11章 「自尊心」の混乱と喪失 −なぜ自信が定着しないのか−

 

*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*

 

「愛」と「自尊心」が織りなす心の罠

 

 幼少期における「愛への挫折」が、全ての問題の始まりであることを説明しました。

 では「愛の回復」が解決への答えなのかと言うと、もうそうではありません。

 

 人は心を病む過程にある時、「愛されることが必要だ」と考えます。そして自分を愛してくれる人を探し求めようとします。しかしそれによって心の問題が解決することはありません。

 「愛されることが必要だ」と考えた時、人は「愛」を見失います。そして同時に、「自尊心」を見失います。

 

 なぜこんなことになってしまうのか。真の答えはどこにあるのか。

 ハイブリッド心理学が見出した答えをお伝えしたいと思います。

 

「自意識の誕生」という節目

 

 前章で説明したように、人間の心における「愛」の成り立ちの中で起きた最大の節目は、「幼少期」から「学童期」へと移り変わる際の「自意識」の誕生にあります。

 それまで、「自尊心」は「愛されること」とほぼ同じことでした。「自分」と「他人」という区別がまだない混沌とした意識の中で、愛されることは、自分がこの世に生まれた「生」において祝福される存在であり、ありのままの自分で生きていくことを許された存在だという、自分自身への素朴な信頼感と自信感を意味しました。

 人間の心の成長においては、それが3、4歳ころの「自分」という明瞭な意識の誕生によって、大きくさま変わりしてきます。幼い心においてはまだしばらくは、人にどう愛されるかが、自分に自信を持てるために重要なものであり続けるでしょう。しかしそれとは別に、自分で自分をどう尊重でき尊敬できるかという、真の意味での「自尊心」という特別な感情を築き上げることが、心の成長の課題として大きく現れてくるのです。

 

 「自尊心」が心の成長の課題であるとは、それが心の幸福にとって決定的に重要であるということです。

 これは単純な話です。自尊心を持ち、自分を肯定的に感じると、湧き出る感情はおおよそ良いものになります。逆に、自分を否定的に感じると、悪い感情が多く湧き出てきます。

 自尊心があるとは、心が安全な状態だということであり、「喜び」「楽しみ」といった幸福につながる自発的な感情が多く湧き出てきます。自尊心が損なわれていた時、心は安全ではなく危険に満ち、「恐れ」や「怒り」といった心身に悪影響のある感情が多く湧き出てきます。これは不幸なことです。

 

心を病むメカニズムによる「自尊心」の妨げ

 

 心を病むメカニズムの中で、自尊心は2重に損なわれてしまいます。否、実は「2重」ではなく「3重」です。

 「3重目」がやや難しい話になり、思春期において心の障害が表面化した時に大きな問題になってきます。一般的な心の問題としては、まずは2重に損なわれる姿をしっかりと理解することが大切です。真の自尊心の回復という、大きな課題のために。

 

 「幼少期」においては、「根源的自己否定感情」によって、自尊心の根源的な損ないが起きています。

 しかしこのあまりに早期の意識は、これをはっきりと自尊心の損ないとしては意識体験していません。それは「自分は拒絶された存在だ」という、論理性のない自己否定感情になります。

 「学童期」になると、「善悪」の観念によって、そうした「論理性のない自己否定感情」への解釈づけが子供の心においてなされることになります。いわば、後づけで「自分が駄目な理由」をつけくわえるのです。人に言われた通りにしきゃいけないんだ。おとなしくしなきゃいけないんだ。勉強ができないといけないんだ。いつも明るく機嫌良くしていなきゃいけないんだ。

 そのように解釈づけされた自己否定感情の中で、「なりたい自分」を描きもします。その一面は子供心におけるごく自然な願望である部分もあるでしょう。しかし一面は根源的自己否定感情から目をそらして、意識がそこに触れまいとするストレスの中で掲げられる、「なるべき自分」と化します。

 

 しかし「なるべき自分」がそのように、根源的な自分の感情を否定した上にあることにおいて、「なるべき自分」に対して「現実の自分」は、なるべきものを損なった姿にならざるを得ません。なぜなら、その最初において、根本的にありのままの自分を否定することで描いた、理想像なのですから。

 これは一種のパラドックスと言えます。最初から、自分を否定するためにある自己理想像のようなものです。満たされることは、「構造的に」あり得ません。ただ一つ、「空想」の中を除いては。

 必然的に、「現実の自分」に対しては「自己処罰感情」が頻繁に向けられることになります。これは「自分は駄目だ」という、前向きの要素をほとんど持たない感情であり、当然、自尊心を損ないます。

 この事態は、生まれ持った美貌や才能などにはお構いなしに起きるものになります。病んだ心が関与した「自己理想像」である部分において、そうなるということです。

 

 心の問題が深刻である場合、自己処罰感情からの逃避が、問題を錯綜させていきます。自己処罰感情は苦しいので、自己理想像を取り下げようとする心の動きが起きるのです。「そんなもの自分は別に」という観念の中で。

 それはごく一瞬だけ気分を楽にします。しかし事態はさらに悪化します。自尊心がさらに損なわれる一方で、自己理想があまり意識されないまま、自己処罰感情だけは残り続けるという、とんでもないメカニズムが存在するからです。

 そうしてさらに続く自己処罰感情から逃れようとすると、人は次々と自己理想を変えては消し変えては消すことを繰り返し、もはや手も足も出ない状態になります。心の障害はおよそそのようにして袋小路に陥った心がバランスを崩すものとして表面化すると言えます。

 

 心の障害が表面化してくると、そうして「バランスを損なった心」という状態そのものが、強い自己否定感情の対象になってきます。これは根源的自己否定感情と結びつき、はっきりした論理性がない、漠然とした、しかし極めて強烈な自己否定感情になってきます。

 これが自尊心の損ないの「3重目」になります。

 そしてさらに、そこから目をそらし逃れようとする心の動きが起きることになります。この後は、ここまでの過程の繰り返し膨張です。

 

 心が病むメカニズムの中で自尊心が損なわれる過程を、極めて簡潔に説明しました。

 実際にはそれらの心理メカニズム過程は、全体としては極めて複雑で錯綜したものになります。しかしそれを構成する基本的な歯車は、やはり「愛」「自尊心」という、人間にとって最も基本的な2つの感情によって構成されています。

 そのちょっとした変形と組み合わせが、人の人生を狂わせるような姿になってしまう。

 

 そんな結果をもたらす「愛」「自尊心」について、人間の心におけるその基本的なメカニズムを見てみましょう。克服への視点も、そこから始まります。

 

「愛」の基本構造

 

 「愛」はまず、「愛を願う感情」から始まります。「愛への望み」と言ってもいいでしょう。

 まず「愛を願う感情」があり、それを表現するわけです。一緒にいようよ。一緒にあそぼうよ。君が好きだよ。

 そしてそれを受けた相手にも「愛を願う感情」があると、「感情の共鳴」が起きるわけです。楽しみは倍になり、悲しみへの癒しも倍になります。そうした「感情の共鳴」そのものへの喜びが湧きます。こうした心の共鳴とそれが生む喜びが、「愛」そのものだと言えるでしょう。

 これは出生の命を受けたばかりの乳幼児においても、同じと思われます。もちろん最初はまだ「愛」ともつかない、生理的な快を求める衝動であるかも知れません。それが次第に、生理的な快だけではなく、明瞭に、親と一緒にいたい、親と一緒に遊びたいという感情を表すようになります。

 事実、幼い子供の姿形そのものの全体が、大人の側から「可愛い」という感情を引き出すシグナルです。それが全ての動物のDNAに仕組まれた、愛の戦略だとも言えるでしょう。そしてそれに刺激されて親から子供への愛が発現するのが、ごく自然な姿であったわけです。

 そうして子供と親の「愛を願う感情」が共鳴することで、親子の間での愛がハーモニーをかなでます。

 

 一方、親から子供への健康な愛情が損なわれた環境が、心の問題の始までした。

 子供の心には「根源的自己否定感情」が生まれ、心が病むメカニズムの引き金が引かれます。「自分は生において拒絶された存在だ」という根深い感情です。これが子供の心の奥深くにとり残され、この時点で、その後の「自尊心」を大きく損なう要素が生まれたことになります。

 

 そしてこの後に人の心に生まれる心理状態として、前章で2つを説明しました。

 一つは「愛情要求」の感情です。自分は愛されなかった。愛が満たされていない寂しさと空虚感がある。これを埋めてくれる愛が欲しい。

 もう一つが「怒り」であり「憎しみ」でした。これはより深刻な状況で強まってきます。愛されるべきであった自分がそうでなかった。あるべきでなかった人間達。あるべきでなかった人生。そしてあるべきでなかった自分。それは時に、明瞭な対象を持たない、漠然とした「全てのもの」への憎しみでもあり得ます。

 

 この時、最初の「愛を願う感情」はもはや停止され見えなくなっています。

 つまり、最初の1)「純真な」愛への望みの感情が押し殺され、その後に、2)「寂しさ空虚感を埋めるもの」としての「愛」を渇望する感情と、3)「自分を愛さなかった全てのもの」への怒り憎しみという2つの感情が出現したことになります。

 これは、最初に「望みの感情」があり、次に望みが妨げられることによって、「望みの損失の穴埋め見返し衝動」が起きるという構図になります。

 これは人間の「望みの感情」の一般的なメカニズムとしてぜひ理解して下さい。重要なのは、「穴埋め見返し衝動」とは結局のところ、本当に望んだものの代用品で自分を満足させようとする一種の「自分への嘘」であり、いつまでそれを追っても根本的に満たされることはないということです。

 

「愛への望み」とは別の感情である「愛情要求」

 

 特に、人は「愛情要求」の感情の中で、自分が求めているのは「愛」だと単純に考えがちです。

 それは事実ではありません。そこには多くの、「愛」以外のものへの要求が混ざりこんでいます。それは損なわれた自尊心を埋めることへの要求であり、損なわれた心の安全の結果生まれる不安の麻酔への要求です。

 そして大元の「愛への望み」の感情と「愛情要求」が全く違う感情である最大の特徴は、後者が、「愛が満たされた姿」という「結果」のイメージが先にあり、それをまるで自分の外にある宝物ででもあるかのように欲しがる、という衝動の形になってくることです。

 ここにおいて、「愛」はもはやハーモニーではなくなってきます。つまり共鳴ではなく、一方的に「与えられるもの」と化すわけです。私たち人間はそれについても「愛」という言葉を使ってはいますが、心理学的には、もはや全く別の感情になってきます。

 

 真の愛はハーモニーとして生まれますから、その中で「自分」が意識されることはありません。意識されることなく解き放たれた感情が共鳴するのが、「愛」です。ですから真の愛は本質的に、「イメージ」として「これが愛だ」と示すことに中には、ありません。

 「これが愛だ」とイメージを描き、それと自分を比較するのは、「愛」ではなくむしろ「自尊心」の感情になってきます。

 

 だから、「愛情要求」がいくら満たされたかに見える状況でも、愛が満たされることがないのです。

 これはしばしば、実際に「愛に飢えた」人が、実際に「愛された」としても寂しさや空虚感が消えないことに疑問を感じることでもあります。時に、「愛された」時、一番寂しさを感じるという心理状態もあります。

 実際、愛されることで心の問題が解決するのであれば、話は実に簡単です。でも現実はそうではありません。だから、「いくら体の関係を重ねても寂しさが消えない」という歌の文句が良く出てくるわけです。

 また、愛されなかったことへの怒り憎しみをいくら晴らそうとしても、愛が満たされることはありません。これは直感的にも分かると思います。

 

 ですから、「愛情要求」が満たされる、つまり一方的に「愛を与えられる」と、愛が満たされるというよりも、自尊心の方が多少上昇してくるというメカニズムになるわけです。そして不安も多少消えます。相手に嫌われ攻撃されることへの恐怖が柔らぐからです。

 自尊心が荒廃化した攻撃性を帯びてくると、これが自分に「愛」を与えた相手を見下す気分の中で起きるようになってきます。そこでは「愛されれば勝ち」です。逆に「愛するのは負け」です。恐怖に怯えて愛を物乞いする、弱い人間の姿を晒してしまうからです。

 自分が愛したのに相手から愛されないことは、「屈辱」になってきます。そして「愛」が「憎しみ」に変わります。そこには、自尊心が傷つけられたことへの怒りと、幼少期に置き去りにされた根源的な憎しみの感情が混ざり合っています。

 

「愛への望み」へ還る

 

 人間の心には、そのような「荒廃化」とは逆の、「浄化」へのメカニズムもそなわっています。

 それは、愛されなかった怒りと憎しみを捨て、そして愛によって補おうとしたまやかしの自尊心も捨て、大元の「愛を願う感情」へと、還ることです。

 

 これはもちろん、乳幼児の真似をするなどということではありません。

 世の中には、「育て直し療法」などという心理療法もあるそうです。赤ちゃんの姿に戻って、思いっきり親に甘える感情を満たすことから、心の成長をやり直しましょうというものらしい。

 これはもう、「イメージ」に自分をあてはまるという硬直した姿勢の、もはや末期症状とも言えるものです。そんなことしても「愛される自信」がつくわけなどありません。さらに大人としての自尊心さえ反故にしてしまいます。

 

 そうではなく、大人としての今の自分に立った、ありのままの心で、愛を願う感情に立ち還ることです

 これは容易には成されることではありません。まず、愛に依存することのない自尊心、そして愛に依存することのない心の安全を得る方向性が必要になります。逆にそれを求めるのが、今説明したような荒廃化した「愛情要求」の姿だからです。

 また、怒りを強さだと勘違いする思考を捨て、人間の不完全性と自己の弱さを受け入れる、「真の強さ」を目指す姿勢が必要です。怒りを「強さ」だと勘違いする中で、人は愛を願う感情を「弱さ」だと感じて否定せざるを得なくなるからです。

 そして「自己の真実」に忠実になろうとする、強靭な姿勢が必要です。「愛情要求」は自分が大元で望んだものとは違う代用品を求める、自分自身への嘘だからです。

 それらが成された時、人の心に劇的な変化が起きます。

 

 さらに、これは代償を伴います。自分に嘘をついて得ていたものを全て失う可能性と、さらに、大元で「愛への望み」を否定させた、根源的な自己否定感情と恐怖に、再び対面するという代償です。

 これを除いたところで「愛を願う感情」をイメージして感じようとしても、安直にイメージを自分にあてはまるという、同じことの繰り返しに過ぎません。ここで話しているのは、そんな安易な話ではなく、人が命をかけて愛に向かうような感情へと変化する過程のことを話しています。

 

 それは時に人を「死」に向き合わせるほどのことでさえあり得ます。前章で紹介したマリー・ヒリーの事例がそれを端的に示すものでした。

 彼女にとって、「愛」とは、自らの美貌によって男を手玉に取ることでした。しかし、人生で初めて、外見ではないありのままの自分に向けられる愛に出会うことで、彼女の心の中に、純粋に愛を願う感情が蘇ったのです。

 しかしその時、人は、来歴の中で「愛への願い」を葬り去ることを余儀なくされた、大元の絶望へと再び対面することになります。そして浄化された心によって、荒廃化していた自分の姿を見るという、大きな節目が訪れます。

 マリー・ヒリーの事例は、そこで「死」を選ばざるを得なかった例だと言えます。そして彼女はただ愛を願う感情の中で、自分が生まれ育った地へと帰り、愛を願う感情の中で、自らの命を終えたのでした。

 

 これと全く同じ構図の現象が、ハイブリッド心理学が考える「病んだ心から健康な心への道」の最大の節目として存在します。それが「自己操縦心性の崩壊」と呼ぶ、病んだ心が根底から崩れ去る、根本的な治癒の現象です。

 もちろんそれが「死」に向き合わせるほどの重みを帯びるのは、幼少期に置き去りにされた根源的自己否定感情が深刻であった場合だけです。それでも、そうした重みの程度の違いはあれども、人間の心が根底から変化するという現象の、一貫した同じメカニズムが、そこにあります。私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』も、そうした内面過程を最も精緻に描写したものの一つです。

 

 こうした「心の浄化」は、意識努力によって引き出すものでは、もはやありません。心の「浄化」への原動力は、人工的に作り出すことはできず、心の自然治癒力と自然成長力に依存します。

 私たちが意識的に目指すことができるのは、何よりもまず、愛に依存することのない自尊心です。それが私たちに根源的自己否定感情を乗り越えるための強さを与えます。その強さによって、心の変化は意識努力を超えて現れます。

 

「自尊心」の構造

 

 「自尊心」の構造に視点を移しましょう。

 人間の心に「自意識」というものが誕生した時、「心の構造」に大きな変化が生まれました。自分で自分を尊敬し尊重できるという「自尊心」が、心の健康と幸福のための重要な要素になってきます。また「なりたい自分」という「自己理想像」を描いて、その実現へと向かって努力することが、人生における大きな活動になってくるわけです。

 問題は、人が「自尊心の高まり」を感じるための材料というものが実に多種多様であり、しかも錯綜していることにあります。そしてその多くは、錯覚です。つまり自尊心が一瞬高まった気がするだけで、長続きせず、さらに実は長い目では自尊心が低下するような方向を向いていたりするものが、実に沢山あります。

 

 まず健康で自然な心の成長において、とは言っても現代社会においては、これはむしろ稀になってくるかも知れません。心の成長への良い条件が揃った環境において、人間の心のDNAに設計された通りの健康な心の成長が成される場合を、まず考えてみましょう。

 そこでは自尊心は明らかに、大きく2つの源泉から成るように思われます。

 一つは「愛」です。愛する自信と愛される自信であり、自分が自然に振舞うことで、自然に人を好きになり人からも好かれることができるという、安定した感覚です。

 もう一つは「優越」です。何らかの形で「優れた存在」として、自分が生きる社会の中で、自分の居場所と地位を獲得することです。

 

 健康な自尊心において重要なのは、それが「人生における望み」への努力を通して、自然に培われるものだということです。

 つまり、「自尊心が心の健康と幸福に重要」だというのは、心理学的な事実を言っていることであって、実際にそうなる人本人の意識のことではありません。自尊心が大切だからと言って、「自尊心」を「意識」して目指すということをすると、これはもう健康な自尊心の成長とは別ものになってしまいます。この点、私たちは「心理学かぶれ」にならないよう注意するのがいいことです。

 本人の意識においては、健康な自尊心の成長とは、あくまで「人生における望み」を持ち、それに向かって全ての努力と全ての可能性を尽くすというのが、実際の意識内容です。

 そうした「人生における望み」への歩みの結果、自尊心は自ら意識することなく、自然に培われています。

 自尊心の本質的な要因は、本人はあまり明瞭には意識していないことになります。これが健康で自然な姿です。

 それを心理学的に考察するならば、まず言えるのは、「人生への能力」がついたという総合的な自信感が、恐らくは自尊心の源泉ということになるでしょう。より本質的な内容について、ハイブリッド心理学の考え方を後で説明します。

 

「イメージ」の役割

 

 健康な自尊心の成長についてもう一つ補足しておきます。

 その原動力となる「望みの感情」は、本来、自意識を伴いません。つまり、イメージをあまり明瞭に持たない衝動として、それはまず始まります。それはさまざまな活動へのわくわくした楽しみであったり、成績を上げたりや競争で勝つことへの情熱であったり、好きな人に近づくことへの憧れであったりするでしょう。それらは心を解き放ってほとばしる、人間の濃い感情です。

 そうした「望み」の直接的な感情表現や行動が妨げられ、「望みに向かう歩み」が一時停止した状態になるにつれて、「イメージ」が人間の心に現れてきます。つまり「イメージ」とは「望み」と「現実」のギャップが生み出した、中間生成物だと言えます。

 すると今後はその「イメージ」を手がかりにして向かうという、人間ならではの高度な脳による行動方法が生まれてくるわけです。スポーツはこれが最も役立つ活動領域です。うまい選手の動きを研究し、うまく行くためのイメージを描き、それに自分を合わせる。

 スポーツでは、そのようにイメージに自分を合わせる方法を「イメージ・トレーニング」と言います。「自意識」とは言いません。

 

 ところが、「人生」という「領域」になってくると、話が違ってきます。自分がどんな人間であり、どんな「愛」と「優越」を獲得し得る人間なのか。

 これをイメージすることは「自意識」になってきます。つまりそれは「望みを達成し終えた自分の姿」を描くものではあるのですが、できるのはそこから今の現実を比較するだけです。そして比較したところでそれに近づくというものではありません。

 人生における成長は、自意識のない「望み」の感情を解き放ち、あくまで「今」をベースにした上で、時にはイメージを手がかりにはするでしょうが、一歩一歩前進することの積み重ねにあります。

 ところが現代人はこれを良しとせず、まず「あるべき姿」というイメージを先に掲げ、それに自分を合わせるという、「自意識」を主体にした人生へと向かうようになったわけです。

 これはもう健康な自尊心の成長とは違うものになってきます。

 

「皮相化した自尊心」の逆説

 

 「望みの感情」から始めるのではなく、「こんな自分」という姿だけ先に掲げて、現在を比較する。人間はこの形でも「自尊心」を感じる心の仕組みを持っています。しかもこっちの方が、人は「自尊心」というものをより強く意識して感じます。それはまさに自尊心を感じようとしてそうしているのでしょうから、それが自然だとも言えます。

 ところがそうして自尊心を強く意識した心理状態というのは、実は自尊心が低い状態を示すという、逆説のような状況があります。

 自尊心が低いから、自尊心を感じようとします。自尊心が高いと、自尊心を感じなくても心が安定しています。

 

 これは「自信」というものの本来の意味を考えると理解できるのではないかと思います。

 「自信」とは、「自分を信頼できること」を言います。「信頼できる」とは「信じて頼める」ということです。つまり、どうしようかと意識することなく、つまり自意識など感じることなく、自分の心から湧き出る感情や思考に任せて安心できるような、内面外面における成長の獲得が、「自信」です。

 こうした「自信」は、やはりありのままに「望み」を解き放った上で、現実にぶつかっていく体験を通して生まれる、「内面の熟成」によってしか得ることはできません。

 自分をことさら意識して高い自意識を感じることは、実は「自信」ではありません。こうした「高い自己評価」は「プライド」と呼ばれます。これは「自信」とは別の感情です。

 

 「望み」の感情を伴うことなく、「なるべき自分」を掲げて現在の自分を比較するという「心の使い方」をした時、人は自尊心を強く意識する一方で、実は自尊心を自ら低下させていく坂道を下り始めます。

 それは大きく2つの要因によってです。

 一つは、「望み」の感情を伴わないので、目標に向かう歩みそのものに「楽しさ」が伴わず、推進力が弱くなるということです。事実、「なるべき自分」が「根源的自己否定感情」から逃れるために掲げられたものである時、それはもう楽しいどころかストレスを感じることです。その結果、「なるべき自分」そのものから逃げたくなるという別の方向への心の分子が生まれてきます。自ずと、さまざまな面でジリ貧の状況に向かいます。

 そしてもう一つは、「望み」の感情を否定したことにおいて、まさにすでに自己否定をしていることです。

 

 そうして、根底においては自尊心を自ら低めるような方向に向かいながら、心の表面では自尊心を高めようと躍起になる心理状態が生まれます。

 こうした「自尊心」は、どうしても「外から見た姿」の「見栄え」ばかりが中心になり、内実のあまり伴わない、薄っぺらなものにならざるを得ません。これを「自尊心の皮相化」と言います。

 厄介なのは、こうした皮相化した自尊心を高めることが、この人の「望み」と化してしまうことです。人生における深い望みの感情を失ったまま、何となく自尊心を高められるようなものへと駆り立てられる。つまり「望みの皮相化」も起きるわけです。

 実はこれが、現代人の基本的な姿だとさえ言えるかも知れませんね。

 

皮相化荒廃化した自尊心の3種類

 

 「望みへの歩みによる内面熟成」を伴わない、薄っぺらな自尊心。これが「学童期」の段階で人の心に生まれる形として、主に3つのものがあります。

 「愛され自尊心」。人に愛されたり、誉められたり、必要とされたりすることに、自尊心を感じます。

 「優越自尊心」。人に勝ち相手を打ち負かせることに、自尊心を感じます。これはいわゆる「優越感」と同じです。

 「否定できる自尊心」。ものごとを否定的に見て「それは駄目だ」と言えることに自尊心を感じます。相手を否定することで、自分が高い理想の持ち主であることに自尊心を感じるという心の動きになるでしょう。

 こうした自尊心の感覚そのものは、もちろん、病んだ心の状態を必ずしも示すものではありません。特に、人に愛されることや競争で勝つことで自尊心を感じるのは、ごく自然なことです。

 問題は、心が病む過程が含まれる範囲と強さに応じて、そうした自尊心の皮相化の度合いが高まること、そしてもう一つ、心が病む過程が生み出すもう一つの歪みとして、「荒廃化」が加わり、すさんだ感情の色合いを帯びてくることです。

 

 「愛され自尊心」は、心に蓄積した根源的自己否定感情や恐怖の膿から逃れるための、救いのようなものとして、まるで物乞いするような感情の中で、求められるものになってきます。

 「優越自尊心」は、破壊的な攻撃感情を帯びてきます。自分が向上する喜びではなく、相手を打ち負かし屈辱を味あわせることの快感という色合いになってきます。

 「否定できる自尊心」は、攻撃的なアラ探しの色合いを帯びてきます。

 そしてこの表現が示すように、これらが相互に衝突し、足を引っ張り合うような様相になってきます。「愛され自尊心」を物乞いする卑屈さが、他の自尊心からは許せないものになります。「優越自尊心」に含まれる残忍な攻撃性が、他の自尊心から非難されます。

 「否定できる自尊心」は比較的「無傷」です。「愛され自尊心」からは多少邪魔になる程度になるでしょう。そしてこの「否定できる自尊心」が、この後の思春期における自尊心の最大基盤と言えるものになることで、この後の悲劇的な流れが生まれることになります。

 

 本人の意識において、実はこれはもう収拾がつなかい錯綜状態にあります。それでも学童期までは自尊心および愛への欲求の切迫度がまだそれほど大きくないため、心に矛盾を抱えたまま何とか過ごすわけです。

 「思春期」になり、自尊心および愛への欲求の切迫度が高まるにつれて、自尊心が病んだものであるのが明瞭になる、新たな段階になります。

 

「正しい」自尊心への方向転換

 

 思春期において病んだ心のメカニズムが本格的に発動する段階を説明する前に、より「正しい」自尊心を目指すための方向転換について簡潔に説明しておきます。

 ここで「正しい」と言うのは、医学的に言う「正しい」と同じことです。自尊心を高めるために合理的な方法ということであり、正しく行えば必ず向上する方法ということです。その点、今まで述べたような自尊心は、「誤った」自尊心です。それは自尊心を高めようととして、逆に低下するという逆効果のものだということになります。

 

 そんな意味で「正しい」自尊心を、3種類それぞれについて言うことができます。詳しい実践は第2部で説明しますが、ここで結論だけ手短に書いておきましょう。

 まずなによりも、「否定できる自尊心」の方向修正が重要です。この自尊心のために、人は「これは駄目だ」「これがいけない」という「否定」形だけの思考法に陥ります。そしてこの否定形の思考法で自分の心の問題を考えることで、あらゆる思考がことごとく、心の問題を生み出した原因をそのまま繰り返すことを、延々と続けることになってしまうのです。

 「これが駄目だ」ではなく「こうするといい」という「肯定」形の思考法に、まず変えることが重要です。そうすれば、沢山の心理学の知恵とノウハウが使えるようになってきます。

 そのあとは心理学の知恵を具体的に応用する話になります。

 「愛され自尊心」については、人に好かれ愛されることの価値と自尊心を明瞭に切り分け、自尊心はあくまで自分で自分をどう考えるかを重視する思考法が大切です。そして愛に依存しない「恐怖の克服」が重要になってきます。

 「優越自尊心」については、「優越」という課題にむしろより真正面に向き合い、人を打ち負かすという側面ではなく、自分を向上させるという側面に着目した、中身のある活動を目指すのが大切です。

 

 もし心の問題がそれほど深刻でないのであれば、そういった心理学の知恵は、すぐに問題を解きほぐし、心の問題の克服に役立つでしょう。また心が病む芽を幼少期から抱えているケ−スにおいても、学童期においてそうした思考法に導くことが、思春期以降に発動する心の障害への、強力な抵抗力をつけることに役立つはずです。

 

「自己操縦心性」は「正す」のではない

 

 一方、思春期以降に発動する心の障害においては、「自己操縦心性」の中で動く感情はもはや理性的コントロールは利かないものになります。その克服には、そこで起きる感情の自動的な流れを良く理解し、まずそれを鵜呑みにして巻き込まれないことが重要になってきます。

 それを理性で「正そう」と考えるのは誤りです。「正そう」と考えると、皮相化荒廃化した自尊心の一つである「否定できる自尊心」につかまります。「これがいけないんだ」という思考法です。その結果生まれるのは自己嫌悪感情と自己処罰感情の繰り返しだけで、何の向上も生みません。

 

 正しい対処法は、皮相化荒廃化した自尊心とは全く異なる思考法を、頭の別の領域に「追加」することです。そうして新たに追加された心の領域が次第に育っていき、やがて今までの心の領域を凌駕駆逐するという形が、ハイブリッド心理学として見出している、唯一の根本的克服の姿になります。

 「自己操縦心性」の中で動く感情は、それをどのように考えても、健康な感情に変化することはありません。それは身体における癌細胞が健康な細胞に戻らないのと、ほぼ同じです。

 それとは異なる、全く新しい思考、そしてそれが今までの心の領域を凌駕する根本克服の具体的内容について、この後説明していきます。

 

「空想を生きる生」と「現実を生きる生」

 

 「自己操縦心性」の中で動くのは、「皮相化荒廃化した自尊心」を目指す衝動です。同時にそれは、「愛情要求」を満たそうとする衝動です。

 その基本的な特徴は、まず自分を外から見た姿イメージがあり、それを規準にして感情が自動的に引き起こされるというものです。その感情は足元をさらうような強さを持ち、「感情による操り人形状態」になってしまうわけです。

 「外から見た姿」の基本内容は、皮相化荒廃化した自尊心の3種類にほぼ対応するものになります。「愛される自分」「相手を打ち負かし勝利する自分」「高みから否定できる自分」です。

 そうしたイメージを主内容とする「空想世界」が「(あるじ)」となり、「現実」はそれに合わせる「(じゅう)」と化した、独特な意識状態が思考と感情の土台になります。

 

 そうした自己イメージ通りになれたと感じると、自尊心や愛情要求が満足に向かうと感じることによる「高揚感」が起き、そうした自己イメージ通りになるのを損なったと感じると、自尊心や愛情要求が損なわれると感じることによる「抑うつ感」が起きます。

 そしてしばしば人はこの高揚と抑うつを規準に考えるようになります。こうすればいいんだ。こうしちゃ駄目だ。高揚を感じたものを良しとし、抑うつを感じたものを駄目と否定します。

 高揚を感じたものとは、実は「自己暗示」など「感情の強制」がうまくいったものです。しかし感情の強制は心の無酸素運動であり、長続きしません。良い感情が湧き出てこなくなり、やがて「やはりこれでも駄目だ」となります。当然次第に、「これでは駄目だ」「これでは駄目だ」の洪水状態になって行きます。

 またそこで不可避に起きるのは、高揚感と抑うつ感の規準となる自己イメージそのものが、はっきしなくなってくることです。ちょっとしたつまづきに出会うたびに、自己イメージの否定を繰り返しているからです。

 多くの場合、規準となる自己イメージは、「やる気ある自分」「明るく親しげな自分」と言ったものになってきます。そしてちょっとした気分の変調を自己操縦心性が捕らえて、高揚感と抑うつ感の膨張暴走を引き起こすことがあります。本人にはこの理由はもう自覚できず、心理医療の場でも「うつ病」「躁うつ」「双極性障害」などと診断されるようになります。

 

 そうした心の表面における感情の揺れに着目することは、克服への視点としてもはやあまり重要なことではありません。

 重要なのは、「空想の中で自尊心と愛を満たす」という心の動きになっていることです。

 全てがまず、自尊心や愛を実現した自分の「イメージ」から始まっています。たとえ一時的にはそうなれたかのような気分を味わうこともあるでしょうが、そうあり続けることはそうできることではありません。多くの場合、内実を伴わない「皮相化」によって、多くの面でジリ貧になっている状況があります。

 そうした状況を抱えて、常に「イメージ」と「現実」の突合せをするという「生き方」になります。

 この生き方においては、どうしても「現実」はあまり都合の良いものではないものになってきます。つまり「現実」は「不都合」であり時には「邪魔」なものになってくるのです。

 

 人はそうして「現実を生きる」ことができず、「空想を生きる」という「生」の中にあるようになります。

 どんなに「現実に向き合おう」と考えたところで、彼彼女が自分のありかたを評価するのは、そうして「向き合った現実」と、「あるべき自分」という2つの「自分の姿」を比較することになるのですが、これは結局空想の中で行われる作業なのです!

 

 「現実に生きる」とは、それとは根本的に違う意識の構造のことを言います。それは「現実において生み出すもの」の価値を見るという姿勢の上にあります。外から見た「自分の姿の見栄え」ではなく、「自分が生み出し得る」ものの内実を見る目によって培われるものです。

 それは趣味活動における「楽しさ」であったり、仕事における創意工夫などあらゆる面における「向上」であったりするでしょう。それはもはや「自分」への評価であることさえ薄れて、「自分」からは離れた、自分が生み出せた何ものかへの評価へと変わっていきます。それを高める努力を続けるのです。

 その時「自尊心」は、もはや「自意識」であることさえなくしています。これが正しい方法です。

 

 ただし現実と空想の重みが逆転した「自己操縦心性」にあっては、こうした話さえも「外から見た姿」の話にすり替ってしまいます。「現実に生きる自分」という新たな理想イメージができ、自分が「そうなれた」かと再び空想の中で比較することに心が向いてしまうのです。

 これを無理に「正そう」とするのではなく、それとは別の思考を一歩一歩、「別の心の領域」として築き上げていくことが大切です。

 

「愛情要求」と「荒廃化した自尊心」が合体した心のプログラム・ミス

 

 「皮相化荒廃化した自尊心」の先で、やがて自動的に起きるようになる、典型的な思考と感情のパターンを4つほど説明しましょう。

 人が病んだ心の中で、人間関係さらには自分の人生そのものを破壊してしまう典型的な姿になります。まずその不合理性を自覚し、この自動的な思考と感情に巻き込まれないことを心がけることから、克服への道が始まります。

 最初の2つは、主に他人に対して破壊的な怒りが向けられるものです。「怒りに変わる思いやり」および「自尊心の防衛戦争」。

 残りの2つは、主に自分に対して破壊的な怒りが向けられます。「嘆きと苦しみによる解決」および「自己嫌悪と自己破壊」。これによって、自らの人生を破壊する「病んだ心」の最終形が大体できあがります。

 

 その思考感情のどれもが、「愛情要求」と「皮相化荒廃化した自尊心」の奇妙な合体作品とも言うべきものです。

 心の底においては対立し、相容れないはずの感情が、奇妙に合体した一つの感情であるかのように感じられてしまいます。その結果、事態は奇妙に、ものごとを破壊していくという悲劇的な結末に向かいます。

 これはまるで、脳の中で無理な配線を繰り返したために、本来は別の配線のものを、何とか繋げてとにかく電気が流れるようにしてしまったという、人間の脳の一種のプログラム・ミスのような印象を私は感じています。ハイブリッド心理学では、この合体を解きほぐすという実践を、「感情分析」と呼んで大きな位置づけにしています。

 

怒りに変わる「思いやり」

 

 まず「怒りに変わる思いやり」です。これは実に現代人に一般的です。「思いやり」からした行動が相手に良く受け取られないと、怒りを感じるというものです。

 

 これはまず「愛情要求」を土台にして、相手に良くして相手からも愛されたいという感情から始まります。次にそのための行動をイメージ化します。そしてそれを行動化すると、それは愛の問題ではなく自尊心の問題に切りかわります

 これはなぜかと言うと、「イメージ」と現実を照らし合わせるというのは、基本的に「自意識」を使う、自尊心の心の機能だからです。ですから相手のことを思っての行動が、「現実」という「外」に出た瞬間、今度は相手が自分をどう高く評価するかという、自尊心の問題になっています。

 そして自尊心が荒廃化していると、それは傲慢な自惚れという色合いを帯びやすく、これが相手から敬遠される、もしくはこの人自らが何か自己嫌悪感を感じるということに、とてもなりやすい状況があります。

 つまり、自尊心は満たされません。逆に自尊心が傷つけられたと感じることによる怒りが、自動的に起きます。

 

 こうした「思いやりが怒りに変わる」は、ちょっとした親切心から深い恋愛感情に至るまで、実に広範囲に、普遍的に起きる、人間の心の基本的なメカニズムです。

 それはまるで、バニラクッキーの上にチョコを塗ったビスケットのようなものです。まず気持ちは「愛」というバニラ味で始まるのですが、表面に出る時には必ず、「自尊心」というチョコ味に、変わっているのです!

 これは「愛」を「形」で考えるという基本的な誤りによるものです。「愛」は本来、自意識を伴わない、形になる前の感情です。それを「形」で求めた時、心の表面に出る時それは自尊心の問題に化けるのです。

 この心理メカニズムを踏まえ、「求めることなく愛に向かう」という姿勢を、ハイブリッド心理学では「愛」を育てる姿勢として考えています。

 

 一般的に言って、「思いやりが大切」という言葉は、人間関係において謝った姿勢を生み出しがちです。「思いやり」はあくまで自分の「心の中で思う」までのことを指すのであって、「行動」を指すのではありません。「思いやり」そのものは、相手に直接見えるものではありません。

 その一方で「思いやりが大切」と考える時、大抵人はその「思いやり」が相手に高く評価されることを期待してしまいます。その結果、とても一人よがりな思考に陥りやすいんですね。

 「思いやり」と「現実行動」はいったん分けて考え、「行動」については「思いやり」とは別の問題として、客観的かつ具体的に、相手に本当に役に立つかどうかを考える姿勢が大切です。そしてそれが相手に好かれ愛されるという見返りを目当てにしているのかを、しっかりと自分に問うのがいいでしょう。その場合は、まず怒りに変わるということです。

 「怒りに変わる思いやり」にならないためには、それが自分にとっても役立つことでであるという、「共通目標共通利益」を目指す姿勢が望ましいものです。つまりそれは「楽しみ」「喜び」の共有であり、あらゆる「向上」の共有です。

 これを「建設的対人行動法」と呼び、ハイブリッド心理学における「良い対人関係のための行動学」と位置付けています。

 

「報いられない」怒りの共通構造

 

 この「バニラ・チョコ・クッキー」のメカニズムは、「思いやり」だけではなく、「誠意」「やる気」「努力」「苦労」などさまざま面で、人が「報いられない」と感じ憤慨する時の、基本メカニズムと言えるかも知れません。

 人はそうした「態度で示そう」という考えを持つ時、まず最初は相手に評価され愛されたいという、「愛情要求」の感情からその思考を始めます。しかしそれが「形」になって相手の目の前に出てきた時、自尊心の問題になっているわけです。

 そしてこの時、自尊心はほぼ必然的に損なわれます

 それは2つの理由があります。まず愛情要求が大元なので、「形」になっても内実があまり伴っていないことです。相手からは、何かを訴えている様子が感じられるだけで、中身は評価しくくになるからです。

 さらに、相手から良く見られることに自尊心を依存していることについて、実は心の底で、自ら自尊心を損なっています。自尊心とは本来、相手に依存せずに自分を尊敬尊重できることだからです。心の底はこのことを感じ取っています。

 そして自尊心が損なわれたのを感じることで、自動的に怒りが湧いてきます。

 

 逆のケースもあります。仕事で自分が評価されない時に、どんよりとした憂うつ感と悲しい気分を感じるといったものです。本人はそれを「愛情要求」の問題だとは考えず、あくまで仕事の評価の問題だと考えたりしますが、実は仕事の内容出来そのものよりも、誉められ愛されることを求める愛情要求が心の底で働いているといったものです。

 いずれの場合も、「愛」と「自尊心」についての考え方を明瞭に切り分けていくのが、ハイブリッド人生心理学における克服アプローチになります。

 

自尊心の防衛戦争

 

 他人への怒りや憎しみが膨張するメカニズムについては、前々章および前章でそれぞれ一つづつ説明しました。

 病んだ心の基本的なメカニズムにおいては、「破滅感情のイメージ化」および「情動の荒廃化の反転」によって、「残忍粗野な他人によって自分が破滅に向かわせられる」という緊迫した幻想が描かれ、それに対して追いつめられた獣のような爆発的な怒りが起きるというものがあります。

 愛情要求の文脈においては、自己処罰感情が昂進(こうしん)し、「全ての望みの圧殺」による苦しみが起きる一方で、「人によって望める」という姿勢そして「人にどう見られるかが自分」という姿勢の中で、「全ての苦しみが他人のせい」という巨大な憎悪が生まれるというメカニズムがあります。

 

 自尊心の文脈においては、思いやりや努力が報いられないと感じるにせよ、他のきっかけにせよ、自尊心が人に傷つけられたと感じる怒りの中で、極めて破壊性の高い報復衝動が起きてしまうことにあります。

 そして頭の中で、相手への復讐行動が描かれます。それは最初に自分が「傷つけられた」と感じた状況を超えて、相手を大きく痛めつけるものです。自分がこうむったのと同等もしくはそれ以上の屈辱を相手に与えることで「気分が晴れる」というのが、この「報復衝動」の論理なのです。

 もちろん、現実には「気分が晴れる」どころか、犯罪者になって人生を棒に振ることが多いのが、この感情の現実の姿です。つまり、報復衝動の中で相手を怒り反撃しようとするのが、人間性を損なった姿にまでエスカレーションしてしまうのです。

 

 なぜそこまでエスカレーションするのかというと、頭の中で報復行動を描くと、当然それに対する相手からの反撃も浮かぶからです。これは再び「同等かそれ以上」です。それに対して自分も「同等かそれ以上」の反撃をする。

 こうして「自尊心の防衛戦争」が頭の中で展開することになります。事実、ある相談者の方は、上司から自宅に電話があった時に不在してしまった失敗を、どう悪口言われるかという怒りの空想の中で、最後には核爆弾のボタンを押すところまで怒りの空想がエスカレーションしたことを伝えてくれました。

 まさに「戦争」ですね。

 

「アク抜き」のメカニズム

 

 こうした破壊的な報復衝動は、「報復の怒り」を「価値ある強さ」だと感じる感性に伴って膨張します。

 この価値観の根本的な見直しが大切です。怒りは強さではなく弱さに過ぎません。怒りに頼ることなく対処する行動法があります。いかにそれを心底から目指すかが、克服への決めてになってきます。

 

 厄介なのは、頭では「思いやり優しさが大切」だと考え、「攻撃は悪」だと考える当人が、実際にはこの破壊的な報復衝動の持ち主であり続けるケースが往々にしてあることです。往々にしてあるというか、心の悩みを持つほとんど全ての方が、私自身の過去を振り返っても、そのような心理状態にあるというのが私の印象です。

 「優しい自分」が人に評価されないと怒る中で、極めて攻撃的な報復衝動を抱くわけです。

 本人はこの矛盾を感じることができません。より正確には、これを多少矛盾だとは感じても、彼彼女の側の破壊的な報復衝動は「正しい」ものになるのです。すでに自分がこうむった、「自尊心への傷つけ」という「苦しみ」に対する正当防衛だからです。実はこの「自尊心への傷つけ」自体も一人相撲であるにも関わらずです。

 

 一方、「他人が自分を傷つけた」のは「悪意」によるものと体験されます。これはまずは「情動の荒廃化の反転」メカニズムによるものです。他人を傷つけ痛めつけることに快感を覚える、すさんだ攻撃性を、この人が自分の心において「抑圧」することにおいては確かに「良心的」なのですが、この方法では人の心は真に清らかになるものではなく、奇妙な形で攻撃性が漏れ出すことになるのです。

 一つは、すでに述べたように、「心がすさんでいるのは他人だ」と、抑圧した自分の感情を他人に映し出して、それへの敵対姿勢によって自分は清らかだという自尊心を感じるという形です。

 そしてもう一つが、自らがすさんだ攻撃衝動を抱いたとしても、人の中に映して見たそれに向ける激しい嫌悪と怒りを、自分の場合には奇妙に感じないというメカニズムです。

 

 これを、心理学用語としてはちょっと奇妙な言葉ですが、「アク抜き」のメカニズムと呼んでいます。食材において、渋みや苦味だけを貸し、良い味だけを残す。まさにそんなイメージとして、その言葉をそのまま用いました。

 つまり、本当は自分自身が抱くすさんだ攻撃性に含まれる可能性のある、相手の心を踏みにじる残忍さ、自分の自尊心のための相手を悪者扱いする利己的な粗暴さ、そして善人を演じるニセと偽善といった、「下劣なまがいもの」性とも言える、自らが最も激しく怒り嫌悪する感情の色合いだけが、見事に意識から消去されます。

 これは幼少期に起きた「切り離し」に似たメカニズムと考えられます。そうした「下劣なまがいもの」性を自分自身に感じることは、あまりにも苦痛の度合いが高すぎるからです。

 そうして「この怒りは正しい」という感覚になるわけです。

 

 ただしこのメカニズムにはかなり無理があり、「自分の怒りは正しい」と感じられるために、さらに条件が必要になってきます。自分自身にあり得る利己的残忍性を塗り消すための、免罪符とでも言うべきものです。これが主に2つあります。

 一つは「苦しみ」です。苦しみの中で抱くことによって、感情における「利己的」な色合いが消去されます。苦しみにおいて、正当防衛のために、相手を破壊するのです。かくして、「苦しみ」が病んだ心のメカニズムにおいて、特別な価値を帯びてくることになります。

 「傷つけられた」という怒りで始まり、「報復の怒り」を追い求めながら、自分ではもはや自ら何かを求めているとは微塵も感じないまま、「苦しみ」の中で怒りが膨張します。そして最後に、この「苦しみ」が、相手を傷つけるための最後の爆弾になります。自分は残忍で粗野な他人の被害者なのだ。死んでやる!と。あいつのせいだと皆に知らしめ、一生苦しめてやる、と。自殺衝動が起きる一つのメカニズムが、ここにあります。

 

 「アク抜き」のためのもう一つの免罪符が、「愛」です。ここではもはや、「怒り」と「攻撃性」の色合いさえ消去されます。文脈としては、自尊心の傷つけから始まる防衛戦争とはいったん別の話になるでしょう。しかしこれがすさんだ攻撃性と愛情要求の合体による、最も見事で巧妙な完成品と言えるかも知れません。

 そこでは、相手に「苦しみ」を想定して、それを思いやる自分、という構図になります。すさんだ攻撃性は、相手に苦しみを「想定」する強引さに表れることになるでしょう。しかし本人の意識には、その後の「自分の優しさ」しか見えなくなるというメカニズムです。

 この心理メカニズムは、自分の子供を虐待して弱らせた上で優しい母を演じると言った、「代理ミュンヒハウゼン症候群」として精神医学の歴史でも良く知られたものです。

 そこまで極端ではなくても、この心理メカニズムは結構強力で、心の障害に悩むほどではないレベルにおいても、「苦しむ」「苦しめられる」という対人感情をベースにして「愛」を考えるという、「不健康びいき」の「愛」のイメージを人々に抱かせがちです。

 心の成長と幸福を目指すにあたっては、まず苦しみから自ら脱し、さらに心が健康へと成長する中で増大していくようなものとしての、「愛」のあり方を考える姿勢が大切になってきます。

 

「アク毒」と化す「感情の膿」

 

 「下劣なまがいもの」という、自らが最も激しく嫌悪軽蔑するものの色合いだけを、自分の心の意識表面においては消し去り、実はまさにその構図そのものの姿へと陥る。

 これはこの人間に、新たなる潜在的な脅威をつけ加えることになります。意識表面においては消し去ったことにおいて、まさに、意識下の心の底では、実は自分こそが最大の「下劣なまがいもの」なのではないかという、漠然とした不安が生まれることです。

 ここにおいて、幼少期に蓄積した根源的自己嫌悪感情という、論理性を欠いた恐怖感情の膿は、新たなる病根の様相を帯び始めます。漠然とした「破滅」という感情とイメージに、「自分が下劣なまがいものであることが世界の目にさらされる」という、幻想的な破滅感情が、膿のように心の底にある状態になるのです。これはあまりに苦しい状態なので、自殺念慮も起きる危険が高くなってきます。

 この感情を「アク毒」と呼んでいます。まるで「アク抜き」によって抜いたはずの毒が塊になって残っていたかのようなものを感じさせます。

 

 深刻な心の障害からの治癒においては、これが流れる時というのが、どうしても避けられない通り道になってきます。一方それは「膿」のように、それをうまく通り過ぎれば根本的な治癒に向かうというメカニズムがあります。

 そうした感情は決して現実を示すものではなく、心理メカニズム現象なのだという知性を保ち、その毒のような感情を「ただ流しやり過ごす」という「悪感情への耐性」によって乗り越えることです。その時、人生に渡って心の底に残り続けたストレスの根源は、自分の自尊心が不実な空想の中にあったことを深く自覚すると同時に、それを人間の不完全性として受け入れる姿勢の中で、根本的な消滅に向かいます。

 

全てが「愛」と「自尊心」の軸の上にある

 

 ただしこうした根本的治癒は、それを支えるための思考法および価値観の大きな転換が必要です。

 述べてきたような心理メカニズムの全てが、「外から見た自分の姿」を通して愛と自尊心を得ようとす姿勢から始まっています。その根底には、愛と自尊心への挫折を「与えられる愛」によって埋めようとする愛情要求と、愛と自尊心の挫折への見返しを、自尊心へのエネルギーとしようとする、すさんだ攻撃性があります。

 「自尊心の防衛戦争」の方は、意識の表面においては主に自尊心の文脈にありますが、実は「すさんだ攻撃性」「すさんだ自尊心」そのものが、底流では愛情要求と結びついています。幼少期において愛に挫折した結果が、すさんだ攻撃性です。学童期以降の自尊心が、それをエネルギーに発展しているわけです。

 この意味で、すさんだ攻撃性とは、実は「愛」の変形です。この側面が最も端的に表れるのは、神戸での児童殺傷事件で「酒鬼薔薇聖斗」と自称した犯人少年のような、世を震撼させる猟奇的犯罪の姿に時になります。最も破壊的な姿で「人の目を集める」という形の「愛」を求める、魂の荒廃ともいうべきものが、そこにはあります。

 

 こうして「愛」と「自尊心」は、全てを一貫として貫く基本的な歯車になります。これをさらに大きく俯瞰し、人間の心の最終的な構造の姿を、次章で明らかにしたいと思います。同時に、そこからの根本的な思考法と価値観の転換から成る、病んだ心から健康な心への道の道のりを説明しましょう。

 

「嘆き」と「苦しみ」による幻想的解決

 

 他人への怒りや憎しみが膨張するメカニズムを詳しく説明してきましたが、それによってこの人の心の心の、そして人生の問題が解決するはずもないものである時、病んだ心のメカニズムが行き着くものとして残されているものは、明白です。

 怒り憎しみの攻撃性が、自分自身に向けられるというものです。

 

 「苦しみ」が病んだ心のメカニズムにおいて価値を帯びることは、すでに説明しました。それは自らが忌み嫌う利己的な残忍性の色合いを、自らの感情においては消し去るための免罪符であり、時に自らの苦しみを見せつけることが相手への攻撃になることもあります。

 しかしそれを超えて、さらに積極的かつ単純な「価値」が、どうやら人間の「苦しみ」にはあるようです。

 

 つまり、ごく単純な感覚として、苦しむ人間はそれだけで高貴なのです。そんな感覚が、人間には一部あります。恐らく健康な心においてもです。

 時にこれは「道徳」の中で支持されます。「辛い人を助けてあげましょう」と。もちろんこの考えを否定すべくもありませんし、辛い人を助けてあげたく感じるのは、私たちにとって何よりも重要な感情の一つであることに間違いはないでしょう。

 やがて「苦しむ姿」「辛さに耐えている姿」そのものが、なぜそうなっているのか文脈から離れて、何か人目の中で賞賛される姿のような感覚を帯びてくる。だから「おしん」があれほどヒットしたのかも知れません。

 しかしそれは同時に、「苦しむ自分は高貴でありそうでない人間は野蛮だ」という、「苦しみによる優越感」とでもいうべき不実な自尊心への芽を、同時に人間に与えたように感じます。私たちはその表れを、時に「辛いもの勝ち」「苦しみ自慢」とでも言うべき思考法に見ることがあります。

 

 かくして、病んだ心の不実なメカニズムが、人の心の問題を全く解決し得ない袋小路にある時、最後の手段として、「苦しみ」と「嘆き」への埋没への道が選ばれることになります。

 それは「自分が高貴な存在」という幻想的な感覚を生み出すと同時に、「愛」についても幻想的な感覚を生み出すようです。

 これを「悲嘆衝動」と呼んでいます。それはまるで大自然の中で親からはぐれた小さな雛が、親を求めて泣き続けるような感情を帯びます。そこに含まれる「愛を求める感情」が、時にそうした苦しみ嘆きに、奇妙な「甘さ」を帯びさせることがあります。これは私自身、かつて「こんな自分なんて」という自己嫌悪が、奇妙に甘い感情であったのを憶えています。

 

自己嫌悪と自己破壊

 

 「自己嫌悪」という、心の悩みにおいて実にポピュラーな感情の説明が最後になりました。これがまさに、水が高いところから低いところに流れるのと同じように、病んだ心の動きが最も抵抗なく行き着く終着点になるからです。

 病んだ心の歯車の中で、結局どう思考しても何も良くならなかった。そんな「駄目な自分」を、叩きのめし、痛めつける快感に耽るわけです。相手が自分なのですから、人に非難されたり反撃されたりする危険もありません。安全に、自分という相手を痛めつける快感と、嘆きによる愛の幻想感覚を、満たすことができます。

 もちろんその快感と甘さは、一瞬にして、正真の苦しみに変わってしまいますが。なぜなら痛めつけられるのも自分なのですから。

 こうした意味で、ハイブリッド心理学では「自己嫌悪」を、基本的に「自分自身への優越感」と位置づけています。この説明には、私のサイトでも多くの読者の方が納得しておられたようです。

 

 自己嫌悪は時に、現実的な「自己破壊」へと向かってしまう場合があります。自分の身体を傷つけたり、自分の持ち物を破壊したり。当然苦しみは増しますが、その苦しみがまた病んだ心のメカニズムに利用されるという、悪循環があります。

 

病んだ心から健康な心への道

 

 ごく日常的な心の悩みのレベルから、深刻な心の障害に苦しむ姿まで、一貫して働く心のメカニズムを説明してきました。

 特にそれは思春期において、心の障害が本格的に表面化する深刻なケースにおいて、後のメカニズム過程が破壊的な様相を強める姿に、私たちの目は奪われがちです。

 しかし根底で働くメカニズムは、全ての心の問題において同一であり、全ての問題の最大の起点は、この章で述べた「皮相化した自尊心」にあります。つまり「自らの望み」に向かって歩むのではなく、「人の目を通して外から見た自分の姿」によって、自尊心を追い求め始めたことにあります。

 この章で説明した通り、それは「学童期」に始まっています。

 

 一方、それが心の障害として悪化する要因が、幼少期の「根源的自己否定感情」と、その蓄積による「感情の膿」にありました。この程度が強いと、思春期に発動する「自己操縦心性」によって「破滅」がイメージ化され、破滅から逃れようとするあがきによってまさに現実を破壊してしまうという流れになります。

 しかしこの「根源的自己否定感情」そして「感情の膿」も全ての現代人に程度の差はあれ一般的なことがらである時、実際にどう「病んだ心」を免れ得るかは、かなり微妙な差でしかないような印象を、私は感じています。

 つまり「人の目を通して外から見た自分の姿」が、何とかなったという、その程度の違いでしかないということです。ただそれがこの心理過程にある現代人にとって、命をかけるほどの重みであるかのように感じられているわけです。そうして「何とかなった」人はストレスの中で何とか胸をなでおろせる幸運にあずかっているだけであり、「何とかならなかった」人たちが、「心の病」へと落ちて行く。

 そんな