1章 ハイブリッド心理学の多面アプローチ −思考法行動法・深層心理・生きる姿勢−

 

*初稿につき誤字脱字や変な「てにおは」は無視下さい。出版本までにさらに洗練予定!*

 

「人生における望み」と「心の成長」

 

 ここではまず、上巻で説明したハイブリッド心理学の基本的な考え方のサマリーから始めて、実際に何を実践するのかの説明をしていきましょう。

 

 「心の成長」は、「人生における望み」に向かって努力と可能性を尽くす、実際の人生の「体験」を通してつちかわれます。

 それは決して、「心がこうならねば」という「あるべき姿」を頭で描いて、それを自分に押し付け、心に枠をはめ、心を縛ることによって生まれるものではありません。

 「人生における望み」として、より純粋で、より大元の望みに立ち還り、望み続けること、向かい続けることが、とても大切です。

 なぜなら、「望みの感情」こそが、私たちの心に「命」を与えるからです。より純粋でより大元の望みに向かった時、私たちの心はその望みがどう叶えられるかには関わりなく、満たされ、充実した人生の時間を過ごすことができます。

 

 より純粋でより大元の「人生における望み」を見失った時、人の心の中に、他人の目の中で「こんな自分」「あんな自分」になり切ることで、愛や自尊心を満たそうとする願望が生まれてきます。なぜなら、「人生における望み」は、愛と自尊心への深い挫折の中で、「自ら望む」ことを断念することとして、人の心の中で見失われるからです。

 そして「自ら望む」ことをやめ、「人の目を通して」自分が望めるという病んだ心の論理によって、「人の目」の中で何ものかになり切ることが、この人の新たなる「望み」と化してしまいます。心の底に「自分なんて」という自己否定感情を置き去りにしたまま、そんな自己否定感情などないものであるかのような「なるべき自分」を描き、それによって人を見返し、愛を強引に得ようとする「望み」です。

 これを「皮相化荒廃化」した望みと呼んでいます。

 

 より純粋でより大元の「望みの感情」を見失った時、人の心の中で「命」が失われてしまいます。代わりに、「人の目」がこの人にとっての「命」であるかような感覚におおわれていきます。

 そして人の目の中の自分を追い求めることで、大元の純粋な「望みの感情」はさらに見えなくなってしまいます。

 

 「皮相化荒廃化」した望みは、もはや私たちの心を暖かく満たすものではなく、焦りと不安の中で私たちを追い立てるものになります。心の平安は失われ、一刻でも早くその「なるべき自分」になれたかどうかと、常に「審判」を待つかのような、ストレスの中にあるものになってしまいます。そうして私たちは、「今を生きる」ことを知らない存在になってしまうのです。

 そして一時は「なるべき自分になり切れた」という高揚を感じたとしても、それはもはや長続きするものではありません。一瞬の満足感を得るために、さらに高い達成へと駆り立てられます。こうして心が満たされることのないまま、「貪欲」という人間の心理が生まれるのです。

 なぜ、「なるべき自分」になれたとしても心が満たされないのか。それは、その「なるべき自分」が、大元の純粋な望みを飲み込んで背をむけた上での、「代用品」でしかないからです。

 

 そうした、代用品としての「なるべき自分」ではなく、「なるべき自分」がイメージされる前に人生の中で抱かれた、大元の純粋な望みに立ち還ることが大切です。

 それは自分にできることを見出し、この社会で活躍することへの望みであったり、好きな人に近づき、傍で時間を過ごすことへの望みであったりするでしょう。

 もちろんその望みに向かう過程で、「こんな自分」というイメージを描いたりもします。それ自体を否定するものではありません。ただ「イメージ」は何かと一人歩きをしがちです。そうして一人歩きを始めた「イメージ」に照らし合わせて、自分を考えるという思考の仕方をした時、何かが狂い始めてしまう。

 常に、何度でも、イメージという形になる前の、大元の純粋な「望みの感情」に立ち還って、「望みの感情」を原点にして考える姿勢が大切だと言えるでしょう。

 

現実社会を生きる知恵とノウハウ

 

 「望み」がある時、次はそれに向かって歩むための思考法と行動法が問題になってきます。

 これについて、私たちが今まで学校や家庭や社会で教わってきたことは、あまりにも下手な考え方や勘違いに満ちていたもののように、私は感じています。

 

 それは「怒りに頼る」思考法です。善は悪を怒る。悪いものを決して許してはいけない。

 しかしそれによって、愛が増えたり、この社会で活躍するためのスキルが身につくわけではありません。私たちは社会に出るに時、まず「気持ちが大切」だと教わったものです。しかし私が実際に社会に出て分かったことですが、現実の社会でまず大切なのは、「気持ち」ではありません。自分の役割を正しく理解し、それを実行する「知性」と「行動」が、実際には重要です。

 こうした、「現実社会を生きるノウハウ」は、正しいものはごく単純で、難しいものではないにも関わらず、学校教育などの現場で子供たちに教えられているものではないことに、私は驚愕の念を感じています。やはり「学校の先生」と「社会人」が、職業進路として大元で分かれてしまっている現状に、その構造的な原因があるのかも知れません。

 

 まずは、「現実社会を生きる知恵とノウハウ」を知ることです。これは実に単純な話なのです。

 この現実社会、そして現実世界を生きるうえで、確実にものごとをうまく行うことができるようになる、知恵とノウハウがあります。それを学び、実践することが大切です。

 それは一言でいえば、「建設的」な思考法と行動法です。「それは駄目だ」と怒りで「破壊」するのではなく、「こうすればいい」と、具体的な解決法を積極的に示す、「自衛」と「建設」の思考法行動法です。

 大きく2つの領域になります。一つは、対人関係をより良いものにし、良い人間関係を築くための思考法行動法です。これは「愛」に向かうために重要になります。

 もう一つは、私たちが生きるこの社会で、より良い仕事をし、より高い成果を出す、「優れた存在」になるための思考法行動法です。これは「自尊心」に向かうために重要になります。

 

「望みの成熟」が人生の答え

 

 そうしてより純粋でより大元の「望みの感情」に、正しい思考法行動法を携えて向かい続ける。

 するとやがて、「望みの感情」そのものが、より豊かなものへと変化していきます。「望みの成熟」というものであり、ハイブリッド心理学ではここに人生の答えがあると考えているものです。

 

 「望みの感情」はまず、「愛」や「栄光」を「与えられるもの」として、それを望み、向かうものとして始まります。

 それに向かう歩みが、それだけで心を満たし、人生の充実感を与えてくれるものになります。時には望んだ目標が達成でき、喜びと高揚を感じることもあるでしょう。時には願いが叶えられず、失意と悲しみに打ちひしがれることもあるでしょう。

 それでも、一人歩きした「なるべき自分」のイメ−ジから自分を踏みつけるのではない限り、私たちの心のDNAには、人生での損失を乗り越える力が備わっていると、ハイブリッド心理学では考えています。

 なぜならこの現実世界とは、そして私たち人間とは、もともととても不完全なものだからです。その不完全な現実世界を、不完全な人間として、生きることに喜びを感じ、命がつながれてきた数100万年を通して、私たちの脳はできあがっています。私たちの脳は、この不完全な現実世界を生きることを、喜ぶ能力を本来持っているはずだと、ハイブリッド心理学では考えています。

 

 それを、人間の思考が、良しとしない事態が現れました。

 「絶対なるもの」を空想の中で掲げ、その空想世界から現実を見下せることに価値を感じるという思考法です。

 何のために?「自尊心」のためにです。それはもう、今説明している「望みの感情」の先で得ることのできる、揺らぎない自尊心とは異なる、脆く、すさんだ、「病んだ自尊心」です。これがここ数千年の人間の歴史で起き始めたわけです。

 

 「こんなことはあるべきではない」この怒りに頼る思考法を使わない時、私たちの心は、何らかの損失を前にして深い「悲しみ」を湧き出させす。

 「悲しみ」は「癒し」の感情です。この人生の中で失われたものがあった時、悲しみの元にあった、願いと望みの感情を、最後まで、消えるまで見続けることです。

 これをハイブリッド心理学では「望みを看取る」と呼んでいます。

 そうして一つの「望みの感情」を「看取る」ことを成した時、私たちの心に、一つの「豊かさの感情」が生まれます。

 それは「望むことができる」という、「人生の価値の感覚」です。

 

 「望みの感情」が私たちの心を満たし、「望み」に向かうことが、喜びや悲しみの中で私たちの人生を充実したものにしてくれるものである時、「望むことができる」自分の心を知ることは、自分が人生の豊かさを見出したという、とても深い味わいと感動に満ちた感情を、私たちに与えてくれるのです。

 これが、私たちに「真の自尊心」を与えてくれます。「望むことができる」という、自分の心への自尊心です。これはもはや、人の目の中で「外から見た自分の姿」によって得ようと躍起になった、浅はかで脆い自尊心とは全く異なる、静かで、深く、揺ぎなく、そして暖かく、私たちの心を根底から満たす自尊心になります。

 

 「人生の豊かさ」の感覚をも帯びた「望みの感情」は、やがて私たちの心の樽を一杯に満たし、心の樽から「人生の価値」が溢れ出します。

 その時、「与えられる望み」は、「与える望み」へと変化していきます。「与えられる」ものとしての「愛」を願った感情は、しばしば、それ自体は叶えられることのないまま、「愛し続けることができた」という深い自尊心の感覚と共に、「求める愛」の感情から「溢れる愛」の感情へと変化していきます。

 そうして、「溢れる愛」の感情の中で、次の命をはぐくんでいく。そして自分の命をまっとうする。

 

 ここに、一つの「人生の完成」があると、ハイブリッド心理学では考えています。

 

「内面」への答えと「外面」への答え

 

 このように、ハイブリッド心理学が考える「心の成長」への方向性とは、とても明瞭なものです。

 そこには大きく2つの面があることになります。

 一つは、より純粋より大元の「望み」に向かって努力と可能性を尽くして歩み続けること。これは心の内面の話になります。

 もう一つは、そうした「望みへの歩み」をこの「現実世界」の中で行うにあたっては、「建設的な思考法行動法」という、明確な知恵とノウハウがあること。これは社会や他人に接する時の思考法行動法という、外面への思考と行動の話になります。

 

 この「内面」と「外面」の問題を、しっかりと分けて考えることがとても大切です。「内面」と「外面」それぞれに、より豊かな人生につながる、明確な答えがあるということです。

 もちろんこれは、表と裏のある行動を奨励する話ではありません。それでは「行動」という外面が

2つに分裂してしまいます。

 そうではなく、内面には内面、外面には外面に、それぞれ一つの、明確な答えがある。2つの答えをそれぞれ正しく理解し、両者を混同することなく、まずは「平行」して目指し続けることが大切になってきます。

 

 私たちは社会に出る前、大抵、「気持ちが大切」「やる気が大切」と教わったものです。しかし実際に私が社会に出て分かったのは、そうではないということです。

 「気持ち」だけで仕事ができることなどはありません。仕事に応じたさまざまなことを、まず正確に学び、自分の役割を正しく果たすことがまず重要です。それは時に、「気持ち」「やる気」とはほとんど関係なく進めることができるものです。

 「気持ちが大切」「やる気が大切」と考えていると、「気持ち」「やる気」が盛り上がらなった場合、自分が何もできなくなってしまったと感じがちです。そして自分を責め、「うつ」になってしまったりします。

 そうなる必要などありません。「気持ち」「やる気」が出なければ、それはそれで淡々と仕事を進め、気分転換や休養を多めに取るのがいいでしょう。そのうちに「気持ち」「やる気」も回復するというものです。

 

 一方で私たちは、人に評価されたり、高い成果を出せる仕事が見つかると、自分の人生がそこにあるように感じたりもしがちです。そうして家と仕事場を往復するだけの人生が長く続いた後、やがて、自分の人生が本当にこれで良かったのかと、疑問が出てきたりします。

 もちろん高い成果を出し人に評価されることは、生活のための収入をより大きくするために望ましいことです。しかしそれが人生の全てではありません。

 そもそも何のために仕事をしているのか。それは収入という最低限の必要性を除けば、何か自分の「人の目」から見た「格づけ」や「体裁」を求めてやっていることかも知れません。その心の底には、幼少期に果たされることのなかった、人に愛されることへの願望があるのかも知れません。

 それは本来、仕事で満たすことではないのかも知れません。この人が自分の心の底の、本当の愛への望みに向き合った時、この人にとっての仕事の役割は、それまでとはかなり違ったものになるかも知れません。

 

「内面」と「外面」双方への取り組み

 

 そのように、心の内面においては「望みに向かう」という答えがある一方で、現実社会という外面においては、仕事をうまくこなしたり良い人間関係を維持するための、内面感情にはあまり左右されない答えがあります。

 この2つを、どっちが大切かという択一的な思考をするのではなく、両方を別々のこととして、正しくそのノウハウを学び、実践を積み重ねることが大切です。

 やがてその両者が交わった時、人は、内面と外面が調和した豊かさと、この世界における唯一無二の自分の居場所と人生を、手にいれると言えるでしょう。

 いつそれが交わるのか。これはもう、あらかじめ言うことはできません。言えるのは、この先に人生の答えがあるという、「方向性」だけです。

 そしてこうした「方向性」を知り、それを歩むという、「選択」があるだけです。

 

 それとは異なる「選択」とはどんなものか。それは、「内面」と「外面」のどっちか片方だけを重視する考え方になるでしょう。

 内面だけを重視し、「やる気があれば」と考えて、現実社会のノウハウを正しく理解しないと、どんなに「やる気」を出してもいい結果につながらず、やがて「やる気」も失せてしまいます。

 外面だけを重視し、「見栄え」の良さだけを追い続けると、どうしも行動に心がこもらなくなってしまいます。心がこもらない行動は、一見して見栄えが良くても、内実があまり伴いません。内実が貧弱なので、そのままでは、やがてそもそも目当てにした「外面」自体が貧弱なものへと変わっていってしまいます。

 

 「内面」は「内面」の問題、「外面」は「外面」の問題として、その双方の答えに取り組むことで、単に別々の向上があるだけではなく、「相乗的」な向上が得られます。何よりもこの「内面と外面の相乗的な向上効果」が、「人生の成功」という大きな課題のための答えと言えるかも知れません。

 内面の「気持ち」に左右されることのない、「外面」における知恵やノウハウを習得すると、ものごとが今までよりも簡単に、よりうまく対処できるようになるので、「気持ち」も楽になり「やる気」も出てきます。

 「外面」の見栄えのことはいったん脇に置いて、内実そのものに対して、自分がどれだけの価値を感じているのかを確認することが大切です。そうして内実そのものに価値を見出した行動は、心がこもった力強いものになり、結果的には外面の見栄えも良くなっていきます。

 

 「内面」と「外面」を、互いに依存することなく、独立した知恵とノウハウで向上させると、おのずと他面も向上するという結果が得られるわけです。

 逆に、本来「内面」の問題を「外面」に頼ったり、「外面」の問題に「内面」を巻き込むことで、互いに足を引っ張り合うような結果になってしまうということでしょう。

 

「病んだ心」の2重の隘路

 

 心を病む過程においては、そうした内面および外面という2面への答えの双方が、大きく妨げられる事態が起きてしまいます。

 

 この世に生まれた時に抱かれた、純粋で大元の望みは、幼少期の「根源的自己否定感情」と共に、心の奥深くに飲み込まれ、置き去りにされ、見えなくなっていす。これが「内面」における大きな妨げになります。

 「あるべき姿」という高く掲げた価値を手に入れることで、この「出生における挫折」を見返し、損なわれた愛と自尊心を手に入れようとする衝動にとらわれます。自分を容赦なく追い立て、「あるべき姿」を理解しない他人に怒りを向けるという「破壊」が、基本的な思考法行動法になります。これは「外面」における大きな妨げになります。

 そうして「内面」「外面」のどちらもが、この現実世界の中でうまくいかないのを見る度に、彼彼女は「あるべき姿」を描き直しては壊し、描き直しては壊すことを繰り返します。すると次第に、自分が一体、何を望み何を考え、何が現実で何が「正しい」のか、全て分からなくなってしまうのです。

 やがて「苦しみ」と「自己嫌悪」そして「絶望」だけが、目の前に残るものとして大きくなって行きます。

 

 これはもはや、「望みに向かう」という内面への答え、そして「建設的な思考法行動法」という外面への答えに向いていないだけではなく、強力な逆方向へのドライブがかかった状態です。

 したがって、まずこの逆方向への力を解きほぐし、弱めるための特別な手当てが必要になってきます。

 

「自己の受容」

 

 そうして深刻な隘路に陥った「病んだ心」から、「健康な心」への回復と克服にあたっては、まず必要なものは、「内面」および「外面」への答えの、どちらでもありません。

 何よりもまず、「救い」が必要です。絶望に瀕し、自分の力ではもはや立ち上がることさえできないと感じているこの人を、助け起こし、心を休ませ、この困難が決して脱出不可能なものではなく、出口のあるものであることを伝え、勇気づけ、やがて自分の足で立って歩けるように送り出してあげることが必要です。

 

 そのような「救い」が、どのようにこの心の危機に瀕した人に与えられ得るかは、もはや理屈を越えた世界のように感じます。

 それは心底からその人の苦しみに共感し、涙を流す他者の存在であるかも知れません。しっかりとした心理カウンセリングであるかも知れませんし、あるいは「神の愛」に触れる宗教的な体験であるかも知れません。

 私はそうしたもののどれが「正しい」かという思考はしません。それは「正しい」かどうかの問題ではなく、一つの「出会い」なのだと感じます。それぞれの「出会い」が持つ価値を、それぞれの「出会い」が果たされば良いことだと思います。

 そんな意味で、私はこのハイブリッド心理学そのものが、一つの「出会い」として多くの方の役に立てることを願っています。

 

 ハイブリッド心理学はあくまで「療法」ではなく、「自らによる心の成長」のための心理学です。

 その観点で、もし「救い」について言うのであれば、何よりも自分自身が、自分を救ってあげるという「意志」を誰もが持ち得ることを、私は信じたいと思います。

 そうして自らが自らを助け起こすことを、このハイブリッド心理学の最初の実践として、「病んだ心から健康な心への道」の最初に位置づけることができます。

 これを「自己受容」と呼んでいます。

 

 「自己受容」も、多くの心理学で言われる言葉です。それは多くの場合、「今の自分を受け入れること」という感じで伝えられると思います。

 ハイブリッド心理学における「自己受容」は、そのような意味のものではありません。「今の自分」には沢山の面があり、そのどれに満足でき、どれに不満を感じ改善向上を望むかは、それぞれの面の個別の問題です。

 そうではなく、そうしたさまざまな面を持つ一つの存在として、自分が前に進み変化する存在であることを受け入れることを、ハイブリッド心理学では「自己受容」と呼んでいます。まるで静止画のように切り取って見た自分の「姿」を受容するしない云々のことではなく、自分が「変化し移ろい行く存在」であることの受容ということになるでしょう。

 つまり、ハイブリッド心理学における「自己受容」とは、「今の自分」のあれやこれやを受け入れるかどうかのことではなく、「自らによる成長」をする「意志」のことを、「自己受容」と呼んでいます。

 

「感情分析」による深層感情へのアプローチ

 

 心が病む過程が関係している場合、まずそのような「自己受容」が、がんじがらめになった自分の心を救う取り組みへのスタートになります。「自らによる成長」によって心の障害を克服するという方向性を、選択することです。

 

 心の障害が関係している場合に特別に必要となる次のことは、すでにがんじがらめになった心を、一つ一つ丁寧に解きほぐしていく作業です。

 これが成されないと、「望みに向かう」という内面への答えにも、「建設的な思考法行動法」という外面の答えにも、向かうことができません。なぜなら、「なるべき自分」で自分を追い立てた今までの人生の中で、自己処罰感情への恐れに出会うたびに、自分で描いた「なるべき自分」から逃げ、それを描き直しては壊し、描き直しては壊すということを繰り返して、今に至っているからです。その結果、そもそも自分が何を感じ何を考えているかさえ、良く分からなくなってしまっているのです。

 心を病むメカニズムにおいては、「自己理想の取り下げ」によって自分を何かに駆り立てる衝動が減っても、自己理想にとどかない自分への自己嫌悪感情は残り続けるという、とんでもない仕組みがあります。

 その結果、「なるべき自分」の形がもはや何も見えなくなったまま、全てにおいて自己嫌悪感情に取り囲まれるという結末に向かうという強力な傾向性が、心が病むメカニズムにはあったわけです。

 

 従って、その解きほぐしとしては、自分が今、そして今まで生きてきた人生の中で、自分がどうなろうとしたのかという、「なるべき自分」という命題をはっきりさせ、それを内面外面の両面において正しい方向へと軌道修正させていく形になります。

 これを、来歴の中で「なるべき自分」の描き直しをした回数だけ、それぞれ行う必要があります。なぜなら、「自己理想の取り下げ」は自己処罰感情から逃げるための、自分へのごまかしであり「自分についた嘘」でしかなかったからです。そうして自分の本心が分からなくなった底で、人生で抱いた「なるべき自分」という命題は、実はその全てがまだ生き続けています。それを再び心の表面に取り戻した上で、それを新しい思考法行動法との比較によって、一つ一つ方向転換を図るのです。

 心の障害が深刻であればあるほど、こうした「なるべき自分の描き直し」が何重にも重なり、錯綜と混乱が顕著になってきます。逆に、この「多重度」が心の障害の深刻度だとも言えるでしょう。それだけ、心の解きほぐしには長期にわたる時間が必要になってきます。

 

 このような心の解きほぐし作業を、ハイブリッド心理学では「感情分析」と呼んでいます。

 感情メカニズム理論を学ぶ知識をもとにして、自分の感情を「感じ分ける」ことをするわけです。まるでワインのソムリエのように、多少熟練を要する作業です。そして「感じ分けた」感情それぞれに対して、今まで取っていた望ましくない姿勢とは異なる、心の治癒成長につながる姿勢を取るようにします。

 「感情分析」は基本的には、19世紀にフロイトによって創始された「精神分析」の技法の延長上にあります。しかし今まで知られた「精神分析」は基本的とても難しいものであり、また、心にメスを入れる他に何の方向性も示さず、ひたすら自分の心を悪い面を浮き彫りにするような、弊害を伴う方法であったように私は感じています。

 ハイブリッド心理学においては、より分かりやすいものとすると同時に、心の治癒成長へのはっきりとした転換方向を示すことの中でそれを行うように、改めて「感情分析」という別の名前で呼んでいる次第です。

 ですから、ハイブリッド心理学における「感情分析」は、単に自分の深層感情を解きほぐす作業として行うんではなく、必ず、内面外面における治癒成長への方法転換の検討と一緒に行います。これは先に出てきた「建設的な思考法行動法」の話と、もうひとつこのあと出てくる「根本的な生きる姿勢」の話も含みます。

 その結果、「感情分析」は単独で行うものではなく、ハイブリッド心理学の他の実践ともクロスさせならが行うという形において、ハイブリッド心理学の実践の最も大きな部分を占めるものになります。

 

 心の障害が深刻な場合に厄介となるのは、病んだ心の意識土台メカニズムである「自己操縦心性」によって、「自分の感情」およびその「現実的な不合理性」の自己理解が妨げられることです。

 この意識土台においては、イメージを引き金にして勝手に動く感情によって、自分がまるで「感情による操り人情」のように翻弄されてしまいます。自分を取りまく「人の目」「人の心」というイメージがあまりに強烈なため、そのイメージを引き金にして自分の中に湧く、「恐怖」や「怒り」を筆頭にした感情を疑うことが、できないのです。

 さらに、自分の感情を理解したとしても、それを方向修正するということが、再び、「空想の中でそんな気分になる」こととして行われてしまいます。ハイブリッド心理学が示す方向性さえもが、全く今までと同じ「人の目から見た自分」を自分に当てはめるための新たなる「なるべき自分」にすりかわってしまうのです!

 

 従って、「感情分析」は、心の障害が深刻なほど、独力で行うのは難しくなり、熟練した他者による援助が望ましいものになります。

 特に深刻な心の障害が関係していなければ、もちろん「感情分析」は自己学習によって進めることも可能です。この後の全ての話が、その役に立つものになるでしょう。また、詳しい参考となるような著書を、これからも多数書ければと考えています。

 

「治癒体験」とは何か

 

 「治癒成長への方向転換の検討」をととも進められる「感情分析」によって、私たちの普段の日常生活の世界にはない、特別な「心の変化体験」が起き得ます。「治癒体験」とも言えるでしょう。

 ここでそうした「治癒体験」にどんなものがあるかを説明しておきます。主に3つの形態があると考えています。

 「洞察」「遡りと浄化」そして「自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出」です。あとのものほど、他の心理学にはない、ハイブリッド心理学の独特の考え方と言えそうです。

 

 なお留意点ですが、これらの「治癒体験」は、「それを起こそう」と意識して努力すると、逆にそれが起きなくなる傾向があります

 なぜなら、この「治癒体験」は、「実践すること」ではなく、「実践」した結果起きる「結果的変化の様子」だからです。これを「自分もそうなろう」と「変化する姿」をイメージして自分に当てはめるのが、まさに今までの心を病むメカニズムの歯車の焼き直しになってしまうからです。

 ただこれはどう注意しても、多少は紛れ込んでしまうのが事実です。ハイブリッド心理学の実践を通して「良くなれた」自分を空想して、「これがそれなんだ」と勘違いしてしまうことが起きがちです。そしてしばらくすると、元とあまり変わらない自分に気がついたりします。

 これは特に気にする必要はありません。これはもともと、「どうなれたか」という結果の姿を目指す取り組みではないのです。常に、今自分が抱える問題を正しく把握し、目指すべき方向性を検討、そこに向かって歩むことが、成すべきことなのです。

 

 大切なのは「どうなれたか」ではなく、「方向性を知りそれを歩む」ことが大切です。

 その先に、「変化体験」は、起きるべき時に向こうからやってくるでしょう。

 

「洞察」

 

 自分でも自分が何を感じ何を考えているか分からない心の状態を、じっくりと解きほぐして行きます。

 この作業による変化として、最も一般的なものが「洞察」です。これはごく広い範囲で、「自分の心について今まで分からないままでいたものが分かった!」という体験を言うことができます。

 それが「変化体験」と呼べるようなものが、自分の心を自分で分かることとして起きる。それは結局、今まで心のどこかで感じていながらも、自分自身に対してうやむやにしていた何かの感情なり観念がはっきりと自覚され、かつそれが自分心の全体に対してどんな影響をおよぼしていたのかかが、はっきりと分かる体験だと言えるでしょう。

 

 私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』は、そんな「洞察体験」がふんだんに描写されています。一つの場面を引用すると、こんな場面があります。(P.176

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 翌日起きた時、私を醒めた感情がおおっていました。

 自分がなぜあの子に近づこうとできなかったのか、ひとつの理由がはっきり分かった。僕は人に愛想良くする時、何よりも自分自身が嫌になっていたのだ。

 あの子に対してもそうだった。あの子に対して本当に心の底から自然に現れてきた感情を表現すること以外のことをしている自分自身が、僕は嫌だった。

 そうして僕は人に近づくのをやめた。もし彼女以外の人間だったら、その時点で相手との関係もよそよそしいものになった。だが彼女だけは違った。彼女が僕の中に残したものだけは消えなかった。

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 これは「他人と親しめない」自分の傾向の原因を自覚したものと言えます。人と親しむためには、そうできるために親しそうな自分を装わねばならない。しかし何となく抵抗を感じて、それができない。

 この場面においては、その原因がはっきりしてきています。別の自分を演じることが、心底から嫌だったののです。それまで、この嫌悪感は自覚されないまま、「親しくできなければ」というストレスの中で、はっきりしないままだったのです。

 それがはっきりした時、その嫌悪感があったまま「親しくできなければ」というストレスを持ったところで、そうなれるわけなどないという事実を、この時私の心ははっきりと洞察したのです。これはあまり快い気分の出来事ではありませんが、あきらかに、ブレーキを引きながらアクセルを踏むかのような、無駄なストレスを消し去ります。

 

「成長の痛み」

 

 その例が示すように、「洞察体験」は必ずしも快いものではなく、往々にして、「見たくなかった自分」「知りたくなかった自分」を知る体験です。それは他人への怯えであったり、何かへの貪欲な衝動や嫉妬であったり、自分が人生の中で葬り去り、目を塞ぎことに成功したと思っていた、深い挫折感を再び思い出すことであるかも知れません。

 それに対して、今までのような、別の「なるべき自分」でそれを塗り消すのではない、真の解決につながる新しい姿勢を、取るのです。

 この「新しい姿勢」とは、あくまで心の障害が生み出す否定的感情に巻き込まれないような、特別な心理学的ノウハウに基づくものにならなければなりません。その具体的な内容を、次章から説明してきます。

 それがどのようなものになるにせよ、「見たくなかった自分」「知りたくなかった自分」を知る体験が、「治癒体験」の極めて本質的な部分になるということを、ここで理解しておいて頂ければと思います。

 

 つまり、ここで理解しておいて頂きたいこととは、もしそのように心の中に埋もれていた感情が「実際にある」のであれば、それをないものであるかのように心の平衡を保つことに、今まで膨大なストレスが費やされていたと考えるのが正解だということです。そしてまた、そうして心の底に隠した感情があると、それは往々して理性が利かないまま変な暴走を起こすということです。

 ですから、心の中に埋もれていた感情が「実際にある」のであれば、それはいずれ心の表面にいったん戻して、新しく学んだ心理学の知恵を助けとして、正しい対処をし直すことが遥かに望ましいのです。

 それによって「知りたくなかった自分」への対面に一時的には動揺したとしても、その後に、ストレスや矛盾のない、より安定した心の状態を得ることができるのです。

 

 従って、「洞察体験」の多くは、手痛い体験でもあります。

 しかしそれは「成長の痛み」なのです。こうした痛みなしに、真の成長はありません。

 これは病んだ心からの成長に限らず、「成長」というもの一般について言うことのできる一貫した真実の中にあるものといえます。成功するだけでは人は成長することはできず、失敗から学ぶことが極めて大切です。これを身をもって知った時、「成長の痛み」が歓迎すべきものであることが、次第に感じられてくるでしょう。

 

「遡り」と「心の浄化」

 

 「感情分析」の中で起きる「治癒変化」の2つめの形態は、人の心が来歴の中で変形したきた流れを逆に戻すような、後戻りのない大掛かりな変化という形になるものです。これは上述の「洞察体験」が積み重ねられた先に起きる、人間の心の大規模な変化と言えるでしょう。

 心が病む過程において、「情動の荒廃化」が進みます。これを逆に戻す形になります。

 従ってこれは「遡り」であり、同時に「心の浄化」という得がたい治癒体験を生み出します。

 

 これがどのような形で起きるのかという、一般説明をここで書くことはもはやできません。この後の、「根本的な生きる姿勢の転換」も含めて、「愛」と「自尊心」への向き方における特別な方向性なども通して、ハイブリッド心理学が考える「病んだ心から健康な心への道」が基本的に向かうベクトルが、この「遡り」と「心の浄化」という大きな方向の中にあるものと言えるでしょう。

 ですからこの本の全体、特に後半の章が、その姿を説明するものになります。

 また私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』が、そうした「遡りによる心の浄化」が起きる大掛かりな仕掛けを、今までの他のどんな書き物にもない緻密さで描写したものになっています。ぜひ参考にして頂ければと思います。

 

 詳しくは後の章に譲るとして、ここで指摘しておきたいのは、私たちの心に備わる「浄化」へのメカニズムは、恐らく世の人が「普通」に考えることに比べた時、遥かに「常識外れ」に、広い範囲と深さにおよぶものだということです。

 例えば、「性欲」はそうした「遡り」によって、大きく質的に変化し得るというのが、私自身の体験も踏まえての考察です。病んだ心のメカニズムにおいて、「性欲」は明らかに、心の底で挫折した「愛」を強引に得ることの象徴として、思考感情のレベルではなく生理的衝動のレベルで質量共に強化されます。

 これを「感情分析」では、「性欲」そのものではなく、そこに含まれる「愛への感情」だけを抽出し、その性質をじっくり把握することを行います。そして「愛」に対する姿勢の変化と合わさった時、そのつながりは知覚体験されないまま、生理的なレベルでの「性欲」の性質が変化していることに気づくことになります。今まであった「貪欲性」が消失すると同時に、「淫靡」「卑猥」といった感覚が消失すると言った変化です。「感情分析」の章ではこの具体例を紹介します。

 報道で良く、私と同年輩、さらにはもっと上の年配の人が性的犯罪を犯すニュ−スを目にし、呆れることが多い昨今です。そうしたものを「浄化」する心理学的技術というものが実際にはあるという事実から、社会に知識を広げていければと考えています。

 

 大人になると心の純粋さが失われると、とかく考えられがちです。

 そんなことはありません。私たちの心には、「浄化」へのメカニズムがあります。大人の人生能力と、

5歳の子供の純粋な心を、同時に持つことも可能なのです。私はそれをこれからの自分の理想と考えたいと思っています。

 

「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」

 

 「心の浄化」は、「洞察体験」の積み重ねの中で得られるものがまず考えられます。

 しかし心の障害が深く関係している場合には、もう一つ特別な「治癒体験」の形をとるものを経なければならいかも知れません。

 それがハイブリッド心理学が「治癒体験」として見出している、3番目の形態のものであり、実はこれが、病んだ心の根本的な治癒の現象だとハイブリッド心理学が考えているものです。

 それが起きた時、感情は、今までの話とは違うレベルで、悪化します。もはや前向きなことを考えることが全くできなくなり、体に毒が回るような悪感情におおわれる事態も起き得ます。

 これを「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」と呼んでいます。

 

 これが、病んだ心の病根の、根本的な治癒の姿になります。

 なぜなら、心が病むメカニズムの全ての根源は、幼少期にあった「根源的自己否定感情」がもはや意識体験の許容範囲を超えたものとして、「感情の膿」と化したものにあるからです。思春期に発動する「自己操縦心性」は、その「感情の膿」の圧力によって、人の心を、まるで脳の外側から圧力をかけたかのうに変形させてしまいます。「自己操縦心性」の中では、何をどう考えようとも、「イメージ」によって動く感情の操り人形状態として、思考が動きます。

 それが、根底から崩壊する現象が、起き得るのです。当然、この時人は自分に何が起きているのか、知ることができません。ただ、巨大な絶望感におおわれます。

 

 それは、今での心の土台が、根底から崩壊する現象なのです。今までの心の土台が崩れるのですから、その意識上の表現は、「完全なる絶望」というものになります。これは完全に理論とその実際の姿のつじつまが合っており、もはや間違いのないことと言えそうです。

 「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」を通りすぎると、心に変化が起きるというよりも、脳に変化が起きたかのような、心の機能の全般的な改善向上が起きます。それは今まで塞がれていた、心の自然成長力が解き放たれたものと考えられます。

 今まで否定的感情に全ておおわれていた心に、全く何の前兆もなしに、「肯定的感情」が湧き出します。この詳しい様子は実際の例を出して、後の章で説明します。

 

生き方の根本的な変革へ

 

 さて今までの話をまとめると、人生の生き方には、内面おいては「望みに向かう」、外面においては「建設的な思考法行動法」という、それぞれ別々の答えがあります。

 ハイブリッド心理学の実践としては、まず外面における建設的な思考法行動法を学んで頂くのを最初に考えています。今まで私たちが学校や家庭で教わったことは、この現実社会を生きるためにあまりにも下手な考え方だったからです。もし心の障害が深く関係しないのであれば、それだけでも生き方が大きく改善されるはずです。

 一方、心の障害が深刻な場合は、それ専用の特別な実践が必要になることを説明しました。「自己受容」と「感情分析」がその具体的内容になります。これらによる「治癒」には、「洞察」「遡りと浄化」「自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出」という、主に3つの形態が考えられます。ただし「治癒」はあくまで「実践」ではなく、「実践」の結果、起きる状況になれば起きることと考え、意識的にそれを真似ようとしないことが大切であることを留意して下さい。

 

 ここまでは、全てが「準備」に過ぎません。私たち人間という存在の根本的な変化への道は、ここから始まるのです。

 それが病んだ心への特別な取り組みを必要としたものか、そうではなく思考法の転換だけで改善を得られたものかに関らず、ここからの道のりは全ての人において一緒になります。

 それは、「人生における望み」そのものの「発見」もしくは「回復」であり、それに向かい続ける「成熟」という「変化」への歩みです。病んだ心への特別な取り組みは、何らかの形で「望み」の芽と言えるものを回復する段階のために用意したものです。

 そして「人生における望み」を発見し、それに向かい続ける歩みは、心を病むメカニズムが全ての人に免れるものではない時、基本的に「病んだ心から健康な心への道」として位置付けられるのだと、ハイブリッド心理学では考えています。

 それは私たちがこの現代社会の中で見失った、「魂の望み」への歩みなのだと。

 

 そのための実践は、これまでの説明の全てをその中に包含した、総合的な、「生き方の根本的な変革」になります。そのために、建設的な思考法行動法を具体的に再び確認したり、心の障害が深刻でなくても、「自己受容」や「感情分析」に向かうということが出てくるでしょう。

 ですから、本書で説明することは、決して、一度読んでこなせるというものにはならないはすです。生涯にわたって、何度でも読み返して頂くことで、生涯にわたる成長のその時に応じた新しい意味を、行間からあなたに伝えるものになるはずです。

 

 ここで追加される、最も具体的実践は、「価値観」の検討と変革になるでしょう。人間とはどんなものか、社会とはどんなものか、現実とは何か、「愛」と「自尊心」についてどう考えればいいのか。そうした、「生き方」を構成するさまざまな視点を、ハイブリッド心理学の今までの学習に基づき、心底からの問い直しをするのです。

 建前論はもう無用です。これは学校の授業で先生と皆の前で発表するためのものではないのです。「私はこんなことを考えているんです。どうです、すごいでしょう」と人に見せびらかすためのものではないのです。

 そうではなく、この世界に一つの命と、不完全な条件をもって生まれた自分が、この世界にどう向かうべきかを決するための、自分自身との対話なのです。

 私たちの本当の「人生における望み」とは、何なのか。私たちの生きる現代社会は、それをあまりにもぼやかし、見えなくするものに満ちているように感じます。それを再び取り戻す歩みを、ここから始めるのです。

 

 「価値観の変革」という総合的な実践の一環にもなりますが、その中でも特別なテーマを2つ、独立させた実践項目として浮き彫りにしたいと思います。

 一つは、「否定価値の放棄」です。「それは駄目だ」と「否定」できることに価値を感じる感性を、根底から捨てることです。頭でどう考えるかではなく、「感性」という深いところでこれが成されることに、大きな意味があります。実際のところ、これに類する話を、他の心理学や宗教や哲学や人生論でも、あまり読んだり聞いたりした記憶がありません。それだけ、これはハイブリッド心理学が採用する「極端な思想」の側面であり、読者の方からの質問も多かったテーマです。

 これは「怒りの感情」の根底からの放棄でもあります。この時、世界が変わります。なぜなら、心を病むメカニズムによって、自分と他人そして社会の全てを覆っていた一つのベールが、取り去られるからです。その時始めて、世界の全てが持つ「命」が、その本来の姿を見せ始めるように、私は感じています。

 もう一つの独立テーマは、「恐怖の克服」です。これが、「人生の望み」を再び見出すまでの、最後の関門になるでしょう。なぜなら、「望み」を私たちに見失わせたものの最大のものが、「恐怖」だからです。それに対する正しい心理学的理解と対処姿勢が、「人生の望み」に向かうための最後のアイテムとして用意されるでしょう。

 

「未知への選択」へ

 

 あとは、「人生の望み」に向かう歩みがあるだけです。

 それはもう頭で知ることではありません。ただ「生きる」その時間と体験が、私たちに、人生とは何なのかを教えてくれます。実際のところ、人生とは、頭で考え知るのと、実際に生きてみるのとでは、大分違うものだ。それが今まで生きてきての私の実感です。

 それがどんなものになるのかは、もはや言うことはできません。だからハイブリッド心理学はそれを「未知」と呼んでいます。つまりこれは基本的に、「未知への選択」です。

 

 それでも幾つかの事例が、その基本的な姿を教えてくれるでしょう。

 少なくとも言えるのは、それは大きくはやはり「愛」に関連したものだということです。「愛」は、「命」そのものと深いつながりがあるようです。一方で、愛を求めたところに、答えは見えなくなるという、人間の心の業があります。

 「心」「魂」という、2つの世界がある。それが最後まで交わることのないまま、それがいつか交わることに近づき続けるのが、人生というものかも知れません。そこには、「愛」という一つのテーマと同時に、「自尊心」という大きなテーマがあります。そしてその根底には、「自由」そして「自立」という、決して失ってはならない「人間の要件」ともいうべきものがあります。

 

 人は「愛によって生きる」のではない。「愛によって生かされる」のだ。最近そんな風に感じます。

 愛によって生きるのではなく、自由によって生きる。私は私自身を、今はそう感じています。そして「自由によって生きる」という自尊心を得た時、愛が溢れてくるのだと。

 2つの世界を、最後まで見続けることです。それが「ハイブリッドの世界」です。

 

 あなたの人生がどんなものになるのか。一つだけ言えるであろうことがあります。

 それは、「唯一無二」のものだ、と。

 

 ではハイブリッド心理学の実践の具体的な説明に移りましょう。

 この章で説明したその概要を、さらに左ページに表としてまとめました。実践の全体を一目で把握できるものとして、参照頂ければと思います。

 

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ハイブリッド心理学の実践まとめ

 

■基本的方向性の理解

 人生への答え

  内面...より純粋より大元の「望み」に向かう

  外面...建設的な思考法と行動法

 病んだ心による妨げ

   これはただ「知る」にとどめ「正す」ことはせず、上記への別思考を立てる

  内面...「望む資格」思考による「望みの停止」

  外面...怒りに頼る思考

 

■実践

 

T.建設的な思考法と行動法

 「感情と行動の分離」...感情は内面にとどめ、外面は「現実向上」のみ考える

 「焦りと怒りの解除」...「問題の切り分け」という心理学思考の基礎

 「悪感情の基本的軽減」...即効性のある悪感情軽減法

 「建設的対人行動法」...良い対人関係と「愛」のための行動学

 「原理原則立脚型行動法」...社会で「優れる」と「自尊心」のための行動学

 

U.病んだ心への特別取り組み

 「自己受容」...成長への意志と感情の開放

 「感情分析」...感情メカニズム理論の学習と「感じ分け」の習熟

 

V.生き方の根本的な変革

 「価値観の変革」...人間と社会と現実、「愛」「自尊心」の考え方

 「否定価値の放棄」...神になろうとする誤りの放棄

 「恐怖の克服」...恐怖への正しい心理学的理解と克服

 

     ↓

 「人生における望み」「魂の望み」へと生きる過程

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