12章 病んだ心から健康な心への道−1 −「障害」と「治癒」そして「成長」への鍵−
*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*
病んだ心から健康な心への道
「病んだ心」から「健康な心」へと至る道に立つために、人の心に起きたことを振り返ってみたいと思います。
「真の問題は一体どこにあったのか」この問いを携えてです。
全ての問題の始まりは、幼少期にありました。「子供への愛」を見失った現代社会の中で、子供の心に「自分は生において拒絶された存在だ」という根源的自己否定感情が植えつけられ、それは意識体験の許容範囲を超えた恐怖とともに、この「現実」を受け入れまいとする心の防御機能によって、心の奥深くに置き去りにされます。それは「感情の膿」と化し、意識の表面には見えないまま、この後の人生におけるストレスの根源として、この人間の心を追い立て続けることになるのです。
同時に、この子供の心における、この世界と他人そして自分自身への、素朴な信頼感と愛着感が失われます。
世の多くの心理学が、そして実際に心の障害に悩む方の多くが、「それが問題だ」と言います。つまり、幼少期に十分な愛を与えられることなく、「基本的信頼」を損なったことが問題なのだと考えます。だから自分の心がこんなに壊れてしまったのだと。つまり、「親が問題だ」と考えます。
違います。なぜなら、人間の心は、こうした幼少期の問題を克服するための、自然治癒力と自然成長力を、本来そなえているからです。
真の問題は、私たち人間がそうした自らの心の自然治癒力と自然成長力に、背を向けることから始まりました。これは学童期に始まっています。
そこでまず起きたのは、幼少期に起きた「生における挫折」をなかったものであるかのように塗り消すための、「なるべき自分」が作り上げられていくことです。それは親の言うことを良くきく大人しい「良い子」になることであったり、勉強ができて皆から誉められる「良く出来た子」であったりするでしょう。
これは仕方のないことです。それがまだ弱い子供の心に用意された、「切り離し」という防衛メカニズムと、ごく自然な子供の「望み」の合成の結果です。
しかしその一方で、隘路はすでに始まっています。「望みの停止による情動の荒廃化」によって、子供の抱く「望み」は、心を解き放って前に進もうとする純真な願望であることをやめ、「人の目」の中にある自分の姿を通して愛と自尊心を得ようとする、「皮相化した望み」へと変化し始めています。
そしてさらに不遇がちなこの子供の心の中で「望みの停止」がより深刻化するにつれて、「情動の荒廃化」はさらに明瞭なものとなります。純真な望みを心の中で押し殺すごとに、心の中に、良いものを与えられている他人への漠然とした苛立ちと、他人の持つ良いものを叩き潰すことへの快感が、心の中に芽生えてくるのです。
この感情をさらに心の中で飲み込み、押し殺すことでなんとか「良い子」でいる望みを続けるか、それとも、もはや「望み」と言えるものさえ見えなくなり、代わりに「荒廃した欲求」だけが心を流れるようになるか。この違いにより、その後の人物像にはかなりのバラエティが生まれることになります。
人物像がどのようになるものであれ、学童期において、その後の心の過程に、決定的なくさびが打ち込まれます。
ここまではまだ、人間の心のメカニズムによる不可避の過程でした。つまりそれは仕方のないことです。しかしここで、人間自身がその「思考」によって、自ら病んだ心の過程を決定づける「選択」をなすのです。
それは主に2つの「思考」です。「悪を決して許してはいけない」という「正しい怒り」の思考、そして「良い人間だけが望む資格がある」という「望む資格」思考です。それによって人間は、「あるべき姿」を掲げて怒りに頼るという、基本的な生き方を選択したのです。
この2つの「正しい怒り」思考および「望む資格」思考は、人間の心における癌細胞と言えます。なぜならこの思考によって、心の本来の健康な細胞が持つ、自然治癒力と自然成長力に背を向け、蓋をするからです。怒りは心身の健康な機能を一時停止させるための感情だからです。
人間が自ら、この心の癌細胞に火をつけ、それを増殖させる道を選びました。これは心のメカニズムによるものではありません。
増殖していく心の癌細胞は、やがて心の本来の健康な細胞へと浸潤し、破壊する道へと向かいます。そこで「決して許してはいけない悪しきもの」とは何か。それは自分の心をこんなにした「親」であり、自分自身の心に潜んだ「感情の膿」であり、これらを生み出した、「社会」です。
思春期に至り、最後の、そして決定的な、病んだ心のメカニズムが発動します。もやは単純な「切り離し」では済まされなくなった「感情の膿」が、「人格」の中に組み込まれることによって引き起こされる、空想と現実の重みが奇妙に逆転した意識状態の出現です。これを「自己操縦心性」と呼んでいます。
この意識土台においては、感情はもはや理性のコントロールにはおかまいなしに、暴走する「イメージ」を引き金として動きます。それは人をまるで「感情による操り人形状態」にしてしますのです。
残された問題は、その強度が、人の心を完全に飲み尽くすのをどう免れるかになってきます。それを免れた、残された健康な心の領域を活用することで、この心の状態を健康なものへと回復させる、治癒と成長への道が開かれます。
事実、人間の心はこうした病んだ心のメカニズムをその本性として持つ一方で、そうやすやすとこのメカニズムに全領域を明け渡すものではありません。その根本的治癒がどの程度重篤な心の障害においてさえ可能であるかを言うための知識は、私にはありません。しかし事実として、かなり深刻な心の障害においてさえこれが成されたものもあり、軽度な心の障害においてはなおさら、そして心の障害というほどではなくても心の問題を抱える多くの現代社会人に、この道が大きな役割を果たし得ることを、私は確信の中で信じています。
思春期以降の流れは、こうして用意された全ての歯車の中にあります。
病んだ心においてこの後実際に心の表面に現れるのは、特有の論理の飛躍と歪みを帯びた、幾つかの特有なパターンでの自動的な思考や感情でした。
心の障害の基本的な流れにおいては、「破滅」という感情がイメージ化されると同時に、「情動の荒廃化の反転」によって、心の荒廃した無神経な他人によって自分が破滅に向かわせられるという空想と、それに反応しての爆発的な怒りが起きやすくなります。
幼少期に得ることのできなかった「宇宙の愛」を求める巨大な衝動は、寂しさと空虚を埋める「形としての愛」を求める衝動を、人により千差万別の強度で心の表面に残す一方で、もはや「愛」の問題からは離れたかのように見える観念の領域においてさえ、自分が宇宙の中心であることを示す感覚を得ることにおいて、それを「真実」だと感じるという、特有の論理の歪みを生じさせます。「愛」とは、相手が常に自分のことだけを考えることであり、それ以外の愛は「利己的なニセの愛」だと見なされます。他人は残忍は陰険さで、自分を迫害しようとする悪意の持ち主である。その中で一人苦しむ高貴な自分。自分は「真実」を知った。
「苦しみ」が、他人を悪意ある存在と見なし攻撃するすさんだ自尊心のための、免罪符の役割を果たします。相手の苦しみに対して、「愛」を抱きます。自分は苦しんでおり、苦しみへの理解が愛だからです。人はこの「愛」に近づきようもなく、人間関係は壊され、回りに人がいなくなっていくのを感じます。
最後に「嘆き」と「自己嫌悪」だけが、この複雑に絡みあった心の歯車が回り至れる、終着点になります。自分の心は壊れている。自分は心の病気だ。こんな自分が大嫌いだ。
いえ、全てが、根源的自己否定感情に蓋をして、「あるべき姿」を掲げ、「許してはいけない」という思考を選択したことの、それはもはや同じ繰り返しでしかありません。
今、社会が心の病に対処しようとしている姿勢も、まさにその同じことの繰り返しにしか過ぎません。こんなに「普通」ではないとは、ひどいですね。だから「病気」です。薬を飲みましょう。
違います。これは病気ではなく、心の問題です。生き方の問題なのです。
第1の鍵:「望み」
「病んだ心」から「健康な心」へのターニング・ポイントに視点を移しましょう。
こうして全ての過程を振り返った時、いくつかの鍵が見えてきます。
最大の鍵は、「望み」にあります。これが全てを貫く最大の軸になります。
幼少期の根源的否定感情の中で、ありのままの自分において心を解き放つという望みが停止した時に、全ての問題が始まっていました。
「望みの停止」は2つの形で人の心に変形を生み出します。一つは「皮相化」です。自ら望みに向かうという積極性能動性を失った時、「人を通して望める」という心理状態が生まれます。自ら望むのではなく、人の目の中の自分の姿を通して、望みます。「なるべき自分」というイメージと、「なり切れた自分」および「なり切れない自分」という「現実」との、分裂が生まれます。
同時に、もう一つ「荒廃化」という心の変形が起きます。これが「望みの停止」という、本人としては耐え難い苦悩からの平安を得ようとして行う心の使い方が、両刃の剣であることを示す悲劇となります。
自分から積極的に望むに向かおうとする時、現実という壁にぶつかることは、時に苦しいことです。それが同時に「お前は駄目だ」という宣告を受けることを伴うようなものであれば、なおさらです。しかしその苦しみから逃れようとして、「望みの感情」そのものまでも心の中で押し殺した時、この人が気がつかないまま、心にある変化が起きてきます。
「そんなもの」「どうせ自分には」「気にしない」そんな観念によって「望みの感情」そのものを心の中から消し去ることに成功した時、確かに一時的に心の平安が訪れます。
しかしそうして「望みの感情」が消えてから月日が経ったある日、それは突然とも言うような形で、この人は自分の心に起きている変化に、暗雲の感覚とともに気がつくことになります。楽しそうにしている他人への、トゲトゲしい気分が自分の心の中に流れているのを感じます。自分が諦めたような良いものを、自分の目の前でひけらかすように喜ぶ他人の姿が、許せないような気分がしてきます。他人の幸せそうな顔を見ると、叩き潰してやりたいような気分を感じます。
大抵の場合、人はこの荒廃化した感情を、焦りの中で、自分の心から追い払おうとします。そして再び、平静が訪れます。しかし心は一段階不安定なものになっています。
「皮相化」と「荒廃化」は、一つの「望みの停止」により、同時に、同じ程度で起きると考えています。そして皮相化した望みとして抱く「なるべき自分」という姿に対して、荒廃化したトゲトゲしい感情が衝突を起こすようになります。
「望みの感情」を心の中では思いきり開放する
「望みの停止」は、人が良かれと考えて行いながら、実は心の健康に大きな害のある、大きな勘違い行為の一つです。
「望みの感情」そのものは心の中で思いきり開放する。現実の壁を前にして、無理があるのであれば、「行動」はとどまる。これが正しい「望みの感情の扱い方」です。これならば「望みの停止」ではなく、「皮相化」も「荒廃化」も引き起こしません。
なぜ「望みの感情」の開放がそれほど大切かと言うと、実際のところ、人は「望みの感情」によって、最も「自分が生きている」という充実感を感じることができるからです。その感情の中で実際の活動をすることは、「楽しみ」や「充実感」のあることであり、その中での何かの達成は、大きな「喜び」を湧き出させます。実際のところ、「望みの感情」こそが、人間の心の幸福への始発駅なのです。
これを良しとしない人間思考もあります。
一つは「望む資格思考」でした。良い人間価値ある人間だけが、望む資格がある。
これは実は、すでに荒廃化した感情の中で生み出される思考です。自分の望みが多少停止を受けており、望める他人が少し許せなくなった心の中で抱かれます。本人はそうだとは感じません。むしろ、「良い人間価値ある人間」という理想の高さを維持するための、信念のように感じます。
そしてちょっとした自己嫌悪のたびに、「こんな自分に望む資格なんてない」と考えるわけです。そして望みの停止は一段階進み、さらに嫌悪すべき姿に変化している自分を、少しの月日の後で知ることになります。
人間の道徳思考は、多分にこの構図の中にあります。悪を許してはいけない。そうして「悪」なるものを定義し、それを頭から押さえつけようとすることで、事実「悪」が生まれています。表面だけ見ているならば、奇妙につじつまが合っている形でです。
道徳思考では、その一方で「人のためは善」と言われ、「頼まれたら断れない」のが「良い人」だという思考法が組み合わせることで、この「望む資格思考」ががっちりと固定されます。つまり、表に出た「望み」は叶えられる、その分、「望んでいい人」の規準が厳しく出てくるという思考法になるわけです。
これは現実の社会に合ったものではありません。望むのは自由です。しかし叶えられるかどうかは、資格の問題ではなく、努力と現実のハードルの総合的結果の問題です。
純粋な望みに「フラストレーション」はない
もう一つ、人が「望みの感情」の開放を良しとしないのは、現実において満足されないフレストレーションを嫌うか、もしくはその「望みの感情」そのものが自分でも認めたくないような、人間性を損なった欲求になっているケースです。
これもやはり、すでに荒廃化が起きた後のものになります。フラストレーションは、「穴埋め」「復讐」「見返し」という色彩を帯びた欲求に特有なものです。つまり最初から怒りを含んだ欲求が、それが満たされないとフラストレーションという嫌な状態になるわけです。異性に振られた腹いせに、もっといい相手を見つけてやる。しかし新たな異性に向かおうとする度に、自分の敗北感を思い出す気分もするるので、「自分は異性との付き合いなんて興味ない」と考えたくもなります。
荒廃化しておらず怒りを含まない「望みの感情」は、現実に「達成」されなくてもフラストレーションは起きません。「望みの感情」に向かい続けていることが、それだけで人に幸福につながる良い感情を与えるものです。
だから、「初恋」は多くの人にとって、生涯に渡って特別な感情として記憶の中に残るものになるわけです。それは多くの場合、皮相化や荒廃化を起こす前の「望みの感情」の代表的なものです。
皮相化荒廃化した「望み」とは、大元の望みにおいて求めたものに背を向け、その代わりの代用品となるものを追い求める衝動という位置づけも持っています。「もうそれはいい!その代わりに..」と自分を納得させようとするかのように、その代用品が、自分が人生で目指すものであるかのように、その獲得へと駆り立てられていきます。
そうした代用品を追い求めることで満足しようとする衝動は、実はいくらそれが現実において「獲得」されてさえ、心が満たされることはありません。一瞬、心が満たされたかのような気分にはなるかも知れません。しかしそれは長続きせず、すぐに心は空虚にさいなまされます。そして、再び満たされる一瞬の感覚を得るために、さらに大きな獲得が必要になってくるのです。そこに、「貪欲」というものが生まれます。やがて、満たされることなく外面だけを膨張させていく姿になります。
純粋な望みにおいては、そうしたことはありません。貪欲へと膨張することがないだけではありません。純粋な望みにおいては、現実における「獲得」がなくてさえも、そこに向かうことにおいて、心が満たされるのです。
第2の鍵:「遡り」
もはや自分でも目を背けたくなるような、人間性を欠いた「欲望」だけが、自分の心に湧き出るものになってしまったというケースも考えられます。たとえば殺傷衝動や変態性欲といった類です。
これもやはり「望みの停止による皮相化と荒廃化」が深刻に進行した、末期的な状態として生まれます。「人の目の中で」という皮相化した望みがさらに、その後の度重なる不遇の中で、「どうせ自分にはそんなもの」という観念の中でさらに停止される。これを繰り返した先にあるのは、はっきりと、破壊に快楽を憶える欲求の出現です。これは同時に、さらにこの人間が自分は社会に受け入れられない存在なのだという絶望感を強めさせます。
そして、最後に、「自暴自棄」という、最後に残った心理メカニズムの歯車が回り、荒廃化した「欲望」が開放されます。この時、社会への憎しみが、この荒廃化した欲求に最後の増強を加えるかも知れません。
そうして犯された「罪」に対して、人が向き合う姿勢は、人類の歴史を通して葛藤の中にあると言えるでしょう。
それは明らかに許されざることであり、私たちはその行動に対して、最も重い刑罰を用意しています。
一方で、全ての罪を許すという、「神の愛」の世界を謳う思考も、人類の歴史を通して生み出されました。
事実、これがハイブリッド心理学が考える「病んだ心から健康な心への道」の、第2の、そして最も深い、鍵になるでしょう。
望みの感情に向かうことに、人間の心の幸福があると言っても、すでに荒廃化した感情しか湧き出ない心を、どうすればいいというのか。心を病むメカニズムにおいては、私たち自身がどんなにそれを認めたくないとしても、必ず感情の荒廃化が伴います。「病んだ心から健康な心への道」への取り組みにおいては、それとは逆の方向へと戻らせる「浄化」のメカニズムが大きな鍵になります。
事実それが2つあります。「遡り」と、そして深いテーマである「死」です。
この2つは一見してかなり別の話ですが、私自身の実感として、それは常に共にあるように感じます。
それはなぜか。恐らく、「遡り」とは「出生」をめぐる遡りであり、その先には「命」があり、「死」があるということになるのでしょう。
そしてさらに言うならば、望みの感情を停止させて、本当の自分ではない何者かになろうとした衝動を抱かざるを得なくされた、その大元へ遡るということは、「気持ちが楽になる」「心が軽くなる」といった安易なことではなく、実際のところ自らの死を問うことによって始めて成される選択のようなものが、そこにはあるように感じています。
「遡り」は、私たちの日常生活の中にはない、特別な心理学の世界になります。これは19世紀にフロイトによって創始された「精神分析」という学問領域によって、その特別な実践と、その結果による深遠なる人の心の変化が知られることになりました。
ハイブリッド心理学では、それをより分かりやすいものとして実践する、「感情分析」というものを定義しています。これについて詳しくは第2部で説明します。
ここで簡単に言えば、一つの感情として体験されていた感情を、その発生の由来に沿って、複数の感情に感じ分けていく実践と言えます。まるでワインのソムリエのような感じですね。
それによって、皮相化荒廃化する前の「望みの感情」を、遠い記憶から引き出すように、取り戻していくという変化への可能性が開けれます。実際私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』は、そうした遡りの過程を通して感情が浄化されていく、大掛かりな様子を、今までのどんな文学にもないような精緻さで描写したものになっています。
第3の鍵:「死」
そしてその先には、「死」というテーマが現れてきます。それは「遡り」によってたどる感情というものが、「命」に結びついた、濃い感情だからです。それは私の体験においてもそうでした。
「死」を前にして起きる心の「浄化」。これが事実、ハイブリッド心理学においても最も深遠なテーマになるでしょう。
「死」を前にして、「命の洗濯」とでも言うべきことが起きる。そんな印象を感じます。
これは私たちの日常生活の中でも、時に触れる話になります。人が死に直面するような体験を経て、根本的に変化するような話を時に聞くものです。その変化とは、生きる上での嘘や無駄を捨て、持てる命を最大限に生かすことへの揺ぎない前進への変化といった、まず良い変化です。
さらに時に見るのは、人が死を前を前にして、目をおおうほどに醜く荒廃化させた心を、清らかなものへと変化させる瞬間があることです。それが犯罪者の事例として知る時、それはほとんど常に「現実における死」を前にしたものでした。
その端的なものが、前章で紹介したマリー・ヒリーの事例でした。彼女のケースでは、取り戻した清らかな心によって、彼女はもはや社会的には許され得るであろう幸福にさえ背を向け、自らの出生へと遡り、自らの命を神に捧げることが彼女にとって真に清らかな心を取り戻すことの完成であるかのように、その生涯を終えたのです。
その他にも、残忍な犯罪者がその生涯の終わりに際して、清らかな方向へと心を変化させているのを、私たちは世界の犯罪史を紐解く中で目にすることができます。
至上最高の快楽殺人者と言われたテッド・バンディもその一人です。死刑執行直前の姿でした。「自分は暴力の中毒になっていた」。もはや殺人者だった彼とは違う静かな表情でただそれだけを言う彼の目は、僅かに涙を滲ませていました。
そして私たちの記憶に鮮明に残る、大阪池田小での児童殺傷事件の宅間守死刑囚。彼は自らが犯した事件について、「犯行途中で“もう十分や。誰か止めてくれ”と思ったが、勢いがついて自分では止められなかった」といった供述をしていました。彼にとり殺人は快楽というよりも、社会への憎しみの表現だったのでしょう。彼は最後まで社会への憎悪を捨てることができず、早期の死刑を自ら望みこの世を去りました。それでも彼が最後に残した言葉は、「獄中結婚」した妻に「ありがとうと伝えて」と、職員に託した伝言でした。その言葉に、彼の心に取り戻された人間の心の一端を感じます。
もう一つ、TVドキュメンタリー番組の中で見た、ある終身刑の老人の姿が、私の記憶に印象深く残っています。内縁の妻を殺した罪による服役でした。もはやベッドから起き上がる力さえままならず、身よりもなく、あとは死を待つだけのこの老囚人の元を、心のケアとして時折牧師が訪れます。「今何が欲しいですか」そう優しく問いかける牧師の腕を、骨と皮だけのしなびた手で強くにぎり、涙を流しながら老囚人が言った言葉は、「聖書が欲しい」というものでした。自分の冒した大きな罪を、悔い改めたい。それが彼の最後の、「望み」になったのです。
ハイブリッド心理学は、そうしたものとして、「死」を常に見つめ続けます。
病んだ心への取り組みの最初においては、これは微妙なテーマでもあります。心が病むメカニズムの中で、それは最後には、苦しみを見せつけ復讐を果たすための、もしくは自己破壊を完結させるための、そしてこの「あるべきでない現実」を消滅させるための、最終手段にもなり得ます。
まずは健康な心への歩みとして、しっかりとした方向性を見出すことが先になります。そして「否定価値の放棄」という大きな道標を過ぎてから、今度は「生きるための鍵」として「死」に向き合うということになるでしょう。
私自身は常に、「死」を意識して生きています。別にその具体的な心配があるわけではありません。すこぶる健康であり、百歳まで元気にスキーするのが一つの目標です。
「死」を常に意識するのは、「今」を大切に生きるためにです。自分が生きる時間を、1秒でも無駄にはしたくないからです。
これらの話は何を意味しているのか。つまり、「死」を前にした時、人生において本当に重要なものが見えてくる、ということです。これを心理学的な技術として使わない手はない。そう考えます。
もし自らの人生を充実したものにしたいのであれば、私たちはこの生きている時間において、自らの死を問い、今気にしていること、そしてこれから行おうとすることの中で、何が本当に重要なのかをふるいにかけるという実践を、もっと積極的に取り入れるのが良いでしょう。
第3の鍵:「愛」と「自尊心」の対立
ではそうして「死」を前にした時に、何が起きるのか。残忍な犯罪者たちが死を前した時に始めて、彼らの心に現れたものは何だったのか。
それはまず「愛」です。「死」を前にした時、「愛」が現れます。
老囚人が「聖書が欲しい」という言葉の中で求めたものも、神の愛でした。
では人生で「愛」が最も重要なものでしょうか。「愛」を求めることに、答えがあるのでしょうか。
明らかに違います。明らかに、人は「愛」だけで生きる存在ではありません。もう一つ「自尊心」というものが、人間の心において、「幸福への条件」として極めて重要なものになります。そして「自尊心」を「愛」に依存した時、人は「愛」を失うと同時に「自尊心」を失うのです。
もし人間が「愛」だけで生きることのできる存在であれば、人間の心の問題はこうも複雑にはならなかったでしょう。
実際のところ、「愛」だけでは腹は満たされません。食うためには稼がなければならず、そのためには社会で勝てなければなりません。そうした強さへの指標として、「自尊心」という感情があります。
かといって愛に背をむけて我利我利亡者になっても、自尊心は増えません。「愛」そのものが、自尊心の大きな条件になっているからです。
「愛」と「自尊心」が重なるものでありながらも、多分に相容れない面を同時に持っている。これが事実であり、それが人間の心の最大の課題でもあるでしょう。
「愛」が大きく私たちの心を魅了するものである一方、私たちがそれを求めることによって自らの自尊心を失うのならば、それは心にとって一つの危機になります。だから自分を守るために、「愛」にそうやすやすとは近づけないという事態が起きます。形だけの真似事のような愛の話ではなく、本当に重要な愛においてです。
ですから、皆さんも思い出してみるといいと思います。少年少女時代、初恋の人に近づこうとすることは、何の不安もない、良い気分だけのことだったでしょうか。
「愛」が「一体化」への感情である時、事実それは「自由」と相容れない面を持つことにもなります。これは健康な心においてさえ、そうです。相手と一体化している間、自由は多分に犠牲になるからです。そして自らの「心の自由」を保てることも、自尊心の条件になるでしょう。
第4の鍵:「恐怖」
「愛」と「自尊心」が重なるものでありながらも、相容れない側面を持ち、一方を求めることで他方を失う可能性がある。そこにもう一つの要因が加わることで、人が「望み」に向かうことができなくなる事態が起きてきます。
それは「恐怖」です。これが次の鍵になります。
愛を求めることで自尊心を失うことへの恐れがある時、私たちは愛に向かうことができなくなります。いや実は、愛に向かうことができなくなる以前に、自尊心を失うことを怯える自分自身の姿によって、愛は損なわれていたのかも知れません。
自尊心に向かと愛を失うと怯えた時、私たちは自尊心に向かえなくなります。実は、愛を失うことに怯えたことに、自尊心が損なわれているのかも知れません。
もし自尊心によって愛を失うことを恐れなければ、私たちは自尊心に向かうことができます。
愛の犠牲として自尊心を失うことに脅かされることがない時、私たちは愛することができます。
愛を失うことを恐れなければ、私たちは、真に愛することができるのかも知れません。
かくして、「恐怖の克服」というテーマが大きな鍵になってきます。
これについて、多くの人が根本的な勘違いをしています。「恐怖の克服」とは「恐怖を感じない」ことだと。恐怖を感じないことが、良いこと。恐怖を感じるのは弱さであり、情けないことだと。
それは違います。真の「恐怖の克服」は、前を向く姿勢の中で「恐怖を生きる」ことに中にあります。
実は、私たち人間が「恐怖」において恐れているのは、大抵、「現実において自分を脅かしているもの」ではなく、「恐怖に怯える自分」を恐れています。つまり、私たちが実は恐れているのは、「恐怖の感情」です。
これは「恐怖」を恐れた時、自分を脅かすものとは、実は自分自身だということです。そして時に、自分自身によって脅かされることを恐れるあまり、そこから逃げようとして、「現実」において自分を脅かす状況を作り出してしまいます。
真の恐怖の克服は、この誤りを解除し、「現実」への正しい対処を学ぶと共に、「恐怖」を生きることにあります。そこにおいて「自らへの脅かし」がもはや不要なものであることを心底から知ることにおいて、恐怖は根底から消えていきます。より詳しくは第2部で説明しましょう。
第5の鍵:空想と現実
では、何によって自分自身を脅かすことになるのか。
そこに「空想」と「現実」というテーマが現れてきます。これが次の鍵になります。
人は病んだ心の中で、空想の中の「あるべき姿」によって、自らを脅かします。そしてその「恐怖」から逃れれようとして、他人を、そして自分自身を、破壊していきます。
病んだ心のメカニズム「自己操縦心性」においては、これがもはや、空想と現実の重みづけが逆転した独特の意識状態の中で、イメージと感情は理性制御不可能なものとして勝手に流れるようになります。
自分が宇宙の中心になれるような「なるべき自分の姿」を描き、それに向かって自らを駆り立て、それに満たない自分を処罰する感情を向け、陰険な残忍さの他人によって自分が破滅に向かわせられるという幻想的な危機感の中で、他人と、そして自分自身の破滅へと向かわせられてしまいます。
そしてこの不遇にあえぐ人間が、本来自分に与えられ得るものとして受け入れるべき、他人からの、そして自分自身からの「傷ついた者への愛」を、自分を宇宙の中心にする愛こそが「真実」の愛だという「要求と真実の差し替え」によって、自分に向けられた「傷ついた者への愛」さえも、自ら破壊していくように仕向けられるのです。
一体なんで、こんなことになってしまったのか。
これは「空想」という心の機能の病んだ暴走なのか。当初私がこの「自己操縦心性」というメカニズムを明瞭にした時、私がイメージしたのは、人間の身体においても、本来自己防衛のためにあったものが、逆に自らの破壊に転じてしまうものがある。その現象との類似性でした。「アレルギー」などはその代表です。
しかしそう理解したとしても、解決への方向性が見えてくるものではありませんでした。
「絶対なるもの」
ここから、再び謎解きが始まります。
人はなぜ「自己操縦心性」の中で、全てを破壊しようとしてしまうのか。人はなぜその中で幸福を願いながら、自らそこから遠ざかっていくのか。
それは同時に、なぜ現代人がありのままに心を解き放つのをやめ、「あるべき姿」を掲げて怒りに頼る生き方を選択したのかの答えでもあり、「自己操縦心性」の起源を遡る謎解きでもありました。
この謎解きも2004年夏、私が「愛」についての謎解きを終えたすぐ後に、その続きとして始まりました。
私の目を最も強く着目させたのは、その中での「あるべき姿」という価値の絶対性ともいうべき強さでした。
それはまるで、輝く水晶のように「高く掲げる価値」になります。その価値の輝きによって、自分が誰よりも勝利し愛される人間になる。高く掲げた水晶の放つ光線によって、全ての人間が、その持ち主である自分にひれ伏し、自分を愛する。そんなイメージです。
ただしこのイメージが示す通り、高く掲げた水晶は「自分自身」ではありません。水晶の輝きによって自分が愛され勝利することを期待する人は、実は「本当の自分自身はみずぼらしく愛されない人間だ」という感情を心の底に隠し持つことになります。
そして自分が持つその「高く掲げた水晶」を、実はそれはただの石ではないかと否定された時、この人の心の世界で水晶の輝きは消え、皆が自分にひれ伏し愛する世界は一挙に崩壊し、かわりに「まがいもの」と断罪された押し込められた自己像が現れます。そしてその相手とは、一切の相互理解も、一切の共感もあり得ない異形なる他人という関係になるわけです。
こうして起きる感情反応は、まるで、宗教における価値の否定と同じもののように感じられました。自分自身を否定されたわけではない。でも自分自身にとっての「神」そのものという、あまりに絶対的な価値を否定されたという感覚。その後では、その相手との調和はもうあり得ず、あり得るのは敵対か離反だけになります。
これは「全能万能」の価値とも言えます。それがあれば何でもでき、何でも手に入る。ここでは宗教における「神」という、その「絶対性」が「全能万能」の内容です。
心理学の観点から見るならば、人の出生において「全能万能」という感覚は、「宇宙の愛」によって与えられるものと考えられます。親の無限の愛に守られ、無限の力を持つことによって、幼い自分でも、何でもできる。その素朴な安心感と期待の中で、現実世界へと歩み出すわけです。
自己操縦心性は、この幼い心の発達上の要求を、自己理想イメージというものの中に、その無限と万能への期待を閉じ込めたもののように思えました。
自己操縦心性の中で動く感情は、こうした「絶対なるもの」という感覚が、その論理の根幹になります。こうした側面を考えると、自己操縦心性とは単に空想が暴走する病理なのではなく、人間思考のひとつの世界そのもののようにも思えました。
自分は何でもきるんだ。この空想こそが現実だ。今の自分は現実じゃない。
自己操縦心性の起源は「傷ついた自らへの愛」
一体この逆転は、何のために行われたのか。やがてそれによって自らを破壊することになるにも関わらず。
これを考えた時思い浮かんだのは、カルフォルニア洲史上最悪と呼ばれる児童虐待体験を克服して、自らの人生を獲得した半生を綴ったベストセラー、『“It”と呼ばれた子』の著者デイブ・ペルザーでした。
あの地獄のような虐待の中で、最後まで彼の希望を失わせずにいたもの、それは彼の空想力でした。彼は自分がスーパーマンになる空想によって、ぎりぎりのところで人間への希望を保ったのです。これは現実じゃない、僕はスーパーマンなんだ。この空想の世界の方がむしろ本当なんだ。この思考が、彼をあの地獄から救ったのです。
「現実からの逃避」
私は最初その言葉を思い浮かべました。しかしそれは間違いでした。彼の中で「空想世界」は、明らかに生きていくための前進でした。これは明らかに、単なる自己防衛を超えた、人間の脳が獲得した、遥かに高度な機能だったのです。
これが「自己操縦心性」の起源です。
ではなぜ「自己操縦心性」はそれを行おうとしたのか。
それは地獄の中に生きる自分自身の心を救おうとするための、自分自身への「傷ついたものへの愛」ではないかと思えたのです。これは私の心理学の整理の道のりにおける、あまりにも大きなどんでん返しでした。「自己操縦心性」は決して「病んだ悪の心性」などではなかった。それは自分自身への「傷ついたものへの愛」から生まれたものだった!
そう考えるに至った時、私は涙が溢れてくるのを感じました。自分自身の心理学によって、私は始めて涙を流しました。
実際のところ、「自己操縦心性」が純粋に持つ機能とは、「空想と現実の逆転」以外には、実はあまりありません。その中で暴走する感情は、それ以前の段階ですでに用意されたものです。その中で描かれる「なるべき自分」という理想像自体は、健康な心の成長においても自然なものです。
そしてそうした「あるべき姿」を規準にして、「決しては許してはいけない」そして「良い者だけが望む資格がある」という、情緒全体を破壊の方向へと導いた思考は、「自己操縦心性」によるものではなく、人間が自ら選択したものだったのです!自己操縦心性はそれを忠実に再現しているに過ぎません。
第6の鍵:「成長」
こうして「自己操縦心性」が傷ついた自分を救おうとした自分自身への愛から始まったものであるのであれば、私たちに、ひとつの選択が提示されることになります。
つまり「自己操縦心性」が「空想と現実の逆転」というその機能によって自らを救おうとしたその役割を、今度は私たち自身がそれをバトンタッチして受け取り、自らが自らを救う役割を果たしていくことです。
そしてそれを私たちが選択し、自らの自己操縦心性を否定するのではなく、むしろそれに感謝した時、自己操縦心性は憎悪を宿した赤い攻撃色に光る目を、青く穏やかな目の色に変え、静かに、そして心安らかにその役目を終えるように思えるのです。
ここに、「成長」という、「病んだ心」から「健康な心」へのターニング・ポイントを決定づける次の鍵が現れます。
「宇宙の愛」によって与えられる「全能万能」を、私たちは幼い心において、「神」のような「絶対なるもの」の感覚に求めようとしました。
しかし私たち人間の心は、「宇宙の愛」によって与えられる「全能万能」を終着駅にするものではありません。それはあくまで始発駅であり、そこから、「人生」という大海原への航海へと、旅立つのです。
その先にある、新たなる命題があるはすです。それは「成長」の命題です。「成長」とは、何を成すことなのか。
答えは単純であり、全ての命がその生涯において持つ単純な命題へと至ります。
それは「自立」です。「宇宙の愛」から旅立って、「人生」という大海原へと自立する。
健康な心の成長においては、そうして自立して生きる自分に揺ぎない自信を得るとともに、今度は自分が子供を育てる側に回ることになります。そして子供ができ、「子供への愛」を持つようになる。
つまり人は「宇宙の愛」から「自立」することを通して、再び「宇宙の愛」へと戻っていくのです。
これが人間の心のDNAに刻まれた、摂理というべきものなのでしょう。そして単純に、そのDNAに刻まれた設計に従うことが、おそらく心の成長と幸福への近道なのだろうと考えています。