14章 病んだ心から健康な心への道 −「神の国」から「放たれた野」へ−

 

*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*

 

「今をただ生きる」からのスタート

 

 「否定価値の放棄」を境にして、「病んだ心から健康な心への道」は大きくさま変わりすることになります。それまでは否定的感情に翻弄される荒波の中で、何とか岸辺に向かっていく格闘であったものが、それを境にして、波が打ち寄せる海岸へと上陸し、「自分自身の人生」を新たに生きる、静かな歩みが始まることになります。

 その先にはまだしばらくは、荒涼とした荒野が続くかも知れません。しかし、「否定価値の放棄」を境にして、世界は一変します。それはまるで、今まで半透明の硬いガラスにおおわれていた世界が、そのベールを取り去り、世界の全てが、そのありのままの命を見せ始めるかのようです。

 その中を、まずは「今をただ生きる」ことから、歩んでいくのです。事実「否定価値の放棄」が成されているのであれば、もはやそれに疑問を感じることはないはずです。

 

 「否定価値の放棄」において重要なのは、それが単に頭で考える「ものは考えよう」という安直な話ではなく、思考と感情、そして何より「感性」を根底から覆す、ものごとの捉え方の大転換であることです。

 思考の実践面においては、ごく機械的な方法も役に立つものがあります。日々の生活の中で使っていた「〜はいけない」「〜でなければならない」といった「否定形」の文法を、「〜だといい」「〜するといい」という「肯定形」に、とにかく機械的に変換してみることです。

 より根本的かつ本質的な転換とは、「否定価値の放棄」とは、「自分の空想世界」によって愛と自尊心を得ようとする、「空想を生きる」という姿勢を放棄することです。

 その代わりにどんな姿勢を取るのか。

 そんなものはありません。意識して取る姿勢ではなく、意識して取る姿勢を全て捨てたところにある、「今」にただ向き合うことから、始めるのです。

 

人生の答えへの鍵1:「望み続ける」

 

 人生の答えをお伝えする時がきました。

 そのための鍵は、最初の鍵に戻ります。「望み」です。

 「人の目の中の自分の姿」を追い求める、皮相化荒廃化する以前の、より純粋な望みの感情に着目することです。ただしそれは自分の「理想イメージ」を描くことまでも否定するものではありません。

 「自分の姿」を描くと、それはやはりどうしても「人の目」を意識したものになりがちです。でもだからと言って、感情の動揺を恐れて「理想イメージ」そのものを取り下げるのは、まさに今までの「病んだ心への道」の繰り返しです。

 「人の目」を意識する感情さえも否定することなく、ただしそれは内面の問題であるだけにとどめて、外面行動においては、そこに「現実において向上」を生み出す方向性が一片でもあるのであれば、それに積極的に後押しをすることです。

 もしその行動に向かうことに恐れを感じるのであれば、無理をすることはありません。恐れる自分を認めてあげることが、ありのままの自分を受け入れることであり、自らに受け入れられた心は、そこから成長を始めるのです。やがて、同じ行動に向かおうとして、以前より恐れを減らしている自分を知ることになるでしょう。

 たとえ行動はできないとしても、「望みの感情」を否定することなく、心の中では思いっきり開放することが大切です。望みが満たされる空想に耽っても、一向に構いません。多少そこに思い上がりがあったとしても、人は空想によっては罪は問われません。

 もしそこに破壊性やフラストレーションなどの苦い感情が伴うのであれば、それは皮相化荒廃化した望みです。その大元にどんな、より純粋な「望みの感情」があったのあか、さらにはなぜ自分はそれを押し殺したのかという、挫折の感情に再び向き合うことも必要になるでしょう。

 それに対して、「否定価値の放棄」による新しい思考および感性と、「不完全性の受容」に立った、新しい生き方の中の、それらを自分の中でどう収め、どう前進への力へと変えるか、自分自身との対話を続けるのです。

 「人の目という空想の中で生きる」か、それとも「現実の中で自らの望みへ向かう」か。これがその基本的な指針としての問いになるでしょう。

 

 向かい得る望みがあるのであれば、新しい思考法と行動法を、積極的に活用することです。ハイブリッド心理学では、対人関係をより良いものにするための「建設的対人行動法」と、この社会をうまく生き、「社会で勝てる」ための、「原理原則立脚型行動法」という2種類の行動学を用意しています。これは必ず、この現実世界を生きていく自信を増してくれるはずです。

 外面行動への自信が増えてくると、内面における否定的感情も、より容易に乗り越えられるようになってきます。それはより積極的な行動、そしてより重要な行動への恐れを減らしてくれます。そうして行動範囲も増えることによって、人生を生きる基盤もより豊かになり、日々の生活の中で湧き出る感情も、より良いものを基調にしたものになって行きます。

 つまり、全てが良い方向へと向かう、好循環が働き始めるのです。

 もちろんこうした向上変化は、「心の持ちよう」という短絡的なものではなく、人生を通しての積み重ねによるものです。その中では、再び苦い感情に襲われる出来事もあるでしょう。それがまた、いままでに述べた「治癒」への取り組みの、よい機会になるはずです。それを超えるごとに、感情の基調はさらにより良いものへと、そして「未知の次元」へと向上していくのです。

 「どうなれたか」が重要なのではありません。進むべき方向性を知り、それを歩むことが重要です。これは最後まで、生涯を通して、そうです。これから続くのは、生涯終わることのない向上です。

 

 ただしまだ人生の答えは出ていません。それを知るためには、最初の「望み」という鍵と一緒に使う、あと2つの補助キーが必要になってきます。

 第1の補助キーの使い方は、「望み続ける」です。そこに「望みの感情」がある限り、それを行動に移すにせよ行動はとどまるにせよ、それに向かい続けることです。

 すると、「望み」そのものに、変化が起きてきます。「望み」はそれに向かうことにおいて、たとえ「達成」が獲得されなくとも、心を満たし得るものになります。

 そして「望み続ける」ことによって、同じように心を満たすものである一方、何かの変化が起きてくるのです。

 ここに、人生の答えがあります。

 

望みの「成熟」

 

 「望み」の変化をもたらす、この第1の補助キーの名前は、「成熟」です。

 つまりその変化とは、望みの「成熟」です。果実が小さな萌芽から熟した果物へと成熟していくように、「望み」が変化して行きます。

 ここからは、今までよりも長い年月を通しての話になります。

 

 「望み続ける」ことが生み出す最初の変化とは、「豊かさ」の感覚の芽生えと言えるでしょう。

 それは最初、自分に足りないものを追い求める渇望や希求として始まるものかも知れません。それでも、望みの感情を心の中で開放し、その実現へと向かって努力する過程そのものが、人に「充実感」という報酬を与え始めます。

 その中で人はやがて、思い描いたような「達成」がたとえ得られないとしても、そこに自分の心を満たすものがあることを、自覚し始めます。それはやがて、望みの「達成」そのものよりも、望みの「過程」そのものに「喜び」があるという感覚へと、変化して行きます。

 その時、その「豊かさ」とは、「人生の豊かさ」の感覚に他なりません。そしてそれが、「人の目の中で何ものかに成りきる」という、かつて自分の心を惑わした生き方とは全く違う、自らの心に湧き出る、「自分の姿」というイメージ以前の暖かいエネルギーの上にあることを感じた時、人は「自分自身の中に揺らぐことのない芯がある」という、他に代えがたい感覚を得るのです。

 

 ここにおいて、「望み」の質的な変化が、新たな次元へと到来することになります。

 つまり、「望み」が「自尊心」に変化し始めることです。「望み」によって「人生の豊かさ」を得た。これはもはや何の疑問を差しはさむ余地なく、人生の大きな価値を自分が知り、それを得たという自信を与えるものになります。

 今年39歳にして、米メジャーリーグの最年長ルーキーとなった、元巨人軍の桑田真澄投手が、TVのインタビューの中で同じことを語っていたのが印象に残っています。 「野球を好きでい続けるのが、僕の誇りなんです」と。

 

 ここにおいて、人間の「自尊心」の源泉としてまず考えることのできた、「愛される」そして「優越する」ことによる自尊心を凌駕する自尊心が、人の心に現れてきたことになります。

 これは「価値を知る自尊心」とでも呼べるでしょう。

 同時に重要なのは、望みに向かう過程におおいて、「全ての可能性を尽くす」ことです。これは、それによる「充実感」という報酬だけでなく、しばしば、その望みが関連する領域において誰よりも豊富な知識を得たという、現実的な「優越」を加えてくれることになります。これは「世界を知る」という新たな自尊心をつけ加えてくれます。

 

「与えられる」望みから「与える」望みへ

 

 望み続ける歩みが「豊かさの感覚」「価値を知る自尊心」そして「世界を知る自尊心」へと至ると、「望み」にさらに質的な変化が起きてきます。

 それは「与えられる」望みから「与える」望みへという変化です。

 これは単純で自然な変化と言えます。自分自身のこととしては、もう十分になった。でもここにはまだ沢山の価値がある。

 するとその価値は、自分の心という樽を一杯に満たしてもまだ増え続け、とうぜん、心の樽から溢れ出ることになります。だから「与えられる」から「与える」へと、それがごく自然なこととして、変化して行きます。

 

 スポーツ選手が引退してからコーチになるのは、「与えられる」望みから「与える」望みへと変化したからだとは、必ずしも言えないでしょう。それはごく現実的に、飯を食うために必要なポストがそれであった結果かも知れませんし、人によっては、選手として果たせなかった「人の目の中での栄光」を、コーチとして果たしたいという願望からかも知れません。そうした外面を単純にこの話に当てはめるのは、多少早計です。

 また、「与えられる」望みから「与える」望みへと変化した中で生きる人の姿は、大体においてあまり強く人目を引くものではなく、人が病んだ心の中で追い求める「外から見た見栄え」としては、かなり地味になっていくのが実情ともいえるでしょう。それは時として、「引退後」とか「余生」とかいう言葉に象徴されるような、「人生の残りの過ごし方」というような印象も、人に与えるかも知れません。

 しかし実は、「与えられる」から「与える」へと変化した望みは、「与えられる望み」には不可避な揺れ動きをほどんど持たない、とても安定した、大きく静かに、心を満たす感情になるのです。それは間違いなく、「自分の人生はこのためにあったのだ」と感じられるような感情です。

 これを象徴するような2人の女性がいます。一人は「世界のプリマ」と呼ばれた森下洋子さんです。何かのTV CMの一場面でしたが、「年をとるほど人生が楽しい」と語った言葉が印象的でした。

 もう一人は映画界の妖精と謳われた、オードリー・ヘップバーンです。彼女はやがて映画界を引退し、その後ユネスコ親善大使としての活動に残りの生涯を捧げました。それは当然、かつての映画界のきらびやかさも、世界の賞賛と憧れを集める栄光もない、水や電気さえ満足ではない途上国の片隅で、飢餓に瀕する幼い子供たちに囲まれた、地味な生活です。

 しかしそこには、子供たちに囲まれて溢れる笑顔の彼女の姿がありました。彼女はその生活について、「私はこの活動をするために女優をしていたのだ」と語ったそうです。

 

「愛し続ける」という「自尊心」

 

 答えの出ないままだった問題への答えをお伝えする時が来ました。

 「愛と自尊心の対立」という、人間の心の最大の課題への答えです。

 

 「望み続ける」ことがやがて自尊心をも満たした時、望みの価値は心の樽から溢れ出て、「与えられる望み」から「与える望み」へと変化する。

 この「望みの成熟」の一般メカニズムが、「愛」についても当てはまります。

 

 つまり、愛されなかった寂しさの穴埋めを形で要求する「愛情要求」でもなく、愛されなかった挫折を見返そうと人を魅惑できる「復讐の愛」でもなく、そうした穴埋め見返しの感情へと心が向かう以前の、純粋な「愛への望み」においては、「愛し続ける」ことがやがて誇りとなり自尊心となるということです。

 そしてその時、「愛への願い」の価値は、心の樽から溢れ出て、「与える望み」へと変化します。

 つまりここにおいて、「愛」は「求める愛」から「溢れる愛」へと変化するのです。

 これはもはや、「自尊心」との対立を、ほとんど持ちません。なぜならこれ自体が自尊心でもあるからです。そしてこれは人にどう見られるかという分子は一切含まれないので、傷つけられることはありません。全てが自分を起点にしているので、「心の自由」とさえもほとんど競合しないものになっています。

 

 これが、ハイブリッド心理学として見出している、人生の答えです。

 心を病む過程にある多くの人は、「求める愛」が「与えられる愛」として叶えられることが、まず心の安定に必要なのだと考えがちです。その感情を全ての他人にも投影し、人が皆「愛情要求の感情」からスタートして、恵まれた幸運によって愛を与えられたり、あるいは一部の人間達が「つるんで」愛を与え合うことで、心が安定して自信のある人間を演じ切れているのだ、と考えがちです。

 それは違います。「望みの感情」を原点として、その過程を歩み、成熟へと向かう。その人間の成長の連綿とした流れが、「人生」としてあるということです。

 

人生の答えへの鍵2:「望みを看取る」

 

 最後の鍵をお渡しする時がきました。

 これも「望み」という最初の鍵と一緒に使います。その使い方は、「看取る」というものになります。

 つまり、「望みを看取る」ということです。

 そしてこの鍵の名は、「命」です。

 

 私たちが生きるこの「現実世界」はとても不完全なものであり、それは時に取り戻すことのできない損失を含むものであることを、すでに言いました。それに対して、「これはあるべきことではない」と「怒り嘆く」のではない思考法ということを、言いました。しかしその代わりに何を成すべきかは、まだ言っていませんでした。

 「望みの感情」を、最後まで、それが消えるまで、しっかりと見続けるのです。

 叶えられなかった願いの感情は、最後に悲しみの涙を溢れさせます。それに目を背けることなく、その悲しみと、時には嘆きを、受け止めることです。

 

 心が病む過程においては、これは幼少期の「愛への望みの挫折」という根源的な問題の始まりについての、治癒取り組みという、実践的なテーマにもなってきます。

 「感情分析」による「遡り」がそこで実践するものの、主なものです。

 ただし私たちはまず、幼少期の「愛への望みの感情」そのものを、思い出すことができません。おそらくどんなに思い出そうとしても、激しい怒りや恐怖から、全てが始まっているようなものになります。なぜ自分は怒り怯えたのか。そこから前の記憶はもうありません。

 これはそれで別に問題ありません。

 

「心」と「魂」

 

 なぜなら、幼少期に始まった、心の問題の全ての始まりとは、過去の記憶の問題ではなく、幼少期から今に至るまで生き続けている、私たちが心の中に持つもうひとつの「心」が、今現在抱き続けている感情の問題だからです。

 

 つまり、私たち人間は、2つの「心」を持って生きている。これが人間の人格の構造です。

 一つは、幼少期から生き続ける、「自意識」を持たない感情を生み出す、深層の心です。ハイブリッド心理学では、これを「魂」と呼んでいます。

 そしてもう一つが、学童期、「自意識」の登場と共に発達していく、表面の心です。これはそのまま「心」と呼んでいます。

 普段私たちが、思考したり感情を感じ取ったりするのは、「心」の方です。一方「魂」は、その背景にあって、自分や他人というイメージになる前の、根源的な情動エネルギーを「心」に供給しています。

 「心」の感情は、はっきりと「対象」を持ちます。自分をどう感じる。人をどう感じる。

 「魂」の感情は、「対象」を持つよりも、その感情が「自分自身そのもの」という感じになります。はっきりとした対象を持たない「寂しさ」「喜び」「嬉しさ」などは「魂」の感情です。

 「怒り」「恐れ」は両方にまたがっています。「魂」が感じたものを、「心」がまた色々と解釈する。

 そのように考えるならば、心が病む過程とは、幼少期に起きた「魂の挫折」を、その後の「心」が受け入れることができないまま、自らの「魂」の挫折などないものであるかような人間の姿を自己理想像として描き、やがてそれをめぐって自分や他人を処罰し破壊に向かうという構造になります。

 

 「魂」は「愛」をつかさどる。

 「心」は「自尊心」をつかさどる。

 そう言えそうです。ですから、「愛」を形で考えると、意識の表面に出た瞬間には「自尊心」の問題に化けているという、「バニラチョコクキー現象」が起きるわけです。

 これをまず、形になる前の「愛を望む感情」と、この社会で「優れた者」になれるよう努力する「自尊心」の感情とは、しっかりと心の中で切り分ける。これを「愛と自尊心の分離」と呼び、ハイブリッド心理学における重要な実践項目にしています。

 

「魂に魂が宿る」

 

 私たちの人格が「心」と「魂」から成り立っていると考えるならば、私たちは、私たち自身の「魂」から、私たち自身の「心」へと、さまざまな声が伝えられようとしているのが、分かると思います。

 それはもはや「私たち自身」ではないような気さえ、私にはしてくるのです。

 そしてそれは、「人の目」とは一切の関係を持たず、ただ私たち自身の「心」との間だけに、関係を持ちます。もしそこに加えるのであれば、「神」だけが、「魂」が関係を持とうとするものです。

 これを「魂の関係性」と呼んでいます。

 

 そうであれば、魂が抱いた愛への願いを見届けることは、この現実世界における「愛の活動」とは別の世界のこととして存在するものにもなり得ます。

 事実、それが私の考える「病んだ心から健康な心への道」への、かなり基本的な姿にもなるように、感じているのです。私の『悲しみの彼方への旅』もまさに、そうした「魂の世界」と「現実の世界」という、交わることのない世界が互いに変化し合いながら、心が治癒と成長へと向かう姿を描写したものでありました。

 

 いつ、それが交わるのかは、分かりません。それは最後まで、交わらないのかも知れません。

 それでも言えるのは、私たちの「心」に「命」を与えているのは、「魂」だということです。そして「魂」が「愛」をつかさどるものである時、「命」とは「愛」なのだ。そう言えるような気がしています。

 でも私たちが生きている限り、私たちが直接使うことができるのは、「心」の方です。そしてこれは「自尊心」をつかさどります。

 ですから、まずは「自尊心」を目指すことです。「愛」を支え、守り得るような、自尊心をです。そのための基本的な考え方を、この3つの「病んだ心から健康な心への道」の章で「鍵」として説明しました。

 この「心」と「魂」という2つが交わる世界を、最後まで追いつづけることです。

 そしてその2つの世界を、最後までしっかりと見続けることです。

 

 「心の大手術」ともいうべき出来事の中で、「愛」への謎解きを伝えたその女性でしたが、それからもうじき1か月になろうとした頃でした。

 彼女の心の中に、置き去りにした魂の声が届く時が訪れました。

 それは、もう間もなく、彼女が私の援助から一人立ちする次の旅立ちへの、一つの兆しであったように、今の私には感慨深く思い出されます。

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 夕方、窓をあけてPCに向かっていました。

 静かな戸外に、近所のおばさんの声が聞こえてきました。誰かを送り出しているのか、嬉しそうな、愛情ある声でした。

 悲しくなってまた涙が溢れてきます。悲しい・・・、とても悲しいのです。

 わたしもあんな声をかけてほしかった。ただ喜んでほしかった。暖かく見守って欲しかった。

 ・・・でも、それを今求めているのかと、自分自身の気持に耳を傾けていると、そうではないようです。

 

 わたしは見てほしかった。気付いてほしかった。

 存在を、わたしという存在を、ゆるしてほしかった。

 ありのままに居ることをゆるしてほしかった。

 ・・・そのようです。

 

 何かをして欲しいのではない。ただ、わたしに存在させて欲しい。心と体が分離することなく。

 全てが繋がってきました。この世界に存在するために分離していた。切り離されて捨てられていた部分が痛み、それに気付き、私は今泣いているのです。

 この痛みは、私自身に痛まれるために、あがってきたのだと思います。

 やっと出会えた痛み。たくさんあるもののほんの一部です、きっと。

 不思議ですが、今、悲しいのですが、前のように誰かに抱きしめていて欲しい、暖かさが欲しいとは、思っていません。

 出来事は外側でなく、内側で起こっています。

 今必要なのは、わたし自身の心。向き合ってる主体も、対象も。

 

 悲しいですが、真実の感情。しっかりと悲しんでいます。ここにもう気まずさはありません。出会うべきものにやっと出会ってる感じです。

 自分の弱さをひしひしと感じます。わたしに今できるのは、それを感じることだけです。

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 果たされることのなかった「魂の愛への願い」は、それを最後まで看取った時、「看取った側」の魂に変化をもたらすようです。これは「看取られた側」が自分であっても他人であっても同じようです。魂にはもともと「自分」と「他人」の区別があまりないので、そういうことになっているのかも知れません。

 その時、「看取った側」の魂が、豊かになる、そう感じています。「魂に魂が宿る」そんな印象を感じます。そうして人は魂の願いを一つ看取るたびに、魂が一つ豊かになっていく

 そしてやがて、豊かになった魂から、愛が溢れてくる。そんな印象を感じます。

 これはもちろん、人の死に立ち会う「臨終」というものが、まさにそのような位置づけを持つことなのでしょう。

 

「ハイブリッド」の世界へ

 

 一方で、私たちがこの現実世界を生きている限り、私たちの大きな課題は、この「現実世界における人生」です。

 現実世界には現実世界の生き方というものがあり、そこには沢山の知恵とノウハウがあります。まずはそれを実践することです。

 その一方で、「魂」と自分自身の「心」との間だけの関係を持ち続ける。これが私たちの日々の生活に、何かの変化を与えるように私は思っています。それは与えられたレールの上をただ進むような、この現代社会における「普通」とは、もはや世界の異なる、その人だけの、魂がこもった生き方の世界ということになるでしょう。

 それが、「唯一無二の人生」になるわけです。

 ぜひそれを探し続けて欲しい。それが、私がこの本を書くことによって、社会の人々に伝えたかった言葉です。

 

 最後まで、2つの世界があります。その多面を同時に持つのが、私たち人間という存在の「本質」です。

 「姿」として見えるのは、その一面だけでしかありません。他面を同時に持つ「一つの本質」は、もはや「姿」として「見る」ことはできません。

 他面を同時に見ることです。そこに「未知」が現れます。その「未知」の変化に向かうのが、「成長」です。だから私はこの心理学に「ハイブリッド」という名をつけました。

 

再び「神の国」へ..

 

 最後に、ちょっとした感慨を書いて、この本の締めとしたいと思います。

 もはや「心理学」の話ではありません。「心理学」は「現実世界」についての話です。

 「魂の世界」の先に、何があるのかは分かりません。分かるのは、ただそれが「ある」ということだけです。

 

 人の魂は「神の国」に生まれ、「現実世界」という名の「放たれた野」へと旅立っていく。

 

 私はこの「現実世界」を、「善悪」という「あるべき姿」のない、サバイバルの世界だと考えることを選択しました。

 それによって、この「現実世界」の中で自立を果たした時、自分の心に「宇宙の愛」が生まれるように感じるのです。そしてそれを次の子供へと向ける。

 「宇宙の愛」から旅立ち、そして再び、自分の心の中の、「宇宙の愛」と還っていく。

 それは同時に、「神の国」に生まれ、「放たれた野」へと旅立つことで、次の子供のための「神の国」を、自分自身の中に生み出すことであるような気がするのです。

 これが人間の心のDNAに設計された摂理なのだと。

 

 ならば、「神の国」から出て「放たれた野」へと向かうことは、それが「神」の指示したことでもあったような気もするのです。人は、「神はこう命じた」と、神を知っているかのようにに話します。しかしそれは実は、神が望んだことではなかったではないかと。

 同時に、人間は弱い存在です。全ての命にが終わりがあり、その時再び、「神の国」に還っていくのでしょう。そして再び、大きな存在に守られる。

 

 ですから私は、自分の命が終わるまで、自分はあくまで、善悪のない大自然における一匹の強い獣でいたい。そう思うのです。

 そして死ぬ時、自分は再び「神の国」に還っていくのだ・・、と。

 

 そう思いながら、再び「現実」へ・・再び執筆へと、私は向かいます。