13章 病んだ心から健康な心への道 −「否定価値の放棄」という最大の道標−
*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*
扉を開ける:「否定価値の放棄」
ここからは、今までに見出した鍵を逆に回していくことになります。
まずは、「健康な心」へと続く、大きな幹線道路に出るための扉を、開けるのです。
まず逆に回していかなければならい鍵とは「空想と現実」です。「空想」に立つことから、「現実」に立つことへ。
ただしそこにはすぐに難題が立ちふさがっています。それを再び逆に回す鍵が必要です。それは「恐怖」です。
私たちの心は今まで、「恐怖」を、何か「絶対なるもの」を獲得した威光によって克服しようとしてきました。しかしそれは、ありのままの自分が恐怖を乗り越えるのではなく、「絶対なるもの」の威光が恐怖を自分から遠ざけてくれることを求めるものでした。人生の大海原の中には、もうそれはありません。自分自身の力で恐怖をはねのけ、自分自身の力で前に進み、自分自身の力で生き、自分自身の力で道を切り開いていかなければなりません。
「絶対なる価値」は、私たちが追い求めようとしたものであると同時に、それによって自らを責め立て、苦しめるものでもありました。実は「恐怖」の最大の根源も、まさにそこにあったのです。「恐怖」の最も大きな源泉とは、自らに向けられる怒りへの恐れです。また怒りによって愛が剥奪されることへの恐れです。
それら全てに代わる、新たな心の命題を見出すのです。
ここに、科学的世界観に立ち、「善悪の解体」を携えて、自らによる幸福の追求を行うという、ハイブリッド心理学の「心理学的幸福主義」の真の役割が、現れてきます。
まずは科学に立って、この現実世界と現実社会への対処方法を学ぶことです。これは心の持ちようや精神論ではなく、思考法行動法についての沢山の知恵とノウハウがあります。ハイブリッド心理学もそれを沢山用意しています。それは現実において私たちを脅かすものへの恐怖を確実に減らし、この社会を生きて行くための自信の芽を与えてくれるはずです。
次に、「善悪の解体」に立つことで、この「病んだ心から健康な心への道」の最大の中間道標が現れます。
心が病むメカニズムの歯車全体を回している、最も基本的なモーターである「否定価値」を完全に捨て去ることです。望ましくないものを「それは駄目だ」と否定することに価値を感じ、否定できる自分に自尊心を感じるという感覚の、完全なる放棄です。
「それだ駄目だ」と「否定できる」ことに価値を置くのではなく、「ではどうすればいい」と、「現実において向上」できることに、価値を置くことです。これは「破壊から自衛と建設へ」という、人間の行動様式の命題でもあります。
これは「怒り」の完全なる放棄でもあります。「怒り」とはこの「否定できる価値」という感覚の上で、ものごとに対処するための「強さ」として使われる感情だからです。
「怒り」を選んだ時、私たちは自らの心の成長を、一時的に停止させることになります。「怒り」とは怪我を前提にして生き延びる心身状態になるための、脳内の毒だからです。
「あるべき姿から怒る」ことを基本とする生き方の中で、私たちは実は、真の「心の成長」から、トータルに遠ざかっていたのです。
「神の国」から「放たれた野」へ
この「否定価値の放棄」であり「怒りの完全なる放棄」でもある最大の中間道標は、「絶対なるもの」という感覚の放棄によって成されます。
「絶対なるもの」の放棄とはどうゆうことか。それは、私たちは神ではないということです。
「神」が絶対なる存在であり、私たちがその下にある時、「善悪」はこの神の大きな目の下にありました。正しければ神が幸福を与えてくれる。だから「善悪」を知り、善を成すことが大切だということになります。善には愛が向けられ、悪には怒りが向けられる。正しい者が愛を望む資格がある。
「善悪の規準」は、そこでは「神」が決めるものです。「神」が「善悪の規準」によって人間に幸福を与えるのであれば、「善悪の規準」を人間が決めるとは、変に人間に都合のいい話になってしまいます。
自分は善悪の規準を知るとは、自分は神であるということ、もしくは自分は神の代理人であるということです。これは自分は人間を超えた存在だということであり、愚かな傲慢です。
しかし人間は、善悪を自ら考え、悪を怒れという思考を選択しました。これは自らが神になろうとすることです。
どうゆうことか。私はここに、人間の「出生における挫折」という、心が病むメカニズムの起点が、人類文化という大きな次元で重なっているのを感じます。
人間の出生においてあったのは、確かに、「宇宙の愛」という「絶対なるもの」に愛され守られることが自然であった世界でした。確かにそれが「あるべき姿」だったのです。これは「神の国」とでも言うべき世界でしょう。
しかし自分はそうではなかった。この数千年という人類文明の中で、この事態が起き始めたわけです。
怒りの中で「絶対なるもの」を掲げる。これは、出生において絶対なるものに愛され守られなかったことへの怒りと、「あるべき姿」という果たされなかった命題を引きずる思いの中で、宇宙の愛を与えられなかったことへの復讐を、自らが神の力を獲得することで果たそうとする姿であるように感じるのです。
人が病んだ心の中で激しい怒りや嘆きに向かう時、そこに私は、「神の国」において安住を得ることのできなかった一つの魂の、苦しみと涙の叫びを聞くような思いがするのです。「これがあるべき姿だったのではないのか!」そして絶対なるものを掲げて、他人と自らを破壊する。
「不完全性の受容」
「現実世界」は、「神の国」ではありません。私たちが生きるこの「現実世界」は、とても不完全なものです。そして私たち人間は、とても不完全な存在です。
もし私たちがこの不完全な現実世界に対して、「あるべき姿」に満たないものは怒るという思考法を選ぶならば、一瞬にして私たちの心は怒りと嘆きの洪水に飲み尽くされることに間違いはありません。さらに、怒りに覆われた自分の心もまた「あるべき姿」に満たないものとして、怒り嘆くことになるのでしょう。
「否定価値の放棄」は、その感性を向ける相手であった「現実」というものの、「不完全性の受容」として成されます。
つまり「否定価値の放棄」「怒りの完全な放棄」とは、出生における「神の国」から、「現実世界」へと、つまり「放たれた野」へと旅立つことです。
「現実世界」は、「善悪」のない世界です。そこは大自然の大海原です。そこでライオンがインパラの子供を襲っても、そこに「善悪」はありません。海の底で奇妙な形をした魚が、自分の体の一部を餌に見せ、小魚を騙しておびきよせ食らうとして、その中に「善悪」はありません。
人間の世界も同じです。
この言葉はまだ完全にはしっくりこないかも知れません。人間はそうした動物とは違う。「善悪」を持ち、それによって自らを律することができることに、人間の価値がある。
駄目なものは駄目と否定できることに価値がある・・。
話はここで再び、宗教哲学から、「否定価値感性」という、心の健康についての話になってきます。全く次元の違う世界の話が、どうしてもクロスしています。
「否定価値感性」は、人がその出生において、「ありのままに自分を解き放つ」望みの停止が引き起こした「情動の荒廃化」を背景にして、学童期に獲得されたものです。
逆に言えば、それによって私たちは、「否定することなく価値を感じる感性」を失ったのだと言えます。
ですから、この「否定価値の放棄」「神の国から放たれた野へ」「不完全性の受容」という、ハイブリッド心理学が「病んだ心から健康な心への道」において最大のものと考える命題は、「善悪の解体」「善悪を捨てる」という消極的表現だけではやはり答えが見えない問題だと言えるでしょう。
私たちが失った「否定することなく価値を感じる感性」とは一体どうゆうものなのか。これを理解することで、その答えに向かう方向性が少し見えてくると思います。
2つの話をしたいと思います。「建設的絶望」そして「心の再生」です。
「建設的絶望体験」という人生の賜物
「現実」はとても不完全なものです。それに対して私たちは「善悪」をわきまえ、「善悪」によって自らを律っし得ることを価値と考える思考法を、この数千年の人類文化の中で選択してきました。
しかし「現実」は時に、それ以上に容赦ないものです。それは時に、受け入れがたい損失を含むものでもあります。そして事実、それを受け入れることはとても難しいことであり、「駄目なものを怒る」という思考法の先においては、ただ「嘆き怒る」ことだけが、「正しい」こととして残されます。多くの人は、その出来事を受け入れることができないまま、時を止めた人生を送ります。
事実、そうした現実を受け入れることは、とても難しいことです。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』で有名なマイケル・J・フォックスは、30歳という若さでパーキンソン病にかかった現実を受け入れるまでに、8年間かかったそうです。
それまで彼はその「現実」を心からしめ出そうと、症状を薬で押さえ、健康を装った出演を続ける一方で、酒に溺れた日々を送るようになりました。家族への愛を失い、八つ当たりし、やがて家族からも去られてしまいます。
そうして8年目にして、やっと、彼の心の中で、この「現実」を受け入れるという、心の未知なる歯車が解き放たれたのです。彼は、この、「パーキンソン病にある者」という自分の現実こそが、自分の生きる原点なのだと受け入れました。そしてそこから前に進むことに、意味を見出したのです。
それはパーキンソン病という病にある自分の姿をありのままに世界に晒し、同じ病に苦しむ多くの人々と手を取り合って、その克服へと歩むことでした。それは彼だけにしか成し得ない、彼だからこそ可能な、唯一無二の前進への道を見出した時でした。家族への愛が心に戻り、治療法研究のための財団も設立し、新たな人生へと歩み始めます。
「あるべきではなかった現実」を受け入れた時、初めて彼は「人生の幸福」を見出したわけです。
彼の心の中で解き放たれた心の歯車とは何か。ハイブリッド心理学ではこれを「建設的絶望体験」と呼びます。
「絶望」そのものは、あくまで「望みが絶たれる」ことであり、心理学的に言っても基本的にはあまり望ましい感情ではありません。それが人生の幸福に役立つものである時、単に「望みが絶たれる」ということではない位置づけが、そこにがあるはずです。
その観点から言うならば、明白なのは、何らかの形で「誤った」望みを追い続けていたのであれば、それに絶望することは建設的な意味を持つことになると言えるでしょう。
そうした「誤った」望みとは、どんな望みなのかと言えば、やはり、穴埋め腹いせ、見返し見せつけといった位置づけで抱かれた、内実そのものよりも「人の目」を目当てにした衝動の類になるでしょう。これが自分自身でもはっきりと自覚されたならば、「絶望」というよりも「洞察」という、より安全で望ましい形でそれが成されることも可能かも知れません。
しかしマイケル・J・フォックスのような、大きな人生の損失を前にした時、もはや「洞察」によって乗り越えろと考えるのは、おそらくあまりに安易なごまかしのような話になってしまうでしょう。
「自己操縦心性の崩壊」というもう一つの「建設的絶望体験」
一方、病んだ心の治癒においても、似たことが起きます。
思春期に発動する病んだ心のメカニズム、「自己操縦心性」においては、「人の目」の中で何ものかになろうとする衝動が、もはや理性コントロールが利かないイメージと感情の強制力によって、人を駆り立てるようになってしまいます。
まず可能なのは、とにかくその感情に巻き込まれないように、感情を鵜呑みにしない思考法と行動法を身につけることです。これがハイブリッド心理学における治癒成長の、最初の主な実践になります。
それに対応して健康な感情がそのまま育っていけば望ましいのですが、強固な「自己操縦心性」はその形では取り除かれません。8章の最後で述べたように、この病んだ心性が根底から崩壊する、「完全なる絶望」とでも言うべき意識体験を時に経るのです。これはまさしく、この人間の心の根底を生涯にわなって支配してきた、「人の目の中で何ものかになろうとする衝動」が、自らに絶望したことの意識表現なのです。
これが「自己操縦心性の崩壊」です。
これは「感情分析」による深い自己理解を進めることで起き得ます。自分が心の底で追い求めているものを感じ分けていく先に、自分を支えている衝動が、内部において完全に矛盾し葛藤し合っており、完全に出口のないものであることが、頭で理解するというよりも、心の底が感じ取るのです。
その「完全に出口のない衝動」とは、根源的自己否定感情に目を背け、「自分を否定するための自己理想像」という完全なパラドックスの上で、人の目の中にある自分の姿を通して愛と自尊心を空想の中で満たそうとした、病んだ心のメカニズムの中心の歯車に他なりません。それがこの人を人生において苦しめ続けるものであったと同時に、ぎりぎりのところで、この「出生における挫折」を置き去りにした心を支えつづけていたのです。
それが、根底から崩壊します。生きることの全てが無意味となり、肯定的な思考と感情が、完全に消え去ります。「完全なる絶望状態」へと心が向かったかのような姿になります。
これが治癒現象として起きる分には、これは安全な現象であり、何も心配をすることはありません。
しかし心の治癒は真空の中で成されるものではなく、現実生活と平行して進むものである時、何らかの現実生活上の困苦と、残された病んだ心が働き続ける作用の中で、自殺念慮への危険が出てくる可能性も否定できないものになってきます。
これをあくまで根本治癒の表れであることを、残された知性で保ち、ただ自分の体だけは守り続けることを鉄則とすることだけを、この通過点における実践内容にしています。
事実、それは「生における拒絶」を受けた最初の出生の来歴へと、還ることなのです。それを、今の大人の自分の心で、受け止めてあげることです。思い切り泣くのもいいでしょう。そして死んだように眠るのがいいでしょう。事実それは今までの人生において、最も深い眠りになるかも知れません。
「心の再生」
私はこの現象が起きる様子について、その時この人間の心の中で、あらゆる「人の目」が消え去り、この人間の「魂」と「神」との間だけの対話が行われる。そんな印象を感じています。この人の意識は、何が起きているのかを知ることはできません。それは今までを生きていた「意識」の外で起きることがらになります。
ですから私は、こうした「自己操縦心性の崩壊」らしい感情悪化が起こった時の鉄則として、「ただ実存を守れ」という銘を提示しています。「自分の体」をもはや自分とは別のものに見て、それだけは守るという意味で、「実存」などという言葉を使っています。
事実、この時こそが、心の自然治癒力と自然成長力の、最大の発現の時となります。今までそれを大きく塞いでいたものが取り去られるのですから、これは道理に合った話です。
それは「心の再生」です。そして「再生」は、やはり「死」と常に隣り合わせにあります。
この通過点を過ぎてしばらくすると、心に「未知の状態」が現れます。それは大きな開放感を伴う、今までの人生にはなかったような、良好な心の状態です。これはまるで「脳の構造が変化した」と感じられるほどのものです。実際に何らかの脳生理レベルの変化も起きているのかも知れませんね。
この大きな変化の最も基本的な特徴は、「自意識の減少」です。自分のことをイメージに照らし合わせて揺れ動く感情や思考という、基本的な意識状態そのものが、根底から消え去るわけです。
そして「ただ生きる」ことがそれだけで、何の疑問もなく、自然なことであるように感じる、人生で始めての感覚が芽生えているのを知ることになります。「何のために生きるのか」「なぜ生きなければならないのか」今まで問い続けていた、その問いの答えが出ることはないまま、その問いそのものが消え去っています。
こうした大きな変化は、必ずしも1回の「自己操縦心性の崩壊」で起きるものではなく、数回を経て、あるいは小規模の「崩壊」が分散した形で起きる場合もあります。こうした仕組みが理解されることによって、恐らく小規模分散型の方が多くなってくるでしょう。
また「心性崩壊」の際の「絶望感」が、私の『悲しみの彼方への旅』で描写したような、巨大な谷底の姿になる必要は、もはやありません。その本に描写したほどの深い絶望状態になったのは、まだこうした心理学がなく、起きていることへの理解ができていなかったせいです。
「絶望」は、問題の深さを示すものではなく、解決の無知を示すものでしかないのです。
「現実を生きる脳」へ
「否定価値の放棄」という最大の道標を説明するために、「善悪の放棄」という宗教哲学的な話と、「絶望」を経た「再生」というテーマをお話ししました。
そこでまず言えるのは、「否定することなく価値を感じる感性」というものが、人間の幸福にとって極めて大きなものである一方で、それを意識的に引き出すことは極めて難しいことであり、人間の心の根底のレベルで、その対極にある「否定価値感性」が自ら絶望することによって、心の自然治癒力自然成長力の結果として発芽するという仕組みが、まず心理学的に考えられるものだということです。
それ以外には、どんなに頑張っても、再びその「否定することなく価値を感じる感性を持つ自分」という理想イメージを描いて、何とかそれらしい気分になれそうな「プラス思考」を考え、そんな自分になり切ろうとする、しばしば「自己暗示」と呼ばれる、「感情強制」という不健康な方法にしかならないように思われます。
そしてそうではない気分の尻尾が自分の心の片隅に見えてくると、それを否定しようとするわけです。「こんな気分じゃ駄目だ」と。そして駒が自己処罰感情と抑うつ気分の振り出しに戻るわけです。
「ではどうすれば否定することなく価値を感じる感性が持てるんだ」、とお感じになると思います。
そんな方法はありません。そもそもそれは作り出すものではなく、元からあるものなのです。私たちができるのは、それを塞ぐことだけだったのです。そして私たちはそれを行ったのです。
ですから私はその感性に、特別な名前をつけることはしません。それは「命」があると同時に存在するものだと考えるからです。
ただ一つ、私たち自身によって塞がれた、その感性を開放する手段がある。それが「現実を生きる」ことだということです。この不完全な現実をです。
そしてその不完全性を前にして、「あるべき姿」からの「否定価値感性」に立つ望みが絶望しても、それを受け入れる。その時、「否定することなく価値を感じる感性」は開放される。言えるのはこれだけです。
「人の目」を凌駕する「望み」へ
「否定することなく価値を感じる感性」が開放されるとどうなるか。
「あるべき姿」を持たない「望み」が回復します。この理屈はお分かり頂けると思います。「あるべき姿」を目指した望みが絶望しました。もしそれでも「心」に「望み」を生み出す自然治癒力自然成長力があるのであれば、そこに芽が出る望みとは、絶望した「あるべき姿」にはもうとらわれない「望み」です。
そんなのは負け犬の落ち穂拾いではないのか。
皮相化荒廃化した情動が、そう考えます。ありのままの自分で愛されることに挫折した心が、その穴埋めと見返しを求めて、人に勝てる姿によって愛されようとした情動が、「なるべき自分の姿」を掲げていたのです。
その皮相化荒廃化した情動そのものが、自らに絶望します。
そこに、「選択」が現れます。「なるべき自分の姿」になれなかった敗北と絶望をそのまま「終わりとして確定」するか。それとも、「なるべき自分の姿」を掲げる前の、皮相化荒廃化する以前の世界へと、さらに戻って行くかです。
そこに、人間の真の望みの世界があります。
それがどう見えてくるのかは、人それぞれでしょう。言えるのは、それは無理に引き出すようなものではなく、しかしそれが見えた時にはしっかりとキャッチしなければそれは再び遠ざかってしまうものだということ、そして人それぞれの形で、人生における何らかの「出会い」にも依存するものであろうことです。今ここで言えるのは、それだけです。
そしてそれが見えた時、その「望みの感情」は、今まで気にしていたあらゆる「人の目」を全て合計したものを、遥かに凌駕する感情であることです。
こうした「望みの感情」の質的変化は、私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』でまさに最もリアルな描写を狙ったものです。
大学時代、心のバランスを崩し、ありのままの自分であれることに絶望した私が、心理学に取り組んで自分を立て直そうとした時、私が向かい得るのは、何とか温厚で真面目な研究徒の姿によって、この社会での居場所を得ようとする、「人の目の中で生きる望み」にしかなり得ませんでした。
しかしそうした「人の目の中で生きる」ことへの徒労を深く感じた先にこそ、私が人生で追い続けた真の望みの感情への、回帰の出会いがあったのです。
その場面では、それは「愛への望み」でした。それは命をもかけようとするような、望みの感情でした。
その感情が初めて私の中に回復した場面の描写を引用しましょう。
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そうして自分の中の無力感をそのまま感じるようになった私の意識が、いままで表面的な理性で隠していたかのような、深い感情に到達します。
私は大学のキャンパスで、前方にあの子が友人と一緒に歩いているのを見ます。
自分がもうすぐ彼女らを追い越す。彼女の方を向いて、優しい表情で「さよなら」とあいさつしようか。。もうあの子が目の前に来ています。
しかし震える私の心は、私の体を別の方向へと歩かせ、私はベンチに座り、全身の力が抜けているのを感じていました。
もう自分への怒りは感じませんでした。ただ恐かったために彼女に近づくことのできなかった自分を、私は受け入れていました。
そのまま帰った私の心の中に、あの子へのあまりにも強い思いが湧きます。私は駆られるように、ホーナイの愛についての記述を読みました。自分の心の問題を克服しようという意志の中で。
それは、自己の弱さ、そして強さ、その全てをも委ねた愛の感情でした。他者との競争もない、敵意も軽蔑もない、そして愛が報いられないことへの怒りさえない、愛に身を捧げようとする感情でした。
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この描写においては、まず「なるべき自分」が描かれているのがお分かりかと思います。しかしその行動化は、「現実」という壁を前にした「恐怖」によって、妨げられます。しかしこれを契機に、「なるべき自分」を描く前の大元にあった、濃い感情が私の中で蘇ったのです。
その濃い望みの感情は、もはや「なるべき自分」を描くものではありませんでした。それはただ命をかけて何かに向かおうとする感情です。
そして同時に、そこには濃い恐怖が結びついているわけです。この場面の私にはそれが何の恐怖なのか分かっていませんが、それがまさに、幼少期から心の底に隠した「根源的自己否定感情」そして「感情の膿」に触れることへの恐怖です。
「なるべき自分」を描くのは、実はその恐怖から逃れるためであるのが、この描写では分かると思います。こんな自分で行けばいいんだ。何となく恐怖が見えなくなります。しかしその時同時に、大元にあった濃い望みの感情も、見えなくなっています。
これがまさに、幼少期における「愛への望み」に蓋がされ、学童期に「なるべき自分」が描かれるという来歴全体の、基本構造そのものです。
私はこの後、この濃い望みの感情に導かれて、病んだ心から健康な心への、根本的な治癒成長への道を歩みます。
「健康な心」への幹線道路へ
人生の答えをお伝えする時が近づきました。
まだ答えが出ていない問題がありました。「愛と自尊心の対立」です。
今までの話は全て、この人生の最大の問題への答えが現れる、「健康な心」へとつながる大きな幹線道路へ出るための、準備だったと言えます。
つまり、あらゆる人の目を合計したのよりも遥かに大きな、「望みの感情」を回復するまでの段取りのことを話していました。このあとは、ただそれに向かって一直線に進む道が開けます。
「心の障害」の「治癒」とは実質的にはこの段階までを言うものになるでしょう。この先は「成長」です。ただしこの2つの局面ははっきり分かれるものではなく、かなり重なって、2つの局面を何度も繰り返すのが基本になります。
「否定価値の放棄」「怒りの完全な放棄」は、この道へと出ることを妨げる最大のものを取り去る実践だと言えます。「否定価値」そして「怒り」はまさに、「あるべき姿」「なるべき自分」が描かれた空想世界を、自分の立脚基盤としたものだからです。
「不完全性の受容」とは、「現実を生きる」ことにおいて、その「否定価値の放棄」「怒りの完全な放棄」を成すことです。「現実」は不完全なものですから。
「破壊から自衛と建設」「サバイバル世界観」「原理原則立脚」
「善悪の完全なる放棄」。これは事実、かなり極端な思想です。
しかし、それは私にとって、「現実を生きる」ことにおいて「否定価値の放棄」「怒りの完全な放棄」を成すことへの、決意の表現なのです。
もし心の障害の問題が深く関係していなければ、思考法の変換だけでも、「否定価値の放棄」は可能になるかも知れません。しかし心を病むメカニズムの中では、この現実世界のあらゆる不完全性が、「嘆きと苦しみ」のために歓迎されます。それに別れを告げ、「現実を生きる」先にある絶望を超えた先に、「否定することなく価値を感じる感性」の開放があります。
そのために、どこまで「嘆かない思考」を徹底させるか、という話にもなるでしょう。
これはもちろん「なんでもオーケー」という無法図を良しとすることではなく、ものごとへの対処法を、「それは駄目だ」と否定する「破壊」から、「こうすればいい」という「自衛と建設」へと変換するということです。
私はそれを、「現実を生きる決意」として、100パーセント徹底することにしたのです。すると事実、善悪は完全に消え去ります。
たとえば今日の新聞朝刊の投稿欄にも、13歳の女子中学生から、満員の電車でゲーム機の騒音を出している「モラルない大人たち」について、「見ているだけで腹が立った」「いけないと思う」といったものがありました。
もし私がその女子中学生と同じ状況にいたなら、やはりそうは考えません。まず直接危害を加えられるわけでもない。次に考えるとしたら、騒音を気にしない意識法の良い練習場面だと考えるでしょう。
このように、「善悪」の観念をいっさい使わずに、あらゆるものことを「自衛と建設」の問題として考える思想を、「サバイバル世界観」と呼びます。
もちろん、モラルある社会への向上が望ましいのは当然です。そうしたテーマについては、ハイブリッド心理学では「原理原則立脚型」の思考法を採用しています。漠然とした「善悪」の観念と「怒り」の感情で考えるのではなく、客観的な事実によってものごとを考える思考法です。詳しくは第2部で説明します。
「病んだ心から健康な心への道」においては、こうした全てが、あくまで哲学論議をするためではなく、この現実社会をよりうまく生きるスキルを身につけることによる「恐怖の克服」や「自尊心の回復」、そして「人の目」「あるべき姿」を凌駕した「望みの感情」へと回帰するための方法として位置づけられます。