学年から中高生まで頃の時期として考えています。 

 

 もちろん、多くの方が「心の障害」を自覚して何らかの対処をしようと考えるのは、これよりもさらに後の大人になってからの時期です。その多くは仕事や家庭生活にはっきりした支障が出て、初めて、精神科や心療内科、そして心理カウンセラーを訪ねることを考えたでしょう。

 それでも恐らく、そうした方々のほぼ全てが、最初の「心の変調」の何らかの兆候を、思春期の時期に体験したはずです。それはちょっとした対人恐怖症や視線恐怖症のような状態であったり、生きることへの疑問と不安であったり、ちょっとした登校拒否や引きこもりのようなものであったりするでしょう。

 つまり、「思春期」に、病んだ心のメカニズムが全て出揃うと考えることができます。以後は、出揃ったメカニズムの中での変遷になるわけです。

 

「思春期要請」と「感情の膿の組み込み」

 

 まず「思春期」を迎えて起きる、心の状況の変化を見ていきましょう。それを背景として、病んだ心の決定的なメカニズムが「発動」することになります。

 この状況変化には2つの側面があります。一つは健康な心においても起きる思春期特有の変化であり、もう一つは、心を病むメカニズムとして今までにすでに生まれている事柄においての状況変化です。

 

 まず、健康な心においても起きる、思春期における心の状況の変化というものがあります。

 誰でも自分の経験として分かると思いますが、それまでの子供時代とは段違いに「自意識」が強くなり、自分に自信を持てることへの願望が強くなってきます。また、「第二次性徴」と呼ばれる、男女の性の違いに応じた体の特徴も発達してきて、異性への意識が芽生えてきます。

 一言でいえば、これからの人生を通しての課題として、「自尊心」と「愛」という2つの大きなテーマが、心の課題として現れてきたと言えるでしょう。それは明らかに大人としての「自立」という、生きるもの全てのDNAに刻まれた課題が、脳に作用し始めた結果だと言えます。

 

 ハイブリッド心理学では、このように思春期に人の心に何かの「課題」が課せられてくることを、「思春期要請」と呼んでいます。

 その「課題」には大きく3つがあるでしょう。2つは今述べた通りです。「自分に自信が持てる」という「自尊心」を獲得すること。「異性の獲得」を中心にした、これからの人生における「愛」を得ること。

 そして3つめの課題は、「人格の統合」です。つまり、自立した大人として前に進むためには、自分自身の中に矛盾や分裂を抱えていてはならないということです。

 この「人格の統合」への要請にとって、今までにすでに起きていた「心が病むメカニズム」は、極めて不都合な問題を抱えています。それは内面に矛盾と分裂を引き起こしながら、今までは主に「切り離し」という単純なメカニズムによって何とかしのいで来たのですから。

 

 かくして、心を病むメカニズムとして今までにすでに生まれている事柄においての状況変化が起きます。

 その端的なものが「感情の膿」です。まるで脳に蓄積した恐怖物質の塊のように、それは子供の心では受け止めることができないほどの惨い恐怖が、意識体験からは消去されたまま、何とか心がそれに触れることを免れていたものです。それが、「人格の統合への要請」によって、もはやそれでは済まされなくなります。

 ハイブリッド心理学では、それによって「感情の膿の人格への組み込み」が起きると考えています。今までそれは「心の歪み」としてはほとんど表面化しないまま、何らかの「脳の歪み」を引き起こす力を持つであろう様子が、ごく僅かに見られた程度でした。それが「人格の一部」として「組み込まれる」ことによって、「人格の歪み」がはっきりと現れるようになってくる。

 何とも難解な話だと思いますが、これによって、今まで説明のつかなかった「病んだ心」のメカニズムの全てが、白日の下に解明されることになります。

 

病んだ心の「病理」に残された決定的なメカニズム

 

 そのような心の状況を背景にして、思春期に発動する、病んだ心の残りの決定的なメカニズムとは何か。

 前章では病んだ心の「病理」について、「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」「論理性の歪み」という4つを指摘しました。

 実はそれらを生み出すメカニズムは、すでにほとんどが登場済みです。「度を越えたストレス」は幼少期から蓄積した恐怖の圧力から始まっており、「自己の分裂と疎外」は「なるべき自分」と「善悪」をめぐる混乱が最初の芽になり始っています。「情動の荒廃化」は幼少期から学童期にかけてすでに始まっており、「論理性の歪み」は「感性の歪み」によるところがかなりあります。

 そうした材料が揃ったことで、あとは「思春期」という、健康な心にあってさえ不安定な時期を迎えて、混乱の度合いが高まると考えることもできるでしょう。また思春期を迎えて大きな課題として現れる「愛」と「自尊心」については、それぞれについて独特な混乱が起き、別途章を設けて説明します。それが4つの病理をまたがって「揺れ動く感情」の中身の話になります。

 

 ただ一つ、残された問題がありました。「論理性の歪み」の中で起きる「現実からの乖離」です。

 前章では「論理性の歪み」の全てに共通する変形の構図とは「自己の重心の喪失」だと指摘しました。しかしそれでも、心の障害が最も深刻になった時に現れる「幻覚」や「幻聴」、そして町田市の女子高生殺害の犯人少年が語った「何も悪いことしてないのに無視されたから殺した」というあまりに理不尽な論理などについては、「日常感覚で何とか理解可能なものと異質な何らかの異常性」があると指摘したわけです。

 

「空想と現実の重みが逆転」した独自の意識状態

 

 その正体の話になります。ハイブリッド心理学では、これについて明確な独自の考えを持っています。

 それはつまり、心の障害が起きる時、そこで揺れ動く個々の感情に問題が起きているだけではなく、それが動く意識の土台そのものが、健康な意識状態とは全く別種の、「空想と現実の重みが逆転」した独自の意識状態なのだ、という考えです。

 

 なぜそのような考えを採るのかの理由は、他ならぬ私自身の、心の障害からの治癒成長の体験を振り返っての考察です。

 私がその長い道のりを振り返った時、「愛」や「自尊心」そして「人生」について喪失から回復そして達成へと向かった歩みは、「障害の治癒」というよりも、全ての人に共通する課題である、「人間としての成長」の話だと感じます。その過程で得た「洞察」はさまざまなマイナス感情を減らし、プラス感情を増大させました。そこには喜びと感動がありました。

 そんな中、私が体験した変化の中で、これだけはそうした「成長」の話ではなく、純粋に「障害が治癒した」と実感する、あまりに特別な変化体験がありました。それは喜びや楽しみといった感情の色合いの話ではなく、「現実感の回復」という体験です。

 つまり、それ以前の状態では、「現実感」が日常起きている時間を通して減少している、奇妙な意識状態があったわけです。これはまさに、起きながらにして夢を見ているような状態です。「半夢状態」と言うことですね。このような意識状態が生まれることを、「現実覚醒レベルの低下」と呼んでいます。

 

 私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』から、最も強烈な「現実感の回復」の体験が起きた場面の描写を抜粋しましょう。

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 夜、私は漠然とした恐慌状態の中にいました。高揚感と不安感が入り混じっています。

 私は自分の将来の空想を始めていました。ホーナイ訳者に加えられて、やがて精神分析研究者としての生活を送っている自分。自分が本当に精神分析学者になっているかのような感情。頭の中はまるで交響曲が鳴り響くような騒がしさです。

 何かが間違っていると感じました。

 

 その瞬間です。私の回りをおおっていた何かのベールが破れて消え去り、一瞬にして頭の中から全ての空想が消え、静寂に包まれました。

 部屋の風景がぐわんと音を立てるように迫ってきます。

 

 「僕は今ここにいるんだ」。私は頭の中でつぶやきました。

 そこにあるのはただ、狭く殺風景な下宿の部屋の中で、静寂の中で呆然としているだけの自分でした。

 今、あの大学の学生であり、何人かの友人や知人を持っているのが、自分の現実なのだ・・。

 空想の中にいた時、現実は薄れ、重点は空想の世界に移っていた。僕はそのことに気づいた。現実というものに、より大きな重点を感じた。

 

 僕は今、現実に帰還した。

 

 私の治癒過程を振り返って思い起こされる、最も特異な、「治癒の直接感覚」ともいうべき体験でした。それは開放を得た感動でも、歩む方向を見出した喜びでもなく、まっさらで強烈な「現実感」だったのです。

 私はこの体験から、心理障害というものが、明晰な現実理性とは別種の、一種の半夢状態の中で動くという考えを持っています。後に私はこれを「自己操縦心性」と名づけ、自らの心理学理論の要とすることになります。

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「自己操縦心性」

 

 つまり、思春期になり「人格統合への要請」が作用することで、今まで切り離されていた「感情の膿」が、人格の一部として「組み込まれる」

 その結果、人格全体に歪みが生じる。それが、空想と現実の重みが逆転した独特な意識状態だということです。ハイブリッド心理学ではこの意識状態を、「自己操縦心性」と呼んでいます。

 

 なんとも奇妙な心理用語ですが、その言葉で表現するような、奇妙な心の状態が生まれます。「自己操縦」つまり自分自身によって操られる。そんな「性質」「心」です。

 自分の何によって操られるかというと、「感情」によってです。まるで、自分自身の感情による操り人形のようになってしまうのです。この表現は、心の障害にある方であれば「まさにその通り!」とお感じになるはずです。

 「自分自身によって操られてしまう」。私たちが日常使う言葉の中で、最もそれに近いのは、「自意識過剰」です。変に自分を意識した感情によって、現実的でない思考や感情に流れてしまう。自分自身でそれが分かっていながらも、どうすることもできず、自分をぎこちなく感じてしまいます。実はこれも、程度が軽い「自己操縦心性」の表れだと考えて間違いはないでしょう。「感情の膿」が程度の差こそあれ、ほぼ全ての現代人の心の底にあるのと同様に、「自己操縦心性」も程度の差こそあれ、ほぼ全ての現代人の心はその中にあると考えることができます。

 これは脳のレベルで働くので、どんなに意識努力しても、そう簡単に脱することはできません。事実、「自意識過剰をやめたい」という考えがまた「自意識過剰」になってしまいます。いくらでも意識がループしてしまいます。

 自意識で自分を操っている。これは何ともじれったい、不快な心理状態です。しかしそれを脱することができません。なぜなら、自分自身によってどう操られているかと言うと、まさに自分で自分を操るように、操られているのですから!

 

 ハイブリッド心理学の実践は、「愛」や「自尊心」に向けての「人間としての成長」の側面と、こうした「感情の膿」と「自己操縦心性」の克服という「障害の治癒」の側面、この2つの側面が絡み合う、かなり複雑なものになるのが実情です。

 それをできるだけ分かりやすく体系化したものが、第2部で説明するような一連の取り組みになります。

 

「自己操縦心性」の発動

 

 「自己操縦心性」が「病んだ心性」として動き始める時の様子は、その後深刻な心の障害になる人の場合も、単なる心の悩みで済む人の場合も、その姿は全く同じです。心の問題の深刻さに応じて、その後の感情の揺れ動きもより激しく、より硬直して融通の利かないものになるという違いがあるだけです。それだけ、この「自己操縦心性」は人間の心の基本的なメカニズムだと言えるでしょう。

 それが「発動」する様子とは、一言でいえば、「現実への違和感」です。

 自意識過剰や空想過多の中で、思春期をぎこちなく生き始めた少年少女の心が、「ある日突然」ともいうような感じで、奇妙な違和感に気がつきます。

 「現実がズレている」のです。「現実がついてこない」のです。何に対してと言えば、空想に対してです。

 

 この「現実への違和感」は、まず最初は「現実の自分への違和感」です。空想した自分のようになるためのものが、自分にない。特に、空想した「なるべき自分」になるための、「感情」が湧いてきません。

 現実の自分への違和感は、暗雲の感覚とともに、「他人への違和感」そして「他人と自分の関係への違和感」へと広がっていきます。何か厚いガラスを隔てたような違和感です。次にその違和感そのものが、回りの人々に捉えられて、変な目を向けられるという感覚が焦りの感情とともに心に流れてきます。どうしよう。どうしたら良くなれるんだろう。

 心に漠然とした不安が流れ始めます。世界が崩壊するような気分がするような不安です。同時に、回りの人々の、自分を見る目が異様に強烈に感じてきます。まるで電波が発生されているような強烈さです。「あるべき自分」はこうなのに、全然違う自分。どうしよう。どうしたら良くなれるのだろう。

 絶えることのない緊迫感が流れ初めています。

 こうして「自己操縦心性」が「発動」した時は、一気に心理的緊張が高まりますので、ちょっとした心理的変調を起こしやすい時期となります。典型的なのは「視線恐怖症」であり、後に比較的深刻な心の障害を体験した人であれば、まず間違いなく思春期の一時期に「視線恐怖症」を体験していると私は推察しています。

 それから大抵の場合、どうすれば自分が良くなれるのか、どのように生きればいいのかという思考を延々と繰り返す人生が始まるわけです。かくして人生論の本や成功哲学と心理学、人間関係や恋愛論、精神世界、セラピーや癒し、心理カウンセリングや精神科および心療内科。そうしたものが今社会に膨大に溢れています。

 

「現実への三下り半」

 

 そうした思考と対処法がその後の感情動揺の軽減にどう役立つかはさておき、「自己操縦心性」という心の病理の中で自動的に起きる思考や感情の基本的な特徴を理解することが、その影響を減らす上で大切です。

 

 「空想と現実の重みづけが逆転」した意識の中で自動的に湧き起るのは、言うまでもなく、「なりたい自分」「なるべき自分」と、実際にどうあれているかという「現実の自分」であり、そんな自分を他人や社会がどう見るかをめぐる思考と感情です。そして極端な自己像に振り回されて、傲慢に思い上がって人を見下したり、逆に自分を人間のくずのごとくこき下ろして絶望に駆られれたり、法外な特別扱いを他人に強要し、期待した通りに人が自分に接しないと破壊的な怒りに駆られたりする。そんな思考と感情が自動的に湧き起ります。

 ただし極端で現実離れした自己理想像を描き、のぼせ上がったり幻滅したりすること自体は、健康な心にあっても思春期などには良くあることです。

 「自己操縦心性」の中で起きる思考や感情が、健康な空想とは違う基本的な特徴は、「現実の否定」にあります。あくまで、現実は駄目なものだと決めつけ、その上で理想を描き、空想した理想の高みから現実を見下ろすという意識状態にあることです。それは「現実への三下り半」を突きつけた上で動く思考と感情です。まず現実を否定し、次に理想を描き、そして再度現実を見るという、3層構造の意識だとも言えます。

 

 私自身の体験を振り返った時、それは奇妙な意識状態であったのを感じます。

 それはまるで、何者かから追われて怯えて逃げている場面から始まる、悪い夢を見ているような意識状態で始まります。とにかく、今の自分は安全ではない。全てがそこから始まるわけです。そして安全になると共に何かを得ることのできるような自分が描かれます。そして後は、その「あるべき自分」と「現実の自分」という、永遠に交わることのない2つのイメージの間を揺れ動く意識が続くわけです。

 しかしながら、実は良く考えるならば、現代人の道徳思考そのものがこれと同じ形をしているんですね! それはまず、ありのままの人間を否定することから始まっているわけです。「良い人間になりなさい」と。実際のところ、人があまりに硬直した道徳的思考の中にいる時、それは単に思考法の問題なのか、それとも病んだ心の問題の表れなのか、その表面を見ただけでは分からない時があります。

 全ての始まりにおいて、何から逃れようとしたのか。その前に何があったのか。実はそこに全ての鍵があります。それはまだ「自分と他人」「善と悪」という論理さえ存在していなかった、幼児期の心の中で抱かれた恐怖と、それによって阻まれた「望み」にあります。これがハイブリッド心理学の主題とも言えるものになります。

 

「重ね合わせ思考」

 

 そうして「現実への三下り半の突きつけ」から始まった思考と感情がもたらす、心の成長と幸福への悪影響とは何でしょうか。

 「現実離れ」によって「分相応」でなくなり「身のほど知らず」になることが問題でしょうか。

 違います。それではまさに、病んだ心を育てる「望む資格」思考です。

 そうではなく、どんなに現実離れした自己理想であろうと、そうではなく現実的で着実そうな自己理想であろうと、「現実への三下り半の突きつけ」によって、現実をベースとして受け入れ、現実をスタートラインとして、現実を一歩一歩向上させていくという重みが、ぽっかりとその思考から抜け落ちてしまっていることです。想像した自分の姿になるために、今の自分をどう変えなければならないかという重みを無視していることに、問題があります。

 病んだ心に「現実からの乖離」があるという時、「乖離」の本質はここにあるでしょう。つまり現実と理想の「姿」の差ではなく、現実から理想への向上変化の過程の重さがぽっかりと失われていることに、「現実からの乖離」があります。

 高い成果を出すためには、地道な努力が必要です。良い人間関係を持つためには、人の気持ちを尊重し、自分自身の感情も尊重した上で、最も建設的な結果を出せるのは何か考え、そう行動する努力が必要です。決してアイドルのように楽しくお喋りして笑う自分の姿を思い浮かべることで、そうなるのではないのです。

 そうして現実の自分と、理想に向かって変わるための重みをバランス良く受け止めるようになって行くのが、人間の成長だと言えます。やがて、変わる先のゴールではなく、変わっていく、活動して行く、その過程そのものに楽しみや喜びを感じられるようになると、心はとても安定し、人生が輝いてきます。

 

 そこにある思考の基本的なパターンを、「重ね合わせ思考」と呼んでいます。

 つまり、空想に描いた自己像と、現実の自己を重ねあわせ、ぴったり合えばOKだし、そうでなければNGです。自己像を思い描き、それと現実を重ねる方法で何とか人生を生きようとしているのです。

 逆に言えば、思い描けさえすれば、あとはミサイル誘導装置が目標と現在位置を合わせる方法でぴったりと命中するように、何にでもなれるし、何でもできる潜在力が付いたことになるのです。これが病んだ心の中で時に「躁状態」として暴走する「全能感」「万能感」になります。

 当然、思考や感情は2極の両極端になりがちになります。これは「重ね合わせ思考」の必然的な結果です。そこには、ぴったり合うか、そうでないかの、2つしかありません。たとえ差が僅かでも、重ね合わせた2つの画像は大きく乱れるからです。

 こうしてこの「重ね合わせ思考」の結果、この個人の基本的思考傾向が生み出されます。それは、ものごとを基準に合わせて決め付ける白黒をつける完璧さを求めるというものです。

 

 こうして「現実への三下り半」と「重ね合わせ思考」の中で生き始めた人は、「現在」に安住することができなくなります。

 全てがストレスと恐怖をバネにした「なるべき自分」への疾走となり、「なるべき自分」になれる栄光の日、それが全人の前に呈示される「審判の日」に向かいます。しかし審判の日とは、栄光の日であると同時に、破滅の日でもあるかも知れないのです。

 未来は「天国」か「地獄」かどちらかです。自分はその「天国か地獄かレース」の出場者として競技場に放り出された人間であり、世界の目が向けられる場に立たされた人間と化します。外界は、彼彼女が天国に行くことを見守る聖母か、失敗し地獄へ落ちることを期待する意地悪な目のいずれかとなります。

 「なるべき自分」はまさに時間が止まった静止画のように、「姿」として描かれ、その中で生きる時間を持ちません。全てがそう「なれた」か「なれないか」です。そう「なれた」瞬間が来ない限り、現在は仮の時間であり、そう「なれる」瞬間に向かって1秒でも早く走らなければならないのです。

 こうして人は、「今を生きること」を知らない人間になります。あるいはこれが、現代人の基本的な姿であるのかも知れませんね。

 

「自己操縦心性」の内部メカニズム

 

 自己操縦心性においては、感情は半夢状態の意識で動くのですから、もはや知性理性による修正を試みることは、全くの無駄です。心の障害で起きる感情が、道徳的な「説教」や普通の「励まし」などでは全く効果なく、逆効果でさえあると良く言われます。その理由がここにあるのはお分かりではないかと思います。

 大切なのは、自己操縦心性の中で動く感情のメカニズムを正しくそして詳しく理解し、理性によって力づくで「正そう」とするのではなく、違う方法で改善させる心理学的な知恵を学び、そして歪んだ感情を生み出した大元の源泉に働きかけることです。

 それが幼少期からの恐怖の蓄積であり、学童期に進んだ一連の過程です。大人になって心の障害が表面化してあわてて治そうとするのではなく、そうした大元の問題が起きる由来を知り、それに対処し得る新い思考法や心の姿勢を学ぶことが、極めて重要です。

 

 「歪んだ感情」そのものは、「自己操縦心性」が生み出すものではありません。「歪んだ感情」は、説明してきた幼少期からの問題と、私たち自身の誤った思考法が生み出しています。「自己操縦心性」は、その感情による「操り人形状態」という、最後のちょっとした、とは言っても決定的なつけ足しをしているに過ぎません。

 それでも、今までの心理メカニズム過程に対してさらに幾つかの「変形」が、自己操縦心性によって成されます。心の障害が社会生活を破壊してしまうほどの破壊的な性質を帯びるようになるのは、この「変形」のメカニズムによります。

 これは大きく2つのものがあります。「破滅感情のイメージ化」と「情動の荒廃化の反転」です。

 

「イメージ」を引き金にした感情

 

 自己操縦心性による心の機能の最大のものは、明らかに「イメージ」です。

 夢の中で現実論理を無視したイメージの流れが映されるのと同じように、「現実感」が低下したこの心の状態の中で、今までに準備されたさまざまな感情の象徴となる「イメージ」がまず描かれます。するとイメージを引き金にして、足元をすくうような強さで感情が自動的に湧き、心が感情によって操られるような状態になってしまいます。

 

 どんな「感情」の象徴のイメージが描かれるかと言うと、今までに説明したメカニズム過程で出てきたさまざまな感情の全てです。

 中でも特徴的なのは、学童期に進む「受動価値の感性」によって、「見栄え姿」が法外な重みを帯びたイメ−ジと感情です。当然それはまず、「自分に向けられる人の目」のイメージが始まりになるような形になります。それに対応して、自分が「こうあれる姿」のイメージが描かれ、「なるべき姿」であれていると感じると、人から賞賛や愛が向けられるイメージに心が覆われます。逆に「なるべき姿」をしくじった時には、自己処罰感情が引き起こされると同時に、自分に怒りや嫌悪を向けてくる人の目のイメージが起きます。

 また「持てる者と持たざる者」という「人間の二極化」における極端な他人イメージと、それにまつわるさまざまな感情も特徴的なものです。

 ここまでは、比較的健康な心でもよくある話です。

 

「破滅感情」のイメージ化

 

 病んだ心の過程が深刻になるにつれて、加わってくる話があります。

 それは、「感情の膿」が「人格に組み込まれる」ことによって、この人物の空想とイメージ、そしてそれに伴って動く感情の中に、「破滅」というイメージと感情が登場することです。これは幼少期に切り離され意識から消去された、子供の心では意識の許容範囲を超えた「恐怖の色彩」が、思春期の脳の変化によって、潜伏期の猶予を終え意識の表面に現れたものと言えるでしょう。

 人が自殺するのは間違いなくこの「破滅」の観念感情が根本的由来です。これはまさに窒息するような苦しい感情なので、「死んだ方がまし」という観念が起きてしまうのです。

 この「破滅」の観念感情も、これがあること自体は現代人にかなり「普通」「正常」ではありますが、あくまで人間だけが持つ心の病です。「破滅」の状況をいかに正しく判断し予防するかの問題ではないのです。「破滅」などといううものは、現実には存在しません。人間が抱く幻想の中だけにあります。

 

 そしてこの「破滅」のイメージと感情によって、人はまさに破滅へ向かうかのような行動に駆り立てられてしまいます。これは大きく2つの方向性がありますので、「心の罠」として、はまらないように把握しておくのがいいでしょう。

 まず、「なるべき自分」になることをしくじることで、自分が破滅状況に向かうというイメージです。これは「なるべき自分」を目標に進んだものの、それが塞がれ、八方塞りの袋小路に自分が至ったという感覚になります。この手も足も出ない窒息感が、自殺念慮などの引き金になります。

 そんな風に、自分が生きるこの人生の先に「何かの破滅がある」という感覚に追い立てられ、自分にストレスを加えて疾走し続けた結果、身体の健康を破壊するという、自ら破滅に向かうような行動が典型的になってきます。これは対処法としては、詳しくは第2で紹介しますが、「前進し得る自己像への再調整」という心理学的テクニックが代表です。

 もう一つは、「人に向けられる目」における破滅の感覚です。これはまさに「切り離された恐怖の色彩」が再現されたものです。全く相互理解不能な、人間の皮をかむった得体の知れないけだもののような、不信の目を向けられてしまったという感覚。

 これは「現実を示すものではなく心理メカニズム現象」だとして、やり過ごす以外には良い手はありません。そうせずに「それを何とかしなければ」という衝動に突き動かされ、さらに相手に接近して「何とかする」行動が、まさに破滅的事態を招いてししまうことが多いのです。その典型的な例が、前章でも紹介した、「キモいと言われた言葉が消えない」と小学6年女子を殺害した塾講師のケースです。

 

「情動の荒廃化の反転」

 

 自己操縦心性が今までの心理メカニズム過程におよぼす「変形」の中でも、次の「情動の荒廃化の反転」が、最も破壊的な結末を生み出すものになります。

 人間の長い歴史を通して、人間と人間の間に起こる悲劇は、実はこのメカニズムが原因だとさえ、私は考えています。

 

 「情動の荒廃化」とは、感情が怒りの側に傾き、その内容もすさんで行って、相手を傷つけ破壊することが快楽を帯びてくるというものです。これは人を残忍で粗暴にしてしまいます。

 それが「反転」します。

 逆に清らかになるという「浄化」が起きるのではありません。「情動の荒廃化」が起きているのは自分の心ではなく、他人の心だというイメージが描かれるというメカニズムです。つまり、残忍で粗暴なのは自分ではなく、他人です。

 そしてその他人を敵とすることによって、自分の心は清らかだという感覚が得られるというメカニズムです。そしてさらに、この感覚が単なる思い込みではなく「事実」であることを支持することとして、相手との関係において自分がこうむった「苦しみ」が意識強調されます。

 

 これは極めて強力な心理メカニズムであり、その基本的な部分は、もはや病んだ心のメカニズムというよりも、人間の心が基本的に陥る罠と言えるでしょう。

 それは「復讐の合理化」です。自分はこんな酷い仕打ちを受けたのだ。だから、これだけの仕返しは当然だ。そうして、この地球上に、長い人間の戦争の歴史があります。

 しかしその中に病んだ心のメカニズムが介在するにつれて、自己処罰感情による苦しみと、快感を帯びた復讐衝動が、手を組んでしまうのです。荒廃化した怒り衝動が激しくなればなるほど、自己処罰感情による苦しみはやはり激しくなります。一方でそれを自己操縦心性は「人が自分を見下した苦しみ」というイメージとして映し出します。

 そして他人への破壊衝動が、その苦しみによって合理化されます。事実それはもはや「合理化」といえるほど浅はかなものでさえありません。なぜなら「こうむった苦しみ」が復讐破壊の「快感」を相殺し、意識の上では「快感」のためではなく、「正しい」から復讐するとなるのです!この人間の心が実際にどのように荒廃化してるのかは、その意識ではなく、実際に行われた行動全体の構図によって示されます。

 心に残された健康な部分が多ければ、当然その構図が自分でも分かります。そしてあまりに自分が心の狭い姿であったかに、再び自己嫌悪感情を感じるというのが、典型的な流れになります。これは根本的に、「正しければ怒る」という誤った思考法を変えることが、まず脱するための第一歩です。

 

 「情動の荒廃化の反転」のメカニズムの最も悲劇的な表れの例が、2007年に米バージニア工科大学で起きた米国史上最悪の銃乱射事件でした。チョ・スンヒ容疑者は、裕福な人々への憎悪を抱いていたことが知られています。「俺にこんなことをさせたのはお前らだ!」と。

 確かに彼は、心ない虐めの言葉を、「事実」として学童期に受けていたかも知れません。しかし自分が「言葉で受けた暴力」と、自分が成そうとした銃乱射殺害という「身体的攻撃」は、それだけを比較するのであれば、あまりにも釣り合わないことは、彼自身でも分かったはずです。

 それでもなぜ彼はあのような行動に駆り立てられたのか。それは、彼とは何の関係もない、穏やかな表情で大学を歩く全ての他人さえも、そのような行動によって復讐反撃するに十分値する、残忍で暴力的な感情を抱いているという幻想的なイメージが、彼の心を覆っていたことが予測されます。

 つまり、彼にとって、他人は彼自身よりもさらに残忍な存在として映っていたのです。

 

「怒り発作」への帰結

 

 こうした「情動の荒廃化の変転」と「破滅感情のイメージ化」が組み合わさることで、今までの心理メカニズムの全てが、ある収束点へと向かいやすくなります。

 「怒りの発作」です。それがどんな不合理なメカニズムによって起きるのかをしっかりと理解することが、それに流されるのを防止するのに役立つでしょう。

 その「収束」とは、残忍で粗暴で利己的な他人が、自分を何か理解不能で駄目な人間だというような目を向けてきて、自分が破滅に向かわされている、という構図のイメージです。そして幼少期から蓄積した恐怖のストレスをバネにした、追いつめられた獣のような直情的な怒りが発作のように噴出します。

 まずはこれが、「現実に対応した感情」などではなく、「心理メカニズム現象」なのだという、自分の感情を客観的に見る目が大切です。ここから、病んだ心の根本的な克服への道が始まります。

 

「感情の強制」と「自己像」の破綻

 

 心が病むメカニズムのこの後の結末まで話しましょう。心の問題があるところであれば、程度の差はあれ全て同じ形になる、基本的な流れです。今までの「誤った心の使い方」が引き起こす問題を一通り理解して頂いた上で、「正しい心の使い方」を理解するための準備としたいと思います。

 

 「自己操縦心性」が「イメージ」とならんで持つ重要な機能が、「感情の強制」です。

 「感情の強制」そのものは、健康な心にも存在する機能です。そして健康な心においても、「感情の強制」は、「イメージ」を活用することによって成されます。

 たとえばスポーツの試合に臨んで、自分の心を鼓舞します。悲しいことが起き涙を流していても、人前に出る時には、相手への配慮から明るい笑顔を保ちます。それぞれ、気合の入った自分を、気分の回復した自分をイメージして、それを枠にして自分の心を押し出す、という感じですね。人間の心には多少これが可能だという機能があります。それを使うよう人に促すのが「励まし」です。「頑張って」と。

 

 そのように「感情の強制」は健康な心にもある機能であり、実際それが役に立つ有益なこともあるですが、問題は、多少ストレスがかかることです。「感情の強制」は、言わば心の無酸素運動です。全力で走る短距離走にたとえられます。

 病んだ心のメカニズム、「自己操縦心性」においては、「イメージを引き金にした感情んによる操り人形状態」の中で、この「感情の強制」が自分でもコントロールできないほど暴走してしまいます。これは長い人生を走る長距離走を、全力の短距離走で全て走り続けようとするような話になってしまいます。

 当然、続かなくなります。いくら自分に感情を強制しても、感情がそうならなくなってしまうのです。そして「なるべき自分」になれているという高揚した自意識の期間が人それぞれ多少あった後に、「なるべき自分」のための感情が湧き出なくなったという暗雲の感覚を境目に、先ほど説明したような「破滅イメージ」に脅かされるようになってくる。

 これが典型的な流れになります。

 

 そして「あるべき自分像を取り下げても自己処罰感情だけ残る」というメカニズムをさきほど説明しました。

 それがここでも、問題を深刻化させます。「なるべき自分」に息切れする度に、別の「なるべき自分」を考えてみるという、「自分へのごかまし」が頻繁に起きるようになってしまうのです。そうして辻褄の合わない「なるべき自分」が乱立しては消えていくという流れの中で、自己処罰感情だけは漠然と残り増え続け、最後には自己嫌悪感情と、怒り発作の洪水のような状態になってしまいます。

 

克服への方向性

 

 最後の結末の部分はきわめて短く書きました。実際には、そのように「感情の強制」と「自己像」が破綻していく過程の中で、さまざまな心理要素が絡み合い、実に複雑な心の揺れ動きが起きることになります。またその揺れ動く感情の大きなテーマとは、「愛」と「自尊心」であり、その混乱の基本的な姿についてはそれぞれ章を設けて説明します。

 ただし心が病むメカニズムの歯車は、この章で説明したものが全てです。多くの精神医学や心理学が注目するのは、主にこのあと心の混乱によって社会生活や家庭生活が妨げられるほどの深刻な姿です。そして沢山の「症状」を分類して、沢山の「診断名」をつける。

 しかしその段階に注目しても、克服への糸口は何も見えません。その前に、同じ一つのメカニズムが動いているのです。それが、「心が病むメカニズム」という、人間の心のメカニズムの一つの側面です。

 

 事実、心の障害が表面化した時に人が注意を向けるのは、幼少期という問題の始まりと、思春期に至り表面化した心の病理だけです。

 しかしそれは病んだ心の表面に過ぎません。表に見えるのはさまざまに病んだ心の姿を示す歯車として、根底でその回転を駆動しているのは、むしろこの章で学童期に進むものとして説明した、私たち人間のごく基本的な思考における歪みなのです。

 その最たるものが、「正しければ怒って当然だ」という怒りに頼る思考法、そして「正しい者が望む資格がある」という「望む資格思考」です。それによって、人は「自らは望まない」という自らについた嘘の中で、情動の荒廃化へと向かいながら、「なるべき自分」へと自分を駆り立て、イメージ通りでないものへの怒りの洪水に覆われていくのです。

 

 話をそこからの克服と解決への道へと移しましょう。

 まず間違った姿勢の典型的なものがあります。それはこうして病んだ心を、「こんな心では駄目だ」「こんな感情になっては駄目だ」「この感情を何とかしなければ」と考える姿勢の中で、心の障害を理解して治そうとする姿勢です。

 実はまさにそれこそが、心が病むメカニズムの最後の続きなのです。それがまさに、自分で自分を追い立て、そして自分から逃げたくなり自分を見失うという、全く同じことの繰り返しになります。そして絶望に至り、「こんな心になったのは親のせいだ」「いじめに遭ったから心が壊れたのだ」と過去への憎悪に駆られるのです。

 

 正しい克服への道は、何よりも、表面に現れる感情を良くしようと躍起になるのではなく、感情が起きるメカニズムを正しく知り、感情の大元になる思考法や生きる姿勢を変えていくと共に、病んだ心のメカニズムの歯車を回す原動力となったものとは全く異なる「心の使い方」を知って実践することです。

 そのためにハイブリッド心理学では、「感情と行動の分離」という、感情はいったん内面だけにとどめ、行動は建設的なもののみにする姿勢を第一歩とした、体系的な実践を定義しています。これは、特に心の障害がなくても、全ての現代人の心の成長と幸福に役立つことができるものであることを、私は確信しています。

 一方、心の障害が深刻な場合、さらに専門的な心理学的取り組みが役に立つでしょう。それは幼少期からの蓄積と変形によって、もはや自分自身でも何を感じ考えているのか分からないような心の紛糾状態を、感情メカニズム理論の助けを得て、ひとつひとつ解きほぐしていく実践になります。これは基本的には「精神分析」の取り組みになりますが、ハイブリッド心理学ではそれをより日常的な感覚で分かりやすいものにした、「感情分析」という実践を定義しています。

 

内面における「自己の再生」へ

 

 それによって、全ての心の障害が根本的に解決治癒し得るか。

 言えるのは、ハイブリッド心理学はあくまで「自らによる心の成長」のための心理学だということです。心の障害の「治療法」や心の「療法」ではないということです。「療法」という時、それは「療法」を「施される」者がそれを「施す」者の言う通りに従うということを指します。「こうすれば良くなりますよ」と、言われた通りに実践するのが「心理療法」です。

 ハイブリッド心理学はそのようなものでなありません。あくまで、自ら考え、自らの意志によって、自らの心の使い方と、自らの人生の生き方を「選択」するための、手助けをするための心理学です。

 従って、どのような心の障害がどのような根本解決するかは、結局のところこの心理学に取り組まれる方自身が、自分の問題をどのように捉え、どうしたいかと考える、意志にまず依存します。

 

 それでも言えるのは、深刻な心の障害からの取り組みであっても、そのような「自らによる心の成長」の先に、病んだ心が根本的に突破される、特別な現象があるということです。

 「現象」などという言葉を使った通り、それはもはや「実践」することではありません。実践による「心の成長」が、意識努力を超えた心の深層において、病んだ心を根底からつき動かし、病んだ心を崩壊させるような「現象」が起きるのです。

 これをハイブリッド心理学では「自己操縦心性の崩壊」と呼んでいます。この時、感情は良くなるのではなく、逆に深刻な悪化であるかのような姿を見せます。それは「完全なる絶望」とも言うべき状態で3。しかしこれこそが、今まで心の土台となっていた病んだ心性を、心が根底から捨て去ろうとしていることの、意識表現になります。事実この感情悪化は、必ず短期感で終わり、そのあとに「脳の構造が変化した」としか考えられないほどの、開放感に満ちた「未知」の心の状態が現れます。

 私自身がそれを体験し、その詳しい描写を、『悲しみの彼方への旅』に小説化しました。またこの心理学に取り組まれている方々においても、すでにこうした体験を持つ方が出始めています。幾つかの事例を第2で紹介します。

 

 実はこの「自己操縦心性の崩壊」という現象は、時折耳にする、人が死に直面することで根本的に生き方が変化するという話と、実に良く似た変化です。実は本質においては同じものではないかと、私は考えています。この心理学においてはそれを、現実の臨死体験という危険なしに、安全な心理学的な技術として追求しています。

 つまりそれは内面における「自己の再生」です。一度今までの自己において死に、あたらなる自己で生きるということです。

 これはあくまで深刻な心の障害があった場合のケースですが、この「再生」の視点は、それ以外でも案外多くの現代人にとって、「新たなる生き方」を模索する上で役に立つものかも知れません。

 

病んだ心から健康な心への道

 

 ハイブリッド心理学では、さらに深遠な領域へと考察を進めています。

 「再生」の先には、「生」と「死」というテーマがあり、「命」というテーマがあります。そしてそれが「病んだ心から健康な心への道」にも深く関わるものである時、全てが一つの連綿とした流れの中にあることが浮かんできます。

 それは「魂」と「心」というテーマです。人の心がこの世に生まれ、生涯を通じて変化していく中で、その根底に、私たちが目で見ることはできない、「魂」というものにおける一貫とした「摂理」のようなものが見えてきます。これは今まで主に宗教や哲学においてのみ論じられてきたテーマですが、ハイブリッド心理学ではあくまでそれを、心のメカニズム、つまり脳のメカニズムとして考えます。そしてそのDNAに刻まれた「成長」への託宣に従うことが、心の健康と幸福への医学的な近道のようであるように感じます。「病んだ心から健康な心への道」における細かい実践の全てがそれに符号するものであることも、この心理学では見出しています。

 それは「愛」と「自尊心」をめぐる、人間の魂の変遷と言えるでしょう。人間の心におけるこの2大テーマについて説明した後に、この、魂の歩む道のりについて説明したいと思います。