10章 「愛」と「真実」の混乱と喪失 −魂が抱いた愛への願いと憎しみ−

 

*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*

 

心の問題の始まり

 

 「愛」は本来、私たちの心がそれによって満たされ、人生が豊かになるための、最も大きな感情であるはずだったと感じます。

 しかし人は現代社会において、「愛」を求めて自分自身を見失い、傷つけ合い、破滅する、「愛」はそんな心の罠のようなものにも見えます。

 この心の歯車の狂いは、一体どこで生まれたのでしょうか。

 

 事実「心が病む」という問題は、その全てが人間の幼少期における「愛への挫折」から始まっていると考えることができます。それは大きな存在に優しい目で見守られ、温かい愛で包まれるべきであった自分が、現実にはそうではなかったという、「この世界に生まれたことにおける根源的な挫折」です。それが、もはや意識体験の許容量すら超えた恐怖とともに、この人間の心の底深くに置き去りにされたのです。

 それが、全ての問題の始まりです。

 

 子供の頃に親から適切な愛情を十分に受けなかったことの、心への悪影響は、すでに多くの心理学で指摘されています。

 また、心の障害に悩む多くの方が、「子供の頃に愛されずに育った」と語ります。それが、自分の心の問題の根深さを確実に示すことであるかのように。

 しかし問題の根はそこにあるのではないと、ハイブリッド心理学では考えています。真の問題の根は、「愛されなかった」と語る心の裏で、この人が自分自身を肯定できていないことです。つまり「愛されなかった」ことが問題なのではなく、それによって「自分自身を肯定できなくなった」ことが、問題なのです。

 

幼児期−愛されることが自己肯定であった心の世界−

 

 「自分は愛されなかった」。そう語って押し沈んだ表情にある人の、実際の心の中で動いている歯車はきわめて複雑です。

 ハイブリッド心理学では、これについても極めて独自で明瞭な考えを持っています。

 

 まず結論から述べましょう。

 「幼少期」の「自他未分離」の混然とした心の中で、「愛される」ことは「自分自身を肯定する」ことを意味します。自分を愛する大きな目が「他人」だという意識はまだなく、それは世界が自分を愛しているということであり、「生」が自分を肯定しているということです。だからそれは自分が自分を肯定していることでもあります。

 そうではなく「愛されない」時、それは「生」における拒絶となります。拒絶してくるのが「他人」だという意識はなく、ただ自分が「生」において「拒絶された者」だという感情だけが、この幼い心に刻まれます。それは「誰」が「なぜ」自分を拒絶したという、「論理性」を持たない感情です。これが前章でも説明した「根源的自己否定感情」です。

 

学童期−愛に依存しない自尊心への歩み−

 

 そして大きな節目が「学童期」の始まりに起きます。3、4歳頃の、「自分」という意識つまり「自意識」が芽生えた時です。

 「愛」における最大の節目は実はこの、人生でも極めて早期にあります。思春期ではありません。思春期は、この節目から始まったことがらの切迫度が急激に高まり、この節目から始まる歯車の狂いが支えきれなくなり、心の障害が表面化するというだけに過ぎません。

 

 「自意識」の登場によって人の心に起きる、「愛」における最大の節目とは何か。

 それは「愛」と「自尊心」の分離です。自意識がまだない時、愛されることは自分を肯定することと同じでした。自意識の登場によって、自分を肯定できるかどうかは、愛とは別の問題としても存在し得るようになってくるのです。

 ですから、3、4歳頃の子供から、何でも自分でやりたがるといった行動が出てきます。愛され褒めそやされることによってではなく、競争して人に勝つことで自尊心を感じているらしい様子などが、見られるようになってきます。

 たとえばこの話を私のインターネット・サイトの掲示板に載せた時、読者の方がこんなことを書いてくれました。

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 たまたま昨日、5歳の娘とカルタ取りをして遊んだ時に気がついたことがありました。私は札を読みながら取り札を探すのですが、そこは大人なので子供より先に見つけてしまいます。でも、わざと分かっていながら取らなかったりして、子供を立ててやろうとしていました。

 すると最初は得意になっていた子供も、それに気がつき、「ママもちゃんと取って!」と言い始めました。でも、圧勝しても仕方がないので、手加減しながらやっていました。で、彼女が札を取った時、私に聞くのです、「ママも見つけたのに私の方が早かった?」と。「うん、うん。あっと思ったら、もうアンタが取ってたから、ママ悔しかった〜」と答えると、得意満面。

 ここから思うのが、「自尊心の獲得」は、「愛情の獲得」よりも自分で何かができるようになることに由来するのではないか、ということです。

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 さすが現役のママさん、観察が鋭いですね、と私も同意した次第です。

 

 子供はまだしばらくの間は、愛に支えられることを、前に進むためには必要とするでしょう。しかしそれからの勉学やさまざまな活動が、愛に依存することなく自尊心を持てるという目標に向かっての歩みだと言えます。人間社会にはそれだけ勉学の必要なことが山のようにあり、やがてこの社会において「優れた者」になれることが、身近な者から愛されることに代わる、自尊心のための大きな基盤になるわけです。

 

思春期−自立した自尊心への要請−

 

 そして「思春期」において、その要請が一気に高まります。「自立」という、脳のDNAに刻まれた課題が作用し始めることで。

 

 ここで、極めて重大な問題が起きます。「根源的自己否定感情」を心の底に抱え、愛されることによる自己肯定を見失ったまま生きてきた個人の心には、「愛されないと自己肯定できない」という心理状態が残り続けていることです。そこでは、「自尊心のためには愛が必要」です。

 一方で、脳のDNAは別の言葉を語っています。「愛に依存しない自尊心が必要」だと。

 これはもう完全なるバッティング状態です。愛されないと自尊心を感じることができないのですが、そんな姿がまさに自分自身で受け入れ難いものになってきます。

 心を病むメカニズムは人間の心のメカニズムの一面であり、多分に全ての現代人が程度の差はあれそれを持っていることを考える時、多くの少年少女が思春期になって抱く心の混乱は、これに符合する話であるのを感じられる方は少なくないと思います。

 

 「愛」の問題は決して単独で見ることはできません。それは常に「自尊心」と絡み合い、その2つがおりなす綾の中にあります。これが人間の心の業なのです。

 

「愛情要求症候群」

 

 心を病むメカニズムが、「愛」の問題に表れる姿の話に戻りましょう。

 これを「愛情要求症候群」と呼ぶことができます。心を病むメカニズムは、「愛」については、まず身を削るような「愛を求める感情」の中へと人が翻弄される姿として表れます。

 

 この「愛情要求症候群」には大きく3つの「症状」があります。

 まず1つ目の「症状」は、「愛を求める感情」そのものの話です。これが心の前面を覆うケースでは、「身を削るような寂しさと空虚感」が心の背景に常に流れており、それを埋めて消し去ってくれるような「愛」を求めてさ迷う感情に、心がおおわれます。

 その感情の裏には、絶えることのない自己否定感と自己嫌悪感があり、少しでも「自分が必要とされる」ことが救いの麻酔剤であるかのように、「愛してくれる」相手を求めて揺れ動くという姿になります。これが深刻に進むと、依存恋愛やセックス依存として人の目にも触れるようになってきます。

 「愛を求める感情」が心の背景にとどまるケースでは、そうした相手を意識して求めることはありませんが、人からのちょっとした拒絶に出会うと、たまらない憂うつ感や苛立ちにおおわれてしまいます。

 つまり、「愛を求める感情」が心の前面に出るにせよ背景にとどまるにせよ、愛を得られないと心のバランスを崩してしまうのです。

 

感情と思考の相手依存

 

 2つ目の「症状」は、感情や思考における相手依存です。

 この最も基本的な姿は、相手に対する肯定的な感情を抱けるかどうかは、相手から自分に肯定的な感情が向けられること、向けられ続けることに、決定的に依存してくるというものです。この結果、この人は常に相手に対して、「腹をさぐる」つまり本当は自分に否定的な感情を持っているのではないかという疑心に駆られることが多くなります。

 

 これは心理メカニズムとしては、「自己の重心の喪失」によって基本的に「まず相手が」という思考と感性があること、そして「受動価値感覚」によって、自分から自発的に感情が湧き出なくなっており、相手からの働きかけが必要にあっているという基本的な背景があります。

 しかしそれ以上に決定的なのは、この人が「相手に応じて自分を切り替える」必要性を抱えていることです。つまり心の片方には、まるで追いつめられた獣のように、人に背を向け直情的な敵意に閉じこもろうとする、「全く別の自分」があるからです。

 ですから、相手は、「友好的で素直な自分」を演じ続けるのを支えるような、暖かい目を常に自分に向けている必要があるのです。相手がこの「義務」をおろそかにして、自分とは別の友人と一緒にいたり、暖かい表情を一瞬やめたりすると、この人の心は疑心の暗雲におおわれることになります。そして「友好的な感情」が湧き出てこなくなり、人間関係が途切れがちになり、相手から自分への好意が消えているのがはっきりしてくると、「裏切られた」と憎しみに駆られるということが起きやすくなります。

 こうしたケースでは、本人は「人間不信」に悩むのがまず大抵です。人間なんて信じられない。そしてこんな自分が大嫌いだと。

 より一般的なケースでは、相手への疑心に駆られる自分への自己嫌悪感から、「愛とは何か友情とは何か」という難解な哲学的疑問を抱き始め、「愛は相手を疑わないこと」などと考えて自分を律しようとしたりします。しかし同時に、自分が間抜けなお人よしのようにも感じられて、孤独を選ぶ哲学へと揺れ動いたりもします。

 「人を信頼するとは一体どうゆうことなんだ」と悩むその問いに、答えが出ることは永遠にありません。すでに「自己の重心」を失った時に、もうその答えなどありようもない事態が始まっていたからです。克服への道は、「相手を」という視線の方向をいったん捨てて、「自分が」どう生きようとしたのかという、大元を解きほぐしていくことにあります。

 

 これは「愛情要求症候群」における「相手依存」の、「感情の依存」という基本です。これは心の障害とはまだ言わない、日常の心の悩みの範囲でもありがちな話です。

 もう一つ「思考の依存」も、日常の心の悩みの範囲ですでに見られます。しかしこっちは心理学からは問題がより深刻です。

 「思考の依存」では、知性的な思考においてまで、相手の思考をそのまま自分の思考だと思いこもうとする姿になります。ものごとの善悪、生き方や仕事の姿勢などの考え方、さらに趣味嗜好といった日常全般の思考にまでそれはおよび得ます。

 これが「好きな相手に合わせる」ことにおいては、それほど問題のある話ではありません。心理学から大きな問題となるのは、この人が「自分の頭で考え自分の考えを持つ」ということそのものを、人生の初期おそらく学童期の初期あたりに、大きく放棄している可能性です。つまり「自己放棄」が起きていることが問題になってきます。

 すると「自分で考える」ということそのものがどうゆうことなのか、分からなくなっているような事態が起きてきます。人間が生きる上で極めて重要な「価値観」というものが、その人にとっては、「そう考えている姿を人に見せる」という、「飾り」のようなものに感じられてきてしまいます。

 それが心理学的に問題だというのは、それが「あるべき健康な姿ではない」からではありません。自分の頭で考え自分で決断することによってしか導くことのできない「自分の人生」と「自分の幸福」を、明らかにその人はその後失うことになることが、ほぼ必然的であることです。

 

「幻想的論理」という「愛の世界」

 

 愛情要求症候群の3つ目の「症状」にいたり、はっきりと「心の障害」であることが明瞭になってきます。 それは愛情を求め期待する感情と思考の全体を次第におおって来る、「現実から乖離」した幻想的な論性の歪みです。

 これは前章で「心の病理」の4番目として説明した「論理性の歪み」の話になります。「自己の重心の喪失」によって、まず「自分が」が消え「人が」という論理になる。それが進むと深刻な2つの結末に至ります。

 一つは病的とも言えるほどの論理性の歪みです。たとえば町田市女子高生殺害時間の犯人少年の言った、「悪いことしてないのに無視されたから殺した」。私が長くメール相談対応しているある女性も、自分だけが人から親しくされないことに怒りを抱いていました。それを伝える言葉の中にも、論理性の歪みを示す言葉あるのが特徴的でした。「自分に無視される義務はないはず」というものでした。

 ここでの論理性の歪みとは、あまりにも一方的に自分に愛情や好意が与えられることが、「あるべき世界」として描かれているということになります。それは親と乳飲み子との間には成立したであろう関係が、成長後の現在の自分においてあるべきだという論理の構図が考えられます。その「あるべき世界」通りであることをしくじった他人への、激しい怒りと憎悪が湧き起っています。

 「自己の重心の喪失」の深刻化するもう一つの方向性が、「幻覚」や「幻聴」といった重度の心の障害症状でした。そこでは「現実覚醒レベルの低下」が重篤に起きており、実際のところ起きながらにして夢の中にいるような事態が考えられます。一方その「夢」の中で描かれるものは、現実的な論理性をすべて取り払った先にある、幾つかの感情の象徴のように思われます。それはやはり親と乳飲み子との間にあるような「愛」であり、それを損なった世界への「憎しみ」であり、「全く相互理解不可能」な「異形なる他人」といったものです。

 

 つまり、「自己の重心の喪失」という心の病理の先に、愛を求める人間感情と、「現実覚醒レベルの低下」という障害が重なり合っているのを見ることができます。

 病んだ心が抱く憎しみの先に、愛を求める乳飲み子のような心理が見えます。これはバージニア工科大銃乱射事件のチョ容疑者のような姿においてもです。まだ自分と他人の区別さえ良くできていないような、人生のより早期の段階において彼の心の問題が始まっていたからこそ、彼の憎しみは世界の無差別な人々に向けられたのです。

 

人間の心の起源へ

 

 なぜこのようなことが起きてしまうのか。これらの考察は、人間の心がどのように成り立つのかという起源へと、私たちの関心をいざなうように感じます。それは同時に、「愛」の起源でもあるでしょう。

 

 私にとってこの問題がはっきりと整理の対象になったのは、2004年の夏頃のことでした。ハイブリッド心理学を一通りまとめてきた中で、「愛」の問題はまだ輪郭がぼんやりとした、未知の領域のように感じられていたのです。「愛」について私自身が人生の途上だという状況もありました。あくまで私はこの心理学を、私自身そして他の人々の、人生の「実際の体験」という事実だけを証明として用いています。

 その謎解きは、私自身の心が成長する中で、私自身の中で「愛の感情」がはっきりと見出されてくる過程として成されましたました。

 

 その時、私はある深刻な人格障害傾向を持つ女性への援助作業に没頭していました。後にも先にもその時ほど心血を注いだ援助体験は他にはありません。恐らくこれからももうないでしょう。

 その女性は、結婚生活の中で心を満たされるものを得られないまま、他の男性との恋に落ちていました。それは運命的な恋であるように彼女の心に映る一方で、その男性のちょっとした冷たい言動などを前に、彼女の心は大きくバランスを崩し、破壊的な憎悪に駆られるという問題を起こしていたのです。それは相手との関係、そして家庭、そして彼女自身の人生という全てを破壊するほどの危機へと、彼女を陥らせていました。

 その時の私には、自分の心理学が心の障害を解決し得ることへの過信が少しあったと感じます。そんなこともあって、自分とも似た来歴と感性を持つ、この心の危機に瀕した女性を救うことへの情熱は、寝食の時間さえ忘れるような援助作業へと私を向かわせたのです。怒涛のように交換されるメールのやり取りの中で、睡眠時間が少なくなっているのに、体からはエネルギーが絶えることなく湧き上がってくる。これはさながら災害現場での救急隊員のようだ、と自分でも感じました。

 

 そして残された大きな心の領域への謎解きが、私自身の中に湧き起ってきた、その女性を救おうとする感情は何なのかと考えることから始まったのです。

 

 そもそも「愛」とは一体何なのか。納得のいく説明を、人生で読んだ記憶がありません。それはただ実際の人生だけが、私にその答えを教えてくれるものでした。

 世の人が愛について説明する時、それはまるで「愛」そのものではなく、愛が実現したらしい「姿」を描いた絵の話をしているかのようです。それは優しい表情で乳飲み子を見守る母親の表情であったり、愛し合い見つめあう若く美しい男女の姿であったり、溢れる笑顔で手を取り合って歩いている家族の姿であったりするかも知れません。

 しかしそのどこに、「愛」があるのでしょうか。見つめあう、うっとりとした感情が「愛」なのでしょうか。その絵のような「あるべき姿」を演じようとする、律儀な感情が、「愛」なのでしょうか。

 

 心理学を再開した2002年頃、私は「愛」を、漠然と「相手への肯定的感情」という一くくりで考えていました。それからさらに私自身の心が成長し、心がより健康なものに変化していく中で、「愛」が単なる「肯定的感情」ではない、その本質的な性質が、私に少しづつ見えて来ていました。

 そしてその女性への援助体験の中で私自身の中に現れた「未知の感情」は、やはり「愛」でした。しかしそれは今まで考えていた「愛」とは、さらに別のものでした。この違いがはっきりと分かった時、全ての謎を解く鍵が揃ったのです。

 私は、私自身が感じたその愛の感情を、その女性に率直にそのまま伝えることにしました。それが同時に、彼女が彼女自身の問題を解くための鍵になると感じたからです。

 そうして、ハイブリッド心理学における「愛」の整理が始まりました。

 

 まず、愛とは一体何だったのか。その起源へと遡りたいと思います。

 

愛の起源

 

 「愛」とは、「一体化」への感情です。これが定義です。お互いが同じ感情を感じ、同じところにいて、ひとつになること。

 

 これは身体的なものから精神的なものまでへと至ります。スキンシップ、セックス、たわいないお喋り、スポーツにおける一致団結、難しい課題への共同作業、etc。その全てが、一体化することそのものを志向する感情において、愛です。

 愛を行うおのおのの人間の外面だけを取り出したとき、それは愛ではなくなります。「与える」「与えられる」として分解された行動そのものは、もう愛ではありません。愛とは、それを求める2つの気持ちがかなでるハーモニーと言えます。ハーモニーを構成する音を分解して、どこに愛があるのかと探しても、そこに愛はありません。

 

愛の種類

 

 そうした「愛」の感情において、「真実の愛」と呼べるものに、およそ3つの種類があることが私には分かってきていました。

 ここで「真実の愛」とは、相手がその相手であることにおいて無条件にそれだけを目的にし、他の目的はないことにおいて、「真実の愛」と呼びたいと思っています。つまり、条件によって変わってくる、もしくは条件を目当てにした「愛」は、「真実の愛」ではないということです。

 

 「真実の愛」の一つは、「異性愛」の中に見出されます。これは種の保存のために生まれたものと言えるでしょう。子供を産むために、まず異性愛というものが作り出された。

 私自身の「病んだ心から健康な心への道」も、主にこの異性愛における「真実の愛」に導かれて、自己の真実と開放を得たものと感じます。その詳しい描写を、私は『悲しみの彼方への旅』に自伝小説化しました。

 それはまず始まりにおいて、深い闇夜に輝く、月の光を見上げるような愛でした。その相手だけが余りに大きく輝き、他の世界は暗闇と化します。「月光の愛」とでも呼べるような、神秘的な愛の感情です。その女性が見出し、その中で心の谷間へと落ちたのも、まさしくこの「月光の愛」でした。

 やがてその月の輝きに導かれて、私は健康な心の世界に回帰しました。そこは明るい太陽の光がふりそそぐ世界でした。もはや闇の中で一人の特定の異性にあまりに深く惹かれた感情はなく、愛する家族を作るという願いの中で、誰でも愛することのできる自分を見出します。これは「ひまわりの愛」と呼べつような、朗らかな愛の感情です。

 

 「真実の愛」のもう一つは、「子供への愛」です。これは私にとって未知の大きな感情でした。小さな子供を見ると、可愛くてたまらない気持ちになるのです。以前の私は、自分の「人格の欠損」を感じて恐がるだろうからと、自分から突き離すような感情を小さな子供には抱いていました。

 そうした子供への愛情の出現が、私自身の心の成長の中で、以前とは質的に違う成長の段階に自分が来たことを確信させたものになっていました。

 「子供への愛」もやはり、人間の心理の発達における、「種の保存」という目的の支配力の下にあるように感じます。

 

 「異性愛」および「子供への愛」は、一体化を強く志向する愛の感情です。

 一方次の真実の愛は、もはやあまり強い一体化は志向せず、緩い一体化への感情になります。

 これを「普遍の愛」と呼んでいます。この世界で愛するさまざまなものへの感情として、心に普遍的に流れるような愛の感情です。「友情」は主にこの中に属する愛情のように私は感じています。

 先の2つの愛が、双方向の「密結合」であるのに対して、この愛では片方向での「疎結合」だと言えます。ですから重要なポイントとして、この「普遍の愛」では「自由」が確保されます。先の2つの愛では、多分に「自由」が奪われます。健康な心においても、しばしば自分自身の自由と両立できないことがあります。

 先の2つの愛では、「あなただけを見ています」という言葉が成り立ちます。「普遍の愛」ではこの言葉はありません。その代わり、「みんな愛してる」とは言えるということになります。

 

「傷ついた者への愛」

 

 そして最後に、私がその女性への援助体験の中で知った、未知の「真実の愛」がありました。

 私はその数日間、寝ても覚めてもその女性のことを考えました。今どのような心理状態にあり、何をどう考えてもらうのがいいのか。同時に、そこに見える心の混乱と葛藤は、今の自分にとってはもはや容易に乗り越えられるようなものである一方、その女性は人生を通してその苦しみの中にいる。それを思い浮かべた時、私はなんと声を出して泣いていました。

 それは私自身にとって、不思議なことでした。自分が声を出して泣くなんて、一体いつ以来のことだろう、と。そしてこの気持ちは何なのだろうと考えました。

 それを自分自身に対して整理するためにも、私はその気持ちをその女性自身に示す形で整理したいと感じました。それがその女性を支えると同時に、その女性が自らの誤りに気づくことに役立つと感じたのです。そうして愛の謎解きが始まり、私は長いメールを彼女に送りました。

 これはどう考えても愛です。まるで同じところにいるように、まるで同じ人間であるかのように、僕には貴女の心が響いてきます。僕の心は貴女と一緒にいるのです。僕の心がそれを求めていました、と。

 

 しかしそれは「強い一体化」を目指す他の2つの愛のどちらとも違う愛でした。私はこのような援助行動を、最初は漠然と、弱いものつまり子供への愛の薄いバージョンかと考えました。多少そこに異性愛的な感覚も混入しているか、と。しかしその時私の中で明瞭になった「愛の感情」は、もはやはっきりと、それとは違うものであることが分かってきました。

 それを一番特徴づけたのは、「愛しています」という言葉がそこでは全く成立しないことでした。この愛において、その言葉は全く意味を持たないのです。それが不思議に思えました。他の愛では、「愛しています」と言います。男女の間で。親子の間で。

 この愛では言わない。なぜか。

 それは立っている相手に対して言う言葉だからです。こんどの愛は、立つことができなくなっている者への愛です。だからそこで「愛しています」ということは意味がないのです。

 私はメールに、貴女を思い浮かべてまた泣きながら書いています、と添え、説明を続けました。

 

 この愛も、一体化を志向しています。でもそこで行うのは、対等な一体化ではありません。僕は、貴女の中に入っていくのです。そして貴女の治癒への力になるのです。愛していますという言葉が意味がないのはそのためです。

 これは「傷ついた者への愛」です。これは人間の真実でした。相手が何を満たすかどうかは何もありません。無条件の愛です。

 僕はこれについて、ウルトラセブンのある一話を思い出しました。原因不明の難病に苦しむ女性。実は宇宙から来た微小怪獣によるものだった。ウルトラセブンは目に見えないほどの小ささになって、その女性の体の中に入り、自分の命を投げ打って微小宇宙怪獣と戦う。

 ウルトラセブンが勝って、女性が目をさます。立っている団と目が合い、不思議な愛の確認が一瞬流れます。そんな愛ですね。

 

 こうして「一体化」へのもう一つの愛が確認できました。その時、私には謎への糸口が見えてきたような気がしました。

 なぜなら、病んだ心の中で、人はこの「傷ついた者への愛」を見失うからです。そして傷ついた者へ、さらに容赦ない怒りを向けるのです。傷ついた他人に対して。そして傷ついた自分自身に対して!

 

至上の愛

 

 人はなぜ、病んだ心の中で、「傷ついた者への愛」を見失うのか。この答えは、「月光の愛」「ひまわりの愛」「子供への愛」「傷ついた者への愛」という4つの愛について、漠然と色んなことを考えているうちに近づいてきました。

 私はその女性に問いかけるように続けました。

 

 この4つの愛の中で、どれが最高の愛だと思いますか。

 僕は「子供への愛」だと思っています。自分が健康な心になって見出した、とても確かな感覚として。

他と質が違うんです。

 どう違うか。他の愛では「自分」が残っているのです。

 2つの異性愛もそうです。「自分」と「相手」との一体化。傷ついた者への愛も。「相手」の中に「自分」が入る。他にも傷ついた者がいたら、少し手を休めてそっちも見なければいけない。「自分」を失うわけにはいかないんですね。

 でも相手のために自分を投げ出すエネルギーというのは大したものです。僕もこの数日ちょっと体内が変化している感じがちょっとありました。睡眠時間が短くなってるのに全然影響ない感じ。災害救命隊の人が一日1、2時間しか寝ずに何日も救助作業を続けるのを関心して見たことがありますが、何か分かった気がします。それに比べりゃ楽なもんですが。

 

 「子供への愛」では、「自分」が完全になくなるんですね。

 自分が宇宙になって子供を包むんです。

 子どもが宇宙の中心になるんです。

 

 他の愛では、どこかに自分が残る。最後には自分を守らなければならないんですね。「子供への愛」は違います。自分は子供の宇宙なのです。子供しかいない。自分はその宇宙。

 他の愛では、相手の命が失われそうなときに、自分も同時に命を失う危険がある時、相手を救うか自分を救うかという、選択肢が出ます。人がどっちを選択するかによってドラマがありますね。

 でも「子どもへの愛」においては、その選択肢はないんです。なぜなら自分は子供の宇宙だからです。

 実際のところ、こうした「子どもへの愛」を持つ親がどれだけいるかは、もう言及するまでもない悲劇的状況です。

 

 この話をインターネット・サイトの掲示板にも載せたところ、読者の方からこんな印象的な意見を頂きました。

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 学生時代、三浦綾子の「塩狩峠」を引き合いに「完全な自己犠牲」というテーマを肴に親友と飲みながらクダ巻いたことがありました。曰く、

 「あらゆる善行や献身などを行う人間は、結局なんらかの報酬を受け取ってるわな。たとえ自分の命を投げ出すような極限状況にしてもだ。それは良心や美意識の自己満足だったり、自分に酔いしれる自惚れ鏡にもなりうる」

 「でもまあ、結果的に人が助かったり喜んだりするわけだからハッピーなことじゃん。それを咎め立てるようなことじゃない。そのへんが人間の限界っつーか。それなしにできたのが、もしかしてキリストだったりブッダだったり弘法大師だったりガンジーだったりマザーテレサだったりするんかね。知んねーけど」

 「あー、だけど唯一の例外があるかもしんない。自分の子供が溺れてるのを見つけて、自分はカナヅチなのに反射的に飛び込んじゃって死んじゃったりする親の話。あれは完全な自己犠牲かも」

 「たしかに。頭を介していない感じの純粋さは感じるね。英雄的な自己像なんてものを空想するヒマもないわけだしね。身体が動いちゃってる感じ。善悪の遥か彼岸というか、むしろ動物に近いかも」

 「いやあ、つくづく、親ってありがたいよね」

 そんな話をしたことを、しまのさんのカキコを読んで思い出した次第です。

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 これについて今コメントするするならば、「愛」は根本的に「自分」を意識しない感情であると、ハイブリッド心理学では考えています。「愛」の中で「自分」を意識することは、むしろ愛から離れることです。それが必要なこともあるでしょう。

 「自分」を意識するのは、むしろ「自尊心」に関連します。

 人が「愛はどうあるべきか」という問いを出す時、それは実は愛の感情の裏側に、「自尊心」を貼り付けた奇妙なコインを作ることを意味します。ハイブリッド心理学では、それを本来の別の感情に切り分け、別々に正しい成長のあり方を追求します。これがやはり、ハイブリッド心理学の大きな骨格になります。

 私は引き続きその女性に、この「宇宙の愛」についての説明を続けました。

 

 問題は、人間の心のメカニズムにおいて、子供は、この愛を求めている、ということです! そしてそれが満たされることを求めているのです。

 そして本来、それは満たされていたのが自然な人間の姿だったわけです。そうして自分の足で立って歩く力の中で、人生への能力をつけていく。

 

 人間が「子供への愛」を見失った時、全ての歯車が狂い始めました。

 子供は、自分が宇宙で見放されていると感じます。一面に広がる、世界への不安。「なりたい自分」が「なるべき自分」へと緊迫度を高める一方で、いっこうに育たない人生への能力。なるべき自分になれそうもない自分。現実がズレている。

 やがてこの現実に三下り半をつきつけ、空想の世界を(あるじ)とする人生の危機回避システム、「自己操縦心性」が発動します。

 

「宇宙の愛」と「真実」の差し替え

 

 病んだ心の中で見られた「論理性の歪み」について、ここでその正体を明確に指摘できるように思われます。

 それは愛が「宇宙の愛」であるべきだという論理です。愛とは、自分を宇宙の中心にしてくれるものです。それが大人になった今の自分において、あるべき世界だという幻想的な論理が描かれるのです。

 それはもう現実に与えられるものではありません。与えられるのは、それぞれが対等な「自分」を持った世界の、限定つきの愛でしかありません。

 もちろんその幻想論理は、人が誰でも自分の親などではないという現実を保ちはします。その代わりに、この人の空想世界に、極めて独特な幻想的感覚をつけ加えます。それは、人の目と心が自分を取り囲んでいるという感覚です。あたかも他人は、自分のことを思うためだけに存在するかのようです。それが必ずしも愛や賞賛などの肯定的感情に限られる必要はありません。彼彼女を嫌い、非難し、糾弾することでさえもが、この幻想世界においては、他人が自分のために存在しているという論理を描くために、必要となるのです!

 

 そしてもう一つ、重要な人間の感性がここで逆手に取られます。それは「真実」という感覚です。

 相手が自分のことだけを思い、自分のためのことだけをするのが、「真実の愛」になります。相手がほんの僅かでも、相手自身のための「自分」を持つ愛は、「真実の愛」ではない。自分はこの「真実」を知る、この汚れた世界に生きる一りんの白百合のような清い存在なのだ。

 「自分は真実を知る」。この感覚がこの人の自尊心と結びつきます。そしてこの人の自尊心への衝動は、「情動の荒廃化」の過程によって、すさんだ攻撃性を帯びています。

 

 ここに、ターニングポイントが生まれます。愛を求め、現実の中でその不完全さに出会った時、愛はは憎悪へと変化します。

 

憎悪の源泉

 

 憎悪の根源は、さまざまな要因が重なり合っています。

 

 「憎しみ」とは、「自分を苦しめ続けるもの」への復讐破壊衝動です。そして現にこの人生において苦しみを抱え続け、そこから抜け出るすべについて無知なままでいる時、この人の心は、憎悪の弾薬が減ることなく用意された倉庫を持ち続けるものにならざるを得ません。

 「苦しみ」は複合的に生まれています。その最大の源泉は、他ならぬ彼彼女自身が自らに加えている「望みの停止」と「自己処罰感情」に他なりません。そして心の問題の状況が深刻であればあるほど、「望みの停止」はより深刻になり、それが生み出す「情動の荒廃化」の加速によって、自らに向ける否定的態度の破壊性も増すことになります。

 その結果、「望みの停止」はあらゆる自分の願望の圧殺とも言える、文字通りの窒息状態のような苦しみをもたらします。「自己処罰感情」は次第にはっきりと、自分自身に身体的攻撃さえ向ける「自虐」「自傷」の様相を示すようになります。

 「苦しみ」はそのように、心が病む過程を生み出した元の問題の強さに応じて、引き起こされるメカニズムの内部相乗によって、一気に「累乗的」に膨張してしまいます。

 

 他ならぬ自分自身が自らを苦しめていることを、漠然と感じもします。しかし彼彼女は他人への憎しみを抱かざるを得ません。

 なぜなら彼彼女を苦しめる最大の要因である「望みの圧殺」が深ければ深いほど、彼彼女は「自らは望めない」存在であり、望めるためには他人から肯定的に見られることが必要だという、「人によって望める」存在と化しているからです。そして現に自らの全ての望みを圧殺した窒息状態になったのは、「人のせい」になるのです!

 この理不尽な論理転換を行う自分の心を、さらに彼彼女は自己軽蔑し、自己処罰感情によって苦しみを加えるかも知れません。しかしそれが再度、現実理性にはお構いなしのこの感情論理につかまります。

 全てが他人のせいです。自分のことを自分の問題として考えられなくなった、壊れた心になったのも他人のせいです。そうして苦しんでいるのも、全て、他人のせいなのです。バージニア工科大銃乱射事件のチョ容疑者が、「全てお前らがこうさせたのだ」と言ったように。

 

 もう一つ、憎しみを捨てることが難しくなる、現実的要因がしばしばあります。それは彼彼女が現実において来歴で体験した虐待体験や「いじめ」などの屈辱体験です。

 彼彼女は、全ての他人が人を傷つけることに快感を覚える、残忍な悪意の持ち主だと感じます。それが彼彼女の心に「ありありと」感じられる部分において、それは実は現実ではなく幻想であり、彼彼女自身の「情動の荒廃化」が反転して他人に映されたものに過ぎません。

 しかし現に彼彼女は他人の悪意による苦痛を味わっているのですから、そうした幻想と現実の違いを見分けることができません。そして心を病む過程が深刻であればあるほど、それを自分の内面の問題として認識することへの抵抗が強くなり、他人の悪意は「事実」だという考えに執着することになります。

 

 こうした「憎しみの膨張」の心理メカニズムは極めて複雑巧妙であり、多数の要因が絡み合って、「他人への憎しみ」という一つの感情に終結する傾向があります。

 この全てを十分に説明することは本書の目的ではありません。「病んだ心から健康な心への道」の概要を理解するという目的のためには、このくらいで十分でしょう。これがさらに「感情分析」による解きほぐしの実践へと向かう時には、より詳しいメカニズム解説が役に立つでしょう。それは別の本に譲りたいと思います。

 

魂が抱いた愛への願いと憎しみ

 

 そうした複雑な心理メカニズムのさらに根底に、もはや複雑性の全くない、まっさらとも言える、「根源的な憎しみ」の感情があります。

 今述べたような複雑なメカニズムは、主に「学童期」からの「自意識」を伴った複雑な心理メカニズムの中で発展し、「思春期」に表面化する心の障害によって、さらに爆発的に膨張したものと言えます。

 それとは異なる、「自意識」を伴わない、まっさらな憎しみの感情が、すでに「幼少期」において生まれています。

 

 それは、この世に生まれ愛される存在であるべきであった自分がそうではなかったという、深い自己否定感情と共にこの人間の心の底深くに置き去りにされた憎しみです。つまり「根源的自己否定感情」に伴う憎しみの感情です。

 「根源的自己否定感情」について説明したように、それは「自分」と「他人」という明瞭な区別を持ちません。それは「生において自分は拒絶された」という深い挫折の感情であり、それを自分にあたえた、この人生への憎しみなのです。そこには「あるべきでなかった人生」「あるべきでなかった人間たち」という感情があります。そこにいるのは親の皮をかぶった悪魔であり、善良な市民の皮をかぶった残虐者たちだという感情があります。

 

 心の障害の中で膨張する憎しみの感情の多くが、「荒廃化の反転」などによって作り出された虚構の憎しみであるのに大して、この根源的自己否定感情に伴う憎しみには、虚構はありません。つまりそれは一つの「真実の感情」です。

 従って「病んだ心から健康な心への道」において、それはもはやその不合理性を「解きほぐす」ことが実践ではなくなってくる段階がいずれ訪れます。

 そこで問われるのは、人間がその長い歴史の中で課されてきた問いそのものであり、「選択」です。

 「憎しみを捨てる」という選択であり、「復讐の無益さ」をいかに心底から自覚するかという課題です。

 

 憎しみを捨てた時、全ての根源となる、大きな感情が見えてきます。

 それは「愛への願い」の感情です。幼少期において、「自分」と「他人」との区別さえない心の状態において、いわば「魂」が抱いた、「愛への願い」の感情です。

 心を病むメカニズムの全ての根底に、この「魂が抱いた愛への願いの感情」が置き去りにされています。

 

愛と憎しみの輪廻

 

 心を病むメカニズムは、「幼少期」において根源的自己否定感情が生まれる中で、愛への願いの感情が葬り去られ、根源的な憎しみの感情が抱かれることをもって、始まると言えます。

 「学童期」において「他人と自分」という区別が始まり、「善と悪」という観念が生まれる中で、まさにそうした幼少期の根源的感情を否定し、それがないものであるかのような自分が、「なるべき自分」になるというのが、基本的な仕組みになります。

 つまり、幼少期の「魂」が深く挫折した上で、「学童期」に始まった「心」が、自らの「魂」を否定し去る自己像を描き、幼少期から、蓄積した恐怖のストレスをバネにして、自らの魂を否定した自己理想像の実現へと駆り立てられるという構図になります。

 これが心を病むメカニズムの基本的構造です。学童期に始まる「ストレスの中の生」は、それ自身が不合理に満ち、より合理的なものへの転換が望まれる一方で、その底には、深く挫折した魂の感情が眠っています。そしてこの人はまさにストレスの中で、そこから遠ざかろうとしていたわけです。ここに、心を病む過程が根本的に窮地の中にある難しさがあります。

 

 そして問題の根が深く、大きければ大きいほど、膨張した憎しみの底に、絶望的な愛への願いが横たわっていることになります。

 それは救いを求めます。それが何よりもこの人間が必要とする「傷ついた者への愛」でもあるでしょう。しかしまさにそこに、「宇宙の愛」を「真実」として差し替える、この病んだ心性の論理転換が差しはまれることになります。

 苦しみからの救いを求めます。そしてそれに応えようとする人間もいるかも知れません。しかしそれは「傷ついた者への愛」であって、この人を宇宙の中心にしてくれる愛ではありません。なぜならば、もう大人だからです。

 しかし病んだ心性は「それは嘘の愛だ」と囁きます。そしてこの人が本当に必要としている「愛」を、自ら破壊するように、仕向けるのです。これはまさに人間の心の悲劇と言えるでしょう。

 

魂が抱いた「愛への願い」への回帰

 

 病んだ心から健康な心への回帰の道は、こうした心の状況の全体に対する、深い理解によって始まります。

 それは決して、失われた幼少期の「愛」をいたずらに満たそうとする、過去への回帰の試みではありません。世の中には「育て直し療法」などという考えもあるようですが、ハイブリッド心理学の考えは大分違うものです。

 なぜなら、現に私たちは大人として存在しているということにおいて、前を向くことの中に、全ての応えがあると考えているからです。現に私たちの心は、「愛」だけではなく「自尊心」というもう一つの大きな課題を課せられています。それに目をそらすことなく向かうことの中に、「愛を支え得る自尊心」という一つの応えが見えてくるでしょう。

 

 私は、こうしたことを説明した長いメールの終わりに、その女性にこのように告げました。それが「病んだ心から健康な道」への、明瞭な方向性を持つ長い道への歩みの始まりを告げるものとしてです。

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 これからも僕にできる手助けを続けますが、もう貴女自身の選択が見えてくる時です。

 つまり、これからの人生を、この「自己操縦心性の嘘」と手を組んだまま生きていくのか、それとも現実を受け入れて生きていくのか、です。

 はっきりいいます。空想通りになれることを世界に要求して生きるのか、不完全な人間としてこれから地道に成長して生きていくのかの選択です。

 

 もうイメージ通りに貴女を運んでくれる愛は、どこにもないのです。

 まず自分自身への、傷つくものへの愛を受け入れ、自分をいやすことからです。

 そして自分に向けられる、傷つくものへの愛を、有限なものとして受け入れていくことです。

 

 そして自分の足で、傷ついた今の状態から、歩いていくことです。

 その方法がちゃんとあります。それで幸せになっている人が沢山います。僕もそうです。歩き方を教えていきます。

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 この女性は、大きな涙の中で私の言葉を受け入れたことを伝えてきました。そこから、この女性の治癒と成長への長い道が始まりました。

 その先にある、人間の心の根底からの治癒と成長とはどんなものなのか。

 この本の全体を通して、それを説明したいと思います。ここでは、その最も根底の核となる、人間の心に起きるある変化について触れておきましょう。

 それは魂が抱いた「愛への願い」への回帰です。その中に、「心の浄化」という、心が病むメカニズムの中で進行する「情動の荒廃化」という厄介な歯車を逆に戻す変化があるということです。

 

 その時、「自意識」によって何重にも錯綜した心のメカニズムの全てがはじけ飛び、この人間の本性とも言うべきものが開放されます。

 それは人生をかけた取り組みとして成されなければなりません。なぜならば、そこから目をそらすことの中に、今までの人生があったからです。自己の本性へと回帰するという取り組みは、別の人間になろうとした中で得たものを、全て失うという代償を意味するかも知れません。それは時に、命をかけた取り組みになるかも知れません。

 それが、ハイブリッド心理学が成そうとしている全ての取り組みの、ごく抽象的な表現になります。

 第1部ではさらに、「自尊心」についての基本的な説明をした上で、病んだ心から健康な心へのこの取り組みの基本的な方向性を説明し、第2部でのより具体的な実践の説明へと続けたいと思います。

 

 ここでは、そうしたハイブリッド心理学の取り組みによって成そうとしている、心の根底からの変化を象徴するような、ある事例を紹介してこの章を終えたいと思います。

 それは心の障害の治癒事例ではなく、世界の犯罪史に残る、マリー・ヒリーという殺人逃亡犯の生涯の物語です。幼少期に愛を得られないことによる、心の荒廃、そしてそこから清い心への回帰という、人間の心の変化を象徴したものになるでしょう。

 それと同じものが、ハイブリッド心理学が考える「病んだ心から健康な心への道」の中核にも、考えることができるということになります。この後の幾つかの場所で、その考察を行います。

 

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不幸な未亡美人の素顔

 

 物語は、1951年、アメリカのアラバマ州アニストンで、ごく幸せそうな若いカップルが結婚したことから始まった。

 

 夫はフランク・ヒリー21歳。その妻マリー18歳。2人は幼なじみで、マリーは学生時代には学校一の美人にも選ばれたほど美しい女性で、やがて2人の子供にも恵まれ、誰の目にも、互いに愛し合う幸せな夫婦に見える生活を送っていた。

 夫フランクは「君ほど美しい女性を妻にできた僕は本当に幸せだ」といい、妻マリーは「私だってあなたのような本当にやさしい人と結婚できて幸せ」と。

 フランクがヒリーに良くいう口癖は、「いつまでも美しい妻でいて欲しい」だった。

 

 異変は結婚から20年も過ぎた1975年に始まった。夫フランクが頻繁に体調不良と吐き気を訴えるようになり、医者に「伝染性の肝炎」と診断されるも、感染ルートは分からないまま、なんと入院から一週間後に急死してしまう。

 やがて最愛の夫を失ったこの美しい未亡人を、信じられない不幸が次々と襲うようになる。1年後、庭先で不審火による火事が発生。放火を予告する電話が度重なった挙句のことで、これが何度か重なる。ヒリーは警察の事情聴取で、電話の声に思いあたるものも、また人に恨まれる覚えもないと語った。幸い警察が電話に逆探知機をつけると、それらしき電話もぴたりと止んだ。

 間もなく、自宅に空き巣が入り、宝飾品を盗まれる。治安は本来良い街であり、一家に何かが起こり始めていることが、誰の目にも明らかだった。

 

 マリーを襲う不幸は怒涛の様相を示すようになった。1977年、マリーにとって最大の理解者である最愛の母ルシルが癌のため他界。次に、娘キャロルの体にも異変が起こる。それは体調不良と吐き気で、他界した夫の症状に酷似したものだった。

 挙句の果てには、キャロルのために家具を買った際の小切手が不渡りとなり、警察に逮捕される。担当判事としても、「一家の大黒柱を失った経済的打撃の先で気の毒だったが、法律は法律で仕方がなかった」と語った。

 

 しかしこれらの不幸には全て裏があった。夫や母の死、そして宝飾品盗難、実はこれら全てが、保険金という報酬をマリーに与えていたのだ!

 全ての不幸が実はマリー自身によって作り上げられたものであることが明るみになったのは、彼女の拘留中、入院していた娘キャロルが医師に、「いつも母がしてくれる注射はしなくても良いの?」と尋ねたのがきっかけだった。「そんなものは指示していない。何のことだ!」「だって良く効くんでしょう?」と。

 医師の通報によって家宅捜査をした警察は、ヒ素を成分とした農薬のビンを発見。キャロルの体内からもヒ素が検出された。

 警察の尋問を前に、ついにこの女の魔性がその姿を現す。うすら笑いするマリーの口から出た言葉は、「だって、あの子の我侭にはホントうんざりだったもの」であった。

 

 この事態を受け、夫フランクの死因の再調査のため墓が掘り返された。驚いたことに、フランクの死体はほとんど腐敗していなかった。真の死因は一目瞭然であった。ヒ素には強力な防腐作用があるのである。同様にして母親ルシルの遺体からもヒ素が検出された。

 

II 生い立ち

 

 マリーが生まれたのは1933年、世界大恐慌の真っ只中であった。共働きで家に不在がちだった両親は、娘に物を買い与えることでその埋め合わせをしようとしたが、幼いマリーはそれに対して素直ではなかったようだ。「そんなものいらない!」と。両親はさらに高価なものを買い与えることで、なんとか娘をなだめた。「彼女が本当に欲しかったのは両親の愛情だったのかも知れません」と担当判事は語っている。

 

 やがて成長したマリーは、町一番の美人になると同時に、その我侭さもエスカレートして行き、金使いの荒い性格になっていったようだ。結婚後もマリーは夫の収入のほとんどを自分自身のための買い物で使い果たし、「いつまでも美しい妻でと言ったのは貴方じゃない!」と言い訳した。度重なる彼女の浪費にさすがに夫が咎めると、今度は自分宛の偽のラブレターを作り、それを夫に見せびらかし離婚を匂わせ、美人妻を持つことに虚栄心を抱いていた夫を折れさせることに成功したのである。

 

 やがて彼女の浪費は、夫に隠す多額の借金を抱えるまでに膨れ上がった。督促が増えるようになり、自分で返すことなどできる由もなく、夫に打ち明けることもできない。窮地に至った彼女が思いついたのが、夫の殺害だったというわけである。彼女はそれにより実際多額の保険金を手にし、再びそれを浪費に当て、金が底をつくと放火や盗難を装った保険金を手にするという行為を繰り返すに至った次第である。元は他人の夫だけならず、実の母や娘にまで毒牙にかけるその精神は、容易には想像できないものがある。

 

III 放浪

 

 こうして逮捕に至ったわけだが、彼女の話がアンビリバボーなのは、これで彼女の事件が一段落したのではなく、実は幕開けとも言える事態になったことである。

 

 というのも、夫と母の遺体からヒ素は検出されたものの、それが直接の死因であったことが断定されなかったからである。母の直接の死因はやはり癌と断定された。結果、彼女の嫌疑は娘への殺人未遂と保険金詐欺のみとなり、裁判の結果、1万4千ドルの保釈金にて釈放された。その後彼女は街から忽然と姿を消した。

 皮肉なことに、フランクの死因がヒ素であったことが最終的に断定されたのは、その後であった。FBIが彼女の捜索に乗り出すも、もはや居場所はつかめなかった。

 

 その数か月後、1000キロ以上離れたフロリダのとある酒場に、一人の美しい女性が現れ、カウンターで男性に優しそうな声で声を掛ける。「ハーイ?お名前は?わたしはリンジーよ」。

 マリー・ヒリーその人であった。偽名を使い、12歳もサバをよみ36歳と詐称していた。男はこの町の造船所で働くジョン・ホーマン。彼女は既に何人かの男を手玉に取り収入を得る生活を送っていたようであるが、子供の頃母親をなくし、身よりもなく孤独な人生を送っていた素朴な性格のジョンが、彼女の最も格好の餌食となったわけである。

 

 ジョンは美しく優しいリンジーことマリーに魅了され、2人は結婚する。彼女はリンジー・ホーマンという新しい名を手に入れる。

 ジョンは結婚後も彼女への優しさと誠実さを変えることはなかった。彼はこうも言った「君のように美しい人に話し掛けられるなんて、騙されているのかも知れないとも思った」。マリー、「あなたは十分魅力的よ」。全て彼女の想定内だった。

 

彼女の想定外だったことが2つある。一つはジョンの収入が期待以上に貧しかったことだ。彼女はそれに苛立ち、お決まりのようにジョンに多額の保険金を掛け、再び毒を盛る準備を始める。

 

 もう一つ、ジョンの誠実さが、彼女の想定を超えたものだった。ある日、「新しい洋服が欲しいわ..」と訴えるマリーに対して、ジョンは言った。「君も分かっているように、僕の収入は多くない。でも欲しいものがあれば好きなだけ買えばいい。ただ..これだけは憶えておいて欲しい。僕は君が美しいから好きなわけじゃない。君が何を着ていたって、僕の気持ちは永遠に変わらないよ。」

 

 その後台所には、眉をひそめ心底からの疑問を繰り返すマリーの姿があった。「美しいからじゃない・・?」 自分の美貌こそが男性を惹きつけると考えて人生を送っていた彼女にとって、それは人生で始めての言葉だった。過去の男は誰もが、「美しい君が好きだ」と言った。だがジョンは違った。着飾らない時も、病気になった時も、どんな時も、ジョンは彼女に優しく接した。マリーにとってジョンは、外見ではない本当の自分を愛してくれる、人生で始めての人物となったのである。

 

I 変化

 

 マリーの心に明らかに変化が起きたのは、彼女がまさにジョンに毒を盛った食事を与えることを決行しようとした時だった。かつての鉄面皮はなく、心の迷いを映すように、彼女はやや生気を失っていた。ジョンが変わることのない優しさで尋ねる。「元気がないね。体調でも悪いのかい。」答えない彼女を横目に、食事を口に運ぼうとした瞬間であった。

 「食べちゃ駄目!」 マリーは食事をテーブルから叩き落す。驚くジョンに、彼女は「今日はおいしく作れなかったの」と言い訳をした。

 

 この後彼女が取った行動は実に奇妙なものだった。心理学的に興味深いものであると同時に、彼女の心の中を想像することは深い感慨に余りあるものがある。

 

 通日後、マリーはジョンに「実は子供の頃から心臓に病があるの。でもいい病院が見つかったので明日から入院しようと思うの」と打ち明ける。驚くジョンを尻目に、翌日マリーは家を出る。数週間後、ジョンに「リンジーの家族の者」と名乗る女性の声で、リンジーが亡くなったと電話が入る。ジョンはただ呆然とするだけであった。

 

 容易に推測できるであろうが、「リンジーの家族」というのは嘘で、マリー本人である。心臓病ももちろん嘘だ。

 この行動は、マリーの中にジョンへの純粋な愛情が芽生えると同時に、大罪からの逃亡者である自分がジョンに相応しくないという罪悪感のために、自ら身を引いたものであろうと伝えられている。恐らくそれは間違いではないだろうし、マリーの中に生まれた、人生で初めての、人への本心からの愛は真実であったであろう。だが彼女は真実を彼に伝えるのではなく、架空を演じるという、それまでの人生の中で骨の髄にまで染み付いた業ともいえる性癖の中でしか表現できなかった。

そこに、真実とニセの混合物があったと言える。

 

 彼女の虚構の性癖は、事実、ジョンから身を引いたはずのマリーが再びジョンに近づく行動に現れた。彼女としては、ただジョンの傍で生きることが望みとなっていたのであろう。さらに深い真実とニセの混合物という様相だ。

 マリーが再びジョンの前に姿を現したのは、半年ほどたった時だった。今度は「テリー」という、「リンジーの双子の妹」と偽ってである。髪も金髪に染め、性格も別人を演じた。「一緒に姉の死を乗り越えましょう」と。ジョンはさすがに驚いたが、彼女を受け入れた。

 

愛を求めて

 

 運命の皮肉が再びマリーを翻弄したのは、テリーとしてのジョンとの生活が軌道に乗ろうとしていた時だった。実はこの運命のいたずらが、マリーに真に清らかな心を取り戻させた、この数奇なる人生を生み出した神の手の最後の仕業だったのかも知れない。

 マリーは突然、なんと全く無関係な麻薬密売の容疑で逮捕された。恐るべき偶然の一致で、同じく「テリー」と名乗り、マリーが詐称したのと同じ36歳、しかもブロンドの、FBIが追っていた麻薬密売人の女と見なされたのだ。

 

 マリー自身はこの時もちろん逃亡犯マリー・ヒリーとして捕まったのだと思い、心底から観念したようである。「もう観念するわ。正直云って、もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって..」と。混乱したのは刑事たちも同じだった。やがて彼女が指名手配犯マリー・ヒリーであることが判明し、彼女はようやく夫の殺害と娘の殺人未遂容疑で、19831月、彼女の故郷アニストンで裁判にかけられ、終身刑が言い渡される。法廷に向かうマリーの表情が映像に残されているが、うつむきがちな中で時折何かを真っ直ぐ見つめる、単なる囚人とは異なる表情を感じさせる。

 

 全ての真実を知ったジョンは、それでもマリーへの愛を貫いた。弁護費用も含め、彼女を支えるために全財産を投げ打ち、何度も面会に通った。「最初から似ているとは思ったけど、まさか本当にリンジーだったなんて..早く言ってくれれば良かったのに..。」 それを聞いたマリーは、ただ泣くだけであった。

 

 彼女はその後刑務所でとても真面目に暮らした。担当判事、「模範囚として出所し、ジョンと暮らすことを夢見ていたのかも知れません。」

 1986